はてなキーワード: DNAとは
俺も同じように疑問だったんだけど数年前やっと気づいたので、
もし君も同じ疑問を持ってたら助けようと思う。
人間の基本的な性質、この場合脳の仕組みとか心の仕組みとかは変わらない。
人間には集合的無意識が存在することを証明した有名な実験として、
ブーバ/キキ効果、Bouba/kiki実験というものがある。
これは色んな社会、年齢性別、ときには他と交流のない未開の地域にて
「どちらがブーバで、どちらがキキか」と問うたところ、
98%で「曲線図形がブーバで、ギザギザ図形がキキだ」と答えが返ってきた。
これはいかなる言語体系でもブーバが丸い曲線図形で、キキがギザギザ曲線をイメージした解答が得られた。
つまり人間の持つ、ハードウェアとしての性能は人種や文化問わず、実は一様にして同じなのだ。
そうすると当たり前の話だが歴史の中で同じような状況に同じ性質を持つハードウェアが置かれた場合、
本人が意図せずとも歴史において過去あったことと同じことをなぞろうとしてしまうのだ。
だからこその「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」のだ。
歴史は人間のハードウェアが引き起こす問題や失敗を既に体験している。
自分が歩いた道が誰のものでもないと思うのは幻想であり、実際は似たような、まるで同じ体験を歴史は既に繰り返している。
だからこそ多くの歴史を学ばない者たちは、過去の歴史と同じ失敗を繰り返す。
心の未解明問題について脳という器官の特性についてのハードウェア問題、物理的現象が確認できない意識についてのソフトウェア問題と分けられるが、
俺は人間の寿命による経験という蓄積の消失を人間のハードウェア問題と呼んでいる。
でも人間は進歩してきてるのではないか、と君は反論したくなるだろう。
先ほど述べたように、人間はハードウェアとして経験と性質を引き継ぐことができない。
いくらDNAに多くの情報を記載することができたとしても経験を産まれた子どもに転移させることはできない。
ところがソフトウェアである学問、つまりはテクノロジーは人間のハードウェア問題を超えて引き継ぐことができる。
そう。
人間は文字を発明したときから他の生物と全く別の道を歩み出す。
ソフトウェアとしてのテクノロジーは後世に伝え続けることができ、寿命がなく、永遠に進化し続けることができる。
文字として理論や技術は残され、誰もがそれを参照・学習することができる。
誤りがあれば訂正され、さらに合理的・効率的・革新的理論により進化を進める。
人間は既に生物的な進化を終えていて、進化はテクノロジーに引き継がれた。
人間にとっての子孫とは、テクノロジーを進化させるための、ただの薪に過ぎない。
芸術もまた学問ではあるが人間の集合的無意識において働きかけるものであるため、
時代を変えて同じような音楽や絵画が溢れてしまうのは当然のことと言える。
テクノロジーによる補助なしでは達成されないものとなってきた。
これも人間の心というハードウェア自体が進化していない証左である。
結論に戻るが、
人間は死を持ってして、経験という名のハードウェアとしての蓄積を終了させる。
歴史を学ばないものは人間の集合的無意識に沿ったいつかの時代の誰かの失敗を繰り返す。
そのため歴史を学ばないものが大多数の社会は、また同じ過ちを繰り返す。
唯一、人間の進化を代行してきたテクノロジーのみ、過ちを繰り返さず前に進むことが許された。
人間が文字を発明し、進化を委託した瞬間から、人間は生物的進化をしておらず、
故に歴史は必然的に繰り返されるものとして記録され続けている。
しかし成長・進化しない人類という種によってテクノロジー自体も妨害なしに進化し続けてきたとは言い難い。
またどれだけ優秀な頭脳を持つものが現れても死ねばそこでおしまいだ。
だからこそ、AIがシンギュラリティを引き起こすと信じられている。
両親と食事に行って、たまたま両親が高校生だったときの話になった(二人は同級生婚なのだ)。母は優等生だったとばかり思っていたのだけど、なぜか家庭科の成績が悪かったそうだ。ちなみに私も同じ高校の後輩なんだけど、家庭科の先生がやたらと極端なフェミニストだったことだけ覚えていて、そんなに極端にひどい成績をつけられた記憶がない。調理実習とかみんなでやる作業が多かったので、特定の生徒に高い成績をつけたり、逆に一部の生徒にわざと低い点をつけたりするのが難しい科目だったと記憶している。
父曰く「キレイとか言われてたから先生に妬まれたんじゃないの?」とのコメント。確かに若い頃の母の写真を見ると美しい。70歳になった今もそんなに悪くはないけど、年齢相応に白髪になり、シミが増えているわりにはお洒落や化粧に手間をかけないので、「若いうちはスッピンでお洒落しなくても通ったかもしれないけど、今は手間かけないとダメだよ」と説教したくなる。
おかげで20代の頃の強烈な容姿コンプレックスを思い出した。ただでさえ周りに可愛い子が多かったうえに、「お母さんは美人なのにお前は…」みたいなことを周りに言われていつもイヤな思いをした。確かに自分と縁もゆかりもない女優やモデルがいくら美しくても、全く自分と血のつながりがないんだからしょうがないけど、自分の半分のDNAは母からもらったものなのに、似ていないとはどういうことだ。どっちかというと父と弟に似ていると言われていたので、父に「お母さんと同じ顔に生まれたかった…」と文句を言ったこともある。父だって、娘がどの程度妻に似るかなんてコントロール不可能なのは分かるけど八つ当たりせずにいられなかった。
もはやオバさんと呼ばれるしかない年齢になっても、たまに小学校時代の友達(母の20代後半から30代前半ぐらいを知っている)と飲むと、「○ちゃん(私のこと)のお母さん、キレイだよね」「今も全然変わらない、すぐに分かる」などと絶賛され、娘の方はさっぱり褒めてもらえない。娘としては若い頃キレイだったのはともかく、さすがに確実に歳をとっていると言いたい。
若い頃は全然親に似ていなくても、歳とともに似てくる…という話も聞くので、それを期待してはいるんだけど、50代とか60代になってから母と同じ顔になってもねぇ…。体型とか雰囲気、声は母に似ているらしく、社会人になってから、私と母を一緒に見る機会のあった人は「○ちゃん(私)とお母さんは似てるよね」という。結局私は父と母のどっちに似てるんだか。ちなみに母の母である母方の祖母もあまり母と似ていない。「あんたはおばあちゃん似なのよ。隔世遺伝」と母に言われたこともある。確かに母よりは祖母の方が似ている気がする。遺伝とは結局何なんだろう。
はてな匿名ダイアリーだけでもそうだけど、
幸せを持たざるものは、どうやっても救われないで地獄絵図を作るキャストでしかない
一方、幸せな人生を送る側は地獄絵図なんてほぼ視界の外にして生きている
簡単に言えばアフリカの飢餓孤児をお茶の間のテレビで眺めながらホットケーキにメープルシロップかけて食ってる構図だ
もし真横に異常に腹の出た飢餓孤児がいれば内心穏やかでなく満足に食事も取れずに、
自分が食べる予定だった食べ物を分け与えるか、もう少し頭が良ければ救急車を呼んで入院させ点滴させるだろう
ところがどっこい、これは起こり得ない
何故なら遠いから
ただ遠いから、自分の生活と関わりがないからという理由で平然と無関心になれるしご褒美スイーツを食っても心を痛めない
今30歳、当時中学生1年の頃にアフリカの飢餓孤児をTVで見たときはフーンと思っていた
しばらくそんな国もあるんだと思っていたがふとしたとき気づいた
「俺と孤児のどこが違うの?」
肌の色とか民族とかDNAとかそういうのは割とどうでもいい話で
もしアフリカの民と日本の民がそっくりそのまま場所を入れ替えたら、
俺が飢餓孤児になってアフリカの子どもが食卓で目玉焼きを食いながら俺をTVで見ていたんじゃないかと
人によっては「日本にアフリカ人が住んでもアフリカのようになるだけだ!」みたいなことを言う人もいるかもしれない
じゃあアフリカ人が日本列島にたどり着いて日本人がアフリカ大陸に残った別の歴史世界の話でもいい
それとも俺の魂がアフリカの子どもで、アフリカの子どもの魂が日本人の体の中で入れ替わって産まれてきた世界でもいい
とにかく、完全に、運なのだ
運なのだ
こればっかりはどれだけ取り繕ったところで人生は運に支配されている
努力すれば変えられるという人も勿論いる
だが努力が公平であればあるほど、天才の努力に凡人の努力は勝てなくなっていく
甲子園に出場した甲子園球児が全員プロ野球選手になれないのと同じ理屈だ
プロ野球選手は圧倒的に眼の才能によって大きく分けられる
ドーピングは単純な筋肉量ではなくこういった鍛えにくい部位の筋力を増強させている
こうすることで恐ろしく早い速度のボールを肉眼でとらえることができヒット率が上がるのだ
結局、ボールをバットに当てる才能は天から授かりしものであり、
凡人はドーピングを使った「努力」をしなければそこまで到達できないのである。
しかしその努力はスポーツ界では認められていない、ただし公には。
では逆説的にすべての人間が同じ能力を持つクローン人間だったとしたらどうだろう?
発想も発明もファッションも日々の生活も何もかもどこを見ても似たり寄ったり。
嫌いなものはこの世から消え去り、自分の好きなものしか残らない。
ベースとなる人格がよほど凶暴でない、疫病が流行らない限りは一見、平和な世界に見える。
異文化があり自分と違う価値観があり、日々体験を更新していく方が個人の人生において充実しているのではないか?
自分が作った映画や小説など、所詮自分の想像以上の産物にはならないだろう
娯楽に頼ろうとしても自分の日記を振り返って読む感覚しか得られないだろう
なぜならその経験の解釈でさえも彼らは同じような解答しかできないからだ
明日も明後日も「この世は地獄だ」という日記を見かけるであろう
俺たちがそう思ったタイミングが別々に訪れ、別々のタイミングで同じ投稿をするだろう
そしてそこには同意のトラバさえつかず、なぜなら自分が分かり切ったことだから、自分の独り言に反応する必要性すらなく
ただ独り言が流れ続ける暗闇へと変わるだろう
ここで理想的解決としては運の最低の期待値をせめて飢餓孤児や産まれた瞬間殺される子どもでないように世界を作り替えることだろう
重大な疾患を抱える子どもを遺伝的コーディネイトしても良いかどうかは倫理観が問われるところだが
個人的には行ってもよいと考える
人間原理的に生存と繁栄は肯定され、そこに疑問の余地を挟まないのが当然だと思われている
絶滅しようがどうなろうが知ったこっちゃないというのが至極当然の感想だろう
この広い宇宙に知的生命体が人間しかいないという考えも妄信的で霊を信じるよりも俺にとってはオカルト的思想だ
また宇宙から寵愛を受けているから人間が誕生したというのもまた妄信的で人間原理によりすぎた思想だ
人間は宇宙から無関心であることに感謝しつつ、人間の選択そのものによって理想的な世界を手にするべきだ
理想的社会を手に入れるためならば人間は産まれる必要性があるかないかを選択することができ
恵まれた知能と肉体を一定以上備えた状態の子孫を望んだっていいのだ
関心があれば産まれたときから不幸な孤児をこの世に産むわけがなく、何らかの救済を宇宙の法則として残しているはずである
仏教には輪廻転生という言葉があり罪を減らすために現世に産み落とされるという
では産まれた瞬間からコンビニ袋に入れられ、トイレに捨てられ死んだ赤子はどこに罪を減らすチャンスがあった?
全く宗教が信じられないのはどれも神は人間に寵愛を与えているという観点である
俺は全く信じられない
俺が安心してホットケーキを食うことができるのは飢餓孤児が地球から存在しなくなった瞬間だ
それ以外では頭の隅から追い出して生活する逃避行動を取る以外にない
もしくは俺が自分の行動に矛盾性を排除するためには隣に飢餓孤児がいても無視して締めパフェを食う神経を身に着けるしかない
俺がどうしても神を信じて感謝することができないことはその1点だけでも十分すぎることだ
故に神や宇宙が人間にそもそも無関心であるという解釈を俺は信じている
そしてその上で神や宇宙が人間にとって安全装置として機能しないのであれば
人間にそれを作る選択権があることを人間自身が認める権利があるということだ
法について話をするのは、また別の機会にしよう
可能性の隙間があってそこを通り抜けたから存在しているのであって
寵愛を受けたわけでもなければ選ばれた存在でもない
宇宙・天体・この世の物理法則は自分らの隙間に入り込んだ生命に対しては無関心であり
故に生命は神や宇宙に頼らずに自分たちで選択しなければならない
もっと具体的に言えば俺が真に幸福にホットケーキを食べる瞬間は未来永劫来ないことになる
この世は地獄だ
大した意味はないっていうのは、
しかしインドという土地で長年暮らすうちに、皮膚が黒いほうが日射に強くなるので、
当然のように肌が黒く変化していった。
つまり、血なんてものは確固としたものとして存在しているものではないということだ。
その土地で最適な体質に年月をかけて変わったというだけの話。
個人単位で見るとDNAや血は大きな運命を決める要素のように感じるが、
実際は人間が趣向をもって変わったのではなく、
つまり重要なのはDNAそのものではなく、DNAが発現したその土地の特性そのものだ。
<英ケンブリッジ大学の研究チームが、アルコールの摂取がDNAを損傷して、がんのリスクを高めると発表した>
1年で最もお酒を飲む機会が多くなると思われる年末年始のこの時期、お酒を愛する人たちにとって気になるニュースが報じられた。アルコールが、DNAを損傷してがんのリスクを高めるというのだ。英ケンブリッジ大学のケタン・パテル教授率いるチームが、英MRC分子生物学研究所で行なった研究について、科学誌「ネイチャー」に発表した。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/01/dna2.php
研究チームは、この酵素が十分でなかったり欠陥があったりする人は、東南アジア人に特に多いと指摘。科学系ニュースサイトのサイエンス・アラートはこれを受けて、ALDH2が変異している人(つまりうまく機能しない人)の数は、アジアに5億4000万人いると具体的な数字を挙げている。
どうせ嘘松とか書かれるんだろうから先に書いとくけど、嘘松です。
まだこの世の中にサークルクラッシャーという言葉がなかった21世紀初頭。
その女子大では「一橋男子にあらずんば彼氏にあらず」という風潮があったので、
女子大生は、マウンティングしたくて東大のサークルに入りました。
まだそのころ、マウンティングなどという言葉はありませんでした。
男子高卒が多いので女子とまともにコミュニケーションできる人は多くありません。
そのくせ、お勉強ができるというだけの理由で女子はなびくと思っています。
でも中がちらっと見えるゆるめの服を着て、
官僚君は遊び慣れてたな。上手でした。
なのに、サークルの人間関係とかあるし絶対しゃべっちゃだめだよ恥ずかしいって言ってたのに、
よりによって夏合宿中に同級生の経済学部のバカが童貞喪失の自慢話をしたら
体の特徴とかで私のことだとバレてしまい男性同士が本当に殴り合いのけんかを始め、
付き合ってた男の子は「君がそんな子だなんて知らなかった」って言って去って行って。
みんな泣きながら言ってたので、なんだか不憫になっちゃって。
このことはすごく反省して、やっぱりいかにモテようとも男の子がちょろくとも、
一つの集団の中で複数の男性と付き合うと男性は壊れちゃうんだなってわかったので、
就職して男女混合の集団に入ってからも、職場では付き合う男性は一人にしなきゃねって思って。
たくさんの男性にモテると自分の価値が上がったような気がするけど、
それで就職したら社内では絶対に複数の男性とは付き合うまいって心に決めて。
で、就職してすぐに付き合ったのは、最初に配属された部の部長でしたw
ちょろい東大生DNAはしっかり受け継いでいて、難なく落ちました。
新入社員はだいたい周りの男性からいろいろな誘いがあるようで、
私のところにもいろいろあったんだけど、
部長にその話をすると、次の人事で私に近づいてきた男性はみんな飛ばされてました。
そういうことで不満を持った若手が結束して人事部に恣意的な人事を訴えて、
結局人事部にヒアリングされて5年にわたる不倫関係がばれて、部長(役員になってたけど)失脚。
なんでこうなっちゃうんでしょうね。
で、私はそのあと、大学の同級生の紹介で某商社に勤める一橋の男と結婚して、それなりに幸せな専業主婦してます。
思い出したからちょっと誰にも知られないところで思い出話を書いてみました。
ただの自慢話。
下書きも清書もプロットすら無く、思うが儘にキーボードを打つのがこんなに楽しいとは思いもよらなかった、これは癖になりそうだ。
そういった様相になっている為、脈略も無く続きになる。
そもそもなんでこんな文章を書いているのかと云うのもリハビリであり、私は文字書きの端くれではあるのだが仕事として文章を書いていなかった時期が長く、これはいかんと文章のノウハウとか云々とかは全て取っ払って速度を重視して記載している。どれだけ脳内の考えを適当に高速で文章に出来るかどうかといったアレなのだ。
つまりこんな固くて不遜な文章に付き合わされているあなたには誠に申し訳ないが老人の独り言に付き合ってほしい。
03.寝取られ、寝取らせ、寝取り
昨今の創作物ではNTRと書いて様々な読み方があるが、主には寝取られを意識した物だろう。
そもそも寝取りと云った歴史は古く、恐らくは人類に夫婦や”つがい”が出来た時点から寝取りは発生していると考えられる。人のものを横取りする楽しさというのは結局の所、人間の動物としての本能に近いのだろう。
しかしここで少し変わった性的嗜好が生まれる。カンダウリズムと云う性的嗜好である。これは自分のパートナーの美しさを自慢するがあまり他人にそのパートナーの裸体などを見せつけて悦に入る行為である。
この語源となった王はこの行為の結果、パートナーとその他人に暗殺され王位と妻を簒奪されるのだが、これが後の世、つまり現代では寝取らせて興奮する性的嗜好として語られている。
語源の行為は恐らくは他人に自分の妻を自慢すると云うよりも、そんな美しい妻を娶った自分の方が偉いという子供じみた自慢では無かったのだろうか。マウンティング行為とも言われる物だ。
マウンティング行為自体は動物であれば行う、つまり先日の”性について思う事01”で記載した様に自分のDNAを優先して残す為に行う行為であり、群れを作る生き物であれば自然に行われる。群れの長は高齢になって動物として弱くなれば群れから追い出され、そして新しい長が生まれる。そういう物なのだ。
人間は他人より優位に立とうとする競争本能がある。スポーツでも学問でも地位でも身分でも何でも良い。ともかく自分はあいつより偉いんだ。という行為なのだが。
殆どの場合、生まれた環境、教育の結果として勝つ者、勝てざる者が生まれる。生まれながらにして競争し、少しでも自分が優位に立とうとする生き物なのではないか。
話が横道にそれた様に見えるが、実はこのマウンティングがNTRには大きく作用すると考えている。
このNTRと云う単語、実の所”浮気”でいいのではないか。と考えたこともある。NTRと描写する事は文字として新しくインパクトもあるが、所詮は浮気がバレた、そういう話なのではないか。
ところが男性向けの創作物では特に顕著なのだが、NTRと云う行為、性行為を”元のパートナー(配偶者や元恋人)に見せつける”と云う要素が加わる。
大抵何かしらの弱み(万引きや過去の犯罪行為、元配偶者との浮気など)を握られ性的にコントロールされる、所謂調教されるのだが、あんなに同じ行為をすると体が刺激に慣れてしまうのですぐ慣れて飽きるのが現状だが、創作物ではその新しい性的興奮にズルズルとハマって行く。
やがて、その性行為や調教プレイを記録媒体(DVDやネット上)で配偶者や元恋人に見せつけて、如何にあなたが性行為が下手であったか、今の自分がどれだけ性的に満足しているかと切々と時には罵りながら語る訳だ。
男性キャラクターに多いが、それを見せつけられた配偶者や元恋人が攻撃されているにも関わらず性的に興奮し自慰行為を始め、惨めに果てるといった具合だろう。マゾヒズムによる興奮であるとみて間違いない。
こういった事は首を傾げる行為ではあるのだが、先だって記載したマウンティング行為の一種と考えられないだろうか。
この記録媒体を送りつけて来た人物は何としても幸せな元配偶者を攻撃したくてしょうがない、結果としてそのパートナーを性的に貶めてソレを見せつける事で”勝った”としたいのだろう。
勿論、現実的にこんな事をすれば高額の示談金を積むか、裁判記録に莫迦者として記録が残るだろう。一生負け続ける事になる。マウンティング処の騒ぎではない。
私はこのNTRから配偶者に見せつける行為を”自覚の無い同性愛者の被虐行為”もっと砕いて言えばホモ(レズ)のサディストであると位置づけている。
結局このセックスの快楽にやたら弱いパートナーはオマケであって、この物語の本質は人間として寝取った方が勝ったと言いたいとしか私には伝わって来ない。
大体寝取った側の殆どがアウトロー(不良や上司、元のパートナー等)として元配偶者より性行為が旨いと描写されている事が多い。
元より性行為を描写する創作物なのだから当然ではあるが、この手のタイプの話だとそのまま終わってしまい結果どうなったのか、このセックスにやたら弱い女性は過敏症などで病院に入院した方が良いのではないかとか、妊娠など描写されている場合も、このセックスにやたら弱い女性はこの環境で子供を産んだ場合の法的な対処などどうするつもりなのか、又寝取った側は慰謝料は支払えるのか(慰謝料は逃げる事が出来ない)、今更配偶者が居たなど知らなかったなんて言い訳は一切通用しない事をした訳だし。などどうでもいい事を心配してしまう。
私的には、NTRモノの欠点はそういったオチを投げっぱなしにする物がとても多いのでつまらない。と云う事に尽きる。物語として終焉を迎えて居ないのだ。そう、物語としてはまさにこれからなのだ。
結局寝取られた側は敗戦処理を投げて終わるにしても、復讐するにしても。結果どうなったのかは想像にお任せしますなどは創作者の逃げであると私は感じる。
煽情的な男女を見せたかっただけなら凌辱物でも寝取りでも良かったハズなのだ。どうしてNTRモノを選んだのか。何故被害者を描写したのか。
創作者がホモのサディストで読者に対して嫌な気分を味わって欲しかったなんてのも酷すぎる。
是非ともこの不幸な物語の終わりを見せて欲しいものだ。なんにしても悲劇である事には変わりないだろうが。
これはNTRモノを読んだ私個人の感情移入先が殆どの場合被害者になる事が多い為に感じた私信である。
勿論、読者の中には女性が堕ちていく様を見て興奮した方も居るだろうし、感情移入先が寝取った側で女を好き放題出来て興奮した、マウンティングできたと感じる方も居るだろう。
感情移入先が不幸になりのは避けたいと思うのは当然なのだが、それでも一瞬だけマウンティング出来た、とか。堕ちただけで終わる話では寂しくないだろうか。
長くなったので今回はこれにて。
それはとある掲示板に書かれた性的嗜好を読んだ際に何故それで興奮するのか?と考えてしまった事が起因にあたる。
それについては貴方の趣味じゃないんだから放って置いてくれと言われるだろうし、自分の性的嗜好を他人に何故興奮するのか?と聞かれたら困ってしまうだろう。
だけれども、興奮する人がいるからそれが商品になる。勿論そうなのだが、他人の萌えは自分の萎えの様に様々な嗜好があるのは間違いない。
昔からの持論の一つに「男女の性嗜好は何れ大きなジャンルに統合される」というのが私にはある。最終的に男女関係なく性的な情報を見聞きすれば興奮する様になるのでは?
今は女性の水着やヌードを提供している雑誌も最終的には男性のヌードや水着姿を提供する様になるのではないか、と云うのが根本的な発想である。
この個人が性的に興奮するというメカニズム。そしてインターネットが主流の世の中で性的興奮とはどういう進化をして行くのかとても興味深い。
これは私個人の考えであり、この場を借りて健忘禄として記載していく。
これはとても簡単だ、男性の場合は映像や音声等の刺激で興奮するし、女性もソレを見ている自分。というシチュエーションで興奮する様に出来ている。
性的に興奮する。というのも実は単純なメカニズムで、子作りの準備を体が行うと云う物ではある。
人間はDNAを残そうとするのは本能だし、何せ性行為は気持ち良い様になっている。
だが、それはあくまでも自分の行為だし、自分の子供。自分のDNAを残そうと云う行為であるのに、他人のセックスを見るだけでも体が準備を行うのはどういった理由なのだろう。
仮説としては視覚的情報で性的に興奮しているだけであると云う物ではあるが、それは何となくではあるが理解している。
私個人が知りたいのは何故、視覚情報で興奮するのか。そのメカニズムである。
視覚的情報が如何に刺激的であろうとも生き物の本能として性的に興奮するのはまったくお門違いである。それは他人同士のDNAを残す行為であって自分とは関係ない。
しかし興奮するのは自分がその他人の性行為に運よく参加し、性行為を行う事で自分のDNAを残すチャンスがあるのではないか、という本能的な興奮ではないだろうか。
勿論、AVやモニタの向こうで行われる行為は煽情的で見る人間の性的興奮を呼応させる物ではあるが、それに参加する事が出来ないのは一般的な思考を持つ人間であれば分かっている事だ。それは行為の記録であり、今其処に参加する事は出来ない。
だが、人間には想像力がある。記録ではあるがその男女(時には同性の物)の行為を見る事で、どちらに感情移入するかは別として。自分がその記録媒体では無く、今見ている物、つまりあの性行為をしていると想像出来るのだ。
その結果として精神的に興奮し、心に引っ張られる形で体の準備が出来上がる。つまり体は誤認識している訳ではないだろうか。
2.性的嗜好の種類。
性的嗜好には各個人で星の数ほど興奮する要素が違っている。勿論、男女でも違うし世代的な隔たりがあるのではないかと考えている。
ジェネレーションギャップと云う言葉があるが、男性の性的嗜好は比較的似通っている。若くて胸の大きな、肉感的な女性。と云うのが大枠の好みでは無いだろうか。
これは最前記載した様に本能的にDNAを残せる、つまり妊娠可能な女性を指す物ではある。では皆が若い肉感的な女性が好みなのだろうか?
とある作品のセリフに「小さい胸は貴重なのよっ、ステータスなのよっ!?」または「貧乳はステータスだ!希少価値だ!」と言った時の主旨は違うがスレンダーな女性が良いといった意見もある。
他には変化球的ではあるが、男性だが女性の恰好、つまり女装している男の娘でないと興奮しない、ないしは可愛ければ何でも良い。という嗜好もある。
女装ではなく男装の麗人、つまり美人である必要はあるが男性の恰好をしている女性や軍服、メイド姿、女子校生、ビジネススーツ等々。恐らく嗜好というのは数え上げればキリがない上に記載して趣向が混合している事で性的に興奮すると云った意見もある。
つまりラベリングだけでは無理なのだ、飽和状態にある性的嗜好を調べるのには何通りものパターンを周到しなくては認識すら危うい。
女性的な性的嗜好はどちらかと言うとシチュエーションに凝った物となる。つまり視覚情報も重要だが「どうしてそうなった」と云った起承転結がもっとも重要な要因となっており、感情移入の手助けとなる物語自体が嗜好となって之も複雑怪奇な様相になっている。
まず男女物。これは男性の性的嗜好と同じ様に様々なシチュエーションはある物の、最前記載した通りそのシチュエーションが重要であり、視覚的な情報としての性的な描写はさっぱりした物から体液を滴らせた煽情的な内容も様々である。
次に、男性の同性愛に至っては法の様に決め事がきっちりしており、男性のカップリング(CPと以下記載)受け、攻めのパターン(同CPでなくてはならない、同CPでも攻め受けが逆、CPはどうでも良いがどちらかのキャラクターは固定、AとBが居るならAとC、AとDといった具合、要はAが受け(攻め)である)だけでも無数にあり、夫々の趣味、嗜好で住み分けが行われている。
つまり女性の性的嗜好とは動機付けであって視覚情報もそのシチュエーションに沿った物となり易い。
これは女性が共感度が高い事に起因するものではないかと考えるが、実際は男性にもこのシチュエーションが重要と云う人物も少なくはない。
勿論、男女共これに人外(人の姿をしていないもの、獣やファンタジーな怪物、多足多手、無足無手、そもそも形が無い)や年齢差、立場(異星人、貴族、中世ヨーロッパをモチーフにしたファンタジーの登場人物、立憲君主制の王族。富豪、奴隷、使用人)の違い。等も性的嗜好として存在するし、先だって男性の性的嗜好には年齢差が少ないとしたが、男女とも年齢差によって趣味嗜好が変化しており、この度合いを探るのも重要なファクターと成り得る。
之をラベリングするだけでも楽しい作業なのだが、今回は実際資料等を使わずにあくまでも私個人の思った事を記載していくにとどめる。