はてなキーワード: 苦痛とは
楽しいのは描画系とか、操作とか、シューティングだと色んな装備実装したりとか、そういうのは楽しい
敵の行動あたりから雲行きが怪しくなる
要はパックマンとかスーパーマリオの延長線がなんだかんだ多いのではないか
シューティングなんか、同じ動作パターンの繰り返しであり、それが幾重にも積み重なる、
例えば、同じ画面内に様々な敵が登場するが、それぞれの敵の行動パターンは非常に単純であるが、
それがミックスされたり、自機に向かってどんな感じで弾を撃つとか、自機と無関係にレーザーを放つとか、
結局は凝ったイライラ棒みたいなもんで、意外性がないというか面白くない
敵が、生きてるのではないか?と思うぐらいちゃんと考えてるように見せるというのは難しい
例えば監視の兵士がいるとして、兵士は巡回ルートを回りつつ、ときどき他の監視員とだべって、
しかし、プレイヤーが誰かに見つかると半数がプレイヤーの位置に急行する、
みたいなことをいちいち裏で計算してしまうと破綻してしまうし、
といっても、近接戦闘になって、目の前の敵が2Dシューティングのような動作をされても非常に機械的というか、
まあ、それでも初代doomみたいなのでも面白いっちゃあ面白いんだけど、
敵が単純動作するという前提があって、それで敵を利用したり、ロードランナーみたいなところがある
でも、今の時代にちょっとしたニューラルネットとか使わないとつまらん気もするんだよなぁ
その落とし所というか、どうやったら面白くなるのか、が未だに分からない
そう、ゲームみたいなものを作るのは誰でもできるんだけど、どうやったら面白くなるのか、を実現するのは非常に難しい
レトロゲーでも、最初考えたルールを実装したが面白くないのでルールを足した、
ルールを足したが矛盾が生じたので、最初のルールの一部を削った、みたいな試行錯誤が見えることがある
その結果としてできたゲームは面白い、ちゃんと新しいルールが成立している
特にレトロゲーは、ゲーム=新しいルールの発明、みたいなところがあった
最近はそういう感じではなく、FPSならFPSを突き詰めていく方向になっている気がする
面白ければなんでもいいということでもある
ゲームを作るのは楽しいが、完成させるまでは非常に苦痛だ、困難な茨の道だ
一方でプロゲーマーとかゲーム実況というのは、他人の作った手の上で踊るだけではあるが、
昨今の世の中は、そういういかに楽な立場でカネを得るかという方向に向かってるので、
何が言いたいのか分からなくなってきたが、
まあ、プログラムなんて書かない方がいいと思うんだよね
それよりもプロゲーマー教育とかYouTuber教育の方が、特にDQNヤンキー系の親の子供とかは喜ぶと思うし、
友達という関係は個々人によって解釈にけっこうバラつきがあるのだと思う
かつての友人は「友達とはなんでも言える関係」だと悩み愚痴を自分に言ってきた
身体の不調や通院先の不満など、まずは同居の家族にでも言うべきで、少なくとも離れた場所にいる自分に言ってもどうにもならないだろうと思うことも多かった
頼み事も多かった、友人が興味を持ったアイドルのイベントに一人で行ってきてくれないか、という依頼がとにかく迷惑だった、自分は興味無いし行かないと伝えても頼んでくることをやめなかった
ある時、自分の親が癌で入院した その事実を知った日に友人は通話をしてきていつもの愚痴を延々と一方的に伝えた 親が入院したと伝えても一言二言返しただけで、いつもの芸能人の話を続けようとする友人にどうにも我慢がならなくなって諸々ブロックした
以降連絡はとっていない
友達とはなんでも言える関係、たしかにフィクションではそういうキャッチフレーズをよく見かける
でもこの文脈で使われる何でも、は、家庭環境・学校環境・恋愛関係の悩みがメインであって、芸能人のイベントに首都圏住まいのお前が休みとって行ってこい、というようなものではないと思う
また、友人関係というなら悩みや愚痴は相互に言うものだと思う、がかつての友人との場合は向こうの愚痴をただただ聞き励ますばかりだった
先の友人に比べると話は通じるが
この友人は突然不機嫌になり、人を無視しはじめる気難しいところのあるタイプだった
映画や舞台やイベント、流行りの飲食店など連れ立っていく相手として適当な相手がいないから体裁として自分が誘われていたのだろうが、
人間的には合わなかったのだろう
毎回のように不機嫌になり無視されるので、その友人と出かけるのはすっかり苦痛になり、何かと理由を付けて断るようになった
が、あれほど毎度不機嫌になるくせに遊びに誘ってくる友人 何を考えているのか分からないが、とりあえずもうこちらから連絡をすることはやめた
コロナで出かける機会も無くなり、断るにも大義名分ができてホッとしている
こういう、他者を惹きつける魅力は無いのに自己愛だけは強くて、自分が満たされないのを人のせいにする他責傾向な人間ってどうしたらいいんだろうな?
相手しなければいじめられたと恨まれて刺し殺されるかもしれない
気にかけてあげたらストーカー化するかもしれない
何やっても詰んでない?
アシッドアタックだったりガソリン放火だったり、より被害者へ効率よく苦痛を与える方法をこの手の人間が覚えてきて、類似犯もどんどん増えてるし、無敵の人には厳罰も効果は無いしどうしたらいいんだろうな
そこに、容姿端麗なB子さんが、「自分が出産しても良い」と提案してきました。
B子さんの幼少期の写真を見せてもらうと、とても可愛らしい子供が微笑んでいました。
そこでA男さんは、○円を払ってお願いすることにしました。
しかし、子の妊娠中に、B子さんが整形だということが判明しました。幼少期の写真は、他人のものだったのです。
A男さんはB子さんに、○円に慰謝料を上乗せした金額を返還するよう求めています。
—
このような事件があったときに、A男に「自分の子供を育てないなんて無責任だ」「クズ」って言う人はどれだけいるだろうか。
男性が子供を捨てる時、多くの場合は女性側が引き取って育てる。
一方で、女性が子供を捨てる時は、男性側が引き取らないことも多い。
だから児童福祉施設に預けることが選択肢に入ってくるのだけれど、それってめちゃくちゃ叩かれるのね。
めちゃくちゃ理不尽だと思うで。
児童福祉施設の環境の劣悪さを理由に、子供がかわいそうだと怒る人もいたが、それは良い環境を提供できない社会の問題ではないか?
出産という、苦痛とリスクに身体をさらす行為は、基本的には何億積まれてもしたくない。
しかし、納得する相手との子供なら、それらも引き受けて、育てたい。
その「納得」の前提を崩されることは、大きな被害だと思うのだけれど‥
子を捨てる父親にはとことん甘く、子を捨てる母親にはとことん厳しい社会であるように感じた年末であった。
今回のニュース: https://www.tokyo-np.co.jp/article/151342
↑に対するブコメ: https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.tokyo-np.co.jp/article/151342
反ワクチン系の人がパンチラインにしている「ワクチン打ったら何人死んだ」っていうの、
「そもそもワクチンやコロナと無関係の要因で確率的に人は死んでいて、高齢や持病の要因でそのリスクが増えます」という話を説明してあげればいいと思うんですけど。
それって医療というよりは統計学とか確率なんですよね。それを理解できないのって数学ができない人なんですかね?定量的思考ができない人?
国民全体の70%以上、12歳以上なら80%が接種してるんだからそりゃマクロ的に「ワクチン打ったら死んだ」ように見えるケースも増えるというだけで、疑似相関なんですが。
ビフォーコロナの時代から居ますけど、「インフルエンザワクチンを打ったのに罹った!もう打たない!」って人。こういう系の数学出来ない人が反ワクチン界隈に入るのかなー。
問題の解決や被害軽減に尽力したがそれを抑えきれず被害が出たとき、それ尽力した人や物事に仇をなすの、因果を把握する脳があまりに弱すぎて。唖然とする。人間は愚か。
いうなれば津波を軽減してくれた防波堤を「守ってくれなかった!」といって取り壊すようなもの。
反ワク界隈に突撃して説得を試みる人を見かけることも減って来ていて、クラスタの断絶・エコーチェンバーが進行しているように見えます。なんかTwitter側もbot作って定型文リプでも送ればいいんじゃないかな。
ああいった手合いへの説得って、数学という正論パンチでなく、交渉術・心理学が必要なんでしょうけど。
安楽死の話題でも感じる違和感なんですけど、なぜか「自分は死なない」という前提でモノを考えてるように見える人が世の中には居るみたいなんですけど、それが不思議なんですよね。
どう考えても「いつか死ぬ」枠に自分も入ってるのに、それを認めたがらないんですかね。「自分はどう死ぬか」という、その先を思考停止してる人が安楽死反対派に多いように見えるような。なんか、身近な人の死を看取った経験がないんですかね?
そして自然にしていたらラクな死に方できない確率は結構高いわけで。健康寿命が尽きた後そんな苦しい思いして過ごすのって誰得なんだろう。自分も、周りも、誰か得するんだろうか・・。
現代版・生類憐みの令みたいな話題ってちょくちょくありますけど、国内外問わず。ああいう風に動植物への苦痛の軽減に躍起になる前に、人間への苦痛の軽減をしてほしいものですが・・・。
去年目の整形をした。部分麻酔で行った。
初めてではなかったのもあり序盤は全然平気だな〜と思っていたのだがしばらくすると後頭部が熱い、というかもはや痛い。我慢できないほどではなかったがそれまでの眠っている間に終わりそうな感覚とは打って変わってそこそこ苦痛だった。
目の手術なのになぜ後頭部というか脳の奥辺りが痛むんだと疑問だったが、少し考えてから目の刺激がここまで到達しているのか…という結論に至った。
手術は無事終わったけど、冷静に考えると怖いな…という話でした。
うちの自治会の回収は月一で、年末年始の掃除を考えると2月になりそうだなー
ていうか好きなときに捨てたいしってことで市のHPで調べました。(リサイクルショップも遠いのだ)
フレンドリーそうな、知己の地域拠点では古着の回収はしておらず、というか古着は各環境事務所でしか回収していませんでした。
しかし回収している拠点一覧には載っているものの、事務所自体の情報が問い合わせの電話番号とメールアドレスしかなく、回収方法も分からなかったので道の確認がてらお伺いに行ったわけです。
どことなく中小企業というか商工会というか、いやどちらも詳しくないですが昭和な匂いがする建物です。あきらかに一般人を対象としていない。
おそるおそるドアをくぐると、案内もなにもなく早速途方に暮れる。
右手側に胸までの壁とガラスで区切られ見渡せる事務室らしき部屋があるものの、はたして何をすればいいのやら。
恐る恐るすいませーんと声をかけ、奥からおっさん二人が出てきました。
閑話ですが私はこの「受付に誰もおらず通りがかりの声をかけられた人が応対する」仕組みがかなり苦手です。職員室とか会社の別部署とか。
明らかにメインの職務ではない余計なタスクを持ち込む厄介者になる感覚。いっせいに耳目が集まる羞恥心。結局応対してくれた人の分野ではなく他人に繋ぐあの空虚感。会社での電話の取次ぎも苦手で、明らかに自分宛でない電話を取り、互いに無意味な敬意込みの挨拶を送りあい結局取り次ぎ先でもう一度同じ挨拶をするであろう徒労感。かけるもとるのも苦痛です。
休題。
おっさん方をみた瞬間私は後悔しました。その雰囲気は明らかに「内輪の場に知らない人間が入ってきた」あの感覚です。ふらりと個人経営の居酒屋に入ってみたら常連らしき人たちから怪訝な目を差し向けられるアレです。「オマエダレ?ナニシニキタノ?」いや経験はないですけど。分かるでしょ?若い頃でも似た感じのこと起きるでしょ?
あれです。
ひとりのおっさんが面倒そうに「あーどうしました」と聞いてきてくれました。
ありがたがるべきなんでしょう。私は了見が狭いのでただただ後悔と萎縮の塊でした。あと身勝手な恨みが少し。
私もですね、年末の最終営業日になんか来るのも悪かったのですがね。通常の人員体制でないかもしれないですし最終日なんて来客少なく片付けとかに費やすところもあるでしょうとも。
でですね、ま、その、コミュ障の私がしどろもどろになりながらなんとか古着を回収できますか?HPを見てきたとお伝えしたわけです。
先方は個人?業務?(なんか違う言い回しだった)量は?と折々お尋ねになられました。なるほど見知らぬ個人が古着の回収についてたずねてもスッと一本道のフローに入らないものなのだなと感慨にふける…間もなくわちゃわちゃします。コミュ障ですからね。
なんとか捨て方を聞きにきただけということ。個人なので大量には出ないことを伝えようとしました。伝えられていない気もします。言いたいことも言えない、出力がなんだったかもおぼつかない人間でして。
ひとまず伝わったと思われるおっさんの返答は
「少量ずつ燃えるゴミに混ぜて」
でした。
あの時の絶望たるや…。筆舌に尽くし難いのは単純に力量不足です。
確かに私の地域はおそらく分別に厳しくありません。母親も時折燃えるゴミにマズそうなものを入れているのも承知しています。私も倣い燃えるゴミに混ぜる方法も頭によぎっていました。おそらく誰からもバレず責められない方法でしょう。
いやしかし、市のHPや分別方法の紙では地域回収と拠点回収が指示されており、それに従い拠点に持ち込んだ(持ち込んでない)人間に対して環境事務所の人間がルールを守らず分別せず捨てろと指示するとは。
もしかして環境事務所の職員ではなかったのか?建物内になんの案内もなく見かけた第一村人を職員だと思い込んでいただけで事情通のただの追い返したいだけのおっさんだったのか…?
私は当然コミュ障なのでそれ以上深い話はできず、いたたまれない空気から逃げるために「あー燃えるゴミに混ぜていいんですねーありがとうございましたー」と(気持ちの演出上)朗らかに謝辞を告げ事務所を後にしました。
当然、同時に回収しているであろう古紙については聞けるわけもなく。
ルールとはなんぞや。何のために守るのか。私が分別しなくてもそれで私が死ぬまでには困ることにはならないだろう。いや守るべきだろう。環境事務所ぞ?彼、環境事務所ぞ?腐るのは良くない。信号守ってる横で信号無視されるのいつもイラだってただろーもう好き勝手生きようぞ。ルールを破る人間全てを滅ぼす。てか全てのルール遵守なんて自分含めて一人もいないよね。そして私も消えよう。
そんな優等生的な丸尾くんと人類滅殺系ラスボスなメンタルをいったりきたりしていました。
ユニクロに古着回収ボックスあるらしいんだよなー。でもユニクロ製品限定らしい。燃えるゴミにするぐらいならこっちのルール破るほうがマシだよね!だとか。ライター捨てるつもりでガス抜き面倒に思ってたけどそのまま捨てよう。とか考えています。たぶんどっちもするんじゃないかな。ペットボトルのフタやキャップも分別しない。
誰かが、誰もがやってるゴミのルール破り。今まで私は(できる範囲で・気力があるなら)しないでおこうと思っていたけれど、なんのインセンティブもないと分かった。守ろうとするから守らないことにいらだつ。この「私がするからしないこと・人を嫌うストレス」があることは前々から分かっていた。分別もそうだったかと今回気づいただけ。気づいたならしない側に回るが精神衛生上、吉。囁くのよ、私の経験則が。
なんだ、そうだったのか。
帰路、もうひとつの目的地の地域センターへ赴いた。こちらは古着の回収をしていないが、環境事務所より近く蛍光灯や古紙も回収してくれるのだ。HPの上では。
場所の確認のため入ってみると、入り口すぐそばに全種類の回収ボックスが置いてあった。
ボックス最高!誰ともおしゃべりせずに入れて終わり!これだよこれ!
ちょっと中を覗いてみて、分別して捨ててくださいと書かれている蛍光灯の箱ごと捨ててあるのを確認して、もはや感が動じなくなった私をも確認して帰った。年明けに出しにこよう。
なお改めて市のHPを見ると大量持込は断る可能性がある旨、家庭で不要になったもののみが対象である旨が記されていた。きっとゴミ袋数袋とかだとOKで服1枚2枚とかはスルーなんでしょうね。もごもごしているコミュ障な自分にはまだまだ自己嫌悪している。
色々考えてはみたんだよ
例えば宗教だとその宗教の教義や精神性を受け入れられなければ苦痛なだけだしさ
右側に立つと後ろの人から舌打ち、逆切れ、暴力が普通にあるからなぁ...
同じかそれ以上の苦痛をエスカレーターを歩行する人に与え続けないと教育されないんじゃないの?そういう人は。
まずさ、全部のエスカレーターに歩行禁止とでかでかと書いておいてほしい。
そして、エスカレーター前に歩行している人を注意する警備員を1年くらい配置して、習慣化する。
悲しいかな、それをやるコストをだれも払いたいとは思わないんだよねぇ。
そんなことを書きながら、某路線の座って通勤する権利を売るようなノリで、ずっとエスカレーターで上がっていける権利を10円で売ったら売れるんだろうかとかちょっと思った。
今年のうちには死のうと思っていたのだが、あれよという間に結婚していた。妻と出会ったのはほんの半年前のことだ。
そうして2021年ももう終わりに近付いてきたところで、希死念慮もとりあえず脇においておけるレベルになっていることに気付いた。
経緯をはてぶにでも簡単に書き残しておくことで、誰か必要な人に届けば良いと思う。
私はかなり重度の希死念慮の持ち主だ。
元来、基本的に薄っすら死にたい気持ちを抱えて暮らしてきた。健常の人には中々理解されないことだが、「生きているだけで苦痛」なのだ。
学生時代も挫折の連続でそれはそれなりに辛いこともあったけれど、普通のサラリーマンとなり受験や就活といった目下の目標を見失った後は気を紛らわすようなものもさして見当たらず、ずっと「一体、何のために生きているんだろうか?」という気持ちに苛まれてきた。
趣味でも、仕事でも、誰か大事な人の為に生きなければいけないでも、何でもいい。生きる苦痛を贖うだけの理由が必要だった。
そして特に趣味はない。そういうものを探す努力もしてみたが、見つからなかった。元々無能の社会不適合なので、立身出世を夢見て仕事にまい進することも出来なかった。婚活をしてみたけれど、お恥ずかしいことに誰にも愛されることは無かった。
誰にも求められず、自分さえ何のために生きているかわからないまま東京で過ごす日々は着実に心を擦り減らしていった。
婚活で出会う女に金を遣っているうちに貯金の残高もなくなり、やはり自分のように価値のない人間が愛されるにはカネが必要なのだと思った。そして、はやりの言葉でいえばFIREをしたいと熱望するようになった。
リスキーな投機を繰り返し、あっという間に2千万円という多額の債務を抱えてクビが回らなくなった。
首を吊った。失敗した。縄が切れたからだ。次はもっと丈夫な縄でやろうと誓った。
いずれにしても、「実行できた」。希死念慮を持つ者の中でも、思い描くことと実行することには大きな隔たりがある。「オレは本当にいつでも死ぬことの出来る人間なんだ!」という思いを確かにし、ずいぶん勇気づけられた私は、破産手続きをすることにした。
法テラスに連絡して弁護士と破産手続きを進め、裁判所から「お前の破産を認める」という通知が来たのは2019年も半ばに差し掛かった頃で、私は30歳になっていた。
「破産」という言葉の強さに、「これが不幸の底だったら良いな」と少し楽観的に思っていた私だったが、そこから坂道を転がり落ちるように不幸が立て続けに起こった。
職場で上司に暴力を振るわれ警察沙汰になったり、身内が亡くなったり、別の身内がニュースになるような事件の当事者になったり、海外で車にひかれ、その勢いでインフルエンザに罹り入院したりした。短い期間に事故って負傷したり損害を負ったことも一度や二度ではない。
もちろん仕事がうまく行くようなことはないし、婚活をしたって破産者で更に未だ債務のある人間を愛する異性なんているはずもなかった。
そうして鬱々としているうちに、そういう態度に愛想の尽きた友人たちの多くは私の下を去り、余計に孤独を深くした。
もう何をやってもこの人生は上手く行かないと悟り、いい加減に死んだ方が良いと思った私は、前回の失敗を活かしAmazonで丈夫な大型犬用のリードを購入した。
そんな折、婚活仲間として意気投合し、一緒に遊んでいるうちに希死念慮を打ち明け合うようになり親しく付き合っていた友人から連絡が来た。私の数少ない、大事な親友だ。
それは、「一緒に死のう」という申し出だった。「さもなければ一人で死ぬ」という話だった。
結局、思うところあった私はその申し出を断った。その代わり、友人の自死を看取ることを約束した。
看取る。つまり友人が自死に失敗したときには、私が殺すということだ。
私も自殺をしくじった人間だ。自殺の恐ろしいところは、死それ自体ではない。失敗して、欠損した心身で生き残ってしまうことだ。
少しでも苦しまずにいけるよう、寄り添っていたいと思った。何があっても味方でいると誓った友人が君にはいて、クソみたいな人生だったかもしれないが、孤独ではなかったと思っていて欲しかった。
そして友人は死んだ。ホテルの一室で首を括った。傍らには私がいた。
私は、服役することを覚悟していた。調べる限りにおいて、類似の事件はみんな実刑になっていたからだ。
しかしそうはならなかった。友人が書き残した遺書に、しきりに私のことを庇うような言葉が書かれていたからだ。遺書は、私に書かされたものではないことを示すために、自宅に届いた携帯料金の請求書の裏に書かれていた。
そして遺書には、友人の大事な人に私がメッセージを届ける役目を託すという旨が書かれていた。
警察から解放された私は、確固たる希死念慮を携えて、友人に託された遺書に書かれた内容を遂げていった。遺族や友人に会い、顛末を伝えた。
会うのを拒んだ人もいたし、友人の死で心が落ち着くのに時間を要した人もいたが、おおよそ「これ以上はもうできないな」というところまで遂げるのに、半年以上の月日を要した。
私は友人にとって特別な存在になることができた。それだけでもう、苦しんで生きた甲斐があったというものだ。そしてもう私の生きる意味も役目を遂げた。
ここから先にあるのは、更に苦しく孤独な未来しかないと思った。私自身の心ももう、本当に限界を迎えていた。
もういつ死んでもいいと思っていたが、最後にせめてやり残したことを全て終えてからにしようと思った。
職場から逃げ出し、仕事を放り出した私は、ブログにこれまでのことの経緯を書き残した。ずっと書きたいと思っていた小説も書き上げた。それはほとんど誰にも読まれることはなかったけれど、別にそれで良かった。
そしてバイクを買って、旅に出た。行きたかった場所を見尽くし、この国の何処を探しても希望の無いことを確認して、そして、友人と同じホテルの一室で、ドアノブに首をかけて一人で死のうと思った。
不幸中の幸いなことに、破産してから特に散財していなかったお陰で手元にはいくばくかのカネが貯まっていた。コロナ禍のお陰でホテルも安かった。
東京から一旦新潟に出て、冬の日本海を南下し、九州を一周し沖縄へ行った。東北を抜け、北海道を反時計回りに一周し、小樽のフェリーに乗って新潟に戻り、東京へ帰って来た。
大雨の日も雪の日も、風の日も氷点下の日も、宿が見付からない日もあった。凍った道も崩壊した険道も通ってきた。スリップして転ぶことも凍傷で手足が紫に腫れる日も、腱鞘炎や捻挫で痛みに堪えて走った日もあった。だが、東京で死んだように生きるよりずっとマシだった。とにかく前に進み、少しでも多くの景色を見て、希望が無いことを確認しようとした。
そうして全ての都道府県を見て回り、日本を一周し終わったのは、今年2021年の春頃だ。
数か月にわたる旅の間、SNSにその模様を呟いていると、当地に住むフォロワーの人たちが声をかけてくれて物資を提供してくれたり、ご飯を奢ってくれたり、宿をとってくれたりした。
本当に有難いことだったが、それでも今後に希望を見出すようなことは無かった。
多くの人は「生きて欲しい」と言ってくれたけれど、だからといって彼らが私の人生に責任を負うこともなければ、依然として私は孤独だった。
日本中を探し回っても希望が落ちていなかったように、今後そういう類のものが現れることは無いだろう。それを確認し尽くした、と思った。
旅の間見たどんな絶景も私の心を埋めることはなかった。景色は、しょせん景色でしかなかった。
旅が終わって数日もしないある日、近所に住んでいるというフォロワーの方から連絡をもらい、会うことにした。
私は彼女のことを何度も見たことがあった。ひときわ美しく、人前に立つ仕事をしている人だった。
彼女は、「あなたのファンです」と言った。ブログも、Twitterも、配信も、全部追っていて、そして旅が終わる頃になって、私の生活を追えなくなるのがイヤになってしまったらしい。そして彼女は、「私は、あなたの人生に責任を負う覚悟があります」と言った。
だが、私はブサイク陰キャコミュ障無職借金破産非モテ希死念慮の役満人間である。彼女のような聡明で美しい女が、私のことを好きになるはずはない。分かり切っていた。
しかしまあ、騙されても奪わるもののない私は、彼女の言うがままデートを重ねた。そうして数か月経った頃、気付いたときには結婚し、主夫になっていた。
だからといって希死念慮がすぐに消えるわけもなく、「自分はきっとこれからも生きていけるのだろう。妻と一緒なら乗り越えていけるのだろう」と思うのにはそれなりの紆余曲折と妻の説得があった。だが結局、女に拾われて節操なく生きることになってしまったことに変わりはない。
人生は塞翁が馬みたいな感じだ。こうなるのには奇跡のように途方もない強運が必要なのは間違いないが、しかし一つ言えることは、私は、「ぎりぎりまで死ぬのを延期していた」ということだ。
私はこの人生をもはやどうでも良いと思っていたが、ひとまず「とりあえずこれをやる」というものを探し、死ぬのを何度も延期した。
死ぬ前に、小説を書き上げようと思った。仕事を放り投げて旅に出ようと思った。ブログを書こうと思った。Twitterやキャスをやろうと思った。とりあえずなるべく他人と会おうと思った。
そうして何度も何度も死を僅かずつ、ほんの少しずつ延期していなければ、妻が私を見つけることは無かっただろう。
そして妻の人生もまた尋常なものではなく、私に共感を覚えるような深い悲しみを抱えている人だった。そして友人の死と、私がその死に向かい合っていたことが、パズルのピースのように奇跡的に当てはまり、ネットの海から掬い上げられた。
自分のことを特別にして求めてくれる誰かに愛され生きることは、思っていた以上に私を楽にしてくれた。
妻は、私が友人のことを悼み続けることを許してくれるし、妻にとって私は、今のところ良い主夫として何とかやれているみたいだ。来年の春には新しい職場で働くことが決まっている。きっと無能者扱いされると思うけれど、きっと大丈夫だろうと思えるくらいにはなった。
だから死にたいなんて甘えだとか、問答無用に生きるべきだとか、大事な人が悲しむだとか、生きてることに感謝しろだとか、そんなトンチンカンなことを言うつもりは毛頭ない。
一度「死ぬ」ルートに入った人間を掬い上げるのは本当に困難だし、何の代償も支払うことなく他人の人生を救うことなんて、基本的には誰にも出来ない。
私は、自分が友人にしたことを後悔していない。友人のことは救えなかったし、最期に孤独にしなくて良かったと今でも思っている。
だけど、もしこれを読んでいる人の中に死にたいと思っている人がいたら、死ぬ前に、何か言い訳をしてみて欲しい。
明日はマックの新商品が出るから今日はとりあえず生き抜くだとか、私みたいにお金と体力が尽きるまで放浪してみるのも悪くない。映画を見まくって、芸術に触れて、ときには創ってみて、食って寝て、会いたい人に会って、未練が残らないように、ギリギリの本当にギリギリまでやることを見付けて、やり尽くして、それでも未だ死にたいと思うのなら、好きにしたら良いと思う。
その最期の一瞬までに、これを読んだあなたのことを誠実に見てくれている誰かがいて、手を差し伸べてくれることを切に願う。
そしてあなたの大切な誰かが自分の前から去ろうとしているときは、遠慮がちに手を差し伸べてみて欲しいと思う。
役割を期待された結果やるようになる人は居るかもしれないけど
それは単に気を使って演じてるだけで愛想笑いしてるのと同じくらい苦痛
最初は感情論抜きって書いてたけど、書き終わってから前提が感情論なのに気付いたからタイトル変えた
今回は治療の見込みがなく金銭的、ないしは苦痛から本人が痛切に死を望んでいる難病患者をそのカテゴリとする
ただ生きるのが辛いだけとか借金塗れで生きててもしょうがないと本人が思っているだけの層は座っててくれ、数行後で拾うから
その安楽死が必要であろう層って多くても精々一万人かそこらじゃないかなと個人的に感じているわけだ
これでも少し盛ってる、もっと少ないんじゃないか、少なくあって欲しいと思っている
エビテンスは無い
感覚で書き連ねているが、この数字感覚が正しいと仮定したなら個人的には安楽死賛成派になってもいい
でだ、その超少数派のために安楽死を解禁した場合何が起こるかといえば、必要ない層がばったばった死ぬのが火を見るより明か
「自殺は絶対にしたくないけど国が許すなら死にたい」層がどれだけ制限を設けてもあの手この手で潜り抜けて死ぬんだよ
ただ生きるのが辛いだけだったり借金塗れでどうしようもなくなったけど自殺は絶対にしたくない層な
で、そういう層を含めた消極的死にたい層、下手したら総人口の1%くらいならいくんじゃねっていう話
ただでさえ人口減だの少子高齢化だの言われてるご時世に100万人死ぬかも知れない手段の提示は流石にやべーだろ
1人2人ならどうでもよくても、その数に率先して自死を選ばれたら連日ニュースがお祭り騒ぎって寸法だよな
その危険性考えたら安楽死の実現とか間違いなくできねーし、日本って国はその土壌が仕上がってるんだよ
多少は問題あっても普通に生きていけるけど、合法的に死ねるなら死ぬわって層を産み出しすぎちまってるんだな
感情論で言えばさ、手の施しようのない病を患って毎日苦しんでその上金もかかる、もう死にたいって人が安らかに眠れるなら一つの選択肢としてあり、と思ってしまうんだよ安楽死
でも認めた結果何が起こるかって考えてしまうと、そういう人達には耐えてもらう他ないんだなあってなる
そんなことをふと思った
まあこの話頭からケツまで出てる数字にエビテンスひとっっっっっっっっっっつもないんだけど
だって死刑囚とかそれこそ100人いくかいかないか程度しかいないんじゃね?
全員死んだところで何一つ影響ないじゃん
死ぬのってすごい楽じゃん、自殺しなくても国が正式な手続きで自分を殺してくれるとか最高かよって俺は少し思ってしまうし、
実際そう思って死刑目当てに犯罪やるクズとかも一定数いて、たまにニュースになるわけだし
そういう連中がいることを考えると、刑務所の暮らしが無味無臭で退屈なものって前提な上で反対派になるわ
何もない毎日って普通に死にたくなる、死刑相応の連中にそういう人生を死ぬまで過ごさせて欲しい
毎日が虚無だと死が救いになり得ると思う
定時勤務でも本人にとっては凄い苦痛で、絶望して自殺しちゃった場合も過労死になるの?いつもモヤるし、公務員時代マジで自殺考えてたからどう処理されるのか疑問。
その中でも特に。
去年の立て続けもきつかったけど、今回の件は、生まれたときから注目され、記録があるという点もあってか、特に追っているファンというわけでもないけど、堪えている。
ひとり娘がいるからかもしれない。
遠い実家の親に親孝行できてないという気持ちがあるからかもしれない。
とにかく気持ちがざわついている。
希死念慮持ちとしては、友人達が気軽に話題にしていることもうっすら苦痛。
正直まわりは、プロ意識なんて認めずに、喪に服してほしい…
仕事に打ち込む方が自身の精神を保つためにはいいのかもしれないが、見る側としては思うことが多すぎて、見れない。
本人達は正常な判断できていないと思うし、そもそも異常な業界だと思うので、周りが誠実な判断してほしい。視聴率とか考えずに。
出たいという人を抑えるのは難しい仕事だとは思うけど、影響を考えてほしい。
何もわからないし臆測もしたくないけど、自身の努力なしでは掴めない成果を上げてきていて、これからもという印象だったので…
それ以外は枝葉だろ
そこを無視するなよ
じゃあ、冤罪の可能性がないから秋葉原の事件その他ほとんどの真犯人がいるなんて可能性0の事件はどうするんだよ
自分の事件については可能性ないのに何で死刑のオプション排除されなきゃいけないんだよ
他人事で語るなよ
人が残忍なことを行うのであれば、それは残忍な社会がその人をすりつぶすなかでそうなったのだと考えると死刑はなしでいいとなる。
そもそも、もはや「残忍で身勝手」なんてアップデートされていないものを刑法上の判断基準にすべきではない。スマートに苦痛なくみんなのために何人も殺せてしまう手段ができてしまっているので。
その人のなかでは勝手に戦争状態になってヒーローとして殺していたということはあり得る。
だれも戦争状態でない世の中をつくらないといけなかったということ。
正直、戦争でもないのに死刑があるってことは教育や医学や宗教が完全敗北してるってことだよ。
だれも答えられないのならそういうことだ。権威ある教育・医学・宗教が全員負けているなんて信じられないから失敗作たる犯罪者を見なくていいように死刑でおわらせる。
丁寧に書いててえらいと思う。意見は異なるが。
>いわゆる凶悪犯罪に関する資料を読んでいると、「人を殺したら死刑になる(からやめておく)」みたいな歯止めが一体どれくらい有効なのか
ご存じだと思うが、それは歯止めにならない、がファイナルアンサーでもう出てしまっている。
死刑ある国と無い国の比較、死刑があった時代と無い時代の比較は、データで用意だからね。
それは今の時代、制度側も先刻承知なので、抑止の為に死刑をするわけではない。
抑止にならないから死刑止めよう、って意見は成り立つが、今は少し弱い。もともとそれ狙いじゃないから。
>更生出来る人がいるわけだから、それを否定するのはおかしいとも思う。
ここは明らかにおかしくて、少なくとも日本の死刑制度は、「更生したうえで死ぬ」ことを求めている。
死刑がなかなか実行されないのはこれが理由。麻原彰晃の死刑がなかなかされなかったときに、まだ反省た足りないないから、という理由で先延ばしになってたのが有名だな。
それは日本独自の礼だけども、反省しようがしまいが刑は刑なのが普通だ。反省したら駐車違反罰金割引とかないでしょ。
ここは同感。そもそも感情に配慮とかで司法判断を左右するべきじゃないし、感情は個々人や時間によっても変わる。
その日殺してほしかったが、明日は生きて反省してほしいということもある。
>「国家」という仕組みを自分はそこまで信頼してないんだよね。
結局のところここが全てで、20世紀リベラル教育を受けた世代としてらしいセリフ。君の言う通りここが根幹なのではないか。
ただ現代では、国家よりも国家以外(大衆など)がもっと信用ならないのがバレてしまっているので。ネトウヨと言われるかもしれんが、こういう考えはどんどん無効になっていくだろうと確信している。国家を信じないなら何を信じるのか、というのは旧きリベラリズムにとっての急所だし。そもそも国家が信用ならないなら、終身刑のほうが不安だ。国家が正しく終身刑をやりとげる、という「国家への信頼」はいったいどこから発生するのか。
実は君はここで、致命的なスキを晒していると俺は思う。
>「いや、実はお金がないからお前には死んでほしいんだよねー」って話になってる
遺族感情に配慮すべきではないし、抑止効果はないし、国家の信用の有無は判断基準になり得ないのだから。
でもさ、逆にいったら、金がかかるんだよ。文系哲学やってると金を軽視しがちだが、これは実に重いぞ。
大金をかけてまで、終身刑の人生を、つまり終わりなき苦痛を作っている?
大金をかけてまで、ほんのわずかだが、再犯や脱走のリスクを作っている?
言い方次第でだいぶ話が悪くなる。終身刑と死んでるのとどう違うのか、って指摘している人もいっぱいいるよな。
お金っていうのがさ、いわば他の人の人生のわけじゃない。血税っていうじゃない。我々の血をかき集めてそれをやっているわけだ。
最終的に「死刑をしないことにその金をかける価値があるのか」という判断にしかならない。
だからさ、俺には死刑反対派の意見ってのは「美しい矜持を飾るのためにお金を払おうぜ」と言ってるようにしか聞こえないんだよな。
死刑しないことによりメリットも、死刑することによるメリットも、正直薄すぎるよ。
だったら、コストを使わない、という判断になるのが普通だと思う。
まあイルミネーションみたいなもんにコストを払うのは自由だし、皆で話していざ死刑廃止になったら止めやしないが。
でも、今コスト使ってないものを、もっとコスト使おう!とする理由が無い。