はてなキーワード: 苦痛とは
自分はたぶんどっちかというと死刑廃止派で、だけど自分の大切な人がむごい殺され方したら「犯人を殺したい」と思うはず、という人間です。
日本における死刑の議論において、当然のように前提となっているのが「司法は復讐の代行機関(たるべし)」という考え方です。
たしかにそうであれば胸がスカッとするかもしれませんが、果たしてそうなのでしょうか?
結論から言うと、歴史的経緯からは「NO」です。このあたりの話はこちらのエントリがよくまとまっているので、一度読んでみてはどうでしょうか。
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20071206/p1
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080707/p2
https://kihamu.hatenadiary.org/entry/20080816/p1
もう一つは、西洋における死刑の歴史を紐解かなければいけません。
西洋に限らず、アニミズムに端を発する文化圏ではしばしば生贄という慣習がありました。
これは自然や不運という「命を奪いに来る制御しがたいもの」に対し、あらかじめ命をささげておくことでそれを鎮めるという狙いがありました。
なので、何らかの理由を持って定期的に人を殺害するというのは文化的には自然なことであり、その標的となるのは罪人や余所者であることが多いのも納得しやすいでしょう。
また西洋における近代法や人権の考え方として、国家や権力というものは暴走し、それを個人(市民)がけん制しなければならないというものが基礎としてあります。
フランス人権宣言以降、西洋の法というのは個人を縛るものであると同時に国家を縛るものでもあります。
よって、西洋の諸国家には国家があくまで法に則して虐殺・恣意的な死刑を執行した歴史があり、その反省として死刑廃止がトレンドになっているという経緯があります。
日本でもたまに、政府高官が不審死することがあるでしょう。あれも広義の国家権力の暴走による死刑です。
「冤罪だったらどうする」論もこの辺に含まれるものと考えていいでしょう。つまり裁く側の権力が間違ってたらどうする?って話なわけです。
ここで困るのは、そうした西洋近代法の成立に通底する思想と、天下り的にそれを”輸入”した日本人の仇討ち感覚との間で、死刑だけが異質なものとして浮き上がってしまっているのです。
刑法論には「応報刑論」と「目的刑論」というものがあり、簡単に言えば「刑罰で犯人に同じだけの苦痛や損害を与える」というのが応報刑論で「刑罰でその犯罪を思いとどまらせる」というのが目的刑論です。
例えば次のような命題がそろっているなら、論理的に考えて死刑廃止に賛成する人がいてもおかしくないはずです。
・「司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない」
・「死刑があるからといって凶悪犯罪を思いとどまる奴は少ない」(目的刑論)
・司法は歴史的に見て復讐を代行する機関として成立したものではない
⇒知らねーよ輸入したんだから。こちとら150年前まで仇討ちやってたんだよ。
⇒でも犯人殺してすっきりしたいじゃん?(応報刑論絶対正しいマン)
日本には死刑廃止に至る十分なロジックがないということなのです。
私も親や配偶者や子供を殺されたりレイプされたら、それ以上の苦痛を与えてやりたいと思う程度には俗な人間ですが、でもそれって俺の感情であって司法のあるべき姿とは限んないよな~とも思います。
光市の母子殺害事件なんかで遺族の男性が会見している風景をテレビでよく見ていました。
非常に痛ましい事件ですが、あのあたりから「遺族の感情を司法に反映すべき」みたいな意見が増えて、なんかモヤっとしていました。
そして裁判員制度までもを輸入した日本ですが、上のような議論を経ずに来ているので変なことになっているなと思います。
「うるせぇ、俺は加害者殺して気持ちよくなるんじゃ!」とクールジャパンな法整備をしてもそれはそれで結構なんですが、外国から「お前の国って法学無くなったん?w」って笑われるのがオチだと思います。
これ確信をもって断言するんですが、俺よりモグラとかセミとか鳥とかのほうが良く生きてるんですよ
良く生きるっつうのは、なんというか、賢さとか、徳とか、愛とか、そういう高尚な話じゃなくて、シンプルに、こう、生きたいと思って生きるっつうか、生きる喜び……はどうでもいいんだけど、とにかく、こう、ヘルシーに、健全に、いいかんじに生きるってことですよ(トートロジー)
あー死にてえ、気が狂う、もうダメだ、殺害、帰してくれ、帰りたい このへんの言葉を繰り返しながら1日12時間も拘束されて、インヒューマン・レイバーばっかやってるのはどう考えても生命として間違っている
生命として間違ってるんですよ
俺はこんなことのために生まれてきたんじゃないんだよう
じゃあ何のために生まれてきたのかっていうと、これはわからないし、実際分かったら分かったでなんかキモいので一生わかんなくていいんだけど、それはそれとして、精神破壊労働を毎日繰り返すためじゃないのは確かなわけですよ
タクアンを刻んで池に撒いたら鯉が食うかどうか調べるとか、そういうことのほうが、まだしも俺の人生の本質には近いと思う やんねえけどなそんなこと
その点、あきらかに間違ったことはやってない感じがするじゃないすか モグラなんかはさ
俺はそうなりたいんだよ
一定のデターミネーションを持って、土を掘ったり、虫を食ったり、ネコに食われたりしたいんだ俺は
なにもかもがフワッとした状態で、ただうっすら苦痛を感じながら、ボンヤリ生きてたくないんだ
とか言うと、なんかやりたいことがホントはあるみたいな感じだけど、まあ、ないんだよな
やりたくないことは無数にあんだけど、やりたいことってマジでない
これなんなんだよ
俺も穴掘ったらいいんかな
https://tech-blog.monotaro.com/entry/2021/12/22/090000
上に挙げたような「マネージャーの心得」みたいな話は本やネット上に腐るほどあるけど、こういうのを読むととても気分が悪くなる。
管理業務が、苦手というレベルを通り越して苦痛に感じるので。スケジュールをひくとか、必要な書類をリストアップするとか、頭がおかしくなる。仕事だからと割り切れれば幸せなのだろうが無理なものは無理。
とにかくアホくさくてやってられない。賽の河原で石を積むのと何が違うのか
友人が『包茎手術させよっかな』なるブログを発見した。「これ書いたのお前の母ちゃんじゃないの?絶対これお前のことでしょ」と友人はいう。ひとまずリンクを貼っておく。
https://anond.hatelabo.jp/20150212234301
読んで驚いた。ざっと要約してみた。
・うちの息子は包茎だ
・息子に包茎手術を受けさせたい
・息子はビビりで痛いのが苦手(なので手術は嫌がりそう)
・息子はR、Tをライバル視しているので、その2人が手術を受けると言って説得したらいいかも
いやはや、冒頭の親バカ部分はさておき、手術関連の話はほとんど俺の実体験と一致しているではないか。改めて確認してみよう。
・うちの息子は包茎だ
←たしかにそうでした(というかガキはみんなそうだろ!)
←うーん小5のときはマジでサッカーばっかやってたなあ(今もやってるけど当時ほどでは)
←その春休みに包茎手術を受けた友人2人は心当たりが大いにある。イニシャルも完全一致。
・息子に包茎手術を受けさせたい
←母親に手術しろと言われたのは事実。父親は単身赴任なのであまり絡んでいなかった気が。
・息子はビビりで痛いのが苦手(なので手術は嫌がりそう)
←平均を知らんけど普通に怖かったので全力で嫌がった(けど強制的に受けさせられた。てかガキはみんな手術なんてビビるだろ。麻酔かけるとき絶叫したぞ?)
・R、Tが手術を受けると言って説得したらいいかも
←説得というか既成事実化されていた。母親は「一緒にやりなさい!」の一点張り。ライバル視というより2人の手術は決定っぽい雰囲気だったので俺だけ怖いっつって逃げるのはズルいと思った。それで3人一緒に近所の病院で手術を受けることになった(子供の包茎手術で有名なところだったらしい)。ガチで痛かった。死ぬかと思った。
読みながら俺は件のブログを発掘したRと顔を見合わせた。俺はイケメンでもなんでもないが、それ以外はほぼ我々の6年前の経験と同じである。まさかこんな偶然の一致があるだろうか。もう一度読み返したがやはり俺の母親が書いたとしか思えない。事実は完全に一致しているし、おまけに俺の母親は実際かなりの親バカらしいのである。面と向かっておだててきこそしないのだが、父親や祖父母によると俺がいないときには相当な親バカ発言を連発しているらしい。怖いのでやめてほしい。
しかしそれにしても息子をイケメンとか言っているのは普通にキモい。術後は痛すぎて1週間ぐらいまともに歩けなかったのだが、その発端がこんなキモい親心だったとは。まあおかげで包茎は治ったが、それにしても苦痛が大き過ぎたというのが現時点でのR、Tとの共通見解だ。
もともと、エルフは地球解放戦線(Earth Liberation Front)と深い関係がありますし、
アニマルライツは、苦痛を感じるあらゆる生命体にその権利を認めるものですから、
含まれるでしょうね。
そう言われてみるとそうですね、労働に関して人より苦痛が少ないと思います。
これは私の元々の気質と、割と好きな業種の専門職に就いているからだと思います。
幼少期から両親が私に競争させることが好きで、何か課題に対して解決したり、何かの順位で上位になることが生き甲斐という気質を持っています。
終日ずっとFF14
シナリオはまだ漆黒編の序盤なのでなんともいえないが、他がヤバい
まず、風景
見てるだけで美しい、その美しい風景の中を移動出来るなんて素晴らしい
サブシナリオ、基本的にお使いなのだがちゃんと人物関係や背後にあるものが整理されていて飽きない
フィールドにランダムで発生するモンスター討伐イベントFATEがあるのだが、これが楽しい
FATE自体、新生・蒼天・紅蓮とあったのだが、今までとは別FATEなのではないかと思えるほど、やっていて苦痛じゃなくなっている
何が違うのか分らないけど、マップでFATEマークが出ると思わず行って戦闘してしまうほどだ
昼食
夜
せいぜい末期癌になったらフェンタニル打つぐらい
数秒間もの間、落下と死の恐怖に怯え、道路に強く打ち付けられて絶命の瞬間まで永遠のように感じる長く激しい痛み感じたことだろうが
自殺するような精神障害者がどんな最後を迎えようとどうでもいい、それより早く病気を治して働いて子供産んでねというのがこの国の総意
舞台関係者はただでさえコロナで弱ってるのに、演者の自殺で公演中止で大損害だろう
映画が好きだった。いや、大好きだった。
こんな事を言ったら蓮實重彦に怒られそうだ。でも、有村昆なら許してくれそう。
本当に映画が大好きだった。
映画館には年に百回以上行っていた。TOHOシネマズ、イオンシネマ、ユーロースペース、シネマカリテ、ギンレイホール、シネマヴェーラ、新文芸坐、早稲田松竹、地域の映画上映会……。
コロナ禍になってからは行ける機会がほぼなくなった。そして、映画館の経営危機のニュース。SAVE the CINEMA の募金が始まったらすぐに入金した。世界が元に戻ったら、毎日のように映画館に通おう。そう思っていた。
2日程度で終わると言われたが、私の場合は終わらなかった。どんどん悪くなっていき、事前に言われてた副反応以外の事が起こり続けた。
たまたまだろうと気楽に放置していたが、放置すればするほど悪くなった。1ヶ月目あたりから色々な医者に診てもらったが何もわからない。やがて、通院すら厳しい体調になった。家でほぼ寝たきりの生活。
それぐらいから初めてネットで調べた。本当に珍しいようだが、私のような人が相当数いるらしかった。みんな困っていた。診てくれる病院が無い。
どうやら最悪のくじを引いてしまったらしい。
ずっと映画のことを考えていた。
接種直後から首と肩の激痛が始まって「これじゃ映画館には行けないな」と思った。
九月の終わりには自宅ですら映画が観れなくなった。5分ほどで強い症状が出てきたからだ。どうやら映画はかなりの負担がかかるようで「二度と映画は観れないかもしれない」と思った。
それから映画を観なかった。何度も試して、身体の反応と映画が結びついてトラウマになるのが怖かった。
4ヶ月が経ち、いろいろな出会いがあった。
いくつかの症状は対症療法で苦痛が抑えられる事もわかった。ほぼ寝たきりに変わりはないが、症状をコントロールするための武器が増えた。
ふと、ネットフリックスを見る。
『チック、チック…ブーン!』が配信されている。ずっと気になっていたミュージカル映画。『RENT』を作ったジョナサン・ラーソンの自伝的舞台が原作だ。
ラーソン自身は35歳で早逝している。大動脈解離による急死。ウィキによると、正しく診断されていれば亡くなっていなかっただろうと書いてある。妙な親近感を覚えてしまう。
テレビからドゥーンという音が鳴る。懐かしいネットフリックスのSE。
手元のApple Watchを見る。心拍数は安定している。
映画が始まる。
これは持論だが、テレビやラジオと映画の大きな違いは「出演者のカメラへの意識」だ。もちろん、映画であろうと演者はカメラを意識している。だが、原則として「俳優がカメラを意識していないように見えている事」がその良し悪しに直結する。テレビやラジオはその点がもっと緩いのだ。多くの映画監督が「俳優は演技しなくてよい」と言っているが、これはある種逆で映画観客こそが「演技をしない俳優」を求めているのだ。
妙なこだわりを吐露してしまったが、要は映画独特の演技をしている人間を久しぶりに見ることができたのだ。
それだけで嬉しかった。喜怒哀楽を揺さぶるシーンでもないのに涙が流れる。流れ続ける。
手元のApple Watchの心拍数を見る。心拍数は安定している。
物語は続いていた。
『チック、チック…ブーン!』は90年代のニューヨークを舞台にしたミュージカル。美しいメロディとウィットに富んだ詞、そして優しい物語。
主人公の三十路前のジョナサンはミュージカル作曲家を夢見ており、彼の周囲には貧しい芸術家たちがいた。ダンサーの恋人、LGBTの広告マン、そしてHIVの友達。
HIVなので「やあ、今日のT細胞は順調だったよ」なんて会話が出てくる。ああ、似たような会話、今日SNSでもやったなあ。
観ている間、ずっと涙が止まらなかった。
観終わった後、鋭い眼痛とやや強い頭痛が長時間続いたが、幸いにもひと眠りしたら収まった。どうやら通して観るにはまだ早いらしい。
それから週に1回だけ、30分おきに休憩を入れながら映画を観るようになった。
途中で止めるなんて、以前の私なら映画への侮辱だと思っていたかもしれない。
でも、いいじゃないか。
ラーソンのミュージカル『RENT』に「SEASONS OF LOVE」という歌がある。
歌詞がなかなか興味深い。
525,600分、この人生における一年分の時間を人はどうやって測るんだろう?というような内容だ。
歌にはいろんな単位が出てくる。コーヒーを淹れた回数、笑った回数、喧嘩した回数。
自分も思い浮かべてみる。
Suicaを改札にかざす回数。
上司に怒られる回数。
後輩に冗談を飛ばす回数。
朝の散歩で澄んだ外気を吸い込む回数。
映画館に行く回数。
8月を境に数えられなくなったものがたくさんある。
何で測ればいいんだろう。何で測れば救われるのだろう。
でも、いい言葉だと思った。
例えまったく外出できなくても、これから何かを、誰かを愛する事は出来る。
そして、こうなってしまってから助けられた、たくさんの愛を数える事ができる。
決して今までの人生に負けてない。
ググったらまだ連載をやってるようだ。
amazonを見たら「今巻は○○しただけ。内容がなかった。引伸ばしがひどい」みたいな最新刊の酷評の星一個のレビューが目にはいった。
はじめの一歩も引き伸ばしがひどい言われてるけど、自分は面白く読めてる。
でも、カイジはそのレビューのとおり、本当に引き伸ばしというか、話がぜんぜん進まなくて途中で読むの嫌になるレベルなんだろうなって思うわ。
アカギも連載を追うのが苦痛になって、完結したら読もうと思って読まなくなったけど、完結したという話を聞いてももはや読む気が起きなかったもんな。
プログラマって言えばいいのか?もうマジで末端の作業員で最低限の給料貰えればいい。というのも、職を転々として自分の向き不向きがだいぶわかってきた。
人付き合いが苦手(人が何を言ってるのか頭に留めておけないため、メールや他愛もない雑談ならできる)で手先が不器用だったので、口頭指示の多いブルーカラーの仕事が壊滅的に出来なかった。
一方、キーパンチャーの仕事を派遣でしていた事があったが、あの仕事は天国だった。俺は生産性が高かったみたいで、急ぎの仕事をよく任されていた。パソコンの画面と長時間向き合うのが苦痛ではなくて、黙々と取り組んでる方が傾向としては性に合っている。
ブルーカラーにいるとポンコツだが、事務処理でよくエクセルのトラブルシューティングや、上司が「こういうのが欲しい」と呟いてた機能(if関数やvbaで簡単な制御文を使って作った)を実装していたりした。
とりわけパソコンが得意なわけではないので、俗に言う「パソコンの大先生(笑)」になるんだろう。
友人のSEの話を聞くと、人前で話す機会が多いそうなのだが、全く人前で喋らない末端の万年コーダーの爺さんとかがSESにはいるらしい。そういう人になりたいが俺みたいな未経験者向けの求人を探してもインフラエンジニアしか無かったりする。
もう、30手前の男が今からプログラマを志すのは潔く諦めるべきなのだろうか。
キーパンチャーの仕事がしたいが派遣でしかないので、長い目でみれば早いうちにITの世界へ行ったほうがいいのか、と、ブルーカラーの世界で消耗しながら迷っている。
梨生を逆恨みして、フリー記者として追い詰めるようになって、最終回で莉央を恨み続けて加瀬と揉み合い転落死。
あまりにも最悪すぎた。
性犯罪の被害者だからなんでも許されるとか鬱だから許してやれとかじゃなくて、描き方が雑すぎてドン引きした。
性犯罪の被害のせいで、性格も人格も歪められてしまいなんとか懸命に生き続け、過去明るいムードメーカーだったしおりは「いつもつまらなそうにしていた」状態になり会社を辞め真田の悪事を暴くことだけが生きがいになってしまった。
怒りの矛先が加害者の康介ではなく梨央に向かうほどに、しおりが精神的に追い詰められてしまったのは紛れもなく性被害のせいなのに描き方が雑すぎて
「逆恨みする橘栞は死んで当然、死んで嬉しい」
っていう全く頓珍漢かつ無神経な感想が飛び交う始末になってしまった。
両親は離婚。
大学でどんな生活を送ったんだろう、休学理由を話すことはできたんだろうか
深く深く傷ついたしおりに周囲はどんな反応だったのだろう
父親にも性被害に遭ったことが知られたんだろうか、狭い親戚や近所にも?
莉央は優と離れ離れになった不幸さはあるものの、梓と梓の会社という後ろ盾のおかげで優のための薬の開発ができた、未遂に終わった梨央は勉強や研究を熱心にできた。
0から自分だけの力で人生をやり直そうとした努力し続け、賞を受賞するほどにもなったしおりが報われず、どうして同じ努力でも親がたまたま梓でたまたまお金持ちな梨央は報われて、大輝との幸せまで手に入れたのか?
現実でも不幸な人はずっと不幸で、ドラマでもそんなもの見せつけられて最悪の気分。
加瀬さんの犠牲の上で幸せを成り立たせていた莉央だけがきれいなままで、優は殺人犯だけど幸せを手に入れた。こんな残酷な話ありますか?
メンタルクリニックを転々として薬も変えていたしおりはひたすら不幸なまま物語が終わってしまった。
それだけならまだしも、
「梨央に執着し会社を辞め逆恨みするようになってしまうほど、性被害で歪められてしまった」という事実が見えづらくなり、
「ただただ逆恨みで性被害からいつまでも立ち直らないで拗らせたしおりが死んでスッキリ」
このドラマを作ってる人は、世間が頭いいと仮定して作りすぎてると思う。
かぼちゃの煮付けとたまごサンドとヨーグルトを記憶障害に結びつけたり、大輝黒幕説をあっさり信じたり、加瀬と莉央が親子であると言い出す。
あの最終回で加瀬がなぜ莉央と優に執着するかわからないという感想が出てくるわけだから、性被害に遭ってしまい人格を歪められてしまうほどの苦痛を想像してみろというのは無理な話。
加瀬さんが昭に叫んでも、性犯罪への男女の意識の差は全く埋まってない。
挑戦的だし楽しく見てたけど、最終回が気持ち悪すぎて最悪だった。
両親がいない加瀬さんを取り込んで汚い手段も使わせて会社を守らせた梓と梨生。
罪を背負い込ませ死亡してまんまと逃げた達雄。
達雄や梓、梨央、康介のような人物に出会わないことこそ人生で大切なこと。
もちろんメンタルやって大勢殺したくなった結果ってのはわかるんだろうけどそもそも大勢殺したくなるのがわからない。
俺は昔、”高校時代カースト上位でいじめをやってたけど成人後メンタルをやってしまった友達”とよく会ってた事があって、(なお高校時代のいじめの対象は俺。進学後なあなあになった)
だからメンタルやった場合でも最後に選択されるのは加害行為だろうしそのうち殺されるかもなって思ってたんだけど、
後で振り返ってみると彼は、加害性があるというよりはクズを攻撃する事が行動原理であり、当時は俺がクズだったから攻撃対象となっていて、成人後は落ちぶれた自分をクズと感じてしまったから己が攻撃対象になって最後には殺してしまったんだと思う。
また俺自身もメンタルをやってたけど、別に他者を害したいとは思わなかった。
俺がクズでゴミだからと言って別に他者を害して満たされたいとかその責任を取らせたいとは思わなかった。
親にだけは暴力を振るったけどそれは幼年期親が通報されれば逮捕間違いなしの虐待をしていた背景があるからで、(たまたま死ななかったが死ぬ可能性も十分あった。今でもその場面を夢に見て飛び起きる事がある)
暴力の背景は苦痛を与えたいというよりは自らの苦痛を思い知らせたい、謝って欲しいという甘えのようなものだった。
酒は毒だ。
肺呼吸が出来ないなんておかしな奴だと笑われて、これで寒いなんて狂っていると嗤われる。
極めて不快だ。
金を払って苦しんで、毒を飲まされ嘲笑われて。
ぶっ殺すぞ?
魔法が解けた と逆の経験をした。今も私は魔法の中にいて、不便さと面白さと両方感じている。
昔、私は真面目な性格だった。
書類仕事は得意な方で、記入ミスがあるのを見ると「ここに指示が書いてあるのに、目が見えてないんですか?」ぐらいに思っていた。
大した病気では無かった筈なのだが、なぜか手術後に連日連夜、激痛に苦しめられた。
医療ミスだった。
このままの状態が数日続いたら死ぬな、と思った頃に別の医者に交代して再手術を行って何とか生還した。
退院するまで大分かかったし、退院後も当分の間は本当にしんどくて、ソファーでぐだぐだ過ごす時間ばかりだった。(幸い、今は良くなった。)
しかしそれ以降は、自分の仕様が書き換わったのかと思うぐらいに出来る事が変化した。
まず書類仕事が苦痛になってしまった。書いてある筈なのに目が滑ってしまう。
それ以前に書類を見ようという気力が沸かず、封も切る事も出来ない。
最近はどうにか気力を溜めて、締め切り直前に自分を追い込んで処理する感じだ。
旅行の準備も非常に苦手になった。昔は難なく出来ていたのに。
持ち物リストを見ながらでさえも、丸一日かかってしまう。それに非常に疲れる。
また以前から散らかし屋だったが、それも拍車がかかってしまった。
他にも日常生活でやりにくくなった事は沢山ある。
ただ、嬉しい変化もあった。
ちょっとした出来事、ニュース、子供の頃の宝物などから設定が浮かんでくる。
お話がするすると頭の中で流れ出す時はメモ帳にまとめていく。細部を詰めていると、カチッとパズルがはまったように感じる事もある。
登場人物の言動がご都合主義すぎると「いや、私はこう動きたいから」と彼らは勝手に動き出す。
こういう時は頭の中がフロー状態というか、集中して頭も回転していてとても楽しい。
書いていて気がついたら昼休みが終わっていたり。
体調がギリギリセーフの時だけ起こる魔法なので、書き留めるにはかなり頑張らないといけないけど。
この状態は、魔法にかけられたとも思うし、大規模メンテナンスでリニューアルしたのかなとも思う。
いずれにせよ何か新しい扉が開いた感じがする。そして違う扉が閉じたのだろう。
そのせいで日常生活では不便な事も多々あるが、貴重な体験が出来たのは面白かった。
もう病気にはなりたくないけど、なったらなったで別の新しい扉が開くかもしれない。
認知症になったらある扉が開き、麻痺が起きたら別の扉が開くだろう。
自分以外にもこういう事が起こるのなら、どんなふうか是非知りたい。
将来、その開いた扉の中身を人にそのまま伝えられるデバイスが出来ていたらいいな。
読んでくれてありがとう!