はてなキーワード: 朝鮮出兵とは
聚楽第なら秀次生存ルートかなと嬉しくて舞い上がっていたらフォロワーさんに破却されていない聚楽第という情報だけで秀次天下と捉えるのが分からないと言われたので、徒然なるままに三分を書かせてもらいました。
分かりやすさは放棄しておりますのでお許しください。また、あくまで妄想ですので批判等はお控えください。
1.聚楽第とは
聚楽第とは豊臣秀吉が天正15年(1587年)9月に京都にて完成させた建物であり、文禄4年(1595年)7月に秀吉自らの手で破却させている建物である。その期間四年余。その為、建物自体は現在に残ってはいないが、聚楽第図(広島市立中央図書館所蔵蔵浅野文庫『諸国古城図』)を始めとする絵図や京洛の社寺などには移築したと伝わる建物などが存在する。
元より聚楽第という名は楽しみをあつむるやしきと言う意味であり、宣教師ルイス・フロイスは聚楽を快楽と歓喜の集まりを意味すると記している。見た目も絢爛豪華で…と語っており派手好きな家康の片鱗を垣間見ることができるだろう。見目を伺うために伝わっている平面絵図がいくつか存在する。例を下記に連ねる。
②尊経閣文庫本
③三井文庫本
①〜⑤は周囲の大名屋敷の名称にバラツキはあれども構造が似通っているものである。⑥は後世の天保14年になり名倉希言が作成し明治17年に書写されたものになる。⑦〜⑧は景観を描いた屏風になる。それぞれの内容や絢爛さなどは自らの目でお確かめください。そんな聚楽第の意義とは一体何だったのだろうか。桜井成広氏の『豊臣秀吉の居城』及び中井均氏の『聚楽第』にて述べられている①京都に於ける政庁の役割であったと考える。しかし、秀吉は政治に関して大阪城と聚楽邸を行き来していたことがある。中井均氏はこれを聚楽第は公家としての居城であり、大阪城は武家としての居城であると書いている。
聚楽第が破却になったのは文禄四年の秀次滅亡後の秀吉による破壊である。
秀次の死は切腹であったが、それは秀吉によるものである。秀次は秀吉に謀反を企てているとあらぬ疑いをかけられ、関白の座を追われて高野山に追放。高野山を人質に切腹を迫られたためせざる得なかったのである。これは秀頼誕生後に相続問題から疎遠になり秀吉との仲が冷却されたとともに目立つようになった不謹慎な性行なども関係していると考えられるだろう。更に秀吉は親族の切腹まで命じており、元より秀頼を溺愛していた秀吉の秀次の謀反に対しての怒りを感じる。そして、秀吉は譲った聚楽第を破却。縄張り意識を中心に考えると、歴史上から秀次を完全に消し去ろうとしたといえる。
2.天正15年(1587年)9月〜文禄4年(1595年)7月迄に起こった歴史的重要点
今回のイベントに於いて歴史修正されたのは豊臣秀次の生存であり、ひいては豊臣政権の存続だと考える。
まずこの4年間に起こった大きな歴史的要項を挙げよう。大きな出来事のみの抜粋は天下が歴史修正に置いて影響すべきところを考えたためである。
①朝鮮出兵
それでは順に述べていこう。
①朝鮮出兵
朝鮮出兵は聚楽第存在時にあった秀吉が行った大きな出来事である。大陸の領土拡大を目指し、進行したものであるが敢え無く敗北している。歴史改変をする事が出来る場所とも考えられますが、否定として「歴史改変された聚楽第」と本家PVで言われていることをあげる。この“された”と言う言葉には「何かしらの作用や影響を受けているさま(weblio)」であり、この場合、影響をうけているのは聚楽第であり、朝鮮出兵は直接関係がないのでこの案は没になる。
(飛ばしてくれても構いません。閑話休題に余談ですが、憶測に過ぎないものであり、またステ本丸の出来事のためあくまで私的な妄想の範囲を出ない考察ですが、舞台刀剣乱舞において歴史修正主義者が関わる場面は必ず天下が関わってる気がします。それは、歴史修正主義者は人の強い思いと呼応して呼ばれている(と個人的に考えている)ので、朝鮮出兵は関係ないと思います。歴史修正主義者も刀も人の思いに応え現れてくれる。代わりに見る人によって善悪が変わる世界です。聚楽第において正史側の審神者と刀は歴史修正主義者になってしまう…。つらい。話を戻しましょう。)
②秀次切腹事件がなかった世界。用に謀反の疑いがかけられなかった世界。理由としては前項で述べた聚楽第が歴史改変を受けていると言うところが大きい。まず聚楽第が存在したのは4年間であり、大きな出来事といえば
しかない。その為、聚楽第が直接影響を受ける可能性があるのは1595年と考えたい。また、聚楽第が影響の象徴となるならば存在がある事が歴史改変であるとも言える。
この件。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180223-00000006-jct-soci
皆さん随分モンゴル政府の対応に理解を示していらっしゃいますが、チンギス・ハーンが何やった人か忘れてませんかね?
金やホラズムといった周辺諸国に次々と侵攻しいくつもの都市を陥し、場合によっては住民を皆殺しとかにしてた人ですよ。彼の後継者が築いた帝国はモスクワを征服したり高麗を滅ぼしたり日本に攻め込んで対馬と壱岐でさんざん残虐行為を働いてきたわけですよ。
大昔のことで被害者なんて生き残ってないし、歴史の流れの中でモンゴル人が被支配者・弱小民族に転落したから許されてる(というか歴史認識問題に発展してない)だけでしょ。100年前の人物だったら各国で非難轟々のはず。
別にモンゴル人が「わが民族の偉人」としてそれを誇ることはいいと思う。日本人の私からしても、いやー壮挙だなー、って思うもん。今更チンギス・ハーンへの恨みなんてない。だからモンゴル人がチンギス・ハーンを尊敬してでっかい廟とか作っちゃう分にはどうぞご自由に。でも、日本の民間人がちょっとチンギス・ハーンをからかう漫画を描いた程度のこと(ウランバートルのチンギス・ハーン記念式典とかで日本政府の代表が粗相したんじゃねーぞ)で外交官が抗議してくるなら、こっちも「チンギス・ハーン(およびその後継者)の所行に対して謝罪と賠償しろ」くらい言ってもいいんじゃないの? 先に歴史認識問題にしたのはどう考えてもモンゴル側だよね。
私は、豊臣秀吉の朝鮮出兵について現代の日本が謝る必要なんてないと思うけど、韓国人が豊臣秀吉の絵に下品な落書きしたとして、それに日本政府が「うちの国の偉人を侮辱するな!」って文句つけたら、「その偉人様がうちの国に何したと思ってんだ」って言われて当然だよね。この件もそれと同じ。
もちろん、例の漫画が民族差別的なイラストだったら許されないと思うけど、単に教科書に載ってる歴史上の人物のイラストに語呂合わせで下ネタ落書きしてるだけじゃん。そんなん聖徳太子や織田信長やペリーやザビエルだってやられてることで、特段モンゴル人差別というわけではないよね。
しかもモンゴル政府、単に「不愉快でムカつく」と言ってるだけじゃなく(それならまだ理があっただろう)、「わいせつ物頒布、児童の権利の保護に関する日本の法律にも違反していると考えています」って抗議しちゃってるからね。どの辺が児童の権利を侵害してるのかよくわからないし、あれがわいせつ物なわけねえだろと思うけど、これまでさんざん表現の規制に使われてきたわいせつ物頒布を持ち出して脅しつけたっていう事実は重いよ。なんでこれに屈しちゃうかね。
ちなみに、チンギス・ハーンがここまで熱狂的に崇拝されているのはここ数十年の話なんで、その辺も気をつけた方がいい。はてなの皆さんは創られた伝統とかそういう話が大好きですよね? 先日も神武天皇陵の話で盛り上がってたし。
https://ci.nii.ac.jp/naid/120005265401
中国とソ連に分断統治され、社会主義政権下で伝統文化を破壊され中国では少数派に転落したモンゴル人が、アイデンティティのよすがを過去の英雄に求める事情はわかる。わかるんだが、何でそれを日本人が尊重しないといけないのか。しかも、これが純粋に芸術家とか科学者とか、あるいは亡国の英雄とかなら理解できる話なのだが、やったことは周辺諸国への軍事的侵略と大虐殺である。未だに像に唾を吐かれる秦檜さんなんかを見ていると、罪もない落書きされるくらい受け入れろとしか言えない(実際の像に落書きしたんなら問題だけど、今回は器物損壊ではないよね)。それを受け入れられないっていうんなら、モンゴル帝国の所行の責任を引き受けてもらわないと釣り合いが取れない。千年近く前の人物の所行に責任を取れだなんて無茶だって? 千年近く前の人物のイラストに落書きする程度のことで外務省が抗議入れてくる国が何を言ってるんだか。モンゴル国にはまずエジプトやベトナムやロシアに謝罪行脚をするところから始めてもらおう。
なんというか情けないというか、気持ち悪いクソ親父だな。
#極左暴力集団 でもある #社民党 の #佐藤あずさ #八王子市議 は
なぜか「俺達がすごい」=差別とレイシムズとそして愛国と謎の結び付け。
さらに
社民党は誰の事も【排除】しない社会と言いつつ、
個別垢はブロックしている矛盾。
整合性が全く無いから国政では相手にされないのだろう pic.twitter.com/dyWyIdIsTx— 山西四郎 (@kiteruwkiteruw) 2017年10月29日
その論調で中国(南京大虐殺、支那事変)と韓国(慰安婦問題、日韓併合、秀吉の朝鮮出兵)にも言い返してやってもらえますか?— ZF ⚡ (@ZF_phantom) 2017年10月28日
原因・背景[編集]
1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。
先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日、遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年(明治5年)琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。
開戦準備へ[編集]
宮古島民台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在のアメリカ合衆国総領事チャールズ・ルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人を懲罰するべきだ」と日本外務省に提唱した。
初代龍驤は台湾出兵の旗艦であり副島種臣と大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。
孟春(砲艦)は三本マスト・スクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。
外務卿の副島種臣はデロングを仲介しルジャンドルと会談、内務卿大久保利通もルジャンドルの意見に注目し、ルジャンドルは顧問として外務省に雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。
1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島民台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国の統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任を回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年(明治7年)4月、参議の大隈重信を台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。
明治六年政変における明治天皇の勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変で下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的に企画したのである。
台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に、参議木戸孝允らの長州系は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日、木戸は参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。
水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]
国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日、三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日、台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日、谷干城と赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日、海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵一大隊砲兵一小隊の出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。
5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日、台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域の風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリアは猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。
明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは当初は日本の軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴いて清国政府と交渉した。大久保は、ルジャンドルとフランス人法学者ボアソナードを顧問として台湾問題を交渉し[7]、主たる交渉相手は総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国間互換条款互換憑単によると清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなった[1]。
日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年(明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年(明治13年)の北京での交渉において、日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。
また、明治政府は兵員輸送に英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便蒸汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱は政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。
日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人・軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。
1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省と海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医(大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省からは外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部の前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。
http://documentary.nicovideo.jp/
http://blogos.com/article/122730/
TVでは放送出来ないタブーをネットで放送しようという試みだ。
田原総一朗さんがまだ元気だった頃は朝生でタブーを知れたが今は朝ナマも機能せず。
田原さん亡き後次世代は池上彰さんに頼るしか無いかと思っていたが
ニコ生がこういう試みを始めたのでありがたい。
ついこの間までは言われていたが
「タイズ・ザット・バインド ~ジャパン・アンド・コリア~エピソード1」
http://live.nicovideo.jp/watch/lv227557733
「著作:ドワンゴ / 制作:Blakeway Productions / 配給:BBCワールドワイド」
って発注してBBCがBlakeway Productionsに作らせてドワンゴに映像を渡したってこと?
で、その中身ですが、
朝鮮と日本の関係を豊臣秀吉の朝鮮出兵から語った視点は面白かった。
耳や鼻を戦利品で持って帰ってくるというISISばりの頭のおかしい日本人達の話は初めて知って驚いた。
隠されているわけでもないのにこの史実を自分が知らないということはどういうことなんだろう?
と考えさせられた。
相変わらず簡単に洗脳され情報操作に踊らされてしまうんだなと思い知らされた。
ほとんど私の知った情報でしかなかったので特に驚きはなかった。
なんかやたら川上さんは韓国寄りに見えるかもしれないがこれが現実だ!的に言っていたが
個人的にはどっちに偏っているとも思わなかった。
個人的には凄く胡散臭く思っている。
ぶっちゃけ私はそんなことに興味が無い。
理由①戦後に生まれた私には史実が正しいかどうかなどもう確認するすべがないのでどうしようもないから。
理由②韓国人だろうが日本人だろうがアメリカ人だろうが黒人だろうが全部同じ人間。
環境や生まれで誰しもが加害者になり被害者になる可能性があるというだけ。
理由③私が韓国人に何かしたわけでもないし祖先の責任を感じろと言われても実感的に無理だから。
私は今日本が一番仲良くなり近い存在にならなければならない相手こそ韓国だと思っている。
何かあって困れば一番最初に助けに来てもらえるし
交通・流通・時間の面でも一番効率よくなんでもできる相手が隣国である。
逆に仲悪くなれば一番めんどくさくて大変なことになる相手である。
お隣さんと仲良くならないでまともな生活などできるわけがない。
でも近すぎる相手だからこそ掌握したくて日本は上から目線で力で相手を制圧しようとした。
愚かである。
流石耳や鼻を持ち帰って自慢したがる頭のおかしい種族の末裔だけのことはある。
なんでこんなにいがみ合って自分の足引っ張ってんだろう?って感じである。
当時を実際に経験して苦い思い出がある高齢の方達にとっては
私とは違い実感のある重い問題だとは思う。
でも私には関係ない。
多分多くの戦後生まれの人達はこんな感情なんじゃないだろうか?
しかしそれに反して世間ではやたら大きな問題として取り扱われる。
凄く違和感。
余計なことを荒立てて炎上商法で金儲けしようとしているという穿った見たかもできなくはない。
ぶっちゃけもう当時を知らない人間が戦後責任だなんだかんだ言っても
誰があー言ってたこー言ってた、
とかそんなお粗末な話にかならないのは目に見えている。
そんなくだらないことに時間と労力をかけている暇があったら、
いがみ合いは年寄り連中だけでやっててくれ。
正に老害。
東アジアここにあり!と隣国と手を取り合って世界に発信したい。
私利私欲のためではなく欧米の侵略からアジアを守ろうとしたという論説をよく聞くが
今度は力で相手を制するのではなく
文化と知恵で共に手を取りみんなでアジアを繁栄させて行きたい。
そのためには、
何かの利害関係で政治的・商業的に日韓問題を利用しようとしている人達は無視し
それに踊らされずに
そんなことにこだわりを持たない層で
年 | 戦国時代 | 実際の出来事 | |
---|---|---|---|
1867 | 応仁の乱開戦 | ||
1868 | 明治元年 | ||
1877 | 応仁の乱終戦 | ||
1897 | 毛利元就が生まれる | ||
1912 | 大正元年 | ||
1921 | 武田信玄が生まれる | ||
1926 | 昭和元年 | ||
1930 | 上杉謙信が生まれる | ||
1934 | 織田信長が生まれる | ||
1937 | 豊臣秀吉が生まれる | ||
1941 | 太平洋戦争開戦 | ||
1943 | 徳川家康が生まれる | ||
1945 | 終戦 | ||
1954 | 高度経済成長開始 | ||
1960 | 桶狭間の戦い | ||
石田三成が生まれる | |||
1967 | 伊達政宗が生まれる | ||
真田幸村が生まれる | |||
1970 | 姉川の戦い | ||
1971 | 毛利元就死去 | ||
1973 | 武田信玄死去 | 高度経済成長終了 | |
1975 | 長篠の戦い | ||
1975 | 上杉謙信死去 | ||
1982 | 本能寺の変 | ||
1983 | 賤ヶ岳の戦い | ||
1984 | 小牧・長久手の戦い | ||
1986 | バブル開始 | ||
1989 | 平成元年 | ||
1990 | 小田原征伐 | ||
1991 | バブル終了 | ||
1992 | 朝鮮出兵(文禄の役) | ||
1997 | 朝鮮出兵(慶長の役) | ||
1998 | 豊臣秀吉死去 | ||
2000 | 関ヶ原の戦い | ||
2014 | 大坂冬の陣 | ||
2015 | 大坂夏の陣 | ||
2016 | 徳川家康死去 |
東郷茂徳の孫で、父親の文彦も外交官の三代続きで、外務省ロシア局長やってた
痴漢で逮捕されてたがそのことは隠蔽されており、その後ワシントンポストに転じてから再び
痴漢行為で逮捕されて以前からの数多くの行為が明るみにされてる。この
痴漢記者・東郷茂彦がワシントンポストでスクープしたのが雅子妃皇太子妃内定情報だった。
父・小和田が外務省だから、弟の和彦が、兄の名誉回復のために流してやったのかもしれないが、そうした私情からか、こういう
痴漢記者に情報扱わせたことが、思い返せば今に至る皇太子妃の回復不能な鬱症状の不吉な流れの発端だったのだろう。
兄の和彦も鈴木宗男と二島先行返還路線で突っ走った挙句に贈収賄事件にまみれて失脚している。そもそも日米開戦についても
祖父・茂徳の、ハル・ノートの扱いを含む、日米交渉能力の拙さに相当の責任があったことが自明である。こう考えれば、
東郷一族全体が、日本国に与えた損害は計り知れないと言えるが、この
東郷家は、実に、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に日本に連行されてきた陶工の子孫なのである。
その苗字は日露戦争の東郷平八郎から借り受けたものなのか、日露戦争の結果として
日韓基本条約で解決されたはずなのに、韓国が文句を言い続ける事案について。
・ひとつが、従軍慰安婦問題が、日韓基本条約後に表面化したため、それが解決されていないと韓国は認識している
→ これはまたなんか条約か何かで、一応の解決は見せるべき。河野談話で強制性を認める代わりに、これで一応の終わりとする、
って話が本当はあったみたいだけど、条約としてきちんと締結されているわけではないからなあ。日本の失策というか。
・もうひとつが、「解決しました、はいこれで終わり」は韓国としてはあり得なく、未来永劫反省の態度を示し続けないといけないと考えている
じゃあどう解決するか?
と言えば、これはもう不可能だよね。
未来永劫反省を示し続けなければならないのなら、日本が常に下手に出ない限り解決なんて不可能です。
でもそれは嫌だから、そしたら韓国と同じように、白村江や元寇について、謝罪と賠償と、反省の態度を未来永劫求め続けたらいいんでないかな。
韓国も、太平洋戦争関係と、秀吉の朝鮮出兵もあわせて、未来永劫反省を求め続けたらいいんでないかな。
両国の非難が同じくらいのボリュームになって、さらに時間が百年ほどたてば、完全に決裂して戦争になるか(ならないと思うけど)、
またはばかばかしくて、双方もう何も求めないことに改めて落ち着くか、となるかもしれん。
ただ、一方で愛国心というのはあるので韓国が国策なんだかしらないけど日本の地位を貶めるような
発言を世界に向けていたりするのは腹が立つし、Youtubeの動画にも文句つける。
それから、領土云々というのがなかったとしても韓国人には、「どうしてあそこまで見栄をはるのか」という
嫌悪感はある。整形のはなしだけどね。はいはい、全員が全員じゃないんでしょうし、韓国では顔が良くないと評価されない社会だとか
は一応話としては知ってますけど、なんか自分を大きく見せようとして見苦しい嘘で塗りたくるのを見るのは嫌いなんだ。
虚栄心や虚偽というのは勿論韓国人だけのものではないし、そういう様子は同じ国の人間であっても見苦しくて嫌いだけどね。
例えば、日本は万世一系の世界最古の王朝を維持してるすごい国なんだとかそういう空疎なお国自慢は心底バカバカしいと思う。
陛下陛下といってる日本人のことは正直好きになれない。ただ、酒なんかと同じでそれに頼るしか心の拠り所がない人ってのはいるから匿名ダイアリーでしか表明できないわけだが。
あと、ついでに言うと天皇のことも個人的にはまったく尊敬してない。(ただし、天皇をバカにされたときにはなんか適当なことを必ず言い返すことにしてる)。
整形の話に戻るけど、あなたが韓国人だとしたら六割ぐらいの確率でキリスト教徒だよね。キリスト教だとして話を進めるけどキリスト教では整形ってどうなの?
カトリックでは自殺禁止なのから憶測すると、キリスト教って神が創った人間の姿を勝手にのこぎりで切り貼りして顔を整形するのを推奨する感じじゃないんだけど。
正直、自分には韓国人の友達もいるし、ちょっとは韓国に興味を持ってもいる。けれど日本に占領される前の韓国が立派だったとかそういう嘘はいけないと思う。
友達の一人を問い詰めた時は、悔しそうに「国が腐敗していたからある意味日本にやられて当然だった、そう言えなくもない」と言っていた。
思い出したけど、なんとなく韓国併合時の事ばかり日本人は意識しがちだけど、韓国側から見ると秀吉の朝鮮出兵のことが結構ウェイト大きいらしいね。
ああ、でもこれもその友達が言っていただけだから韓国全体でどういう印象なのかはわからんか。自分は朝鮮出兵って小さなギャグぐらいにしか思ってなくて、半島の人口が1/3に
まで減ったとか知らなかったなぁ。日本軍を追い返した水軍の将、李舜臣が今でも韓国の英雄なのだと教えてくれたのも彼だった。
まあ日本人同士でもご近所ってのはなかなか難しい。
ご近所同士で仲良くやるためには「隣の家にくちばしを出さない」ことだと思うんだね。
gdgdですが、韓国も、自分が立派な国だと思うなら見栄を張ったり整形アイドルをゴリ押しするのをやめて、自分の国をまともにすることに精を出したらいいんじゃないかと思いました。