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はてなキーワード: 立花宗茂とは

2023-02-17

anond:20230217133536

関ヶ原の戦いでは西軍に与して東軍前田利長と戦ったため(浅井畷の戦い)、戦後に一旦改易となる。

慶長8年(1603年)に常陸国古渡1万石を与えられて大名に復帰し、慶長19年(1614年)から

大坂の陣では武功を挙げたため、1617年、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠

御伽衆として、細川興元佐久間安政立花宗茂らと共に抜擢される

anond:20230217133655

これを見ると情けもある政務もできる名将だったみたいすね

関ヶ原の戦い領土を失った大名の内、数少ない大名として返り咲いた武将であった。さらに、それらの中でも最終的に10万石以上を領したのは長重と立花宗茂のみであり、そのことは特筆される。

長重は築城技術の高さを評価されていた。彼が築城した棚倉城白河小峰城はいずれも城としての質が高い[9]。棚倉城西側が急峻な崖であり、守りに適した立地条件を持っていた[10]。白河小峰城は総石垣造りの城で、これは東北地方では数少ない造りの城であった[9]。こうした築城技術幕府から評価され、陸奥入り口である要衝に長重は領地を与えられたと指摘される[9]。

死去に際して子息、家臣に「将軍の恩を第一として、幕僚と円滑に付き合い、徳川幕府への忠勤に励め、しかし、機転を利かせすぎたり、媚び諂うのはよくない」と遺言を残している。河合敦はこの遺言にも長重の堅実で実直な人柄が現れていると評している[11]。

浅井畷の戦いののち、講和のために前田から人質として前田利常が遣わされた。利常は前田利家の子ではあるが、他の兄弟と違い身分の低い側室の下に産まれ庶子であった。小松城に抑留されていた人質の利常に、長重が自ら梨を剥き与えた事があった[12]。利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話した、という逸話が残っている。

2021-05-12

男系女系

どちらかと言えば自分男系支持派で、男系の続く旧宮家を復活させて今の女性宮家結婚させてでも男系は繋いだ方がいいと思っている。

しかし、こんなことを考えるのはタブーなのかもしれないが、これまで男系が繋がっていたという証拠は本当にあるのだろうかと疑問に思うことがある。現代遺伝子が父方の方で繋がっているという男系の考え方は、言ってみれば19世紀ダーウィン以後の遺伝子というもの生殖を通して個体継承されるという発見を踏まえた考え方であって、江戸時代やそれ以前にそんな現代的な意味での男系が本当に尊重されていたとは考えにくい。

例えば、戦国時代立花宗茂とか、大名大友家家臣の立花道雪に息子がいなくて同僚の髙橋紹運から養子として貰われてきて立花家を継いでいる。もちろん実子の娘と結婚して婿養子として家を継いでいるのだが、血が繋がっていなくても養子にすれば家としては存続できる、というのが当時の普通の考え方だったように見える。血の繋がりよりも形式上の家の方を重んじるというのは現代では理解しづらいが、まだダーウィン発見を知らなかったと考えれば理解できなくもない。

現代でも、政治家とかを見れば例えば安倍晋三の弟の岸信夫とか、岸家を継ぐために母方の岸家に養子に入ったりしている。庶民から見たらめちゃくちゃだが、伝統的な家柄ほど家というもの大事なのかもしれない。戦国時代やそれ以前からの古くさい考え方が今も残っているということだ。

問題は、血の繋がりよりも家、というのがコンセンサスだった長い長い時代の中で、どうやって天皇家だけ現代的な意味での男系という概念が維持できていたと言えるのか、ということだ。一応神道宗主の形は取りながら室町以降歴史の裏方にいた天皇家で、本当に無垢男系が維持できていたと言えるのか。権力欲剥き出しの藤原摂家たちが側近にいる中で(しかも母方で見たら既に藤原氏と血縁で混じり合っている中で)、どこかで養子に置き換えられることなく連綿と純粋男系を維持できてきた、と言えるのだろうか。(陰謀論に踏み込まずにこの論を考えるのは非常に難しい面もあるのだが。)

好意的に見るならば、そうした科学的な男系の立証は不可能だが、たとえどこかで置き換わっていたとしても同じく歴史上重みがあり天皇家の親戚でもある藤原氏(近衛家一条家など)の子孫だから問題なし、ということだろうか。たぶん、現代においてどこの馬の骨とも知れない庶民から男系を奪われるのとは較べるべくもない、ということだろうか。

2020-09-11

立花宗茂ってなんで大河の主役になれへんの?

2020-07-16

読み方クイズ

鍋島直茂なべしまなおしげ

立花宗茂たちばなむねしげ

小山田信茂 → おやまだのぶしげ

徳川家茂 → とくがわいえしげ

徳川家重 → とくがわ、いえしげ…?

七尾ななお

八尾 → やお

九尾 → きゅうお、じゃなかった、きゅうび

安積覚兵衛 → あずみかくべえ ← あさかです。あずみはこっち「安曇」。じゃあこれは?

安曇川 → あずみがわ ← あどがわです

2017-11-21

anond:20171121121021

あと(真偽は不明だが)有名なタブーとして朝鮮出兵があって、そこが見せ場の加藤清正島津義弘立花宗茂などの九州勢はそのせいで大河にならないと噂されている。

2017-10-06

anond:20171006164337

伊達政宗エピソードの端々から青臭さが漂ってくるDQN。「こういう人間だったんだろうなー」という想像のしやすさ。

武田勝頼真田丸でも大活躍。親父の不始末をすべて背負って死んだ男。最期とき気持ち想像すると泣けてくる。

高橋紹運戦国時代で最も壮絶に散った武将立花道雪立花宗茂との関係も含めて最高に格好良い。

2015-03-20

http://anond.hatelabo.jp/20150320111625

記事では7日間しか被ってないのとかあったし、まあ。

調べていて、立花宗茂の没年と井原西鶴の生年って同じなんだなーとか思ったけど、それは外しましたよ。

2012-10-02

http://anond.hatelabo.jp/20121002152601

一言坂の戦いは、忠勝が殿を務めて、相手は引いて、

そこで「家康に過ぎたるものが〜」という言葉が出てくるんだけど、

まりエピソードとしては「忠勝がすごいから敵が引いた」みたいな話になっている。

んな逸話ねーよ!

グダグダ家康軍の撤退のために本多隊が尻に残った

 本多隊も大概グダグダで酷い目に遭った

 でも大敗で殿軍を引き受けた忠勝の覚悟忠誠心はイイよね!」

っていうのが一言坂の逸話だ。

むしろ武田軍が少し武士の情けをかけて見逃してくれた。忠勝はあとで感謝を伝えてる。

忠勝が評価されるとすれば

そういう辛い局面で見せ続けた健気な忠誠心だ。

小牧長久手でも同じようなシチュエーション秀吉が哀れんで寡兵の忠勝を討ち取らせなかった

みたいな逸話ならある。(もちろん与太話くさい)

秀吉も忠義者が好きだしそういう意味で忠勝を褒めてる。

西の立花宗茂を気に入って褒め上げてたのも超忠義者の息子だったからだ。


忠勝が名乗っただけで敵が引いた~みたいな与太話はどっかにはあったが

一言坂じゃないのは間違い無い。

一体誰にそんなデタラメ話吹き込まれたんだ?

ツリーにあるみたいに、ゆとり向けゲームで仕込んだ知識か?


幸村の知名度は個人的武勇に拠るものじゃないと思うけど…。

から忠勝のもそうじゃん。

それを指摘されたら「逸話が乏しくても知名度があればいいんだ!」っていうから

「知名度なら幸村の方があるじゃん」って言ってんの。

これぐらいの話の流れは理解しろよ。

「俺はこっちの武将のほうが忠勝より知名度が高いと思うぜ」という反論は、

むしろ大歓迎なので、ぜひ挙げていただければ。

いや、無数に居すぎて…

何言ってんだおめえ?

 
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