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NewsWeek日本版によると、インドで新型コロナウイルスの新たな変異株「デルタプラス」が「懸念される変異株」に指定されたそうだ。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/06/post-96559.php
かつてインド株と呼称されていた変異株がデルタ株であることは把握している方も多いであろうが、デルタプラス株とは何かNewsWeekの記事では説明されていない。
調べてみると、インドで2番目に発行部数が多いという地元英字新聞のザ・ヒンドゥーには既に3日前にデルタプラス株の解説記事が出ていたようだ。
ザ・ヒンドゥーによれば、デルタプラスはAY.1またはB.1.617.2.1と呼ばれていたもので、デルタ株(B.1.617.2)の変異株だそうで、これまでに143のゲノムがAY.1としてラベル付けされ、インド以外にもネパール、ポルトガル、スイス、ポーランド、日本、ロシア、トルコ、イギリス、フランス、アメリカ、カナダからも報告されているそうだ。
つまりネーミングから察せられた通り、デルタプラス株はデルタ株の変種であり、既に日本を含む多くの国で確認されていることになる。
(ここまで普通の内容)今後の状況推移が気がかりであるが、既存事例を参考に占ってみよう。(以降、大喜利)
●事例1「ラブプラス」
「ラブプラス」は恋愛ゲームとして異例の20万本を超えるヒット作となり、その後各種シリーズが製作された。
最新作となる「ラブプラス EVERY」は当初は2017年冬の配信を予定していたがクオリティアップを理由に遅延を重ね、2019年10月31日に配信開始された直後、不具合により一か月以上のサービス停止が発生したようだ。そして、配信開始から1年も持たずに、2020年8月5日にサービス終了となった。
この事例に則れば、デルタプラスも20万以上の患者数が発生する可能性がある一方で、1年以内に収束する希望が持てると言えるかもしれない。
●事例2「C++」
C言語の発展形としてオブジェクト指向が導入されたプログラム言語である。
ベースとなったC言語そのものも含め、多くの場面で現在も利用されている。さらにC#のような発展形も存在する一方で、JavaやPythonなども広く利用されており、開発言語として支配的な立場を維持し続けているわけではない。
この事例に則れば、デルタ株もデルタプラス株も長期にわたって相当数の患者を生むことになるだろう。加えて、デルタシャープのようなさらなる変種が一定の猛威を振るうリスクにも備える必要があるだろう。
●事例3「ラプラス」
多くの理系学問の基礎理論を支えるラプラス変換やラプラス方程式の人気はいまいちであるが、ラプラスの悪魔はシュレディンガーの猫と並び中二病患者に人気である。
このような背景を踏まえると、理系出身者は一定程度の抵抗力を有する可能性、または逆に親和性が高い可能性のいずれも否定できない。中二病患者が罹患した場合の重症化リスクも不明である。
よくある話だが、地元の底辺公立中学で自分は優秀だと勘違いし、自分は優秀である、そうでなくてはならないという願望が無視出来ないほど肥大化すると、それ以降の人生が悲惨なものになる。
昔からネットで自分のことをちょっと書くとお前はこういうタイプだろとレスをつけられることがしばしばあったが、あんまり気にしないままおっさんになるまで生きてきてみると、彼らは何を言っていたのかよく分からないなと振り返って思うようになった。
俺に「自分は優秀でなくてはならないという願望」があったのかどうか、今あるのかどうかは今でもよく分からない。でも俺は単に学問とか学術的なものに関わることが好きで、紆余曲折もあったけどそういう仕事をして色々新しいことを勉強したり面白いテーマに繋げようとして全く上手く行かなかったりちょっと上手く行ったりしながら生きてきて、当時より少しは賢くなったとは思うし当時全く知らなかった知識も無数に増えた。なんなら最近ようやく色々な知識や経験が繋がってきて新しいことを生み出せる実感が少しずつ湧いてきたくらいだ。それを優秀と言うのかどうかはよく分からないし、若い人でもっとずっと凄いことをやってる人は腐るほどいる。
でも別にそれはあんまり関係なくて、俺が進歩して昔の俺よりはマシになったということが全てなんだよな。それを「願望の肥大化」と言うのだろうか?
同じような経験を持つ学生としてこの気持ち悪さや怒りは非常によくわかる。
「言い寄るのはセクハラではない」とか「教授にも権利がある」とかとんでもない。
どこからどうみても立派なセクハラであり、同様の事例で処分を受けたというニュースもある。
相手はゼミの教授で、あなたの学習環境をすでに著しく妨げている。
相手は権力勾配があるという自覚がこれほどまで欠けた人間なので、あなたが断ればあなたに不利益を及ぼさないとも限らないし、そもそも現時点で関係性の変化や精神的ダメージによってこれまでと同様に指導を受けることが難しくなっており、十分な不利益を被っている。
なぜ学問するために大学に通い、相手が目上の人間だという理由で失礼のないよう接しているだけで、気味の悪いギラついた下心を向けられなければならないのか?
こういう怒りやこみ上げる気持ち悪さは、教授の言動が自分にとって大変不快であり、この行為が許されないハラスメントであるということを相手に突きつけない限り、何年我慢していても消えるものではない。
現時点では、相手は悪いことをしたということにすら気づいていない。他にも被害者がいる可能性も十分にある。
証拠をしっかり集めつつ、学内のしかるべき機関に相談することをおすすめする。
マジでクソみたいなトラバやブコメも多いが、どうかそのようなコメントで増田の傷が深まることがないように願っている。
参考までに:
ゆるやかな悪に流されないように / 大学のハラスメントを看過しない会
麺なしラーメンってのあるじゃない。
もはやラーメンとは?と考えさせられる
そしてラーメンの定義をも覆す哲学的なラーメンが多いんだけど、
あの中華の丼の模様の入った丼の二重表現の丼に雷文の器になんでも調理された食材を持って提供すれば
熱いの冷たいの、
モヤシを2袋分高く積み上げたとしても、
それはラーメンと呼べる全ての代物として
誇り高くコク深く美味しいラーメンと呼べるのではないかしら?って
イタリアンシェフがやる高く盛れば高く盛るほど美味しくなる不思議パスタと同じ要領で
素麺も雷文の器にのせて涼しげな氷でも浮かべて蕎麦ちょこでつる!っと喉ごし良く食べたとしても、
やっぱりあの雷文のラーメン丼の器の全てをもラーメンとして受け入れてしまう、
器のデカさがあるわよね。
いろいろなものをその包容力で包み込む感じのあのラーメン雷文丼は
欠かした途端それはラーメンと呼べなくなるぐらい重要なラーメン学問では
教科書の1ページ目に出てくる問の答えでもあるわ。
私たちはラーメン学を学問として学ぶべき時が既に来ているお寿司を食べている場合じゃないのよ。
べ、べつに
時すでにお寿司とかって言いたいってわけじゃなくて、
行動経済学もしくは
何らかの学問と通じる難しく紐付けて助教授が言いそうなものでしょ?
東大の赤門の近くの飲食店の水は美味い!ってそれにあやかって受験生が訪れるようなものでもあるしね。
ご飯や炒飯そしてカレーを盛って提供したとしてもそれは歴とした
たとえオヤジの親指がラーメンの器にかかって直接食材にタッチしていたとしても
もはやあのラーメン雷文丼の盛られて時点でそれはすでにラーメンとして爆誕なわけなのよ。
ラーメンとす!って、
うちはこれのスタイルでやってるんで!と酷く厳しい表情で大将に言われる次第よ。
だから、
喫茶店であのラーメン雷文丼の器に例えお冷やが注がれて持ってこられたとしても、
フィンガーボールお冷やでもなくて、
お冷やを注いで持ってこない理由の一つでもあるわ。
だってそうして持ってこられたら、
ここが奥深さゆえのラーメン学問を難しくしている原因の一つでもあるし、
あの全ての
何一つ変わらない普遍的な景色のラーメン雷文丼の器たる所以なのよ。
分かるかしら?
私はさっぱり分からないけど。
それほどラーメン学ってのは難しいんだと思うし
ラーメンが来るまで待てなくて
ちょっと高菜を食べたぐらいで追い返されるぐらいだって言うしね。
結構理に適った落とし所の着地地点でもあるし、
垂直落下式ブレーンバスターのワザをラーメン雷文丼の器に喰らわせようなんて100年早いってものなのよ。
オレのワザを受けてみろ!って胸に大チョップを喰らって、
なぜか膝に効いて膝が崩れ落ちるジャイアント馬場さんのようにはいかないの!
そこがまた
名前忘れちゃったけど、
ふと思ったんだけど、
ベビースターラーメンとかああいう類いの、
この理屈から言うとラーメン雷文器の丼の盛られていないはずなのに、
そこですでにラーメンと名乗っている時点で
いままでのラーメン学問にまた一つのページを加えることになるだろうし、
それのなにか1つを校歌にすれば、
もし甲子園でラーメン高校が優勝したときにスタンドに響き渡るラーメンの歌を聞いてみんな笑いをこらえるのに必死なのかも知れないし
今日はラーメン雷文丼の器の深い歴史をほんの少し紹介して紐解いてみた次第よ。
うふふ。
あんまりまだ汗かいてイオンサプライとまでは大袈裟かもシレ泣けど
ここは歯に衣着せない感じで
真面目なレシィピなのよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
権威に弱い。
例えばイーロン・マスク。
大成功者だ。あの深くて落ち着いた調子も合わさって俺なんて何でも信じちゃう。
でも例えば去年の初め頃にコロナなんて数ヶ月で終わるとか放言したり、
最近だと物理学より厳密な学問はないとか言って数学クラスタが怒ったり、
そんな信じちゃいけない人なんだよね。
分かってるんだよ。誰が喋ってるかより何を喋ってるかだって。
権威主義なのかな。
でも権威負けするのは嫌だ。
国語辞典やブリタニカのような写真ではなく字が主体の百科事典の動植物あるいは衣服等の説明は分かりづらいものです。
あれはそもそも現物を見たことがあることを前提にしているような解説になっているようにみえます。
辞書の主な使い方の一つとして、文章に出てくる具象名詞がどういうものか分からないから引いてみることがありますが、この場合現物を見たことがないことも多いはずです。
ですから解説に写真を用いないならば実物と相違ない像がありありと浮かんでくるような文章で説明されていなければある意味本末転倒なのです。
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試みにあなたが知らない植物を何か一つ引いて、その説明を読んで図に描いてみてください。そしてネットの画像検索で比較してみてください。
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今はAIがありますからより科学的に辞書事典の記述の妥当性を検証できると思います。
写実的な絵を描くことに定評がある人達から同じ植物の絵を集めて、模範的な絵として学習させたら、同じような人たちからその植物をまだ知らない人たちを選出し、辞書の説明だけを頼りにその植物の絵を描かせます。
次のパターンとして、絵は全くの素人という人たちに実物を見せてその絵を描いてもらったら、既に学習させた模範的な絵との比較で、両パターンの近似度の平均をそれぞれ算出します。おそらく全くの素人が実物を見て描いたものの方がまだ高い近似度を持っていることでしょう。
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広く捉えればこれは国語教育の問題かもしれません。つまり国民全体において辞書等から正しいイメージが得られないというのが平均的な水準として示されるならば、それは個人によつ勉学の怠慢という自己責任ではなく、教育制度側の過失といえることになります。
PISAではごく単純な論理パズルのような説明文を読ませて正答を導かせるようなことを行ってきていますが、一度、文章からそれが示す物体やその配置に関する図を選択させる問題も出してみるべきだと思います。
数学には取って付きのマグカップとドーナッツを「同型」とみなすようなトポロジーという学問がありますが、そのような緩い制約の下ですら構造的に異なるような一群を選択肢としても、なお正解を選べない人がごまんと出てくる結果となるかもしれません。
そうだとすれば小説の情景描写もまたまともに機能していないかもしれません。自覚のないあきめくらが読者かもしれませんから。
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本をたくさん読めば読解力が身に付くという考えが横行しています。この根性論のような考えも問題です。
PISA等で国民の文章からイメージを自分の頭に形成する力の低下が判明したら、文章とそれが一般的に指し示す図の対応ということに焦点を当てた学習法をぜひ初等教育に取り入れるべきでしょう。
やみくもに本を読んでれば読解力が上がるというのは、読書に慣れるとか、知らない単語を発見することで知識を埋め合わせる機会が得られるということが考えられるのである意味で正しいですが、しかし言葉をイメージに還元する力の育むに際しては根本的に、原理的に無力だと思います。
我々の脳よりもはるかに高い処理能力を持つAIでさえも、一部の学習に際してはフィードバックという一定の手順を必要するのです。
我々が文章から正しいイメージを得るようになる過程についても同じことが言えると思います。
「そのイメージで合ってるよ」「そのイメージは間違ってるよ」と教えられることによるフィードバックがなければ、自分の読みが修正される機会がなく、何かを読んでもトポロジー的にすら間違ったイメージを展開していくようになるでしょう。
あるいはそれは教育されなかった「ヒト」としての自然な姿なのでしょうけども、それはそれとして。
話を戻せば、するべきことは、文と図との基礎的な対応表を作って、九九のように叩き込ませることです。
これは一見根性論めいているかもしれませんが、無計画な多読よりも遥かに効率的でしょう。
基礎的な表がクリアできたら、もう少し複雑な文や文章でも作成しておいた対応表へと移行していけばよく、方式としても構造化されていて明快です。
結局これは数学において基礎をおろそかにすれば応用問題で容易につまづくようなこと、たとえば掛け算ができなければ割り算はできないとか、微積分の原理が分かってないのでは微分方程式は解けないということと同じです。数学に取り組むのとある意味で同じ態度で国語の学習にも臨まれるべきだと思います。
大学生時代に学前のガストでよく駄弁ってたテーマで、大変懐かしく思った。
増田の考えを解き明かす分野としては法哲学に入るのだが、結論が
と、ややトーンダウンした感じで締めくくってる事。そして関連エントリで
どっちの話だ
https://anond.hatelabo.jp/20210616162123
というコメントがある事から、社会科学の視点について議論が浅い部分が見受けられたので、そこについて補足しておきたい。
(なお引用した『社会科学は検証も再現も不可能な占星術的なもの』という理解は何から何まで間違ってる。社会科学とは社会の “関係性" の部分に焦点を当てた学問なので、法律学を社会科学の視点で分析するのは正しいし、数多の論文はもちろん研究や講義も普通にある)……閑話休題。
さて。
という元テーマに回答すると
という回答になる。身も蓋もなくて申し訳ないというか、「そりゃそうだろ」と言われそうだが。
社会の便益と個人の利益。それらが相反するとき、妥協点を定めるのが、法とコミュニティである。
という言葉がありまして。個々人が好き勝手にやった結果、社会に損をもたらしてやばい → だから法で規制/ルール化しよう。ってのが、多くの法が作られる基本的な流れと思って良い。すなわちそもそも法が作られる理由/初動の多くが「誰かが好き勝手やったせいで、他の誰かの利益/権利をおびやかしている」である。大抵の場合において、科学的問題提起から発祥したものではない。
もちろん「この方法は患者の不利益になるから規制すべき」(医事法令)や「この方法を施工主が行うと顧客の安全性を損なうから規制すべき」(建築法規)などもあるが、これらの科学的根拠も 誰かの利益/権利をおびやかしているから、それらを保護/フェアネスにすべき という原則が先であり、科学的根拠はその理由付けに過ぎない。
よく語られる話ではあるが「大麻は規制されてるが、酒は規制されていない。科学的根拠に照らしたときに、矛盾があるではないか。両方似たものだから、両方規制するか両方解禁すべきだ。」という人がいる。この指摘は科学的な視点からは合理的かもしれない。
だが、これは時の権力者が「大麻/酒を規制したとき、社会の便益と個人の利益、どれを重視し、着地点を定めるか」と議論をしたり、賄賂だったりコネだったり、時代の情勢やら経済施策だったり、決めた権力者の気分だったり、そんな事情やあんな情事でアアダコウダして、その結果……今の大麻禁止・酒OKなのであろう。
ひとたび法が作られてしまうと、その後は妄信的に信じる輩が出てくる。コア・コンピタンス経営という本に「猿とシャワー」という寓話がある。有名な話だが、要約するとこうだ
檻の中に、4匹の猿がいた。部屋の中央にはバナナが吊されてある。
当然、猿はバナナを捕ろうと飛びつく。すると天上から冷たいシャワーが降ってくる。猿はバナナを諦めてしまう。
4匹の猿を1匹を入れ替える。新入り猿はもちろんバナナに飛びつこう……とするが、古参猿3匹に「やめておけ」と止められバナナには触れなかった。
猿の交換を繰り返し繰り返し、ついには誰もバナナに見向きもしなくなった。
だがしかし「バナナに飛びついてはならぬ」だけが呪いのように猿を支配し、バナナに飛びつかない理由自体は誰も覚えていない。
とっくにシャワーが噴き出す仕組みも、なくなっていたというのに……。
時代が変化しているのに、過去を妄信的に信じる猿に、僕らはなっているのではないか。
しがらみに囚われなければ、より良い利益(バナナ)を手に入れられるのではないか。この視点/議論は常に必要だと思う。
科学とは、多くの場合において、根拠と再現性ある形で、世の中を照らす。
古くに権力者によって作られた法は、本当は科学的根拠に欠けているのではないか。新しい科学的な発見を取り入れ、検証され、アップデートされてしかるべきではないか。
理想論をいうなら、私もそうであってほしい。しかし過去の法/ルールに縛られ、大抵の場合は喧喧諤諤の議論となってTwitterのつぶやきの藻屑と消えゆく。私の見る
も多くがそんな話をループしているように感じてしまう。増田のような科学的知見から疑問を呈する者が、確固たる根拠を述べ、社会にとっての新たな利益をアピールし、歪んだ法を叩き直してほしい。そう願う。
一人でできること大体やりおわった。
これ、どうやったらやり終えられるのか知りたい。
理解して使えるようになりたい技術や学問領域がまだまだ無数にあるし、
楽器ができるようになりたいけどそういう文化的環境に恵まれずに育ったからまだ全然できてないし、
なんなら作曲もしてみたいし、絵も描けるようになりたいし、マンガにして表現したいこともあるし、
海外に一度住んだけどあんまり上手くやれなかったからもう一回やりたいし、
俺はこれをやったぞと思えるような研究を1つくらいは達成したいし、
経済・文化資本をフルに注入されて育ったいけすかないガキ共に一発入れるため、俺と同じようにそういうものに恵まれなかったガキ共を鍛え上げる教育活動もしたい。
全てをやることはできないと思う。才能もそんなにないタイプだし。
30歳そこそこ下手したら20代で「やりたいこと全部やった」と言う人多いけど、どうやったら全部やった状態になれるんだろう。
真面目に考えて大学とかもう国立だけ残して全廃ぐらいでよくない?って思ってるんだけど。
学問にお金を賭けないと国際競争力がどうたらで国が衰退する!って言われるけど本当にそうなんかなーって思う。
今はみんないい大学に行かせたい、他人よりもより良い成績、より良い大学に行かせるために教育費をたくさんかけなきゃいけない。
子供を一人育てるのにお金がかかりすぎるから子供を何人も産むのを躊躇して出生率が下がるんなら教育なんてそこそこにして適当に働いて人生送った方がよくない?
「お金がかかるから教育を無料化しよう」って話もあるけど、教育にかけるよりも他のことにかけてほしい。
それだと国際競争力が落ちる?だったら有能な人材を高給で海外から連れてこればいいじゃん。1億人を大学に行かせて100万人の有能な人材を作るより、世界中から有能な100万人雇ってきた方がコスパよくない?それこそ大学無料化する金で雇ってこれるんじゃない?
もちろん頭のいい人は大学いきゃいいけど、頭が並で大して勉強したくない人まで無理に学問の競争社会に4年間揉まれる必要ないと思うんだよね。
高卒ぐらいでも大卒とそんな変わらない程度のそこそこの給料を保証して、とびぬけて有能な人だけとんでもない高給出して、そういう世界の方がいいんじゃないの?って思う。
最近様々なことに悩みだした。大学4年生にして思春期の訪れである。世の中の様々なことに興味を持っては、大学を卒業するまでの期間の長さを嘆き、折り合いがつかないまま悶々とした気持ちで日々を過ごしている。
僕は今まで散々人生をサボってきた。最低点主義とでも言おうか、家族など周りの人の反応を見ながら自分である程度の基準を作り、それを満たしさえすればなんでも良いと思っていた。高校受験の際は、祖父・両親が通っていた高校に行くことが家族の中で当然とされていたためそれに合わせて合格することを目標としていた。中学校程度の勉強はそれなりにやっておけば志望校くらいは受かる頭の良さであったため難なく受かった。しかし、例えば部活動は自分の中の基準にまったくなく、練習をサボりまくり挙げ句そのせいで同じ部活の女子に泣かれた。僕の中の基準は高校に受かる一点に集中していた。高校に入ってからは、なぜかわからないが志望校を東大と言ってしまったために家族や先生を期待させてしまい(と勝手に思い)よくわからないことになっていた。端から東大に行けるとは現実的に思っておらず、勉強はしていなかった。それでも宣言してしまっているからにはある程度の「惜しさ」を演出しなければならない。高校3年生の頭には学年で半分以下の順位になっていた僕は、「文転」した。文転してからはある程度の順位は取れるようになりワンチャンあるかもという感じを出せていたがあくまで「ワンチャン」。そのまま受験に突っ込み、結果は惨敗した。我が家は浪人には寛容であったためもう一年やらせてもらえることになった。しかし僕の基準はもはや東大ではなく「惜しさ」の演出に移行していたのかもしれない。一年中遊び続け、昨年よりは改善したが結果はだめだった。それでも後期である程度の大学に滑り込めてしまったために「惜しさ」の演出には成功してしまった。大学に入っても最低点主義は言わずもがな変わらない。単位を取るだけだったら誰でもできる。何一つとして学問は身についていないが、あと卒論さえかければ僕は卒業できる。
こんな、最低点主義を人生を通して実践してきた僕も勉強だけをやっていたわけではない。絵を描いてみたり(才能が絶望的だった)、小説を書いてみたり(根気がない)、ギターを弾いてみたり(練習嫌い)、作曲を行ってみたり(世に出ているもののクオリティーにならないことが気に食わない)、いろいろなことを知りたいと思い最初の一歩だけ踏み出してみた。しかしどれもすぐに飽きたり萎えたりしてしまった。今でもこれらをある程度好きだという気持ちは持っているが、世に出るレベルには到底ならないだろうということを予期してしまっている。最低点など存在せず、最高点なら∞の世界の話に立ち入れない僕がいる。
社会に出てしまえば周りから求められる最低点などというものはどこにもない。それに、最低点を取れなくても、ある程度のセーフティーネットは存在する。僕がこれまで回してきたサイクルはほとんど無に帰す。僕はこの社会の中でどこまでもフラフラとしていくしかないのだろうか。
僕の「好き」は移り気で、小さく、根気がなく、僕を規定するものになってくれない。それでも今はこれを大事にせねばならないと芽生え始めた自我が言う。僕の「好き」はこれから最低点を求めず、自由に泳いでいけるか。22年間サボっていたからこそ、今、世界のすべてを手に入れたくなってしまった。領分をわきまえず色々とやることをこの僕が僕に認めなければならない。そして、世に花開くことを真に夢見なければならない。
何者にもなれないことこそ誇らしく、胸を張って生きていこう。
これは人生に絶望した若者の戯言です。今日話を聞いてくれたみんなへの感謝の一つの形として書きました。そしてCrazy Crazyに感じて星野源にドハマリしていた15歳の僕に捧げます。星野源の多才っぷりはとどまることを知らず、どんどんとかっこよくなっていくばかりです。この7年で更に距離は離れてしまったけれど、星野源はたしかに僕を構成する一要素です。一応結婚のことについて触れておくと、私は有名人の誰と誰がどうだ、みたいなことには全く無頓着で無関心です。しかし、星野源が結婚したことによって新たな面を見せてくれるかもしれないということには期待することもあります。これまでエッセイで見せてくれていた暗黒面もさわやかなライブでの姿にも、それを支える世界への愛のようなものが僕の心までも包んでくれているような気がしていました。これからは包み、包まれた愛が僕に触れることになるのでしょうか。それならば一層、僕も源さんの心を包むような愛を持って世界に向き合っていかなければなりません。世界のすべてを肯定することは難しくても、世界には素晴らしいことがたくさんあるとよく噛み締めたいです。そしてそれを表現にまで昇華できればこの上ないことと思います。
ありがとうございました。
区切り方が逆。地方で、文化に敬意を払わない人がいっぱいいる。だが、文化人たる研究者本人がそれを内面化してどうする。ということ。
もうちょっとくだけたこというと地方で男尊女卑にどっぷり浸ってる人独特の「文化とか学問とか象牙の塔には全く敬意を払わないし、娘は大学にいかせるのはもったいない、というような態度」(+その人たち独特の言葉遣いやいいまわし)をそのまま内面化しちゃっててどうすんだ?何研究してんの?それで批判的になれるのか?ということ。
もしそれでいいとおもっているのなら、北大助手が北大助手として敬意を払われ仕事をまかされているのは、ただたんに「北大からきた薄い給料袋に」であって、「北大助手としてなしとげた仕事に。また北大助手という人物の文化水準のたかさに」ではまったくないですと自ら世間にさらしあげてるわけですよ。毎晩場末のキャバクラにいってフィリピーナに社長さんといわれているうちに自分は社長と呼ばれるに値する人物なのだとおもいはじめちゃったような腐敗臭を感じる。
もちろん古くは文豪たちもそういうのを自嘲的に、ネタとしてやってたけど。これはツイッターで本気でいってるじゃん。通訳して働いてる人が「専業」主婦のわけないじゃん・・・万が一専業主婦を自称したのだったら自嘲こみか、よほどひどい態度(「賃金500円でもいいですか」とか)をすでに北大助手側=雇用主がやっちゃってるからだよ。いわせんなだよな。
頭くさってそう。
ひどいこと言ってると思われたのならそこは申し訳ない。その点は自分が悪かった。
あの先生を叩く意図ではなくて、そうやって常日頃から地域による文化資本格差に問題意識を持ってる人だというのが指摘したかったということ。
そもそも北大が記憶でしゃべってるので「私専業主婦でございましてほほほ」っていったかまでは記憶が定かでない
「ふだんはどちらでお仕事を?」「ええ、介護もあって家庭で」→「専業主婦だ(と勝手に判断した)」くらいのことだろ
それで記憶をもとに「こんなの飼っとける男性すげえな」みたいな話したのも北大
そもそも妻は飼われるものでもないし「セレブバイト(北大助手が勝手に判断した)」にでてるのも夫がトロフィーとして見せびらかしてるとかいうわけでもないやろ
女性という属性が一つついただけでフリーランスのプロフェッショナル同時通訳者(専門語も予備勉強してくる)にたいする固定概念がひどすぎる