はてなキーワード: グループとは
歴史的な円安は、物価上昇への警戒感と共に投資への興味を駆り立てている。
ひとつだけ言いたいことがある。
株だろうとFXだろうと仮想通貨だろうと、扱う商品は問わない。
「とにかくデイトレはやめとけ」
デイトレと言っているが、スキャルピングもスイングもやめとけ。
長期投資を余裕資金でコツコツやるのはいい。バイ&フォーゲット。
でもそれ以上の夢は見るな。
短期間で資金を稼げる可能性のある、デイトレだけはやめておけ。
俺みたいになる。
俺は6年以上デイトレをやっている。
・2000万円超えの損失
・ゆがんだ金銭感覚
・まじめに働くことへの拒絶反応
俺は、2018年からデイトレを開始し、多額のカネを失ってきた。
寝る間も惜しんで勉強し、視力が悪くなるまでチャートをみて、すべてを捨てて取り組んできたが、全て無駄だった。
自分で言うが、人生を振り返ると、俺は決してアホな方ではなかった。
学校ではあまり勉強しなかったが、要領はいい方であり、少し力を入れて勉強するだけでクラストップレベルの成績を取ることができた。
比較的難しい国家資格を一発で取り、難なく就職できた。その後の仕事も卒なくこなせた。
グループではたいてい中心的な人物で、リーダーを任されることも多かった。
おそらく客観的にみても、平均的な人間より全体的な能力は高かったといえる。
「平均以上の能力がある俺みたいなヤツは、金融市場ではむしろ絶好のカモになる」
ということだ。
金融市場では、そこそこ成績優秀だったヤツ、医者や弁護士、バリバリの理系、ちょっと自頭がよかったヤツ...こんなヤツらが多額のカネを失い続けている。
考えてみてほしい。
そこそこ人生での成功体験を積んできたやつが、自分が金融市場でまんまとカモになるなんで思うだろうか?思うワケがない。
そこに落とし穴がある。
だから絶好のカモになる。
金融市場への参入は、この「そこそこの能力のヤツ」が圧倒的に多い。
投資の事を積極的に調べ、余裕資金もあり、そこにチャレンジできるような人間は、内心「自分なら出来る」と思っているのだ。
それに人生で大きな失敗経験もないから、投資でも多少の努力で成功できると錯覚しやすい。
そして悲しいことに、こんなそこそこのヤツら全員をカモにするような魔物が、金融市場には存在する。
(ちなみに、だからといって普通の能力のヤツの方が勝てるというワケでもない。普通のヤツも普通に負ける)
考えてもみてほしい。
例えば超一流大学のトップのヤツらが希望する就職先のひとつに、金融機関がある。
そしてその組織の中のさらにトップ層が独立し、自分の資金を活かして金融市場でトレードしたりする。
だがその中でさえ多数の脱落者があり、優秀なヤツだけが、金融市場で生き残る。
上澄みの上澄みだけが生き残る。
その生き残りは、簡単にいえば化け物だ。
これに限らず、野生の猛者たちも最終的に金融市場に集まりやすい。
パチプロでズバ抜けた成績を叩き出し続けてた意味不明なヤツ、ゲームに関してとんでもない才能を発揮するヤツ、1つの事に没頭しまくり異常に能力を発揮する引きこもり、金銭感覚がトチ狂った天才博徒、自頭が死ぬほどいいヤツ等...
特にデイトレでは、ごくごく一部を除いて成功することなど絶対にできない。
なぜならデイトレという戦場では、間接的、あるいは直接的にこんな化け物と対峙することになる。そういう仕組みになっている。
だからデイトレで勝ち続けるためには、相当運がいいか、それか自分が上位0.1%以内に食い込めるような化け物でないといけない。
頭の良さ+精神面の安定性、簡単にいえば人間力が相当高くなければならない。良い意味で頭がオカシクないとダメだ。
だらだら書いたが、簡単にいえば、デイトレはガチでムリゲーなのだ。
短期間で資金を増やしていくことを狙ったトレードは特に無理ゲーだ。あきらめた方が良い。
これが6年間で2000万円以上溶かした俺がたどり着いた答えだ。
一般人レベルの人たちが、金融市場で無駄な損を出さないことを願って、本当のところを書いた。
俺の費やしてきたものが、せめて無謀なチャレンジへのブレーキとして機能すればありがたい。
こんなこと書くと「人の可能性をつぶすな」という旨の意見が出そうだが、仮に100人チャレンジしても成功する人間が(良くて)5人以下のような確率のチャレンジに対して警告を発することは、決して悪い事ではないと思う。
俺が最も後悔していることは
「この失ったカネをコツコツ長期投資しておけばよかった」ということだ。
少ない資金からでもいい。コツコツと長期投資をすることをおすすめする。決してレバレッジをかけた短期トレードには手を出さないように。
長期投資に関して言えば、投資そのものは、良い事だと思っている。
あなたの大切な時間とお金が無駄にならないことを祈っています。
学生時代から美女(個人・グループ)に遊びや食事に誘われることが多い。
誘われて喜んで行っても、話が面白い方ではないので、何をしゃべっていいのか分からずぼんやりして過ごしてしまい、毎回「あんまりうまくいかなかったなぁ」と落ち込んで帰ることになる。(でもまた誘われる)
一対一で何度も食事に行ったりするとどうしても好きになってしまうのだが、そうなったらそうなったで予防線を張られたりして、これまた落ち込むことになる。
総合格闘技団体「RIZIN」の28日にさいたまスーパーアリーナにて予定されている「超RIZIN.3」のメインカードである朝倉未来氏vs平本蓮氏の試合前に予定されていた元NEWSの手越祐也氏の国歌独唱を取りやめることをRIZINが22日に発表した。
リングに上がったらすぐに戦いたい、余興のようなものはいらないという朝倉氏の意見はまだ、まあ選手としてはそう思うことは自由だろう、とは思う。
わざわざ公に発信しなくても、運営に意見し、話し合うことはできなかったのか?とも思うけれど。
だが、平本氏の一連の行動はさすがにやりすぎではなかっただろうか?
ケラモフ戦の時の深田えいみ氏の名前までわざわざあげて「いらない」という必要はあっただろうか?
(1億歩ゆずって穏便に手越氏側から辞退してもらえないかと裏で動いてしまった、の段階で済ませたならまだしも)
その一連のやり取りを自身のインスタアカウントで煽るように公開する必要はあっただろうか?
>選手の一方的な発信に乗じた人たちから手越さんへ直接、誹謗中傷やヘイトメッセージがSNSで送りつけられる事態
が起きているわけで、特に平本氏の行動は、手越氏への誹謗中傷を誘発し、辞退へと追い込んだ、というかなりアンフェアなものとは言えないだろうか?
正直にいえば、筆者はRIZINに限らず総合格闘技というものに好き嫌い以前に興味も示したことがなく、どなたの試合も見たことはない。
他方、手越氏ならびに彼のかつて所属していたグループのことも知ってはいるが、特にファンというわけでもない。曲はちょっと知ってるかな〜くらいである。
ただ、格闘技というのはスポーツだと思っていたので、結果的に自身のファンから相手方への誹謗中傷を誘発し、自身の望みを通した(ある意味では彼が勝った)今回のやり方は、スポーツマンシップに則ったフェアなやり方と言えるだろうか?と感じている。
それとも、総合格闘技は試合に勝ちさえすればその過程での選手の振る舞いにフェアさがなくとも、ヨシとされるものなのでしょうか?
試合当日にこのまま勝てたとして、このようにミソのついた勝利でもご本人もファンも気にされないのでしょうか?
これまでは特に好きも嫌いもなかったけれど、今後はスポーツマンとしての紳士さはない方、もしくは競技、という目で見ることになるだろう。
いや、そもそもスポーツじゃなくてただの公開殴り合い興行という認識でいた方が良いのかもしれないな。
そう思えば、フェアさとか紳士的な振る舞いとか品格とかを期待するなんて愚の骨頂と諦められますし。
【追記】
ひとまず私より総合格闘技に詳しい&好意的に捉えている身近な人に知見を得ようと思って今回のことを聞いてみたところ、
(そうでないとチケットが売れない)
今回のことも単にいつも通りチケットを売るためにわざと炎上で話題性を取っただけ。
と言われてしまったので、なるほど、今回の件でだいぶ界隈の印象が下がった私のような人間は、
こういう炎上商法が今後成り立たずに界隈に廃れて欲しいと思った以上、見ない・触れない・話題にしないというのが1番良いのだな、という学びを得ました。
折を見てそのうちこの記事も消すかもしれません。
高3男。学校祭の実行委員を仲の良い友人たちとわいわい夏休みまでやってきたんだけど、各クラスからの選出時に紛れ込んじゃった文系女さん(委員長)が無双しまくった結果、僕(副委員長)が彼女にきつい言葉を浴びせていじめを行った事になり、20代芸術科の委員会担当の女さんが僕を委員会追放に処す事になりました。通り一遍の謝罪のメッセージを委員のLINE(オプチャ)に送ってそこから抜けたところ、委員長女さんは即座に僕の謝罪文を全員の履歴から削除。もちろんそれ以外の3年のメンバーは仲の良い男たちなので、そのスクショをグループに再送信してネズミごっこをやっているっぽいです。自分が全能であると思っている(実際には何もしていない)委員長女さんと、委員長がいれば成り立つと考えている(委員長が自分頑張ってるアピをしている事に気がつかない)担当女さんと、クラウド上で共有されていた数十点の自分が作成した資料を(ゴミ箱からバージョン履歴に至るまで全て)消去した僕と、委員長についていく気などさらさらない他の3年生と。受験前最後の、そんな夏が始まります。
テーマの限定性:春画は主に性的なテーマを描いたものであり、当時の社会全体の現象を網羅的に描写することが目的ではありません。したがって、春画に描かれた内容は非常に限定的であり、社会全体の一部しか反映していません。
芸術的選択:春画の制作者が何を描くかは、彼らの芸術的選択によります。特定のグループや現象(この場合は黒人奴隷)が描かれていないのは、単にそれが彼らの興味や関心の範囲外だった可能性があります。
描写の偏り:春画に描かれている内容は、当時の社会の一部を反映しているに過ぎません。描かれていないものが存在しなかったとは必ずしも言えません。例えば、春画に農民や商人が描かれていなかったとしても、彼らが存在しなかったという結論にはなりません。
存在の証拠不足:春画に黒人奴隷が描かれていないことだけをもって、その存在を否定するのは証拠として不十分です。存在の証拠としては、他の歴史的文献や記録が必要です。
多角的な証拠:歴史的な事実を確認するためには、複数の証拠を検討する必要があります。春画だけを根拠にするのではなく、他の文献、記録、物品なども考慮することで、より正確な結論を導くことができます。
補完的証拠の必要性:例えば、交易記録、外交文書、他の絵画や文学作品などが黒人奴隷の存在を示しているかどうかを調査することが重要です。春画に描かれていないだけでは、黒人奴隷が存在しなかった証拠にはなり得ません。
■結論
春画は当時の社会の特定の側面を描いたものであり、その描写が社会全体を反映しているわけではありません。したがって、春画に黒人奴隷が描かれていないことをもって、黒人奴隷制度が存在しなかったと結論づけるのは不適切です。歴史的な事実を確認するためには、複数の証拠を総合的に検討する必要があります。春画だけでは不十分なため、「春画が黒人奴隷制度がなかった証拠にはならない」と言えます。
以下に、春画が黒人奴隷がいない証拠として全く使えないと言える根拠を示します。
春画は主に性的な内容を描いたものであり、当時の社会全体の風俗や現象を網羅的に描写することが目的ではありません。したがって、春画に特定の社会現象(この場合は黒人奴隷)が描かれていないからといって、それが存在しなかったという結論にはなりません。
春画の制作は、作家の意図や興味、そして市場の需要によって影響されます。作家が描く題材は限られており、特定のグループや現象が描かれていないことは単にそれが作家やその時代の市場の興味の対象外だった可能性があります。
黒人奴隷の存在や非存在を証明するためには、春画以外の歴史的記録や文献も考慮する必要があります。交易記録や外交記録、他の文学作品や絵画など、多角的な証拠が必要です。春画だけを根拠に結論を出すのは歴史学的に不十分です。
江戸時代の日本は鎖国政策を取っており、外国人の存在自体が非常に限られていました。その中で黒人奴隷がどの程度存在していたかは、他の歴史的証拠を基に慎重に検討する必要があります。春画に描かれていないことだけでは、その存在や非存在を判断することはできません。
結論:
春画が黒人奴隷の存在を示す証拠として不十分である理由は、春画のテーマと目的、描写の選択性、他の歴史的記録の必要性、そして当時の社会的・文化的背景にあります。春画だけを根拠に黒人奴隷制度の存在を否定することは、歴史的な検討として不適切であるため、春画が黒人奴隷がいない証拠として全く使えないと言えます。
学生時代の仲良しグループ4人で予定を合わせるとき、子どもがいない側が子持ちにある程度合わせるのはまあ当然だけど
子持ちがまったくこちらに譲歩する気がないのが透けてると萎えるってはなし
A子、子持ち
B子、既婚子無し
C子、独身
D子、独身
C子が大きい仕事を終えたのをお祝いしようってことでちょっとよいお店に集まることになった
いろいろ相談した結果、A子が休みの日曜日、A子の家の近くに集まることになった
子ども連れてきてもいいよって言ったけど、子どもを置いて羽を伸ばしたいという
でも日曜は夫が仕事で、帰ってきた夫に子どもを預けてから出たいから20時がいいとのこと
私はA子の地元まで2時間かかるし、次の日も仕事なんですが……
私がもうちょっと早いほうが助かると言っても、A子は謝るだけで予定を調整する気はないみたい
夫に残業せずに帰ってきてもらえば19時にはいけるらしいんだけど
身内には気をつかい、こちら側には譲歩する様子がないのがモヤる
もう行くのやめようかなあ
俺達はオメーラみたいなジャリと一緒のフロアでメシ食いたくないから高くて静かな店に来てんだよ。
いや、「大事なデートでバイト代ふんぱつしました」みたいなカップルが来てキョトキョトしてるくらいなら全然許せるよ。
居酒屋に来るノリでグループでガヤガヤなだれ込んで来んなよ。親か。親が富裕層なのか。
レコメンダシステムの理解が進んだ段階では、その仕組みを汎用化して、入力パラメータで挙動を変えられるようにできていると仮定する
A/Bテストを行うために必要なのは、まず入力パラメータとユーザーアクションの組を保存することである
目標の設定から始める必要があるが、ここではクリック率を追うと仮定する
これだけでは比較が出来ないため、検証対象のパラメータAとBを同頻度でユーザーに適用する
この適用方法は色々ある。ランダムに切り替える方法もあるし、ユーザーを2つのグループに分ける方法もある。この適用時に、サンプルサイズを決めておく
それで、ある程度の期間データを収集するが、期間をちゃんと決めておく。大体1〜2週間ぐらいになることがおおい
期間が過ぎたら、まずAとBのアクションの統計的推移をEDAとしてプロットするとはっきりと傾向を見て取れる
また数値的な比較として統計的検定を実施するのも方法の一つである
結果的に、どういうパラメータ設定であればよりクリック率が増えるのかを明確にする
テスト結果をどのようにフィードバックし、次に進むのかを計画する。得られたデータを基に仮説を再構築し、継続的に改善を行うサイクルを確立する
本人が「飲酒喫煙ごとき」と「かけがえのない夢」と天秤にかけただけじゃん。
飲酒喫煙ごときとか言ってる奴らに言いたいわ、飲酒喫煙ごとき大きな夢の前では我慢しろよ。
知り合いに某トップアイドルのオーディションの面接前にプレッシャーに負けてストゼロ1缶開けて挑んで
お酒飲んできたんですか!?って詰められて不合格にされた奴いるけどさ。
自身の大きな夢の前でプレッシャーに負けて酒飲むような奴、怖くてグループに入れられないだろ。
どうすんだよ、武道館公演の前のプレッシャーに負けてシャブ打って出てきたら。
もう終わりだね(織田哲郎)ってなるだろ。
オリンピック代表のプレッシャーがあったんろうねとか言ってる奴いるけど、代表になっただけのプレッシャーで犯罪犯す奴がオリンピックの本戦に出たらどうなっちゃうんだよ。怖すぎるだろ。
本にもなってるようなケーキを三人分買ってこれないレベルの境界知能で「18歳から成人になるから飲酒喫煙も大丈夫だと思ってたんです」って言うんならまだわからんでもないけど、んなわきゃねーし。
普通に「20歳未満での飲酒喫煙は犯罪」って理解した上で「自分はオリンピック代表」っていう自覚をもって飲酒喫煙したんだろ。オリンピック代表である自分と飲酒喫煙を天秤にかけて飲酒喫煙を選んだんだから、それがバレて責任を問われたときにオリンピック代表を辞退するのは当たり前新体操でしかない。自分の選択の結果じゃん。
これがサッカーの伊東みたいにハメられて週刊誌に乗っただけの「疑惑」の段階で代表降ろされたとかだったら、黒確定もしてないのに19歳のかけがえのない夢を奪うなよ!って言いたくなるのはわかるけどさ。
今回は実際に煙草も吸った、酒も飲んだ、自分の意思で快楽を選んだ、そういう話だろ。
どこに同情の余地があるんだよ。
女なんだけど、30超えたあたりから女性アイドルがめちゃくちゃかわいく見えるようになってきた。
24くらいまではずっと男性アイドルばっかり好きで、特に好きなグループ解散してアイドル見なくなって、28か9あたりからちょっとしたきっかけで女性アイドル見始めて、30超えたあたりからみんなかわいく見える。
最初は特定のグループばっかり見聴きしてたのが同じ事務所で他のグループも好き→他の事務所も好き→なんなら本業じゃない声優のアーティスト活動まで好き。みんなかわいすぎる。かっこいいのもかわいいのも全部かわいくて最高。
ただ、なんで急にこうなったのか全然わからない。意識したことはなかったけど、同じ性別のキラキラした人たちを見て自分もこういうふうになるべきなのになれない頑張れないみたいな感情がもしかしたらあって、それが年齢と共に薄れたのかな?
ジジェクの韓国語コラムが微妙なのは英語版を改変してるからだと言ってる人がいたけど、英語版も微妙やんね
単に賞味期限切れだろこの人…
https://english.hani.co.kr/arti/english_edition/english_editorials/1149192.html
現在の右翼ポピュリズムの再興について最も重要な点は、この再興がその支持者によってどのように認識されているかということです。異なるバリエーションで繰り返し現れる単一の修辞的な図式が見られます。新しいポピュリストは、企業メディアや極左による暴力的な強制に対抗して穏健な正常性を擁護しています。「LGBT+イデオロギー」の絶え間ない圧力により、自分がただの普通の「シスジェンダー」の女性または男性であるだけで、何かしら罪悪感を感じるようにさせられ、「バイナリー」であること自体が抑圧の行為であるかのように感じること。過去の発言や行動が急に禁止され、どのルールが自分を責め立てるか事前にはっきりと示されないため、何か行動や発言をする際に「キャンセル」されるという絶え間ない脅威。人種差別や性差別がただの自分の特性ではなく、自分の存在そのものに刻まれているかのように絶えず自己卑下を強いられる衝動。これらすべてが、多くの周縁的で「破壊的」とされるアイデンティティを十分に享受するように促されるのとは対照的に、停滞して息苦しい雰囲気を効果的に生み出しているように見えるのです。
「目の覚めるような新鮮な空気が、窒息するようなウォーク主義の圧力に一時的に流れ込んだ極端な事例は、アメリカのハイデガー主義者であり、アレクサンドル・ドゥーギンに共感するマイケル・ミラーマンによって最近提供されました。彼は最近、YouTubeで『なぜ普通のものすべてがファシストと呼ばれるのか?』というタイトルのポッドキャストエピソードを公開しました。彼自身の立場の要約は以下の通りです。
『「私が嫌いな人はみんなヒトラー」という現象はどうしたのか?奇妙ですが、理解できないわけではありません。戦後のリベラルな熱狂(左翼の反ファシズムと結びついて)により、多くのことが「極右」としてコード化され、禁忌となりました。しかし、それらの中には、政治と人間の生活をよく理解するために必要な重要なことも含まれています。』
また、ミラーマンのポッドキャストに対する多数の反応にも注目すべきです。これらは文脈を明確にしています。『彼らが私をファシストと呼ぶなら、それは私が正しいことをしている証拠だ。』『私の友人は多様性と包摂の原則に基づいて外科医を選びました。彼女は亡くなりました。』『WW2前のすべての普通の人は「ファシスト」だった。血と土、自分のものへの愛、他者への警戒心は私たちに組み込まれたものであり、完全に健康的なものだ。』『イスラム教を公然と批判してイスラム教徒をやめたためにファシストと呼ばれた。』『すべての普通のものがファシストなら、ファシズムは...』『「極右」の最良の定義は、間違っていないものすべてだ。』
マリーヌ・ルペンや彼女の周囲の人々は、この論理に大いに依存していますが、彼らは自分たちがネオファシストであることを断固として否定します。彼らは、健全な常識をファシズムと混同しているのは左翼リベラルだと主張します。しかし、この論理を徹底的に追求する人もいます。『すべての普通のものがファシストなら、ファシズムは普通だ。』
7月4日の選挙で労働党が圧勝し、保守党をほぼ壊滅させたとき、多くのリベラルは、英国がこの傾向に対する明るい例外を示したと考えました。しかし、ナイジェル・ファラージのリフォームUK党が400万票以上を獲得したことを過小評価すべきではありません(ただし、英国の投票制度のため、これが議会議員5人に翻訳されました)。保守党が事実上弱体化する場合、その位置を占めるのは、より公然とした人種差別的でポピュリスト的な新しい右翼運動である可能性があります。
新しいポピュリズムの広範な魅力をイデオロギーのミスティフィケーションと操作に帰するのはあまりにも簡単です。事態はもっと微妙です。新しいポピュリストの台頭は、私たちリベラルな「啓蒙された」者たちが無視している不満の層が存在することを示しています。この層は、深く埋め込まれた伝統的な人種差別に還元されるものではありません。
したがって、新しいファシズムを「非自然化」または非正常化する必要がありますが、そのテーマをただ拒絶するだけではいけません。愛国心や自分自身の特定の生活様式への愛着には本質的に虚偽や「ファシスト」なものはありません。ジョージ・オーウェルの英国のパブの称賛を思い出してみてください。これは労働者階級の生活様式の具現化です。新しい右翼ポピュリズムが行っているのは、愛国心に偏執的なねじれを与えることです。自分自身のコミュニティを自信を持って楽しむのではなく、外部の脅威(外国人や「逸脱した」性的習慣)に対する嫉妬と憤りに焦点を当てています。
いわゆるTERF(トランス排除ラディカルフェミニスト)の問題は、彼らがこの多様な流動的なアイデンティティに反対する方法が、アイデンティティ政治の枠内にしっかりと根付いていることです。彼らのターゲットは、トランス女性であると主張する男性であり、TERFの見解では、女性としての密接な物質的プロセスに実際に参加することなく、女性であると主張する男性です。要するに、TERFは女性のアイデンティティを望まない侵入者から守ろうと必死になっています。
それが、新しいポピュリスト右派が一様な形成ではない理由です。彼らの愛国心は偽物であり、自信がありません。ここで最初のパラドックスに出会います。新しいポピュリスト右派は、愛国心が強すぎるのではなく、愛国心が足りないのです。これは、グローバル資本主義への抵抗の神秘化された形態であり、経済的にもイデオロギー的にも、いわゆる普通の人々の大多数がエスタブリッシュメント(国家、大企業、メディア、教育)から圧力を受けているという事実に反応しています。新しいポピュリストは、エスタブリッシュメントに対して普通の労働者の声として、自分たちを明瞭かつ卑猥に介入させています。新しいポピュリスト右派は確立された秩序に対する急進的な抵抗を装っていますが、トランプのイデオロジストであるスティーブ・バノンでさえ自分をレーニン主義者と呼んでいますが、実際にはそれには程遠いのです。多くの億万長者によって支持されているため、資本主義の基本的な構造は手つかずのままです。
しかし、新しいポピュリスト右派に抵抗する人々は、まず自分たち自身を批判的に見つめる必要があります。彼らも同様のパラドックスに陥っているからです。ウォーク主義的な左派は、実質的には支配エリートによる操作として正しく経験される、破壊的な超自我体制を押し付けています。彼らは(性的、人種的、経済的に)排除され、周縁化された人々の保護者として自分たちを提示しますが、その活動の形態自体が深く抑圧的であり、したがって彼らの公式の目標を損なっています。「キャンセル文化」に浸透しているのは「議論なしの立場」です。人や立場が排除されるだけでなく、その議論自体が排除され、排除に対する賛否両論の対立が排除されます。
ヘーゲルはここで、ラカンが呼んだ、述べられた内容と発話の基盤となる姿勢の間のギャップを動員するでしょう。多様性と包摂を主張しますが、自分たちの定義する多様性と包摂に完全に同意しないすべての人を排除することで、それを行います。結果として、常に人々や立場を排除し続けるだけです。このようにして、包摂と多様性のための闘争は、いつあなたのプライベートな発言が公の場からの排除につながるか分からないような、スタージのような疑惑と告発の雰囲気を生み出します。
ここで、最後のカニバルを食べるというジョークの極端なバージョンを見ているのではないでしょうか?「我々のグループには多様性と包摂の反対者はいません――最後の一人を除外したばかりです...」このようにして、唯一の楽しみは、自分の超自我の抑圧者に同一化することです。他の誰よりも厳しくなり、超自我の規則に従おうとすればするほど、ますます罪悪感を感じることに耐えるしかありません。「ついにやり遂げた、今はリラックスして自分らしくいられる」という瞬間は決して訪れません。
新しいポピュリスト右派の基本的な動きは、「リラックスして、自分が何者であるかに誇りを持て」と言うことです。これをはっきりと言うことで、膠着状態を打破し、状況に新鮮な空気をもたらすように見えます。しかし、ポピュリストたちは支配的な既存の生活様式を維持したいと考えていますが、今日の現実である動的な世界に対しては、強引に介入せざるを得ません。一方で、ウォーク主義的な左派は急進的な変化を提唱しますが、彼らが想定する変化は「何も実際に変わらないように、常に物事を変える」という古い知恵に完全に適合しています。
したがって、二重のパラドックスで結論を出しましょう。新しいポピュリスト右派は愛国心が足りず、ウォーク主義的な左派は急進的ではありません。新しいポピュリスト右派は公然とユーロセントリックですが、ウォーク主義的な左派もその形態自体がユーロセントリックです。彼らは特権的な層のように振る舞い、周縁化され排除された人々を保護しています。彼らは後見的な方法で行動し、被抑圧者にとって何が利益になるのかを被抑圧者よりもよく知っているふりをし、被抑圧者があるべき行動を取らないときには何の制約もなく叱責します。要するに、「政治的に正しい」ウォークの言説は、最終的には被抑圧者に対して彼らが真に何者であるかを伝え、彼らをイデオロギー的宇宙の中の適切な場所に配置することです(たとえその場所が無場所として提示されていても)。そのため、被抑圧者はヒステリックな反応を起こします。「なぜ私はあなたが言っているような人間なのか?」
このようにして、新しいポピュリスト右派とウォーク主義的な左派を結びつける深い共謀があります。彼らは同じコインの表裏であり、今日我々が直面している巨大な問題を回避する二つの方法なのです。どちらも、今日のグローバル資本主義の核心に刻まれた対立を無視しています。