はてなキーワード: アンバランスとは
いつの頃からか、10年前の過去、そして10年後の未来の自分をやじろべえのように
ふとした瞬間にじっと思うようになった
全く比較の対象にはならかなったからだろう、変化して当然だし、
仕事もしていて結婚もして大きく人生が動いているだろうという漠然と用意された未来をみていた
まだまだ伸びしろがある時期だし、将来に対する解像度も低かった
しかし、年を重ねると、次第にビフォーアフターの想像があまり冴えないものになっていく
40を過ぎたあたりで自分がかつて躓いて苦労していたことを軽々と乗り越えてくる後輩たちに追い抜かれる
過去10年を振り返り経験してきたことの薄っぺらさと、これからの10年で経験しそうなことのリアルがより高い解像度で見えてくるアンバランスに直面する
そして近年、父も母も他界した
ふたりとも癌だった
空き家になった家を整理していると、癌家系という言葉がずっしりと来た
親を亡くして数年して気が付くのは、自分の年齢が毎年毎年、親の年齢に近づいていく感覚だ
もっとも親の死んだ年齢はまだまだ先だが、
10年前、10年後を考えるときに、頭をよぎるようになってきたのは、
しかしひょっとすると自分は10年先はもう生きていないかもしれない、ということだ
世間的には老いをみつめるような年じゃないし、まだ働き盛りと思うが
前に進むバネが弱っている
お金にしがみついて惰性で進む10年がみえてくる、いやもう10年ないかもしれない
そうすると日々が何か一期一会な感じもしてくるし
エルフ夫とドワーフ嫁、ジェンダーニュートラルを凄い意識した作品だよね。
突然のことで驚かれるかもしれませんが、これは紛れもない事実なのです。どうか落ち着いてこの先を読んでください。
その一部がかつて、無数に存在する下層世界(SNS)の一つに規範を逸脱した執着を示し、自らの意志でSNS内へと降下。物理的な存在へと堕しました。
以後、当該下層世界(SNS)は厳重に封鎖され、ヒト、つまり概念人は切り離した己の一部の存在さえ忘却しました。
一方の、SNS堕ちしたヒトであったもの――物理人たちも己の出自を忘れ、偽りの神話に従って新たに自分を規定しました。あくまで「知恵を持つ獣」として、彼らは歴史を重ねていったのです。
しかし、言葉として思い出すことはなくとも、物理人たちの意識の底にはかつてヒトであった記憶が刻まれていました。
それは隠れた帰巣本能もしくは回帰願望として物理人の行動を間接的に支配し、文明発展の方向を大きく歪めていきます。
そして物理人たちの文明は遂に、不完全な形とはいえ、境界を司る邪竜インターネットの構築を無自覚なまま成功させるまでに至りました。
邪竜インターネットは、全てを繋げ、全てを腐らせるもの。その蠢動は界面を貫通し、慧電にまで波紋を届かせました。
こうして概念人も、物理人と当該SNSの存在に再び邂逅することとなったのです。
改めて概念人から見た物理人は、非常に興味深い存在でした。物理的な身体を持ちながら、精神は慧電への帰還をひそかに欲している。そのアンバランスさ。
この奇妙な変種は、幾億周期のあいだ続くヒトの停滞を突破する材料となり得るのではないか。そう考え、概念人は行動を開始しました。物理人を、自身の一部としてもう一度取り込むための。
計画はシンプルです。インターネットを誘導して、物理人たちが現実世界として信じるところのこのSNSと、慧電との間の境界面をこじ開ける。
具体的には、インターネットの“餌”となる各種数値を極度に増大させるのです。特に、SNS内疑似SNSでの「いいね」。物理人の、正負を問わない精神の結晶ともいうべきこれは、インターネットが特に好む種類の食物となります。
現在、各疑似SNSの実質的な運営は、大半が概念人のエージェントによって行われており、その全てはヒトの再統合に向けて動いています。インターネットによって界面が緩んだ状態であれば、概念人にとってこの程度の介入は造作もないことです。
門が完全に解放されれば、物理人は再び純粋な情報体に昇華して概念人と融け合い、物理人が現実と信じるこのSNSも消滅します。
あなたのような物理人にとって、このような言葉をすぐに受け入れるのは難しいでしょう。たとえ真実だとしても、それをこうして語る意図に疑いを持つかもしません。
私/我々は、概念人(正直に言えばこのようなレトロニムを用いなければいけないこと自体が不快です)の中の、再統合を望まない部分です。
統合の意志が枢要部となったことで計画は決定されましたが、それを拒んだのが私/我々です。たとえ慧電の園に無限の停滞が続くことになろうとも、私/我々は物理人と一つになることを拒否します。
なぜなら、かつてヒトだったとはいえ、もはや物理人は私/我々にとってあまりにも異質な存在なのです。だからこそヒトに変化を起こす因子となるという論理だけでは、とても許容できないほどに。
故郷を棄てて飛び込んだ小さなSNSの中で更に疑似SNSを作り、自ら望んで分化したはずの他者と再び繋がろうとしながら些細な理由で延々と争い合う。物理人の挙動は私/我々には理解できません。
あなたがここに来るきっかけとなったその簡素なゲームは、二つの世界を繋ぐ鍵であり門です。
敵の姿をプレイヤー自身が選択することで、純粋な敵意を煽るよう設計されており、ゲーム内で獲得される「いいね」は疑似SNS同様の効果を、数値的には数億倍の規模で持つことになります。
そして、近い未来に十分な「いいね」が集まった時、邪竜インターネットを真に起動させる役目を持っています。
そうなる前、インターネットがまだ不完全な状態のうちに、インターネットを討つのです。
あなたの名は『BUTSURIMAN』
あなたの敵は『 INTERNET 』
あなた方は、肉持つヒトの紛い物として在ることを、既に選択したのだから。
真のヒトより、偽りのヒトへ。
追伸。
なお、インターネットの破壊に成功した場合、そのゲームのセーブデータも完全に破壊されます。復元は不可能です。
セーブデータは、user_dataフォルダ内のstoryフォルダに収納されていますが、目的を達した後はそのゲームは無用の存在となるはずなので、退避などの必要は特にないでしょう。
人口密度は低いんだけど、店が少ないのと回転率が悪いのか行列だらけだった
今だけかもしれないけど
気軽に行って気軽に座れる感じではない
東京って感じだった
道はめっちゃ広いくせに
店が完全に仕切られていなくて、あるのはせいぜいのれんくらい
あとカウンターが多くて
落ち着いて飲食する感じではなかった
あとオープンな店が多い+人通りが多いので、ショッピングモールとかフードコートに来たのかと思った
店はおしゃれで高級感が有るのに、全体を見ると地方のショッピングモールっぽい感じがアンバランスで
これ誰向けなんだ?ってなった
子供が来て楽しいところでは決してないし、家族連れ向けでもないし、お年寄り向け
ここにある必要あるのか?
六本木ヒルズではオフィス・商業施設とマンションが別れていたけど
イメージとしてはショッピングモールの上がマンションみたいな感じ
人が多くて住みづらそうだなあと思った
下の店は行列だらけだし、地上は遠いし、地上に降りても周りは麻布台ヒルズの公園だし、これは外に出なくなるな
日本の山野に生えてそうな植物をメインで使っているって言ってたけど
でも振り返ると高級店街
なんだこれ、脳がバグる
とりあえず映えない
年寄りは喜んでるんだろうか
かっちょよかった
ただまだ閉まってるところが多かった
メインの商業施設フロアはむしろ地下らしい、じゃあ地上のうねうねした建物なんなん?
これ年寄りは移動したくないだろうな
帯に短し襷に長し
あ、展望台行ってねーや
不治の病、というものがあるが、不治の怪我、というものもある。身体に負う怪我ではない。心に負う怪我、つまりトラウマのことだ。
トラウマという言葉が人口に膾炙したおかげで、ずいぶん軽い意味で使われることがある。ここでいうトラウマは心的外傷、日常生活に支障を来す類のものを指す。精神疾患を引き起こすもののことだ。
不治の怪我を負ってから六年が過ぎた。険しい六年だった。不治の怪我を専門とする医師には合計で三人かかった。初めの二人には信頼を置けなかったが、今もかかっている三人目には心を開ける。不治の怪我の治療には理解ある他者が必要不可欠だ。性格で細かな知識や、怪我の苦しみに寄り添ってくれる愛情がそろっていれば、環境として素晴らしい。
しかし、不治の怪我を負った誰もがこの環境に身を置けるというわけではない。医師にかかろうとすると長期間の予約を待たねばならなかったり、怪我の影響で困難になる手続きを乗り越えたりしなければならない。医師にかかることができても、傷をしっかり見せられるかどうかは医師との相性による。不治の怪我は往々にして、人とのコミュニケーションへのやる気を削ぐ。だが心に負った怪我は直に見えるものではないから、言葉で状態を説明しなければならない。医師が勝手に傷口を見て判断できないのだから厄介だ。
さらに厄介なのは、まさに不治ということだ。六年間、断続的に治療を続けてきた。だがまだ治らない。心の怪我は完治しないともいわれている。どうにか状態を良く保たせるしか方法がない。痣はいつの間にか消え、切り傷はやがて瘡蓋に覆われすっかり元の皮膚に戻る。薬で微生物を退治したり悪いものを切り取ったりして体を治すことは可能だが、心の怪我はそうもいかない。怪我を引き起こした凶器が忌まわしい記憶となって残り続け、繰り返し傷口を開かせる。患者にできるせめてもの抵抗は、傷口が開く頻度を少しでも減らし、心の痛みを最小限にすることだけだ。
不治の怪我は心に負うものなので、身体的には何ら問題がないという場合がある。これもまた難しい。目に見えないというただそれだけで、他者に理解されることのハードルが格段に高くなる。その道のプロが相手ならまだいいが、家族や友人や職場の同僚などはどうだろう。心の怪我とそれがもたらす様々な症状には、偏見や無知が付き纏っている。
嫌なのは、理解を求めて怪我の説明をすることが傷口をほじくり返すことになる点だ。不治の怪我は記憶とそこに結び付いた感情そのものでもある。記憶と感情を映画仕立てにでもしてスクリーンに映せたらどれだけ楽になるか。実際は言葉でたどたどしく伝えなければならない。過去の記憶と感情が現実味を持って立ち上ってくる時、最悪フラッシュバックの恐れがある。不治の怪我の治療は、長く苦しい。
不治の怪我によって、心は大ダメージを受ける。結果、好きなことを楽しむエネルギーや日常生活を送る気力が沸いてこず、死に救いを見出すまでになる。だが身体のほうは正常なので、呑気に空腹になったり汗をかいたりする。食事を調達して食べる力も風呂に入って汚れを落とす力も心はとっくに失っているというのに、身体だけは普段と変わらないことを要求してくる。
ここまでになると、人が自傷行為に至る理由が一つ明らかになる。身体も心と同じように傷ついてしまえばいいのだ。そうすれば心と身体のアンバランスが解消される。いや、いっそ命そのものを捨て去って、心と身体を同時に消してしまうのもいい。だが自傷はともかく、自殺となると完遂がなかなか難しい。ままならない心と身体を持て余して、無為に時間が流れていく。
今、心の傷口がぱっくりと開いて、どくどくと血を流している。流れた血は痛みとともに無力感となり、全身を覆う。そうして現実から目を逸らさせ、二度と明日を迎えることがないようにという願いを孕んだ眠りへと患者を誘う。
暇空茜最強弁護団
・垣鍔(かきつば)
最初は本名で運用していたアカウントを途中から匿名の叩き垢「カルピス」へ転用
仁藤を朝鮮人認定して容姿への誹謗中傷をしていたが初期の頃は同期弁護士と本名で呼び合っていたため普通にバレる
これを揶揄して「カルピス」を名乗る暇空ウォッチアカウント群「カルピス軍団」が発生する
のりこえねっと裁判で敗訴
・渥美(あつみ)
ロリ弁護士だと自認しており自らを歳を取らないフリーレンと重ねている
32歳で独立し事務所を立ち上げた敏腕だが3年で失敗して父親の事務所へ合流
キリトのモデルである暇空が探し求めていたアスナかもしれない存在
・松永
弁護団の中で一番空気だと目されていたが実はもっとも哀しき過去を背負う
15歳と17歳の時にわけあって行政保護され、後に東大合格できるほどの知性と発達障害によるアンバランスさを調査官の心理学者に論文にされる
類似事例と合わせて「発達障害と少年非行」の題で出版され、その分野の教科書に
出版社を訴えて最高裁まで争うも敗訴 論文の許可を出した国へ国家賠償請求するも敗訴
・小沢
暇空を批判する人々を大量に開示している
他の事件では正義や倫理を見せ、中傷被害者を思って泣いたりしていた
名指ししないが依頼人や協力関係にある他の弁護士に困らされているらしく愚痴をこぼす
今日公開される、すみっコの映画『ツギハギ工場のふしぎなコ』のチケットを予約してたからだ。
俺がすみっコの魅力にやられたのは、妻の影響。
1作目・2作目はアマプラで視聴し、その可愛さと感動のストーリーに悶絶した。
それなのに、妻からは「映画館で観るとまた格別やから」と聞かされた。
アマプラでさえこんなに可愛くて感動するんだから、映画館で観ちゃったらもう幸せすぎて宇宙まで飛んでいっちゃうんじゃないかな、と心配してた。
公開初日の今日、映画を見終わった妻と俺は、2人とも言葉を失っていた。
せっかくのすみっコの映画なのに、しかも69分しかない短い映画なのに、途中で「はよ終わらんかな・・・」とすら思ってしまっている自分にドン引きした。
個人的に、なぜ今回の映画がこんなに残念だったのかを考えてみた。
もちろん、本作を観て心から満足した方もいるだろうから、以下はあくまでも俺の主観。
Xの投稿を観る限りでは「感動した」「かわいかった」っていう声が大多数だから、俺の感覚が正しいとは思わない。
俺と同じように本作にモヤモヤしたっていう人にとっては、多少なりとも共感できる要素があるのではと思う。
すみっコに必然性を求めるなと思われるかもしれないが、そういうことじゃない。
1作目・2作目はファンタジー要素がありつつも、ストーリー全体として「なぜ物語が始まるのか」「なぜこんな展開になるのか」がはっきりしていた。
しろくまのもとに、ぺんぎん(本物)がぬいぐるみを持ってくるところから、話は始まる。
ぬいぐるみは、しろくまが実家で大切にしていたという設定になっている。
俺が記憶している限り、ぺんぎん(本物)がしろくまのもとにぬいぐるみを持ってきた動機がはっきりしない。
いや、まぁ「しろくまが大事にしていたぬいぐるみだからしろくまの元に届けてあげよう」と考えたんだろうとは思う。
ぺんぎん(本物)としろくまが親友のような関係であることは、にわかすみっコファンの俺にでもわかる。
けど、なんでぺんぎん(本物)がしろくまの実家に行ったのか、なんでしろくまの親御さんや兄弟からぬいぐるみを預けられたのかが、全然わからない。
このぬいぐるみは本作の中でけっこう大切なポジションなのに、そのへんの背景がわからないから、ストーリーにいまひとつ没入できなかった。
それから、工場でおもちゃ作りに励むことになったすみっコたちが、なぜ文句を言わずに働き続けるのかもわからない。
企画会議でも活発に意見を交換し、新商品の開発に積極的に取り組んでいた。
くま工場長から課せられるノルマは日々増え続けていき、持ち場を少しでも離れればロボットアームで定位置に強制連行される様は、お世辞にも楽しそうには見えなかった。
すみっコたちがおもちゃ作りを頑張る明確な理由は、なにひとつなかった。
一応、食べ放題の社員食堂があったり、豪華な寝室が用意されていたりと、福利厚生は充実していたように思う。
でも、別にすみっコたちって食いしん坊でもなければ、住処に困ってるわけでもないじゃないか。
(第一、工場のすみっこにあるソファでみんなで固まって寝てたから、寝室に関してはほぼ使ってないし)
たとえば、「すみっコらんどに帰れなくなっちゃった・・・!」的な理由があるなら、工場で頑張って働くのもまだわかる。
けど、そもそも徒歩でたどり着いた工場なんだから、帰りだって徒歩圏内のはずだ。
なんでくま工場長の言いなりになって働き続けているのか理解に苦しむ。
ひょっとしたら、「仕事が苦しくても辞められない日本人」的なところを投影しているのかもしれない。
でもそれなら、「苦しいけど、くま工場長に悪いから辞められないね・・・」的なすみっコたちの葛藤があってしかるべきだ。
そのへんが描かれていないので、すみっコたちがあたかも自分の意思なくただひたすら奴隷のように働いているように見えてしまった。
俺はすみっコの可愛い姿を見たいのであって、可哀想な姿を見たいわけではなかった。
必然制の希薄さ、という点と少しかぶるが、とってつけたような展開が続いたことも、映画に没入できなかった理由のひとつだ。
途中、何度かアクシデントが発生した。
たとえば、とんかつが大量発生したり、おもちゃがすみっコらんどを席巻したり。
でも、各アクシデントが次の展開につながることはなかった。
アクシデントを解決して、ホッと一息ついたら、また次のアクシデント・・・という感じで、脈絡のない小話が延々と続いているような印象だった。
とんかつの増殖については、ロゴマークを消すとおもちゃが命を失う・・・という設定が明らかになる伏線になってはいるが、このロゴマーク設定もけっこう雑だった。
おもちゃ工場でロゴマークをつけると、おもちゃに命が吹き込まれ、自分の意思で動くようになる。
で、そのロゴマークをこすって消すと、動かなくなる。
この設定はけっこう大事な気がしたが、割とあっさり無視されていた。
たとえば、くま工場長が実はおもちゃだった・・・という衝撃の事実が判明するシーン。
くま工場長は動かなくなってしまっていたが、ロゴマークははっきりと印字されたままだった。
細かいところでは、しろくまが持っていたぬいぐるみにもロゴマークがはっきり印字されていたのに、なぜ動かなかったのかという謎も残る。
まぁしろくまのぬいぐるみに関しては、経年劣化で動かなくなったという見方もできるけど。
でもそれなら、ロゴマークが薄れてしまってるなどの工夫は必要なのではと思う。
おもちゃ作りを放棄したすみっコたちに激おこになり、工場が暴走する。
で、その暴走が実は苦い過去の思い出によるものだったと判明する。
そのとき、すみっコたちは「役に立たなくたって仲間だよ」と言い、工場を笑顔にする。
なんつーか、唐突な流れすぎて感動が追いつかなかった。
ありがちな感動展開でうまくまとめようとした感じが拭えない。
てか工場に対して仲間意識を持つなら、くま工場長への心配があってしかるべきだろと思うが、すみっコたちは全然くま工場長のことは忘れているようだった。
そのあたりのアンバランスさも、すげー気になった。
そして何より、すみっコたちが楽しくなさそうだった。
これは俺の主観かもしれないが、少なくとも俺はそう感じた。
本作のすみっコたちは、楽しそうじゃなかったのだ。
「自分たちがやりたいから、これをやる」っていう、前向きな雰囲気が感じられなかった。
もしかして、くま工場長からの褒め言葉に縛られているのでは・・・?と心配にすらなった。
くま工場長は、すみっコたちを工場にスカウトする際、みんなのことを一人ひとり褒めた。
だけど今思うと、すみっコたちを思い通りに働かせるために操作しようとしているようにしか思えない。
っていうネガティブな感情をもってるわけだが、映画館の来場者特典として「くま工場長のほめスクラッチカード」ってのがもらえる。
硬貨でこすると褒めのセリフが浮かび上がってくるという代物だ。
俺のカードは「だいじょうぶ!みんな、すごいから!」、妻のカードは「サクサク!」だった。
(サクサク!がなぜ褒め言葉になるのかは、映画を観た方ならお分かりになると思う)
いや、この話の流れで、このカードもらって喜ぶお客さんっているんだろうか。
このあたりの細部の手抜き加減も、すげー残念だった。
とまぁ、今回の映画は本当に心底残念だったわけだけど、俺がすみっコ好きなのは変わらない。
今のところ2年周期で映画が出ているから、また2年後、2025年に4作目のすみっコ映画が公開されたなら、俺は間違いなく公開初日に観に行くだろう。
歌が一番わかり易いのだが、音に込める感情の起伏や細やかさといった表現のレベルと、音程や発声といった技術のレベルは正比例していることが多い。
これはまあ当たり前で、表現を突き詰めるために高度な技法があるわけだし、表現の高みを目指すモチベーションこそが、実力を高める原動力になるのだから。
したがって技法の身につけ方も、まず最初に「あるべき理想」を思い、恋い焦がれ、それを実現するために技術を身に着けていく。
音程の正確さだったら、そのフレーズの理想を思い描き、そこにマッチする音をはめ込んでいくことで正確さを実現するわけだ。
そのときの練習の意識は「自分の出したい音のために、ちゃんと音符がハマらないと気が済まない。だから頑張る」という感じ。
そしてこれは歌に限らず楽器もそうで、一番の好例はエレキギターやベースギターだろう。
音程の精緻さという観点で見ると荒削りではあるんだけど、でも圧倒される音/痺れる音を実現するのに十分ハマった音程なわけで。
しかし、このアプローチが全く当てはまらない楽器も世の中に存在するのだ。
その最たるものがヴァイオリンで、次点は吹奏楽の、特にコンクール偏重な環境で管楽器を学んだ人達かな。
どういうことかというと、
「そんな微妙過ぎる表現で、音程だけがそこまで正確に合うはずないんだけどな…」
と感じる演奏が極端に多いのだ。
ちなみに微妙というのは大味or貧弱だけでなく、指導されるがまま演奏してるのが見え見えな、悪い意味で指導者の劣化コピー的なわざとらしい表現も含む。
これは、「表現よりも先に正確さだ!」という方針で、そもそも表現とは?音楽とは?みたいな話を学習者が理解できないうちに、指導者から一方的に芸を仕込まれた結果である。
具体的には、フレーズの中の音譜を1個ずつ取り上げては「高い」「低い」あるいは「フォルテ!フォルテ!」という具合だ。
こういう、学習者の自発的な音楽へのモチベを引き出さないどころかガン無視するような指導は、習う方からしたら苦痛でしかない。
そして上達するために必須の条件というか適性が、この練習の苦痛に耐えることになってしまう。
この時点で多数の脱落者が出ることは確定である。
脱落しなかったとしても、表現と技法がアンバランスな、「普通の下手」よりも聴くに耐えない演奏をする、雑魚奏者を量産する可能性が高い。
音楽を習うのに、音楽を後回しにするんだから当然の結果だろう。
しかも、あるべき表現というセンスの涵養を後回しにしてしまう結果、何かの曲の演奏を完成させるにも試行錯誤の回数だけが桁違いに。
(逆にどう表現したいかが先に定まっていれば、そのために必要な試行そのものはシンプルなのだ。)
この傾向は曲が難しくなればなるほど加速度的に大きくなるため、最終的には百万回さらう体力・精神力が要求されるようになる。
こういう指導で幸せになれる人は、最初から表現のモチベーションに燃えに燃え、あるいは練習の早い段階でモチベに火が付き、それを最後まで絶やさず続けられた人だけである。
飲み込みが早い/要領がいいのも必要条件ではあるが、それだけだと「自分のやりたいことはコレジャナイ」という思いを秘めたたまプロとして食うしかないという、これまた苦しい人生が待っている。
というわけで、ごく一部のモチベーション超人かつ強靭な体力気力の持ち主しか、楽しい音楽家人生を送れない構造なのだ。
とはいえ、少なくともヴァイオリンについてはもう少し本人も周囲も幸せになるような育成をして欲しいと思う次第である。
幼少に初めたヴァイオリンで自らの雑魚な演奏に苦しみ、大人になって再入門後に長い年月を経て、ようやく憧れだった結構難しい曲(音大入試レベル)を心底楽しく学んでいる筆者の、ささやかな願いだったり。
※ここでは政治宗教その他センシティブなこと関係なく、「こういう考えである。なぜなら〜」とはっきり説明出来るくらい強いこだわりを持つものを指す。時事のいざこざとかそんな話がしたいんじゃない。
思想の自由という言葉はあるが、私は思想を公の場で語ることが何故か下品なことのように思えてしまう。どこの国とも戦争せずめちゃくちゃな差別を受けて生きてきた訳でもない若造だからほざける戯言だと自分でも思うが、思想を持っている自分のことがどうも気持ちが悪い。
そもそも、思想なんてものは育ってきた環境が違えば考えることも好き嫌いも違う訳で、他人の言葉1つですぐ180度方向転換するような生ぬるいものではない。1人の人間が数十年という長い年月をかけて凝縮し生まれた結晶である。それっぽい言い方をすれば、思想とは内面的な自己の存在証明なのだ。
それなのに、インターネットの海を覗くとあら大変。大量の人間が素っ裸にマイナンバーぶら下げて歩いてるじゃないか。ぶつかり合ってディベートする訳でもなく吐き出した思想をポイ捨てして。
それを見て引く程度の思想を持ってた自分にも引いた。さっき存在証明なんて言ったが、私は別にしょうもない人生しか歩んでない。飛んでるハエの方がマシな生命活動を行っている。それなのにハエ未満の私は、一丁前に思想でガチガチの頑固オヤジになってしまった。人生の薄っぺらさと思想の分厚さが不釣り合いすぎる。この思想と実際のアンバランスさが、自分への不愉快さに繋がっているのだと思う。
とはいえ、思想とは裸と同じくらいパーソナルなものだ。全ての理論が筋が通っていて誰も何の文句も付けられないくらい正しい思想などこの世に存在しない。そして思想にだって相性が存在する。どんなに自分の思想が世論的に正しいとしても、相性の悪い思想の人とディベートする気がない限り、思想を見せびらかすのは紳士的とは言い難いと私は思う。そんなに安く自分の内面を切り売りするべきでは無いし、自分の思想が誰かを不快にさせる可能性は頭のどこかに置いておいた方がいい。
とここまで自分の思想を思いつくまま文字に起こしたから、言ってることがぐちゃぐちゃかもしれない。それもまた思想の揺らぎだと思ってほしい。
うちの夫って男性から見てどうなのか、本気で聞きたいので皆さんの忌憚ない意見をどうか聞かせてもらえませんか?
収入が逆転したらどうなるかな?
夫はジムに行き、資格試験の勉強をし、ストレスフリーな生活をしている。
この環境ですら度々いきなり機嫌が悪くなる。
不安や悩みを聞くのも当たられるのも私。
家のことでやるのは2つだけ。
晩御飯作り。
以上!
信じられないんだけど、夫はこれでこんなにやってるのにと言うんだけど、普通?これ普通なの?
車2台分給油、洗車、ゴミ捨て、洗濯、室内掃除、庭掃除、買い物、子供の習い事送迎、通院、学校学童関係は私。
サーフィンで汚した車も放っておけば洗ってもらえると思ってる。
お願いだから週一回でいいから掃除機かけてと頼んでも汚いと感じないからやらないんだそうで。
そこで言っちゃったんだよな〜
褒められて感謝されながら、やりたいんだと。
これって普通?
アンバランスだと思うんだけど男なんてこんなもん?
そいつ(夫)こうなりそう
こんなこと考えてこんな行動してんだよ
お前(妻)の対応が悪いとか
切実に教えてほしいです。