はてなキーワード: 矯正とは
英語学習ノウハウの記事が定期的に話題に上がるが、自分も含め多くの方は「とりあえずブクマ」してそれっきりにしていると思う。
役に立ちそうなツールや教材をあれもこれもと紹介しているので「とりあえず後で読みそう」とブクマされる。しかし、そういった記事はとにかく情報量が多い。リーディングには○○、リスニングにはXXと、ライティングには□□、発音には△△…と網羅的でとてもやり遂げられる気がしない。いくら素晴らしいウェアやギアやサプリを紹介してもらっても「では今からフルマラソンをやるぞ!」とはなかなかならないのと同じだ。結果、「役に立ちそう」と「でも大変そう」との葛藤を、私たちはブクマという形で折衷させている。
そこでここでは、2000時間の英語学習経験からたどり着いた、「1日30分、この練習だけ続けてもらえれば英語力が着実に伸びるはず」というシンプルな方法を述べてみる。僕は海外在住や留学経験ゼロのドメドメ日本人だが、英語を身につけたことで外資への転職を果たし、今はGAFAの一角で働いている。英語以外のスキルや業務経験ももちろん大切だが、英語が苦手な日本人が多い中、やはり英語力はアドバンテージになる。感覚的には、面接の通過率が3-5倍になったと思う。
「シンプル」な方法とは書いたが「イージー」ではない。1日30分を継続するのだからそれなりに努力は求められる。ただし、アクションには迷わないよう、やるべきことは明確にしておくので、ぜひ実行に移し、キャリアアップや夢の実現に役立ててもらえたら嬉しい。
なお、本記事ではスキル領域をリスニングに限定して述べる。スピーキングについては機会があればまた詳しく書くが、自分の場合は瞬間英作文の本を数冊反復+レアジョブでの実践で、ある程度意思疎通できるようになった。一方でリスニングについては習得にかなり苦戦した(今もしている)。以前お世話になった英語の先生も「スピーキングの方が一般に習得が早いんですよ」と言っていた。
なので、自分同様に苦戦している方、リスニングの伸ばし方が分からないという方も多いのではないかと考え、ここではリスニングの習得法を書くこととする。仕事でネイテイブと話さなきゃいけないのにチンプンカンプンで辛いとか、ジョークを聞いて周囲が爆笑しているのに自分だけ意味がつかめていなくて寂しいとか、そんな経験のある方はぜひ読んでいただきたい。
一言で言えばリピーティング。具体的なやり方については↓この方(Dr.D氏)の動画があるのでそれを参照してほしい。
■海外ドラマ(Friends)のコピーイング/リピーティングに挑戦【前編】
https://www.youtube.com/watch?v=l6NQykyXM-8
https://www.youtube.com/watch?v=IA1Ep37GsJQ
ネイティブ音声をシラブル(音節)に分解し、個々の発音やアクセントの位置を確認する。そしてできるだけスムーズにつなげて発声する。発音の知識がないと最初は苦労するが、解説を聞きながら見よう見まねで練習する。動画でも言っているが、練習をする前と後で、その音声の聞こえ方が変わってくる。音声に対する解像度が上がったような感じが得られるはず。
同氏のチャンネルにはドラマやTEDを題材にした動画が数十個あるので、片っ端からやる。1-2ヶ月はかかると思うが、そのころには耳の改善を実感できているはず。
動画がなくなってきたら、あるいは練習のやり方がわかってきたら、おすすめの教材としてはTEDICT。僕もずっとこれでやっているが、知識のインプットにもなる。あとはLanguage Reactor (旧 Language Learning with Netflix) 。あとはTOEICやってる方ならPart2の短文とか。いずれにしても、数秒のフレーズを繰り返し(+スロー)再生できるツールなら何でもよい。
■英語のリスニングアプリなら「TEDICT」がおすすめ! 詳しい使用方法を解説
https://eigomonogatari.com/tedict/
■【Netflixで字幕を同時表示】Language Reactor (旧 Language Learning with Netflix) の使い方
リピーティングに似た練習法で「シャドーイング」がある(詳細はググってください)。僕もけっこうやっていたが、自分にはリピーティングのほうが効果的だったと思う。約1秒遅れですぐに発声しなければならないシャドーイングよりは、余裕をもって正しい音を頭の中でイメージしてから発声するリピーティングのほうが、ネイティブの音が頭に染み込むからではないかと思う。
学習2000時間のうちリスニングに約半分の1000時間、そのうち約850時間をシャドーイングに費やしていたが、急速にネイティブの言葉がわかるようになっていったのは最後の150時間、リピーティング主体に切り替えてからだった。850時間の蓄積もムダではないとは思っているが、もっと早く本記事の練習法を始めていれば、ここまで遠回りすることもなかっただろうと思う。
ちなみに「聞き流し」はシャドーイング以上におすすめできない。以前、ヒアリングマラソン的な学習も500時間くらいやったが効果が感じられず止めてしまった。やはり耳だけを使った学習は定着効率が悪いと思う。
自分の場合は1日30分でも成長を実感できた。YoutubeやTEDの英語がだんだん理解できるようになっていくのが分かって嬉しかった。もちろん、やれるなら1時間、2時間と勉強したほうがいい。生まれた時から英語のシャワーを浴びているネイティブに近づくためには量は不可欠。
ただ、言うまでもなく「質」のほうが大切で、だらだら2時間やるよりは集中して30分のほうがよい。というか、この練習をちゃんとやれば30分でへとへとになるはず。まずは30分の習慣化で成長を実感し、自信をつけたらだんだん時間を増やしたり、他の領域(スピーキングなど)に手を広げていったらよいと思う。
上記の動画さえ観てもらえればこの記事の目的はほぼ達成なのだけど、これだけだと単なるDr.Dメソッドの紹介になってしまうので、自分なりに気づいた、大切な心がまえを少し述べたい。
それは「英語の学習」はなく「モノマネの修業」をするような気持ちでリピーティングに臨むこと。動画の音声について、発音やアクセント、音のつながり、変化、省略、イントネーションなどを徹底的に完コピする。そのネタで明日モノマネ大会に出るくらいのつもりで再現に励む。↓こんな感じで実際に人前で披露する機会があれば言うことなし。めっちゃ懸命に練習すると思う。
https://www.youtube.com/watch?v=WzY7vGewmNQ
完コピしようと思ったら、5回10回の反復では足りない。数十回、100回と必要になる(といっても時間はそんなにかからない。3秒のフレーズなら100回繰り返しても5分である)。繰り返すうちにネイティブの発声が耳と脳に馴染んでくる。そうなればそのフレーズは以後聞き取れるようになる。自分で発声できるのだから、聞き取れないがわけない。
また、語学の勉強だと思えば苦痛になるが、モノマネ芸を磨いているのだと思えば、練習に夢中になれる。絵や音楽などの芸と同じで30分くらいはすぐに経過する。だから継続しやすく習慣化しやすく効果が出やすい。それがこの方法を勧める理由の1つでもある。
逆に、やってはいけないのは、いわゆる「ジャパニーズイングリッシュ」に引っ張られてしまうこと。たとえばNot at allは「のっとあっとおーる」ではない。ネイティブは「ノラロー」みたいに言う。それをきちんと真似る。「のっとあっと…」と発音しているうちは、ネイティブの「ノラロー」は絶対に聞き取れない。同様に、I have to...は「あいはーふとぅー」ではなく「アィハフタ」だ。
このあたり、日本人の真面目さと丁寧さが裏目に出てしまうところである。我々はつい「あいはーふとぅー」と発音してしまう。丁寧に発音したほうが聞き取りやすいだろうという無意識の気遣いもあるのかもしれない。しかし実際には逆で、ネイティブは「アィハフタ」でないと違和感を抱く。ネイティブ固有の「手抜き発音」を知り、それをそっくり真似ることに対して、我々は真面目で丁寧である必要がある。つまり「手を抜くことに対して手を抜かない」ことが肝心だ。
自分も矯正に相当苦労したが、若い頃に学校で身につけてしまった日本人的発音はもはや「呪い」である。ゼロではなく、マイナスからのスタートだ。正しいネイティブ音を意識しようとする僕らを容赦なく反対方面の深淵に引きずり込む。リピーティングを徹底して、洗脳と言えるくらいのレベルで練習し、自分が日本人であることを忘れるくらいに脳をネイティブの音で上書きしよう。
ネイティブのモノマネをしようと思ったら、ネイティブ発音のメカニズムや技術を学ぶ必要が出てくる。上記のような「モノマネマインドセット」で臨んでいれば、自然と発音学習に興味が湧いてくる。そうなったらしめたもの。Dr.D氏はじめYoutubeの各種解説動画やネットの解説サイト、書籍などで学習する。たとえば"アィハフタ"を上手にモノマネしたいなら、"a"の発音法をきちんと学ぶ必要がある。
https://athinkingrice.com/pronunciation/ae-how-to
大切なのは、この「興味が湧く」プロセスをすっ飛ばしていきなり発音の勉強をしようとしないことだ。発音は英語学習に不可欠な一方で、謎の発音記号が出てきたりでわかりにくいので、モチベーションがなければ必ず挫折する。発音本を買ったものの数ページでギブアップした方も多いと思う。「もっと上手くモノマネできるようになりたい!」「そのためにはどうすればいい?」という気持ちが湧いてから発音に取り組むこと。
…というわけで、2000時間(4年かかった)を経た今、この方法が最もリスニング向上に効くのではないかと思っている。本気で英語をどうにかしたい!という方は、30分/日をなんとか確保して上記の方法をチャレンジしてみてほしい。スキマ時間を集めればそれほど難しいことではないはず。
shiroikona333 箸の持ち方だけで判断はしない。だけど、食べ方が汚かったりゴミをポイ捨てしたりするような人は箸の持ち方も正しくない率が高くてああやっぱり、と思うことはある。
shiroikona333 そうだよ見本の真似が出来ないんだ。書いてある線をなぞるのも厳しいんだ。ものすごい時間と労力をかければ出来るけどそうしたら他のタスクが何一つ出来ないんだ。うちのASDの息子の話だけど。でも優しい子だよ。
demcoe 箸の持ち方すらキチンと子供に教えないのはネグレクトだって言ってるでしょ。結果としてうまく持てない子供はかわいそうだが大人になったら自分でマスターできるでしょ?
demcoe 私は困ってないから
neogratche テーブルマナーもそうだけど基本的に自分の階級を示すためのものだから気にしない人と気にする人の乖離が激しいのも仕方ないのかもね
poliphilus 表立って態度には出さん。が、やはり残念がっかりだな、という気持ちは大きい。こんな簡単に直せるものをどうして?という気がするし、擁護発言を見てもなんかお察しだなという気もする。
poliphilus 進学校は思考に手が追いつかず、字が汚い子が多いと林先生は述べていた。ToshI は英語の発音に大苦戦し、X は米国進出を諦めた。音程感と外国語発音の上手さは相関するが、みんなではない。
punkgame 箸の持ち方すら直せないのかこいつ、と思うだけ。何も言わない。正しく持たなければならない道理はないし、直す必要もない。好きに生きろ。周囲の目を気にするのに自身の行動は気にしないのか?
punkgame 左利きを矯正されたため右でも左でも綺麗には書けん。メインは右だけど上手く動く日と動かない日があるので訓練どうこうではない。左は使わなすぎて幼稚園児並みなので綺麗になるまでめちゃ時間がかかる。そもそも
俺は昔すごく滑舌が悪かった。
あがり症、早口、小声、発声方法が良くない、吃り、と滑舌悪いやつの特徴コンプリートみたいな話し方だった。
発声方法の悪さだけは今でも残っているが、それ以外は矯正出来た。
そして人付き合いにおいて、昔に比べて聞き返されることはまずなくなったし、接客業につけている。
最近はYouTubeで実況とかをやっている。自分で見直してもまぁ特別聞き取りにくいとかもない。
だが、滑舌の悪い自分がいつまでも自己評価としてあり続ける。たまに聞き返されたり聞き違いが起きたりすると「俺滑舌悪いからごめんね」と反射的に言ってしまう。昔からの知り合いはまだしも、最近知り合った人からは「どこがだよ!」とツッコミを受ける。
そして、ネットやってても「早口で喋ってそう」という書き込みが効く。リアルではむしろ「ゆっくり丁寧に話す」と褒められるのに。
(続き)教育に悪いと思うのはまさしく偏った価値観に基づく考えだ。
100万年前とかに生まれていたら裸でほっつき歩いていても何も感じるものはないはずだからだ。
その教育に悪いという考えで子供に性に関するあらゆることを隠すことが、子供に性に関することへの後ろめたさを植えつけることになるのだ。
そもそも法律が撤廃されると言う前提ならその未来の撤廃された世の中で裸で歩いていても全く反社会的な行動ということにはならないので、裸を見て育つことが将来裸になって歩く因子になっているのだとしても、教育に悪いということには全くならないはずである。
法改正直後には街やテレビの映像として裸が視界に入ってくることになり、それに不快感を示す人も一定数出て来ることだろう。
しかし社会の移行期には誰かしら不都合を被る層が出てきてしまうことは当然なのである。
一切の不都合を被る層が出て来ることを恐れてはより理想的な方向への変革もままならないのである。
LGBTに対する多様性を確保した次には、このような法改正をすることでより大きな多様性を確保していくべきである。
いずれネイティブに性に後ろめたさを感じる人はいなくなっていって、裸に不快感を示すことなど「お気持ち」に過ぎなくなるだろう。
ある意味で原始時代に戻るわけである。原始時代においてそんなことに不快感を感じる人など奇異な存在というものである。
どんなときでも服を着なければならないということではなくなることによって、社会はより合理的に回るようになるだろう。
それだけではなく、同意の無い他人を巻き込まない限りは街中でオナニーすることや野外セックスだって可能である。
こんなことを言えば、また教育に悪いとか言う人が出て来るだろうか。
極端な話だが目の前で殺人が起こったからといってただちにその子供の将来が殺人犯ということになっていくのだろうか。
そこらへんもひっくるめてリアルタイムで子供を矯正していくのが親の務めだと思う。
むしろ自己完結的なあるいは納得ずくの性行為と同意なき人を巻き込んだ性行為との峻別を絶えず親は教えていくべきである。
街中で他人の納得づくの二者間のセックスを見たからといって、その子供の将来がただちに強姦魔に決するというのは、殺人の一部始終を見た子供が殺人をするようになる以上の飛躍というものである。
普通に教育すればこれほどの飛躍が発生することはまずないはずである。
現代の面前DVの定義には性行為を見せることというのがあるそうだが、個人的には嫌なことを強要し続けた段階で何事もDVであると思う。
逆に、嫌なそぶりを見せたらすぐひっこめればDVには当たらないと思う。
教育用のひらがなを教えるようなビデオを見せても関心を示さない子供の首を無理やり固定してするようなことはむしろ虐待であるから、勉強とかに興味がないとわかったら、ただちにボール遊びとか、次の将来につがなるなかで子供が興味を示すようなことを模索するものである。
興味を示したらもっと見せればよく、将来AV俳優として大成するかもしれない。
性に関することについて何が処罰される社会に変わるのか少しわかりづらいかもしれない。
簡単に言えば現代でも強要罪にあてはまるものに処罰対象が限定されるようになるということである。
しかし立ち去った相手にわざと近づいてその眼前で性器をぶらさげながらとおせんぼするようなことは、公然わいせつなどが廃止されても強要罪にあたるだろう。
そういうことがしたかったなら、もし既に裸であるなら一定の離れたところから(具体的な距離はここで考えることではない)同意を求めるべきである。
事後承諾に期待するのは勝手だが、あとで同意がなかったと被害届を出されても事後承諾を図っていたことが発覚した時点で情状酌量の余地はないことに留意するべきである。
ゆるくするところはゆるくなら、きつくするところはきつくというものである。
基本的には強要罪に一元化されるが、性に関することについては厳罰化も検討されるというのは前にも書いたとおりだ。
基本的に同じ行為に対する罰則が理由なく厳罰化するということには不公平感を感じられるものだと思う。
しかし煽り運転が厳罰化したように、悪質な犯罪が増えた場合にはそのようなことになるという例はある。
悪質な犯罪が増えることが予期された場合には厳罰化の検討ということも普通に考えられるわけである。
もっともとそれが性に関する法律を一部ゆるくするという法改正によるものならば、最初からそんなことしなければ厳罰化しなくても済むじゃないかという反論もありえよう。
なので結局改正のほうを否定するのではなく、改正したのちの未来の犯罪の動向についてどう対処すればよいかという話に帰結するべきだということになるわけである。
性に関する法律がこのように緩和されて性に対する余計な後ろめたさがなくなれば、今はわいせつとかされているものに対する不快感もなくなっていくだろう。
昨日3回目のワクチンを打ってきた。歩いて行ける小さなクリニックだ。
1.2回目の時は予約がほぼ埋まっているような雰囲気で、順番を待つ時も接種後の15分待機も座る場所が足りないほどの状況だったが今回はかなりすいており、接種する時も前回のような流れ作業ではなくいかにもベテランといった雰囲気の看護師さんがゆったりと打ってくれた。
「あぁそうですか、いやこうしてワクチン打ってるとね、左利きの人ってけっこういるもんなんですよね」
そんな会話にハァ...とか中途半端な返事をしているうちに接種は終わった。
左利きの割合は約10%程度と言われている。そりゃけっこういると言っていいだろう。しかし見た目でわからないから気づかないだけなのだ。毎日とっかえひっかえ来る患者の10%も左利きなんだろうが、利き手がどちらかか確認するような機会がないし、字を書いたり箸を持ったりするのを見なければわからない。挙げ句左利きでも書く時や箸だけ右なんていう人はざらにいる。
そこでワクチン接種で利き手を申告する患者(?)を見て思うのだ、「左利きってけっこう多いんだな」しかしそれだけだ。へー左利きなんですね、とベテラン看護師は接種を控え緊張している者に声をかけて場をなごませる。その言葉にはなんの裏も意識もなく、天気の話くらい無難な会話だ。もし自分の子供が左利きだったとしても、それを思い悩む親なんていない。世間にもっとも自然に受け入れられているマイノリティと言えよう。
そして調べ方や地域によってばらつきがあるようなのだが、LGBTQの割合もまた10%前後と言われている。左利きと同じだ。
そしてLGBTQであることも、見た目だけではわからない。そして左利きであることを人に申告する機会も必要もないのと同様、LGBTQであるということを普段の生活で表明する機会もなければその必要もない。
例えば一緒に食事をして、箸を持つ手に気づいた時のように、会話のはしばしで「夫が...」と言ったら「あ、ゲイの方なんですね、うちの兄弟もそうなんです」みたいな感じで普通に反応してくれたら良い。スポーツで左利きが重宝されるように、LGBTQもその特性を生かした職場に配属になったら良い。どうしてそういうふうにならないのだろう。
そういえば昔は左利きを矯正しなればだらしないとかみっともないとか言われる風潮があって、自分も昔「きちんと右手で書けるようにしつけてもらっていないなんて、ご両親は何をしているんでしょう」と言われたことがあり子供心にずいぶん傷ついたものだが、あと何十年かしたら少しは何かが変わっているのだろうか?
そんなことをぐるぐる考えていたら、だんだん頭が重くなってきて、熱も上がってきた。
今日は早く寝ようと思う。
エスカレーターの両側で止まるようにするのも、横断歩道で歩行者が歩いて当たり前にするのも、正しいやり方を使うユーザーを増やせば片側走ったり止まらず凸ることが不可能になって収まるんだけど。それってめちゃくちゃリスク高いよな
エスカレーターの右側で止まってたら、急いでる奴がそのまま突っ込んできて突き飛ばされて転落……とか歩行者優先だから横断歩道渡ったら車そのまま突っ込んできて撥ねられる…とか
起きる確率は大したことないかもだけど、どっちも遭遇したら大怪我あるいは死にかねんので自分は怖くてエスカレーターの右側では止まれないし、横断歩道では車が来てたら止まって待ってしまう。
横断歩道やエスカレーターの脇に警察官とか駅員いたらまた違うんだろうけど、現実問題そんなコストはどこにもないし件の譲ってもらったらお辞儀()も譲ることを気持ちよくさせて常態化させようとしたんだろうが
・少なくとも、スマホの主観視点になっていないシーンは編集済み=虚構。ほかのシーンについては解釈の余地あり
・どこが虚構でどこが現実かについては作者にとって重要ではない。重要なのは読者が気持ちよく思い出を残すこと。
・爆発オチや、思いつきそうな感想を先回りして潰して大量に予防線を張ることで、まじめに言及したら負けのような状態を作っている。多少の言い訳なら鼻につくところだが、やりすぎることによって逆に面白くなっている。
■本作は五重構造になっている
②を映画にして上映したが、盛大に失敗。謎の女と共にリベンジで映画作る主人公
あとは無数の映画のオマージュ、それから作者の過去作や実体験も重なってくる。
身もふたもないことを言ってしまえばすべて虚構。なぜなら最後の爆破オチは現実ではありえないから。また、マンガなんだから全部虚構だろともいえる。ただ、それだと何も言っていないのと同じなので、作中世界で起こった事実を基に編集によって脚色されている、と捉える。じゃあどこが事実でどこが脚色なのか?これは作中でわかりやすく表現されている、主観/俯瞰視点と、手ブレ表現を手掛かりにする。この二つを抑えておけば切り分けできる。
■①
最初は主観視点でスマホ撮影している。全体を通してだが、移動シーンやシーンの切り替えの際は、いちいち手ブレ表現を入れている。このへんはいわゆるドキュメンタリー映画の王道表現なだがマンガでこれをやって読者に伝わるのか?
18P、主観視点になっていない=スマホで撮っていないので編集シーン。ここテストに出ます。
P19、雑な爆発シーンは後付けであることが容易にわかるのだが、P18の構図には映像を取っているはずの主人公が映っている→誰が撮影している?→後撮り。さらに、P123において優太は車から出ていないことが示されており、そうするとP16からすでに父親が演技していることまで疑えてしまう。
■②
P21の俯瞰視点、これは何をどうやっても後撮りでないと撮影できない。P23も怪しい。P27はスマホで隠し撮りしているとすれば後撮りでなくても可能。そして最初の作品批評がここ。読者の思ったことをわざわざ言語化してくれているのが、逆にこの作品の非常に批評しづらいところ(どういう感想をつぶやこうとしても、作品内で先取りされてしまう)、そのまま引用。
★"母親の死を冒とく"”あんな映像流して母親に申し訳ないと思わないのか”そして極めつけの"ラストなんで爆発させた?"
続いて自殺シーン。P32のメメントモリ、は死を思え、という慣用句だが映画の文脈では映画メメントを思い出させる。いっそメメントみたいに時系列シャッフルすればよかったのに、と思うところだが、実は時系列が編集によって巧みにシャッフルされているという捉え方もできる。実際にリアルタイムでスマホで撮った映像と、後撮りした映像がシームレスに混ざっているが、普通にマンガを読んだだけでは気づかないようになっている。もちろん全部後撮りの可能性もあるが、それだと考察のしようがないので手ブレしてるところは本物と考える。
P39、作中で言及されている通り本来は眼鏡かけてて矯正もしているので、A.めちゃくちゃ頑張って撮りためた映像をソフトで編集した、B.わざわざ撮影のために演技して撮り直した、C.完全なる創作かの三択となる。中学生の技術力を考えるとBかC。
P45、プロジェクターの真ん前にカメラを置いているから、完全に後撮り。ちなみにここで映っているのは映画ファイトクラブ。ファイトクラブは、本作のどこまでが現実で空想かわからないというネタ元の一つになっている。話がそれるが、ファイトクラブといえば選挙演説で有名な外山恒一の批評が異様に完成度が高く、未視聴でも必読。ほかにもメタ構造のネタでヒットしたカメラを止めるな!も思い浮かぶ。あとニューシネマパラダイスとか、そもそも本作のタイトルとページ数の元ネタであるぼくのエリ 200歳の少女など、挙げればきりがないと思うし俺なんかより作者の方が100倍くらい映画をみてそうなんでネタ元を挙げ切るのは不可能だが、個人的にはこのへんの映画を思い出した。
★P52、作品批評"どこまでが事実でどこまでが創作かわからない"。
P63、二人はしばらくずっと映画見ているが、ここもプロジェクター視点になってる。ちなみに、このひたすら映画を見て感想言う特訓だが、これは作者自身が過去に編集と似たようなやりとりしてたことを過去のインタビューで語っていた。
★P79にて、これも一応作品批評になるのか、一見意味不明な爆発シーンを入れた動機が主人公の口から言語化されている。
★P82で、作品のテーマである"ファンタジーをひとつまみ"=吸血鬼と爆発要素。
P84で、①のネタばらし。実は母親の嫌なところは編集でバッサリカットされていることが判明し、作中描写に編集のウソが混ざっていることが明示される。
★P86にて自己分析という体で、①を批評している。"主人公の抱えている問題は…多分…映画をバカにされた事じゃなくて…母親の死を撮らなかったこと"そして、吸血鬼が死ぬシーンの説明。
P87で絵梨が意味深に沈黙しているシーン、ここで彼女の死期が近いことが偶然にも主人公の提案したプロットと被ってしまい、その動揺を表すために意図的に同じコマが挿入されている。動揺しているからこそ表情が動かないというのは逆説的だが、P85の喜怒哀楽表現との対比により、余計に目立つ。P85~86も過去回想シーンのため、編集。
P90~P93もそう。意図的に沈黙を配置することで画面に緊張感を作っている。さっきの彼女の沈黙と比べるとわかりやすい。こういう間を作る表現は、週刊連載のページ数に囚われないからこそやりやすい表現で、電子掲載の特性が生かされていて良い。
★P93~の父親の名演技。これも作品批評になっている。"自分が面白いと思って作った作品が馬鹿にされオモチャにされたらまともじゃいられないんだ"。
前のルックバックに対する批判を思い出す。ちなみに作者の自伝的要素としては思い当たるふしがもうひとつあって、チェーンソーマンの前作ファイアパンチでも作中のある印象的なコマが切り取られて海外(主に4chanの/a/)でネットミームというおもちゃになっている。"kino meme"で検索したらたくさん出てくる。
P97、この父親の怒りすらも演技という体。父親に作品批評をそのまま言わせてしまうのとわかりやすすぎだが、あえてそれを"演技ですよ、本当はそんなこと思っていませんよ"と自虐的にネタにしてアピールすることで、ネタにマジレスを防ぐと同時に、この作品のテーマの一つである虚構と現実の境目がわからない状態を作り出していて一石二鳥となっている。
★P99、ここで批評をもう一発かましてくる。"創作って受け手が抱えている問題に踏み込んで笑わせたり泣かせたりするモンでしょ?作り手も傷つかないとフェアじゃないよね"
ここは非常に巧妙で、さっきの作品批評がわざとらしい感じだが対比してこっちは本音を語っているように見える。傷つきはするけどしょうがないよね、そしてなにより、創作ってのは受け手も傷ついてなんぼのもんだろ、という主張を相当オブラートに包んで発言している。
P100、"今のセリフいいでしょ?"とこの本音を語っているように見せた発言すらメタってしまう。これすら本音ではないと言っており、さすがに照れ隠しじゃねーのと思うが予防線になっている。
P108。最初の出会いが病院なわけで、何らかの病気であることは元々暗示されていたが、ここで絵梨が倒れこみ、病気の存在が劇的な形で示される。手ブレにより躍動感が表現されていて気持ちがよいがこれ伝わるのか?(2度目)。
P109、病院では一切手ブレがなく動と静の対比。P117、①のような素人臭い動きの画面が続き、主人公の動揺する心理が表れている。この漫画ほぼモノローグがない代わりに、マンガなのにもかかわらずこういうカメラワークでの映画的表現をうまく使って心情を表現していて、作者はやはり天才か?となる。
P122、お母さんの性格の悪さが開示され、①はかなり編集が入っていたと判明する。ただし、嘘だったとしても、思い出を美化するのはいいことだと主張している。
★P130、作品批評。"優太はどんな風に思い出すか、自分で決める力があるんだよ それって実は凄い事なんだ みんながどういう風に絵梨ちゃんを思い出すのか 絵梨ちゃんは優太に決めてほしかったんじゃないかな……"
ここは今までと違って、一切茶化していない。編集により現実が捻じ曲げられる恐ろしさというネガティブな側面を前もって提示しておきながら、でも思い出を美化するのもいいよね、と肯定する流れ。否定的にしたいなら順序を逆にすればいいだけなので、これは割と「作者がほんとうに伝えたかった事」としてとらえていいんじゃないかな?と思う。
P131、編集シーンが入ることで、②もまた生の現実ではなく、美化された思い出、編集された虚構ということが暗示される。
■③
P151にて場面転換。
P155、本来の絵梨は矯正している、眼鏡をかけていることが明らかになり、②のネタばらし。P130~132に対するわかりやすい答え合わせになっている。
P164、ここから主人公のモノローグ。終盤の展開がモノローグではしょられるの、低予算あるあるで笑える。本筋じゃないし時間内の200Pに収まらないからカットされたのかもしれない。そうなると、ディレクターズカット版の単行本では未公開映像が流れるのかな?
P167、低予算映画あるあるの、父親役と本人役が一人二役なんじゃないのかという考察を見たが、見た目違うとはいえ割とありそう。
■④
P177、ここにきて見開きばーん。P151以来のタメがあるのでとても気持ちが良い。①~④の間の場面転換すべてに共通して、見開きが挿入されたタイミングで、作中作→現実へメタ構造が切り替わる仕組みになっている。そして、さんざん言ったように主観視点になっていないので、これはすべて後撮り。よって吸血鬼は実在しない。Q.E.D. あとこれ面白いのが、絵梨がメガネしてないし矯正もしてないところ。この吸血鬼は映画の美化された絵梨を真似しているため、見た目も現実ではなく映画準拠になっている。
★P180、"そうかっ 夢か…… それか僕のイカれた幻覚で…"とわざわざ口に出して言う。
映画のタイトルだけ羅列してもわかりにくいので、夢か現実かわからない状況を読者向けに解説する。あとシックスセンス、定番のネタバレなんでしょうがないけど笑うわこんなん。
★P181、作品批評。"恋人が死んで終わる映画って在り来りだから後半に飛躍がほしいかな… ファンタジーがひとつまみ足りないんじゃない?"
恋人が死んで終わる映画って在り来りだよねーという批判が飛んでくることがわかっていて予防線を張っており、後半の飛躍をまさに今行っている最中なので、言うまでもなく非常にメタい。
★P191、最期の作品批評、"見る度に貴方に会える… 私が何度貴方を忘れても 何度でもまた思い出す それって素敵な事じゃない?"
作中の元になった出来事が忘れられても、作者が死んだとしても、作品が残れば思い出は受け継がれていく。たとえそれが美化され、脚色され、編集されたものだったとしても。つまり、映画の内容がどこまで虚構でどこまで現実かはどうでもよく、受け取る観客がいい思い出を残してもらうことが大事、という壮大なちゃぶ台返し。最後の爆破オチで壮大に茶化されているとしても、作者の伝えたい主張にウソはないだろう。
P199、ここは皆さん一番好きな映画の爆発を思い浮かべながら。予防線をあまりにも張り巡らしているせいで作品が予防線の塊になっており、最後に爆発オチを持ってきてすべては創作だと主張することで、主客転倒が完成。終幕。
すべては爆発のための前振りととらえることもできなくはないが、ルックバックで思ってもなかった方向からダメージ食らったので、思いつく限りの主張を先回りしてそれ自体を作品にしてやろうというところなのではないか。脚本作る労力を考えると本当に頭が下がる。
大田原市寒井の黒羽刑務所が3月31日、法務省の進める刑務所の統廃合に伴って閉庁し、51年間にわたる歴史に幕を閉じた。
同刑務所は1971年3月、宇都宮刑務所の廃止とともに開庁。主に初犯や長期刑ではない男性受刑者を収容してきた。施設の老朽化が進んだことから、法務省は2017年に廃止を発表。収容受刑者は別の施設に移すなどして昨年9月までにいなくなった。
この日は体育館で訓示があり、林克士所長(58)は約100人の職員を前に「明日からは別の施設で働くことになるが、『矯正は黒羽から』の誇りを胸に活躍してほしい」と述べた。近くの自営業・長嶋昭夫さん(62)は「職員とのつきあいもあったので、さみしくなる」と話した。
法務省は約20ヘクタールの跡地利用について、北半分は引き続き同省で利用し、南半分は刑務所の外壁を残したまま、職業訓練棟や運動場などを民間に貸し出し、再犯防止や地域再生に向けた事業に役立てる考えだ。
私もそう思う
その中でも「本人の人格形成にかかわらない生態的な反応で感想が発生している」
「くさい」「うるさい」「いたい」等感覚的なものと動作原理は同じ
「生物的に危機感を感じる」に近いけれども「危機感」という具体性や方向性を持たない負の感情
これにより
「生体的に負である」という「個人とかかわりのない感想≒同型の生物的に共通的な」にすり替えることができている
逆説的にそれを容認することは異端であり、人格形成など本人の能力によって補われる部分があり補われていることを異常性として指摘もできる
もちろんそんな存在でも存在している限り存在を容認されているし、そんな存在でも容認されることが福祉であり社会秩序や自由、人権といったものになるはず
福祉や人権と結びつけて肯定すると人格形成など知能的な部分であったり治療や矯正が可能な部分において異常性があると認めることができる
そこから引きはがすと生物的で原理的な部分で負の感情をもって否定することができる
救いがない表現だ
それはすなわち人にむけて使っていい言葉ではないだろう