はてなキーワード: 物言いとは
「このサンプル数では疫学的に影響は見られない」という表現を見たときに、「もっと多くサンプルを取れば疫学的に影響が見られるんでしょう?どうせやってないんでしょう?」というのを感じ取った。些細なことだけど、これがものすごく嫌。動物実験のくだりもだけど、この人の発言からは科学者蔑視を感じる。
いや、100mSvの根拠が原爆被爆者調査だってのはこの手の話では前提でしょう。サンプル増やせないのは承知で生身の人間での調査の限界ってことで言ってると思う。
低線量被曝については原発労働者を対象としたもっと大規模な調査があって、100mSv以下でも有意差出たって論文はある。数十mSv単位だっけな。でもまだ定説にはなってない。
その先を疫学的に調べて閾値見つけるのは現時点では難しいってことは、飯田氏も計量経済学で専門的に統計やってる人だからわかってると思う。
中西氏の動物実験の話は、安全科学では閾値が想定できる毒性でも動物実験で毒性が出たら人間への影響は安全係数かけて(100倍とか)安全側に寄せて規制するから、安全科学の専門家としては当然の物言いだと思う。
自分も相当似たような思いがある。
未熟で感情的なのはある意味当然だと思うんだ。というのは子供なんて最初は誰もが未熟で感情的なのが当たり前で
わがままで奔放な自分を十分満喫する過程があってから、それをどうコントロールするかという躾の段階がきて段々と
大人に成長していくものなんだけど、どうも前者の過程がすっぽり抜けているように思えるんだよね。
世間的に良いとされていることなんて、子供のそういうわがままな思いと正反対で、幼いころからそればかり
言われると、自分の感情が封じ込められてしまって幼い子供の思いが出ないまま凍結されてしまう。
それが大人になって少しずつ自由になったときに解凍されて出てきてしまうんだと思うよ。
「検証はするけどその内容は一切公開しないし談話の見直しもしない」って、韓国側からしてみたら凄まじく嫌らしい戦術だよなあ、と思った。
この部分がおかしいとか、この部分は間違ってるとか、そういう指摘を一切せず、「ああ、あれね。きちんと調べましたよ。え、どの部分を?ははは、まあまあ、そんな事はどうでもいいじゃないですか」ってやるわけだから。
そう遠くないうちに韓国政府から「日本政府は検証内容を全面公開せよ」って物言いが付くんじゃないかな。
そこで初めて「いやあ、本当は見せたくなかったんですけどねえ。相手がどうしてもって言うもんだから、そこまで言われたらむげに断るわけにはいかないじゃないですか」とやるんじゃないかな。
職場で隣の人が鼻水をすすっている。ズシュゥーッ!キュジュルルッ、シュシュジュジュウウゥ…。
明らかに花粉症なのだが、「私は花粉症じゃない!この時期になると鼻水が出るだけ」などと言い張っている。声が大きいのでよく聞こえる。意味がわからない…。
彼女にとって、花粉症であることがカッコ悪いことでとにかく認めたくないのかもしれないが、そんな往生際悪い様子が痛々しいし、女性なのに人前で鼻水を啜ることのほうが恥ずかしいのではないかと思う。
年齢は聞いたことがないが、40代前半であることは間違いないだろう。年相応に老化しているので、見た目だけなら小学生くらいの子供が居てもおかしくない雰囲気。
しかし独身である。ちょっと変わってるのかな、と感じるところもあるが、それでも、元気に仕事もテキパキこなすし、電話応対なんかも丁寧なので、きっと悪い人ではないのだろうなと思っていた。
それが、最近隣の席で様子を見ていると、偏ったところがあることがわかってきた。女性らしさというものが皆無なのである。
おしゃれもしてなくて毎日すっぴんで出社していて、聞く人が聞いたら眉を顰めるような文句も大きな声で言い放ち、デスクの引き出しをドカドカと乱暴に開け閉めしてオフィスをドカドカとあるく。
優しさや、周囲の目を気にせずズケズケとした物言いなど関西オバハン的行動という意味では、ある意味女性ではあるのかもしれない。しかしいわゆる男が落ちる、という類の女性らしさはない。
100歩譲って媚びる必要はないが、やはり男は女性らしさに惹かれるものである。おそらくこの人は「これで好かれないのなら別にかまわんわ!」という超意地っ張りで生きてきたのだろう。
よくいえば、自分の意見をはっきりと述べられる人であるが、周りの空気を読めないとか、協調性がないとか、まあそういうことである。
もう後は死ぬまで1人生きるだけなんだろうな。まあ本人の意思で頑なに育ってきたのだから、何も言うまい。
ついこの前も、オフィスで「そんなの嫌です!」などと喚いているのが聞こえてきた。派遣社員である立場を明確に主張して、やりたくないことは私の仕事ではないと言い放つ。
若くてかわいくてスレて人生が破たんしてなくて素直で笑顔が素敵な派遣さんと交代してくれないかなぁ…。
隣の課に、30代くらいで清楚な感じで素直で笑顔が素敵な派遣社員の方がいる。おっぱいが大きいのだが、形が整っていてウエストも細くて、めちゃくちゃ美人でもないけど物腰が控えめで素敵な方だ。
でも左手の薬指にはきらりと光るものが。やはりこういう人は結婚してるんだよな。それでいて身なりもきれいにしている。結婚していても手を抜かないのは大切だよな。
俺も40代独身だが、人のふり見て我がフリ直せ。苦手意識を遠ざけるのではなく、最低限の好かれる努力を拒まずにとりくんでいきたい。
http://gin0606.hatenablog.com/entry/2014/03/04/211916
プログラマが勉強しないと生き残れないってのはある程度間違っていないんだけど、
それを強制するかのような物言いは、
どこか似ている気がする。
会社のカラーに沿わない奴をその会社の風土に無理やりなじませる、
あまり変わらなくね?
社畜ってのは労働基準違反を肯定的に見るという不法的な側面あるので
勉強厨のほうが会社としての資産(技術的なもの、またその技術により得られるもの)が
おそらく分かりやすいってのはある。分かる、否定はしない。むしろ肯定だ。
だからこそ、勉強しない豚を豚と定義し軽蔑する物言いや振る舞いに拒絶感を覚える。
http://anond.hatelabo.jp/20140221132243
この記事を書いた増田です。
何の気なしに書いた記事がこのような事態になり、少々戸惑っています。
同時に、高飛車な物言いをしてしまったことを後悔しております。
当方は大学生の20歳です。何人かのご指摘の通り、読書にのめり込む前から、自己愛性パーソナリティ障害にも似た自我肥大人間でありました。
そんな人間ですから、大学入学当初から大学生活を冷めた目で見ていました。サークル()、飲み会()、オール()のような事もしてきましたが、どこか射に構えていたと思います。
私はそんな歪んだ自我を保つために、読書に走りました。当初の私は本など手に数えるほどしか読んだことがなく、新書100冊程度読むのにも骨が折れました。
新書100冊程度を読んだ後の自分は、〇〇力の成長に驚愕していました。発想力、論理力、伝達力、コミュニケーション力、集中力、行動力....。
あらゆる〇〇力を手にした私は、全能感を抱き、ますます自我の肥大に拍車がかかりました。
社会なんてつまらない。就職なんてバカバカしい。やるなら起業!ノマド!というように、絵に書いたような意識の高い学生(笑)でありました...。
読書初期の私は、自分に自惚れ、”どうせお前には分かるまい”と周りを滑稽に見ていました。
読書は相変わらず続けていましたが、それだけでは敵わない人間と出会います。
今思えば、読書で得た〇〇力は、超バカだった自分がただのバカになったにすぎなかったのだと思います。
以後、本は「自分を成長させてくれる劇薬」のように思っていたのが「他人の考えが書いてあるただの紙」と思うようになりました。
自己啓発本を読んで意識だけが肥大していた自分を悔いるように、分厚い専門書も読むようになりました。
本の数だけ考え方は存在する。だからこそ、”考え方の違い”を意識するようになりました。
それは同時に、他人に考え方の相違の理解を求めていることになります。
読書中期の私は、自分に自惚れ、”どうしてお前には分かるんだ”と周りを滑稽に見ていました。
以前の自分のように、全能感を抱いている人を軽蔑していました。
自身過剰で、自分の考えだけに縛られている人が嫌でした。
社会が求める人材像というのも嫌いです。夢を持て、目標を持て、努力しろ、諦めるな...。
1年後の就活が嫌で嫌で仕方ありません。
私は読書によって、元々あった肥大していた自我がさらに肥大してしまったんだと思います。
ですが、本には何の罪もないとも思っています。
読んでいる本がダメなのか、数が足りないのかは分かりません。
ーおわりー
私も女だけど。
あと何でも「母と娘の関係に悩むアタシかわいそー!」つていう文章がもてはやされてるの、だいっきらい。
「性は男だけのものじゃない」つって「締りのいい女」「イきやすい体作り」とか言って、性体験を話したら同じ口で人をビッチよばわりすんだろ?
あとは「セックスのこと、開放的に話せるー!」っていうサブカルクソビッチか。
なんで「傷ついたあたしかわいそうー!」とか言うのと同じ口で「セックスを開放しようー!」とか言ってんの。それで妊活とか言って子作りしたら「母親との関係が…」って何。
子どもを怒鳴ることに怯えんなよ。可愛くないって思っていいんじゃねーの。
お前は同じクラスの人を「同じクラスだから」って理由で全員愛せたの?
お前の腹から出てきても他人だっつーの。
それでガタガタ言ってんな。
女のこういうみじめったらしい傷のなめ合い、コンプレックスにまみれたじこあい、だいっきらい。
独身女はなんでもセックスにつなげれば高尚と思う、そのクソビッチ頭をどうにかしろ。
繰り返すが私も女だ。こんな再生産の一部に入ってるのかと思うとマジ気持ち悪い。
せっかくいろいろ言ってくれてて申し訳ないんだけど、その程度のことはやっているし、
畑とかまるで興味がない嫁に、車で30分かかる場所に畑借りて、毎週必ずそこに行かなければならなくなることが、
田舎暮らしを楽しむ嫁の幸せだと思っているのなら、俺以上に田舎のことが分かっていないと思う。
貸し農園なんて、手入れを怠れば他の人に迷惑がかかるわけで、借りた以上、興味でないからやっぱ放置、とかはできないわけ。
まさに畑に縛り付けられた生活になるわけ。
それでもそんな生活を無理やり過ごさせて、そこに田舎の喜びを見出させろ、なんてブラック過ぎて笑えもしないよ。
畑に毎週通わせるくらいなら、毎週嫁の実家に通った方がよっぽど幸せだろうと思う。
森林ウォーキングとか、都会から気軽に行けるトレッキングコースとかが豊富にあるなら、いろいろめぐれるけどさ。
実際、くもの巣も日差しも嫌いで、暑いのも寒いのも嫌いな人が、田舎の山林歩いたって楽しめたりはしないわけ。
近所の河原を散歩して、野良猫とたわむれる程度で精一杯なわけ。
それでも、楽しみを見出すまで無理やり森林に連れ出せって?
休みの日に、河原散歩行こうよーって言って、ようやくたまに連れ出せる程度の人だよ。
難しすぎるわ。
実際、城下町に観光にいったり、鶴を見に行ったり、お祭りにいったり、映画見に行ったり、ショッピングセンターいったり、
実家に帰ったり、たくさんたくさん、一緒にいろいろなことしてるわけよ。
それでも、そういうのって、数日限りの気晴らしでしかないわけで、平日のあの子の生活を変えるにはあの子が自分で
何かを変えるしかないわけ。
そのために必要なものを見に行ったり、行ったことのない場所に連れて行ったり、いろいろな提案はしているよ。
しかし、それをしたらすぐにでも変わるなんて思っているのなら甘いし、嫁があまりにも無知すぎるから田舎に
馴染めていないみたいに思っているなら、それこそ嫁の人格を無視しすぎた物言いだわ。
したいことがあるなら喜んで俺も付き合うし、嫁が興味持ちそうと思うものはいろいろ提案しているし、
それを一年続けたうえでの話なんだけどね。
ニコニコ動画で、これ系統の動画が上がってるのをチラチラ見ていたが、正直最初は邪魔っていうか、婦女子が盛ってるのかあ?って感じだった。ただウザかった。
がしかし、ツイッターで絡んでいた高校生がやたらそのネタを使っていて、どうやら野獣先輩というキャラのアイコンも使っていて、なんだこいつ?って思ってはいた。
ある時、そいつが、「そうだよ(迫真)」みたいなネタを使っていて、語尾に()を付けて言うのっておもしれえなって思って俺も真似して使っていた。
そしたら、その高校生が「元ネタ知らずに使う奴増えたよなあ」みたいな、古参ぶった物言いをしてきて、なんだこいつ工房の癖にと思って、ググってみたら、淫夢ネタなんだなこれ。
はまった。
面白すぎる。なんでこんなただのホモAVが面白いのかわからないが、突っ込み所が面白すぎる。
こ↑こ↓ 一つとっても、 監督の指示説、こっここ説、ここここ説 等等。
ひで に対する突っ込みもあるわあるわ。
びっくりした。一つの動画だけでもこんなに突っ込みどころってあるのか、考察するとこんなにあるのかってのがびっくりした。
あるいはそこらのつまらないビデオでも実は面白いとかあるのかもしれない。
まずいですよ!←なぜ他人事なのか
アイスティーしかなかったけど ←なぜ麦茶でなくアイスティーを常備しているのか?
みたいな、言われれば確かに!っていう突っ込みどころが深い。
ある種国語っつーか、文学の味わいっていうか。ピンチョンみてーな。
一番好きな淫夢キャラはAOK。(http://www.nicovideo.jp/watch/sm22135895)
恰好よすぎる。
なんでこんな面白いんだろ。
タイトルには嫌いと書いたけど、嫌いというほど強烈なものではないと思う。居心地が悪いわけでもなければ、過ごしづらいわけでもない。必要なものだって揃っているし、正直いって十分な暮らしをしていると思う。
でもなんとなくいやだ。夜ベッドに入って、ツイッターを見たり、ブログを見たり、友達とラインをしていて、ああいやだなあと感じることが多い。高校のときはもっとひどかったと思う。家が嫌いで嫌いで仕方なくて帰りたくなくて、学校が閉まるぎりぎりまで何をするわけでもなく教室に残っていた。1日中泣いていたり、1ヶ月ぐらい毎日保健室に通いつめていた時期もあった。
両親にはそのことを伝えていない。
匿名だから書けることもきっとあるだろう。だから今日はどうしてわたしが実家を嫌いなのか書きだそうと思う。これはわたしのまとめだ。わたしのための自分の気持ちの整理のためのまとめだ。でも、誰かに見て少し考えてほしかったのだと思う。そうじゃなければわざわざネットになんて書き込まないのだろう。自分でも自分が何を考えているかわからない。
まず母の話だ。
わたしの実家嫌いはきっと母によるものが大半だと思う。料理がうまいと父は言うが、正直いって給食のほうがおいしかったように思うし、至って普通の料理をする母親だ。お酢が好きで匂いも味もはっきり残るぐらい入れることがあるし、味の濃いものがすきなのか、味噌汁もいつも塩辛くて飲めたものではない。正直な話、どうしても食べられなかったときは母には内緒で鍋に戻すようにしている。母にはばれているのかもしれない。申し訳ないとは思うけれど、捨ててしまうよりは鍋に戻すほうが罪悪感が少なくてすむから、いつも鍋にいれてしまう。ああでも、よく考えたら母が流しにヨーグルトやラーメン、味噌汁、あげくはご飯まで、食べ残しをそのまま流すところを見るから、食べ物を捨てることには抵抗がないのかもしれない。だったら捨ててもいいのだろうか。わたしにはない感覚だな、と思う。
それから、わたしの母には浪費癖があり、ほしいと思ったらすぐに買ってきてしまうところがある。ほしいから、とか、かわいいからとか。便利だから、とか。まだ使えるものが家にはあふれているように思うけれど、気づくとなくなっているから、母は飽きたら捨てているのかもしれない。それか、すぐに物を捨ててしまう父のおかげだろう。母が買って父が捨てる。我が家では当たり前のことだ。自分がほしいと思ったらすぐ買うのか、服やバックも頻繁に買っているような気がする。わたしは今年で20になるけれど、高校を卒業してバイトができるようになるまではずっと、毎年1万円分、服が買えればいいほうだった。かばんは基本母のお下がりだったし、下着なんて2年に1回買ってもらえればいいほうだった。わたしは頑張っているから、とよく物を買ってくる母がうらやましくて仕方なかった。
母は家計簿をつけない。だから支出なんてわたしが生まれた20年前から一度もはっきりしたことがない。これを支えているのもお金に関連する仕事をしている父だ。父が毎月、いくら渡すかを計算して渡している。だいたいこれぐらい使ったのだろう、と父がいるからわかるけれど、父がいなかったら我が家はずっとその場しのぎでしか生きていけない家なのだ。言葉を度忘れしてしまった。なんていうんだっけこういうの。
ヒステリックで、母に非があるような物言いをすると怒鳴り散らす彼女が、わたしは怖くて仕方ない。母が横でしゃべっていると口を挟んではいけないと思ってしまう。三者面談のときも基本的に下をむいて黙り込んでいるのが常だった。何をいっても怒鳴られるように思うので、なるべく母の前では母の意見に肯定的になるよう返答している。いやなことでも一応はウン、といっておく。あとからどうしてうんといったのにやらなかったのだ、と怒られる。ごめんなさいと謝るけれど、母は最後に決まっていう。「あなたはうそつきだから」「どうしてこんな風になっちゃったのかしら」。
中学1年のとき、わたしは母に首を絞められたことがある。私立中学に入ったのに空気が肌にあわなくて不登校になったからだ。そのあと結局公立の中学に転校したけれど、転校するまでの1ヶ月間、どうしていかないの、早くいきなさい、当たり前のことにもウンウンと返して、でもいかない、を繰り返すわたしに、母がキレてしまった。玄関で押し倒されて首を絞められた。よく覚えていないけれど、息がすえないことにびっくりして、それから目が圧迫しているときみたいにちかちかして、わけがわからなくて暴れたように思う。離してもらえて首をおさえて放心していたら、母が泣いていた。泣きながら彼女が言った「あんたなんてうまなきゃよかった」という言葉をわたしは今でもよく思い出す。
次は父の話だ。父の話、といったけれど、本当に父のことに関しては書くことがない。あるといえば男尊女卑の傾向が強くて、口答えするとむっとされることが少し気になるぐらいだ。わたしは父に似ているといわれるけれど、基本的には理論的に物事を考えている父に似てよかった、と思う。1年ほど前に「女の癖に口答えしやがって」と酔った父に言われたことがあったが、まあそれぐらいだ。アルコール依存症で毎日日本酒を2~3杯コップについで飲んでいることも気になるだろうか。でもわたしが物心ついたときからこうだったし、飲んでも飲まなくても性格が変わらないのもあって、わたしは父がアル中なんだと気づくまでに相当な年月を費やした。具体的には18になるまで気づかなかったしそれが普通だと思っていた。頑固なところもちょっと気になるだろうか?それぐらいだろう。
あとは何を書けばいいんだろう。うちには弟もいることだろうか。弟はかわいい。わたしに似てひねくれてしまったのが残念だけど。
ここまで書いてきたのは全部家族の、というか大半が母の愚痴だけれど、実家の何が一番いやか、というと、ものの置き場所がないことかもしれない。6畳?7畳?ぐらいの部屋に、わたしと弟の机と2段ベッドが置いてあって、クローゼットの中(ここだけで2畳ぐらいあるのかもしれない、そこそこ広い)に、両親が別の部屋で寝る用の布団と、母の服と、弟の服と、わたしの服が入っている。コート2着とスーツとワイシャツをかけたらハンガーラックはもう一杯なので、あとは衣装ケース2つになんとか下着・靴下・インナー・パンツ・スカートとか、そのあたりをつっこんでいる。わたしには机があるからまだそこに教科書をおいたりできるけれど、母はクローゼットしかものの置き場がないから、なんだか可哀想に思えてこれ以上わたしの場所を増やすようにはいえない。
それから、宗教のことだ。我が家は有名な某巨大宗教に家族で入信していて、両親は毎年20万円ほど宗教団体の本部に送金しているようだった。母に聞いたからきっと間違いない。多いときは50万という年もあったらしいが、最近は20万ほどなのだという。わたしはみじんもこの宗教を信じていないけれど、生まれたときから両親によって入会させられていたし、母は狂信者なので、大変にうるさく信じろ祈れ、といってくる。ほうって置いてほしい。信じていないからいやだ、なんていったら泣かれるか怒鳴られるかだと思うからわたしはいつもそうだねあとでやっておくよ、と嘘を吐く。そしてまた怒られる。これもいやなことのひとつだ。
色々ごちゃごちゃ書いてきたけれど、要するにわたしは自分が可哀想だと思っているんだろう。洋服を買ってもらえなくてかわいそう。ものの置き場がなくてかわいそう。買ったら捨てろ、という父に物を捨てられてかわいそう。自分が一人になる場所がなくてかわいそう。親に意見がいえなくてかわいそう。本当にみじめな人生だ。
わたしはこれからどうなるんだろう。引っ越せばなんとかなるんだろうか。少なくとも後半で書いたことは解決できそうな気がする。でも宗教はどうだろう。追いかけてくるのだろうか。信じろと要求されるんだろうか。すごくいやだな。
機能不全家族なんだって思い込みたかったけれど、書き出していたらそうでもない気がしてきた。単純にわたしは自分を可哀想と思うことでしかアイデンティティを確立できないんだろうな。高校のときどうこう、と頭で述べたけれど、あのころはリストカットをすることでしか自分が保てなくて1日に数十回浅い傷をつけて流れる血を見て安心していたように思う。今はしなくなったけれど、こうやってネットに書き込んで、返ってくるかもしれない反響でどきどきしている。そんなことで落ち着こうとしている。
わたしのわたしらしさはどこにあるんだろう。家を出たら本当に大丈夫になるのかな。友達も少なくて、見てくればかりつくろうから深い付き合いをすることもできないのに。
いやだなあ。
永遠の0の作者なあ……。いっそのこと、思想的には対極の位置にありながら築き上げた業績では足の爪にも及ばない宮﨑駿に対して反旗を翻したのち、著作よろしく華麗に玉砕などして存在感が永遠に0になったら超面白いと思いましたが、映画大ヒットの報を拝見するかぎりそれも難しい様相で、なんとも盛り上がりません。
http://biz-journal.jp/2013/09/post_2979.html
この記事によれば「風立ちぬ」をべた褒めしたところパヤオからこれ以上ないカウンターでフルボッコ、という状況です。それについてのリアクションは寡聞にして知らない。そもそもパヤオに対する反骨の相もあるのかないのか……あるいはガン無視でしょうか。このテの人材がこうもボロクソ言われたら自尊心が刺激されないわけが無いのだが……。
さて、俗にいう“特攻”、自国民の消耗にもとづいた戦法を肯定的にとらえようとしている時点でコイツの視座が現実から乖離して形而上的ステージへと突入しつつあるのは明快であります。特攻を美化し、賛美したものを書物にしたため、売り物にしてお金を儲けている。劇中でも「史実を知らない現代の若者」に蔑視のまなざしを向ける配慮も忘れないと聞きます。映画は大ヒットだそうですから、さぞおいしいものを毎日たくさん食べているのでしょう。戦没者300万人をおかずに供して日本人の感動を誘い、その涙とともにこぼれ落ちたお金の力を使って召し上がる食事の味とは、果たしていかばかりのものか……。“第二次大戦中における日本戦没者のおよそ5割は餓死”という話とあわせて考えると大層感慨深いものがあります。
そのような彼の勢いはツイッターでもとどまるところを知らず、やたらと威勢のよい佞言を垂れ流してリツイートを稼いではえびす顔、というわけですからいよいよもって香ばしい。俺は当初、これほどの大ヒットを叩きだした小説家なのだから、賛否両論あるにせよ洞察に満ちた示唆をツイッターでも与えてくれるのだろうとおもっていたが、彼のツイートからプンプン漂ってくるのはネトウヨフレーバーの小物感でした。なに、これ。ただのクソウヨじゃないか……。彼の著作はゼロ戦モノなのに、申し合わせたように嫌韓嫌中というのも見逃せません。
これが、この人物こそが、本邦で話題沸騰中の小説家その人である。
この煉獄めいた事実には絶望と諦観を禁じ得ません。水嶋ヒロの話題で盛り上がるほうが5億倍マシだ……。
――敗戦濃厚な状況下にあって、それでも敵に立ち向かわねばならないという時に“お国のために命を捨てる”ということが美しいのか、あるいは愚かしいのか、そんなものは平和と飽食のなかに生まれ育った俺が一言に断じることは出来ません。が、国家という視点で眺めてみると、替えの効かない人間を100%使い捨てる「特攻」という手段が戦略的にはあきらかな悪手であり、絶対に死ぬという前提のもとで14,000名もの人的資源を消費してなお局面を打開することかなわず敗戦に至った、その現実を忘れてはなりません。
ところで、戦地に赴く兵員も守られるべき国民の一部です。まともな軍隊は無意味な命の消耗を決して行いません。生還が期待できない作戦に従事させるなどありえないと聞きます。なればこそ、最低限の技術すら充分に仕込まず、戦略的確信もロクにないまま、垂れ流すように人間を消費していった大日本帝國という組織が、もはやマトモに判断する頭を持っていなかったのは想像に難くない。というかそんなもん作戦でもなんでもなくて、呪術か狂信の域です。氾濫した川に人柱を捧げるとか、そういう次元の愚行。20世紀の話ですよ? そんなクソ『作戦』に殉じて死んでいった人間を「護国の英霊」だなんだと奉じてただただ祀り上げたり、「日本を護ってくれてありがとう」などと謝意を述べたりするのは、まず現実に即していないという意味において死者の耳に届くものではありません。
特攻では日本を守ることが叶いませんでした。われわれは、国を挙げた狂乱の最も哀れな犠牲者である彼らについて、ただただ哀悼の意を捧げるしかありません。まったくの非論理性に基づいて死んでいくことを強いられた彼らについて、国に身をささげて護ってくれた偉人だと位置づけるのは、どう取り繕ったところで美化だし、また身勝手にも程があります。
もし靖国神社におもむいたなら、特攻で死んでいった霊前に際して感じるべきは、決して感謝の意のたぐいであってはならない。ましてや参拝者自身のナショナリズム(笑)のズリネタとするなどもってのほかです。お前自身の事なんざどうだっていいわ。われわれは彼らに対して『あなたがたのような無意味な犠牲を今後二度と生み出すことのないよう、いついかなる時においても冷静な判断力を保持し続けるべく不断の努力をする』と誓わねばなりません。彼らの無意味な死に意味を与えたいのなら、彼らの教訓から悪い部分を点検・評価をし、処置・改善を施し、よりよいみちすじを計画し、そして実行する。そうやって戦後の我々がつねに賢く在ることで、彼らに報いねばなりません。それができなかったからこそ戦前の日本はあれほどの愚を犯したのだから。
――とは申せ、この国においては困難に取り組む姿勢や努力そのものが崇高であって結果は二の次三の次、という精神論が未だに根強いので、自爆攻撃が二度と繰り返すべきではない馬鹿げた愚行だと確信するにいたるのは少々先の話だとは思うのだけれども。とりあえず日本人が特攻隊員を美しく思っているうちは、いまなお旺盛なサービス残業はきっと無くならないでしょう、残念ながら。ていうかよくポツダム宣言なんて受諾できたもんだな日本……。
そんなウワサの永遠の0さんですが、述べたようにツイッターの閉じた輪っかの中で自らの考えを発信しては、同好の士(と書いてネトウヨと読む)のさんざ輻輳しきった肯定のレスポンスを受け取ってほっこりしているようであります。RTとfavの数字だけみたらまぁよくも次々と数百RTを連発するなあという感じですが、実際のところ汚泥が汚泥と混じりあって発酵していく毒の沼地のような醜悪さです。日夜この国のトラフィックを増大させてプロバイダの業務を1%くらい煩雑にしておりますが、その様子はナメクジ同士の交歓にも似た淫靡さで、読んでて正直恥ずかしい。とあるツイートなどでは『有事の際には9条論者を最前線に立たせ、彼らの物言いで戦争を止められるかどうか眺めればいい』などと超ドヤ顔で言いだす香ばしさ。うーん、これは上手いことを言ったつもりなのかな? たいへん粘着味あふれる皮肉センスで小生は惚れ惚れいたします。膨れ上がった自尊心が伺えます。かようなトラフィック上のクソですら、山ほどの(とはいえ3ケタ程度の)RTをされてしまう魔のフィードバックに取り囲まれた裸の王様こと氏は、お勤め時代ならいざしらず、今はもう自分の見たいものだけを見て生きているに相違ありますまい。実に幸せそうです。人間かくあるべきというお手本のような状況です。われわれ日本国民は、かの映画を見ることでこんなおもしろ人材を養っているのだという現実にそろそろ向き合う覚悟が必要でしょう。くわばらくわばら。
――以上は多少のオブラートに包んだ物言いでしたが、ただいまの気持ちに偽りなく申し上げるならば、先の大戦からこのようなスイーツ受けする感動話(笑)しか導きだせないこのようなボケナスは、有事の際においてまず靖国ならびに千鳥ヶ淵で1億回陳謝ののち速やかに最前線に赴き、一億火の玉の嚆矢と成り果てて欲しいと思った。氏の著書に感銘を受けたフォロアーが80人くらい同行するかもしれませんし。
映画の方ですが、あんな見え見えの地雷をだれが踏むかって感じなので5億円くれたら見たいです。ツイッターで感想をつぶやいた人々がおおむねスイーツ(笑)層とジャニオタ的人材である点には少しホッとしています。単純に「泣ける感動モノ」という文脈で受け止めているようです。とりあえず、根底をうごめくクソウヨ史観に運悪く感染してしまったインフェクテッドがそう多く見受けられないのは不幸中の幸いでしょう。人々はいまだ中庸なり。多分。
攻撃的な物言いだとか態度でない限り怒るのもいいんじゃない? 怒らずにきっちり自分のことを伝える事が出来るってのがベストではあるんだろうけど、それだけだと分かってくれない人もいるし。。。 どのくらいの態度や言い方で伝えるか、そういうバランスを考えていければいいような気がする。 相手によって押し引き出来るバランスも含めて。
はてな村の住人は分析や論理を重んじる。重んじ過ぎている、とすら言える。
先日、昔投稿していた小説サイトを久しぶりに覗いて、過去の自分の作品を読んでみたのだが、技術の如何はさておき、小説としては今はてなで書いている自分の文章よりはるかに面白い。
当時は自分の小説がそんなに面白いものだとは考えていなかった。プロの書くものにはかなわないと思っていた。
歴史ものを書くときには史料にしっかりとあたるように心がけていたが、それ以外のジャンルを書くときには、感性の赴くまま、理性のたがを外すようにして、心の隙間から生まれ出てくるものをそのまま創作物にしている感覚だった。
それは謎を謎のままとして楽しんだり、不可解なものごとに理由を付けず、ただ気味の悪いものとしてそのまま恐れるような感覚を文章にしていたといっていい。
それに比べて最近の自分が書いている文章は、論理的で分析的かもしれないが無味乾燥だ。なぜこんなに心が乾いてしまっているのだろう。
2chやはてなで論争を繰り返し、理論武装するようになってからこうなってしまったように思う。
謎や不可解なものの裏側にある秘密を暴いて、構造を明確にしてゆくと、圧倒的なものに触れたときに生まれた表現への初期衝動は薄れていく。「セックスなんて所詮脳が生み出す電気信号のやりとりに過ぎない。脳の特定部位に電極を突き刺せば同等の快楽は得られる」などという、大脳生理学にかぶれた輩の物言いにも似た事態だ。
とはいえ、その物言いは、事実無根だと切り捨てられないのがもどかしい。たしかにセックスのときに人間が感じている感覚は、脳の反応を見ればただパルスが適当な部位にはしっているだけのことだろう。いや、そうではないのだ、といくら強弁したところで、科学的な根拠は提示できない。ネットの言い回しを使えば「ソースはない」ということになる。
学研の「ムー」という、オカルトの有名雑誌がある。どう読んでもネタとしか思えない。だがしかしひょっとしたら事実かもしれない。そんな虚実の入り混じった面白さを楽しむことが、かつての日本の言論状況では可能だった。しかし、はてな村以降の世界では、虚実の虚には完膚なきまでに論破され、挙句、あんな曖昧な雑誌はなくなってしまえばよい、という科学原理主義者の物言いが正当化される。
別に私もあんな雑誌がなくなっても日常生活に不都合はありはしない。しかし、日常を彩るエッセンスのひとつとして、タバコやコーヒーのように、害を知りつつもほどほどに付き合い、楽しむことが出来るものとして存在していてもいいのではないか、と思うだけだ。
都市伝説のひとつも存在しない、川口浩探検隊のような種類のエンターテインメントがまったくない世の中が、今よりも素晴らしいといえるのだろうか。
サブカルチャーの中で描かれる妖精や精霊は認めるのに、一方で、その源流たるアニミズム的な発想はくだらないオカルトとしてバッサリ切リ捨てるような状況には、矛盾したものを感じなくもない。
散漫になった。まとめると、創作に感動をもたらすのはうさんくさい「隙間」だ。隙間なくびっしりと埋められた世界からは、感動するものは出てこない。逆に言えば、感動は理由づけした時点で死に絶える。批評は重要だが、創作物には作者すら理性的には踏み込めない部分があり、そこは尊重する必要がある。
目に見えない可能性を潰して回っていると、人類の世界を見る目は皮相的な、浅いものになっていくばかりだ。何もファンタジーに限らない。全部理論的に何一つ矛盾なく説明できるSFは突飛さがなくつまらない科学読み物になってしまうし、予測不能の事態が起こらない歴史ものは教科書を読んでいるようであくびが出る。
この文章にも反論はあるだろう。論破しようとすればいくらでも出来るだろう。理屈と膏薬はどこへでもつくのだから。しかしひとつだけたしかなことは、隅から隅まですべてを認識し、理解し、分析しようとする態度は、感性を殺す。仕事のときならそれもいいだろう。仕事は感性と関係がない。しかし仕事と離れた場所で、つまりはてなブックマークや匿名ダイアリーで、仕事のように論理的な態度を崩さずにいることは、不健康だ。もっとはてな村は気楽になったほうがいい。クリエイティブな空間としてはてな村が再生されることを望む。
http://anond.hatelabo.jp/20131228190610
フェミは普段から男性社会のアラを探して、糾弾して、共感した女性を取り込む感じで組織を維持してるので
彼女らはネタがあると止められないんじゃねーかな。やめらんない。BBA乙。
ネットでは批判がうまいやつがヒエラルキーの上の方になりがちに見える。これは実社会でも同様かもしれないが。
その方が同情を誘いやすいからさ、自然と過激な物言いが増えてしまう。
技術の発展自体は女性の地位向上に寄与してると思うんだけどねぇ。
洗濯機にせよ、炊飯器、冷蔵庫、どれも女性の家事労働からの開放を促してきた、それがあるから今の社会進出があると言ってもいい。
昨夜テレビで炎上討論会みたいな番組がやっていて妻が観ていた。あるお題について芸能人達が「賛成」「反対」を表明してごちゃごちゃ言い合う番組だ。
この時間帯の番組にしては珍しく露出多めのアイドルがいなくて残念なまじめそうな番組だったので本を読みながら横目で見た。
深夜番組なので限られたリソースで作る実験的な番組だったんだろう。構成はシンプルで、ネタはネットを意識したつくりになっていた。
見始めたときのお題は、少し前に話題になっていた
「飛行機の中で赤ちゃんが3時間泣きっぱなしだったからちょっと変わったおばちゃん有名人がブログで過激な物言いをした件」
についてだった。もっとも、番組で印象的だったのは議論自体じゃなくてモギーだった。
とにかくモギーはごちゃごちゃうるせーし、人の話聞かないでつば飛ばしながら同じこと連呼するしマジでなんなんだこいつは、さっさとつまみ出せとか思いながらみてた。
そんでその話題が終わってCMに入ったので席を立った。歯磨きしてからリビングに戻ってきたら新しいお題が始まってたんだけど
画面に映ってたのが見覚えのある色白でひょろっとした青年だった。一瞬だけ「あ、これ誰だっけ」と考えてからはたと思い出して
「あ、イケハヤだ」と無意識に口に出してしまった。妻がすかさず「やっぱり知ってるんだ」と言った。
冒頭で「ネット」とか「ブロガー」とかそんな言葉で紹介されたんだろう。常日頃ネットにどっぷりな夫なら知ってるに違いないと考えていたらしい。
イケハヤがテレビで見られてちょっと嬉しくなった俺はどや顔で言った。
「そりゃ知ってるよ。有名なネットアイドルだからね。」(露出は少ないけど)
妻が「なにそれ」と笑う。
これ以上イケハヤをどう説明していいか分からなかったが、フルタ製菓のCMを思い出して
日曜朝アニメの合間でCMに出てるあの人だよと伝えようとした。もちろん一家3人ともあのジョブズCMは知ってる。
口に出そうとした直前、平日朝は毎日「トクダネ」を見てることを思い出したのでこう言った。
「トクダネに出てるヤマモトイチロウって人いるじゃん?あの人にボコボコにされた人だよ!」
声のトーンが一つ上がるぐらい嬉しそうに言った。
妻が「えっ、なにそれ」と笑う。