2013-12-28

あの程度で「性奴隷を作りたがってる」とか言ってるんじゃねーよ

 

長文が読めない奴のための3行要約

 人口知能学会誌の表紙が女性差別であるとして炎上した件について考えた。

 結論1.学会誌の表紙が差別的印象を与えかねないという指摘は妥当だが、批判者たちのことばは過激にすぎる。

 結論2.その結果、こうした性差別的問題に関わること自体が非常に厄介なものになっている。

 

当該表紙の是非についての私見

 俺自身は、当該学会誌の表紙を見ても女性差別的だとは感じなかった。例えば表紙の女性露出度の高い服を着ていたり、首輪をつけていたりといった明確な性的/奴隷モチーフがあれば別だが、表紙の女性虐待されたり奴隷待遇を受けていると感じさせる描写は特になかったように思う。

 そもそも掃除ロボットが人にそっくりな姿形をしている必要があるのか、という疑問はないではないが、人工知能というイメージをわかりやす表現するためにあのような形になったのだろう。

 いずれにしても、俺は、ことさらあの表紙がひどいとは思わなかった。

 他方、あの表紙を非難している人の意見には、頷けるところもある。

 例えば、女性奴隷的に家事労働を担わされてきた/担わされているという事実があり、家事労働女性がするものである、という性別役割を結びつけるような差別的意識が多かれ少なかれあるという現状を踏まえたときに、ことさらそうした差別的意識助長するような表紙を掲載することは倫理的妥当ではない、という主張は、一定妥当性を持つ。学会側にそうした意図がなかったにせよ、差別的メッセージを読み取って傷つく人がいるかも知れず、そうした人に配慮すべき、という主張は、おそらく"倫理的に"正しい。

 とはいえ、そうした倫理的な配慮の欠如は、果たしてそこまで非難されるべきものなのか。特に学会イラストレーターに対して「差別主義者」だの「性奴隷を作りたがってる」だのと言うのは言いすぎだ。せいぜい、「配慮が欠けている」くらいではないだろうか。これは炎上案件の多くに言えることだが、犯した失敗に対して制裁が強すぎやしないか

 また、学会誌の表紙に女性イラストを載せること自体男性的な欲望の発露で気持ち悪いという意見も聞くが、これについては、今回の表紙で言えば、女性の服装も容姿も姿態も特に萌え性的イメージ押し出しものではないので、的外れ意見だ。初音ミクが表紙になった学会誌比較的好意的に話題になったことを踏まえても、今回の表紙がことさら逸脱したということはないだろう。

 

対立構図の不毛

 今回の騒動を見て感じたのは、性差別に関する感覚絶望的な断絶だった。

 何を差別的だと感じるか、どこまで差別的だと感じるかというのは、明確に線引するのが難しく、曖昧な部分というのは多くある。例えば、今回の表紙だってコミックス小説の表紙であればここまでの反発を受けることはなかっただろう。そこには、「学会誌の表紙」はコミックス小説の表紙に比べてより公的であり、それゆえより繊細な倫理的配慮が求められる、という前提がある。少なくとも、批判者はそういう前提があると考えている。

 しかし、実際にはあの学会誌はかなり限られた人向けに向けて作られている(人工知能学会誌を購読するためには、人工知能学会に入会する必要がある)。そのため、あの表紙案にそれほど公的な配慮が求められるとは考えていなかったのだろう。表紙を描いたのは女性らしいが、役員構成は22名中21名が男性で、性差別に対する配慮という点では、内部のチェック機能が働きにくかった可能性もある。

 つまり学会側にしてみれば「不用意に歩いていたら地雷を踏み抜いた」といったところで、このような炎上はおそらく青天の霹靂だったろう。性差別比較的敏感な人達にとってあれだけ問題となった表紙であっても、性差別に鈍感/寛容な人達にとってはその何が問題なのかよくわからない、という状況なのではないだろうか。

 ヘイトスピーチや直接的暴力があったならともかく、今回の炎上はむしろ差別意識に対する認識の違いに起因しているように思う。例えば、今回の炎上を受けて、人工知能学会は以下のようにコメントしている。

ネット上で広く議論をしていただくのは有り難いと思っています学会としては、女性差別したり蔑視する意図はありません。ただ、そういう意見もあるときちんと受け止めて、今後の表紙デザインを考える上で参考にしていきたいと思っています

人工知能学会誌の表紙、女性イラストレーターが描いていた

 このコメントは、「私たち女性差別意図はないが、差別であるという意見は受け止める」という趣旨であり、やはり認識のズレの問題だとされている。であれば、そのギャップを埋めるための理性的な話し合いの余地はあるし、そうしたコミュニケーションこそが重要だと思う。

 トゥギャッターまとめなんかを見ていると、互いの主張が噛み合わないまま、悪罵と中傷を投げ合っているような印象を受けた。それでは、まとまる話もまとまらないと思う。悪罵や中傷揶揄をしても説得可能性は著しく低いわけで、むしろそうした振る舞いはコミュニケーションチャンネルを狭める結果にならないだろうか。

 

差別について語ることの難しさ

 差別の問題というのは、なにが差別でなにがそうでないのかという線引きが難しい部分がある。

 具体的なヘイトスピーチ暴力であればわかりやすいが、例えばセクハラであれば、肩をたたいたり、容姿や服装についてコメントしたりするとセクハラになる場合がある。黒人の唇を厚く描いたら抗議を受けた漫画もあった。

  そういう、「差別」の境界線が見えにくい部分は数多くあるが、特に言及に注意が必要なのはマイノリティについてだ。マジョリティにとって、マイノリティに対する配慮を感覚的に行うことは難しい。例えばセクシャルマイノリティのの中には、履歴書などの性別欄に男と女という選択肢しかないことに悩む人がいる。あるいは、性別欄がある事自体に悩む人がいる。そうした悩みは、マジョリティにはなかなか共感しにくい。

 多くの人は、差別などしたくない。したがって、自分の言動が誰かを傷つけないように配慮している。しかし、繰り返すが、どういう振る舞いが差別になるのか、ということがわかりにくいことが多々ある。差別的意図など全くないのに、それが差別だと受け取られることは起こりうる。

 そうして、うっかり誰かの地雷を踏んだときに一瞬で炎上する可能性があるというのは相当にリスキーだ。不用意なひとことによって差別主義者のレッテルを貼られたり、職場などで不利な立場に追い込まれるとしたら、それは地雷原を歩くようなものだ。差別的意図がなくても、一定確率地雷を踏む。

 それゆえ、比較的賢い連中は、マイノリティに言及すること自体を避ける。言及すれば、一定確率で誰かの地雷を踏み炎上するおそれがあるから、一切言及しないという対策を取るわけだ。こうして、マジョリティマイノリティの断絶が拡大する。 マジョリティ側の人間にしてみれば、おそらく断絶は合理的だ。マイノリティに関わる必然性基本的にないし、必然性があった時だけ、最小限の関わりを持てば良い。しかし、現に何らかの差別に苦しんでいるマイノリティがいるとしたら、こうした対応をされることはおそらく不利だ。マジョリティと断絶すれば、差別をなくすための運動社会的な賛同を得られず、力を持たない。差別が現にあるならば、その差別はあり続ける。

 したがって、マイノリティマジョリティ側の不用意な発言に悪罵や嘲笑を向けるのは自滅的行動だ。そうして発言者炎上させれば、マイノリティは怖い存在になり、いわば「弱者という強者」だと誤解される。そうなれば先に論じた断絶は進むし、あるいは在特会のような気持ち悪い連中がでてくるかもしれない。いずれにせよ、マイノリティの地位は決して向上しない。

 これは、マジョリティ不用意な発言を批判するなと言っているのではない。批判の方法を考えるべきだと言っている。少なくとも、SNSで悪罵とともに晒しあげるのは妥当な批判方法ではないだろう。

 以上の話は、主にセクシャルマイノリティ念頭に置いて書いた。しかし、これは他のマイノリティ左翼一般にも当てはまる。特定秘密保護法にせよ都条例にせよ反原発にせよ、人権を振りかざした絶叫デモを行ったところで、それは彼らの孤立を深める結果にしかならない。

 マジョリティを説得するためには、もうすこしやり方を洗練させる必要があるのではないか

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