はてなキーワード: 妖怪とは
子宮をぞうきん絞りされる中
ビチグソと鮮血を何度も何度もトイペで拭き上げ
蒸され擦られヒリつくケツにため息をついたこともないくせに
女の生理に何かを言うな
合わない机、届かない棚、手が痛くなるキーボード
エレベーターでの1%の神経
残業帰りの夜道
少なくとも労働させていただくということは
お前は「熱があるので休みます」に何℃か確かめないと気が済まないのか
賢しらにお前の薄っぺらな定規を当てて
誰かのしんどいを計ろうとするな
ましてや家に住めない災いの只中にある人の、
「ナプキンがほしいです」に、一体、何を言うんだ
十代のある日突然パンツに鮮血がついて
もう自由に走り回る日々は終わったと知って
下腹部と地面が鎖で繋がれて
たくさんのポケットを持てるくせに
ぐったりとした眠気 血が足りないまま薬を探す朝
「ああ今日か」を知らないくせに
惨いニュースにあと何度心を折らなければならない
痛みをくれてやりたいよお前の気が済むように
無関心をくれ
それは配慮じゃないんだとあと何度
無関心をくれ
一抹でも怒りを覚えた、おまえ
大丈夫です。もういいです
大丈夫です。諦めて下さい
そっと安心だけをくれる人もいた
無遠慮の盾となり守ってくれる人もいた
痴漢を捕まえてくれてありがとうと泣きながら何度頭を下げても名乗らなかったあの人
一人一人をずっと覚えている
もうとっくに、お前は違うってだけなんで
大丈夫です。消えてください
だからどうか見ないでくれ
近付かないでくれ
関心を持たないでくれ
陳列しないでくれ
女は脱げない
人間でいたい
女へ言いたいことは、一つだけ
https://www.hitohaku.jp/material/kids-toolbox/namazue.pdf
地震鯰をモチーフに世の中を風刺する色刷り瓦版(鯰絵)が大量に出まわり、江戸庶民に地震を起こす鯰=地震鯰のイメージが定着しました。
こうして息を吹き込まれた地震鯰は、幕末の激動期をへて明治時代の中頃まで、庶民の間で生き続けることになります。
鯰絵から生まれた「世直し」や「万歳楽」という大地震に対するイメージも庶民の間に深く根付き、明治・大正の世になっても大地震が起きると、人々は「世直り」とか、「万歳楽」と叫んで外へ逃げ出したということです。
江戸期でも明治大正でも、メカニズムの説明として信じられていたというよりミームとして流行っていただけのような気がするけどなあ
コロナ退散アマビエアマビコ言ってる記録を後世の人が発見して令和日本人は妖怪の実在を信じ病魔退散を祈っていた
鯰説の根拠は物識りに聴かなければ確かとしたことは分らぬけれども、志那傅來であることだけは疑ひもない。
「地下のナマズが暴れると地震が起きる」説はいつごろ廃れたのか、について調べていた
おおよその流れは掴めてきたので一旦ここにまとめる
結論から言うと、明治元年(1868年)ごろから急速に地震鯰信仰は失われたと思われる
オランダの辞典をもとに、地震がなぜ起きるかを科学的に説明した内容を翻訳した
鯰絵が大流行した
しかし「鯰絵が流行した=民衆は地震の原因を鯰だと信じていた」と等号で結んでいいのか?という点はちょっと怪しいと思っているのだが……
というのも江戸時代末期の時点で、江戸の町民はお化けや妖怪の実在をどうやらあまり信じていなかったように資料を見ていると思えてくる
お化けや妖怪の実在を信じない人が地下の大鯰を信じるというのは不自然に思える……という感覚は21世紀に生きる人間の感覚だろうか
『泰西地震説』は学者が読むような専門書で、一般民衆にはあまり読まれなかったのだろうか?
江戸時代にもいくらかは民衆が読むような蘭学書が流通していたようなのだが、地震の原因を科学的に解説するようなものはなかったのだろうか?
当時は陰陽五行思想を信じる人が多かったはずなのだが、この思想では地震をどのように説明している?
鯰絵について語られた本でKindleで買えるものが無いため、追加調査は図書館か本屋で資料を入手してからになる
小幡篤次郎、後の慶應義塾長、『学問のすゝめ』を福澤諭吉と共著した人物
地震の原理について、『泰西地震説』で解説された内容とだいたい同じ説明がされている
こういう本をわざわざ出版する必要があったということは、これに書かれた知識は当時広く知られていなかった……とみることができるか
西欧に追いつこうという強い意欲が見える気がする
明治初期の就学率は今と比べると低くはあるが、この本によって一部の若者に対して啓蒙が行われた
これによって明治に生きた若者は地震鯰を迷信と見なすようになったのであろう
「私の父は地震鯰のような俗説を信じていてやれやれだ」みたいな記述がこの時代にもし存在すれば嬉しいのだが……
また、教科書ではなく大人が読むような啓蒙本はどのようなものがあったのだろうか?
民俗学方面からばかり攻めていたが、明治維新に関する読み物を探すのもありか?
M5.5程度で揺れはそこまで大きくなかったようだ
この地震を体験したジョン・ミルンというイギリス人が地震研究に関心を持ち日本地震学会を創設した
濃尾地震
科学者が地震調査のため派遣された、のような記事が新聞に載っている
ただ「鯰絵が描かれた=民衆が地震の原因を鯰だと信じていた」にはならないだろう
『江花叢書』第1巻
当時のエッセイ的な読み物
関東大震災に対する四方山話からの流れで「地震と大鯰」という題が名付けられた項がある
一部引用する
鯰説の根拠は物識りに聴かなければ確かとしたことは分らぬけれども、志那傅來であることだけは疑ひもない。大地の下には大鯰が生棲して、平生は辛抱強くじつとして動かぬけれども、どうかした拍子に其の尾鰭を動かすと大地が震動するのであると云ふので、我邦では正直に之れを信じ、
「正直に之れを信じ」という表現から、今は信じる人はいないというニュアンスを読み取る
「おじいちゃんが子どもの頃は地震の原因は鯰だと思っていてね」と語る人がいてもおかしくない年数だ
科学とか西欧合理主義が流行った結果、地震鯰信仰のような俗説が廃れたんだろうなあ
ひと段落したら明治大正を生き延びた俗説で何か面白いものがないか調べてみたい
先に読んだ方が民俗学的視点が備わって調査の全体の見通しがたつかもしれない
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明治時代より前の時期の日本において、「なぜ地震は起きるのか?」のような原理の解明を目指した学者がどうにも見つからない
あるいは調べ方が悪いのか……
幕末の日本人は地震ナマズを信じていなかった、ではいつ頃まで信じられていたのか?
もしそうだとすると「地震の原因がナマズというのは俗説だ。本当はこのようなメカニズムだ」という探求が行われていてもいいではないか
見つけることができない以上、ナマズ説を信じていたのかもしれないと消極的にだが認識せざるをえない
儒教においては「陰だか陽だかの気が地面から噴き出る時に地面が揺れる」のような説明がされているらしい
日本の儒学者はそれを信じていた?だとすると江戸の民衆のその説をどの程度認知していた?
あるいは「ナマズが原因ってことはないだろうけど、本当の原因が何かと聞かれると分からんなあ。詳しいことは学者先生に聞いてくれ」というスタンスが大多数か
日本人の宇宙観を調べた時にも思ったが、当時の天文方は観測と暦の作成にばかり注力していて「なぜ?」という問いを立てない
調べることだらけだ、学生の頃に日本史や世界史を選択しておけばよかった
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また、火山、雷雨、地震の3つセットを司る龍神がいるという信仰もある
ナマズが俗説ってそういうこと?
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しかし本来は本業に関する勉強をして給料を増やす努力をすべきなのだろうが、仕事と関係ない本ばかり買って読んでしまう
悲しいね
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トラバやブコメにあまり反応しないようにしているのだが(そこそこの確率で不毛なので)、今回は必要を感じた
鯰絵はアマビエブームと近いものを感じるという意見には強く同感
ただ、いろんな本や資料に「昔の日本人は本気で地下にいるナマズが地震の原因だと信じていました」と書かれているんだよな……
これに強い疑いを抱く
しかし、アマチュアの私が思いつくようなことをプロの研究家が思いついていないわけがない……
なにか根拠があるはずと信じる
清書の予定は……調査がひと段落したときにあるいはありえるかもしれない
追加調査は資料入手待ちとか頓挫とか色々な理由でできていないことが多い
追加調査の結果を追記しようとすると買った本の内容丸写しみたいになりかねず、倫理的にどうなの?という気分を拭えず自分の中だけで調べた結果を味わうこともそこそこある
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先行研究
神や仏に敬虔に祈りを捧げない一方で迷信深い、この点は現代日本と地続きに感じる
この庶民の信仰の深部に最も接近した欧米人は、明治に来日したアメリカの女性教育者、アリス・ベーコンであろう。彼女は「村を見おろしている岩の頂上は天狗が作った」。「天狗はもうこの森から去って今はいない」。さきほど「山の神様の使いである大きな黒蛇が、いましがた、ここを通った」と説明する陽気な老女に接し、「神秘で不可思議な事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど」、「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を私たちの心に湧きあがらせてくれた」と表した。
考えてみれば迷信深いお婆さんは昔は迷信深い若き女性だったかもしれないわけで、幕末だとその考えがスタンダードだった可能性があるわけだ
この引用箇所は別の文献からの孫引きになるのでこういうことするのは本当はよくないのだが……
該当箇所は『逝きし世の面影』という本からの引用……kindleあるじゃないか、買います
これを書いた渡辺京二という方の著作はすべて読んでもいいかもしれない
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現代を生きる信心深いキリスト教徒にとって「神は実在する」と「妖精/人魚/ドラゴンは実在しない」の考えは矛盾なく両立するのではないか
(「実在」という言葉の定義をしっかり言語化しないととまずい気配を感じる……)
同様に幕末の江戸町民にとっても「神/仏/龍神/大鯰は実在する」と「妖怪/お化けは実在しない」の考えは矛盾なく両立する可能性がある
別に幽霊じゃなくてもいい、今の科学の説明の外にある現象……思念、怨念、呪い、妖怪
死者の怨念が現世に何か影響を与えると認識している、と言っていいのかどうか
「祟りは信じていない。しかし祟りを信じている人の信頼を損なうので祟られるような行為はしない。」というスタンスはありえる
「祟りは信じていない。しかし何か起きたときに祟りだと言われて面倒になるので祟られるような行為はしない。」というスタンスもありえる
では龍であればどうか
「池に石を投げる/泳ぐ/汚すと祟られる。龍神様が住む池だからだ。」という謂れがある池のタブーを信じるかどうか
実在を信じる人もいるかもしれないが、おそらく多くの現代人は龍神の実在を信じはしないけれどタブーも侵さないだろう
いや、これは本当に自信が無い
ルールだから何となく守るだけで深く考えていないという線もありえるし
シンプルに池を汚すのは良くないことだから、という認識があるので龍とか関係ないという話はもちろんあるだろう
これは例えば江戸時代や明治時代の史料を調べていて、祟りだとか龍を見たとかいう記述があったとして、それを文字通りに受け取っては不味い気がするという話
箱根以東の江戸側には野暮な人間と化け物はいない、という田舎をバカにする言い回し
これだって「化け物はいるかもしれないが江戸の周りにはいないよ」という含意があるのか
それとも「化け物なんてどこにもいないよ」という含意なのか
また、「郷とお化けは見たことがない」という言い回しも存在する
この言い回しはいつ頃の時代から言われたものなのか未調査なのだが……
南北朝時代の郷という刀工が作る刀には銘が無かったため、後の時代で無銘であるが郷だろうと言われるものしか存在しなかったらしい
そのため前述の「郷とお化けは見たことがない」というフレーズが出てきたようだ
こういう言い回しがある時点で当時既にお化けの実在は信じられていなかったのでは?と感じる
でもそんなこと言いながら地震が起きたら鯰絵が大流行するんだよ
お化けや妖怪は信じないのに地下の巨大ナマズは信じるのか?それとも信じていなかったけれどお話として楽しんでいたのか?
当時の人々にとってのリアリティがどのようなものか、を調べていきたい
江戸という都会だと例えば河童なんかはリアリティがなかったのかもしれない(未調査)
しかし、原理不明である地震には説明が求められたので大鯰が語られリアリティがあった?
竜巻あたりも同じ話だ
明治時代の錦絵に竜巻を眺める人々の様子を描いた「怪雲現る」と題されたものがある
貴重資料展示室050 市井の天候資料 - 国立天文台暦計算室
その絵には
怪雲現る 明治廿三年六月十八日午後三時半頃東天に當て黒雲現れ其中央より遥に地下に向て尾を曳き螺形に捲上げ動揺きて見へしハこれぞ謂る龍の昇ならん道行人は皆一時ハ立とゞまりて眺めけり
という文も添えられている
この文から当時の人が龍の実在を信じていたかどうか読み取ることが出来るだろうか
「(龍はおそらく実在しないけれど)いわゆる龍の昇天と呼ばれている現象だ」という文意なのか
あるいは「あれこそ龍が昇天するときの現象だ」という文意なのか
「龍の伝承,とくに東海地方の竜巻と台風について」という論文によると、
との記述がある
ユニコーンの話でいうとシェイクスピアの『テンペスト』の作中に
なんでも信じたくなる, 一角獣が実在することも,. アラビアには不死鳥の王座と呼ばれる樹があって,. いまもそこに一羽の不死鳥が君臨しているという話も。
というフレーズがあるようだ
だいぶ古い!
やっぱりかなり古い時代から疑ってはいたようだ、実在も不在も決定的な証拠が無かっただけで
グリフィンなんかはこれより少し後の時代に実在を否定する人が出てきたようだ(しかし実在派から反論を受けている)
『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』(原書房) - 著者:ボリア・サックス 翻訳:大間知 知子 - ボリア・サックスによる本文抜粋 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS
グリフィンの実在を否定した作家のトーマス・ブラウンに反論して、スコットランド人聖職者アンドリュー・ロスは17世紀半ばにこのように書いている。
グリフィンは想像上の生き物だと他の著述家が言ったとしても、彼らがそう言ったというだけでは、証明するには不十分である。なぜなら世界にはそのような多数の「混成された疑わしい」動物が存在するからである。アコスタ[スペインのイエズス会士で博物学者]は、一部はロバに、もう一部は羊に似たインディアン・パコス[ラマ]という動物について述べている。レリウス[フランスの探検家]はブラジルのタピルス[バク]について述べている。これはロバと未経産雌牛に似た動物である。その他に、飛ぶ猫や飛ぶ魚、キュノケファロスと呼ばれる犬の頭部を持つ猿のように、混成動物に関する多数の記録がある。コウモリは一部は鳥で、一部は獣である。
そうなんだよな、やっぱり不在証明って難しいんだわ
なお『図説 世界の神獣・幻想動物:ファンタジーの誕生』は買って読んでいる最中だがなかなか難解で読み進めるのが大変だ
こんなところか、いったん今の考えをまとめた結果
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https://togetter.com/li/1912610
漫画本編はまとめに載ってる(作者が宣伝用に全ページうpしてる)ので知らん人はまず読んでどうぞ
https://b.hatena.ne.jp/entry/4722072961604756130/comment/IthacaChasma
内心の自由についての考えが深まる怪作。先生の内面も高潔だったら、きっとサトリ君は救われていないと思う。そして先生が口に出して言っていること(外面)は全て正しい。
賢しげにこんなこと言ってる&星つけてるブクマカが実際は全く内心の自由について考えておらずただ自分の思い込みを強化しているだけとバラしたので確かに怪作
なぜならこの漫画は「内心の自由の尊重についての物語」ではなく「内心の自由が崩れている世界の物語」だから
作者にその意図があったかどうかはともかく作品はそうなっている
先生が口に出して言っていることが正しい?
普通に保身のために嘘ついてるが?
「アンタのそのイカれた本性 必ず表に出させてやるッ!!」
はてな民は人権とか詳しいから3秒考えれば分かると思うんだけど、「読心術で知った他人の内心を周りにバラす」が内心の自由の侵害といえるかどうかはかなり微妙
むしろバラすことを禁止してしまうとサトリくんが自分の知っていることについて自由に発言する「表現の自由」の侵害になりかねない
「恋心を打ち明けられた人間はそれを一生黙っている義務を負うのか?」はブクマカの間でも意見が分かれたのを覚えているだろう
もちろん自分の恋心を自分の意思で打ち明けた一橋の事例と無許可で心を読めるサトリくんの事例は根本的に違うが)
外形と内心を同じように感知できるサトリくんにとっては「ねえねえ、僕の担任の先生はメガネの若い男の人なんだよ」と「ねえねえ、僕の担任の先生は僕の首を蹴りとばしたいと思ってるんだよ」の間に違いはない
まあさすがにこの内容だと名誉毀損濃厚だが、例えば「先生はハムスターを飼いたいと思っている」程度の穏やかな事柄を暴露するのがどういう法律に抵触するというのか
秘密を守るとの約束(つまり口頭での契約)があったわけでもないので民事でも厳しい
なぜこれほど先生に不利な事態になってしまうかというと、サトリくんが心を読んだ時点で内心の自由という原則が崩壊しているから
読心術はその前提を壊すから憲法の自由権全般の作り直しが必要になる
仮にサトリくんがクラスメイト全員に読心能力を与えることができたならと考えると崩壊の様子がわかりやすくなる
重要なのは読心能力者の間では互いに心を読み合ってテレパシーができること
こうなってしまえば他人の内心の暴露も誹謗中傷も企業秘密の漏洩も何もかもが合憲的に合法的に行える
読心能力を得た生徒たちは先生の心を読んでさまざまな感想を抱くだろう
そしてテレパシーで話し合うだろう
表面上は平然と振る舞うことはほとんど不可能だろうし、仮にできたとしてそのような状況で先生の尊厳が守られているとはとてもじゃないが思えない
口に出して話をしてしまうほうがまだマシではなかろうかとすら感じる
ただし実際にはサトリくんは1人しかいない
だから先生は良心の自由原則が壊れたことを他の人々から隠蔽しようと、消滅してしまった自由がまだ存在するかのように見せかけてサトリくんを脅しているしそれは上手くいきそうに見える
しかし内心の自由は読心術を持たないホモサピのポジショントークにすぎないのでサトリくんにそれを押し付けるのは多数派の暴力だ
視覚を持たないヒトデが地上を支配して「視覚から得た情報は一生心の中にしまっておくべき。表に出したら権利侵害」と言い出したら理不尽だと思うだろう
幽遊白書の実写が許せなかった
Netflixで配信されている幽遊白書を見たが、許せない点が複数あった。
実写のネタバレを含むので注意。
1点目はたった5話(約250分)で終わっているところ。そりゃあんな出来になりますわ。
私が漫画を読んでいて感じた桑原は、器用ではなく色男でもなく間抜けで、決して強くはないが、
それでも妖怪に立ち向かい友達思いで泥臭く熱い男である。簡単に言うと単純で真っ直ぐだ。
実写ではなんかカッコいい見た目で見せ場が微妙でモブかよと思ってしまった。※演じている人が悪いとは全く思わない。配役と脚本考えろよと思った。
いやいや、桑原1人で幽遊白書の実写が許せないとかと思う人がいるのも分かる。
私の中の幽遊白書は浦飯幽助、桑原和真、蔵馬、飛影の4人で完成している。誰一人欠けてもあの名作は生まれなかった。
浦飯幽助は伝え方は下手くそだか、うちの思いは熱い真っ直ぐ人。The 主人公なので良くも悪くも個性はあんまりない。
蔵馬は女性っぽい見た目でイケメンでクールで頭も良い。志尊淳という、その人がいたか!と納得させてくれる配役で、妖狐も私的には似合っていた。
飛影は子供っぽい一面もあり、中二臭いカッコ良さで自己中心。本郷奏多も合っていた。欲を言えばもう少し中二臭さが欲しかったが前述した5話で終わるのを考えると仕方ないかなとは思った。
そして桑原である。前述の3人に足りていないおバカでカッコ良くない点を補うキャラだ。
カッコ良くはないが、その真っ直ぐさがカッコいいキャラ。浦飯も頭は良くないがおバカではないと思っている。
実写では不器用なところだけフォーカスされて、おバカでもなく、なんかカッコいい、そして見せ場も微妙。
なんで5話にした!!!なんで桑原を中途半端にした!!!蔵馬、飛影だけじゃないんだぞ!桑原いてこそ主人公含めて際立つんだよ!!!
5話で戸愚呂編を無理矢理終わらせようとしたのは何でだよ。
幽遊白書で一番面白い部分の戸愚呂編が序盤を入れて5話で終わると思った人は何なんだ?金が無かったのか?
Netflixで実写化した今際の国のアリスはめっちゃ面白くて、2部作で合計16話(約880分)もあった。
漫画で今際の国のアリスは18巻。幽遊白書は19巻。戸愚呂編完結までは13巻。
なんで13巻が5話で終わると思ったんだよ!5話で面白さ伝えられると思ったんだよ!実写の最後らへんの氷泪石のくだりも雑なんだよ。ちゃんと伏線だせよ、出さないならなんだよあれ。
何回も読み直した好きな漫画だけに凄くあの出来は悲しいよ。しかも配役も悪くない。
見る前は戸愚呂弟(綾野剛)は微妙かと思ったけど、大きくなるのを上手く表現できる配役だったし、なにより綾野剛が合っていた。ごめん。
5話で終わらせられると思った奴、まじで許せない。5話なら配役良くてもあんな出来になるだろ、凄く悲しい。
ちなみに今際の国のアリスは漫画は見ていない。実写(Netfilx)だけ見た。それでも面白かった。幽遊白書も実写だけならおもろいのかな。
みんなも見てくれ、そして私の悲しさを感じてくれ。違うと感じたなら、違うと反論してくれ。
浦飯◯ 桑原◯
けいこ、ちょっときつい、普通に15歳くらいの役者でよかったんじゃないのか
母 まあまあ
ぼたん かなりきつい、吐きそう、アニメ版はぼたんが一番好き
ここらへんの演技の臭さもうちょいどうにかならんの?間の使い方終わってんじゃん、いつもの実写化
いきなり妖怪の話やら大穴やら出てきて話がとっちらかってる、ど素人かよ
原作の日常から徐々に異常になっていくのがいいと思ってたのでこれはきつい
映像は及第点だけど、ちゃんと魅せる時間を取ってないのと、どうしても安っぽい
幽助のキャラが見えてこない
ぼたん、お前せめて飛べよ
母、お前泣けよ
漫画の母好きだったなぁ
だめだもう無理
安心の住処にたまに出るあいつ、招いてもいないのにいつの間にかどこからか、長い触角を揺らし、ガソリンを塗りたくったような人工的なテカテカの体をもつあの生き物のことを、現代日本で知らない人はまずいないだろう。
一人暮らしの敵、家族で住んでても敵の、Gの呼び名で呼ばれるあれだ。
名前を冠した噴射タイプの殺虫剤、「巣まで皆殺し!」とかいう物騒なキャッチフレーズの置型殺虫剤は広く知れ渡り、恐怖と憎しみを一心に受ける虫だ。
メスのカブトムシやカナブンもほとんど同じ見た目をしているくせに、あの平べったいからだと長い触覚、何より自宅に現れるという点でこれだけ嫌われるというのもなかなか可哀想な話だ。
たしか中学生。夕方頃。いつものようにリビングにいて、ちょっとそこまでと廊下に出たときだった。普段はスリッパを履いているが、ほんの10mの移動だからと一瞬の素足の瞬間だった。
ぐねり
こう表現するのがおそらく一番近い。左足の土踏まずのあたりで何かを踏みつけた。土踏まずの部分は名の通りペッタリと地面を踏む形でなく半円状の空間ができるが、そこに”何か”はベストフィットした。
なんか踏んだな、とは感じたものの、そこまで硬いものではなく重力に従って私の足は踏み降ろされ、その勢いのまま
ずりゅん
”何か”がズレた。
巨峰くらいの大きさの粒から若干水分が抜けて薄くなり、それをまるごと踏みつけてしまった。ズレた感覚は皮から実が押し出されたのだろうと直感的に感じた。それまでの人生で一番近い感覚がぶどうだった。
あってるけど合ってない。
あとはそのまま、足を退けて目に入った明らかに果物とは違う毛の生えた脚に自分でもよくわからない叫び声を上げて垂直に飛び上がった。
叫び声を聞きつけた家族が跳ねる私と事故現場を見て混乱していたが、説明している余裕なんてない。
感覚を振り払いたくてビョンビョンと飛び跳ねながら風呂場に直行し、足裏を風呂掃除用の硬いブラシで力を込めて擦った。おいてあった掃除用洗剤やらアルコールやらをぶっかけて風呂椅子に腰掛けて片足の裏を半泣きで覗き込み、一心不乱にこすり洗いをする姿を自分で俯瞰して、そういう妖怪のようだと一瞬思った。砕けたパーツがくっついていなかったのが不幸中の幸いとでも言うべきか。
気の済むまで洗って風呂を出ると事故現場はもう無かった。聞けば兄が後処理をしてくれたという。「バラバラだったわ〜」とのコメントは余計だが、見なくて済んだのはありがたい。身体部分と羽部分が分離していたといい、つまり、あのときの「ずりゅん」は上から斜めに力が加わったことでソレが分解された感覚だったのだ。ぶどうと思った厚みと感覚の納得感とともにあの類の甲虫を踏むのはぶどうを踏むときに似ているという本当に要らない記憶が残った。
余談だがその後しばらくはひたすらインターネットで同じ体験を検索し、よくあることだと自分を納得させた。調べた中で多かったのは靴の中に潜んでて気づかず踏んでしまうケース。出勤前に勢いよく踏み抜いて「パンッ!」と音とともに弾けさせてしまった人もいた。スリッパの中にいたとの投稿もいくつか見られた。しかし、ネットをいくら探しても私と同じ生足で踏み抜いた人はいなかった。あれはゴキブリの警戒心と人間の迂闊さが合わさった一瞬の奇跡の出来事だったのだ。そんなレアな体験をしたいと頼んだ覚えはないのだが。
無理なお願いとはわかっているが、基本的に警戒心が強く薄べったくて危険からの反応速度が0.11秒とも言われる奴らのくせに、人間が必ず使う箇所に隠れるのはお互いのためにやめていただきたい。こちらも無駄に命を奪ってしまった罪悪感が残り、「力が強すぎてちょっとのことで人間を殺してしまう巨人」の気持ちはきっとこんな感じなのだろう。
以上、ゴキブリを素足で踏んだときの感覚は半乾きのぶどうを踏んだときと同じである。この文章を読んだ方もその感覚を想像してみてもらえると、あの時の私も浮かばれる気がする。
うちのオフィスフロアに妖怪トイペ数センチ残しが出没するようになってから数年が経った。
はじめのうちは偶然かと思っていたがすぐに確信に変わった。妖怪トイペ数センチ残しは意地でもロール交換しない。
自分も数センチ残してしまうかもしれないと思っている人はきっとこういう手順を想定しているだろう。
2. ホルダーを押さえて紙を切る
3. ホルダーには数センチしか残っていないペーパーが残される
これは全く問題ない。偶然こうなってしまうのは誰にでもあることなので気にするほうがおかしい。
2. トイレットペーパーの終端にあたる
3. 紙を数センチだけ戻す
4. ホルダーを押さえて紙を切る
5. ホルダーには数センチしか残っていないペーパーが残される
通常ペーパーの最後のひと巻きは芯に密着しているのだが、妖怪トイペ数センチ残しが残したペーパーはなんというか、ふんわり巻かれているのだ。
なんなら終端部分が芯から剥がれて、ただホルダーに紙のきれっぱしがはさんであることすらある。
もちろんペーパーの種類によっては最後は通常でもふんわり巻きの場合があるだろうが、
スーパーへ買い物に行ってどれにしようかなと迷ってるとき、店員が商品の整理してるふりしてこっちの様子観察してるのきもいんだけど。
場所変えて別の商品見てたらさも「次はこっちのエリアを整理します」みたいな顔してこっちに距離つめてくるんだよな。
また別の場所へ行っても……。
なんなのあの低級妖怪。
・良良良ー良・良良良だった
なんかもういろんな意味で良ッ
観るという判断をして良かった
・途中まで「水↓木↑さん、バチクソに令和の受けど真ん中だし自らエロ同人の導入みてえなシチュに入ってく…」という思考が半分占めててふーん、昭和倫理観+田舎御家騒動、やね…+チラつく墓場鬼太郎の「じゃ!」 で見てたけど途中なんかこのシーンだけ絵のレベルが段違いじゃない?なテラス戦闘シーンから「この映画、意外と社会派チックな事いいおる…そういうの、好き…」ってなって引き込まれていった
・導入の記者の人が見た廃村になった描写と当時の生活があった頃の様子の対比でイイネ!ってなった
・おっねずみ男とかコウモリ猫の系譜や!と思ったら本人だった 記憶よりふた回りほど小さくなっとる…? 基本コメディリリーフだけど「俺は手を引くぜ」の闇に消えるシーンとか人ならざる者感して好き
・水木さんのバチクソ受けっぽさは狙って作られたというわけでなく偶発的なものという感じがvery very goodすぎる
・鬼太郎父、水木さんにデレるの早ない?と思ったけど恐らく行間があるやつ
つまり近親姦で世代紡いできてた一族ってこと?それハプスブルグ家みたいにならない?だからショタは病弱だったんか!今合点した
・夫婦再会シーンで引きで映る地面に転がってる瀕死状態の水木さんすき
・たまにある鬼太郎ピンチ回に出てきそうな妖怪がゴロゴロでてくる 鬼太郎父つよい
・後半の主張の感じは説教のかほりがするなあと思わなかったと言ったら嘘になるが元の鬼太郎は児童向けアニメやしズートピアのラストみたいな「言葉にして作品の言いたいことを固める」あった方が観るがわの心構えの方向性が示されてええかと思ってみてた
平日の朝イチ回だから
己みたいな層しかいないと思ってたら意外とおじさん客・男性客いて驚いた
・思い返すと「世代交代」とか「全体主義と個人のいのちだいじに」とか「ご先祖様の血脈→あっこれ鬼太郎くんのやつや!タイトルや!」とか複数テーマが滅茶苦茶匠なバランスで的確に描写されとった…もう電車でタバコガンガン喫煙してたり吸殻ポイ捨てしたり細かい描写の積み重ねが「時代の倫理観」「今から見ると引くけど当時はみんなやってたから普通だった」を確実に伝えてテーマと絡めて「伝えて」きおる…スタッフさん天才か?
・全体主義に見せかけた「おまえら特攻してこい」→「隊長は?」で首の「死んだら、アカ~ン!」本人の見えないとこで舌ペロを思い出した
・エンディングロールからも最後の最後まで良すぎじゃん…水木神原作の「鬼太郎を育てることになる」単話だけ予習してたから(いろんな意味で)これ最後どうやってあの流れに着地するんや…と思って見てたらアッ白髪……そういうの好き……アッ…エンディングが漫画なのだあいすき…アッ…虚しく宙をかく鬼太郎父の腕…でも魂に刻まれてる…そういうの好き好き侍…アッ…最高…で終わってた