はてなキーワード: 吉田アミとは
どこでだかは知らないけれど、いま話題のnote。https://note.mu/
簡単に有料コンテンツが販売できるが
有料コンテンツを販売する以上、特定商取引法に基づき、販売者の情報(氏名、住所、電話番号)を開示する必要があります。
http://www.nissankyo.or.jp/auction/law/law.html
が、noteの特定商取引法ページには開示されていないので、ちゃんと開示してくれるか聞いてみました。
→即おへんじくれました。さすがです。ありがとうございます。限界集落温泉、読みました。
ねりまちゃん
→おへんじくれました。ありがとうございます。返信すごく丁寧でした。ありがとうございます。
池澤 あやかさん
→販売者は東宝芸能さんということで、会社Webを案内された。なるほど、個人ではなく、あくまで事務所の事業なんですね。
岡田育さん
佐々木あららさん
吉田アミさん
・・・いまのところ、お返事いただけていません。
個人的にはこの情報をもって営業するとか、ストーキングするとかはこれっぽっちも考えていませんが、
http://anond.hatelabo.jp/20070321175721 を書いた増田ですが。http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20070322/1174538914
ただ、物語というのは「敢えて」関わる方を選んで熱くなってしまったほうが断然楽しいと思うんですよ。その様子を見て関わっていない人は「けっ!」って思う人もいるのだと思うけど、ここで強制的に参加させるのはおかしいと思う。すべての人用の万能薬なんてないのだから、ちょいとこの方は他者や作品に期待しすぎじゃないか? さらに言えばそこまでの影響力のある作品の方が怖い。合う人もいれば、合わない人もいる。それを選ぶのは自分っだけなんじゃなかろうか。
「全ての人用の万能薬なんてない」のは知ってるけどそれでも「全ての人用の万能薬」を目指す、というアイロニカルな心の姿勢をクリエイターさんには持っていてほしいなあ、と僕は思うんですが、吉田さんはそうじゃないんですねえ。別に僕にがっかりされても吉田アミさんには関係ないだろうけど、がっかりするなあ、こういう言葉が出てきてしまうのを見ると。
ともあれ、その部分と
そもそも「まなび」自体が他者排除がテーマではなく、他者容認の話しだしなあ。
ではじまるパラグラフを読んで、僕のもやもやの原因はよくわかったので吉田さんにはその点で感謝します。
他者を容認します、でも「他者を容認しない」他者は私たちの目の届かないとこにできるだけいてね、ってことなんだなあ、と。「他者容認」といいながら度量が小さい。
しかし「傷付いた」パフォーマンスうざいなぁ。いや、多分キャラクター的に「傷付いた」と書くからにはパフォーマンスじゃなしに本気で傷付いておられるのだと思うけど、それをいちいち書かれても。「クリエイターも人間だ」というのは正論ですが、別にクリエイターがクリエイターとして扱われる場所で同時に人間扱いされる必要なんてない。クリエイターさんも自分の家族や愛する友人たちの前では存分に「人間」的に振る舞えばいいと思うけど、クリエイターとして発言しているときに「私も人間だから傷付くんですよ」とかいちいち言わんでください。
って、具体例をあげるとなんなんでしょうか。
ロックの歴史なんて、批評その他によって作られた根拠のない虚像の一人歩きとの格闘しかないですよ。ほとんど(ああ、典型的「優越感ゲーム!」と批判されそうなフレーズ。他の書き方を思いつかんから書くけど嫌だなあ。我ながら)。
むしろ、根拠のはっきりした提言が文化を前進させた例を僕は寡聞にして知らんのですが。クリエイターが創作過程で技法をブラッシュアップする作業には、根拠も対案も必要でしょうけど、それは批評だ感想だというのとは違うし。
まあそのへんは枝葉末節だよ。こんなにだらだら反論をオン書きしてるトサカにきたのはこれだよ。
こんなことは多かれ少なかれ社会人なら経験することじゃないか。
だからさー、文化に関する発言を社会人の企画説得スキルと並べんなよ。「創造はどこにでもある」って社会人が自分の仕事に誇りを持つために言うのはありだけど、文化に関わる人間がそんな悲しいこと言うなよー。現実がどうだろうと、そこでこそ嘘をついて欲しいわ。一般的な社会人の基準と芸術の基準は別に動いてます、って言って欲しいわー。途中の話を蒸し返すけど、クリエイターに人間であって欲しくなんてないわー。優しくなんてしたくないわー。
うむ、まあ吉田アミさんと『まなび』がなぜこんなに僕の神経を逆なでするのか、その理由に気がつくことができたという意味ではありがたいお返事でした。重ね重ね吉田アミさんには感謝します。ホントに。皮肉ではなく心の底から。
吉田アミさんなんかに典型だけど、「何かを嫌いっていう時間に好きなものを楽しむ努力をしたい!」みたいな発想がアニメファンや音楽ファンやらマンガファン――要するにサブカルチャー好き全体に広まって行ってる様子なのかしらん。東浩紀さんも昔SFセミナーでトラブルがあったときに「批判がしたけりゃ自分がいないところでやってくれ」みたいなことを言ってましたっけ。なんだかなあ。
たしかに、頭ごなしに駄作認定してネガティブキャンペーンを張るのはよろしくない。そんな暇があったら好きなものを楽しむ努力をした方がいい。しかし分析的に、理由を挙げながら批判(≠批難)をしているものにまで「そんな暇があったら――」と言ってしまうのは精神的ひきこもり症状ではないのかなぁ。そこには成長がない。「成長」という言葉遣いに抵抗があるなら、「変化」と言い換えてもいい。ひとが忙しい毎日の中で、わざわざ時間を割いてサブカルチャーに接するときには、意識的にしろ無意識的にしろ何がしか今の自分からの「変化」を求めているのじゃなかったのかしら。現状維持したい、価値観を自閉したい、似たもの同士で寄り合いたい、という気持ちがサブカルチャーを鑑賞する姿勢として一般化していくのだとしたら、それは悲しいことだとしか僕には思えないのだけれども。
あと、批判的な物言いというのは、必ずしも「俺はお前の好きな○○よりもっと素敵な××を知っている」という優越感ゲームだけから出るものではない、というのはこの場を借りてちょっと書いておきたい。批判的な物言いをするときには、必ずしも具体的な何かが脳裏にあるわけではないのです。自分もまだ見たことがない、いつか見たいと願っている夢想の対象、イデアルな名作を想定して批判する、ということがありうるの。ようするに「ないものねだり」。「ないものねだり」を子供の物言いだと言ってしまうのは簡単で、批判的な物言いを嫌うひとが多い理由の一因もそこにあるのだろうけれど、「ないものねだり」があるカルチャーを前進させたケースも少し歴史を紐解けば多々ある。「ないものねだり」は「ないものねだり」としての機能をこの世界で果たす限りに於いて存在意義がないわけではないのだ。えーと、要するに知識があるから批判するんじゃなくてよくわからん理想を抱えてるから批判するのです。それを「優越感」だと断言されてしまっては辛い。
……あー、オン書きだとぐだぐだになってきたな。ともあれ、批判的な物言いを頭ごなしに嫌うのもなんだし、「目に付かないところでやってよ!ネッ広なんだから!」みたいな物言いを返しちゃうのも虚しいよ、と。そんだけ。
思いつきで煽り蛇足。
そんな「批判されるの嫌」派のみなさんが大好きな『まなびストレート』って、他人とまともにコミュニケーションできない奴が勢いと主人公補正で世界を革命する話だよね。作品内の異物も全部乗り越えられるためのマッチポンプ的存在で、本当にどうしようもないことは作品内に存在してない。なんだかなぁ。『まなび』自体は批判されるべき作品ではないとしても、『まなび』と批判嫌いの「まなびファン」のセット構造はなんだか非常にグロテスクな気がするよ。
増田です。こんにちは。
はてなブックマークがなかった昔は、他人のアンテナに登録された数(被捕捉数)が人気のバロメータと考えられていた頃がありました。
http://a.hatena.ne.jp/electr0/
|0_0|さんは知りませんでした。私はl0_0lさんかと思っちゃいました。