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はてなキーワード: 史料とは

2022-01-26

呉座騒動 - 時系列(~2021/11/1)

2015年7月

SEALDsによる「安倍政権NO!首相官邸包囲」デモ内での「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せスピーチに対し、デモに参加した北村が「安倍的」だとダメ出し。これに対し野間上原潔らしばき隊関係者北村執拗に叩く。

2019年12月

春日太一町山智浩激怒して「絶縁」宣言

2020年

10月 クラウドファンディングによる啓発広告「#この指とめよう」に約320万が集まる。

11/6 中世史学者の亀田俊和が呉座にウザ絡みされ続けて喧嘩に発展する。

12/25 ガールスカウト日本連盟ファミマのお母さん食堂名称変更を求める署名立ち上げ。

12/29 青識亜論、問題提起として「お母さん食堂署名模倣して不二家に「パパのミルクミルキー販売を求める署名を立ち上げるも、迷惑だとの非難が挙がり、その日のうちに署名削除と謝罪

2021年

1月 呉座、人間文化研究機構(国際日本文化研究センター)任期なし内定の通知。

1/17 TBSラジオ『アフター6ジャンクション韓国映画特集に『映画秘宝編集長岩田和明がゲスト出演した回を聞いた一般人女性が、女性ゲストの不在、及びホモソーシャル的な映画秘宝文化について苦言ツイートを呈する。これに憤った岩田がその女性に直接DMを送り恫喝

1/25・26 映画秘宝公式垢が謝罪

2/2 岩田が『映画秘宝編集長の辞任とともに、オフィス秘宝を退社。

2/12 東京五輪組織委の森会長女性が多い理事会時間がかかる」発言めぐり辞任。

3/16 亀田網野善彦発言に対し、北村が「冷笑系」と評す。これに鍵垢の呉座が引用RT反論

3/17

・呉座の引用RTスクショ北村DMに届き、北村がTL上にそれをアップして反応。呉座が北村揶揄誹謗中傷していた過去ツイートが続々と掘り起こされ、北村の元に集まる。

五輪閉会式演出佐々木宏が『ブタ演出案』を考案していたことを理由に辞意を表明。

3/20 呉座が北村謝罪

3/21 春日太一北村を始めとする不快な思いをされた全ての方に向けて謝罪ツイート

3/23

NHK、呉座の大河ドラマ時代考証降板を発表。

志学代表平林緑萌、不適切発言謝罪するとともに中国史史料研究会顧問を辞任。

3/24 日文研、呉座を厳重注意処分

4/2 日本歴史学協会、呉座を念頭に置いた、ハラスメント行為の再発防止声明

4/4 オープンレター女性差別的な文化を脱するために」公開(約1300人署名)。青識亜論、OL賛同コメントとともに署名するも、運営に撥ねられる。

5/25 木村花選手一周忌に合わせて、一般社団法人「この指とめよう」を設立

7月 呉座と北村和解して、呉座が謝罪文を公開。

8月 機構、呉座の内定を「再審査」で取り消す。

9月 機構、呉座を停職1月の懲戒処分

10月 呉座、機構地位確認訴訟提起。

11/1

・呉座、オープンレター処分に影響したことを示す資料自身ブログにて公開。

・「この指とめよう」が、活動を停止。

2022-01-24

オッカム先生出版してほしい

twitterに書いてることを本として書けば良いと勧られた件で盛り上がってるけど、

自分としてはオッカム先生にぜひ普段ツイッターで書いてることを本にしてほしい。

北海道とか稚内とかの地域格差の話とか、自分史としてまとめたら普通に意義があるのではないか

自分史的な構成で、ツイッターやってる大学先生が書かれた本というと、最近出た中公新書にもそういうのはある。


普段からツイッターでいろいろと長い理論を書かれてるけど、それこそ本としてまとめたらいいのではって感じでしょ

地域格差関連は多分まとまった考えを持っている人による論考は多く求められるものだと思う。北海道という地域研究としても重要だろう。

まとめておけば、1つの資料として後世に対して有意義ではないか


たぶん北大法学部関係の学界の話題とかも見るべきものがあると思うし、理科大長万部の話も有用と思うんよ。

工学部ヒラノ教授」で大学で苦労した話を先生が語るって本はすでにある。

大学に入る経緯の点なども含めて、大学文化を語る上で重要史料になりうるものだと思ったんよな。

ヒラノ教授の作者も「語り部」としての活動だといってた気がするし。同じような形で、教養部オッカム先生とかの本にできんかな。



池内先生でも誰でもいいか出版社に力持ってる人どうにかして実現させてくれないかな。

2022-01-17

anond:20220117142738

数十年間で今までより2000年古い史料が見つかったんやで

2022-01-03

自分の生きた証の残すためにノート日記を書いている。

俺は36歳の障碍者雇用で働く低賃金労働者だ。

当然、友達恋人もいないので、自分が死んだ後は何も残らないだろうし、それでせいせいすると思っている。

しかし、それと同時に自分が死んだ後に何も残らないというのはなんともつまらない話だなという矛盾した感情もある。

なので、おととしのコロナ禍という歴史的出来事もあったので、2020年からノート日記を書く事にした。今の時代は紙に個人的記録を書く事がほぼないので、後世になってから今の時代個人的記録はかなり希少な存在になるのではと思っている。だからノート日記を書く事は後世の歴史家にとって多少は有難い事になるのではないか。(ブログなどのデジタル媒体はいつまでサービスが続くかわからないので)

ある種、自分人生献体として使われたらいいかなと考えている。よく死んだ後に自分日記が見られるのが恥ずかしいとあるが、死んだら恥ずかしいと思う存在が無くなるのだから、あまり意味のない考えだと思ってる。

内容は自分日記としての記録、印象に残った誰かが喋っていた事、Twitterなどのネットで気になった文章画像、行った店や光景などの画像なんかを記載していったりしている。いずれ酒井伴四郎日記みたいに歴史家や好事家の酒の肴にでもなればいいんじゃないだろうか。

そんなこんなで、2年ほど日記を書き続けているが、最大の関門が自分の死後どうやって第三者に引き渡すかだ。

東京手帳図書室という施設があるので、自分終活間近に20年くらい公開禁止と伝えて(50年公開禁止と伝えて引き渡したりしてるみたい)譲渡するのが、現状一番理想ではあるが、この施設がそんな先まで存在しているかどうかはわからない。

まぁ将来的に契約したら自分の死後に色々と作業をしてくれるサービスが出来るのかもしれない。

なんにしても、自分が書いた日記がいつまで存在するかはわからない。明日ダメになるかもしれないし、10年後ダメになるかもしれないし、100年後にダメになるかもしれない。

100年後にまで残っていたら史料的にはけっこう面白いものになりそうだから、運よくその時まで残っていて欲しいものだ。仮に100年後に残っていたとしてもそもそも人類はいるのか、いたとしてもこんな史料を読み込むくらいにゆりある社会なのかもわからんが。

いずれにしても後世までに残る可能性は0ではないので、続けられる限り日記は書いていくつもりだ。

2021-12-07

anond:20211207135511

東京京都併置論などもこの頃提案された。

明治政府は、東京遷都ということを公式には表明していない。宮中公家京都の町衆の強い反対を避けるため、政府公式位置

けをわざとしないまま、なし崩し的に東京遷都実施したと言える。なお、明治維新正史とも言える文部省維新史料編纂事務局編『維

新史 第5巻』(1941年)でも、「遷都」ではなく、単に「都を定める」ことを意味する「奠都」(てんと)が使われている。

2021-11-07

徳川家康公は三方ヶ原でウンコを漏らしたのかどうか

創作では?と思ったが、どうやら史実らしい。

なぜか家康関連の史料ってものすごく細かく残ってるんだよね。

天下取ったからかな。

2021-10-27

anond:20211020074248

戸田市郷土博物館に行って現物の「戸田村道路元標」を見てきました。

史料解説によると、これは昭和40年代の国道17号線中山道工事発見されたもので、

現在の「下戸田ミニパーク」(戸田市下戸田2丁目12−8)付近

中山道沿いに建てられていたと考えられる、とのことでした。

2021-07-15

anond:20210715150820

小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆武田二十四将の一人に数えられる。

信茂の勝頼離反から滅亡

岩殿城

天正9年12月織田信長徳川家康武田領攻めを開始し(甲州征伐総大将織田信忠副将滝川一益)、信濃木曽郡国衆木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模後北条氏武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日織田信忠伊那郡高遠城仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。

勝頼は天正9年に新府城山梨県韮崎市)を新たに築城甲府から本拠移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃国衆真田昌幸上野岩櫃城群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅小山田を頼り郡内の岩殿城大月市岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。

なお、岩殿城小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)から距離があることから岩殿城小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日岩殿城武田勝頼が在番衆派遣している事実も注目されている[17]。

武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。

信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟小山田左衛門と勝頼の従兄弟武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠大月市甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。

甲斐善光寺

一方、織田徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。

織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男人質として差し出すために信長拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。

信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。

人物

武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場重臣と共に名を列ねている。

武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。

設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

鉄道唱歌(作詞福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。

2021-07-11

浅井長政織田信長を裏切った理由は? 調べてみました!

織田信長人生で一番のピンチといえば、金ヶ崎の戦いですよね。

でも、「浅井長政織田信長を裏切った」ということは覚えていても、なんでそうなったかあやふや……という方も多いのではないでしょうか?

そこで、その裏切り理由について調べてみました!

朝倉家との古くから同盟を重視したの?

この説についてですが、調べてみましたがそれらしい情報は見当たりませんでした……。

また、朝倉家と浅井家にそれ以前に同盟関係があったという情報もありませんでした……。

ももしかしたら、史料には一切残っていなくても同盟関係はあったのかもしれませんね!

将軍足利義昭に反織田包囲網に加わるよう誘われた?

この説についてですが、当時足利義昭織田信長敵対していたという情報を探してみましたが、見当たりませんでした……。

また、織田信長と一緒に軍事行動をしていた足利義昭朝倉浅井公然敵対していたようです……。

ももしかしたら、足利義昭史料には全く残っていない内心では織田信長を嫌っていたかもしれませんし、史料には全く残っていないだけで浅井長政にもお手紙を出していたかもしれませんね!

まとめ

いかがでしたか

今回調べた範囲では浅井長政織田信長を裏切った理由はよくわかりませんでした……。

参考になれば幸いです!



いやマジでなんで裏切ってるの?調べれば調べるほど意味不明なんだが

2021-07-07

歴史上の人物は何をもって実在と見做すか

例えば織田信長なんかは、今生きている人は誰もその姿を自分の目で見たことがないはずであるが、実在していたことは疑いようのない事実である認識している。

これがスティーブ・ジョブスだったりすると、ウェブテレビ新聞など様々な媒体で目にしたことがあるので、実在していたことは疑いようがない。

しかしながら、だんだん過去に遡っていくと、文献など客観的傍証しか確認できなくなっていくはずである

wikipediaを見てみると、天皇についても「実在を認められないか強く疑われる名が多い」とあり、どこかの段階で実在非実在の線引きがなされている。

 

先程の織田信長の例だと、我々は例えば歴史教科書記載されていることを事実として受け止めているはずである

しかし、その教科書記載されている事実についても、何らかの客観的な文献等に基づいて事実認定されているはずである

 

その辺りの判断について確認できるような資料書籍はないだろうか(調べてない)

 

追記(2021-07-11

ここで問いたかったのは、哲学的認知論的な観点ではなく、学術的な観点である

歴史学の研究は「史料」に対して行われるということをコメントから読み取れたので、以下wikipediaの「史料から引用する。

一次史料[編集]

一次資料」も参照

一次史料とは、当事者がその時々に遺した手紙文書日記などを指す[2]。記述対象について「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献を「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼んでいる[1]。代表的な一次史料日記、書翰、公文書がある[1]。コイン新聞記事は通常、一次史料ではない。

二次史料[編集]

二次資料」も参照

二次史料とは、上記三要素を満たさない文献史料を指す。第三者が記した物や、後の記録が該当する[2]。二次史料は、一般に一次史料より重要性が劣るが、必ずしも信頼性に乏しいとは限らない。例えば、太田牛一の『信長公記』や小瀬甫庵の『信長記はいずれも織田信長に関する二次史料であるが、前者が高い信頼性を有していると考えられるのに対し、後者史料としての価値ほとんどないとされる[3]。

史料の中でも「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たした文献について「一時史料」と呼び、歴史的な情報重要価値を持つらしい。

ただし、一次史料自体が正しいかどうかの検証必要(「史料批判」と呼ぶ)とのことである

 

現在は、巷に溢れる情報いくらでも入手することができる世の中になってきているが、陰謀論似非科学など公衆衛生に対して有害になり得る情報が氾濫している。

どういった情報が信頼できるものであるかを判断するためには、史料批判のアプローチ活用できるのではないだろうか(調べてない)。

2021-06-24

anond:20210624153633

拝啓マッカーサー元帥様―占領下の日本人手紙 (中公文庫) 文庫 – 1991/3/1

内容(「BOOKデータベースより)

敗戦による占領開始期から5年間、マッカーサーや総司令部にあてて日本全国から送られた手紙は実に50万通を数える。政治家大学教授主婦少女に至るまで、それぞれの立場から思いのたけを書き送り、その内容は、戦勝国へのおもねり、政策建言、個人的な願いごとなど多岐にわたる。人びとの肉声を伝えるこれらの手紙群は「占領」という時代証言し、経済大国となった戦後日本人の原点を浮彫りにする貴重な史料である

なんて美しい国なんざましょ

2021-06-18

anond:20210618172000

でも現実にこうやって言葉迷路に入り込んでオタオタしてるじゃん

新聞という手軽な社会史料を有料でなきゃよめないし読みきれないなら大学放送大学あたり)が一番やすまとめサイトだろ

2021-05-30

anond:20210530161123

こういうのって向こうの歴史学者とか社会学者学術団体歴史修正主義だって厳しく咎めないのかね?

完全に創作された歴史

史料も何もあったもんじゃない。

日本だとアベスガや江戸しぐさ団体歴史修正主義として批判されてるし、ドイツ周辺だと偽史を書いたら発禁処分になるらしいけど、そういうのに厳しそうなアメリカが一番甘いんだね。

韓国日本歴史修正主義が許せないなら、自国だって許せないだろうに。

2021-05-10

anond:20210510170356

議事録がないくらいでその国の政治が分からなくなるなら近代以前の国家の様子なんてほとんど分からないよ。ほかの史料から推測していくのが歴史学

2021-04-30

anond:20210429172030

これ法律的には問題あるのかもしれないけど、倫理的にはむしろいい事だと思うな。ソシャゲってサービス終了したらそのゲームがどういったものだったのかほとんど分からなくなるんだよね。そうなると後世の人はこの手の切り抜き動画から当時のソシャゲ復元すると思うし1次史料を遺してるって考えれば、大袈裟だけど司馬遷とかヘロドトスみたいなことをやってるとも言える

2021-03-25

史学大切なこと

呉座さんの一件で、呉座さんの研究性向との関係が問いただされている。トゥイターでは、エースの呉座さんがあんなのでは日本中世史は高が知れている、という話も出てきている。

ある人が書いたモノと、その人が持つ性格性向をどこまで切り離せるのか? はよく話題に上る。私なりに今回の事柄において作品研究)と作者の性向とがどう切り結ぶのか考えてみたいと思いつらつらと書き始める。

1

おおよそ史学では以下のプロセスで発表したり論考を著していく。


A史料を正しく引用し、

B史料を読んで解釈して、

C(いくつかの史料解釈を重ねて)論ずる。


このプロセスを繰り返していく。

もちろん、あらゆる段階(ゼミ研究会、学会発表書評反論論文)で他者批判さらされる。

学会では特にB、Cが論究されて時に論争になる。

2

さて呉座さんの評判は、一件が露見するまで悪くはなかったですよね。

これはAからBにかけての能力に長けていたからだろうと思います

もちろんA、Bに立脚した論の部分もしっかりしていたのだと思います

ただ、Cの論の部分のすぐ背後には、2ch的なノリが隠然とあった。

しかしたら、解釈部分のBにも批判された様なバイアスがあったかもしれない。

要するにBからCにかけてのプロセスには論者の主観が入り込む余地がある。

ただ、もしかしたら史料を読み込んで論を立てる場合においては、ミソジニー的、あるいは安い弄りを繰り返す的な性向は顔をのぞかせない可能性もある。

から声望を得られる。

3

呉座さんの研究に疑問を投げかける人がいる。あるいは、「どこまで信じたら」というようなコメントを書く人もいる。

引く史料と、そしてその読み方の精確さは信じてもいいのではないか、というのが私の考えだ。

今回はその基本的なところからまりに遊離した部分での性向が露見した。

史料に基づかない頭でっかちな部分が露わになった。そこは批判されるべきだし、職場からも然るべき譴責を受けるべきだろう。

だが、見てきた通り連続しているとはいえ史料を読み込んで解釈して室町時代民衆がどのようであったか組み立てていく作業は、そことは一線を引いても、間違いではないのではないか? そこは呉座さんを信じてもいいのではないか

私たちはもちろん今後『応仁の乱』を読む時は、今まで通りには読めない。けれども、史料とその解釈は変わらずにそこにある。その学術的正しさを論及することはまた行うべきだが、そこに論者の性向を過度に見るべきではない、というのが私の意見

こんなあたりに、研究と作者の性向とを隔てる線引きがあると思っている。要するに、史料をしっかり用意して読み込む、ってのが肝だ、ということだ。

4

また、やらかしが露見して大変なことになってしまった呉座さんだが今後も人生は続いていくわけで、大変だけれども頑張っていかなくてはならない。明日明後日も来るし、出勤停止と何ならない限り職場に行かなくてはならない。

きっとそんな時に大切になるのは、やっぱり史料とその読みなのではないだろうか。偉そうな意見学者にするのはなんだかアレだが、ひたすらこれを積んでいくしかねーんじゃねーかって思う。一発アウトになりやす中世と違って人生が長く続く現代だが、史料と向き合い、史料に沈潜してこれからも頑張って欲しい。

2021-03-23

anond:20210323110642

二重じゃなく普通に同一人格から出てる行動だよ。

 

自分は頭いいエリート 

> バカは嫌い

> バカが好き勝手なこと言ってる捏造歴史は嫌い

> バカに好き勝手言わせる自由を認める戦後左翼は嫌い

 > 戦後左翼擁護する女性自由も嫌い

 > 戦後左翼批判したいか戦前国家中心主義は実は好き

 > なんなら日本戦争に負けたのは歴史知識不足だったからぐらいに思ってる(方法が間違ってるとは思ってない)

 

これで説明終了。

何が抜け落ちてるかっていうと、「自分は頭いい」を相対化できるための思考訓練がない。

 

本当はそのための思考訓練として、学問体系があり、史学があり、歴史哲学がある。

ガチで頭がいい先人が何を考えて、どこで限界にぶつかったか、という積み重ねを勉強するの。

そのあたり真面目にやらず、

現場史料読みで成果出したらいいだろ、俺って天才エリートから間違えないし、間違えてるやつらを片っ端からやっつけてやるぜ、

って簡単に考えて疑似歴史批判とか気軽にやって人気が出たってこと。

2021-03-21

大河クラスタの憂鬱

今回の呉座先生醜態には心底がっかりした

ここ10年以上毎週視聴してTwitterハッシュタグつけて呟くほどには大河クラスタだという自覚はある

真田丸で考証の丸島先生先鞭をつけて以降、毎週毎週放送終了後に日本史クラスタの詳しい人や専門の先生方が

史実ではこうだった、この演出はこんな事実を踏まえている、なんて蘊蓄を聞かせてくれて、

それを見て勉強しながら感想を呟くのが大河クラスタトレンドになってた面があったじゃないですか

んで来年大河脚本が細かいところまで史実を拾って書く三谷先生で、考証にあの応仁の乱の呉座先生が!ってことで

楽しみにしてた大河クラスタいっぱいいたと思うんですよ俺自身も含めて

そこへきてあの醜態ですよ

あれ見てどう思った?史料フラットな目で検証する学問的態度を持つ学者に見えた?俺には見えなかった

少なくとも俺には自らのミソジニーイデオロギーのためにガンガン筆曲げる御仁だとしか思えなかったよ

井沢元彦百田尚樹をめちゃくちゃ批判してたけど、Twitter上の振る舞い見るに同レベル以下だわ

ただでさえ来年大河では日本史上でも有数の女傑と評判の北条政子が出るわけじゃない?

もうさあ、政子に対してどんな演出が施されるのか今からもう疑いの目しか向けられないわ

とにかく呉座先生学者としての真摯さへの信頼性は俺の中で決定的に毀損された

一刻も早く大河スタッフから降りてほしい

彼の信じるイデオロギーへの賛否とは別問題で、イデオロギー史料がぶつかった時にイデオロギーを優先する人としか思えない

2021-02-23

anond:20210222162708

学術だったらドイツ語オススメ。向こうは大学無償留学やすく、アカデミック環境も充実している。史料現在出版物も多いし、得られる情報も多く質が良い。

現地の人とコミュニケーションして商売したいなら、オススメ順に中国語ロシア語スペイン語。どれをとっても、C1とれれば食っていくのに困らないんじゃないかロシア語できれば旧共産圏コミュニケーションには全く困らない。イスラエルでも通じる。

歴史学とかやるならラテン語とかギリシャ語なんだろうけど、そのへんは分からんすまん。

anond:20210222162708

西洋史学を専攻するのであれば、フランススペインイタリアドイツなどヨーロッパ言語一択。のちのち専攻に関する講義や演習でその地方の文献・史料を読む際、単語意味の見当をつけられる可能性がより高くなるはず。もちろんイタリア語にこだわって良いと思う。

一年から語学コマ数を多くすると大変だと思うので、選択ラテン語は二年次以降にまわしてもよい気がするが、年間の単位数やその他の履修状況と相談の上で決めると良いと思う。必修の単位は落とさないように。

あくま私見なので過信はしないこと。

2021-02-20

PHP新書大名

大橋良介京都学派日本海軍 新史料大島メモ」をめぐって』(2001年

小田中直樹歴史学ってなんだ?』(2004年

小原克博、中田考、手島勲矢『原理主義から世界の動きが見える』(2006年

異論ある?

2021-01-27

anond:20210127123217

愚策過ぎて後世の歴史家が疑問を持つレベル

世界的に感染症で大変なのは史料から明らかなのに、

当時先進国日本旅行外食の推奨なんていう馬鹿なことをやるわけがない。

GOTOというのは後藤意味するのではないか。」などと。

2021-01-26

anond:20210126012231

1600年の出来事とされている関ヶ原の戦いは、信憑性の高い一次史料による記録は僅かである

ただ、折から証券取引所設立ブームで、多くの武器商または探検家活動していたことは間違いないだろう

1531年、ブラバント公国アントワープ証券取引所が創立 当時最大の国際貿易港となった この国はハブスブルク領

1565年、イングランド王国ロンドン王立取引所設立

1580年、ポルトガルスペイン併合されリスボン経由の取引が困難に

1600年、貿易会社イギリス東インドが発足

1601年、オランダ株式会社オランダ東インド設立

1602年、オランダ東インドアムステルダム証券取引所設立 株式有価証券取引を始める

結局、オランダ江戸貿易をほぼ独占したと言って良かろう

ということは関ヶ原の戦いが1601年以降であっても不思議でない

もしくはオランダ関ヶ原の両軍から潤沢な資金を得て取引所設立した

2021-01-05

INTERVIEW 戸隠神社中社大鳥居 建替えにあたり(戸隠そば祭り実行委員会

戸隠神社中社境内正面に建つ大鳥居。今春から秋にかけて、老朽化に伴う建替え工事が行われました。

新しい大鳥居設計したのは戸隠出身在住の建築士宮川和工さん(40歳日本伝統建築事務所)。

国の重要伝統的建造物群保存地区にあり長野県指定史跡にあり、何より"地域シンボル"である大鳥居の模り役は大変な重圧であったに違いありません。

工事がひと段落して、どこか安堵した表情の宮川さんに、新大鳥居のこと、旧大鳥居のことを伺いました。

四六時中、鳥居のことを考えていました

 旧大鳥居が建立していた19(令和元)年11月新大鳥居の建替えに向け、測量調査が行われました。新大鳥居は旧大鳥居と同じ寸法・形状とされ、そこには時代地域を見守ってきた旧大鳥居と、当時建設に当たった人々への敬意が込められています。84年の時を過ごした旧大鳥居は風食し、建設当初より小さくなっているため「同じ」大鳥居を建てるには、測量値から当初の計画寸法に「戻して」設計する必要がありました。この頃、旧大鳥居設計史料は見つかっていませんでした。

 そこで、宮川さんは江戸時代初期の木割書「匠明(しょうめい)」を参考に寸法を「戻して」設計したといいます。匠明には柱と柱の間の距離から各部の寸法を割り出す比率が記されており、これを基に当初の旧大鳥居の寸法、つまり新大鳥居の寸法を予測していました。

 しかし、測量調査の結果、貫(ぬき:地面に近い方の横木)が木割書より長いことが判明。これにより、笠木や島木の切り口の勾配が変わるため「古い鳥居フィットする」よう設計し直す必要がありました。言うは易し行うは難しとはまさにこのこと。宮川さんは、旧大鳥居の「オリジナリティ」を生かすため、この山場に挑みました。

 宮川さんが設計の山場としてもう一つ上げるのは、笠木や島木(かさぎとしまぎ:貫の上にある横木。島木の上に笠木が重なっています)の反り具合「反り形状」の決定です。こちらも「戻して」設計する必要があり、何パターン計算して反り形状を算出。 旧大鳥居に一番合うものを編み出しました。

 年が明けて2月初旬、「原寸検査」の日、宮川さんが頭を悩ませた末、出来上がった設計図が敷き詰めたベニヤ板に実寸大で描かれました。集まった関係者とともに大鳥居上部の笠木や島木の反り具合や寸法・形状を入念に確認しました。

失われた技法

 3月下旬、旧大鳥居解体工事の無事を祈る「清祓式」が執行され、4月中旬、新しい大鳥居材木戸隠の地へ。いよいよ建替え工事の始まりです。まずは、旧大鳥居解体作業クレーンで笠木と島木が取り外され、貫と柱がゆっくりと地面に横たわりました。「地域住民観光客の皆さんにご覧いただけるように」と、分解された旧大鳥居中社近くに保管。旧大鳥居には、当時建設に携わった面々の名前が記されていました。

 実は5月ごろ、旧大鳥居建設に関する文書戸隠神社中社境内発見されました。文書から、旧大鳥居のそのまた前の大鳥居は1934(昭和9)年の正月吹雪の中倒れたこと、その2年後の昭和11年に奥社のスギを使って旧大鳥居が建てられたことが判明。そして、今回、新大鳥居建替え工事を監修していただいた「日本建築工藝設計事務所」の前身設計者が旧大鳥居設計を手掛けていたことも分かりました。

 また、柱の下には十文字の土台が据えられ、そこに柱が刺さっている状態であったこから、旧大鳥居は持ち上げられ、上から土台に下ろす方法で建てられたと考えられます。それも、人力で。

僕たちは、昔の人たちがやってきたことを踏襲しているだけ

 新大鳥居工事は着々と進められました。柱は、宮大工職人の手作業によるかんなかけで、八角から六角形に、十六角から三十二角形に、そして丸に。並行して行われた基礎工事も順調にいき、迎えた9月1日。多くの戸隠人が見守る中、新大鳥居が建ちました。職人たちが地上で柱に貫を差し込んだ後、それをクレーンで持ち上げ基礎に差し込む。そして、島木、笠木と重ねる。「建て方」と呼ばれるこの工程が終わったとき自然拍手が湧きました。祝福と労いの音が戸隠に響き渡った良き日。一部始終を見届けた地元の子供たちの歓声も印象的でした。

一流だけど戸隠が好きだから居るっていうのがかっこいい

 地元の子供たちは、新大鳥居工事見学だけでなく、実際に柱にかんなをかける体験会にも参加していました。かんなかけ体験会は宮川さんが企画新大鳥居に親近感を持ってほしい、将来「あの鳥居の柱にかんなをかけたんだよ」と語り継ぎ過去の積み上げを大切に思ってほしい、そしてプロ仕事を見て将来楽しく仕事をしてほしい…。いろんな想いが込められた体験会で、真剣に丁寧にかんなを進めていた子供たちの表情は大変頼もしいものでした。

 コロナ生活が一変しました。これから居住地と勤務地にこだわらない生活スタイルが主流になっていくかもしれません。宮川さんはいます。「戸隠のおそば屋さんって一流で、その技術日本そば好きを戸隠でもてなしている。一流になれば日本からオファーがある中で、それでも都会に住まず戸隠が好きだから戸隠に居るってかっこいいですよね」。謙虚宮川さんの代わりに言わせてもらうと、宮川さんも一流で、とてもかっこいい戸隠人です。

 11月1日、工事を無事に終え、竣功祭が執り行われました。生まれ変わった"地域シンボル"を一目見ようと多くの戸隠人の姿がありました。これから平穏ときが続き、一流の姿と想いが受け継がれることを祈って。

 最後に、宮川さんはじめ、今回の建替え工事にご尽力いただいた皆様、本当に本当にありがとうございました

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