はてなキーワード: 脳科学とは
先日、市役所で住民票発行されるの待ってるとき、目の前に2歳くらいの女の子とお母さんらしい女性がいたんだわ。子供の挙動って見てて飽きないもんで、観察してて面白いから、(俺なりに)不審者にならないように注意しながら眺めてたんだよな。
その女の子、この子がまあよくしゃべるしゃべる、彼女の視界に何が映っているのか、あらゆるものについて母親に次々に説明しまくる。壁のポスターだとかガラスケースの中に置かれたぬいぐるみだとか、自分が見ているものについて機関銃のように話し続ける。
このぐらいの年齢って、身の回りの世界について自分で表現できる言葉のパワー? みたいなものが実感できて、めっちゃ楽しい時期なんだろうか。俺には子供いないからわかんないけど、2歳くらいって大体みんなこう? でも、こんなよくしゃべる子供見たことねえし、この子がやっぱ、どっか変わってんのかな、すげえヤツだな、っていうかお母さん大変だ…という妙な頼もしさと戦慄を感じながら観察していた。
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最近『神々の沈黙』って本を読んだんだけど、4,000年くらい前まで人間には意識というものがなかったそうだ。
厳密には「(今日的な意味での)意識はなかった」、ということで、じゃあ昔の人類がどうやって物事を判断していたかというと、脳内に常に「神」の声が聞こえており、その指示に従って活動していたという。
人間の脳ミソというのは、心身の大抵の機能について右脳・左脳の双方で共同して取り組んでおり、左右のどちらかが比較的優位という場合はあるにしても、一方だけが何かの役割を負うのは珍しいらしい。
そんな中、左脳にウェルニッケ野と呼ばれる領域がある。ここは言語に関する能力を司る部分なのだが、右脳側でこれに対応するエリアが何をしているのかというと、これがよくわからないのだそうだ。左脳のウェルニッケ野の役割から推測して、その謎の領域も言語の機能に関わっている(あるいは、「関わっていた」)と想定されるが、明確になっていないという。
興味深いのは、右脳のこの謎のエリアに電流などで刺激を与えると、幻聴を聞いたり異常な知覚を感じる被験者が現れることだ。そこで本の著者が持ち出した仮説が、古代、人間はこの謎のエリアを通じて声を聴く能力を持っており、この声を「神」の指示と認識して、それに従って行動していたのではないか、というものだった。
じゃあ、なんで今はその声が聴こえないのか? というと、人間の言葉の機能が進歩を止めなかった結果だという。言葉によって抽象的な思考を働かせたり、過去や未来を想像する範囲が広がっていったために、段々、人間の実生活においてみんなの脳内の「神」同士のすり合わせが難しくなってきた。結果として人間は「神」を手放し、(一応)自分の意識でものを考えるようになっていく。
つまり、言葉によって見出された脳内の「神」が、言葉の進歩についていくことができず、言葉によって追放されてしまったわけだ。人間ってのはすげえ生物だな、と思う(ただ、『神々の沈黙』は半世紀近く前の本なので、脳科学の常識はとっくにアップデートされている可能性がある。詳しい人がいたら現在はその辺どうなってるのか教えて欲しい)。
…
人間の言葉のパワーのすさまじさ、この世のあらゆることを貪欲に説明しようとする姿勢を特に実感するのが小説読んでて心理描写を目にしたときで、人間のあらゆる感情の機微だとか普通なら理解不可能な狂気の心の働きだとか、もうなんでも言葉で説明してしまう。
中には、明らかにあまり実態に則しておらず、「これ、作家が『こんな奴いたらやべーよな』つって現実に有りもしない心理状態仕立ててやがんな」っていう、京極夏彦の『巷説百物語』シリーズとか、架空の狂気思いついてから逆算してキャラクター作ってんな? そんな奴は現実にいねえから、っていう場合もあるんだけど、おおよそは「確かにこういう心理ってあるよな、よく言葉で説明してくれたなあ」って感嘆することが多く、人間の言葉はマジすげえな、と思う。
…
市役所の女児のことを考えると、言葉の衝動ってのは個人差はあってもほぼ制御不能というか、乗っかるかどうか是非を決定する余裕がある類のものではなく、とにかく激烈に意識にドライブがかかっていくのを前提としてどうやって付き合うか、というものっぽいのでいくらか恐ろしいが、基本的には人類を前進させてきた能力だし、幼児とか若いヤングとかに対しては「いいぞ、もっと、この世のなんでもかんでも言葉にしてやれ」と思って見ている。
実際は生きてると「これは言葉になんねーな…」という場面、出来事もある。たぶんあの女児も成長していく中で自分の口をいったんつぐまざるを得ないタイミングが訪れるんだろう。いま話題の「わきまえる」とは違う、純粋な言語化の困難さだ。
ただ、その辺は期待が現実的な予想を上回ってるというか、まあ1,000年単位で変化してきた人間の資質の前に一つ二つの世代の差なんて関係ないかもしれないが、俺自身はもう古い時代に属する側の人間に自分を組み込んでしまっていて、あの女児を含んだ子どもたちが、小説でもラップでも詩でも音楽でもいい、大いに色んなものを言葉にして征服していったらいい、と思っている。
個人的にはオペラよりも好きかもしれない。特に、愛した女性の墓を掘り起こして遺体に直面するシーンがあるところとか。不毛な愛情というか、すれ違いや失恋ばかり読んでいたことがあり、これを読んだのもそんな時期だ(「エフゲニー・オネーギン」とか「マノン・レスコー」とか)。というか、そもそもオペラって「乾杯の歌」とかすごい好きなんだけど、台詞が聞き取りにくいし、台詞を同時に歌う箇所もあるし、なんか難しい。
ちなみに主人公の独白に曰く、「ああ! 男というものは、その偏狭な感情の一つでも傷つけられると、実にちっぽけな、実に卑しい者になってしまうものです」。……バレましたか。
自分が日本SFを読むきっかけになった人で、ハヤカワのJA文庫の小川一水とか林譲治とかが特に好きだった。
この作品は、太陽の表面に異星からの物体によってメガストラクチャーが作られ、日光を奪われた人類が滅亡の危機に瀕するのだが、若干のネタバレを言うと、最初からエイリアンには悪意が全く存在していなかった。僕はそんなところが好きだ。基本的に自分の好きなシチュエーションは、他者との接触により悪意はないにもかかわらず傷つく、というのがあるのだ。
ちなみに日本のSF作家をより広く読むようになったのは大森望と日下三蔵の年刊日本SF傑作選のおかげ。感謝感謝。
三十歳で婚約者がいるのに、親戚の十八歳の女の子に手を出しちゃったダメな人が主人公。結婚の約束をした女性からは婚約を破棄されてしまい、彼は思い出の品を集めた博物館を作りだす。イヤリングはともかく、自分が家をのぞき見た瞬間を画家に描かせた作品や、下着までも集めているあたり、ただの変態である。帯には「愛に生きた」とあるけれど、愛情というか執着や妄念であったような気がする。けれども、不毛な愛のほうが読んでいて面白い。
ところでトルコという国は、女性がスカーフを被るかどうかだけで政治的な立場の表明になってしまう国であり(ハイヒールを履くかどうかも政治的立場の表明ではあるが、トルコはその傾向が顕著だ)、その点からも読んでいて面白い作家であった。
映画オタクのゲイと政治犯の獄中での対話劇。ゲイはどうやら看守から政治犯の様子を探るように頼まれているようなのだが、いつしか二人には友情が芽生えていく。緊張感のある対話劇であると同時に、ゲイがお気に入りの映画を語るときの調子は推しについて語る幸せなオタクそのものである。安易に神という表現は使いたくないが、語りが神懸っている。ゲイの口調が女言葉なので、少し古い訳なのかもしれないが。
大学時代、年齢不詳の友人がいて、今も何をして食べているのかよくわからないんだけれども、今でも時々強烈な下ネタのメールが来る。そんな彼が薦めてくれた小説。村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の「世界の終わり」パートに影響を受けた作品を部誌に掲載したらものすごい勢いで薦めてくれた。
彼は物にこだわりがないというか、読み終えた本をよく譲ってくれた。同じブローティガンの絶版になった本やシュティフターの「晩夏」などもおかげで読めた。「晩夏」はくどいのでいただいてから十年後に読んだのだが、現代の小説では確実に切り捨てられる長さの風景描写を含む小説を、定期的に読みたくなる。
就職のために架空の宗教団体によるテロをでっちあげる侍の話。時代劇の形を借りているんだけど、時代考証は完全に無視している。そして、自意識過剰人間とクレーマーとおバカしか出てこない語りの芸だ。だが、大体町田康の作品は大体そんな感じだし、人間って元来そんなもんなのかもしれない。オチも基本的に完全に投げっぱなしだが、爆発落ちや死亡オチのギャグが結構好きだったりする自分がいる。文学っていうのは自由でいいんだよ。
ムーミンシリーズ以外のヤンソンの文学作品を選ぶべきかどうか迷ったのだがこっちにした。友人からなぜかヘムレンさんに似ていると言われていた時期があったことだし。
児童文学や短篇って長篇とは違った難しさがある。短い文章と簡潔な表現という制約の中で、キャラクターを端的に表現しないといけないから。そのお手本みたいな作品がここにあり、内向的な人間にやさしい世界がここにある。ちなみにとある哲学者の持っている本の名前が「すべてがむだであることについて」であり、すごく笑える。
全く関係ないが僕は萩尾望都の「11人いる!」のヴィドメニール・ヌームにも似ていると言われたことがある。緑の鱗に覆われた両性具有の僧侶で、とても善い人で行動力もあるのだが、説明するときにやや言葉が足りない。
嘘つきで利己的で、のし上がることにしか興味がない空っぽな存在に恋をしてしまった善良な青年。「悪い娘」の人生の航路は語り手の人生におおよそ十年ごとに交叉するが、一貫して彼女本位な関係に終始する。
これはどうしようもない女の子に恋してしまって、四十年間ものあいだそれを引きずった男の物語だ。地位も財産もなにもかもなげうって、何度裏切られてもひたすらに与え続けた。そんじょそこらの悪女ものとは格が違う。シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」のように。
猥褻だということで昭和時代に裁判になったというので読んでみたが、どこが猥褻なのかちっともわからない。しかも、作者の思想がうるさいので文学的な美を損なっている。
性表現は露骨というよりも、おちんちんに花飾りを結ぶみたいなのどかなヒッピー文化的な感じで、エロティシズムについては性描写の無い仏文学のほうがずっとぐっと来るものがる。しかし、時代を先取りしていていたという意味では素直にすごいと思うし、この程度で猥褻だと騒いでいた時代はさぞ不自由で息苦しかったのだろうなあとも思う。
最強のファーストコンタクトもののひとつで、ネタバレするとオチは「意識やクオリアとはときとして生存に不利かつ無駄であり、この宇宙では淘汰される可能性がある」という絶望的な結論。人間の心も愛も宇宙の中では無だ! みたいなSFが大好き。
基本的な構造は「宇宙のランデブー」の変奏で、未知のエイリアンの遺物の中を探検するのだが、強烈な磁場の中で意識が攪乱され様々な精神疾患を一時的に患うという違いがある(実際に脳に強烈な磁場を近づけると活動する部位が変化する)。言及されるコタール症候群や半側空間無視といった症状もすべて実在するが、脳科学の知識がないと全部作者のほら話なんじゃないかって読者が誤解するんじゃないか若干心配。
それと、ハードSFとしてはすごい好きなんだけど、どういうわけか吸血鬼が味方に出てきて(人類を捕食していた類人猿の遺伝子を組み込んだ改造人間という設定)、味方のはずなのにこちらに危害を加えようとする不可解な設定があり、これは作者の吸血鬼やゾンビに対する偏愛のせいだろうが、プロットの上であまり関係がないし必然性もなく、そこが無駄に思われた。そもそもなんでそんな遺伝子組み込んだ危険なやつを作るんだ?
以上。
元増田の発言自体が既に発達障害のそれなので "国語を嫌う" の意図は元増田にしかわからないけど
→ 日本語は日本の文化・言語学・脳科学と密接に関わりあっているが学術的価値を軽視する人が多い
→ 日本語の歴史を軽視する人が多く、言葉の誤用や文法の誤りを指摘すると疎まれることが多い
こう捉えたよ
元増田『(匿名はてなダイアリーは) 国語が嫌いなヤツが多い』
↓
発達障害が国語の先生やってウザがられる → 『正しい指摘をしただけなのに!こいつら国語嫌いなんだムキー』みたいな流れだろ
発達障害はあらゆるネットコミュニティーで国語の先生やってウザがられてる
文脈が読めない・文意をつかめないのは発達障害のキミだけだぞ?
日本語がネイティブじゃないひとでもブロークンで通じるのに🤦♂️みたいな
言葉に対する感受性が高いこと自体は悪いことじゃないがこだわりが悪い方向に出ちゃってる感じだな
物書きをやればいいのに
発達障害ではないのなら知的ボーダーで『日本語が変』とあげ揚げ足取ったつもりなのに相手にされなかったから拗ねてるのだろう
さぁ?元増田の発言自体が既に発達障害のそれなので "国語を嫌う" の意図は元増田にしかわからないけど
→ 日本語は日本の文化・言語学・脳科学と密接に関わりあっているが学術的価値を軽視する人が多い
→ 日本語の歴史を軽視する人が多く、言葉の誤用や文法の誤りを指摘すると疎まれることが多い
こう捉えたよ
TikTok、YouTube、Instagram にすらコメント欄があるので文字を打つこと自体が嫌いとは捉えなかったわ
anond:20210313165432 anond:20210304112312 anond:20210304120448 anond:20210306232525 anond:20210307151450 anond:20210312122259 anond:20210314095824
anond:20210314095554 anond:20210314163933 anond:20210315123845 anond:20210315142249 anond:20210315142206 anond:20210315143840 anond:20210315142732 anond:20210315154750 anond:20210317114609 anond:20210319123836 anond:20210622163547 anond:20210803171140
科学的知識がアップデートされたんじゃなくて「性同一性障害」という概念が消されたというのが近い
性分化自体はエピジェネとか色々あるから機序が難しいけどかなり理解されつつある
ホルモンシャワー以外にも色々あるけど、結局それは性分化がバグる機序が色々あるっていう話で
そこから面倒くさくなって一気に自認だけにするのはむしろ後々さらに面倒くさいことになるだろう
大体の場合、科学者が悪いからと言って科学知識を雑に扱うと困るのは科学者以外だと思うよ
うん
性同一性障害の原因がホルモンシャワーってのがずっと言われてたが2、3年前に否定されなかったか?これはガチで聞き齧りだからすまんが。脳の性分化の存在自体は否定しようもないと思うよ。
男性脳女性脳は一人歩きしすぎて(今現在出版されてる一般向けの本なんかは)オカルトと言われても仕方ないと思うよ。昔の脳科学は適当すぎたというが、現在だって「かもしれませんね」レベルことを専門家名乗って適当言って金稼ぐ奴が多すぎてオカルトと言われてもしゃあないと思う。
医学分野じゃ動物実験レベルの話を人間に適応して誇大するのなんか似非科学とまで言われたりするのに、一般に向けて喋る脳科学者は何でも飛躍させすぎだと思うわ。
知的障害を伴わない発達障害の存在が世間に広く認知されるようになって10年以上になるだろうか。
アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)やADHDなどの、コミュニケーション不全の障害は、現在の高度情報化社会に適合することが困難な人々を障害者として認定したもので、そのような意味で「新しい障害」「時代によって創られた障害」とも言われている。
歴史的経緯から俯瞰すれば、社会の構成員の多くが第一次産業に従事していた時代には、軽度な発達障害は障害としては認識されていなかった。社会にとっては身体的な機能障害の有無が、何より重要視された。
機械を使わない農作業では人間の身体が頑強であるか否かが生きていく上で重要である。逆にこのような時代において、体格さえ頑丈でよく働くことが出来ればよく、発達障害の有無が社会の構成員にふさわしいか否かの判断基準とされることはほとんどなく、それどころか知的レベルで多少劣っていても問題とはされなかった。
ところが産業革命が起こり、人々が工業生産すなわち第二次産業に従事する者が多くなってくると、知的レベルが低い者は労働生産性において不利となり、工場などで働くことがままならず、障害者としてみなされるようになる。どれだけ体格が頑丈であっても、軽度知的障害者は障害者として扱われる。
そして現在の高度情報化社会では、第三次産業に従事する者が多くなっている。情報通信業を含むサービス産業においては、他人との間の情報の伝達に問題を生じる者、すなわちコミュニケーション能力が低い者が障害者と認定されてしまう。認定を受けた者やその予備軍は、生きづらさを抱えて生きていかなければならなくなったのである。
こうして、今日の社会では他者とのコミュニケーションが困難な者は軽度であっても、総称して「発達障害者」と呼ばれ、障害者として取り扱われ、治療の対象となり、障害者枠で働くことが可能になってしまった。
生きづらさを抱える人々が社会から援助されるようになったのだから、それは社会の進歩である、ととらえる人もいるが、高度情報化社会が発達障害であることが生きづらくしてしまったのだから、発達障害者にとっては社会の悪化であろう。
ところが社会の進歩(あるいは対象者にとっての悪化)はとどまることを知らない。高度情報化社会から次の社会へとステップアップする中で、今後クローズアップされるであろう障害が、掲題の第四の障害である「嫌感障害(けんかんしょうがい)」(英訳するとharassmental disability)ではないか、というのが私の予想である。
「嫌感(けんかん)」とは私の造語で、嫌感障害者は、他人の嫌悪感を感じ取れずに、あるいは知りながらも敢えて、ハラスメントを行う人々のことを指している。
(同様に"harassmental disability"も、発達障害=disappointmental abilityに寄せて作った造語)
「それは一般の発達障害とどこが違うのか?」と問われるかもしれないが、知的障害が身体の脳の障害という意味で広義の身体障害者であり、発達障害が広義の知的障害であるのと同様に、嫌感障害もまた、広義の発達障害ととらえて差し支えない。
しかしこれまでの発達障害という概念の中には、共感性が低いために他人の感情が分からずに意図せず他人に嫌悪感を与えることをその中に含みつつも、「他人が嫌がることがわかっていながら他人の嫌がることをすること」、いわゆるセクハラやパワハラをすることまでを障害の一種だと認定することはなかった。
今回私が提唱する「嫌感障害」は、一歩踏み込み、発達障害者の中で他人に嫌悪感を与え続けてやまない行動発言をする人々と、攻撃的であったり、あるいは人が嫌がることをすることをやめられない人々を、まとめて新たな障害者として認定するものだ。
第1の障害が身体障害、第2の障害が知的障害、第3の障害が発達障害ととらえたことが、嫌感障害を第4の障害ととらえる所以である。
昨今の脳科学では、人間の自由意志の存在は否定され、すべてが所与の条件、すなわち、遺伝子と環境、構造などによって思考は自動的に決定されているという。
自分の意思によって他人の嫌がることを行う人もまた、ある意味自分ではどうしようもない衝動によって突き動かされ、社会に不適合な行動を取らざるを得ない障害者と言えるのではないか。
彼らが適合できない社会とはなんであるか。それは女性や障害者が多く進出した社会であり、多様な社会であり、弱者が認められ、生きやすく、守られる社会である。
この社会では、強者や多数派が、その力でもって弱者や少数派の人権を踏みにじることは、もはや許容されない。
強者が所有していた権力、多数派が所有していた圧力でもって、他人の自由を拘束し、口をふさぎ、多様性を蹂躪することは社会がもはや許さないのである。
他人への嫌がらせを許さない社会は、高度情報化社会が発達し、様々なサービスが生まれる中で、人々が夢中になるサービスに人々の興味が集約していく中で育まれていった。人々が夢中になるサービスとは、SNSである。
高度情報化社会が理性の支配する知識の共有を成し遂げたものであるならば、その中で育てられてきたSNS内では、感情の共有が重要なものとして形作られてきた。
それは「高度感情化社会」と言えるものである。私達は高度感情化社会という新しいセクターに生きており、産業革命、情報革命の次に生じた、感情革命の只中にいるのである。
GAFAが情報化社会の雄ならば、そこに入っていないTwitterは感情化社会の雄であり、今後は感情産業と言われるような感情の共有化をビジネスの柱とする産業(第四次産業?)に、多くの人々が従事するようになるだろう。
その産業の中で障害となるのが、他人の感情を傷つけて平然とする人々である。その問題が今、ジワジワと、次々にクローズアップされているのを私達は知っている。
「こんなことまでハラスメントなのか?」
という疑問を抱いた人は、多いのではないだろうか。なぜ新しいハラスメントが次々に問題視されているのか、わからない人も多いはずだ。戸惑っている人々も多いだろう。新しいハラスメントを提唱する人々に「お気持ちギャング」というレッテルを貼る人々も少なくない。
しかし、これが時代の趨勢である、ととらえると、納得できるのではないだろうか。他人に嫌悪感を抱かせるのは障害である、という新しい常識が広まりつつある過程なのだ。
嫌感障害という概念が確立されるメリットとしてまず考えつくのが、嫌感障害は障害であるのだから、治療の対象となり、医療が解決する分野となることだ。
発達障害がコンサータなどの投薬で治療されてきたように、いずれ嫌感障害を解決する薬が見つかることになるだろう。
次に挙げられるメリットとしては、パワハラ、セクハラをしてきた人々が、ひとくくりの集団として可視化され、社会活動における「障害」の持ち主と認識されることだ。
発達障害という概念が、コミュニケーションの重要性を浮き彫りにしたように、嫌感障害という概念は、他人への攻撃性を抑止できる能力の重要性を明らかにする。
パワハラ、セクハラ、モラハラを、無意識であれ意図的であれ、行ってはいけないし、それは教育によって徹底されていき、矯正できないものは「障害」がある者として取り扱われることになるだろう。
このような潮流が社会に表出しようとしていることを、私達はこれから目の当たりにすることになるだろう。
なお、以上のようなことがふと頭に浮かび、自分のオリジナルなアイデアかもしれないと思い、一気呵成に書き上げたが、研究者でも専門家でもない私の思いつくようなことは、すでにどこかで誰かが考えついているかもしれない。
「高度感情化社会」「嫌感障害」といった概念に似たことが書かれている本などがもしあれば、ぜひブックマークか増田返信で教えていただきたい。
逆にアイデアが私のオリジナルだった場合、用語やアイデアに関して、皆さんのご自由にお使いいただきたい。この記事からの引用である、などと断る必要もありません。
by tnkm
1 についても 2 についても、家族や親しい人と何度も確認しながら精度を高めていくしかないと思われる。
2 については世間一般でどのように判断されてるのか理解していくことになるけど、1 については本当に人それぞれで、人と親しくなっていく過程でその人がどういうときになにに焦点をあてるのか学んで行く必要があるんだと思う。だから知らない人には誰でもある程度の関心があろう当たり障りのない話題を選んで会話するわけで。
その本に書いてあった訓練の方法は、
1. 相手になにかあったように見えるとき、どのような感情を抱いているように見えるか口に出す(例:悲しそうに見えるよ)
2. その原因を推測して口に出す(例:今日会社で嫌なことあった?)
を繰り返していくってやつ。
その本の具体例では、門限を破って深夜に帰ってきた娘をみた母親が、いきなり怒鳴りつけるのではなくて娘を観察して「あなた焦っている?いや、悲しそうに見える。今日の夜なにか嫌なことがあった?」と質問することで、娘が遅く帰ってきた原因(彼氏にいきなり振られて、車で送ってくれなかったので歩いて帰ってきた)がわかってお互い必要以上にギスギスしないですんだ、という話が載ってた。
正直こんなにうまくいくとは思えないし、気分が悪い時に的はずれな推測されたらさらに腹が立ちそうなものだから、相手にこういう理由でこういう訓練をしたい、付き合ってくれ、とあらかじめ合意を得ておく必要があると思われる。これをやり始めると相手も自然とこれをやるようになるので、お互いの理解と感情コントロール力が深まっていくらしい。
ちなみに自分は上記の方法の他に、自分の感情(emotion と feeling の両方)を自己分析する練習として、腹が立つことがあった日だけそれについて日記をつけるようにした。なんで自分がこのことに苛立っているのか、自分で仮定を立てて書きながら考えることで自分の苛立ちを客観視してコントロールすることが少しだけできるようになってきた。
ちなみにその本の名前は Brain rules for baby というやつ。自分は英語で読んだが、日本語訳が「100万人が信頼した脳科学者の 絶対に賢い子になる子育てバイブル」って題名で出ている。この本自体は子供の育児に関する本で感情に関する話はその中の一部だけど。同じ筆者の「ブレイン・ルール 健康な脳が最強の資産である」という本も出ているようで、これは子どもに限らない人間の脳の働きに関する本っぽいからこっちを読むといいかもしれない。読んでないからわからないけど。
人間が物事の良し悪しを判断する能力について、西欧哲学の古典は、論理的能力がそれを担うと考えてきた。プラトンは「感情を排して論理的に考えれば正解を見つけ出すことができる」と言っており、この思考は西欧思想の強い影響下にある世界全般に現代まで共有されている。
ところが80年代から現代にかけての心理学・脳科学は、人間が物事の良し悪しを判断しているのは、論理ではなく感情(を主要構成要素とする直観)であると結論づけている。
人間は、物事を見た瞬間に「なんかいい」「なんかヤダ」で、ほとんどの物事を自動的に判断している。論理が働きだすのはその後で、「私が『なんかいい』と考えたのは~~が理由だ」という理屈を跡付けて考えている。結論が先にあって後から理由をつけているのであって、~~が本当に判断の根拠だったかは定かでない。
この理由付けは、きわめて素早くスムーズに行われるので、自分自身すらをも騙してしまう。心理学の実験によって、わざと理由付けがスムーズに行かない問題を判断させることによって、被験者が自分自身をすらも騙していたことが確認できる。
ここまではある程度知られた話。俺も聞いたことがあった。
面白かったのはここからで、ではその理由付けの能力っていうのはどういう風に使われるのか?
測定によって知能が高いとされた人間と低いとされた人間を集め、直前行った道徳的判断に関する「自分が正しい理由」と「自分が間違っている理由」を挙げさせたところ、頭がいい人間はよりたくさんの「自分が正しい理由」を挙げることができた。しかし、頭がいい人間も頭が悪い人間も、「自分が間違っている理由」は同程度しか挙げられなかった。
論理的思考能力っていうのは、正解を導き出す能力ではなくて、正当化を導き出す能力でしかない、ということだ。
ツイッターや増田で、頭がよさそうな人たちがやっているのは、より素早く正確に素晴らしい正当化を行うことであって、正誤を検討して結果を発表することではない。
俺がいまやっているのもそうなのだ。
正誤を検討するには、論理的思考能力以外の、別の訓練が必要だ。
例えば仮説を立てても実験するまでは正解とはみなさない、科学の初歩的な態度は、そのために存在するのだろう。
実験をしないまでも、単なる心がけとして、自分が間違っている可能性を常に検討しようと努めるべきだ。自動的な論理思考能力によっては、それはもたらされはしない。頭の良さもこの動作には寄与しない。マジで心がけだけがそれを可能にするのかもしれない。
人類70億人とかおってさ、少なくとも先進国ではかなりのテクノロジーを普段使いできてさ、明日の天気もわかるし、生命も作り出せるし、すごい遠くにある星のこともわかるし、地球の裏側と秒単位のラグだけで会話できるし、何というかもうすごいじゃない
でも自我とか意識とかが何なのかいまだによくわかってないのってすごくねえか
みんな賢しらに社会問題とか論じてるけど、自分の根幹がよくわからんものなわけじゃん
それって怖くね?
俺も流石にそんな四六時中「俺とは一体……」なんて考えてるわけじゃないけど、昔はもっと考えてた。で、何で考えなくなったかっていうと別に何かがわかったからじゃないんだよな。
わからんし、まあいいか……っていう諦めなんだよ。俺は俺そのものであると言っていい自我が一体何なのか考えることを放棄しとる。
で、多分脳科学者とか以外みんなそうなんだよな。何なら脳科学者もそうかもしれない。
自由意志は存在するのか?思考形成より先に身体は動いているぞ!みたいな話も、見るたびに「すげー」「こえー」と思うが、そこ止まりだ。というか、そこで止まるしかない。だってわかんないから。自由意志ないって言われても俺は考えてるような気がするしな、どうなんだろうな、つか自由意志って何?考えるとは……。わからん!賢い人に任せよう。っていうのを毎回のようにやっている。
ググれば秒でわかるかと思いますが日本で振り回されがちなマズロー・フロイト・ユングなど 大昔の方々 が唱えたことは
既に化石になっていたりします。一部取り入れられいることも科学的な補強が入ってます
たとえば脳科学とかですね
(なお、いまは局在論ではなく全体論だと思います。また脳腸相関など単一でどうこうではないです。とりあえずヤクルト飲もう)
ストレスを感じる状況・幸福を感じる状況に対し脳がなんらかの反応を示している点については
もちろんそんなことはなくて、脊椎動物の脳や構造、遺伝子を調べると、人間も含めて、共通なものがあることがわかっています
そこで 行動神経科学 (Behavioral neuroscience)、生物的心理学 (biopsychology または psychobiology) なんて視点があったりします
日本でも もちろん様々な研究をやっているので 学生さんや親御さんなら目にする機会くらいはありそうな気がします
そのへんに転がっている科学読み物なんかでもよく出てくる視点ですね
彼ら(動物たち)は 親や同種から称賛を受けなければ 自分 や 行動 を肯定出来ないと考えますか?
あるいはアクション毎に自分自身のことを否定してる個体がいると考えますか?
そもそも彼らが “その瞬間、自分がしたいこと” をするのにそれらは必要になると考えますか?
セックス(性別) に進化の過程で有性生殖になった以上の深〜〜い意味を寄せがちな人がなぞ過ぎる増田でも書いたのですが、
世の中には、詳細については興味が無くとも、“経験から知っている” ことってあると思うんです
たとえば、負の経験の学習 (動物が嫌なことを避ける学習・死の危険を避ける学習) ですね
負の経験の学習についてはみんな経験して知っていると思うので、実は記憶って遺伝するらしいですよとだけ補足して、
まとめたいと思います