はてなキーワード: 夢分析とは
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
(いくつかフェイクあり)
カウンセリングを受けて何かと楽になったので、知見を共有したい。
それに、カウンセリングを終えてからそろそろ1年が経過するので、ちょうど過去を振り返るのにちょうどいいと考えた。
増田でも、多くの人が「カウンセリングに行ってみたら?」と時には本気で、時には冗談で言うのだけれど、そこが実際にはどんな場なのかを知らないせいで、行くのをためらっている人が多い現状を、変えたいというのもある。
増田だけではなく、ネット上の多くの人が、少しでも楽になれるように祈っている。その助けになれば幸いだ。
長くなりそうだし、愚痴っぽくなるのも嫌なので、代表的なものだけを箇条書きで挙げる。
臨床心理士の資格を持っている50代の女性。中学生くらいの子供がいるらしい。
髪の毛が長く、少しやせ型。落ち着いた物静かな女性だが、明確な自分の考えを持っている印象がある。初恋の人に似ている気がするがおそらくは気のせいというか、投影しているのは間違いない。
初回は風景構成法を行った。これはカウンセラーの指示に従って、順番に山や川、家や田んぼ、人物などを配置していくもので、専門書に当たれば具体的な解釈方法が書かれているが、自分は専門家ではないので省く。当日に描いた作品を今になって振り返ってみると、道のど真ん中に障害物の石が置かれていたり、山が雪に閉ざされていたりと、寒々とした印象を受けた。描かれている人間も逆立ちをしていて、何やら不穏である。蛇も不気味にとぐろを巻いていた。
二回目からは主に夢分析を行った。カウンセリングとカウンセリングの間の一週間に見てきた夢を記録して、それを材料に話をする。つかみどころがないようだが、意外なことにかなり効果があった。理屈はわからないが、この治療中は同じようなテーマの夢を見るようになる。さらに、肝心なのは夢の内容そのものではなく、夢の話をしているうちに自分が何を思い出したか、あるいは漠然とした印象をどのように語りなおしたかで、それによって、自身の考え方の偏りや傾向が見えてきた。現に、夢の内容を話す時間は案外短く、後半の三十分は、そこから思い出した過去の出来事や近況、それについて自分がどう感じたについて話し合うことに費やされた。そうした雑談をきっかけに、突破口を開いたこともある。
夢分析が行き詰まった時には、箱庭療法を試みた。これは、砂の敷かれた箱の上に人形や模型を配置していくもので、話しながら人形を動かしたり、砂の上に模様を描いたりした。うまく説明できないが、非言語的なものを明確にするのに役立った気がする。例えば「このタヌキ(の置物)は寂しくて困っている。友達がいなくて寂しそう。上下がひっくり返って困っている。悲しくて暴れている」などと比喩的な話をすることで、日常使っている言葉の論理で語りたくないことを口にしていた。小さな人形を触っているうちに気分が落ち着いたり、逆にひどく動揺することがあったり、不思議な経験だった。箱庭療法の最初の一回も、自分の心理的混乱が反映されていたのか、人形同士がにらみ合ったりひっくり返ったり無意味に積み上げられたりと、非常に張り詰めた印象のもので、カウンセラーも「ちょっと怖い」という印象を漏らしていた。
これらの技法は、ある種のきっかけというか呼び水だった気がする。どんなことを語っても許されるというか、傾聴してくれる場というのはそれだけで貴重で、話しているうちに自分の思いがけない本音や、ダブルスタンダードに気づいた。また、夢のような一見「どうでもいい」話ができる仲になることで、普通は人に話すこともはばかられるような、野外オナニー願望についても話すことができた。
治療も後半になると、こうした技法はほとんど用いず、通常の雑談に近くなった。自分はこういうことをしてこう言う結果になった。自分の気持ちはこうだ。そうしたことが素直に言えない人のために、これらの技法はあるのかもしれない。
始め、自分は藁にも縋るような思いでカウンセリングを申し込んだ。と同時に、どこか疑ってもいた。自分はカウンセリングの技法についての基礎的な知識はあったし、大体どのようなことをされるのか予想がつくと思い込んでいた。精神分析に関するフロイトの著作だって読んだことがあるし、河合隼雄の「ユング心理学入門」も読んでいた。しかし、カウンセリングの概略を知っていることと、実際にカウンセリングを受けることとは、まったく別の経験だった。水泳の理論と、実際に水に入って泳ぐこと以上に隔てられている。なんといっても、何年にもわたって定期的に同じ人間と会うのだから、必然的に相手には強い感情を持ってしまう。結局、人間が強い感情を持つのは人間に対してであり、人間が変わるのも対人関係を通してだ。
カウンセリングでは何について話すことも自由だった。幼少期の悲しみ、いじめられた経験、両親から受けた不条理な仕打ちなどなど。それだけではない。女性にするべきではないとされている話もした。自分の性生活、自慰行為、風俗店での出来事など、自分は露悪的なまでに細部を語ったが、しっかりと耳を傾けてくれた。
そして肝心なのが、何度同じ話をしても相手は退屈する様子を見せない点だ。自分は、同じ話を繰り返すことで忘れていた細部を思い出すことがあったし、それに新しく意味付けをすることもできた。
最後に、カウンセリングの時間が終わりに近づくと、カウンセラーは僕の話した内容を簡潔に言い直す。そうすると、自分はこういうことを考えていたのか、と毎度のように驚かされる。まとめられた内容を反芻しながら次の一週間を過ごすことで、自分の考えが深まっていった。他にも、自分がすべての不平不満をぶちまけた後で、それに対する解釈を投げ返されることで、その負の感情を自分の一部として取り込むことができるようになった。「あなたがそこで腹を立てるのは当然だ」「あなたの感覚はそれほどおかしなものではない」という趣旨の言葉を返してくれるだけで、自分の過去を少しずつ受け入れることができるようになっていった。
ところで、カウンセリングに通ったのが、2014年3月から2019年8月のことなので、4年以上も同じ人と毎週のように会っていたことになる。途中から自分の気分が落ち着いてきたので隔週に切り替えたのだが、それでもかなりの頻度だ。自分は、自分のあらゆる感情や悩みをぶちまけて、それでも受け入れてくれる存在がうれしかった。モテないあまり風俗に浸っている自分を軽蔑しない彼女の存在が尊く思われた。
珍しくないことだが、自分はカウンセラーに好意を持つようになった。自分は、職業倫理上その気持ちは受け入れてもらえないことだと知ってはいたけれど、「あなたを尊敬しているし、とても強い好意を持っています」と伝えた。カウンセラーからは「私もあなたと会うのが楽しみです」という趣旨の返事をもらった。と同時に、僕は、なぜこのカウンセラーが好きになったのかをじっくり考えだした。すると、自分には好きな人に自分の悩みを洗いざらい吐き出したいという願望があったのだ、と気づいた。同時に、自分は知的水準の高い女性に強いあこがれを持つことも改めて認識した。年齢などどうでもよかった。比較的若く見えるが、相手は五十代の人妻で、自分が手を出すわけにはいかないのだけれど、叶わない想いだとは知りながら、相手に尊敬の念を持ち続けるというのは、思ったよりも悪くなかった。おかげで、自分にとって他人を好きになるとはどういうことかを言語化できたし、他人を尊重することを身をもって学んだ。
一人の女性を好きになり、それを軽蔑されたり馬鹿にされたりしないこと安心感を、自分はたくさんの悩みに取り組む支えとしていった。僕は、このカウンセラーのことが好きになれて、本当によかったと今でも思っている。
過去のどのようなつらい経験も、自分はそれぞれ意味があったのだと、迷いなく考えられるようになった。それから、今までは様々な物事を与えられて当然だと感じていたが、やっとのことで与えられた物事に感謝することを学べたように思う。
また、自分の恐れの感情やトラウマにとらわれずに行動できるようになったことで、自分の外側の世界に対して、うまく働きかけることができるようになった。
もちろん、上に書いたような悩みのなかには、直接解決しなかったものもある。でも、それはそれで仕方がない、と受け入れられるようになった。
何よりも現実検討能力がついた。不安を不安のままかかえておけるようになり、不安で頭が真っ白になることがほとんどなくなった。自分の中の膨大な不安のエネルギーが、落ち着くべき場所を見つけたかのようだった。
悩みの解決の過程を言語化するのは難しい。自分の考えがどんな風に変化していったかを記すにとどめる。人によってたどるべき道のりは異なるし、僕の頭の中の理屈をそのまま文字にしても、納得できないことは十分に考えられるからだ。
過去のいじめ、対人関係のトラブルはとても悲しいものだった。でも、おかげで自分は人をできるだけ傷つけないようにしようと心掛けられるようになった。それと同時に、絶対に誰のことも傷つけない発言・表現というのも無理だとも知った。男性であれ女性であれ、相手を一人の個人として尊敬することが大切であり、それは自分と相手は異なっていると認識することだ。だから、できるだけ丁寧に接することは大切だけれども、自分と他人は別の存在なので、礼儀正しくしていたとしても、絶対に不快な思いをさせないでいることは不可能だ。かつての自分は、自分が女性から不快な思いをさせられた経験から、絶対に女性を傷つけてはいけないというルールを自分に課していたのだけれども、それは不可能だと知った。過度に自分を縛る目標は、ある種の呪縛だ。
それに、世間にはいろんな女性がいる。優しい人、冷たい人、知的な人、ちゃらんぽらんな人。一人の女性が自分に暴力を振るったからと言って、そうでない人もたくさんいる。女性一般や平均的女性像みたいなものに、振り回されなくなった。
フェミニズムとの距離感もうまく取れるようになった。納得できることはうなずき、わからないことについては調べ、おかしいと思うことには反対する。それは、フェミニズムだけではない。自分とは違う考えの相手に対する対応の仕方と全く同じだ。
仕事に関しては、転職をした。自分の能力に見合った仕事に切り替えることでやりがいも感じられるようになった。給与は下がったが、例えば600万稼ぐ人間が300万稼ぐ人間の2倍偉いのかといえばそういうわけでもないし、僕にとっての一番大切な価値観は、早寝早起き快食快便が守れる生活が維持できるかどうかだと知った。
男らしくないのではないか、というのも気にしなくなった。世間の価値観がどうあれ、自分が好きなことを好きなようにする。自分らしくあることが自分にとって男らしいことと定義しなおした。
その中で、家族との関係も改善した。今にして思えば、両親は自分と非常に適切にかかわってきてくれた気がする。圧倒的にすがりたいと思っていた両親も50~60代のただの人間なのだ、と実感することができた。しかし、ただの弱みもある人間だからこそ、大事にしたく思えるようになった。距離感が適切になった気がする。
処女厨もロリコンも治った。正確には、そういう願望があることそのものに対して、思い悩まなくなった。一つには、50代の女性に恋をすることで、実際に小学生と恋愛したって、物足りなくなるに決まっていると心の底から理解したというのがあるし、人生経験豊かな女性の魅力に気付いたのもある。さらに、処女厨の根源にあった、「セックスとは汚いものだ」という意識も弱まった。「セックスは気持ちよいものだし、誰かを愛することは素敵なことだ」という感覚しかなかったら、処女喪失を汚れとは認識しないだろう。それよりも、出会った二人が新しく一緒に思い出を作っていくことの喜びに目が向くようになった。まだ彼女はできていないけれども、一緒にデートしたり、他愛のない話をしたり、うとうとしたりしたいし、それに向けて今でも努力している。
女子小学生の裸を見たいという感じもほとんどなくなった。確かにあの年頃の女の子はかわいいけれど、それだけのことだ。どんな感情を抱こうとも人間は自由だと思えるようになったことで、かえってそうしたロリコン的な願望から自由になった。
同時に、野外オナニー願望も消えた。なんというか、得体のしれないドロドロした性欲のエネルギーに、適切な形が与えられた感覚がある。よく夢で、性器を露出したり全裸になったりするパターンが多かったのだけれど、カウンセラーと話すうちに「おちんちん見せるだけじゃ意味ないよね?」みたいな話になり、そうしたことを話しているうちに、セックスって相手あってのことだよね、みたいな認識に到達した(このあたりの話が非常にわかりにくいのではないかと恐れている。ラポール、とでもいうのだろうか、クライアントとカウンセラーの間には、長い間の会話の積み重ねからくる膨大なコンテクストの共有があり、ある種のツーカー関係が出来上がっているので、会話だけも書き起こしても非言語的な部分が多くを占めていて、客観的にはわかりにくくなりがちだ)。
死への恐怖は、とりあえず先送りされた。これは個人的な経験だけれど、死ぬのが怖くてたまらないときというのは、何か大きな変化を恐れているときか、未知のものに飛び込まなければいけないときに強まるような感覚がある。
カウンセラーには日々の出来事を何でも話すことができたが、別にカウンセラーに聞いてもらわらなくても、別に大丈夫になってきた。さらに、ここで話をしても、これ以上自分は楽にはならない気がするようになってしまった。
とても感謝はしているけれども、自分で自分を励ます考え方ができるようになっていて、あとは毎日の出来事を淡々とカウンセラーに報告するだけみたいになっていた。
というのも、自分の悩みを解決できるのは、最終的には自分だと思うようになったからだ。話を聞いてもらって勇気をもらったり、現実的なアドバイスを受け取ったりすることはあったけれども、実際に行動するは他ならぬ自分なのだ。
ならば、これ以上ここにいても、自分は変われないのではないか、という気がした。そして、3月という区切りのいい時期であったので、そこで終えることにした。
最後にもう一度風景構成法を行った。山には緑があふれるようになり、街には人がたくさん姿を見せるようになった。蛇は道や川のうねりへと姿を変えた。困ったときには駆け込めるような病院や、芸術を鑑賞できるような美術館も街に描かれていた。そこでは、たくさんの人々が連れ立って歩いていた。ずっと住み心地のよさそうな風景だった。
いつものように一人で飯を食っていた。
通りに面したテラス席だ。このあたりは飲食店が連なっていて、ずらっとテラス席が並んでいる。どの店もそこそこ席が埋まっている。
よく見ると客が全員ポーランド人だった。なぜかみんな、ケーキを食べている。
そういえば、このへんの店はみんなパティスリーだった。客じゃなくて従業員がまかないを食っているのかもしれない。しかし、まかないまでケーキなのか?
どのテラス席でも全員同じ種類のケーキを食べているのに気付いた。生クリームがたっぷりかかったチョコレートケーキだ。うまそう。だけど判で押したように同じなのでちょっと不気味に思った。
あたりは妙にざわついている。
みんな、なにか興奮したような、困惑したような、あるいは心配そうな様子で、声を抑えつつも情報を交換し合っている。
その中でも一人、若い男性のパティシエが通りの良い声で、立って何かを話していた。演説めいた口調で、ちょっとしたギャラリーができている。
曰く、清少納言の行いをもはや許してはおけない、俺たちが目にものを見せてやるときだ、と。
最後に「困ったことになったら俺を頼れ」と締めくくって店の中に戻っていった。その仕草と声があまりにイケメンだったので、俺は思わず「かっけぇ……」と声を漏らし、あたりの女性たちからも黄色い声が上がっていた。
しかしそれにしても、何が起こっているのかよくわからない。俺は場所を変えた。
大学の学食に来た。見慣れた場所だけど、ここでも雰囲気がざわついている。ふだんは置いていないデザート類がそのへんに並べられていて、勝手に取って食べていいらしかった。
俺はその中の大福を一つ、ひょいと手に取って食べてから、その隣のケーキに手を伸ばした。
するとそこに業者の人たちがやってきて、置いてあったケーキをすべて手際よく廃棄してしまった。業者のオッサンの一人が笑顔で話しかけてくる。
兄ちゃん、いいねえ今日は、いいもんが食えて。
いや食おうとしたらあなたが捨てたんだが。
ますますわけがわからない。
そこに運よく、見知った顔を見かけた。小学生の頃からの親友が二人だ。そいつらに話しかけて、何かあったのか、と聞いてみた。二人は訳知り顔でこう答えてくれた。
確かに、事情を知らない人から見ると何があったのか意味不明だろうな。
みんなやたらといいものを食べてるし、一方でこの異様な雰囲気だ。おかしいと思っただろ?
でも理由は一つなんだ。それはね、
そこで目が覚めた。
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創作ではないです。
補足とか追記:
高校3年生。もう授業はだいたい終わろうとしている、というところで担任が突然発情した。
今日の4限目、HRの時間。普段はちょっとしたプリントを解いたり、担任のダベりで消化される金曜の4限なのだけど、今日は異様だった。
ここまでで大体わかってもらえると思うが、やたらと性的な匂いのする1時間だったのだ。僕は別に騒ぐことでもないと思ったのだけれど、クラスメイトがやたら「気持ち悪い」だの「まじで訴えようかな」とか言ってるから「これ僕がヤベーやつかも」って心配になったので客観的な意見を聞きたい。
例えば内容はこうだ。目の前に海があって、連想されること。砂漠があって、連想されること。コップがあって、連想されること。そしてコーヒーがあって、連想されること。ああ少し違うな。コーヒーに関しては「まず、好きか嫌いか。それから、どのようにして飲むかを答えて」っていう問いだった。この書き方だと匂わせすぎだが、最後のやつは“SEXに対する価値観がわかる”という程の問いらしい。
「4問目、コーヒーの問題な。これから連想されるのはあなたの……SEX…SEXに対する価値観です」
そうさらっと喋った。みんな、突然のSEXにびっくりしてた。だんだんざわざわし始めて先生の顔が曇ったりしたんだけど先生は突き進んだ。
「次の問題な。女とその彼氏がいます。二人は川を隔てて離れ離れになっており、女が男に会いに行くには舟を出してもらわなければなりません。そこで女は舟を出してと頼むんですが、船乗りにSEXを要求されます……。」
もうあんまり覚えてないけど、まあこんな感じ。ひたすらSEXを連呼(と言っても5回ほどだったかな)した1時間だった。
一応僕の見解を述べておく。教育現場でのそういう発言は「教育」のために必要である、という根拠がいるように思う。例えばエイズという病気を説明する上で感染ルートの説明は欠かせないし、それをきちんと教えることが事前予防にもつながる。一般的には「保険体育」の授業で扱われ、これは教育のあるべき姿だ。が、今日のは少し違う。何の気なしに持ってきた心理テストに1時間かけ、「みんなの詳しいところ暴いちゃうぞ☆」といったノリでSEXの話をした。これは普通でない。だけどあくまで「心理テスト」と言う後ろ盾があったし、僕にはこれがセクハラであると断言できなかった。「あくまで心理テストの答えを読んだまで」みたいな。
みんなが異常に反応するので、「さてはてめーら中学生童貞だな?」と言ってやったんだけど、まあ騒ぐ理由もわかる。だけど、フロイト先生の夢分析よろしくそういうものはいくらでもあるのを知っているし、まあ取り立てて言うほどの事じゃないんじゃねーのって思うの。
僕の意見は特定の人から非難されるような内容であることは理解してるんだけど、僕らはもう、高校を出ようとしているんだよ。これまで触れてきた文学・美術作品・映画等で変にSEX慣れ(なお童貞)しているからみんなのリアクションは少しばかりオーバーに思えた。小・中学生の前で発言したらそれこそ問題になるだろうが、今回はそれほどじゃ…と言うのが僕の見解です。
まあ女子にとっては性的嫌がらせみたいなものだろうから、セクハラ認定されるのかね。知らないまま大人になっちゃうのは恥ずかしーって思ったから書いた。詳しい人教えてください
<追記>
【増田の主張である「高校を出ようとしてる年齢の相手に性的な話を振ってもセクハラではない」ってのが正しいならば、社会人は職場で性的な会話を振られてもセクハラだと訴えられないことになってしまうのでは…? 】
ごめん。どうしても「セクハラ」というと特定の人に対して看過できない性的嫌がらせが行われた時に告発されるイメージだった。この状況のこういう言葉くらい許容されてもいいんじゃないか、っていう認識だったけどそんなもんじゃないよね。少なくとも僕は絶対やらないし。
普段から女子に集中的に話しかけたりしていて、少々煙たがられてはいたんだけど、あの瞬間は特別にやばい感じがした。それこそブコメにある「プッツンしたんじゃないか」のレベルで。ただ、これまではこんなこと1度もなくてあくまで普通の優しい先生だったから、まずはセクハラどうこうじゃなくて指摘されてる脳血管障害みたいなのを心配したいと思ってる。
僕は少し前までだいぶ学校休んでたんだけど、学校行けた日は毎日声かけてくれて卒業まで応援してくれた。特別に「ここだけは出席して単位とっとけ」カレンダーみたいなのも作ってくれて、実際、卒業が決まったのは(卒業に必要な単位を取り終えたのは)この日だったのだ。もうギリギリで掴み取った卒業だから、結構嬉しかったし先生にも感謝してるわけ。
あの後の先生疲れ切った顔してたから、「やらかした」みたいには思ってそう。必死にエゴサしてたらこのエントリ出てきてもおかしくないし、文章読めば僕が誰か簡単にわかるよね。まずは女子生徒に謝るべきだと思います。それから、なんで最後の最後でああなってしまったんですか。
場所はうす暗い風呂場。一般家庭用より3倍ほど広くて、風呂桶の横に和式便所が一つ併設されている。この便所がマジで汚くて、ここ10年掃除していませんよ、みたいな感じ。
その場にいたのは俺と二年前くらい関係を持っていたセフレ。自然な流れで距離が離れていったので、なんの後腐れもない。今ではたまにfacebookを見て、「あー、外人の彼氏できたんだあ」ってぐらいの関係。夢の中では全裸だった。
久々の再開で最初こそ世間話から始まるのだが、全裸の男女が二人いるこの状況、当然のようにイチャつき始める。めちゃくちゃ興奮してしばらく身体を触りまくっていると、膨張した俺の局部がエロゲみたいに発光していた。俺のち○こは、そのシルエットだけが視認できた。二人してその神々しさに見とれているところ、突如シャワーが開栓。驚いてバランスを崩す俺。伸ばした腕が進む方向は例のハイパー汚れた便所。気づいた時にはもう遅く、便器の中に腕が浸かる……うえっ。便器の中は謎の粘着力を持った茶色い液体で満たされており、腕を引っ張っても抜けない。むしろトイレが強力な吸引力で俺を引っ張る。隣にいるセフレに助けを求めると無表情で見つめている。パニックをおこした俺は「死にたァい!死にたァァあああい!!」と狂い叫び……実家の布団で汗だくになっている自分に気付く。
本当に怖かった。。。
夢日記つけると発狂するとか言うけど、初夢だしどうしても気になってしまうので書いてしまった。夢分析的なの出来る人、カウンセリングをお願いします。
精神科っていうと、心を扱ってると思ってる人も多いと思うけど。基本的には、脳みそっていう臓器を相手にしている。
たとえるならば、心臓が悪いときに血液を直すか?っていう感じ。心臓を直せば血液も治るでしょって心臓を良くするような。それが現在の精神科。
では、心を扱うのはなんなのか?
一応ちょっとだけあるんだけど。そういう精神科は世界的に廃止する流れになってる。廃止っていうか、精神病に対しては治療効果がはっきりしないし学問として成立しないから一旦ほうっておきましょう。っていうことになってる。
で、それはそれで精神科は確かに治療技術が上がってるし、患者さんもよくなってるんだから、いいことだとは思う。
でも、じゃあ普通の人の悩みとかはどうなるんだろう。
一応、俺が見つけられる範囲でいうと、
たとえばターミナルケア(ガンとかで死ぬまでの期間をケアする医療分野)では、死の痛みの中に、「スピリチュアルペイン(精神的な痛み)」ってのを書いている。
スピリチュアルペインってのは、「なんで生きてきたのだろうか?」とか「わたしが生きた意味はあったんだろうか?」みたいな痛みなんだけど。
まあ、それはそれとして。
こういう特殊な状況下でしか、医学は『こころ』を扱っていない。
でもさ、フロイトが夢分析とかやった頃の精神科は、人間のこころを扱っていた。つい数十年前も扱おう扱おうって頑張ってはいた。ここ最近は投げてる。
俺は普通に何も病気は無いけど、この手の『こころ』を考えたり解析する分野を医学が投げちゃったのすげえキツイ。
医学以外にも分野はあるんだろうけど、医学が一番金を集めて研究が進む分野じゃん。その分野がこころを投げてしまったのは本当にキツイ。俺が生きてる内に答えを得られる可能性が低くなってしまう。
小説とか、絵画とか、いろんな分野で心の扱いを考えているけど。
どうなんだろう。明確な答えとかはまだまだでない。
さっき、イヤな夢を見て目が覚めた。
タクシーに乗っている。隣の上司が「おいそれやめろ」と自分の足元を指さした。
指の差した先を見ると、脱いだ革靴の上に靴下を履いた自分の足が乗っていた。
足が蒸れて我慢出来なくなったから自分はそのような状態なのだろう、と夢の中で自分は考える。
「どうしてです?」と上司に聞くと、「いいからやめろ」と上司は言う。
本当に理由が分からなかったので、やはり「どうしてです?」と上司に聞いた。そのうち上司は「辞表を出せ」と言った。
上司をよく見ると、自分が嫌いだった中学校の理科の教師の顔だった。
これはまずいことになったな、と思いつつ、一方でデジャブ感も感じていた。「すみませんでした」とあやまり、革靴を履く。上司は、「一旦会社に戻ったら、一緒に喫茶店に行こう」と言った。やれやれ、説教ですむのかな、微妙な線だな、と思いながら半覚醒状態に移行した。
半覚醒状態に移行後、夢分析の処理が自動的に走った。上司が中学校の理科の教師の顔をしていたのは、「イヤなやつ」の象徴としてだろうな、と思う。しかし、あのデジャブ感の正体はなんだろうか?最近感じた感覚だ。ああ、2ちゃんねるで自分の書き込みが叩かれた時の感覚か、と思う。しかし、なぜ似たような感覚を感じるのだ?と思ったところで、半覚醒状態から、深い考え事をしているような状態へ移行した。
思考がさらに進み、ようやく分かってきた。要するにこれが日本なのだ、と思う。もう使い古された指摘だが、一見、野放図の2ちゃんねるも実は「ハイコンテキスト」であり、相当高度に空気を読むことを要求される(そこで、増田とかあったよな、と思いだして、この文章を書いている訳である)。
炎上の正体とは何か?結局の所、「異物に対する文化的吐き出し行為」なのではないか。つまり、「違和に対する全方位からの猛烈な攻撃」というのは。なぜならば、日本は「和」であり、「違和」は日本ではないから。同化できないものは排除されるのだ。
では、「和」とは何か?日本的美意識でないかな、と思う。だから、「美しい日本」とか言いだしたウヨ系政治家は変なのだ。日本的美意識の基準を満たしていないと、日本であると認められない訳だから、二重定義のようなものだ。「『日本は四季が美しいと誇りに思う人』に納得がいかない」と主張していたサヨ系漫画家も変だが。日本的美意識、つまり、日本的価値基準は四季の影響が大きい訳だから、日本人から見れば、そりゃ、四季は美しいだろう。
日本人の根底は、合理的知性ではなく、美意識的感性なんだな、とつくづく思う。
見てくれに対する異常なこだわりにせよ、若者の汗で感動を作り出す甲子園にせよ、子供の時の自分はこれが正しいことなんだな、と思っていた。これらに対するアホじゃねーの?というアメリカ人的価値観なんて想像もつかなかった。最初に書いた夢のように、これに対して、思うことがない訳でもない。しかし、美の基準も時代によってまた変わる訳で、費用対効果の薄い努力をアホらしいと言えるような雰囲気になってきたのは良いことだと思う(まだまだそういう現場は多いけど)。もうちょっとでも良いから、「機能美」寄りに美的基準が変化すると、より日本は住みやすくなるんじゃないかな・・・。
街中で暴れる小型ティラノサウルスみたいな恐竜どもを、人型メカの頭部に剥き出しの状態で乗り込んで狩りまくる奴らの夢を見た。我ながらガキくさいというか、アレな夢だなとは思うんだけど、夢の中での俺の視点は傍観者で、ハンター視点ではないのね。んで奴らがとにかく残虐なの。普段なら一発で恐竜を撃ち殺せる弾丸があるんだけど今回は切らしてるらしくて、それをいいことに毒ガス弾とか(当然街にも被害が出る)、必要以上に痛めつけて殺したりとか、必要以上に大人数で襲い掛かったりするんだ。恐竜に。この辺は良く覚えてないんだけど、特別な弾丸が無くても戦力差は圧倒的で、街中に恐竜の無残な死骸が転がり、人型メカの被害は0って感じで。まあこの時点でも、夢分析というのにかければ俺の暗い願望が浮き出てくるんだろうけど、起きる前に一つダメ押しがあった。メカが集団で恐竜を押さえつけて、恐竜は叫びながら仰向けにされるのね。んで、ハンターの首領みたいな奴がメカの手で恐竜の腹をコジ開けて、そこにメカ用拳銃みたいなのを無理やり埋め込むんだ。肉に直接。当然恐竜は痛みで叫びまくる。んでメカどもがその後何したかっていうと、拳銃埋め込んだだけで恐竜を解放して去っていったのね。そして時間差で恐竜の腹ん中で拳銃のトリガーが作動して、パン。そこで俺目が覚める…。いやあ、夢判断とかはほんのさわり程度しか知らないんだけど、これだけ露骨だと判断する必要も無く見た本人にもバッチリわかるね。何なんだろうなホント。つうか何で俺自身は一市民の傍観者なんだよ。どうせならもっとストレートな夢を見ろよ俺。