はてなキーワード: 一事が万事とは
うちの母に通じるものがある。
こっちは他人ではなく自分への攻撃って違いだけど。
少しでも俺が反論すると母の自己価値が大暴落して「すべて私が悪い」っていいだすから話し合いができない。
『自分』が無い。
他者の評価で自分の価値が変動するから安定しない、人生に疲れる。
クラゲみたいなもんで自力で泳ぐ力がない。
魚に食われれば、魚が悪い。
クラゲではなくマグロにだって、鳥にだってなれる可能性があったのに、
そもそもそういう選択ができることすら気づかない。
もう俺は「そんな疲れる生き方やめなよ」って説得することに疲れた。
無駄に頑固なんだよね…。
高学歴増田の話には、山羊座と土星と10ハウスが意味するものがよく表れていると思った。
西洋占星術、いわゆる星占いでは、山羊座は野心と自己否定の星座とされている。
野心が自己否定とどう繋がるのか、山羊座が強くない自分には今一つわからないところがあった。
自己否定が強かったら自信をなくして何にも挑戦する気にならなくなるんじゃないのか。
でも増田の話を読んで納得した。自己否定あっての努力であり、野心あっての自己否定なんだな。
土星は山羊座の支配星とされていて、成長のための試練を与える教育の星と言われており
土星が位置する場所は、自分の生き方を否定せざるをえないような苦しい問題が起きると言われている。
女性誌でおなじみのはてなダイヤラー石井ゆかりさんは、成長させてくれる星として土星を「土星先生」と呼んでいるけれど
人によっては、土星は星一徹やロッテンマイヤーのような影響を持つ星だと思う。
「一事が万事」で「明日のため」に、常に成長のために駆り立てられる高学歴の世界は
という高学歴増田の世界では、時間は「明日まであと何分」という風にただただ消費されていくものみたいだ。
西洋占星術ではチャート(いわゆるホロスコープ)を作る際、人生の様々な分野を12に分けて考える。※分け方については割愛。
10ハウスはキャリアとステイタスのハウスで、山羊座が担当する。10ハウスは土星を支配星とするハウス。
まさに医者や弁護士、大企業の重役など、社会的に認められ、成功する立場にある人たちの縦社会のハウス。
ひとつ前の射手座が担当する9ハウスは高等教育と哲学のハウスだけど
10ハウスは学んだことをキャリアに活かさなければ意味がない。
世界的に価値ある大発見だろうが、社会的ステイタスの向上にまったく貢献しない分野では意味がない。
(そういう縦社会から飛び出した新人類的な活動は、お隣の水瓶座11ハウスが担当する。)
そんなわけで高学歴増田の世界は、山羊座の国の土星人が住む10ハウスの話に見えたんだけど
こうして考えてみると山羊座土星的高学歴の国はちっとも優雅じゃない。
優雅さがあるとすれば、それは優雅であることがステイタスを得る上で必須だったからだろう。
遊びも仕事も家庭も結婚も友人も、すべてはステイタスを獲得、維持するため。
山羊さんもたいへんだ。山羊座の国の土星人でなければ耐えられないと思う。
一般的に山羊座と10ハウスが強い人は社会的に成功している人が多いので
いいなあ、うらやましいと思っていたけれど
これから山羊座や土星や10ハウスが強く影響している人のチャートをみたら
その心情をもっと思いやろうと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20130903002317
こうなるよ。天文学は賢い母。占星術はその愚かな娘
個人の心理が物事を動かし、それが星に現れていると考える心理占星術という占術がある。
このエントリについて。
彼の頭が良すぎて萎えて別れた
わかるような、わからないような。読んですっきりしない部分があったので少し考えてみた。
このエントリの続編で触れられているように、この話の出発点には「高学歴と低学歴の世界の溝」の問題がある。
そもそもの問題として、「低学歴」対「高学歴」の世界の話というのはなぜ「低学歴」ポジションからの発言が多いのだろうか。それも「高学歴の世界」をポジティブなものとみなして、自分の所属する「低学歴の世界」をネガティブなものとして演出するという態度で書かれてるものが多い。
こういうタイプの文章がはてブを集めて多く読まれているのは、それを読むと読んだ人が心地良く感じるからではないかと思う。「高学歴の世界」の人はこういうのを読んで単純に優越感を感じる。一方こういう文章を読む「低学歴の世界」の人は、「低学歴の世界」にいながらにして自分は「低学歴の連中とは違うんだ」という意識を持っているような人なのではないだろうか。だから「低学歴の世界」が「高学歴の世界」に対して否定的に書かれていることに溜飲を下げる。「低学歴の世界」を批判することで、自分がそこから離れて「高学歴の世界」に近づけるような気がするんじゃないか。「低学歴の世界」に満足している人は、おそらくこの手の文章を読んでもピンとこないだろう。
では、自分自身は、こういう文章と向き合う時なにを感じているのだろう、と思った。こういう文章を読んだ時、私の胸には優越感などの心地よく単純な感情ではなく、言うも言われぬ複雑な感情がこみ上げてくる。
私自身はおそらく「高学歴の世界」に属する人間だろうと思う。曽祖父の代から大学教授の家系で、女性も祖母の代から高等教育を受けている。私は大学付属の小中高に通ったが、クラスメートの父親はおおむね医者か弁護士、研究者、大企業勤務のどれかだった。大学に入るときは、東大、京大、早慶上智、国立医学部までしか選択肢になかった。実際にクラスメートの大部分はこれらの大学に進学した。残りのMARCHレベルに進学した人たちが、私にとってとんでもなく「低学歴」の人たちだった。親類のなかでは東大京大以外は大学ではない、というくらいの認識であったし、私自身、ちょっと勉強すればだれでもMARCHくらい入れるものだと思っていた。この認識が変わったのは、大学に入って予備校でバイトを始めた時だった。どんなに必死で努力してもMARCHはまだ夢の夢という生徒が大勢いるのに衝撃をうけた。
こうして書くと自分は嫌な人間だなと思う。けれどこういった「高学歴の世界」が居心地のいいものだったかというと、そんなことはない。「高学歴の世界」は息苦しいものだ。「高学歴の世界」を定義づけるのは「今日よりも明日」だ。今日よりも明日、より良くなっていなければならない。より良く、より賢く、より豊かになっていること、それが「高学歴の世界」が求めるものである。失敗は許されない。一度失敗したものは、この日々の前進のルートから脱落し、また追いつくためには絶望的な努力を強いられる。「高学歴の世界」は失敗に敏感だ。私の両親はよく「一事が万事」と言っていた。たった一度失敗すれば、それは全て失敗したのと同じ。このスローガンに、子供の私は恐怖しか覚えなかった。遊びも教育の一環だった。教育的でない遊びは排除された。常に成長することが求められた。それは大人になっても続く。昨日よりも今日、今日よりも明日、より成長して改善していること。「高学歴の世界」を統治するのはこの原理である。
このような世界が自分にとって当たり前だったのだが、それはまたひどく息苦しくもあった。そこには「明日」と「未来」はあっても、「今日」と「いま」はない。なにもかもが「明日のため」であるとき、いまここに生きているという感覚はどんどん摩耗していく。今、この瞬間どんなに成功していても、それを100%として認めてもらえることはない。明日さらに良くなること、明日さらに成功することが求められる。それは絶え間ない自己否定でもある。この自己否定がなければ、改善も成長も望めないから。
やがて神経衰弱のような状態になって、ふとある趣味をはじめた。そこには私と同じような育ち方をした人もいれば、そうではない人たちもいた。このとき私ははじめて「低学歴の世界」に触れたのだと思う。その「低学歴の世界」のひとたちは、多くが高卒で、男も髪を染め、女性はミニスカートや露出の多い格好をしていた。タトゥーを入れている人もいれば、道端でケンカをする人もいた。この仲間のなかに入って、私ははじめて「今を楽しむ」ということを知った。お酒を浴びるように飲んで、馬鹿な話をして、大笑いして、そういうことをしても、明日のためにはならない。明日に残るのは、二日酔いだけだ。けれどその瞬間は、ものすごく楽しい。彼らは遊ぶことがものすごく上手だった。季節ごとにいつも楽しい遊びを考えていた。バーベキュー、花見、キャンプ、スノーボード。「今、この瞬間を楽しんで生きてもいい」ということを知ったのは、自分の人生が大きく変わるほどの体験だった。
こういう経験を通して考えてみれば、「うちらの世界」の価値観も理解できる。「高学歴の世界」は未来の為にという価値観がとても強い上に、一度失敗するとその損失を取り戻すのが非常に困難であるという認識を共有している。彼らにとって「バイト先での醜態を公衆に晒すこと」は大変な過ちでありなんとしても回避されるべきものである。一方「低学歴の世界」にとって大事なのは今この瞬間である。今この瞬間を楽しむことが何より大切でなので、その行為が未来にもたらす影響は考慮しない。今、バイト先の飲食店で食材をおもちゃにすることが楽しくて、目の前にいる友人を楽しませることができるのであれば、そのことがなにより重要なのだ。
「明日のために生きること」と「今を思う存分生きること」は、本来両立しうるものであるけれど、どちらかにかたよるとそれぞれ問題をひきおこすのだなと思う。自分の生きてきた世界のことは、みなよく知っている。だからこそあらも見えるし、別の世界に憧れもする。それはもちろん幻想なのだ。どの世界にも光と影がある。ユートピアはいつだって「どこにもない場所」なのだ。
さて冒頭の「彼の頭が良すぎて萎えて別れた」というエントリーであるが、これを読んで再びなんとも言えない気持ちになった。この人はなぜこんなに彼との間に線を引きたがるのか、そこに溝を認めたがるのか。なぜそこに溝を認めた上でそれでも相手を受け入れることができないのか。この場合、二人の間にあるのは「学歴の溝」ではなくて彼女の方のコンプレックスなのだと思う。自分が手に入れたくて仕方がないものを、もう自然にもっているように見える相手への嫉妬なのだろう。けれどそれは「毎日より良く」という価値観のなかで研鑽されてきた結果なのであって、同時にそのなかで切り捨てられてきたものも存在するのだと思う。そういう自分が切り捨ててきたものを恋人に求める気持ちが、私にはよく分かる。私が強く惹かれるのは同じ世界の人ではなくて、別の世界の、ある種の「生きる智恵」を持っている人だ。多く笑い、気楽で、今を楽しむ人だ。この話で、彼は彼女にたとえばそういう魅力を求めていたのかもしれないのに、紋切り型の階級差を持ちだして自己完結する姿になにか割り切れないものを感じる。
一方で、このエントリーで語られている話自体がすでに紋切り型のものであるとも言える。語り口が現代風であるというだけで、話の中身は明治時代からでもありそうな話だ。とりわけ語り手を男にしてみると、既視感が強くなる。身分差のある恋をした男が、バックグラウンドの違いを感じて、女を捨てる。「彼女の頭が悪すぎて萎えて別れた」と男が語る。あるいは女が男を思って身を引く。でも私達が生きているのは現代日本だ。好きなように生きればいい。相性が悪ければ別れればいいし、よければ付き合えばいい。けれど「高学歴」「低学歴」という単純な構図に当てはめて自分の生き方を縛るのは、愚かなことだと思う。自戒を込めて。
今に始まった話ではない.
大学学部での生活に慣れ始めたころから,ずっと自分の感性の鈍さを気にかけてきた.
英会話とか,プログラミングとか,スポーツとか,ネトゲとか,いろいろ挑戦してきてはいるつもりだけど,でも,すぐに飽きてしまう.
「あ、なんだ。こんなものか」という感じ.
わくわくするとしても,最初だけ.
数日もするとつまらなくなってしまう.一事が万事そんなかんじ.
決して斜に構えているつもりはない.周りの学生が楽しそうに活動している姿を見ると,とてつもなく羨ましいと思う.
「自分もこんな風に楽しみたい.」「何かに夢中になりたい.」
でも,実際はそうもいかない.
皆は何がそんなに楽しいんだろう.どうしてそんなに夢中になれるんだろう.
妬みに近い感情すら感じることがあるし,なんとなく辛い.
ここ数か月間は,もう何を見ても気分が冷えてしまっている.
以前は,すぐにつまらなく感じるにしても,最初だけはわくわくした気持ちを持っていた.
でも,今はそれもない.
何を見ても,聞いても,読んでも.
おもしろくない.楽しくない.
むしろ,新しいものを見ることに対してストレスすら感じてしまう.
いったいいつからだろう.
もしかしたら,気づかなかっただけで,これまでの人生ずっとそうだったのかもしれない.
だとしたら,そもそも僕に感性などなかったということか.
この鈍くて重い鉛のような感性を生きて死ぬまで引きずる運命なのか.
いやだ.それはいやだ.
僕もときめきたい.楽しみたい.何かに夢中になって,仲間たちとはしゃぎたい.
でも,すくなくとも今の僕には無理だ.
とてもできそうにない.
かみさま。
男子中学生「おっぱい触らして」と懇願すること1時間 - Togetter
これ見て思い出した。
俺が中学生のときに一緒に図書委員してた女子がすげーかわいかったんだけど、シモネタ大好きだったんだよね。
本の整理してたら、民俗学かなんかの本っぽいのもってきて「これ見てこれ見てwww」って見せてきたのが、アフリカっぽい土偶で男性器がやたら強調されてるやつ。
一事が万事そんな感じ。
割りとシモネタ好きな自分でも女子に対しては自重してたのに、こいつ。。。と思った。
「。。。」の内容は、このこはやっぱり俺なんてどうでもいいと思ってるんだろうなーっていう落胆と、それ抜きにしてもかわいいのにそんなことを言うなんてという驚き。
マジでお願いしたら触らせてくれたかもとか今になって後悔してるよ。
小学生のスカートめくりしかり、その時にしかできないことがある重みっていうのを自覚したほうがいい。
って一番伝えたい相手は増田なんかまず見てねーだろうけど。
それが許されるうちは。
http://www.asahi.com/politics/update/1228/TKY201212280295.html
教育の専門の大臣が、苛め防止に武道家教師を学校におけ特にボクシング経験者が良いと言っている
実際大津苛めの担任は体育教師で柔道を受け持っていたがっしりした強面だが、目の前で苛めが起こっていても「やりすぎんなよー」と笑って見ていた
強面教師で苛めは解決すると主張するこの人は知らないのだろうか?
この人が言うように全国の学校に強面の武道経験者や警察OBを配置するのにかかる金額は膨大だろう
でも効果があるとはとても思えない
一事が万事、無能な政治家達がこんな感じで全くきき目のない、むしろ状況を悪化させそうな事に大金を注ぎ込んで、無駄にし続けているのだろうな。
東京都港区のホテルに設けられた民主党の開票センター。立候補者の名前が書かれたボードが用意されたが、あまりの惨敗からか、当選者名の横にバラの造花を付けるセレモニーは見送られた。
幹部らは代わる代わる壇上に上り、テレビの中継に臨んだが、政権交代の熱気に包まれた前回とは異なり、疲れは隠せなかった。細野豪志政調会長は代表選に質問が及ぶと「個人でどうこうというレベルではない」と厳しい表情。輿石東幹事長は会見で口を真一文字に結んだ。午後11時20分には、野田佳彦首相が会見し「痛恨の極み」と代表辞任を表明。その後は予定されていた幹部のテレビ出演もキャンセルされ、カメラが次々に撤去された。【長谷川豊】
前半太字部分、苦戦を知りながらも投票したり立候補した人達に対してこれほど失礼な事って無いと思うんだよね。
当選者にとって、自分の名前の横に飾られるバラの花は最も待ち望んだ光景だったはずなのに、みっともないからやめます、じゃああんまりだよ。
後半太字部分、敗北する自分達の姿をカメラから遠ざけようとするのも、端から見れば「しっぽを巻いて逃げた」としか受け取られない。
惨めな姿を敢えて晒し、歯を食いしばって捲土重来を期する、という事が出来ない。
思えば民主党政権はこの三年間、一事が万事こんな調子だったし、だからこそいざ政権与党になった直後、郵政選挙よりも無様な姿を晒す羽目になったんだろう。
最近、自分にだけ都合のいいバカなベンチャー経営者の話を良く聞きます。
GREEで年収1,500万円の新入社員募集が話題になりましたが、このケースは入社前にアプリ開発等の実績があり、自分で行う作業の差配ができる特殊な場合です。
一方、自分にだけ都合のいいバカなベンチャー経営者は、自分で仕事を取ってくるわけでもない、基本的に与えられた作業を行うだけの人間にも「裁量労働」という話をします。
さらに、「朝○時に来い」「もう帰るのか」「休日はセミナーなので全員出社」とか平気で言っちゃいます。
深夜10時以降翌日の朝5時までと法定休日の労働は割増賃金を支払う必要があるので、本来は残業代を別に払わないといけないんですが、無知なので言えちゃうんです。
これって「裁量労働」で効率を上げるのではなく、ただ単に残業代をケチりたいだけですし、たいがい契約書を結んでいないので労基法違反なんですけどね。
アルバイトだと時給で働くため労働時間を長くなると多くの賃金を払う必要があります。
そこで、自分にだけ都合のいいバカなベンチャー経営者は、「業務委託契約」で1日あたりの支払い賃金を固定にして長時間を労働をさせようとします。
この場合も、本来は契約した会社の指揮命令を受けませんし、管理監督もされる必要がありません。
また、作業が終わったら何時に帰ってもいいはずですが、なぜか契約書に労働時間が書いてあったりします。
それなのに、仕事に失敗したり納期に遅れた場合の損害賠償だけが明記されていることが多いんですね。
私も10年近く社員を使って経営者をやっていましたが、こんな話はIT系でも最近になって聞くようになりました。
不況のせいかとも思いましたが、経営者の質が下がっているんでしょうね。
「会社を運営することは、社会に貢献することだ」という意識で会社経営をしておらず、「自分だけ良ければいい」という考えなんだと思います。
一事が万事ですので、対クライアントにもそういった姿勢が見えて、自ずとそういった企業は淘汰されると思いますが、社員を雇用する、アルバイトを雇用する、という社会的意義に思いを至らせる経営者が、もう少し増えることを期待したいですね。
http://anond.hatelabo.jp/20120619092231
もちろん私も全面的にギリシャ人は悪くないと思っているわけではありません。思うところをギリシャ人にぶつけてみましたが、論理立ててきちんと話せる人はそんなにいないんですよ。
日本人でも、消費税上げると言えば「それはやだなあ」という人が多いはずで、じゃあ、どうすると聞いたところで、論理立ててどうこう言える人はほとんどいないですよね。それと同じで、ギリシャ人の政府が悪い、外国資本が悪い、IMFが悪いというのも、直観的な話であって、「私たちが悪いのではないのだから、外部に悪い原因があるに違いない」という感覚的な見方が大半です。
いや、統計的にはこうなっていて、こういう構造的な問題があってというレベルで話せた人は、例の経済学者と日本に住んでいた人だけです。
日本語を勉強しているという大学生は、彼は母親がドイツ人で、ギリシャではドイツについてネガティヴなことを言われてうんざり、という風でしたが、日本のウェブでのギリシャ批判に目を通して、「ひどい、差別だ、偏見だらけだ」と憤っていました。そりゃ、あなた、2ちゃんねるばっかり見るから…。彼は、スペインやイタリアがほとんど批判されていないのにギリシャだけが批判されている、差別だ、と言っていましたが、その発想自体が問題じゃないかしらと私は指摘しました。プライマリーバランスが悪いわけではないイタリアやスペインを同列に扱う訳にはいかない、イタリアやスペインはユーロゾーンの信用不足の煽りをくらった二次的な被害者という側面があり、国家財政の収支を虚偽改竄したギリシャと同列に扱うとしたらそれこそが差別だ、ギリシャ人の事実を捉えられない、我が身のみを憐れむメンタリティが批判されているということがどうして分からないのかと聞きましたが、そこから先は発狂状態でインタビューどころではありませんでした。
ギリシャ政府を選んだのはギリシャ国民なのだから政府を批判してことたれりとしているギリシャ人のメンタリティはおかしいのではないかともインタビューをしたすべての人に聞きましたが、うん、そうだね、みたいなことを言ったのは、日本在住15年歴のある老人のみでした。彼は物の見方が一般的な日本人とほとんど変わらないというか、ギリシャに対して、場合によっては辛辣すぎる見方をしていたので、ギリシャではなかなか生きづらいのではないかと思います。そう聞いたら、「そうだね、横浜の水準に慣れてしまっていたから、帰国して数年はいちいち腹を立てていたものだが、今もし日本に戻ったら、私なんてまるで使い物にならないだろうね」と笑っていました。彼が言うには、もともとギリシャは地政学的な理由から列強によってこしらえられた国で、ギリシャ人というまとまりもなかった。そこでありもしない古代ギリシャとの連続性を持ち出して、ナショナリズムを煽った。作られたものだから空虚で地に足がついていない。それに加えて第二次世界大戦中から戦後には血で血を洗う内戦があり、軍政もあった。公共に対する一体感や責任感は育ちようがない。数々の矛盾をその時々に解決するのではなく、民主主義政権はネポティズムで支持者を増やしたり、福祉で懐柔して、やり過ごしていただけだ。ギリシャ人にはナショナリズムはあっても愛国心はない。
彼はそう言っていました。
民主主義は、民衆が責任を誰かに押し付けることが出来ないという一点において優れた政治体制であるとかのヤン提督は言いましたが、実際には民衆はそうそう物分りがいいわけではないようです。それにある政党に投票したからと言って、このような不正が起こることまで予見して、その責任を民衆に負わせるというのも、おかしな話ではないでしょうか。
何度か話に出てくる経済学者はナショナリストで、その見解はいちいち鼻につくところが多かったのですが、たとえば、そもそもの遠因としてギリシャがユーロゾーンに加盟できたこと自体、ヨーロッパの古代から続くアジアに対するレイシスト意識と関係しているのではないかと私は疑問を提示しました。たとえばキプロス問題は経緯を見る限り、九分九厘ギリシャの責任なのですが、トルコのみがなぜか悪者として欧米のメディアでは扱われている。一事が万事、ギリシャについては、ギリシャを西欧文明揺籃の地として取り込まなければならない西欧側のコンテキストに沿って、ある種のプレミアが無条件に与えられてきたのではないか、そのプレミアが建前と現実の乖離をもたらしたのではないか、と私は尋ねました(こういうレベルのことを聞けたのは経済学者氏に対してだけです)。
彼はいちいち反論というか糊塗をしてきたのですが、それは歴史修正主義者が実際にはどうかと言うことよりも「やる」という意思で事実を取捨選択するような、意志の産物であったのですが、そういうことをしようと思えばやれるわけで、現実にギリシャが困窮していると言う事実から敷衍すれば詭弁なのですが、ある程度の知識人にも事実よりはフィクションを優先させる態度があるのではないかとは思いました。
もう少しちゃんと喩えるなら、
「もう少しちゃんと」といった程度問題を超えて
さっきの例えは完全に嘘・間違い・プロパガンダっていうレベルだったよね。
突っ込まれたらすぐさま修正再提出できるってことは、
無知のせいでそうなったんじゃなくて完全に意図的だったってことだ。
確かに原子爆弾は落とした。
だが、「当時広島には軍司令部があったので広島には軍人しかいなかったから正当な軍事行動だ」
こういう議論について、
最初は隠そうとする。さっき君が試みて失敗したみたいに。
隠し続ける方が不利益が多いと感じた時のみ論争の詳細をしぶしぶ認める。
もうこの時点で君達の議論スタイルは詐欺師のそれなんだけどさ、
君らは自分達のそういう嘘・間違い・プロパガンダに突っ込まれると
「些細な程度認識の食い違い」だ!って逆上して相手を黙らせようとする。
「重箱の隅を突きやがって、反省して無いな!」ってね。
でも何回そういうの指摘されても
また無知な人間狙って嘘・間違い・プロパガンダをベースに話の宣伝を狙う時点で
反省がないのは君達の方だろ。
人数の議論にしても
「死んだ人間が10万人だったか10万1千人だったか」なんていうディテールの話に留まらない。
単なる程度の違いを超えて、事態の性質や信憑性が変わってくる議論だけど、
君達は意図的にそういうことを「被害者数を値切ろうとしてる」みたいな言い方で黙殺しようとする。
俺は歴史問題がどうとかより
掲示板上のトラブルとか荒らしとかについて興味があり、詳しい。
歴史のどうこうの知識勉強は両陣営の皆さんの末席の人とも勝負できない自覚がある。
ただ、君達の特徴的な言葉使いは君達の議論にある後ろ暗い弱点の存在、
そのおおまかな在り処までをプンプン匂わせてる。
(人狼でこのやり方で狼当てると不評だが)
極端なことを言えば、
君達の喋り方だけで「なんか嘘ついてんな」ってわかるよ。
http://anond.hatelabo.jp/20120224121420
結局ここからやり直しでいいんじゃね?
※元の投稿者とは別人です
もう少しちゃんと喩えるなら、
「もう少しちゃんと」といった程度問題を超えて
さっきの例えは完全に嘘・間違い・プロパガンダっていうレベルだったよね。
突っ込まれたらすぐさま修正再提出できるってことは、
無知のせいでそうなったんじゃなくて完全に意図的だったってことだ。
確かに原子爆弾は落とした。
だが、「当時広島には軍司令部があったので広島には軍人しかいなかったから正当な軍事行動だ」
こういう議論について、
最初は隠そうとする。さっき君が試みて失敗したみたいに。
隠し続ける方が不利益が多いと感じた時のみ論争の詳細をしぶしぶ認める。
もうこの時点で君達の議論スタイルは詐欺師のそれなんだけどさ、
君らは自分達のそういう嘘・間違い・プロパガンダに突っ込まれると
「些細な程度認識の食い違い」だ!って逆上して相手を黙らせようとする。
「重箱の隅を突きやがって、反省して無いな!」ってね。
でも何回そういうの指摘されても
また無知な人間狙って嘘・間違い・プロパガンダをベースに話の宣伝を狙う時点で
反省がないのは君達の方だろ。
人数の議論にしても
「死んだ人間が10万人だったか10万1千人だったか」なんていうディテールの話に留まらない。
単なる程度の違いを超えて、事態の性質や信憑性が変わってくる議論だけど、
君達は意図的にそういうことを「被害者数を値切ろうとしてる」みたいな言い方で黙殺しようとする。
俺は歴史問題がどうとかより
掲示板上のトラブルとか荒らしとかについて興味があり、詳しい。
歴史のどうこうの知識勉強は両陣営の皆さんの末席の人とも勝負できない自覚がある。
ただ、君達の特徴的な言葉使いは君達の議論にある後ろ暗い弱点の存在、
そのおおまかな在り処までをプンプン匂わせてる。
(人狼でこのやり方で狼当てると不評だが)
極端なことを言えば、
君達の喋り方だけで「なんか嘘ついてんな」ってわかるよ。
横だけど、トレーニーはみんな仮説ぐらいは持ってるよ。
やり方が色々あって、不正解が見つかりにくいのがウエイトトレーニングっていうだけのこと。
体調や関節の痛みなんかでもメニューはフレキシブルにどんどん変わるし負荷も変わる。
あなたは回数にこだわってるみたいだけど、セット間の休憩をどれぐらい取るかも凄く大事だし、
ウエイトトレーニングでもっともっと大事なのは栄養だったりする。
ツリー読むとあなたは「高負荷」とか「10回」とか「糖質制限」とか、ウエイトトレーニングについて一応は勉強したつもりなのはわかる。
でもその知識ははっきり言ってまだ何の役にも立たないレベル・状態と言わざるを得ない。
何を専門にしてる人なのかわからないけど、「全体感」とか「フィードバック」とかいう用語にしても
血肉になっていないふわふわ感を感じる。一事が万事。
どうもちょっと、勉強や座学ばっかりで理論倒れ傾向になってる学生さんのような印象を受ける。
ぶっちゃけるなら、民主党が自民党に勝る点って「アメリカに無礼な態度を取れる」ってだけ。
しかし民主党の場合、北朝鮮みたいにしたたかな計算があってやってるわけじゃなく、単に無知蒙昧だから。
一川防衛相、宮中晩さん会欠席しパーティーに
一川防衛相は17日午前の参院予算委員会で、ブータン国王を招いた16日夜の宮中晩さん会に欠席し、民主党参院議員の政治資金パーティーに出席していたことを明かし、「申し訳なかった。反省している」と陳謝した。
晩さん会への欠席理由をただした自民党の宇都隆史氏の質問に答えた。
防衛相は16日のパーティーで「宮中で催し物があり、他の大臣は皆そちらに行ったが、私はこちらの方が大事だと思って来た」などとあいさつした。
「俺は安全保障の素人だぜ!素人が防衛相になれるのがシビリアンコントロールだぜ!」なんて得意げに語るアホが防衛大臣の椅子にふんぞり返ってるわけよ。
確かにTPPは防衛相とは直接関係はないけど(実際は色々あるようだが)「一事が万事」って言い方もあるわけでさ。他にも色んなのが失言しまくってたろ。「書いたらその社は終わりだから」とか、皇族に「早く座れよ」とか、「私はアイヌの血を引く蛮族だ」とか。
http://anond.hatelabo.jp/20111025181753
「何してるのそんなに」って意見もあったんで、少しだけ。
8時少し前に学校に着く(以前は7時半には着いていたけれど、最近は校門に立って挨拶とかもしなくなったので、この時間で間に合う)
↓
今日の連絡事項の確認や、保護者からの欠席の連絡への対応、今日やる「雑務関係」の確認(授業関係は、忘れようがないから確認しない。雑務は忘れがちなので毎朝確認)。
ここまでは、一般的な会社とそんなに変わらないと思う。
正直、連絡事項を伝えるだけなら誰でも出来る仕事。でも、生徒の変調を見逃さないためには大事だし、本気でやろうと思えば、毎朝何らかの話を用意しておく・生徒一人一人に話をさせるとかもできる。
最近は手を抜いているから、行って口頭で連絡事項伝えておしまい。
授業は、一日に3~4コマ程度です。授業は教師の仕事の中ではわかりやすい仕事の一つだと思うので、説明しません。
強いて言えば、HRや総合などもきちんと計画たてて準備してやってますよ、ってくらいですね。
高校の場合、多い日で一日4コマ、200分程度空いているわけですが、その間何をしているのか。
ここまでで、大体160分くらい使ってますね。
もちろん、この時間だけじゃ授業の準備は終わらないので、詳しくは後ほど。
本当はここで生徒関係の事もやってますが、便宜上分けて後にまとめて記述します。
生徒が質問に来たりして、ご飯食べてる時間がないので、昼休みは生徒対応で大体終わります。
ですので、上に書いた、授業と授業の間の空き時間などでご飯を食べます。
教員の休憩時間も、生徒と同じでここに設定されているので、ここで食べないと、午後も授業が詰まってたりすると、最悪放課後まで食事出来ません。
最近は、昼休みに職員室から逃げ出して、生徒に見つからないところで食事しています。これなら生徒が質問に来たりすることもありませんから。
朝と同じです。
夜七時前くらいまで拘束されます(部活自体はもう少し早く終わりますが、生徒が完全下校するのを確認したりするので)。
ようやく翌日の授業の準備が出来ます。
私は、良い授業をするためには、一回の授業に三倍の時間準備をしなさい、と教わりました。
前述したように、一日の授業数は3~4コマ。
当然無理です。ここから9時間も授業準備したら、朝4時ですから。ですので、「良い授業」をするのは早々にあきらめます。
これなら8時には授業準備が終わります。
学級日誌系もそうですが、小テストの採点や、生徒一人一人にコメントをつけたり、回収したノートの確認などです。
コメントとかやらなければ、もっと早く終わります。最近はここも手を抜いて極力何も書きません。
もちろん、生徒の反応は明らかに変わります。コメントを書いてあげた方が、モチベーションが上がって成績もあがります。
ですが、丁寧にきめ細かに見ていくと、終わりがありません。
今では、手を抜きまくって、9時過ぎには学校を出られるようになりました。
回収物や返却物に、一人一人コメントを書いたり、きちんと目を通したりすることもなくなりました。
宿題なんて、回収してやってあるかだけチェックして、答え配って各自で答え合わせさせてます。
授業準備はともかくとして、これらを全部きちんとやったら、0時過ぎても帰れません。
現状、お役所的事務作業さえきっちりやっておけば、「良い教師」と認定されます。
授業の内容がどんなにグダグダでも、担当教科の生徒の学力が下がっていても、明確な判断基準がないので、よっぽどの事がなければそれでクビになったりはしません。
極端な話、少しでも早く帰りたかったら、必須とされる事務作業だけやって、生徒の話も聞かず、授業も全て教科書を読むだけにして、後は各自で自習させて、部活も活動拒否すれば、毎日定時で帰れます。
それが生徒のためになるかどうかは知りませんが。
けど、まともな就業時間で、まともに生徒と向き合える仕事にしてくれ。
定期考査前に生徒が職員室に質問に来たり、何か生徒に問題が起きると、最初は「俺の出番だ。がんばろう」と思ってたけど、最近は「面倒くせぇこと持ち込むなよカスが」とすら思う。
例えばみんなが目にした事のある物で言えば、学級通信とか。
あれを配ろうと思ったら、東京都の場合、まずPC上で起案して、起案番号なる物を取得して、関係分掌の担当教員などに判子をもらって回らないといけない。
学級津心に限らず、外部に配布する物は全てこれが必要。
要するに、個人情報保護とかそういう問題で。お題目としては「外部に配布する物は、教員個人個人が勝手に作れないようにして、きちんと各部署でチェックしましょうねー」ってこと。
一事が万事こんな感じ。
問題起きた時に「我々(上層部)はきちんとルールを作って、やらせてました」と言うためだけの作業が非常に多い。
三年生担任にもなると、前の会社の一つの部署で作ってた書類より遙かに多い量の書類を、一人の教員が作ってる。そんじょそこらのITベンチャーが一年間で書く書類の量より多いと思う。
ブ米で、「三年目には転職前よりマシな生活手に入れた」とか書いてる人いますが、殺意覚えるんでやめてください。
生徒と関わるのが仕事なのに、生徒と関わる時間減らして労働時間削って、何が「マシな生活」ですか。
本音を言えば、今だって毎回一人一人の小テストにコメント書いて返したいし、一人一人と毎日ちゃんと挨拶して、話しかけてくる生徒全てにきちんと受け答えしたいんですよ。
でも、それをやったら日付変わる前に帰れないし、毎日それを続けていたら死ぬと思ったから、やめたんです。
就業時間は確かに減りましたよ。
でも、それって本当に「マシな生活」ですかね。
こいつらが何を言い争ってるのか把握したのでまとめた
まずkurahitoが執拗にFrancesco3にセクハラを続けている
「Francesco3とはファックしたくないファックファック」と狂ったように騒ぐkurahito
''kurahito" 因みに実母とファックしたいと思った事はありますが、F子みたいなのが母親だったら
ファックしたいとは思わない。客観的にw親密に見えたとしても。 2010/12/15
"kurahito" 私がファックしたいと思う基準は親密性もさることながら責任能力。
F子みたいに電波な母親とファックしたら後々面倒に決ってるので桑原という感じ。教員もしかり。 2010/12/15
ひとりはてブタワーをのぼりながらファックの話を続けるkurahito
みんな遠巻きにしている誰も止められない
ここでNATSU2007登場
"NATSU2007" あーはいはい 貴方の発想って一事が万事「女が俺に欲望されないから嫉妬してる」
しかないんだね。だから「ファックしたくない・お前には欲望しない」と見当違いに吠える。
珍しい心性じゃないが。むしろ何度目だナウシカ。 2011/03/21
"kurahito" これは一般論だが「夫がロリエロ/近親姦漫画を隠してました。おぞましいです」は嫉妬だと思うが。 2011/03/22
嫉妬脳の恐怖wwwwwww
なぜか女から欲望されている事を疑わないのは
キモヲタ全般に共通するが
こいつらの自意識過剰の理由を誰か説明してくれwwwwwwwwww
"NATSU2007" それら全て「欲望されない女の嫉妬」と定義するならゲイ男性も当然忌避される筈だが
逆に好かれてる位だ。さーどうする理屈に合わないな。「ホモが嫌いな女子はいません」が
二次に限るとしても「おこげ」も存在する。 2011/03/23
"kurahito" 浅っ。腐女子やオコゲは「ヘテ男に欲望されねばならない」という心的負担のない
安全圏からゲイ男性を視姦してるだけでしょう。 2011/03/23
"NATSU2007" メタブ え、小児性愛者や人形愛者は「ヘテ男」で括られるわけ?幼少年しか欲望しないペドは?
ゲイ男性と同じ立場の筈だが幼女を欲望するペドと同じように"おぞましがられている"と思うんだけど。 2011/03/24
"NATSU2007" メタブ あとこれ"kurahito氏自身"が「ヘテ女に欲望されねばならない」
痛い所を刺されkurahito泣きながら逃亡wwww
"kurahito" ↓「異性愛⊃人形愛、近親姦、小児性愛」なんだが。私のことを知りもしない癖に
知ったような書方するし、知ってほしいとも思わないし、他者に敬意を払えない
自称ライターさんもウザイからこれ以上レスしません。 2011/03/24
"NATSU2007" メタブ, 性 これじゃ父息子・兄弟の近親姦や少年性愛者も「ヘテロ」となる。
「ヘテ男に欲望されたい女の嫉妬」メソッドではそれらが忌避される説明がつかない。
どこまでもヘテロ目線だから破綻するんだよ。底が浅いのはどっちよ 2011/03/25
(私も散々ナツと呼び捨てにされ失礼な事書かれた)、
知りもしない他人の事を知った様に書いてきたのは貴方じゃないの。
ついでに
知りもしないFrancesco3のことを知ったように論評するkurahitoと
それをブーメラン返しで自覚させるNATSU2007
"kurahito" 私が見聞きした限りではF子は娘に対して異常に他人行儀な気がするんですよね。
異常に距離感が掴めてないというか。「親子は他人の始り」をどこかで認識し損ねたかのような。 2011/03/10
"NATSU2007" メタブ, 転移 私が見聞きした限りkurahito氏は母親への恨みを母の表象の
以上
堪忍バッグの緒がきれたNATSU2007がバッサリ斬った構図だが
イメージ操作したがっているid:kanoseやそのお仲間の遣り口の薄汚さには
ノドにスッパい物がこみ上げてくるのを抑えきれねえ。まるwwwwwwwww
http://anond.hatelabo.jp/20110128120539
http://anond.hatelabo.jp/20110128112900
男としていつも思うんだけど
指輪に限らないけど
なんか現代の日本の女って
2つの立場があってわりと正反対なわけじゃん?
どっちでもいいけどどっちかにしてよって思う。
例えば指輪なら、
女の喜ぶ顔を見たいと思った男が
でももし相手の女がBだったらもう軽蔑されるわけじゃん?
(Aでも指輪のデザインが趣味に合わないと微妙な顔になるだろうが)
自分の好みや感性が男に理解されてて当然みたいに思ってるよね。
ちゃんと説明しないとか、あとなんか体面の為に嘘、本心と逆のこと言ったりさ。
スイーツは「指輪ぐらいくれて当然」「この願望に気付いてくれてて当然」という了見。
フェミは逆に男がスイーツ的価値観を予期してアクションすると、鬼の首取ったみたいに軽蔑の所作をする。
ウンザリだよ。
別に、
フェミ女も草食男も
何でもいいと思いますよ?
もうみんなわかってるだろ。
au IS03でさ、未来へ行くならAndroidとか言われてレディ・ガガが踊ってるって、どうするんだそれ。
iPhoneで「その笑顔も」とか言って子供が笑ってる動画と比較しなくても判るだろ。
おれらが中国の偽iPodみて笑ってるのと、全く同じレベルの模造品だろ。
Galaxy Sなんかさらに酷いだろ。あれサムスンだし。
いや、サムスンの製品だから悪いとは言わないよ。液晶とか強いしな。モノも悪くないよ。
で、docomoはサムスンのiPhoneパクリ端末で大々的に売り出すわけか。
で、作ってるのはサムスン。(IS03は違うけどね。プライドのない形してるよなアレ)
乗ってるのはAndroid。
どこがものづくりなの?
「au03はもっさりというけど、ホーム画面入れ替えたらさくさくになりました」とかいう記事を見て軽く絶望した。
そこ否定されたら、端末作った人何してたのいったい。
だから、常に「一つ前よりも良くなる」事を求める。
そりゃね、シンプルな何もないところからスタートすれば、その圧力はとても良い方向に働くよ?
どんどん良くなる。どんどん進化する。
でも、何かのきっかけでちょっと違うモノが入ってくると、それをうまく真似できなければ終わってしまう。
みんな叩くだけ叩いて買わないしな。
特殊化の果てにあるのは緩やかな死ではなく、環境の変化に耐えられない種、疫病で死滅する均質化。
貪欲に外来種を飲み込み、咀嚼した上で完全に異質なものとして模倣する匠の技は死んだ。
注文の多い顧客を「注文をするのが当たり前だ」という植え込みをするのが、最後の防波堤だった。
おサイフケータイ、ワンセグ、高画素カメラ。それらの価値をもっと植え付けるべきだった。
ガラケーに必須の機能が、携帯電話には必須だと顧客に植え付け続けられれば、もしかしたら勝てるかも知れない。
でも、そこで手を抜いていたら勝てない。
カメラで写真を撮って、ネットにアップしてリンクをTwitterにPostする。
それだけのことが、どれだけの手間になるのか。
一事が万事そう。
ガラケーはその名の通り、環境の激変に耐えられない瀬戸際に来ている。
Androidへのガラケー融合は、結局の所Androidへ飲み込まれる。
防波堤を作り、それを補修しない。ものをつくれず、それも守れない。
プライドのない模倣に対して「恥を知れ」と言えない顧客は、諸共に死んでいく。
せめて散り際ぐらいは、美しく散って欲しいものだ。
「私の文章」が女に見えるらしいけれどどのあたりがそうですか?と聞いてみた結果 説明くれたみなさん。ありがとうございます。
「どのあたりがそうですか?と聞いてみた結果〜」は詳しく説明してるつもりなのか知らんが、くどい上に文意が散漫して分かりづらい。
「私の文章」を「」で強調する意図も不明。
「私の文章が女に見える理由について説明くださった」あたりが簡潔で良いだろう。
うーん、でも、いまいちよくわかりません。
ウザい。
間を取る目的ならどちらか一方で良い。
おっしゃることはなんとなくわかります。あなたは多分わかってるんでしょう。
でも、どう適当なのか、どうすればまともになるのかが指摘してもらわないと「適当」があなたの主観ですよね、という話で終わってしまうのです。
そこを説明してほしいんですよ。
要約すると「よくわからないけどなんとなくわかって、でもわからないから説明して」。
まさしく不要な文章を差し挟むことによって全体の論理展開が意味不明となっている例。
言いたいこと(主題)を意識せず思うままに文章を紡ぐとこういう論理展開になりがち。
私の文章が過剰なのだとしたら
結局のところここだよね。
あらゆる文章に「私は〇〇」って自己主張を盛り込む。
文意よりも自己顕示を優先させてるから読みにくくなる。
「私の文章」が女に見えるらしいけれどどのあたりがそうですか?と聞いてみた結果 説明くれたみなさん。ありがとうございます。
ほら、「私が質問したんだぞ!」が全面に出てきてる。
俺も院卒だけど。
何度やっても「人の話を聞け」と言われる。自分では、人に言われた事にものすごく気を付けているつもりなのに。ある時、もう、真面目になるのを諦めて、「不真面目になろう」、「人の話を逆に全く聞かないようにしよう」と思った。一旦、全部の注意をまっさらにして、自分が他人だったときに論理的に考えてやられると困るミスから潰していくようにした。他人に共感することはできなくとも、いい大学に入っているのだから、論理的に考えることは一応できる。そうしたら、だんだん、普通に作業できるようになった。
この感覚は非常によくわかるなあ。仕事全般じゃなくて人間関係全般でね。
もし元増田で話題になってる院卒の人が過去の俺と同じ問題を抱えてたと仮定すると、その人は多分何かにコンプレックスを抱えてるんだよね。一番ありがちなのは多分「KY恐怖症」。院卒というぐらいだからいい意味でも悪い意味でも世の中ではかなり特殊な経歴の持ち主なわけで、世の中の常識と自分の常識がずれてることが結構あるわけよ。だから、周囲に自分を合わせなきゃいけないって気持ちを常に抱えてる。そこで色々無理してしまうんだ。たとえば俺の場合だと、ちょっと例が古いけど周囲が小島よしおネタで盛り上がってるときに、自分は小島よしおの何が面白いか全く理解できなかったわけ。ところが職場の飲み会で「小島よしおなんて何が面白いんだ」というわけにはいかない。だからそこは無理に合わせて「そうっすね、最高っすよね」とか適当に言って笑っておくしかない。そういう細かいことが積み重ねって神経すり減らして肝心なところに目がいかなくなっちゃうんだよね。
本当は、知識として覚えておかなければならない注意などごく一部で、多くの注意は、論理的に考えれば帰結できるはずなのだ。ところが、このタイプの人は、他人を必要以上に恐れており、他人に言われたことは全て守らなければならないと思っているため、「注意された理由を考える」という概念が欠如している。そして、言われた注意を全部丸暗記しようとする。この方法は、実は、試験では上手くいく。
ちょっとその説明は誤解を招くんじゃないかなあ。そういうことを言うとますます「高学歴=試験しかできない」という世間の思いこみが強化されそうだし。
ここで一番重要なところは「他人を必要以上に恐れており」という部分だよね。「注意された理由を考える」という概念が欠如してしまう原因はなぜかというと、結局「自分の論理が通用する」という自信がなかったり、あるいはどういう論理を使っていいかそういう実例を見たことがないから想像ができなかったりということでしょう(逆に、学校の勉強ができない人の多くは「学問を必要以上に恐れている」問題を抱えている気もするけどそれはさておき)。
ここでもまた自分語りするけど、俺は子供の頃から音楽をやってたんだけど、上達がどうも遅くて何十年やっても自分の演奏から素人臭さが抜けなかった。それなのに、「子供の頃習わされてたけど特に好きでもなかったから」とか言ってる人の中には、俺よりよほど技術的に洗練されている人がゴロゴロいたりして、自分がよっぽど才能がないと思ってたんだ。その才能の差を努力で埋めようとして基礎練をいろいろやってみたけれど、やればやるほどおかしな方向に進んでしまうので、本当に絶望するしかなかった。
でもあるとき都合で師匠を変えることがあって、愕然とした。その師匠は単に自分が何かをやってみせて「こうしろ」というのではなく、「この曲のこの箇所ではこのような音をつくるために、体のこの部分をこういう感覚で動かせ」とか、全部理詰めで教えてくれたんだよね。何がびっくりしたかって、「効率よく体を動かす」みたいな発想で頭を使っていいっていう発想がなかったから。「芸術とは才能と努力のたまものである」みたいな漠然とした考えしかなかったからね。
これは本当におかしなことで、勉強とかいうことになれば、必要な知識や手法を理解するためにはどうしたらよいかとか、時間と効率を考えて戦略を立てるという考え方が自然にできていたのに、趣味の方ではまるでそういう発想が働いていなかったわけ。この差はなにかというと、結局は学問の方では「自分は馬鹿ではない」という一定の自信があったのに対し、趣味の方では「自分には才能がない」と最初から決めてかかっていたことで発想を萎縮させてたってことなんだと思う。
自信というものの大切さは一事が万事で、元増田の院卒の人も結局は同じ問題抱えてたんじゃないかと思うんだよね。院卒の人なんてのは得てして「象牙の塔の学問なんて机上の空論」なんてことを言われ続けて屈折してたりするから、案外その人も
「自分は社会でやっていけない、自分の考えでものごとを進めたら失敗する、だから自分ではなにも考えないで人の言うとおりにしよう」
という風に自分で自分を押さえ込んだりしてしまっているんじゃないだろうかね。
これを克服するためには何らかの成功体験が必要なんじゃないかと思う。俺自身、自分がそういう発想に陥りがちなのを自分で気づいて自分で克服したきっかけは、上に書いた趣味の分野での気づきだったし。
というわけで提案。元増田の人は、たとえばその院卒の人にメインの仕事とは離れた部分のことで、責任も重くなければ息抜きにもなるようなこと(たとえば社外ボランティアとか、やりがいはそれなりにあるけど失敗しても謝れば済む程度のこと)を割り振ってみるとかどうでしょう。一度何かできっかけをつかめれば、「自分で考えていい」ってことに自信を取り戻せて、氷が融けるようにじわじわと本領を発揮する場面が徐々に増えていってくれるんじゃないかと思うんですが。