はてなキーワード: 小島よしおとは
東新宿駅の近くを歩いていたらチャリに乗った面長の小島よしおみたいな人に絡まれた。
いきなりでかい声で「今、津って言っただろお前!」と言われて混乱。
津?
津って三重県の津?
たしかに出身は津の近くだけど、道歩きながら「津」って言った覚えはない。
どう返答したらいいか分からず「つ、津……?」って聞き返した。
面長よしおは「そうだよ!津だよ!」って激昂しててもう何がなんだか分からなくて黙りこくってたら、近くにいたお兄さんが間に入ってくれた。
こう言ったら失礼かもしれないけど、強面のお兄さんだった。
お兄さんが手でしっしってしたら、面長よしおはチャリで颯爽と去って行った。
LINEで実家の家族にこの話をしたら「それ津じゃなくてチェッ(舌打ち)じゃない?」と返信があった。
私に舌打ちされたと思って絡んできた……ってこと……?!
舌打ちしてないけどね……何か別の音が舌打ちに聞こえたのかな……?
それにしても「津って言っただろ!」じゃなくて「舌打ちしただろ!」って言ってくれればしてませんって返せたのに。
なんかこう、語彙力って大事なんだなって思いました。
なんもおもんない話でごめんね。
助けてくれたお兄さん、本当にありがとうございました。
(ちゃんと直接お礼言いました)
きかんしゃトーマス/ボブとはたらくブーブーズ/ムシキング/恐竜キング/大人のふりかけ/ポケモンパン/コロッケ(コロコロ)/ナルト/エンタ/いつもここから/トリビア/マイケルジャクソン死亡/レッドカーペット/藤崎マーケット/小島よしお/千の風になって/でんぢゃらすじーさん/YES WE CAN/ワンピース/ペンギンの問題/うごくメモ帳/ベイブレード/ねじれ国会/東北地震/さよなライオン/モンハンP2G/MGS PW/パズドラ/禁書/文具とか入れるプラの四角いバッグ/艦これ/マーチン/チェスターコート/淫夢/beats by Dr.Dre/Yeezy boost/暇な女子大生/サウナ
ガキの頃藤崎マーケットや小島よしおが流行った。今や何が面白いのかはさっぱり分からないが、ゲラゲラ笑っていた。小学校ではラララライだのそんなの関係ねーだのが流行りまくっていた。ハードゲイは今でもちょっと面白いと思う。
中学の気難しい頃は居間でテレビを見る事も減り、キャッチーなギャグで笑う年でもなかった。友達同士でお笑いが話題になる事もなく、漫画の話が多かったと思う。銀魂とかギャグ漫画日和のユーモアは新鮮で、一周回ってとかではなく逆張らず、順張りのノリで素直に面白いと思っていた。
オタクじみたのが多い男子校だったからか、グループ内ではニコ動を観てネットスラングで会話する事がクールな風潮があった。くだらないMADだかやらないかだかの話をして、PSPに落とした動画を観て盛り上がっていた。
スマホを持ってから家でまとめサイトを見るようにもなった。テレビでは見られないようなブラックでエッジが効いている「尖った」おもしろコピペを読み漁った。友達にネットの受け売りで話したおもしろトークはウケが良かったが、自分の言葉で喋るのが下手になったし、今でも尾を引いている気がする。
総じてテレビやお笑い芸人の「浅い」笑いから、「ディープ」でマニアックな笑いを好むようになった頃だと思う。まあ誰しもムキムキのアンパンマンやドラえもんのような「シュール」さを好むような感性の年頃でしょう。
一度姉に連れられて新宿ルミネの劇場へ行った事もあった。既に芸人への不信感(?)があったので、嫌々。当時の感覚で、退屈というほどではなかったが、フフッと笑える程度の面白さだった。ずっとムスッとしてるのも感じ悪いかなと思いそうはしなかったが、まあ我慢しようと全然耐えられる感じだ。一切笑えないコンビも少なからずいた。偉そうに素人素人言ってプロ面する癖にこんなもんか、というのが感想だった。
高校の頃にはすっかりネットに毒され捻くれまくったガキになったので、順当にテレビのお笑いが嫌いだった。「マスゴミ」が大嫌いで、バラエティ番組を観てるいような人間が低俗に思えた。捻くれた性格がインターネットへ導いたのか、本当にネットに毒されたのか、あるいは相乗効果なのかは分からない。
この表現は嫌いだけれど、高校にもなるとクラスで「陽キャ」と「陰キャ」とがかなりはっきりと分かれる。それについて色々と気にかける事も多い年頃だ。無論自分は後者で、それが「捻くれた自分」をアイデンティティにしようと思わせた部分もあるのかもしれない。
昔よくあったネタ見せ番組は消え、芸人を名乗りながらネタも見せない(劇場での興行が基本という感覚がなく、ネタはテレビで見せるものだと思っていた)。ロケで飯を食ったりスタジオでトークするだけ。こちらは芸人の先輩後輩など知りもしないのに、内輪ノリでくだらないギャグに愛想笑いする彼らに嫌悪感すらも覚えていた。
思春期の焦燥に強く駆られる時期で、「低俗」である笑いを求める事自体が減った気がする。などと言いつつ、学年中で淫夢が流行り、とにかく会話に語録を挟むのがクールだった(最悪)。最初は「は?野獣先輩?114514って何?おもんな……」と心の底から思ったたものだが、無事イキスギィでゲラゲラ笑う身体になった。今思えば凡庸なオタク高校生だが、当時はゲイポルノで笑うヤベー俺ら、みたいな意識があった気がする。
大学生になり、流石に対外的な社会性の大切さに気が付き、斜に構えた態度は内面とSNSで大切に留めておくようになった。
「普通」になりたいとは特に思わなかったが、普通の何たるかは知っておいた方が良いと思い立った。その一環として、人気バラエティの「相席食堂」を観てみた。面白いと言われている回を選んで観たところ、これが中々面白かった。いつしか素直に楽しむようになり、シリーズの最初から通して観ていた。その最中、かまいたちの山内が出た回が強烈につまらず、不快感すら覚えた。つまらない癖にsupremeを着ていたのに余計腹が立った。消えかけていた芸人への嫌悪感が急激に吹き出した。
あまりに不快で、逆に興味が湧き色々と調べてみた。M-1なるお笑い(漫才)界最大の大会の存在と、かまいたちがそこでかなりの結果を残している事を知った。
自分は漫才が特に嫌いだった。コントを面白いと思った事はあるが、漫才で笑った事はそれまで人生で一度も無かった。これはよく言われるエンタの罪なのかもしれない。ジャリの頃好きでよく観てたので。
こんなにつまらない芸人が最大の大会で良い結果を残せるなんてどれだけお笑い界はレベルが低いんだと思い、ネタを観てやろうと思った。2018だか19だかのM-1を観た。
かまいたちのネタを見て、初めて漫才で声を出して笑った。面白かった。優勝したミルクボーイよりも面白かった。この時完全に芸人への嫌悪感が吹き飛んだ。内輪ネタや共有されたミームに頼らない、最大公約数的なお笑いでここまで面白くできるのかと。毎年M-1を観るようになった。良いと思う芸人のバラエティも。
その後数年経ち、やや熱は冷めてきた。テレビ的お笑いをつまみ食いして、自分は芸人やテレビ的笑いが好きというよりは、単にかまいたち他数コンビが好きなだけだったのだろうなと思った。
ただ、得られた事がある。フン、つまんね。これでプロなのか。などと思いながら品定めをするように観るのが間違いだった。笑いを求める人間が、「我慢しようと思えばできる」などと喧嘩腰になるのがおかしい。
あと、内輪感に入り込むという事を知った。確かに大して知りもしない芸人の内輪ノリは、見ていて不快さを覚える事も少なくないだろう。でも、前提となるミームや空気感を知り、彼らのノリに慣れてしまえば中々面白いものだ。たまにくどいなと思う事もあるけれど。ネットのユーモアとて、所見で笑えるようなキレのあるものもあるが、前提となる感覚や風潮を要するものも多いだろう。
漫才コントが下ネタや内輪ネタより高尚な笑いだとは別に思わない。テレビではとても出せないような下品でエッジの効いた笑いも未だ大好きだ。しかし最近、(多分ほぼインターネットだけで)流行っているオモコロ的なユーモアが苦手に感じるようになってきた。マイナーだけど特定層に深く刺さるようなあるあるや、気の利いたシュールさは、つい上手いなあと思ってしまう事もあるものだ。これも今までずっと愛してきた捻くれたユーモアの類だろうに。結局逆張りじみた感性そのものは変わっていないのだろうか。
逆張りがいけないとは思わない。自覚的な逆張りを貫ける人は好きだ。でも自分の価値観や信念に基づくというより、単にミーハーなものへの嫌悪感がそうさせているのなら、少なくともそれに自覚的であった方が良いと思う。芸人がよく言う「批評家気取りの素人」は、そういう素直さの大切さを言っているのではないかと思った。もちろんポジショントーク的なマウンティングもあるのだろうけれど。一度素直に受け止めて、それでも合わないなと思ったらその気持ちは大切にして良いと思う。嫌いは好きと同じくらい大切だ。
画一さや没個性を嫌う気持ちは誰にでもあると思う。その気持ちは大切にして良いものだとも。ただ、単にメジャーの逆張りをした所で、それはメジャーの裏返しでしかない。マイリノティにはなれるかもしれないけれど、それもまた没個性的なものだ。ありきたりだが、個性とは自分の好き嫌いを大切に重んじた先にあるのだと思う。
笑う時くらい小難しい事は考えない方が良いですよ絶対。
とにかく腕を労る予防的な動きを体が身に着けるまで、待つしかないとのことだった。
とはいえ昔から短気だった自分、体幹強化のためこなしていた水泳もリングフィットもできず、鈍っていく一方の体に耐えられなくなるのは時間の問題だった。
夏になる頃には「とにかくなんでもいいから体を動かすんだ、肩に負担をかけず…!」みたいな精神状態に。
色々調べたところ、「フィットボクシングで四十肩が改善しました!」というブログでのレビューがあちこちにあることを発見した。
「ブルワーカーで彼女が出来ました!」と何が違うのかと思ったけど、ボクシングが肩に負担をかけないのは本当のようなので、お盆休み前に購入し、早速始めてみた。
結果は驚くべきもので、なんとチュートリアルをこなしている途中から、既に肩が軽くなっていくのが体感できるレベルだった。
ちなみに購入前に画像検索→公式サイトの流れで、メニュー画面のガイダンスおよびトレーニング時の注意や合図をしてくれるインストラクターのうち、ジャニスという、元チアという設定の子に興味があったので、チュートリアル終了後早速変更してみた。
なおCVはハガレンや銀魂やアイマス、とらドラ!、更にはシャナ、ゼロ使、ハヤテなどで数々のキャリアを積み重ねてきた、あの釘宮理恵氏である。
割と甘めでよく通る声はそのままに、かなり抑揚控え目な大人っぽい喋りというのが耳に心地よく、決して簡単とはいえないトレーニングの弾みになった。
しかし簡単ではないとはいえ効果は相当なもので、トレーニングを通じて痛みが大きく軽減しただけでなく、日常生活でも肩が痛くならない筋肉の使い方というかコツを掴みつつある。
改めて実感したけどパンチは腕や手で打つものではなく、脚と呼吸で打つのがポイントだと思う。
これが元来、運動神経に問題のある自分にとっては結構難しいのだが、身に着けると体がブレなくなるので調子が上がるという感じ。
あと、日常生活で右肩に違和感を感じたときはすかさず小島よしおの「でもそんなの関係ねぇ!」の振り付けで腕を動かすと治ることにも気づいた。
おっぱっぴーまでするかは気分で決めていいと思う(自分はしない派)。
英語を学んでいる人は小島氏公認の英訳版"It doesn't matter!"に変えるのもあり。
というわけで、今後も楽しみながら完治を目指そうと思う。
こういうのを「○○イズム」とかそういう言葉をこん棒に使って規制に持って行こうという動きに本当にウンザリ。「表現の規制」以外の何物でもない。
あのネタは「お前○○してそう」に対して「いやそうじゃねぇよ!」っていうものであって増田の主張とは全く逆じゃん。「ルッキズムで人を馬鹿にすることを肯定するものだ」なんて全然受け取れない。そういうバカにする気持ちをベースとした笑いにしてると言っているが、それが存在することは増田自体が体験している「実在すること」なのではないか?そして存在する偏見を存在としたうえで、「そうじゃねぇよ!」というネタをしているわけで、それは「ルッキズムというものがあって、それはやめましょう」と言っているのと同じではないか?
あとは「他のやつが真似をする」という話があるが、それは果たしてお笑い番組の問題の範囲としてどこまでやるべきなのか?(もちろん何でもOKではないだろう。程度の問題だ。)例えば小島よしおが「そんなの関係ね~」って言ってそれが子供の間で流行って問題になったってことがあったけど、あれって小島よしおが悪いわけではない。テレビはテレビでやっていて(先述の通りあまりに目に余るものは当然規制の線の中に入るだろうが)、教育をする責任を持つ人は別にいるわけ。それは親であったり、不遇な家庭であれば教師であったり近所の人であったりする。
増田の個人的な経験でルッキズムで馬鹿にされたのは問題だしそういうことをする奴はクソ野郎として糾弾されるべきだし増田はそこに関しては間違いなく被害者だが、その体験により敏感になった自分の感覚を絶対正義として「俺は嫌だなぁ」でなく「放送をやめろ」という規制方向の言説を「○○イズム」というこん棒を握ってネット上に上げることは全然正義じゃないと俺は思うわ(「俺は嫌だなぁ」ならいんじゃね)。
人にはいろいろ傷があってキーワードに敏感に反応するということはあるし、テレビとか本とかでキーワードを発しているとビクっと反応することがあるのはわかる。それはわかるんだけど、そうなったからその「不快感」を是として今回のように「むしろ逆」のことにも突っかかるようになり、表現の場が「そのことそのものを避ける」ように暗闇に葬り去り「活動家様がやる高尚な活動」のみにその問題を任せてしまっていたら、それは人の関心を集めないし全然解決には向かないと思う。今回のモモのネタは、これはむしろ「ハハハ、いやーそうだよな、見た目で人を判断しちゃだめだよな~」って方向に行くかなと思っていて、それをルッキズムだと切り捨ててしまうといわゆる「低俗な啓発」という大事なパスが失われてしまうのではないだろうか。
もちろん感じ方は人それぞれなわけで「こう言っていいんだ~」みたいな動きをするクソ野郎も一定数出てくるだろうが、モモを見て「いやむしろそうじゃなかったでしょ」とキチンといさめる人間だって出てくるし、「こう返せばいいんだ」と参考になった人間だっているはずで(「こう返せ」という強要になるのはまた問題であるが、それも「そういうやつも出てくる」ということになる)、見た目の話だからアウト!とかやっていてはどんどん「現実世界の問題」は深く見えないところに行ってしまう。そのくせ「高尚な机上」ではそれが議論されている形をとっていて、より分断が進む。もちろんこれは俺の考えだが、「あのネタがルッキズムを助長する」というのも増田の考えだろう。
気を付けたいのは、「助長したのか逆なのか」というのを定量的に調査せずどちらかの意見に偏ったドキュメンタリーなりの番組をマスコミが作った時に、自分の党派性にあっているからと言って無為に持ち上げて「ほら言ったじゃないか!」とはすべきではないということだ。そうやって「間違った方向への『進歩』」をしてしまっていることは山ほどあると思っている。
ある日の収録の事である。一人の芸人が、寺門ジモンの横で押されるのを待っていた。
広いスタジオの中には、ジモンとこの男のほかに誰もいない。ただ、所々頭の禿げた、大きな額に、蠅が一匹とまっている。ジモンがスタジオにいる以上は、肥後克彦や出川哲郎らが、もう二三人はありそうなものである。それが、この二人のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、テレビには、コンプライアンスとか規制とか炎上とか云う災いがつづいて起こった。それでテレビのさびれ方は一通りではない。旧記によると、小島よしおが熱湯風呂に飛び込んだがリアクションをとらず、そんなの関係ねぇと言って炎上したと云う事である。
テレビがその始末であるから、寺門ジモンなど元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとそれを良い事にして、ジモンは肉にいく。グルメにいく。とうとうしまいにはオオクワガタまで持って来て、彼をネイチャージモンと云う習慣さえ出来た。そこでジモンがいなくなると、誰でも芸人を気味悪るがって、熱湯風呂の依頼がこない事になってしまったのである。
しかし芸人は困った。そこでスタジオへジモンを呼んだと云うわけである。
「押すなよ!絶対に押すなよ!」
ジモンの「どうぞどうぞ」という話が終わると、芸人は嘲るような声で念を押した。そうして芸人は一足前へ出ると、不意に右の手をバスタブから離して、寺門ジモンの襟上をつかみながら、噛みつくようにこう云った。
ジモンは三回目の絶対に押すなよを聞くやいなや、すばやく芸人のふんどしを剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする芸人を、手荒く熱湯風呂の中へ蹴倒した。熱湯までは、僅に五歩を数えるばかりである。ジモンは、剥ぎとった檜皮色のふんどしをわきにかかえて、またたく間にスタジオを出て行った。
しばらく、死んだように倒れていた芸人が、風呂の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。
芸人は「訴えてやる!」とうめくような声を立てながら、まだ光っている照明の明かりをたよりに、撮影中の固定カメラまで這って行った。そうして、己の股の下を覗きこんだ。何も履いていない。お茶の間はパニックとなり、番組は炎上。芸人は追放された。芸能界には、ただ、自主規制という夜があるばかりである。