はてなキーワード: コロッケとは
嫁はそれほど料理が得意ではないが、それなのに色々とアレンジをしたがる典型的な料理下手だ。
今までも幾度となく食卓に悪魔合体してしまった料理が並んだこともあって、疑心暗鬼になっていたのは事実だ。
見た目は間違いなく美味しそうで、コロッケなら失敗もないだろうとほっとして席についた。
そして一口。
サクッと衣が小気味の良く音を立てた直後、中身の部分でも再びサクッとした歯ごたえを感じた。
もぐもぐしてみると、やはりたまにサクッとした食感にあたる。
あれ?火がちゃんと通ってない?そもそもじゃがいもって生で食べていいんだっけ?
「どう?じゃがいもの食感が残るように荒目に崩してみたんだけど」
嫁から期待の眼差しを向けられるも、不安から味もおかしく感じてくる。
そういって口の中身をティッシュに包んでキッチンの三角コーナーに捨てる。
何やら状況がわからない顔でこちらを見つめていた嫁は、口の中を捨てたと同時に泣き始めてしまった。
「いや、いつも一生懸命に作ってくれることには感謝するけど、どうしても食べられないときは食べられないよ。」
当然それでも泣き止まない嫁。
食事に箸をつけず落ち着くのを待っていると、今度は怒りが湧いてきたのか鬼の形相で嫁が口を開く。
「大体そうやって自分の好き嫌いばかり言ってて、あなたは作る側の気持ちが全然わかってない!今日のコロッケだってどれくらい手間がかかってるか知ってるの?!」
「手間をかけろとはいってない!食べられさえすればそれでいいといつもいってるじゃないか!」
嫁はさらに食ってかかる。
「このコロッケの何が駄目だというのよ!味見したけどこれでまずいなんて、わがままいいたいなら家に帰りなさいよ!」
「いや、まずいんじゃなくて、これは食べられないだろうよ」
「意味分かんない。これのどこが食べられないのよ!」
「だったら一口食べてみろって!」
顔を真赤にしながらも静かにもぐもぐと食べる嫁。
こちらにキッと向き直って睨みつけるように口を開く。
「おいしいじゃない。」
「あのな。中身がまだサクサクしてるだろ。それってじゃがいもがまだ生ってことじゃないか。そこはしっかりと火を通せよ。基本中の基本だろ。」
それを聞いて途端に勝ち誇ったような顔になる嫁。
あれ?俺なんか変なこと言ったか?なんでこいつ顎上げてこっちみてんだ?
「あんた、そんなことでこのコロッケが食べられないとか偉そうなことほざいたわけ?」
キョトンとした顔の俺を見て、嫁は再び見る見る鬼の形相に戻っていく。
「それはれんこんじゃー!」
【増田長文論】C(要再履修)
天ぷら蕎麦とコロッケ蕎麦なら、味の想像もできるし、天ぷら蕎麦派からコロッケ乗せるなって言う意見も想像できるのに。
なんでハンバーグにしたのか、作者の奇抜さを狙ってやろうという浅はかな意図が透けている。
腐女子のお気持ちですが増田の皆様におかれましてはいい加減腐女子用語でAとかBとか言われるのも飽き飽きかと思いますのでコロッケそばの話と致します。
増田には10年来の友人がいました。中学からの同級生で親友と言っても差し支えない間柄でした。
ある日友人が「カツコロッケそばにハマった」と教えてくれました。
私もカツコロッケそばの事は知っていました。市民権があり割とどこでも食べられる、カツとコロッケそばという皆が大好きなヤツのおいしい相乗効果でした。
友人がカツコロッケそばの論文を出すと言うので手伝いをしたり、家に遊びに来た時には私がカツコロッケそばを振舞ったりしました。ココイチで新メニューが出るという時にはつきあったりしました。
ただし、友人はハンバーグコロッケそばの事がものすごく嫌いでした。コロッケそばに乗ってるハンバーグはネチョネチョしててキモい、といつも周囲に語っていました。
しかしある日の事、私はハンバーグコロッケそばを食べてしまいました。セブンイレブンでした。
私は元々ハンバーグの事が好きだったので、うすうすハンバーグコロッケそばもおいしいのではないかな、と思っていたのです。
思った通りハンバーグコロッケそばはとてもとてもおいしくて、私は隠れてハンバーグコロッケそばを毎日食べました。罪の味に私は苛まれる事になりました。
罪の味に苛まれながらも、毎日毎日ハンバーグコロッケそばを食べているとつい話題に出してしまう事がありました。
昨日何食べたの?なんて聞かれたらハンバーグコロッケそば食べた・・・としか言えません。何せ毎日食べているので。太りました。嘘をつく日もありました。
そんなやり取りをごく稀にSNSでしていました。友人はあまりSNSを頻繁に覗くタイプではなかったので多少ならいいか。と。
しかしとんこつラーメン大好きの別の友人とその友人が同席している時に、「増田はハンバーグコロッケそば好きだよね」とバラされてしまったのです!
このとんこつラーメン好きの友人はカツコロッケそばとハンバーグコロッケそばの間の確執を知りませんでした。なので罪はないのですがあの時の冷たい空気を覚えています。
「まあ別に好きなものは人それぞれだし」と友人は気にしていないように見えました。でも明らかにキレていました。SNSも見ていたようでした。
とんこつラーメンはわかっていませんでしたが私にはわかりました。とんこつラーメンがハンバーグコロッケそばはデミグラスっぽいコロッケそばの方がうまいとか話すので冷や汗ダラダラでした。
これは他人に話を振られてしまう可能性もあると考えて、私はハンバーグコロッケそばのSNSアカウントを作りました。
そして誰がどうとは名言しませんでしたが他所で私にハンバーグコロッケそばの話を振るな、と明記しました。これで友人からはハンバーグコロッケそばの話題は見えないはずでした。
私は友人と一緒に居る時は出来る限りカツコロッケそばを持ち上げました。サクサクの衣にコロッケそばがついた瞬間が最高!タンパク質も取れて健康!別にカツコロッケそばが嫌いな訳では無いので本心でした。
一方で私はハンバーグコロッケそばのアカウントを作った事で自由にハンバーグコロッケそばの話が出来るようになりました。ハンバーグコロッケそばの写真をアップしたりしました。
ご存知の通りハンバーグコロッケそばはカツコロッケそばに比べるとあまり人気があるとは言えません。ハンバーグコロッケそばもハンバーグとコロッケそばという皆が大好きなヤツの相乗効果とは思うのですが。
なので細々と、数少ないハンバーグコロッケそば信者とお話する程度でした。嫌がられるのが目に見えていたのでハンバーグコロッケそばの論文など書く気は更々ありませんでした。
ある日の事でした。通話中、私が「カツコロッケそばって本当安心する味でいいよね、ソースもあうし」とカツコロッケそばを話の流れで持ち上げました。
すると何が気に障ったのか、友人は「じゃあなんでハンバーグ乗せてんだよ」とキレはじめてしまいました。私は突然のことに青ざめました。
「ハンバーグはコロッケそばに乗せる具として人気ないんだからもうちょっと自重してほしい」「ハンバーグをコロッケそばに乗せるのやめろ、コロッケそばに失礼」などと言われ私は泣いてしまいました。
私はハンバーグコロッケそばのアカウントを消しました。ハンバーグコロッケそばを食べるのはそんなに悪い事なんだ、もう一生ハンバーグコロッケそばを食べるのはやめよう・・・。そう思いました。
そう思ったのですがハンバーグコロッケそばを食べることを私はやめられませんでした。以前のように誰にも見えない所でハンバーグコロッケそばをモリモリと食べました。
ハンバーグコロッケそばをモリモリと食べていると、「いややっぱハンバーグコロッケそばおいしいやん」という気持ちが込み上げてきて、なぜそんな批難を受けねばならないのか疑問に思いました。
声高にカツコロッケそばの話をする友人と違って、私はいつでも気を使って、こっそりハンバーグコロッケそばを食べてきました。誰にも迷惑をかけたつもりはありません。
でも友人の言い分からするなら恐らく、「ハンバーグコロッケそばを食うやつが1人でも存在する事が許せない」んだと思います。いや好きなもんくらい好きに食わせろや?常識的に考えてそう思うのですが、許せないらしいのです。
そんな感じで私はカツコロッケそばを見ると気分が悪くなるようになり、その友人とは会わなくなりました。
ほんとめんどくせえな、どうしたらよかったんだよ と未だに思うのですが、私がハンバーグコロッケそばをおいしいと思った時点で人間関係が終わってしまったんだろうと思います。そんなことで終わる人間関係がかなしいし、長年付き合って来た友人だけど本性を見た気がして、今は若干軽蔑の感情があります。
ある時友人はカツコロッケそばを好きな理由を「一番ファン母数の多い揚げ物に所属してるとマウント取れるから」みたいなことを言っていました。
いやカツが好きとかじゃないんかい!そんなヤツに侮辱されたハンバーグコロッケそばの事がかわいそうです。もうちょっと皆平和に生きられないのかなと思います。かしこ。
一人客が多いので過ごしやすいのだ
そして無料送迎バスに乗り込み、おっさんじいちゃんたちとともに競馬場に向かう
パドック近くの「馬王」へ小走りで向かう
もちろん焼きそばを頼む
パドック真横のコロッケ店に向かい、コロッケとメンチカツを頼む
両方ともソースと辛子をこれでもかというくらいにかける
さすがに満腹になるのでしばらくスマホ見ながら休憩
うまいもんをたらふく食べたあとにソシャゲガチャまわすのは至福(貯めた無償石で)
しばらくしたら予想屋「夢追人」の予想をきく
この予想を聞いてるとなぜか自分の考えが整理されて、馬券を買いたくなる
そんなある日、
遡って考えてみれば、ここ半年ぐらいは続いているだろうか。
さすがに昨年末ぐらいからは、お互いを顔見知り程度には認知しており、
忙しくそばをすすりながらも、
「あ、また会いましたね!」という感じで軽く会釈をするようになった。
ところで、わたしは毎朝月見そばを食べているが、コロッケそばなるものをたべたことがない。
たまに気分を変えてもせいぜいきつねそばか、きざみそばぐらいだろう。
どうやって食べるのかと思い、ちらりと横でたべている彼女の様子をみてみると、
食べている途中から割り箸でコロッケの真ん中を突き刺し、コロッケをぐてんぐてんにして、
どろどろの汁にしてから、すすっている。
なるほど。美味しそうだが、なんか嫌な気もする感じだ。
そういうわたしはいつも月見そばを頼むが、でてくるとまず、月見をありったけのそばで汁の中に隠す。
そうすることで、そばを半分ぐらいすすり終わった時に、月見がいい感じに熱が通っているようになる。
その後で、黄身に割り箸を突き刺し、汁と流れ出た黄身とそばをあわせて食べるのが好きだ。
そして、そうこうしているうちに汁がどろどろの感じになってくる。
あーそういえば、月見もコロッケそばもさいごにでろでろになるのは大差ないのかなー。
そんな風にも思えてきた
おもいきって、明日の朝はコロッケそばを頼んでみようかな……とも思う。
彼女から「ふふん、わたしの食べているコロッケそばを美味しそうに思ったのでしょ?」
と思われるかもしれない。それはそれで悔しいのだ。
しばらくしたら、いつものように彼女がやってきて、驚いたことに月見そばを頼んでいた。
「いつも美味しそうに食べておられるので……」
何をもって演技が上手いと考えるかは人それぞれなんだなあと思ったり
しかし、若井おさむと古谷徹が並んで喋ると何か違う、そんなに似てないんじゃないかと思ったりする
コロッケとかだと尚更そう思う、そんなに似てないんじゃないかと思う
でも、そんなに似てないモノマネでも、それを見た瞬間に、あー、あの人かー、と思い浮かぶのがモノマネなのではないか
演技も同じで、現実の人物を演技するとしても、リアルであればいいのかというとちょっと違う気がしてて、
リアルを徹底するより寧ろ特徴を抽出して強調した演技をした方がいいのではないかと思ったりしてる
声優とかもリアルか?というと変なんだけど、その方が特にアニメとかだと大袈裟ぐらいな方が寧ろ違和感なかったりする
何が言いたいかというと、宮崎駿の声優をプロ声優から選ばないみたいなの、自分はあんまり納得できなくて、
キムタクや庵野秀明が普段通りに喋るのがリアルなのか?演技が上手いというのか?というと違うんでないの?と思ったり、
だったらアニメの方がもっとリアルな絵になってないと、声だけリアルでもおかしいだろ、と思ってしまうのでした
自分なりに演技が上手いというのは、演じるキャラクターの特徴をよくつかんでいる人だと思うんだよなあ
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
某スーパーのtwitterの中の人を2年ほどやっていたことがある。
当時は企業アカウントがブームになってきていて、東急ハンズ、タニタ、ローソンなどなどSNSマーケティングが脚光を浴びていた。
そんな中、どこかでその話を聞きつけてきた社長から「SNSでのつながりを使って新規顧客を開拓してほしい」といういかにもなオーダーをもらい、twitterを立ち上げることになった。
最初はタイムセール情報や新商品情報などtwitterと小売りは相性も良いから余裕かなと思っていたが、
そこで、SNS運用担当者向けの講座などいくつも通い勉強をした。
・しっかりとリプライを返信する
・読んだ人が少しクスッとするような、拡散しやすいツイートをつくる
・リツイートされやすい時間を統計を取って、その時間に投稿する
などなど、当時の最前線のツイッター担当者から貪るように学んで実際の運用に活用した。
すると、数百フォロワーだったアカウントがスルスルと1000フォロワーを超え、
1年もしないうちに1万フォロワーを超えた。
フォロワーが反応する様子を思いながら、毎日投稿の文面を考えるのは楽しくて仕方なかった。
SNS限定の割引チケットなどを配布すれば、反応が起きてリアル店舗の売り上げにも影響が出始めた。
各部門の販売担当から、うちの部門の商品も紹介して欲しいなど連絡が頻繁に来るようになった。
有名企業アカウントとも少し絡んでもらったりと、どんどん勢いに乗っていた。
冬の売り上げ厳しいので、なんとかSNSで応援して欲しいという依頼で投稿したものだった。
というような内容だった。多くのフォロワーからは好意的な反応だったが、
一部のフォロワーが「こたつに入ってアイスというエネルギーの無駄遣いはいかがなものか?」
「暖房も入らない部屋で、貧しく暮らしてる人がいるのに、そういう人への想像はできないのですか」
という類のリプがついた。
この時は「こんなこという人もいるんだねー」と社内では笑っていた。
2つ目はコロッケの投稿。台風コロッケがネットミームとして盛り上がっているのを見て、思いついた投稿。
「今日の台風は大きいみたいです。こんな日はお家でコロッケに限りますよね!いっぱい揚げたのでどうぞ!→クーポン」
みたいなことを書いたところ
「台風という甚大な被害が出る可能性のあるものを利用してキャンペーンするとはどういう了見だ」
というリプがついた。どうも粘着してるのはアイスの時と同じ投稿者のようだった。
このくらいから、だんだんとtwitterの投稿が恐ろしくなってきた。
お客さんに楽しんでもらおうと思う発言も、
ことごとく誰かを不快にし、その度にきついリプライが飛んできた。
他の関係ないユーザーから部分的な切り取りRTなどをされたり、
そして最後はうなぎの投稿だった。夏のウナギ商戦はスーパーの鮮魚売り場担当にとっては大事な時期。
SNSでも盛り上げて欲しいということで、うなぎの投稿依頼がきた。
うなぎの漁獲高減少、絶滅危惧種指定などネットを騒がしていることを解っていたからだ。
ヤバい旨を社長まで直談判したが、受け入れてもらうことはできなかった。
最後の方は毎日胃は荒れ、あれだけ楽しみだったtwitterの文面を考えるのが辛くなった。
100人の好意的なリプライをもらっても、1~2人の批判的なリプライがきつい。
当時はSNSでフォロワーを増やすことが自分のKPIになっていて、当たり障りのない投稿を続けてフォロワーが横這い/減ると経営会議で詰められた。
炎上を避けながら高感度を上げつつ認知度を上げるという難問に疲れ切っていた。
その後、後任の担当者が何回か引き継いでいった。
配信担当をやめた後、フォロワー数やSNS上のコミュニケーション数を担当者のKPIに設定するのを廃止してもらった。
今では属人性を完全に捨て、ただのセール情報と新商品情報を流すだけのbotとして運用している。
最近、いろんなSNS担当者がtwitterで炎上しているのを見ていると、当時のことを思い出して心がとても痛い。
きっと彼らは自分が経験したレベルではないほどの罵倒を受けているんだろう。
良かれと思ってとったコミュニケーションで袋叩きにされる辛さは尋常ではない。
経営者には企業アカウントのSNSは属人性を廃止した運用に切り替えるよう伝わって欲しい。
数年前の牧歌的な企業と顧客のコミュニケーションツールとしての役割は終わっている。