はてなキーワード: ぬことは
(あ、今日の昼に定食屋でトンカツ食ったけど晩飯もトンカツか。かぶったな。でも嫁の作るトンカツは美味いからまあ良いか)
「えっ、トン(カツって言ったらヤバいか。せっかく晩飯にトンカツ作ってくれたわけだし)コツラーメンだよ」
「ど(アホが。私さっきトンカツ定食のレシート見たんだから全てお見通しよ)う?このトンカツ美味しい?トンカツ久しぶりよね」
「本当に美味しい。トン(でもない。全然久しぶりじゃないんだよ)カツなんて久しく食べてないよ」
「本当に久しぶ(た野郎!嘘つくんじゃねぇ)りよね」
「たし(ょうの嘘だ。許してくれ)か去年の暮れにお前が作ったのを食って以来だ。あれはロースカツだったよな?」
「あら(ぬことを言うなブタ野郎!それは今日の昼にお前が食べたトンカツだろう。うちのはいつもヒレだ)そうだったかしら。あなた、好きよねトンカツ」
「お陰様で(す。death)」
「ねぇ、どっ(つくわよ)ちが美味しい?」
「このトンカツ()と定食屋のを比べるんだな。定食屋の方が美味いかな。いや、定食屋のじゃなくて去年の暮れに嫁が作ったトンカツと比べるんだ()危ねぇ…」
【アドバイス】
旦那様、ちゃんとカッコがついておりません。マル秘情報が心から漏れ出しております。以後、お気をつけになって。
winner→奥様
「上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利きの眼に合ふ事なし。」
およそ、能の名望を得る事、品々多し。上手は、目利かずの心に相叶ふ事難し。下手は、目利きの眼に合ふ事なし。下手にて目利きの眼に叶はぬは、不審あるべからず。上手の、目利かずの心に合はぬこと、これは、目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん爲手ならならば、また、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん爲手をば、花を極めたるとや申すべき。されば、この位に至りたらん爲手は、いかに年寄りたりとも、若き花に劣る事あるべからず。されば、この位を得たらん上手こそ、天下にも許され、また、遠國・田舎の人までも、遍く、面白しとは見るべけれ。この工夫を得たらん爲手は、和州へも、江州へも、もしくは田楽の風體までも、人の好み・望みによりて、いづれにも亙る上手なるべし。この嗜みの本意をあらはさんがため、風姿花傳を作するなり。
かやうに申せばたて、我が風體の形木の疎かならんは、殊に/\、能の命あるべからず。これ、弱き爲手なるべし。我が風體の形木を極めてこそ、遍き風體を心にかけんとて、我が形木に入らざらん爲手は、我が風體を知らぬのみならず、他所の風體をも、確かにはまして知るまじきなり。されば、能弱くて、久しく花はあるべからず。久しく花のなからんは、いづれの風體をも知らぬに同じかるべし。しかれば、花傳の花の段に、「物数をつくし、工夫を極めて後、花の失せぬ所をば知るべし」と云へり。
一、この壽福增長の嗜みと申せばとて、ひたすら、世間の理にかかりて、もし、欲心に住せば、これ、第一、道の廃るべき因縁なり。道のための嗜みには、壽福增長あるべし。壽福のための嗜みには、道まさに廃るべし。道廃らば、壽福おのづから滅すべし。正直圓明にして、世上萬徳の妙花を開く因縁なりと嗜むべし。
およそ、花傳の中、年来稽古より始めて、この條々を注す所、全く、自力より出づる才覚ならず。
于時應永第九之暦暮春二日馳筆畢 世阿
子供を個別に考えるとそう思うのも無理からぬことなんだけどさ。
ずっと日本に住みつづける気なら、自分が生産できない年齢になった時に、暮らしてゆくのに必要な財やサービスを生産するのは、その時点の日本の生産者じゃん。極端な話、それまでに日本経済が破綻してたらいくら金持ってても必要な物やサービスが買えないっしょ。
その将来の日本の生産者にはバリバリのエリートも底辺のDQNもいるだろうけれど、総体として健全な経済が維持されてないと困らない? 例えば無教養、極貧の底辺層が増殖して経済を引きずり下ろすような状況になってたらまずいでしょ。となるとインフラとしての育児や教育を総体的に維持することは不可欠でしょう。
まあ、上澄みだけを掬って彼らが将来の経済を支えてくれることに賭ける、っていうのも方針としてはありだね。その場合は、独身税みたいなのに反対するかわりに、優秀な子供を援助するような基金なり団体なりにがんがん金突っ込めるような制度を支援したらいいんじゃないか。
自分の心の穴について
「人が楽しく自分のやりたいことをやっている姿を見たい」というが、
その人は既に自分でやろうとしているんだよ
相手をみてこうしたらいいのにーというのは俺のお節介だ、しかも上から目線の
俺だったらこうするとか俺ならこうしたいと思うなー ならいいんだけど上記はそうじゃない
ってことなのだ
と言い換えた方が正確だ。
自分に空いている穴って
なんだよね
分かってるんだ
さらに悪いことには、
というまでの支配的な関係性を持ってしか埋められそうにないように思えるところだ。
支配し支配され、独占し独占されたい、そうすることで自分は満たされるのだ
ーーーという欲求が見てとれる。
これのまた恐ろしいことには、この欲求は恐らくずっと消えないことだ。
自分は自分である限り、ずっとこの欲求と付き合わなくてはいけない(ようだ)。
さてどうしよう。
ひとまずは
わからん。
自分が好きでやるというのはいいが、他人にとってそれが良いとも限らないと。
自分の欲求を満たすための相手を単眼的にというか、一人に、おっかぶせようとしているような自分に気づいている。しかも自分に自信があるわけでもない、ひどく矛盾している。
- 色んな異性と同時に出会いまくる→自分の欲求・利害に合う相手が見つかるかもしれない。
- 欲求を自分自身で満たす?(それこそ矛盾してて無理に近いことだが)
どうにかして克服できないものだろうか。
この惑星のある広い一圏域で信じられていることである。だれもこの起源を知らぬ。だが何千年の時を経た今でも信ぜられている。
これらを循環させ、そして、組み合わせ、12×10÷2で一巡させる。
10のエレメンツはあるときはまた異なる5のエレメンツの兄弟としても捉えられ(5×2)、あるいは方角を示す要素としても用いる。
十方位から吹きこむ風と考えることができる。
いくら科学文明が発展しようとも、こうした循環論理を人々は大切にして、例えば1年ごとに来年の神獣をうらなう。
誰がいつ定めたのかも知らぬこの神獣を、人々はこころから信じている。
どれだけ社会科学が発展し、貧困からの格差が次第に減少し、男女の社会性の差違が次第に解消され、科学に対するリテラシーが発達する時代になっても、
例えば年始の賀状にその次の年の神獣を書いては顰蹙を買うし、例えば旧年の神獣をデザインしても笑われる。
実はこれは、神獣とエレメンツとが循環しているのではもちろんなく、人々の認識が過去から未来へと連続している証左だ。
いつか、私たちが石器時代の精神性を忘却してしまったのと同じく、これの意味を忘れるときが来るかもしれない。だがそれまで、60年120年180年300年720年1200年36000年と続いて行くし、そう続くと今の私たちは想像できるのだ。
荘子は先秦(戦国時代)における最も特異な思想家のひとりである。
彼は孔子を祖とする「儒家」の人々が強調する仁義道徳をこざかしい人
間の作為として排斥し、あるがままにあること――「自然」を愛し、何
ものにもとらわれることのない精神的自由の境地――「道」の世界にあ
こがれをよせた。しかも彼はその思想を、彼一流の風刺や皮肉や寓言に
託して表現したのである。その著『荘子』の中の「天地篇」にあるこの
話も、そうした彼の「寓言」の一つとして読むべきであって、むろん史
実ではない。
その昔、聖天子として聞こえの高かった堯が、華の地方に巡幸された
ときのことである。その地の関守役人がうやうやしく堯の前にまかりい
で、ご挨拶を申し上げた。
「おお聖人さまよ。謹んで聖人さまの将来をお祝し致します。まずは
「いやいや。」
堯は思慮深げに微笑みをたたえながら答えた。
「いやいや、わしは富を増やそうなどと夢考えてはおらぬのじゃ。」
「なればあなた様の男の御子たちが、いよいよ数多くあられますよう
に。」
「いやいや、それもわしの望まぬことじゃ。」
「はてさて。」
関守役人はいぶかしげに堯の顔をうちみやりながら訊きかえした。
「寿命と富と男子の多いことは、誰でもの望むことでござりましょう
に、あなた様だけがそれをお望みなさらぬとは、なんとしたことで
ござりましょう。」
「さればさ、男子が多くあれば、中には不出来の者も出てきおって、
かえって心配の種になる。富めば富むで余計の仕事が増えようし、
寿ければ、辱を残さねばならぬような羽目に遭うことも多くなろう
というものじゃ(寿ければ則ち辱多し)。この三事、いずれも我が
それを聞く関守役人の目にはありありと失望・軽侮のいろが現れた。
彼は堯に聞こえよがしにこう呟いた。
「ちぇっ、やくたいもない。堯は聖人と聞き及んでいたのに、今の言
い草じゃ、たかだか君子くらいの値打ちしかない男と知れた。子供
が多くともそれぞれに分相応の仕事を授けてやれば、何の心配もあ
るまいし、富が殖えたら殖えたで人に分け与えてやるならば、何の
面倒もあるまいに。本当の聖人というものは、鶉のように棲み処を
選ばず、ひなどりのように無心で食らい、鳥の飛んで跡なきがごと
く自由自在であるべきもの、世間がまともであれば、皆人とともに
その昌えを楽しむがよし、まともでなければ、我が身の徳を修めて
隠遁するもよし、千年もの長生きをして世間がいやになったその時
は、仙人となってかの白雲にうちのり上帝の郷に遊ぶもよい。病・
老・死の三患に煩わされることなく、身は常に殃なしとすれば、寿
くともなんで辱の多いことがあろうものか。」
こう言い捨てて関守は踵をかえした。見事に虚をつかれた形の堯は、
ハッと気を取りなおして後を追いかけ、
「待たれい。今しばしお手前の話を承わろうではないか。」
と声をかけたが、かの人は、
「えい、うるさいわえ。」
と一喝したまま後を振り返りもせずに、どこともなく姿を消した。
「道」の世界に生きる自由自在人――「道家」的聖人の姿を示唆しよう
としたのである。
http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20151201/sum_E1448932351189.html
このポスターの是非について論じることはしない。ここでは、この一件にも見られる、萌え絵というだけで女性差別とみなしバッシングしているように見える人々の背景と、そのような態度の妥当性について検討する。
戦後なお女性蔑視的な風潮が続いた日本において、女性性*1をメディア上で描く=男性が自らの欲望を満たすための娯楽(あるいは男性による女性の支配を追認・再生産させる手段)という側面が非常に強かった時期があり、そのような表現がおおっぴらに流通していた*2経緯がある。最近でこそそのような空気は薄れてきてはいるが、その時代を生きてきた人々にとって、女性性を前面に打ち出した表現は、子細を精査するよりも前に「女性蔑視ではないか」と身構え疑ってしまうほどには、女性性の表現を巡る当時の状況は酷かったと言える。
このような、女性性の表現に対する条件反射じみた反感を植え付けられてしまっている人々が、いわゆる萌え絵を見た時、「これを描いた男性イラストレータ*3は、彼自身または受け手たる男性*4の、女性蔑視の感情=女性全般を支配下に置かんとする欲求を満たす意図で、このような表現をしたに違いない」という予断を持ってしまっても、無理からぬことだろう。件のポスターに対する反発に限らず、萌え絵に対してしばしば起こるバッシングは、こういった人々の心性 ― 萌え絵フォビアとでも呼ぶべき感情傾向がその土壌となっているのではないだろうか。
問題は、このような女性性の表現に対する感情的反発が、時代の移り変わりによって、表現に対する批判としては失当になりつつあり、場合によっては女性に対する抑圧として作用してしまうことにある。
今や、女性が自発的な意思によって自身の女性性をアピールしアイデンティティとしている時代である*5。女性性は、男性が一方的に支配下に置いて楽しむものではなく、数多ある美的尺度の1つとして、誰もが臆面なく表明できる選好という地位に納まりつつある*6。
このような状況に至るまでの過程において、80年代から90年代、若い女性が肌を露出したファッションをすることに、多くの年配者が「はしたない」「ふしだらだ」などといった反応をした。この現象は、フェミニズムの正道からすると「男性優位な社会において女性性の発露は男性がコントロールすべきとされていたところ、女性たち自らがその発露の自由を取り戻そうとしたため、男性優位な社会を是とする保守勢力の反感を買った」という理解になる*7。ブルカ着用の義務がしばしば批判されるのも、同様に、女性性の発露を男性がコントロールし続けようとする制度として理解されるからだ。
そういう過程を経て、現在では、女性性を強調したファッションや言動に対して苦言を呈することが、逆に差別や抑圧とみなされうる。このことは、女性解放*8の流れの中で達成された一定の成果だと考えるべきだろう。
これと同じような変化が、オタク文化やオタク個々人にも起きている*9はずで、実際、女性性を前面に押し出したイラストすなわち萌え絵を自分の意思で描いている(自身の娯楽として同人活動などを通じ発表している)女性イラストレータなどは枚挙に暇がない。送り手がそれだけいるなら受け手も同じで、萌え絵を肯定的に受容している若い女性オタクも多かろう。
放送当時はナデシコを評して「女を知らない連中が作ったアニメ」と面と向かって女性から言われたけれど、今はむしろ、女性から「ユリカ可愛い」と言われたりする。世の流れは不思議なもの。
以上のような事情を踏まえれば、ある表現が女性性を強調していることのみをもって即座に女性差別的と断ずるのは誤りだということがわかるだろう。送り手も受け手も、女性性を1つの美的尺度として称揚しているだけで、ことさらに特定の女性ないし女性全般の人権を軽く見る意図は(意識的にも無意識的にも)無しに当該表現を楽しんでいるという可能性は、今の時代においては非常に高い。そのような実態を踏まえずに「このような表現まかりならん」とするのは、露出の多いファッションを楽しむ女性にブルカを強制するのと何が違うのだろうか。
もちろん、日本の社会から女性差別が消え去ったなどと主張するつもりはない。公職・要職にある人物の差別的発言は今なお頻繁に報じられるし、女性差別的な広告がメディアを騒がせることすらまだまだある。
しかし、であるならば、個々の事例において女性差別に当たる箇所を具体的に挙げて糾弾すべきなのだ。それを怠り、女性性を強調する表現は即アウトという論に終始することは、その表現を支持しているかもしれない女性たちに対する抑圧として機能しかねないし、ようやく叶いつつある女性性の男性支配からの解放という成果を毀損し、さらには女性差別の観点からの表現批判という立場全体の信頼を失墜させてしまう。現に、はてなにおいてすらフェミニズムを軽蔑する風潮が生まれつつあるのは、この手の幼稚な言説が蔓延ったことの影響が大きいように思う。
なお余談だが、ミスコンを巡る議論についても類似の問題として考えることができる。女性性が数多ある美的尺度の1つに過ぎないのなら、その尺度の高さを称揚するかぎりにおいては(その尺度で低いものを侮蔑するのでなければ)、身体能力を称揚する各種スポーツ大会や知的能力を称揚する数学オリンピックなどと同様に、問題ないものとして受け入れられるべきだろう。要は、男性の視線が女性を一方的に値踏みしてはいまいか、という匂いが疑われているのである。例えば、審査員が男性ばかりで固められていたり、女性以外(MtoFや女装趣味の男性)の参加を拒んだり、入賞経歴がTV局アナウンサーとしての採用において最重要視されたりするようなことがあれば、このような匂いはよりいっそう強く感じられるだろう。
繰り返しになるが、ある表現が女性性を強調していることのみをもって女性差別的と断ずるのは、かえって女性に対する抑圧として機能しうる。かつて当たり前のように女性性が男性の支配下に置かれていた時代ならば妥当だったかもしれないその反応も、女性性が女性たち自身の手へと取り戻されつつある現状では、女性性の発露そのものをタブー化し、結果として女性性を男性の支配下へと送り返しかねない危険すらあることに常に注意しなければならない。ある表現に女性性が見受けられたなら、そのことだけで感情的反発を起こすのではなく、それが女性蔑視の価値観から生まれたものなのかどうかを丁寧に検証したうえで慎重に論じるべきだ。
端的に言うなら、萌え絵フォビアを動機としただけの主張は(女性たちにとってかえって有害なほどに)表現批判として雑すぎる、ということに尽きる。
*1 ここでは大まかに、少女的な可憐さや熟女的な色気といった要素を含む、女性ジェンダーに特有と見做される性質全体を指す概念としてひとまず定義する
*2 ポルノメディアのようにゾーニングされた表現ではなく、広告など公的なメディアにおいてさえそのような表現がしばしば見られたし、そもそも当時はポルノメディアのゾーニング自体が今よりもずっと緩かった
*4 その絵を楽しむ女性がいる可能性を想定できない
*5 ファッションなどはもちろん、女子力という価値観が肯定的に捉えられ浸透していることもその一環として考えられる
*6 LGBT・女装男性に対する若者たちの寛容さや、前述女子力が男性にも適用しうる肯定的評価と見做されていることも、選択可能な多様な価値観の1つとしてジェンダーを捉えるこのような大きな流れの一部だろう
*7 「女性が扇情的な格好をするのは、そのほうが男性優位な社会において有利に立ち回れるからor女性蔑視的な価値観を内面化してるからだ」などと主張する者もいるが、実際にそのようなファッションを楽しんでいる女性たちにとっては言いがかりでしかないだろう
*8 あるいはジェンダーフリー
*9 一般社会における女性解放の価値観が、オタク周辺に関してだけは反映されず今なお男性優位な価値観が支配的である、と無根拠に主張するなら、それこそオタクに対する差別に他ならない
めずらしく皆静かな飲み会で、一人こっそりとはまってるワインを誰に邪魔されるでもなく楽しむことができた。
情熱的なチリもいいけど、南仏の奥ゆかしさもいい。会社にはそんなことをともに楽しめるような同僚もいなかった。
適当な理由をつけて一足先に店を出ると少しほてった頬を秋風が出迎えた。
そのあまりの気持ちよさに、家までの3駅分を歩いて帰ることにした。
飲むと音楽を聞きながら歩く癖があるのだ。
ビルの隙間を見上げると、うっすらとした雲のかかった満月と目があった。さっそくiPhoneのライブラリからドビュッシーのベルガマスク組曲を探して再生をタップした。
千鳥足とはいかないまでも、汗をかかない程度にのんびりと歩きつつちょうど楽曲が月光に差し掛かった頃、高らかなヒールの音を慌ただしく響かせながら水色のブラウスにタイトなスカート姿の女性が長い髪を振り乱しながら僕を追い抜いていった。
決して早いとはいえない時間帯。昨今の男女平等、女性の社会進出によって見ることのできるようになった風景の一つだ。そのことに僕は特に賛否を持っていない。
女性は狭い路地への曲がり角に差し掛かると、少し立ち止まりつつかばんを探りだした。そうして目当ての何かを見つけて歩き出すと同時に、女性のかばんから何かが落ちるのがわかった。
ハンカチだった。
僕からは10mほど先の出来事だ。女性はそのまま曲がり角に消えていった。
時間も時間なだけに、のんびりとした足取りですこし考えてみたが、お酒の力も手伝って僕はそれを拾うことにした。
追いつかなければそれでいいし、声をかけて振り返らなければそれでもいいのだ。
拾ってみるとそれはやわらかいタオル地で、嗅いでみたわけでもないのにそれがいい匂いであることが確信できた。
そうして曲がり角を曲がると、タイミングの悪いことにちょうど女性がマンションの入口に入ろうとしているところだった。
女性にしてみれば、住まいに入ろうとする時に見知らぬ男性から声をかけられるなんて事は恐怖に違いない。
しかも「ハンカチ落としましたよ」だなんて、今時どれだけできの悪いナンパか。
やってしまったと思いつつももう後戻りもできない。
女性を不安にさせまいとできるだけ明るい声を心がけながら、さらに現物を見せれば安心するだろうとハンカチを持った手を必死に伸ばして声をかけた。
どうでもいいことに、頭のなかで「落ちましたよ。」「落としましたよ。」「落ちてましたよ。」のどれが適切かを考えてしまったがために次の言葉が続かずに、かといってそのまま近づいていくことも恐怖を与えてしまいそうでと、ハンカチを持った手を伸ばしたまま無言でその場に立ち尽くしてしまったのだ。
完全に不審者だ。叫ばれてもしかたない。捨てて逃げるか。様々な考えが一瞬で頭をよぎる中、もっとも予想を反する反応が帰ってきた。
「あー!ありがとうございます!助かりました!」と、実に素直に喜んでいるような声が狭い路地に響いたのだ。
その声の明るさに、つまらぬことに悩んでいた自分は完全に萎縮してしまった。
恥ずかしさのあまり、相手に近づくどころか顔を上げる事すらできなくなってしまった。
それを察したのか近づいてきてくれる女性。かろうじて一瞬だけ見ることのできた顔は、屈託を感じさせない満面の笑顔だった。
ハンカチを受け取って僕の後頭部にお礼を言うと、女性はそのままマンションへと引き返していった。
その足音が少しだけ軽くなっていたような気がして、僕はすこしほっとしたような温かい気持ちになった。
後日談は期待しないで欲しい。
残念ながら、僕はその女性の顔すら満足に見ることができなかったのだ。
だけどそれから変化したことが一つだけある。
今まで僕の中で鏡のように静かな湖面に映る三日月を奏でたものと思っていた月光が、この日から満月に変わったということだ。
ついでに増田らしいオチも加えておくと、後日、この女性とそっくりな格好をした素人AVを見つけた。
ショップで作品名や女優名を記憶してXVIDEOで検索すれば十分派を貫くつもりだった僕だったが、画質と保存性のためならお金を払っても良いと思えるようになったきっかけでもある。
同じようなテーマではある。
しかし直接的に描こうとしたゆえに逆にゲルサドラや空ちゃんといったギミックに頼ることになり、その結果せっかくアニメなのに抽象的になり感性に直接訴えかける力を失ったクラウズインサイトにたいして
婉曲的に描こうとしたゆえに逆にえげつないくらい直球なアンナ錦宮や科学者さんという直感的にわかりやすいマジキチキャラを生み出せすことに下セカ。(いただきの白やこすりちゃんは超つまらないキャラだった。原作は9巻まで出ているが1巻がピークだったら嫌だなぁ)
どちらが「面白い」アニメであったかというのはもはや語るまでもない。
と、10話までは思っていたけれど10話にしてようやく盛り返したのは嬉しい。
私はすっかりリズムと同じ感覚で醒めた目で見ていた。ここまでの展開はわかりきった結末であり、爾乃美家累の浅はかさや国民のアホさを冷笑するくらいしか楽しみがなかった。高二病だった。
だが、クラウズは私がこんなものだろと決めつけていた結論よりは少しだけ先に行こうとしている。
「空気のおそろしさ」を描くだけで満足するのではなく、その空気を私たちは制御できるというテクノロジーと意思の形を示し、未来を描く、という課題が示されようとしている。
ただし、この問に対する答えははじめちゃん主導で導く場合はこのアニメの評価はやはり上がらない。
あくまで爾乃美家累の決断として、Xが述べたように人間がサルより勝ることを提示し、リズムが納得するという形を取ることは必須条件である。
作者のオナニー的な話のために、はじめちゃんとカッツェ、爾乃美家累とリズムの相剋という物語の必須構造すらないがしろにするならやはりこのアニメは駄作であったと断じるにいささかかのためらいもない。
困ったことに、爾乃美家累があきらめから立ち上がったからいいではないか、格好いい戦闘シーンで空気と戦ってるからいいではないか、という展開になるおそれがちょっとだけある。格好いい戦闘シーン、結構なことだ。しかしその要素はほかならぬこのアニメに求められているものではない。きっちりと納得行く結末を期待したい。
どうしても産みたくない人に無理やり産ませる話じゃないでしょ。
若い未婚者に意向調査するとだいたい9割以上はいずれ結婚したい、子を持ちたいとか答えるのに、結局生涯未婚が2割3割。
つまり大半は別段強い信念やら思想やら覚悟なんかなくて、なんとなく選り好みしてるうちに時間切れになっちゃたけどまあいっか一人で、みたいなぼんやり生涯未婚ってこと。
「そんな連中のだらしない生き方を許容するためにこんな過重負担の社会にするなんてどうかしてる。なんでそいつらを父母祖父母と平等に養わなければいけないんだ」と子孫が怒り狂ったとしても無理からぬこと。
実は、彼氏に何を言われたかは明確には書かれておらず、それに対する自分の気持ちしか書かれていないのだが、おそらく授業、特に課題についていけてないことについて指摘されたんだろう。
で、手伝うとか助けるとかやさしいことを言われたんだろう。
できてないことに関する理由は明白で、実力不足。基礎がなってない、と本人はうすうす気がついている。
が、基礎からやり直す気は全くない。また、そこを他人に頼ってなんとかするのもいや。特に彼氏には自分の実力不足を晒したくない。
馬鹿だよね。もう彼氏含めて周囲の人間にはそんなことバレてるのに、それでも隠したいんだね。
そして、このままでは美大で何か身に付けることもないのはわかっているけど、何か努力をしようともしていないし、今後する気にもならない。
急に顔色を変えて寝床から起き上がって、何か訳の分からぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇の中へ駆出して、最終的には虎になるしかないね。
http://anond.hatelabo.jp/20150718010134
http://greentoptube.hatenablog.com/
結局、車道は自転車警官が走れない、歩道に追いやられるほどに自動車の横暴な違法危険運転で危険になっている現状が問題。
そして、自転車インフラ整備を先進諸国でもっとも怠け続けてきた道路行政にも極めて重い責任がある。あって当たり前の自転車インフラを整備しないという恥知らずを続けてきたのだから。
本来、歩行者と自転車は肩を組んで自動車規制取り締まり強化と、道路行政への、自転車と歩行者等の弱者が円滑安全に通行できるインフラ整備を求め続けてよいのですよね。
自動車を不便にしてもやらねばならぬことです。交通の鉄則は弱者保護優先なのですから。自動車により歩行者自転車が窮屈な目にあっているのが日本の現状。
いろんなことが裏目裏目に出ているのもそうだろうし、パラダイムが変化してしまったのもそうなんだろうが。
地上波デジタルになって第3列が2軍かしてしまったのが痛いんじゃないだろうか。
第3列というのはリモコンの並び順だ。
第1列が、
第2列が、
第3列が、
第4列が、
になっている。
第4列と千葉テレビとMXはあらかじめ意識からは切り捨てられている。まず、観ることはない。そうなると民放「主要」4局のうち、3局までが第2列に集中しているわけで、第3列の二軍感が否めない。面倒で第3列以下にはそもそも触手が伸びない。
アナログ放送の時代は第4列に、テレ朝とテレ東があったので、第3列のフジは「真ん中」感があったのだが、テレ朝とテレ東が移動したことで、第3列は辺境感がただようことになった。
どうもこのことがボディブローのようにきいているように思える。
もちろん、番組の質という問題もあるにしても、それで言うなら他局もたいしてかわらない。テレ朝は、「相棒」や「科捜研の女」などで長期シリーズのドラマを多数抱えることで視聴率の安定を図るという独自路線をとっているから、テレ朝が好調な理由は説明できるが、日テレはともかくTBSがフジよりもマシだとは到底言えないのだ。それでもフジにより強く負荷がかかっているとしたら、番組の内容以外の理由がフジ低迷の理由として挙げられる必要がある。
私はそれはチャンネルの並び順のせいだと思う。
主 文
1 刑訴法435条6号所定の理由による本刑事事件の再審を開始する上,平成24年(あ)第736号殺人,死体遺棄被告事件平成26年10月16日第一小法廷判決を取り消す。
理 由
弁護人谷口渉,同黒原智宏の再審請求理由は,本件は,平成22年(2010年当時)前後の宮崎県内は,いわゆるキラキラネームなどの流行により,母親や義母,子供らが動物化して騒いでおり,誹謗中傷などほとんど犯罪同然の行為を為しており,被告人としてこれを殺害しなければ自分の尊厳を保持し難い特殊事情があり,これが刑訴法435条6号にいわゆる原判決より軽罪を言い渡すべき新規証拠に当たるから,再審を請求するというものである。
本件に対する平成24年(あ)第736号殺人,死体遺棄被告事件平成26年10月16日第一小法廷判決は,被告人が,早朝,自宅において,同居していた長男(当時生後5か月),妻(当時24歳)及び義母(妻の実母,当時50歳)の3名を殺害し,その後,長男の死体を土中に遺棄したという殺人,死体遺棄の事案について次のように評価した。その経緯,動機は,被告人が,本件の約1年前に妻と結婚した当初から義母とも同居していたところ,義母が,被告人に対して,説教や,叱責,非難を繰り返すことに嫌気がさし,義母との同居生活から逃れたいと思い悩んだ末に,その手段として義母を殺害しようと考え,そのことによる逮捕を免れるためには妻も殺害するほかなく,乳児である長男も妻と一体であると考えて,家族3人の殺害を決意したというものである。被告人に対する義母の言動には,結婚前後のことなど,被告人としては既に解決したと考えていた問題を繰り返し引き合いに出して非難するものや,被告人の両親に対する非難を理不尽に被告人に向けるものがあり,その口調も激しいものであったから,若年の被告人がうまく対処できず,義母から逃れたいと考えたこと自体には同情の余地があるものの,そのような事情で義母を殺害し,さらに妻子の殺害まで決意するというのは,余りに短絡的であるし,自らの自由を手に入れるために家族3人を殺害したという点で,甚だ身勝手なものである。各殺害の態様も,長男については,その頸部を両手で絞め付けて瀕死の状態にした上,全身を浴槽の水中に沈めて窒息死させたものであり,妻については,その就寝中に洋包丁を手にして襲いかかり,目を覚ましたところを,その頸部を同包丁で突き刺し,助けを求める声を上げても意に介さずに,後頭部をハンマーで5回くらい殴打し,頭蓋骨を粉砕して脳挫滅により死亡させたものであり,義母についても,目を覚まし立ち上がっていたところを,その頭頂部にハンマーを振り下ろして殴打した上,倒れてからも後頭部を更にハンマーで3回くらい殴打し,頭蓋骨を粉砕して脳挫滅により死亡させたもので,いずれも,強固な殺意に基づく,執拗で,残虐なものである。また,被告人は,本件の数日前に3名の殺害を決意し,その方法を考えた上で,犯行前夜には職場の倉庫から上記ハンマーを持ち帰るなどしており,本件は相当に計画的な犯行であるし,3名殺害後は,勤務先の資機材置場に穴を掘って,長男の死体を埋めて遺棄したほか,埋めきれなかった妻と義母については,強盗犯人に殺害されたと装うべく,部屋が荒らされた様子を作出し,貴重品を持ち出して草むらに隠匿するなどもしており,殺害後の情状も悪い。3名の殺害という結果は誠に重大であり,義母の母ら遺族が厳しい処罰感情を示しているのも無理からぬことである。以上の事情を踏まえると,被告人が義母から逃れたいと考えたこと自体には同情の余地があること,被告人に前科はなく,犯罪性向が強いとはいえないこと,被告人が反省の態度を示していることなど,被告人のために酌むべき事情を十分考慮しても,その刑事責任は誠に重大であり,被告人を死刑に処した第1審判決を維持した原判断は,当裁判所もこれを是認せざるを得ない。
しかしながら,弁護人等による再審請求理由によれば,本件が発生した当時の日本社会特に本事件発生地である宮崎県などにおいては,土着的な卑猥な感情を表現するサインを漢字の読音や印象を借りて表現する所謂キラキラネームや,国家社会が正常に機能しない結果,母親,祖母,子供などが教育により得ていた理性を失却してその本来の土着的情念を取り戻し,卑猥な情念を生成し,一見正常な日本語に類似するものの,それとは判然別物の特殊なサイン等により被告人らを誹謗中傷していたというような状況があり,本件が発生する平成22年以前から,社会全体に理性が失われ,日本人本来の土着的感情や,それを表現するサインが蔓延しており,理性を保持する被告人として,そのようなサインを用いて被告人を叱責罵倒したり,暴動を起こす妻や長男,義母を殺害しなければ,これらの勢力に正常な理性を去勢されて人間としての生活が立ち行かなくなると考え,国家等が機能しなくなるや即座に教育された理性を失却し,その本来の土着的情念を取り戻し,警察が犯罪と認識しない卑怯な手段により正常な人間を誹謗中傷したり,騒擾を起こす動物と化した妻,義母,長男らの社会的人間としての裏切りや非人間性に絶望し,斯かる屑畜生のような人間は,主としてそのような人格の発生する脳自体を破壊して殺すに如くはない,如上の土着的情念の根源たる長男である乳児は斯かる土着的情念の発生根源たる女性である妻や義母などと一体であると考え,これらの殺害を決意し,長男の頸部を両手で絞め付けて瀕死の状態にした上,全身を浴槽の水中に沈めて窒息死させ,妻については,その就寝中に洋包丁を手にして襲いかかり,目を覚ましたところを,その頸部を同包丁で突き刺し,助けを求める声を上げても意に介さずに,後頭部をハンマーで5回くらい殴打し,頭蓋骨を粉砕して脳挫滅により死亡させ,義母についても,目を覚まし立ち上がっていたところを,その頭頂部にハンマーを振り下ろして殴打した上,倒れてからも後頭部を更にハンマーで3回くらい殴打し,頭蓋骨を粉砕して脳挫滅により死亡させ,また,被告人は,本件の数日前に3名の殺害を決意し,その方法を考えた上で,犯行前夜には職場の倉庫から上記ハンマーを持ち帰るなどしており,3名殺害後は,勤務先の資機材置場に穴を掘って,長男の死体を埋めて遺棄したほか,埋めきれなかった妻と義母については,強盗犯人に殺害されたと装うべく,部屋が荒らされた様子を作出し,貴重品を持ち出して草むらに隠匿するなどもしているが,これは当時から警察組織も形骸化していて,被告人が正義の行動に及んでもそれを正義の行動と警察が理解せず,自分を死刑相当の殺人容疑で逮捕するであろうと察知して作為したものであることが明らかであり,全体において止むを得ない行動であったことは明らかであるが,たといこの被害者のように国家が機能しなくなるや直ちに教育された理性を失却し,世間の流行に任せて土着的な卑猥な情念を生成し,当時の警察が犯罪と理解しないような卑猥な感情のサインの表現手法によってあらゆる犯罪を遂行せんとしていたような屑畜生にも劣る者と雖も一応過去には理性のある人間であって社会に貢献したこともある人間であり,しかも被告人は3名もの人間を殺害しているのであるから,如上のような状況を勘案しても,被告人が殺人行為を犯したことは間違いない。また,たとい被告人が如上のような理由により本件3名を殺害したと雖も,当時国家が機能していなかったことについては国家にも責任があり,被告人が父親として妻や長男,義母を統制できなかった責任を無視することはできず,また,被告人は,単に自己を含む一般社会の正常な人間の理性が去勢されない為だけの理由で本件犯行に及んだのではなく,多少なりとも被害者等に対する人間的嫌悪の情があったものであって,動機に不純な部分もあり,刑法199条所定の殺人罪の法定刑の下限は懲役5年であることから,いかに被告人が止むを得ない理由により本件行為に及んだと雖も,例えば国家非常事態であったから超法規的に被告人を無罪とすることも,上記責任や不純な動機からすると困難である。少なくとも再審請求は当時の社会状況という新規証拠があって正当であり,原判決のした死刑判断が不当であることは明らかであるが,右の理由で被告人を刑法199条に従って処断せざるをえない。しかし,被告人が殺害した人間は,如上の如く人間性の欠片もない人間であるから,犯情は著しく軽く,被告人を法定刑の下限である懲役5年とするのが相当である。また,我が刑法の法制上,刑法25条により執行猶予を附することができるのは懲役3年以下に値する犯罪のみと規定されている為,法定刑の下限が5年である殺人罪を犯した者には,いかにその犯情が軽くとも執行猶予は附しえない。
依って,弁護人らの再審請求は理由があるからこれを認容することとし,被告人を懲役5年の実刑に処することとし,主文のとおり判決する。