めずらしく皆静かな飲み会で、一人こっそりとはまってるワインを誰に邪魔されるでもなく楽しむことができた。
情熱的なチリもいいけど、南仏の奥ゆかしさもいい。会社にはそんなことをともに楽しめるような同僚もいなかった。
適当な理由をつけて一足先に店を出ると少しほてった頬を秋風が出迎えた。
そのあまりの気持ちよさに、家までの3駅分を歩いて帰ることにした。
飲むと音楽を聞きながら歩く癖があるのだ。
ビルの隙間を見上げると、うっすらとした雲のかかった満月と目があった。さっそくiPhoneのライブラリからドビュッシーのベルガマスク組曲を探して再生をタップした。
千鳥足とはいかないまでも、汗をかかない程度にのんびりと歩きつつちょうど楽曲が月光に差し掛かった頃、高らかなヒールの音を慌ただしく響かせながら水色のブラウスにタイトなスカート姿の女性が長い髪を振り乱しながら僕を追い抜いていった。
決して早いとはいえない時間帯。昨今の男女平等、女性の社会進出によって見ることのできるようになった風景の一つだ。そのことに僕は特に賛否を持っていない。
女性は狭い路地への曲がり角に差し掛かると、少し立ち止まりつつかばんを探りだした。そうして目当ての何かを見つけて歩き出すと同時に、女性のかばんから何かが落ちるのがわかった。
ハンカチだった。
僕からは10mほど先の出来事だ。女性はそのまま曲がり角に消えていった。
時間も時間なだけに、のんびりとした足取りですこし考えてみたが、お酒の力も手伝って僕はそれを拾うことにした。
追いつかなければそれでいいし、声をかけて振り返らなければそれでもいいのだ。
拾ってみるとそれはやわらかいタオル地で、嗅いでみたわけでもないのにそれがいい匂いであることが確信できた。
そうして曲がり角を曲がると、タイミングの悪いことにちょうど女性がマンションの入口に入ろうとしているところだった。
女性にしてみれば、住まいに入ろうとする時に見知らぬ男性から声をかけられるなんて事は恐怖に違いない。
しかも「ハンカチ落としましたよ」だなんて、今時どれだけできの悪いナンパか。
やってしまったと思いつつももう後戻りもできない。
女性を不安にさせまいとできるだけ明るい声を心がけながら、さらに現物を見せれば安心するだろうとハンカチを持った手を必死に伸ばして声をかけた。
どうでもいいことに、頭のなかで「落ちましたよ。」「落としましたよ。」「落ちてましたよ。」のどれが適切かを考えてしまったがために次の言葉が続かずに、かといってそのまま近づいていくことも恐怖を与えてしまいそうでと、ハンカチを持った手を伸ばしたまま無言でその場に立ち尽くしてしまったのだ。
完全に不審者だ。叫ばれてもしかたない。捨てて逃げるか。様々な考えが一瞬で頭をよぎる中、もっとも予想を反する反応が帰ってきた。
「あー!ありがとうございます!助かりました!」と、実に素直に喜んでいるような声が狭い路地に響いたのだ。
その声の明るさに、つまらぬことに悩んでいた自分は完全に萎縮してしまった。
恥ずかしさのあまり、相手に近づくどころか顔を上げる事すらできなくなってしまった。
それを察したのか近づいてきてくれる女性。かろうじて一瞬だけ見ることのできた顔は、屈託を感じさせない満面の笑顔だった。
ハンカチを受け取って僕の後頭部にお礼を言うと、女性はそのままマンションへと引き返していった。
その足音が少しだけ軽くなっていたような気がして、僕はすこしほっとしたような温かい気持ちになった。
後日談は期待しないで欲しい。
残念ながら、僕はその女性の顔すら満足に見ることができなかったのだ。
だけどそれから変化したことが一つだけある。
今まで僕の中で鏡のように静かな湖面に映る三日月を奏でたものと思っていた月光が、この日から満月に変わったということだ。
ついでに増田らしいオチも加えておくと、後日、この女性とそっくりな格好をした素人AVを見つけた。
ショップで作品名や女優名を記憶してXVIDEOで検索すれば十分派を貫くつもりだった僕だったが、画質と保存性のためならお金を払っても良いと思えるようになったきっかけでもある。