はてなキーワード: 抑うつとは
妻からの度重なるモラハラで抑うつ神経症となり休職を余儀なくされた後、
三号分割という年金の三号被保険者が扶養者に対して厚生年金とか2階建て部分を婚姻期間に基づいて半分請求できる制度がある。
まあ、要は、扶養されている妻とか夫とかの配偶者にも年金の権利を半分渡す制度だ
私の環境においては妻はパートこそしていたものの、いつまでに就職するという約束は反故にされ続け
私がモラハラ原因の抑うつ神経症で休職を余儀なくされた際にも妻が「金どうすんの!なんで働けないの!ふざけんな!」のように連日まくし立てた。
私は再三妻に約束通り就職してくださいと伝えたが、「私はイラストを描くのとパートでいそがしいの!」というばかりであった。
ちなみにイラストとはいうものの別にお金になっているわけでもない。趣味のようなもの
ある日夜中魘されて汗だけてベッドがぐっちょりぬれてしまうようになったときに、汗で体が冷えてしまい朝8時頃からお風呂に入っていた。
そのときに「風呂の音がうるさい!私は3時まで絵を書いていて寝ていないんだ」と言われた。
私が寝る時の0時頃まではスプラトゥーンをやっていた気がしたが、きっとその後イラストを描いたのだろう
なんであれ冷えた体のままだと風邪をひくのでその旨を伝えたら
「私が起きてから良いと言うまで風呂にもトイレにも行くな、あと家事をやる時間もないから、おまえは稼いでもないんだから家事はおまえがやれ!」
と言われた。
妻にもう一度、今私が働くことはできないので、代わりにフルタイムを働いてもらえないか聞いてみた。
でもイラストが忙しいようであった。
このような状況で離婚となっても妻は三号分割で年金の(2階建ての)半分を持って行くことができる。
約束通り就職をしていた場合請求ができないのだが、約束を果たさなかった上に三号分割を請求するらしい。
そしておそらく、そんな事情もしらない年金事務所はこの請求を通すであろう。
基本抑うつ的な性格なのだけど、恋愛(片思いでも)をしている時だけいろんなことを頑張れる。
なので、常に思い人が必要になっていて困る。
勉強やダイエット、おしゃれ、仕事、なんでも。将来にいろんな希望を持てる。半ば盲目的に。
そしてその恋が(大体において空回りして)終わると、がっくり落ち込み、無気力になり引きこもったりする。
このような傾向が自分ですごく嫌いなのだけどどうしたら変えられるのかわからない。
つい最近も、まず自分には手の届かない、付き合えるってことはないだろうと分かっている相手にフラれた。
その人に少しでも近づきたい、会話したい、その人のことが知りたい、その人と会うのにふさわしくなりたいって思って、
その人の好きな作家の本を読んだり、ジムに通ったり、勤務中もしゅっと背筋を伸ばしてはきはきしゃべるように
してみたりしてた。
フラれることは分かっていたし覚悟もしていたが、がっつり落ち込んでいて生活に支障が出ている。
無気力倦怠感、勤務態度も自覚できるほど悪くなっている。暴飲暴食不摂生も半ば自傷的だが、自分が
健康だったり清潔だったりおしゃれである意味が全く感じられなくなっている。
失恋するたび自暴自棄になって散財したりぶくぶく太ったり引きこもったりしているので、
30過ぎて何やってんだと思うのだが、どっからとっかかれば変われるのかよくわからない。そもそも今は
何もする気力がない。なんだろな、病院案件なのかな。生保の掛け金とか変わっちゃったりするのかな。
こういう時って、心療内科通ったりしていいのかな。気分転換していいのかな。この罪悪感を抱えているべきなんだろうか。しかし現実問題抱えたまんまちょっと生きていけない死にそうなんだけど死んだところで何の償いにもならないし頑張って生きた方がいいんだろうけどがんばるための諸々のためのメンタルがもうだめだけどメンタルがこうなっていることが償い?いや関係ないよね私の気持ちがどうあったって。うつ病の症状として罪悪感があるらしいけど実際悪いことした結果罪悪感をもって抑うつ的になっているこの状況は、この抑うつは解消されるべきなんだろうか?あってしかるべきなんだろうか?私がいまこうして苦しんでいることは、ただの自慰なのだろうか。なにも喉が通らず嘔吐を繰り返すのは、自己欺瞞なんだろうか。何か意味があるのか、意味があってほしいと思っているのか。つらい。
病院行っても治らないよ。
唯一、過食に有効というエビデンスのあるフルオキセチンは日本では販売承認されていない。
代わりに日本ではフルボキサミンやセルトラリンがよく使われるが、あまり効果は期待できない。
薬物療法以外で効果があるとされるのは認知行動療法だが、これを外来で実施できる医療機関は日本にはほとんどない。
認知行動療法は自分で勉強して1人で実施しても効果はあるので、セルフ認知行動療法をお勧めする。
ここまで書いておいてなんだが、元増田は摂食障害ではないのではないだろうか。
だって「食べることが楽しくて」好きで食べて太ってるんでしょ。
これを病気と言ってしまったら、世の中の食い過ぎデブはみんな摂食障害になってしまう。
私も過去に拒食からの反動で過食に走った経験があるが、食べたくないのに食べてしまう、食べることが苦痛で苦痛でたまらないのにやめられないといった激しい感情を伴っていた。味わう余裕もなく食べ物を口に詰め込むだけ。それはまさに地獄で、抑うつ状態も伴っていた。
結果、半年で20kg太り、食費のおかげで貯金はゼロになった。
私の場合、薬物療法はほとんど効果はなく、セルフ認知行動療法が非常に役立った。
正直知らなかったんだ。誰だよ。
32歳で東京在住、独身彼女なし。夢も希望もなし。抑うつ気味のおっさんです。サッカーはまぁまぁ好き。日本代表戦はカテゴリ問わずなるべく観戦、Jリーグもスタジアムに足を運ぶ。仕事の合間にカルチョまとめブログとか、Numberとか眺めながら時間をやり過ごす。世代的にアテネ五輪世代なので、嘉人とか、田中とか今ちゃん、闘莉王は胸熱。そんなしがないおっさんだ。
そして、今回の日本代表の招集で、知らない名前。加藤恒平…?誰だ、それ?と思った。良く知らないので、加藤選手の記事を見た。前半・後半を読んで胸が熱くなった。というか、泣いてた。日本サッカーに足りなかったもの、って“こういう経験”じゃねーかよと。プレーとか観たことないので、ハリルさんはどの部分で加藤選手を呼んだのか分かんないけど、加藤選手の経験も間違いなく評価してると思うんだよね。
<前半>
https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201705020008-spnavi
<後半>
https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201705030003-spnavi
永木、森重、清武、宇佐美と、去年までメインで張ってた人たちが落選しているのは、加藤選手と比べてメンタル不足、経験不足もあったんじゃないかなと思う。「悪い」って言ってるんじゃなくて「物足りない」。戦争、テロを経験したハリルさんなりのメッセージなのかもしれない。
昨日、U-20の若い才能はウルグアイに負けた。観てたけど、差は結構あった。何年か前のA代表のウルグアイ戦をなぞっているような感じだった。試合自体は拮抗してたようにも見えたけど、技術以上の差が歴然とあった気がした。
加藤選手の選出は、「その見えない差」をメンタルや佇まいで埋めてくれることを期待している部分もあるんじゃないだろうか。山口蛍、永木、原口、久保…。ハリルさんは、そうした見えないものと立ち向かえる人を求めてるんだろうな。
中学生の頃、発達障害の人達が集まる2ちゃんねるのスレを見て自分は発達障害であることを知った。
そこに書かれていたのは社会に出た後の発達障害の心の叫び、阿鼻叫喚の図だった。
そしてそれは恐らく自分も今後否応なしに同じ道を辿るであろう、自分の人生のネタバレ。
これから自分は彼らと同じ地獄の道を辿り、最後には社会に捨てられ惨めに首を括るのか、そんな未来予想を想像するのは中高生のクソガキの精神的には少しきつすぎた。
心療内科に行くと発達障害の副作用的な抑うつ症状だと診断された。
なんやかんやで口からでまかせ言って就活はなんとかなった。趣味でプログラミングをやっていたのがよかった。
頭が悪い上学歴もないので大手とかはそもそも諦めていたが、なんとか地方の小さなIT企業に入れた。
まあこんな茶番みたいな就職したところで2週間くらいで首になるか首を括るかするものかと思っていた。
しかし予想に反して、なんやかんやで4年くらい続いてしまった。今年度で社会人5年目。思ったよりなんとかなってしまったのだ。
更に社会の中でいろんな人と触れ合う中で、いつの間にか希死念慮とかも心から小さくなっていることに気づいた。
・間に挟まってる社会的意義が全くない(むしろ社会悪に近い)3次請け案件の某2次請け企業
・3年目でずっとWeb系の下流工程にいるはずなのにJOIN句も知らなかった先輩社員
・ドキュメントのバージョン管理どころかRedmineすら使いこなせないSIer共
・etc
自分が死んだ方が良い社会のゴミであることは今でも間違いないと確信している。
でもよかった。
東大医学部の面会交流論文が、話題となっている。http://www.scirp.org/journal/PaperInformation.aspx?PaperID=74779&#abstract
DVを行ったとされる父親との面会交流を行っている子どものほうが、行っていない子どもよりも、ひきこもりや抑うつなど、精神的問題、行動上の問題を抱えやすい、という論文である。
この論文は、フローレンス・駒崎弘樹氏が3月末にそのブログで、面会交流によって子どもの心が壊される、という彼の主張を裏付ける「エビデンス」として紹介したことを皮切りに http://blogos.com/article/215491/ 、4月末に行われた「当事者の声を国会へ」と題する衆議院第一会館での院内集会や、「「国連・人権勧告の実現を!」実行委員会」による「第20回学習会 ハーグ条約と親子断絶防止法案」 http://jinkenkankokujitsugen.blogspot.jp 等でも取り上げられたようであり、さらに5月5日には産経新聞にも紹介された。
つまり、これは、現在、国会議員らによって提出が検討されている「親子断絶防止法」の策定を左右しうる重要論文である。
日本では、別居親と子どもの面会交流は、家庭裁判所が間にはいる場合、月1〜2回、4時間程度できれば良い方で、高葛藤や面会拒否が強い場合は月1回に2時間未満のことが多いと思われる (参考: http://oyakonet.org/documents/report_h2308.pdf )。DVがあったとされる父親であれば、その頻度・時間はさらに減少するだろうし、FPICのような第三者機関の補助を得て行うことがほとんどで、面会交流時にDVあるいはそれに近いような行為をすることは稀であると考えられる。父親も子どもを愛おしく思い会うでのあるから、短い時間の中ではその子どもを喜ばせようとすることが多いであろう。そのような状況で父親に会うだけで、本当に子どものひきこもりや抑うつの危険性が高まるというような因果関係が本当にあり得るのだろうか?
そこで、研究論文を読むことのできる有識者にこの論文を読んで学術的に評価してもらった。そうしたところ、この論文は、きちんとした学術研究のレベルに達していないひどい代物であるようだ、ということがわかってきた。
研究対象としている母親の数がわずか38名、面会交流を行っている子どもの数が19名、面会交流を行っていない子どもの数が30名と、この種の簡易なアンケート形式の研究としてはNが圧倒的に少ない。混交要因の統制が全くなされていないどころか、群毎の基礎的統計の記載すらない。各群の基礎的な数値(Demographic characteristics)が両群でまとめて書かれてしまっていて、分けて記載されていないのである。つまり、母親の学歴・収入、精神疾患罹患の統計値、離婚の有無、別居からの経過年数、子どもへのDVの有無・程度などが、各群で分けて記載されていない。加えて、両親間の葛藤の強さ、裁判・調停・審判などの有無、なども混交要因として示されるべきであろう。これらの混交要因候補の指標のうちいくつかについては、この程度の少ないNであれば、各群で偏りが出てしまうことのほうがむしろ普通である。本来、これらは分けて記載すべきなのに分けてないということは、これらのどれかで差が存在してしまっているので、それを意図的に隠蔽している可能性もかなりあると推定される。対象の被験者集団は非常にヘテロな集団で、僅かなサンプル数しか取得していないにも関わらず、これらの指標について群ごとに示していないようなものは、まともな調査研究と言えるレベルのものではない。
「面会交流を行っている子ども」が父親と面会交流を行っている頻度の平均が、なんと僅か平均2.2回/年。Nもたったの19名。そのSDが2.2でレンジが0.5回~6.5回/年。年間2.2回というのは半年に一回しか会わないということであり、年間0.5回の面会交流というのは2年で一回しか会わなかったということ。しかも、この研究では、DVをしていたとされる父親との引き離しからの平均年数が6.9年も経っているのである。仮になんらかのDVがあったとして、引き離し後に7年もたったあとの、そのような僅かな回数の面会交流が、引きこもりや抑うつのリスクを統計的に有意に上げることは、常識的に極めて考えにくい。
この研究は、質問紙を使ったアンケート形式のもの。回答を行ったのは子ども本人ではなく、DVを受けたと称している母親。最近のことであるので、当然、親子断絶防止法のことも知っている母親が多いであろう。回答者が研究の(政治的な)目的を知った上でバイアスのかかった回答をしている可能性があり、そのような可能性を排除するような工夫が全くなされていない。
方法によると、リクルートされた69名の母親のうち、8名が「精神疾患に罹患している」という理由で除外されている。除外されていない回答者の中にも精神に問題がある人がいるようであるが、除外の明確な基準は何か?都合の良い恣意的な除外なのでは?また、回答した60人のうち、22人が、「質問に全部回答できていなかった」という理由で除外されている。合わせると実に35%もの被験者が除外されているのである。このような被験者数がごく僅かの調査において、全ての質問に回答しなかった、という理由のみで除外することが許容されるのか?この研究では、各質問について統計解析を行っているのみで、それらの統計を行う上で、「質問に全部回答する」ということは全く必要とは言えない。つまり、除外する必要がない人を多数除外しているのである。これは、後付で、そのように除外することによって「有意差」が得られるからではないのか?
このジャーナルを出している出版社はいわゆるpredatory open access publisherに分類されている。以前、過去にどこかで発表された論文をたくさん集めて無断で掲載していたことをNature誌に報道されたこともあったり、意図的にでたらめな論文を作成し投稿された論文を掲載してしまったり、無断で研究者を編集長として掲載していたり、という前歴のある「ならずもの出版社」の一つ。 https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_Research_Publishing 当該の論文を掲載しているOpen Journal of Nursingも編集長を調べると、教育しか行っていないような大学教員であり、責任著者としてはこの10年で1報しか論文を出していないような人である。このジャーナルは、医学生物学文献の権威あるデータベースPubMedにも、もちろん掲載されていない。この出版社のジャーナルではまともな査読がなされていない可能性がかなりあり、筆者らの所属大学を筆頭とする多くの日本の大学が、この出版社をうまく利用してしまっている事実が指摘されている。https://science.srad.jp/story/15/12/07/0554222/
上記の各ポイントは他の標準的査読が行われている科学雑誌では指摘されるのが当然であり、普通はこのままでは受理はされない。であるからこそ、このような出版社のジャーナルから発表している可能性が高い。
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以上のような深刻な問題を抱えている論文であるため、その有識者は、この論文の著者にデータの開示や、群毎の基礎的統計の提示を求めるなどの連絡を責任著者に対し行った。当初、責任著者からは何の返事も得られず、そのため、その責任著者の所属の学科長にも連絡を行った。それでも何の返事も得られなかったため、所属大学の「科学研究における行動規範に係る不正行為に関する窓口(本部)」に通報を行った。
文部科学省の「研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン」
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/26/08/__icsFiles/afieldfile/2014/08/26/1351568_02_1.pdf
「研究者に対して一定期間研究データを保存し、必要な場合に開示することを義務付ける規程を整備し、その適切かつ実効的な運用を行うこと」
を義務付けている。
「国立大学法人東京大学における研究活動上の不正行為の防止に関する規則」
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen01/reiki_int/reiki_honbun/au07410491.html
には
「研究者は、研究活動の正当性の証明手段を確保するとともに、第三者による検証可能性を担保するため、文書、数値データ、画像等の研究資料及び実験試料、標本等の有体物(以下「研究資料等」という。)を別に定めるところにより適切に保存し、開示の必要性及び相当性が認められる場合には、これを開示するものとする。」
とある。
当該論文は、国の立法に影響を及ぼすことを目的として各所で用いられているのであり、データとその解釈に科学的に正当な疑義が提出されており、また開示しない特別な理由もない以上、データ開示の必要性があるのは疑いがないところであろう。
つまり、この定義によると、再三のデータ開示の求めにも応じず拒否し続ける責任著者らが、この規則に違反しているとみなすこともできるであろう。つまり、この規則によれば、この論文の著者らは、ある種の不正行為を行っている可能性があることになるのである。
この通報後、窓口担当者らは、本件について医学部長らと議論し、その結果、この論文の責任著者はその有識者に回答のメールを送付した。しかしながら、その回答には、
・倫理委員会で承認された研究手続きを逸脱することになるのでデータは開示できない、
・混交要因の候補の変数について両群で比較した結果、有意差はなかった(実際の統計値の提示は全く無し)、
・その他は、科学者コミュニティーでオープンに議論すべきなので、当該Journalにletters to the editorとして質問せよ、
との主旨の内容があるのみで、リクエストや指摘の重要ポイントについては、実質的な回答は全く得られなかった。
その有識者は、4月26日にその論文のウェブサイト上のコメント欄に上記ポイントについて書き込みをした上、議論を行うよう著者にメールにて依頼を行ったが、著者らからは、5月9日現在、何の返事や回答も得られていないとのこと。
http://www.scirp.org/journal/PaperInformation.aspx?PaperID=74779&#abstract
著者らの誠実な回答と、著者らの所属大学による速やかで適切な対応が期待される。
その有識者は、こんなことを言っていた。
「科学の基本は「エビデンス」ではないのか?そしてその「エビデンス」とは、データそのもののことではないのか?そのデータがなぜ有識者にすら提示できないのか?連結不可能匿名化されたデータであれば提示はできるであろうし、すくなくとも重要な混交要因候補について各群ごとの統計数値のテーブルくらいは提示すべきではないのか?
データ不在で第三者による検証ができないような「科学」は、もはや「科学」とはいえないのではないか。それは控えめに言って疑似科学、さらに言えば、科学の名を借りたカルトである。そんなものに、国の立法が影響を受けること、そして多くの人々の生活が影響されることがあってはならない。」
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以下、5月15日追記。
「ブログの文章を読む限り、分析の妥当性をめぐる疑問のように思われました。そういうことを、「不正」などと言ってはいけないと思います。」
との指摘をツイッター上でいただいた。
しかし、このブログで指摘した不正の可能性は「分析の妥当性」についてではない。指摘したのは、リクエストに応じてデータを開示しないことについての不正の可能性である。
「研究者は、研究活動の正当性の証明手段を確保するとともに、第三者による検証可能性を担保するため、文書、数値データ、画像等の研究資料及び実験試料、標本等の有体物(以下「研究資料等」という。)を別に定めるところにより適切に保存し、開示の必要性及び相当性が認められる場合には、これを開示するものとする。」
とあり、これに違反しているのではないか、という指摘である。この点、ご留意いただきたい。
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以下、5月29日追記。
「東京大学大学院の研究グループが面会交流による子どもへの影響などを初めて調査した結果だ。」
「面会交流は子どもにとって良いことだと言われるが、DVがあった別居親との面会では、こどもたちは長期にわたり悪影響を受けている。」
などと、面会交流が子どもに悪影響を与えたと因果関係として紹介されている。
しかしながら、当該研究は単なる相関を調べた調査であり、しかも上記のように混交要因についてきちんと吟味されておらず、(仮にデータそのものが正しかった場合でも)因果関係については主張することは極めて不適切である。相関と因果関係の区別をしないという、基本的な誤りをおかしているといえる。
以下、6月28日追記。
春名氏による当該の論文サイト上での回答を受け、親⼦ネット、中部共同親権法制化運動の会、親⼦断絶防⽌法全国連絡会などが連名で、東京大学の窓口に不正疑惑の申立を正式に行った。
「全国連絡会は構成団体及び杉山弁護士、石垣臨床心理士と連名で「春名めぐみ 東京大学大学院医学系研究科准教授」の論文に対する下記申し立てを同⼤学科学研究⾏動規範委員会に対して行いました。」
俺とまったく同じことをやっている奴が他にもいて驚き。これに「アホアホアホ」って言うのを加えると肋間筋が刺激されて肺の隅々まで酸素が行き渡って抑うつ気分がマジで吹っ飛ぶ。
「私が」ではなく、「周囲の人が」困ったり、迷惑をする時の感情に思いを馳せる力。それはすなわち、他社の感情に寄り添う「共感力」に他ならない。
これは「定型」発達者が、成長の過程でおのずから身につけてゆく力だ。
最近は、職場で発達障害の疑われる同僚に接するようになり、障害の様々な態様について関心を持つようになったのだけれど、
そんな中、発達障碍のある人の手記を読むと、この力がポロリと欠け落ちているように感じられることがある。
「私」がこう思った。「私」は、こんなふうに苦労した。だから「私」は今、こんなふうな生き方をしている、等。
論証の視座が自己に偏っていて、どこか一人称小説を読んでいるような気分になる。
特にアスペルガー症候群と診断された人の手記には、この傾向が色濃く出ている。
「アスペルガーの私が、マルチタスク命!のコンビニで働いた結果…」
https://h-navi.jp/column/article/35026205
→著者ヨーコ氏の他の記事も参照
敗れた側のスポーツ選手はいう。「こんなに応援してもらったのに、応えられなくて申し訳ない」と。
オリンピックやワールドカップで、また欧州のサッカー選手や監督がそういった反省の弁を口にしているのを見ることがある。
だから、この「申し訳ない」という感情は決してこの国特有のものではないのだろう。
そして、このような反省と悔恨を述べた後、選手や監督が次に口にするのは「だから、次はもっと努力したい」という言葉だ。
このとき「申し訳ない」気持ちは、周囲に迷惑をかけないために、または、誰かの期待に応えるために、その原動力として働くようになる。
こうすまい、ああすまいと、「自分以外の誰か」にとってよくない結果を避けようと努力し、自らを発達させるエネルギーを生み出す。
自分のせいで落胆したりや辛酸を舐めることになる他者への共感=「申し訳ない」という感情が出発点となり、人は成長・発達を遂げることができる。
こんなことを書くと、発達障害で苦しんでいる当人に、さらに罪悪感を持たせようというのか、という意見もあるだろう。
それは確かにそのとおりだ。
このような「申し訳なさ」に至る=気づくためのメソッドや治療方法があるとしたら、それは前出のような手記を書くことのできる状態の発達障害のある人にとって望ましいものだろう。
少なくとも、自分がこの世に存在することが申し訳ないというような、極度の抑うつ状態にまで達している発達障碍の人には、すでに禁忌である。
私のような素人が、決して軽々しく日常生活に応用していいものではない。
しかし、こちらもまた感情ある人間であって、ふとした瞬間に、相手に対して非難めいたことばを掛けることを制御しきれないのも事実だ。
ここで主張したいのは、こういった発達障害のある人から「申し訳なさ」を引き出すような問いかけ・コミュニケーションを一概に否定するのではなく、
時には負荷をかけることが有効な場合もあるのでないか、ということだ。
罪悪感という負の感情を克服するために、克服したいという意思を持つがゆえに、人は自らを発達させようともがく。努力する。
「申し訳ない」という感情に含まれる、他者の存在と距離を感じるところから視野が拓かれ、自らの発達障害に深い理解が及び、ひいては、その克服に至ることがあるのではないか。
以上のようなロジックで「申し訳なさ」を引き出すことが発達障害のある人のためにもなるという主張をしてみたいと思う。
望むべきは、私自身がもう少し発達障害の疑われる同僚に気を使ったり、自らを押し殺したりすることなく、時に軽やかに時に遠慮なく、モノを言えるようになることだ。
発達障碍のある人の周囲の人間の負荷。
まったく陽のあたらないこの負担を担ぎながら、私もまた、私自身を視座の中心に据えて、こんなレントシーキングまがいの呟きをしている。
発達障害を望ましい個性であるとか、多様性の発露であるとかいった主張だけは受け入れられない。発達障害が克服・改善されない限り、かならず誰かが負担をこうむるのだから。
以上。徒然おわり。
生活保護を受けるのに精神科通院歴があるかどうかはまったく関係ない。
あとな、適応障害(抑うつ状態)で休職するのはもはや当たり前のことではなくなってきている。
軽症うつ病ですら最近では休職することの弊害が判明してきて、安易な休職は勧めない方針になってきている(詳しくは日本うつ病学会のうつ病治療ガイドライン最新版を参照)。
ましてや適応障害(抑うつ状態)は、明確なストレス因があり、うつ病の診断基準を満たさない場合につけられる診断名だ。
なので「うつ病系統の病名ついた!→ゆっくり休職しなきゃダメ!」という発想はだいぶ時代遅れです。
総合病院のソーシャルワーカーさんだろうから精神疾患に詳しくなくても仕方がないですが、コモンな病気のガイドラインくらいは読んでおいてほしい。
今日母親が階段で首吊り自殺をしようとしていた。階段のところにあるオペレーター式の窓のチェーンに首を括り付けてそのまま階段から滑り落ちて首を吊ろうという魂胆だったらしい。
私は二階にある自室にいて、やたらバタバタと階段の方が騒がしいな、と思ったので様子を見に行ったら、無表情でチェーンを首に巻いた母親がいた。母親の首には赤い跡が付いていて、「もうこうするしか方法がない」と言った。私は驚きよりも悲しみや怒りや呆れといった感情を強く抱いた。
母親が自殺未遂をしたのは、たぶんこれで5回目。たぶんというのは、嫌な記憶が忘却されつつあって覚えている範囲でも曖昧な部分があるからだ。5回という数字を客観的に見ると、多いなと思うし、でもその数字以上に考えさせられることはたくさんある。
今回の自殺企図をする前も、私は母親と明日通院している心療内科にかかりに行くことを約束した。私の記憶が正しかったら、前にこういうことがあった時にも、もうしばらくは自殺しようとしないと二人で決めていた。「自殺しないとはっきり約束してもらう」という対策法をどこかで見てから実践している。けれど、その決まりごとはは毎回破られる。その度に私の心は折れる。
自殺をしようとする人に対して、掛けてはいけない言葉がある。自分の意見を押し付けずに話を傾聴しましょう、とかこういう対応の仕方をしなければいけないみたいなマニュアルのようなものがあることは知ってる。でも、それを遵守できるのは、心が病んでいない人間だけのように思える。少なくとも私は、繰り返される自殺未遂に疲れてしまって、母親が希死念慮を強く持つたびにもういっぱいいっぱいで、抑えていた気持ちが怒りとなって爆発してしまうようになった。自分がダメなことは分かっているけど、それをどうしていいか分からない。
母親は「うつの気持ちはうつになってみないと分からない」と言うけど、うつ病患者の近くにいる人の気持ちもも、その立場になってみないと分からないと思う。
躁鬱とまではいかないが、母親は気分の変調が激しい。数週間前まではテレビを見て、家事をして、と日時生活を普通に遅れるのに、少し躓くと抑うつ傾向になってどんどん気持ちが落ち込んでいっている。体調が良いときはどこにでもいる普通の母親みたいなのに、体調が悪くなると過去に何度も自殺未遂をした希死観念の強いうつ病患者の顔になる。その変容の激しさも自分の心の波が一定にならなくなってしまった原因のひとつだと考えている。
そして私は、母親が自殺未遂をしたなんてことを微塵も感じさせない笑顔を作って新学期を迎えて、友達に会う。
自殺を試みる人は、何度だって自殺しようとするし、止めることができなくても、それがその人の寿命なんだと捉える考え方もあるらしい。
自殺を止めて、それで苦しみながらも生きて、また死にたくなって。死んでしまうのとどっちの方が辛いんだろうと最近になって考え始めた。
中年になってるなら、更年期障害系かも、あと子供の頃からそういう症状であればADHDかも。
とりあえずは、健康を損なわないように。
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追記:ごめん、最後まで良く読んでなかった。誰にも理解されないまま、表面上取り繕っていた系ですか。
これから、4月からは人との出会いも増えるんで、余計にストレス貯まるかもね。
忘れっぽいとか集中できないとかの症状であれば、次のサイトを読むとか。
https://susumu-akashi.com/2015/01/adhd-3/
簡易の心理検査を受けた上で、今の症状を紙に書いて話しやすいようにまとめて、心療内科・精神科へ。
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一度、適応障害や抑うつ状態になると、直すのが結構大変なので。
いままでずっと行けなかった精神科に行ってきた
それはいいんだけど何か診断ついたら楽になるんじゃないのかと思ったけど全然そんなことないというか
先生の反応からなにから、「大したことないのに大げさに振る舞ってるだけ、誰でもあることなんだからしんどいのは気のせいだし甘えてるだけ」と言われてるような気がして全然落ち着かない
自分の状態を説明するのにスマホにメモってそれ見せたけど、それがもうおかしな行動なんじゃないかとか
自分の振る舞いがおかしいんじゃないかとずっと気になってアアアアアって叫びたくなる
ていうか自分のこと聞かれて掘り下げられるとお前はおかしい、今まで何してたの?って攻撃されそうで怖くて辛い
今こうやって文章に書いたらやっぱそれおかしいしもっと早めに行っといたらよかった、って少し思えたけど、でも行くんじゃなかった……辛い……とも思う
いつもこの調子じゃなくて元気な時もあるし、一時的に落ち込んだりするのだって普通のことだしたまたまちょっと調子悪かっただけでやっぱり気のせいなんじゃないのでもそれずっと繰り返してるしなぁとかぐるぐるぐるぐる
一応薬貰ったし飲んだら落ち着くんだろうか……?
追記
反応あると思わなかったからありがとう ちょっと泣いてしまった
しかし自分の話を詳しく書いたら叩かれるんじゃないか……みたいな不安はまだめっちゃある……
とりあえず貰った薬飲んだけど効いてんのかよくわからないな。飲み続けないと駄目なんだろうね