「私が」ではなく、「周囲の人が」困ったり、迷惑をする時の感情に思いを馳せる力。それはすなわち、他社の感情に寄り添う「共感力」に他ならない。
これは「定型」発達者が、成長の過程でおのずから身につけてゆく力だ。
最近は、職場で発達障害の疑われる同僚に接するようになり、障害の様々な態様について関心を持つようになったのだけれど、
そんな中、発達障碍のある人の手記を読むと、この力がポロリと欠け落ちているように感じられることがある。
「私」がこう思った。「私」は、こんなふうに苦労した。だから「私」は今、こんなふうな生き方をしている、等。
論証の視座が自己に偏っていて、どこか一人称小説を読んでいるような気分になる。
特にアスペルガー症候群と診断された人の手記には、この傾向が色濃く出ている。
「アスペルガーの私が、マルチタスク命!のコンビニで働いた結果…」
https://h-navi.jp/column/article/35026205
→著者ヨーコ氏の他の記事も参照
敗れた側のスポーツ選手はいう。「こんなに応援してもらったのに、応えられなくて申し訳ない」と。
オリンピックやワールドカップで、また欧州のサッカー選手や監督がそういった反省の弁を口にしているのを見ることがある。
だから、この「申し訳ない」という感情は決してこの国特有のものではないのだろう。
そして、このような反省と悔恨を述べた後、選手や監督が次に口にするのは「だから、次はもっと努力したい」という言葉だ。
このとき「申し訳ない」気持ちは、周囲に迷惑をかけないために、または、誰かの期待に応えるために、その原動力として働くようになる。
こうすまい、ああすまいと、「自分以外の誰か」にとってよくない結果を避けようと努力し、自らを発達させるエネルギーを生み出す。
自分のせいで落胆したりや辛酸を舐めることになる他者への共感=「申し訳ない」という感情が出発点となり、人は成長・発達を遂げることができる。
こんなことを書くと、発達障害で苦しんでいる当人に、さらに罪悪感を持たせようというのか、という意見もあるだろう。
それは確かにそのとおりだ。
このような「申し訳なさ」に至る=気づくためのメソッドや治療方法があるとしたら、それは前出のような手記を書くことのできる状態の発達障害のある人にとって望ましいものだろう。
少なくとも、自分がこの世に存在することが申し訳ないというような、極度の抑うつ状態にまで達している発達障碍の人には、すでに禁忌である。
私のような素人が、決して軽々しく日常生活に応用していいものではない。
しかし、こちらもまた感情ある人間であって、ふとした瞬間に、相手に対して非難めいたことばを掛けることを制御しきれないのも事実だ。
ここで主張したいのは、こういった発達障害のある人から「申し訳なさ」を引き出すような問いかけ・コミュニケーションを一概に否定するのではなく、
時には負荷をかけることが有効な場合もあるのでないか、ということだ。
罪悪感という負の感情を克服するために、克服したいという意思を持つがゆえに、人は自らを発達させようともがく。努力する。
「申し訳ない」という感情に含まれる、他者の存在と距離を感じるところから視野が拓かれ、自らの発達障害に深い理解が及び、ひいては、その克服に至ることがあるのではないか。
以上のようなロジックで「申し訳なさ」を引き出すことが発達障害のある人のためにもなるという主張をしてみたいと思う。
望むべきは、私自身がもう少し発達障害の疑われる同僚に気を使ったり、自らを押し殺したりすることなく、時に軽やかに時に遠慮なく、モノを言えるようになることだ。
発達障碍のある人の周囲の人間の負荷。
まったく陽のあたらないこの負担を担ぎながら、私もまた、私自身を視座の中心に据えて、こんなレントシーキングまがいの呟きをしている。
発達障害を望ましい個性であるとか、多様性の発露であるとかいった主張だけは受け入れられない。発達障害が克服・改善されない限り、かならず誰かが負担をこうむるのだから。
以上。徒然おわり。