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2014-07-26

http://anond.hatelabo.jp/20140726195712

概ね同意だが、

立法倫理哲学歴史金融システム簿記、もゴミ糞なの?

研究費を出してもらえて理系人間研究できるのは、

金融社会経済システムなどが整備されているから。

理系が偉いという優位意識はどこから来るんだろうね?

文系は、自分らが偉い!みたいな発言はしないけど・・・

物理学ブラックホールとか宇宙論とかになると、

経済活動に役立たないし、一歩間違えると趣味領域

あと、学問は全てが全て言葉表現して体系出来るものではない。

感覚的な言葉に表せない技術人間の心理を扱うジャンルもある。

それが分からないというのは、理系ってあんまり賢くないんじゃないの?と。

世界は、言葉論理だけで全てが構成されてるものではない。

2013-11-04

http://anond.hatelabo.jp/20131104021226

本気で宇宙論やると量子の世界を避けては通れないから、量子の世界のことばっかり考えてると、逆に「地球デケー」ってなる。

2013-08-21

http://anond.hatelabo.jp/20130821105811

小さな火の玉が突然爆発してでっかくなって…って、意味わかんねーよ!ってその論文聞いていた人思わなかったの?

その火の玉はどっから来たんだよ。

どこに何故存在していたんだよ。

そりゃ当然思われた。

そもそも、ビッグバンという単語はまさにその「意味わかんねーよ!」という側の人が言い始めた言葉で、

火の玉が爆発して宇宙になるわけねーだろ馬鹿か、みたいな意味が込められている。

 

火の玉宇宙論が受け入れられる前は、宇宙無限過去から無限未来までずっと存在し続けるという定常宇宙論

主流だったので、宇宙は膨張しているという説が出たときはそんなわけねーだろという人も多かった。

宇宙が膨張しているなら、過去宇宙もっと狭くてさらに言えば過去のある時点で宇宙は1点になってしまって、

そこから爆発的に生まれたことになるじゃないか意味わかんねーよ!……というわけだ。

 

 

ちなみにシュレーディンガーの猫も経緯が似てる。これは、シュレーディンガーさんが

量子の重ねあわせ状態なんて解釈を認めたら猫が半分生きていて半分死んでるみたいなことになるだろ、意味わかんねーよ!

という主張を行ったことから生まれた言葉だ。

2013-06-04

まねして新書の紹介

http://yuma-z.com/blog/2013/06/shinsho-10/ のまねをして、今度は新書の紹介をしてみる。(それにしても新書の紹介なのに、女性が手に持っているのが新書でないのが納得いかない)いままで紹介した本の紹介は以下のリンクからどうぞ。以下のリンクはいままでに自分が読んで面白かった本の紹介です。

自分が紹介する新書リストは以下の5冊。10冊並べようかと思ったけど、数学入門や理科系の作文技術日本人英語あたりは元のブログに取り上げられているし、それらを除くと以下の4冊が残ったので。

翻訳家仕事

英語日本語に限らず、様々な言語翻訳家の人たちのエッセイ集。「なぜ翻訳家になったか」というテーマエッセイが多い。翻訳家といっても文芸翻訳の話で、技術翻訳の人は登場していないはず。だいたいが学者系の人たちで、日本に紹介したい本があるからやっているという人が多い。(逆に外国日本の本を紹介したいという人もいる)

日本文学海外に紹介する人の話が楽しかった。日本に限らず、世界各地にはその地に根ざした習慣や文化があるわけだが、そういう習慣や文化をどうやって翻訳するのか。知らない人にわかるように説明すると、地の文よりも訳注が長くなってしまうとか、そういう問題点がある。そういったことを配慮しつつ翻訳するのは並大抵のことではないようだ。

加えて、英語日本語翻訳する人と、日本語英語翻訳する人では、前者が日本人ならば圧倒的に楽なのだそうだ。該当する言葉イメージ母語の中から探すというのはできるけれど、逆はとても難しいそうだ。

翻訳というとどちらもできそうな感じがあるけれど、他の人が読むに耐えるレベル翻訳はどうやらそうではないらしい。

本へのとびら

宮崎駿さんが著者。前半は岩波少年文庫の中で自分が読んだ本を挙げつつ、その本を紹介するという内容。後半は宮崎さんの思い出話だ。本の紹介が上手で、読んでみたくなる。

紹介する本は岩波少年文庫のものに限られるので、ほかの書店の本は一切載っていないのが残念だ。しかし後半は宮崎さんがなぜ児童書を読み始めたのかということや、映画作りに与えている影響にも話が及んでいて、とりたてて宮崎さんのファンではない自分のような人にも楽しめる。最近ジブリ映画はつまらない、と感じている人は、この本を読んで興味を持った児童書を読むと楽しい時間を過ごせると思う。

宇宙は本当にひとつなのか

村山斉さんが著者。最新の研究成果を元にして、宇宙はどうなっているかについて説明した本。最新の宇宙論を大まかに説明する本だ。なので、「どうしてそうなっているのか」ということよりも「今こんなことがわかり始めている」という説明が多い。

村山斉さんは最近多くの本を出していて、ほかの本と似た内容になっている(=かぶっている)という指摘がAmazonにある。自分はほかの村山斉の本を読んだことがないので、判断できないが、最新の宇宙論に興味のある人が手に取ってみると楽しい一冊であると思う。

もともとこの本は村山斉さんの講演が元になっているようで、各章の終わりには講演での質問が載っていて、それに対して村山斉さんが答えるというところがある。この質問に対して答えるところが良い。質問の内容をくみ取って的確に答えるのは難しいことだが、村山斉さんはしっかり答えているし、まだよくわかっていないところはよくわかっていないと曖昧にしないで答えている。質問も基礎的な話から宇宙論のかなり専門的な質問もあって、それぞれに解答している。

脳が冴える15の習慣

築山節さんが著者。生活習慣を改善することで、なんとなく調子がでない状態から脱却する方法を説明する。タイトルはありきたりだし、書いてある内容もそんなに真新しいものはないのだが、読むと納得する。

大事なことは寝る時間を削らないとか、運動する時間を設ける、などだ。大変なときにはこういう基礎的な習慣が崩れやすく、そういう点を疎かにすると、短期的にはうまくいく。かもしれないが、それが長引いて長期にわたるとだんだんいまいち調子が出ない…という状態にはまりがちだ。その状態になったり、ならないようにするためには習慣を見直すことが第一で、習慣を改善するだけでうまくいくことも多いというような話が載っている。

ときどきこの本を見直して、うまくいっているときタイムスケジュール生活習慣と今の状態を比べてみるということをすることが良いだろう。その具体的なチェックポイントを挙げてある点が本書の良いところ。

新書とは何か(自分にとって新書イメージ

ここからは余談。

新書というカテゴリーは、文庫でもないしハードカバーでもないというちょっと特殊なジャンルだと思っている。

昔読んだ高村薫さんのインタビューにこんなことが書いてあった。かなり昔には、

というすみ分けがあった。しかしこれは何十年も前から崩壊してしまったようだ。文庫ハードカバー出版された書籍が何年か経った後に、再び出版社が同じ書籍を売り出したいがための「文庫化」される本が多数を占めるようになったためだ。(そうではない本もあるが、全体の傾向としてそうなってきた)

くわえて、

  • 新聞は世の中の新しい出来事を総花的に紹介する
  • 雑誌はある分野ごとに、新聞よりももう少し掘り下げて説明する

というような区分けがあったように思う。新書は、上の新聞雑誌の間を縫うような「新聞のような時事的な問題を、雑誌と同じくらい詳しく、かつできるだけわかりやすく」というニーズがあって発展してきたものだと思う。要するに、今の池上彰さん的な立場新書は担っていた。

新書には、もう一方で「学問の初歩を紹介する」という役割もある。これらは新書が出はじめた当時は多かったが、最近はそんなに多くない。(元のブログでは数学入門はこの手の新書だ)○○学と呼べるような大きな学問領域を一手に扱えるほど権威のある書き手が少なくなってきて、各学問領域内でも細分化された結果、一概に「こうだ」と言えるようなことが難しくなりつつあるからだと思う。加えてそれらを説明しようとすると、新書では紙面が足りないからだと思う。

そのためなのかどうかは知らないが、最近特に、何か一つのテーマをなんとなく紹介する新書が多くなってきた。こういう新書は読むとそのとき何となくわかったような気がするけれど、時が経つと忘れてしまったり、素人目にはその紹介にはつじつまが合わないような時事問題が現れたりする。で、その結果として、その時々で「今」をなんとなくわかりたいときには役に立つ。けれども、全体としてみると、(特に経済問題や時事的な社会問題系は)役に立たないものが多い。陳腐化する。

まとめると、新書は以下のようなジャンルがある。

理科系の作文技術」について思うこと

個人的には、「理科系の作文技術」よりも、同じ著者の

の方が良い気がする。というか普通大学生ならば、新入生の手引きとかにレポートの書き方の説明や参考文献が載っているのではないか?大学講義にそういうものがあるはずだ。なので、「理科系の作文技術」は名著だけれど講義に出て練習を積めばいいように思う。もちろん一気に上手くなるわけではないけれど、ノウハウ本を一冊読むよりも、一度学んだも講義資料を読む方がはるかにわかやすいと思うのだが。講義教授木下是雄氏で、「理科系の作文技術」が指定教科書ならばともかく。

2013-05-29

まねして本の紹介 その1

http://yuma-z.com/blog/2013/05/student_books/ という人のエントリを見て、自分も(学生じゃないけど、)読んで楽しかった本をまとめてみたくなった。

この長い本の紹介を読んで、読んでくれる人や、ほかにおもしろい本を紹介してくれる人が続いてくれたら自分はうれしい。まだ微修正中で、加筆・修正するかもです。

これから紹介する本の順序について、あまり意識していないけれど、なんとなく読んでいる人が多そうな順。下に行くにつれて、読んでいる人が少なくなっていくと(書いている自分は)予測してます

このエントリで紹介するのは以下の本です。つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。

火車

宮部みゆきさんの小説。一人の女性が婚約後にいなくなってしまう。主人公はその女性の捜索を頼まれて、懸命に消息を追う。そして、調べていくうちに、現代資本主義社会の底しれぬ闇が見える――。

とても有名な作品で少し前にテレビドラマにもなったようだ。物語の始まりが冬の寒い時期のせいだろうか、自分は冬の時期に読みたくなる。三日間くらいで読了できるとおもしろさが持続すると思う。

読まれる方は、Wikipediaのあらすじにネタバレの要素があるので注意されたい。Amazon書評にも、ややバレる要素があるかな。この小説についてはあまり詳細について語ると魅力が半減してしまう気がする。読まれる方はできる限り事前の情報収集を避けて読んでください。

フェルマーの最終定理

1995年にそれまで350年にわたり証明されなかったフェルマー予想が証明された。そのフェルマー予想をテーマにしたノンフィクション。著者はサイモン・シンさん。翻訳は青木薫さん。

著者のサイモン・シンさんはこの後紹介する「ビッグバン宇宙論」においてもそうだが、説明がとても丁寧だ。わからないことを教えてもらおうとして、わかっている人に聞いたときに下手な比喩でたとえられて、全くわからないという経験をした人は自分以外にも大勢いるだろう。サイモン・シンさんの比喩はわからないという気にならない。なぜなのだろうか。

数学テーマにした本なので、数学が嫌いな人は手に取ることもないかもしれない。しかし、そういう人もぜひ読んでみてほしい。というのも、この本は数学の「問題そのものを解く」ということが主題ではないから。むしろ数学の問題はどのように生まれるのか、それを解こうとして350年にわたり数学者たちがどのような試行錯誤を続けていったのか、そのもがき苦しんだ歴史の本だからだ。

海外の本はしばしば翻訳調とでもいうべきか、文が堅く読みにくい感じがすることもあるけれど、この本はとても翻訳が丁寧で読みやすい。青木薫さんのすばらしい仕事だ。

自分は単行本ハードカバー)で読んだ。文庫版だと新しい翻訳者あとがきなどがついているかもしれない。

一九八四年

ジョージ・オーウェルが書いた小説ユートピア物質的・精神的に豊かになる、健康長生きできるといったような人間社会幸せで良い方向に向かう社会小説の反対、ディストピアを描いた小説

ここまで暗く描かれるとむしろ読む方の気分は明るくなるような、そんな気にすらさせてくれる小説。ただし、それは読後の感想であって、読んでいる最中は暗いままだけれど。

村上春樹さんの1Q84はもしかしたらこの小説に関連があるのかもしれない。今ググったら、どうやらそうらしい。自分は村上さんの方は読んでいないので何も言えません。(すみません

この小説が書かれた時期も意味があるし、この小説の中で登場するニュースピークという言語体系の設定は、そもそも言葉とは何なのかを考えるきっかけにもなるだろう。

火車と同じくWikipediaはあまり見ないで読み始めた方がよいだろう。

将棋の子

大崎善生さんの小説純粋小説というよりも何割かはノンフィクションかな。

自分は将棋のことは駒の動き方くらいしか知らないのだが、羽生善治さんやほかにも何人かくらいは将棋指し(棋士)の名前を知っている。この棋士の方々は、奨励会という将棋プロ養成する機関の中で勝ち上がってきた人たちだ。勝ち上がってきた人は晴れて棋士になるわけだが、では、「敗れ去った人たち」はどうしているのだろうか。その人たちをテーマに据えた小説だ。

この小説はけっこうずしりとくる。最初に挙げた宮部みゆきさんの「火車」は小説範疇ということもあるせいか、なんとなく怖さを感じることはあるが、現実的な切実さ、哀しさまでは感じないかもしれない。この「将棋の子」は、何かを一生懸命やってうまくいかなかった人の哀しさがよくわかるし、そういう体験をしてきた人(あるいは今そういう一生懸命何かに取り組んでいる最中の人)にはこたえるものがある。

冗談でしょう、ファインマンさん

ファインマンというアメリカ物理学者自伝エッセイ集。著者はリチャード P. ファインマンさん。翻訳は大貫昌子さん。この本もすばらしい翻訳だ。

エッセイ集ということもあって、好きなタイトルから読み始めることができる。エッセイ集なんてつまらんだろう、などと思っている人は読んでみてほしい。物理学者とは思えない言動の数々と、物理学者からこその言動が少々。そして、その間に驚かされるような洞察が垣間見えるのだ。場合によっては論語みたいな読み方もできるかもしれない。

全般に明るく楽しく描かれているけれど、これは意図的なものだろう。第二次世界大戦のロスアラモ時代には、自分の心にとどめるだけの悲しい出来事も数多くあったのではないか、と自分は想像している。

最後の「カーゴ・カルトサイエンス」の節はできれば最後に読んでほしい。この節だけは特別だ。物理学がわかれば、もっとファインマンさんのことをよく知ることができるのだろう。それができないのは残念だ。

プー横丁にたった家

プー横丁にたった家」は「くまのプーさん」の続編だ。「くまのプーさん」というと、単なるハチミツが大好きな黄色っぽいクマだと自分は思っていた。そうではなかった。

この本は子供向けの童話だと思われるかもしれないが、読んだことのない大人の方も読んでみてほしい。自分も大人になってから読んだ。著者はA.A. Milne。翻訳は(童話ジャンルでは高名な)石井桃子さん。

プーさんはもともと、著者が自分の息子に聞かせるためのお話だったようだ。こんな話を子供時代に聞かせられたらすごいことだ。

ところどころでプーさんが代弁する著者の考え方は、Amazonレビューにもかかれているけれど中国の思想家のような、どこか超然としたところがある。このクマがほかの動物たち(と一人の子ども)に向かって話しかける姿が良い。それとプーさんと行動をともにするコブタピグレット)が健気だ。自分は大人になってから読んだせいか、出てくる動物たちの役割に目が向いた。すなわち、物語の筋よりもおのおののキャラクター人間のどういう面を強調したものなのかを考えてしまいがちだった。子供の頃に読んだならば、もっと無邪気な読み方ができただろうと思う。

ビッグバン宇宙論

サイモン・シン氏の2作目の紹介になる。翻訳も前に紹介した「フェルマーの最終定理」と同じ青木薫さん。(本自体は「フェルマーの最終定理」→「暗号解読」→「代替医療トリック」(共著)→「ビッグバン宇宙論」、で四冊目だ)

大人になるにつれて、子供の頃に「なぜだろう」「どうしてだろう」と単純に不思議に思えたことへの興味がだんだん薄れていくと思う。すくなくとも自分はそうだった。どうして鳥は飛べるのに人間は飛べないのだろう、なんでお風呂に入ると指がフニャフニュになってしまうのだろう、どうしてテレビは音が聞こえたり絵が見えるのだろう、泥だんごはうまく丸くなってかちかちに固くなることもあるけど、そうでないこともあるのはなぜだろう、カブトムシはかっこいいけど、クモはすこし気味が悪いのはなんでだろう…、などなど。

そういう疑問の中で、人間がずっと追いかけて考えてきた疑問の一つが「この人間が生きている空間はどういうものなのか」だろう。その考え方の歴史をまとめたものがこの本だ。この本をひもとくと、この百年の間に予想もし得ないことが次々に見つかったことがわかる。ビッグバンという言葉ほとんどの人が知っていて、宇宙は一つのから始まったと言うことは知っているだろう。意外に思えるけれど、今から百年もさかのぼれば、ビッグバンという言葉すらなく、そう考えている人も科学の世界において異端扱いされていた。

宇宙論という非常に大きなテーマを扱っているため、「フェルマーの最終定理」よりも分量があって読むのが大変かもしれない。ただ、自分が読んだ単行本ハードカバー)には各章にまとめがついていて、おおまかな筋はそこを読めば追えるように配慮されていた(これはうれしい配慮だ。)文庫版のタイトルは「宇宙創成」のようだ。

読み終わったら、ぜひ上巻のカバーと下巻のカバーのそれぞれの色に着目してほしい。

モンテ・クリスト伯

今まで見てきた本を読むとわかるかもしれないが、あまり自分は昔の小説を読むことがなかった。一つには風俗文化が違いすぎて、いまいちぴんとこないからだろうか。そう思って昔の小説を読むことがほとんど無かったけれど、このモンテクリスト伯おもしろかった。著者は三銃士でおなじみのアレクサンドル・デュマ。翻訳は竹村猛さん。自分は上に挙げた岩波少年文庫版を読んだ。

復讐劇の代表的な作品だそうだ。「それってネタバレでは?」と思う方もいるかもしれない。そうと知っていてもやっぱり楽しい。引き込まれるようなおもしろさがある。

少し前に「レ・ミゼラブル」が映画になって、そちらの原作も良かった。境遇何となく似ているのだけれど、「レ・ミゼラブル」が愛の物語なのに対して、モンテ・クリスト伯純粋復讐劇だ。その痛快さ。モンテ・クリスト伯超人的な活躍が楽しい

自分はまだ一回しか読んでいないせいか、下巻の最後の方のあらすじはうろおぼえになってしまった。もう一度読む楽しみが増えた。今度は岩波文庫版で読もうかな。

喜嶋先生の静かな世界

森博嗣さんの小説。もともと「まどろみ消去」という短篇集の中に「キシマ先生静かな生活」という短編があって、それを長編ににしたものだ。

(科学系の)研究者世界とはどういうものなのかを丹念に追った小説であり、若干の事実が含まれているのかな?と思っている。森博嗣さんは某大学研究者であった(今では退職されたようだ)人で、その知見がなければ書けない小説だろう。

Amazonレビューを見たら、「自分には残酷小説だった」というレビュー内容もあった。自分は、心情、お察しします、という気持ちだ。ただ、主人公は喜嶋先生と出会えたことは僥倖だったに違いない。この小説の中で登場する喜嶋先生名言は、本家よりもむしろ心に残る。

自分の中では「将棋の子」と双璧をなす青春小説だ。

謎のギャラリー

北村薫さんが選ぶミステリーを中心とした選集。あるテーマを設定して、そのテーマの中で北村さんが編集者と対談形式でさまざまな物語を紹介していく形式だ。テーマは「リドルストーリー」であったり、「中国の故事」であったり、「賭け事」であったりと様々だ。

編集者との対談は実際の編集者ではなくて、北村さんが頭の中で生み出した架空の「編集者であるけれど、この対談がとても読んでいて楽しい気持ちにさせてくれる。いろいろな本が紹介されて読みたくなる。そういう罪深い(?)本だ。これを元に幾冊か叢書が組まれた。

その叢書の中で、自分が気に入ったのは「私のノアの箱舟」と「なにもない猫」だ。このシリーズはまだ全部読んでない。だから、気に入ったものは変わるかもしれないし、増えていくだろう。

自分は中国の故事や旧仮名遣いの本は読みづらく感じてしまうので、「真田風雲録」は読めないかもしれないなあ。

伝記世界を変えた人々 (いろんな人の伝記 図版が多く読みやすい)

海外の人を中心にした伝記シリーズ。主に子供を対象としているためだろうか、シリーズ全体として、文は平易で図や写真を多用している。そう書くとありきたりな伝記に思われるかもしれないが、装丁、ページの中の文と写真の配置の良さが際立つ伝記集だと思う。

全体として、割とマイナーな人も取り上げていたりするし、平和に貢献した人たちを取り上げている点も特徴だろう。気になった人がいたら、その人を読んでみてほしい。

星新一 一〇〇一話をつくった人

星新一は、多くの人がショートショートと呼ばれる一連の作品群で読んだことのある作家だろう。その人の評伝だ。著者は最相葉月さん。

星新一さんはその作品を読むとところどころに冷徹さが垣間見える。その冷徹さがどこから生まれたのかがわかるだろう。もともと幸せ境遇に生まれ育ったが、途中からどうしようもない災厄に見舞われるからだ。それだけが冷徹さの理由ではないだろう、ほかにもこの本を読めば思い当たる点がいくつかある。それらも書くと紹介としてはやや度が過ぎるのでやめておく。

最後の方で著者は有名な芸能人にもインタビューする機会を得て、実際に星新一さんについて尋ねる。そこも印象に残る。その芸能人はちょうど星新一さんの逆の人生をたどるような状況になっている。

自分はこの評伝を読んで、がぜんショートショートに興味を持つようになった。

リプレイ

SF小説はあまり読んだことがないのだけれど、この小説は良かった。著者はケン・グリムウッドさん。翻訳は杉山高之さん。

SFのよくある設定として、「もし過去に帰ることができるとすれば、その人の人生はどう変化するのだろうか」というものがある。その王道設定を利用して、すばらしい小説になっている。

この小説が書かれた時代1988年なので、やや風俗文化の描写が21世紀の現代と比べて現実離れしている点があるけれど、それを差し引いてもすばらしい小説だ。

まりあらすじをかかない方がよいだろう。http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で紹介する「心地よく秘密めいたところ」と全然違う話なのだけれど、自分には似たものを感じる。

自由への長い道

この本は近年読んだ中で最も良かった。

自由への長い道は南アフリカ共和国アパルトヘイト人種隔離政策)が撤廃されるまで闘った人々のノンフィクションだ。著者はネルソン・マンデラさん。翻訳は東江一紀さん。

アパルトヘイトという言葉とその意味何となく知っているけれど、それが具体的にどんなものかを説明できる人は日本の中で多くないのではないかと思う。ネルソン・マンデラさんとその仲間たちは、それをなくそうと政治活動を繰り返す。そしてその度に時の政府の激しい妨害に遭い、その結果そういったグループを作ること自体が違法になり、グループの首謀者たちは収監されてしまう。そこからが圧巻だ。

いかにしてそういう逆境の中で自分の政治信条を保ち続けるか。自分たちの仲間を増やして支持を広げていくか。そして時の権力機構に対して、アパルトヘイトの「非道さ」をアピールし、撤廃にこぎつけるか――。

仲間の反乱分子スパイへの対処国際社会へのアピールなど、常人には思いもよらない方法アパルトヘイト撤廃に向け前進してゆく。ところが、前進したと思ったら後退したりすることが何度も繰り返されるのだ。

この本はネルソン・マンデラさんがアパルトヘイト撤廃後の大統領に選出された直後に出版された本なので、結末に近づくにつれてかなり筆が鈍って、慎重な言い回しが増えていく。現在進行形のことを縷々書くと信用問題になるからだろう。それでもこの本は読んでいて楽しい

この本を読んだ人は「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」もぜひ読んでほしい。自分もまだ途中までしか読んでいないが、より素直なネルソン・マンデラさんの言葉と考え方がわかると思う。(「自由への長い道」についての言及もある。)

ほかにも映画インビクタス」や、「マンデラとデクラーク」など、映像作品もある。後者の「マンデラとデクラーク」は「自由への長い道」と同じテーマだ。ついでに、youtubeにあった国連広報映像日本語訳付き)もリンクしておく。


つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。

2012-10-15

土着音楽フォークロア)と紙粘土

古代いにしえよりの文明におけるコスモロジー全体論(holistic)であり神学(theology)であった、なんていかめしくニューサイエンス的な前口上を言い立てるまでもなく、

明らかに昔のほうが物事を全体として捉えてたんだよな?そのことを如実にあらわしてるのが土着音楽について振り返ってみようか。原始のリズムを食らえ。

しかしよくよく考えてみると音楽における霊性なんてイマドキ流行らないし流行らせない。ほらやよい時代って祭儀と祭祀で回ってたから。古代ギリシャ神託政治(ポリ)してた。politics語源だしなウソだけど。

基本リズムから全て派生していく様は完全に宇宙観をあらわしてる。けど現代人にはピンときづらいか紙粘土に喩えたらどうだ?

紙粘土ってなんでも作れる。だからこの世界は全部紙粘土で出来た世界として捉えてみることも可能である。箱庭宇宙。んだらば、それは素粒子論とは全く異質のモナドロジーではないのか?いやコスモロジー

絶対なんて絶対ないなんて今様ポップス音楽はこぞって歌うけれど恥知らずに要素還元主義つきすすむのも悪くはない。ペンロー図で有名な先生は怒るけど。

あとホフスタッターとかそういうのに啓蒙されたジョブズ世代でしょ。音楽時代精神(シュトゥットガルト)のみならず宇宙論コスモロジー)も表わしてる。マクロ意味でね。

理論化って常に近似なんだよね。理論の上に乗っかっていびきかいてると分からないけど。そりゃ眠ったら本質が見えなくなります

でも近似なのが分かってたらじゃあ実際どうなのよってなるじゃん?それはすぐれた近似なのかでたらめな近似なのか、そこを見極めないといけない。宇宙論()も見極めないと。

ところが見極める段になってまた見極めるためのメタ理論が要る。堂堂巡りじゃないか。そこで紙粘土音楽は元から発想をひっくり返す。見極めるとか見極めないとかそんなチャチなもんじゃねえ。

恐ろしいものの片鱗を味わうのよ。つまり「これ」という指差しや「ほにゃらら」という名指しや「ほにゃらか」という言い表しは全部無意味ってこと。

「この音楽いいよ」であるとか「この部分って何を表現してるんじゃ?」であるとか。そういう発想ではない。われわれはマントラ宇宙の原始の創造であると聞いたら幻惑してしまうだろう。

創造というか何というか、素粒子論とはまったく違った紙粘土の発想でのアレだからな。「これ」と指を使うとその時点で制限がかかるから指さずに「アレ」と要ったほうがよかろうもん。

その上であえて「ほげ」と呼ぶならば、その「ほげ」なる言葉としての意味はないが存在として意義のある呪文というか真言は、何に対しても使うことのできる万能のおまじないのようなものである

嫌なことがあっても「ほげ」。嬉しいことがあっても「ほげ」。「そうだハロウィンだ」と思っても「ほげ」。全部「ほげ」。全部紙粘土なの。

2012-04-11

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.1

オウム信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年大学生へ向けて書いた手紙忠告)をまとめました。

目次はこちら

【vol.1「カルトに係わる契機」】

【vol.2「宗教的経験(前半)」】

【vol.3「宗教的経験(後半)」】

【vol.4「恐怖心の喚起」】

【vol.5「規範意識を変容させる集団」】

【vol.6「まとめ」】

初めに

Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET

上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして

若者たちの超常的ニーズに応えたオウム真理教ナウい教化法

が挙げられていましたね。同様に

若者宗教志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。

と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしま人間側の“信仰生成過程不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまます

では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者宗教志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?

この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。

ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉TVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災TVニュースの方が記憶に残っていますしかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネット検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分カルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教人間信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。

『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)

※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています

この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウム無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教ナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近オセロ中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳マインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルト存在洗脳信仰に対する認知を深めてもらいたいです。

そしてできるなら、FacebookTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルト存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)

最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています

学生の皆様へ

 「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。

 この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。

 オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方からカルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。

 私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います

カルトに係わる契機

 前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトメンバーとしては、私はオウム真理教信徒経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります

カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。

 しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。

 ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウム世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族学校会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。

 このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。

 私自身は、高校三年生とき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。

 このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。

 スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています

 一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るもの存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るもの存在しないかどうかを探求してみようと。

スピノザ『知性改善論』畠中尚志 訳 岩波文庫

 トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています

 何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。

 この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。

 「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。

 自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。

トルストイ『懺悔』原久一朗 訳 岩波文庫

 以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います特に自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。

 その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。

 哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。

 こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。

 結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想なのは半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。

 このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。

 次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。

 思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない

 人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”

引用英語で分からず。)

 また、心理学者ウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教哲学に向かうことを指摘していますウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫

 「生きる意味」に対する問いが純粋知的ものならば、それは当人に健全精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。

 それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。

 ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います


【vol.2「宗教的経験(前半)」】へ続く。

2011-09-29

大学物理学科について急に語りたくなったので語る。

なんか、誰の役に立つの分からんけど、私が高校生の頃にこういう説明があったら良かったなぁ……とふと思ったので書いてみた。

さて、大学理学部物理学科に入学するとしよう。基本的に物理学科は、専門が進んでいくと、

この2系統x2分野で、4カテゴリだけに全てが収められる。意外に思われるかもしれないが、私も当時(学部3年頃)びっくりした。本当にこの4つしかない。

理論実験

まず理論系と実験系だが、その名の通り。理論系に進むと実験はやらずに、ひたすら理論だけ。本当に紙と鉛筆だけで物理モデルと数式を弄るだけのツワモノもまだいるけど、最近は、第一原理計算などのコンピュータシミュレーションも多い。

一方実験系に進むと、元旦液体窒素を汲んで延々と真空ポンプのお守りをしたり、「吸い込むと死ぬ」「空気に触れると爆発する」とかナチュラル危険すぎるガスをぶぉんぶぉん基板に吹き付けたり、TEM(透過型電子顕微鏡)の試料作成と軸合わせに12時間かけたあとに休憩も取らず深夜3時から測定開始したりする。要するに不死身であるしか給料ももらわずに学費を払ってこれをやるのだから真性マゾである。……話がそれた。

大学院進学の際、実験系には希望すれば誰でも進めるが、理論系へは相当の能力(とりあえずはテストの成績と言って良い)が無いと進むことはできない。まぁ学部3年くらいになれば、物理ができるヤツと物理ができないヤツの本質的な差が自他ともに見えてくるので、みんな自分がどっちに進むべきかはおのずから悟って判断する。そのため、「理論系に進みたかったけど成績が足りずに不本意ながら実験系に行った」って人は、実はほとんどいない((が、一部の実験系の人はやはり理論系の人にコンプレックスを持っており、理論の人を揶揄する実験系の人も時々いる。そういう人は学生時代はあまりそれは出ず、准教授教授クラスになってそうなる人が多い))。私の周りでも、理論系に行った人たちはやはり「天才」と呼べるだけの圧倒的物理センスを持っている人ばかりだった。

なお、実験から理論系へ、または理論から実験系へ移る人も、滅多にいないがいる。そういう人はものすごい変人か、ものすごい優秀かである。もちろん、変人かつ優秀の場合も多い。

物性と素粒子

先ほど言ったように、物理学科ではこの2つの分野しかない。意外だろうけどそうなのである

物性物理学は、モノの性質を「なぜだろう」と問う学問である(と思う)。例えば物性理論の第一原理計算では、「なぜ銅は銅としての性質を持つのか」を、原子番号の29という数字だけ入れて作り上げようとする。一方、物性実験系だった私は、毎日毎日ひたすら真空ポンプのお守りをしながら、ナノ微細構造作成とその電気特性を測定していた((今日作成温度500度、明日は550度、明後日は600度……お、550度が一番いいな。みたいな))。その他、金属半導体、光デバイス、磁性や超伝導電磁気的性質、まぁそのへん全部物性系である。応用例も広く、就職比較マッチングしやすいので、物性実験系が物理学科のもっともスタンダードな専門となる。

一方、素粒子は毛色が違う。「素粒子」と「原子核」で分ける人もいるけど、面倒なので一緒にする。有名なところでは加速器をやってる人たち。高エネルギーと呼んでいる大学もある。要するにモノの性質を問うのではなく、モノを作っている原子の中身とその構造を追っていく学問だ。クォークニュートリノグルーオンなどSF好みな題材が多い。素粒子は物性と違い、その経験を活かして就職しようとしても口が少ないため、アカポス狙いになってなかなか難しい。ただ、学部卒や修士卒で就職するつもりで専門に拘らないなら、分野なんて全然関係ないので気にしなくていい。素粒子から普通にリクルート電通化学企業なんかに行った人はいっぱいいる。しか博士課程に行くと……ポスドク地獄まっしぐらが待っている、気をつけよう。

宇宙論は?

みんな大好き宇宙論は、宇宙地球科学科が無い大学だと物理学科の素粒子に繰り込まれてしまう。高エネルギーとか場の理論とかになると、どうしてもそちらなので。

なお、物理学科に入る人で「宇宙論やりたい」って人はたくさんいるけど、講義が進んで悪魔テンソル計算が山のように出てくると、多くの人が挫折してむしろ宇宙論が嫌いになってしまう。足の上げ下げ、共変・反変、今思い出しても夢に見そうだ。

2010-10-18

http://anond.hatelabo.jp/20101018222311

そういう考え方をするなら、現代の純粋数学文学と同じくらい役に立たないと思うよ。

素粒子論とか宇宙論とかも。

2010-04-05

池田信夫は「逃げ抜ける」のがうまい

池田信夫政治経済の文章が優れている。

そういう話題のときは、随分と突っ込んだ文章を書く。

正直、僕みたいな馬鹿には、あまりよく理解できない。

それで、たまに彼は専門外のことも書く。

生物学や、宇宙論書評など。

この手の文章を書くとき、彼は否定的である。

もっとも、専門分野の文章を書くときも否定的なんだけど。

でも専門外のことなので、あまり突っ込んで書かない。

なので、軽い文章で批判して、それですぐ逃げる。

それが凄くうまい

なんていうんだろう。

リスクを負わないというか、

それでいて自分の言いたいことを書く。

そのセンスが抜群にある。

僕なんかは文章が下手なので、

自分の詳しくないことを書こうとすると、

隙だらけの文章になる。

それで罵倒されて苛つくことが多い。

しかし池田信夫は違う。

そのような手法を採ることにより体力が温存できるのだと思う。

これはボクシング選手が、

ジャブを繰り出しては巧みなフットワークで後退し、

相手の体力を削ぎ、ポイントを稼ぐのに似ている。

2009-02-20

http://anond.hatelabo.jp/20090220141317

http://anond.hatelabo.jp/20090220134848

いやベイジアンが有効なのは(基本的には)ソフトサイエンスだろう。

元増田が言ってるのはハードサイエンスの話だろう。

理論物理学なんかは基礎理論が強力な蓋然性を持ってガチガチにできてるから、推定を中心に据える必要はあまりない。

ノニカル分布のパラメータベイズ推定しても意味ないんだよ。

で、科学宗教をごっちゃにしてガタガタ言ってくるような連中は、たいてい宇宙論(笑)とかに絡んでくるからな。

(彼らは科学をやたらと批判する割に、ナビエ・ストークス方程式とかは理解できないらしい)

その辺はガチガチハードサイエンスの領域。

環境だって本来はガチガチなんだけど、現在人類複雑系をまともに扱う道具を持ってないから、仕方がなく統計的手法を使ってるという側面はあるだろう。

2008-12-07

宇宙論

宇宙以前とはつまり情報以前、つまり時間以前、つまりそんな時代はなく、最初から宇宙なので、宇宙誕生したという表現はおかしい

と、素人ながら思った

2008-11-09

筒井康隆の『到着』

    記事を読んで思い出したのは、ずっと前に読んだ小説の内容。

    作者もタイトルも思い出せなかったが、Google先生経由、2チャンネルで教えてもらえた。

    筒井康隆の『到着』。たぶんこれ。

    2008-09-30

    件の宇宙論争について

    http://smatsu.air-nifty.com/lbyd/2008/09/post-af53.html

    捏造を主張する人たちが胡散臭く見えてしまうのは、彼らの物言いから

    中国馬鹿にするフシ、あるいは「中国憎し」という感情が透けて見えてしまうから。

    つまり「政治的な立場」から捏造説を主張してるわけ。そりゃあ信用ならんわww

    松浦氏の発言も十分に感情的だが、その背景にあるのは日本中国という立場を超えた

    科学的に真摯たれ」という姿勢であるように見える。

    どっちを支持するは個人の感覚によると思うが、自分は断然後者だな。

    2008-07-24

    エホバの証人と、いわゆる二世と、背教者と。 まとめ+ブクマコメントにちょっと回答してみる

    ##追記;

    ##当ブログの後半に、自分なりのまとめも書いておきましたので、良かったらどうぞ。

    ##昨日書きたかったけど眠たくて落ちてしまい、書けなかったことを書いたので。。。

    ##これを読む人達に、一番伝えたいコトだったんで。

    を書いた増田だけど。

    ブクマが沢山ついてびっくりした。

    でも、良く考えれば、エホバの証人って自分を語る人は少ないはず。だって、自分が書いたように、宗教討論なんて避けるからね。

    「あなたの信条を聞きたい」って人には喜んで話すけど、「俺の信条を聞いてよ、君はどう思う?」って言ってくる異教徒には警戒モード、防衛モードに入り、あわよくばその場で心の中で「神よ、試練に耐える力を私に下さい」と祈り始める(※本当です。二世なら解るよな?な?)人達なので。


    それを、変とも思わないし、当然って思ってる。そういう概念なんだから、しょうがない。

    だから、おいらみたいに、ドロップアウトしようとしてる人、もしくはした人しか、こうした場で話すことはないだろうと思う。

    もし、現役でこうした場で話す人がいるとしたら、かなりの幹部とか、そういうバリバリの人で、あなたの家の近所にいるかも知れない身近な人は出てこないよ。

    特に女性は公の場で語るのは非とされとるんで、女性なら尚更。まず聞けないだろう。

    まぁ、それはさておき、ブクマコメントに自分なりにちょっとコメント返ししてみたい。

    コメ返し対象ブクマコメントは下記の二つに寄せられたコメント


    「討論すること自体が、JWアイデンティティー違反」というのが、実に日本的で面白い。アメリカ発祥なのに。

    討論ではなく説得(証言と言う。証言?なぜ?それは、エホバの証人=エホバの証言ってこと)はOKというスタンスなので、言い方によっては結果的に討論に応じるってことはあると思う。

    例えば、「あなたが何を信じているか聞きたい」と言えばきっと証言にやってきます。

    で、一通り話を聞いた後に「自分はこう思うんだけど・・・どうかな?」と言えば答えると思う。

    ただ、その場合でもエホバの証人は「回答できない時は、調べてきますので今は答えれないと言って沈黙せよ」と教えられてるので、やっぱり突っ込んだ話はできないかもだけどね。

    目的が「エホバの証人の話を聞く」ではなく「エホバの証人と議論したい」と判断されれば、来なくなっちゃうし。

    彼が典型的かどうかはともかくとして、資料として。追記:速攻でお返事が来ていてビックリした

    追記:公開後に読み直しで修正している中、たまたまついているのを見つけたので、ついでにお返事書かせて頂きましたw

    JWって結構明確に、リーダー(幹部)系と一般信者に分けられた扱いがある。

    で、自分は幹部系で一時期はエリートか?みたいな勢いがあった。

    自分みたいに若いうちから幹部系に持って行かれそうなタイプは、自分みたいに考える人も結構いるようです。

    ただ、そう考えながらも慣れたら苦痛じゃないしって淡々宗教やめない人も多いです。

    自分の場合、好きな子がおかしくなったとか、そういうのなければやはり淡々とやっていたかもとは思います。

    10年もやってりゃ、何でも習慣化して無意識にできちゃいますからね(家々に訪問する奉仕活動=布教活動とか)

    ただ、習慣化するってのもある意味自我が死んでると自分は考え始め、そう思った時から急激に多大な精神的苦痛を感じるようになりましたけど(自分と同じ経験は時々聞きます)

    今の時代にそれで信者は増えるのだろうか/あのパンフの絵はいつもすごいと思うが、組織としては係わりたくないなぁ。

    神の組織である以上、減るはずがない。減るとしたらサタンによる試練がはじまったという証拠である。つまり、聖書にある終わりの日が近いという予言成就しようとしている!って解釈するんで、どう転んでも良い教理になっとる。

    面白い。頭ええなぁ。 / 宗教ってコミュニティの媒介的役割が大きいから、居心地の良さで内政が変わるのよね。JWがだんだんと居心地のいい場所に変質していくのであれば、それはそれで、、、うーん、どうなんだろう。

    二世で脱退ではなく残るが側を選ぶ人は、一般人より組織に友達が多いってのが大きな理由の人も実際いる。ただ、そうなればそうなるほど、友達のために宗教辞めたくても続けないとあかん。

    一旦信者になった後、辞めますと脱退届け(断絶と言う)を出すと、宇宙論争を知らないゆえに悪魔の側にいる一般の人より、宇宙論争を知りながら悪魔の側を自らの意思で選んだ一番最悪な奴、という解釈に基づき、徹底的な排他を受けます。

    それがどれぐらい厳しいかっていうと、断絶した人と、信者は一緒にご飯を食べに行くというのも許されない。それが発覚すればその信者も警告もしくは追い出される。

    で、これは親子の場合でも、可能な限り、断絶した子とは接触を避けるようにといった教理なので、二世の社会人でもない子供は恐ろしくて脱退など絶対にできないのです。

    社会人になっても、幼い頃から仲良くしてた人、みんなが自分をシカトするかと思うと恐ろしいという、人間関係の恐怖心から残っている人も結構います(ソースは自分調べ)

    ちなみに、組織のほうからクビにされることを排斥といいます。

    行われる制裁は全く同じです。つまり、みんなで一斉にシカト攻撃。

    断絶や排斥者は数年すると、「戻ってこない?私が悪かったですと認めれば復帰認めるよ」と、声をかけにいく仕組みも設けられています。

    信者だけど心はJWという人は結構多いです。あと、優しい性格の人が多いのでみんなからの一斉に拒絶されることに本気で参る人もいます。

    信者だけど心はJWという人は、何かにつけて不安定になっています。毎日毎日が罪悪感。

    普段は意識してないけど、911テロ事件をハルマゲドンの到来だと確信して、慌てて、神の側につくので助けて下さい!みたいな問い合わせが組織本部にあった・・・というのも有名な話。

    ちなみに、排斥になるよーな人は3割ぐらいは、この宗教は嫌いだけど、宗教の中にいる人達はみんないい人なんだよなーって浮ついた心で居る時に、出来心で・・・とか、

    うっかりミス☆(いや真意は知らんが)みたいなので、いきなり翌日に排斥措置とられて真っ青って人もいます。

    そういう半端者は排斥システムで本当に参るので、以後は真面目に・・・ってこともなく、二回目する人も結構居る。

    多分、不倫するようなタイプの人は何度もやっちゃうと思う。知らんけど。ごめん、この行はテキトーに書いた。


    がんばってこの試練を乗り越えればみんな楽になって幸せになれる、っていう論法はありとあらゆる組織に共通だよなあ。

    いや、その理解はちょっと誤解がある。これは自分の書き方がまずかった。面白く読ますためにちょっと歪曲してた。

    「がんばってこの試練を乗り越えれば」ってのは結果であって、目的ではないんです。

    詳しくは、http://anond.hatelabo.jp/20080723230708 の 回答03を参照してください。

    最も、それでも結局はそゆことだろ?って言われたら、そうだねぇとしか言いようないけどさ。

    現役でも目的と結果を勘違いして、マゾになる変態がいるのも一言付け加えときます。あれは見ていて最悪だった。

    苦しいのは当然だ!アハハ!ってのはさすがにJWでもいかれた奴にしかいないよ。

    比較的フラットな二世視点がいい。これがJW現実だとか思い込むのは危険かも知らんが、もっとこういうこと書く人が増えてくれるとうれしい。

    残念ながらJWの教理上、増えることはないです。カミングアウトしはじめてる時点でそいつはもはやJWではない。形だけの奴ですよ。よってこれも、読書感想文みたいなもので、リアルタイムではないということを付け加えておきます。

    「こだわっているのって、それほど深いダメージを与えているからなんだろうなぁと。」認知してもらう事によって、正しさの確証を得たいのか。/刷り込みによる葛藤、とかについて。

    そう、それをテーマにしたかったんだけど、歴史とかがテーマじゃないけど比率的に多くなってしまって・・・こうした考察を得てもらったのは当初の目的だったので嬉しい限り。結局、自分自身、その一人と言えますしね。

    教団批判はサタンしわざとされ耳を閉じることを強制される。洗脳を解く行為を防止してるんだな。思考停止っていうのが宗教の一番のマイナス面だと思う。

    知らない方が幸せという言葉もあるので、プラスであるとも言えるのではないかと。実際、脱退したために一般社会の厳しさ、複雑さ、面倒さについていけず、エホバの証人にも一般の社会人にもなれない元二世も結構いる。ああ、こう書くとやっぱりマイナス面ばかりかなあ。

    でも、どうして今の世は不条理なんだろうって鬱な人が希望を持つのが宗教の役割の一つではあると思うので、こういう仕組みは(宗教という性質上)しょうがないようには思います。

    デメリット問題点は同意だけど、プラスマイナスだけで簡単に片付けれない所が宗教にはあると思う。

    中にいる人の証言は貴重。 / 「素直な人とのみ話しなさい」衝撃を受けた。過激に聞こえないが効果的に信仰(妄信?)を続けさせる方法。怖い

    他の具体例が、当ブログの上記で述べてる「断絶」というシステムです。

    脱退自体は自由にできるようになってるんだけど、その場合の心理的制裁が半端ない。自由意志は尊重してますよ、責任は求めますがという側面は一番二世を悩ませてる性質です。自分もこれにはほんとうに克服するのに苦労した。

    合わせてお読みあれ。

    エホバの証人2世の方による内部事情お話 / 同級生にも二人ほどいたな。この話によると一番スパルタな時期に育てられた子だったんだなぁ…。

    今度、見かけたら優しい言葉をかけてあげてください。

    宗教組織末期症状について。リベラリズムの懐柔性がうかがえる。

    補足というか寝ぼけて中途半端に書きました。「リベラリズム」自体は初期より歪んだ形で持ってます。詳細は 当ブログの「断絶」の話とか、http://anond.hatelabo.jp/20080723230708 の 回答03とか。

    具体的に言うと、以前より開放的に見えるけど、一方でますます抜けたくても抜けれない二世が増えているというほうが正確だったのかも、です。詳細は上記の通り。

    エホバの証人現代史日本人って宗教に関しては現世救済主義だから、来世の話をされても感があるんだろうな。

    現世救済主義は一時的に信者を増やすのには有効ですが、質の悪い信者ばかり集まります。

    それで、今の世に救いはないと明言し、天国希望持てと言ってしまう宗教もあるのかなと。個人的感想ですが。

    2世への指導が親の愛から来るものってところが悲劇的だなぁ。のびのびと育ててくれた俺のとうちゃんかあちゃんに感謝だ。ちょっと実家電話してくる。

    幸せな家庭に嫉妬した。ウラヤマシス

    JWじゃなくて、創価学会の2世会員だが、新興宗教の「二世会員」の悲しさというのが伝わってくる。

    自分の親友だった学会員も二世ですた。JWとは違う形で葛藤しとったのは印象的でした。そっちはそっちでいろいろおありのようで。

    W2人と宗教論争したこともあるよ?/聖書を知らない方が選択肢も多くて幸せで、知ったら伝道しないと破滅…JW呪いビデオを見た人なのか。/ナチ云々は怪しい→http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%a8%a5%db%a5%d0%a4%ce%be%da%bf%

    そうやね!「リング」に出てくる呪いビデオって例えはいいね。書いたのは全体的な傾向とか、自分なりの考察感想なんで、全てのJWがそうだとは言いませんよ→宗教論争。

    ナチの件は自分はどうでもいいので検証してません。事実であるかどうかも興味ない。テキトーですんません。

    勉強になった。信仰はあっても欲望は普通の人と同じなんだね。理屈では通じないってのも勉強になった。

    法律とかだって理屈で通じないもん、けっこーあるでしょう。

    ましてや宗教なんて屁理屈の固まりだと思う。

    そしてそれを自分の精神基盤としている人間には当然、理論で話し合うのは難しいのです。

    相手の話を聞いて、相手の価値観(もはや異国の異文化同士の交流と同じ)を理解しないと、話が全く噛み合ないと思う。

    常識と思っている概念が、概念の外だったりするので。

    あと、別に宗教やってる人間が、サイボーグな訳じゃないっすよw

    人間誰だって中身は同じです。欲望を自己否定したり抑圧する人と認める人、その行為を平気な人と苦しむ人、そのあたりの個人差じゃないかな。

    自分の意志とは無関係に自分の表情が形成されてしまうのって、怖いよなぁ。口の両脇をつり上げる笑顔ってのは、本来威嚇の表情だった、って何かで読んだ気がする。…鎌やんだっけかなぁ(汗

    表情だけならいい、感情(罪悪感、恐怖心、不安感、多幸感)までプログラミングされるのは経験してほしくはないけど、経験した者にとっては本当、恐ろしい体験です。二度と味わいたくない。

    出た人なのね。

    正確には現在進行形過去形はまだ早いかも。

    「新しい世界を見せてあげたらいい」。書き手には,彼女がそういう役割をしてくれたのだろうか。彼女を大事にしてあげて,幸せになってください。


    彼女は結果として得た世界の一つであって、役割ってもんではないかも。勿論、新しい世界は見せてもらってるけど。

    自分の場合は、医者に薬もらって休職するぐらいまで自分の精神構造を一回バラバラにした。一ヶ月寝たきりになった中で自分の精神を再構築して、客観的に見れるようになった。

    役割という言葉を与えるべきなら、その時、自分が壊れそうになっても自分と向き合った、あの時の自分だと認識してるよ。

    最も、二度とあんな精神崩壊寸前の経験なんてしたくないけどね。

    小さい頃から、この生き方が「真理」ですと言われた場合、そうではないと考えると今迄の自分は何?という自我崩壊になる。

    神か悪魔かの二択しか世界にはありません。

    と言われて悪魔主義になる奴なんてのは、なかなかいない。普通に生活して幸せに生きたいって思う人間ならね。

    でも、そもそも、神か悪魔か?っていう概念、何よりも二択しかない?二択?何の?この世界って何?

    そのレベルまで自分の人格を分解しない限り、幼少から育てられたエホバの証人子供は、無意味な罪悪感から脱却できない。

    増田トラバくれた、元二世のお二人(http://anond.hatelabo.jp/20080723123951 と http://anond.hatelabo.jp/20080723111359)はどちらかというと軽症だっただけと言える。

    ただ、http://anond.hatelabo.jp/20080723123951 は、役に立ったと思ったり(いや、本当に役立ってるのでしょう。良かった良かった)

    オフ会開いて共有してみたいと思うあたり、まだ完全には脱却できていないと推察します。

    何かのきっかけで、完全復帰はしなくとも、気持ちが囚われることはあるはず。

    あと、http://anond.hatelabo.jp/20080723123951が文中で書かれた「高校でグレちゃった子」の話。

    こういう子は、しばらくすると懺悔して復帰する可能性が高いです。

    行動すればするほど、心に埋め込まれた精神の規定を成す概念が自分自身を締め上げていくはずだから。

    遅かれ早かれ、何らかの行動起こすんじゃないかな。

    それか、それを否定したくてもっと自虐に走るかも。

    ちなみに、俺はJWの中で好きな子つうか、仲良くお互いにしてた子もいたよ。

    男でも本当にいい友達とかおった。

    でも、自分の育つ時代が一番、最悪なあのスパルタ時期でさ、みんなおかしくなっちまった

    頭良くて学校でも成績優秀な子が、どうしていきなり停学になるような不良行為を起こすんだい?

    俺は、俺の好きだった子や、可愛がってた子、遊んでくれた年上のお兄さん達、が否定したいけど否定もできず、

    そして自分を責めるという行動にしか走れずに混乱していく様を何度も見たよ。

    自分の場合は、あまりに親が厳しくしたせいか、叱られる時に、叱られる自分と、叱られる自分を見つめる自分を作るようになった。

    教理にも納得する自分と、納得できない自分、色んな所で自分が体の中に二人いるそんな精神構造になった。

    これ、二世ではけっこう「自分もー」って言う人、いるんだけどね。

    ただ、大抵の人は、客観的な自分を肯定しないんだよね。

    それを何とか殺そうと努めて、結局、自己否定になり(そりゃそうだ、その精神だって自分だもお)おかしくなったり

    それは私が不完全で救いを必要する人間だからなんだわとかいう変な自己解釈(俺の両親とかキモいから解らんがきっとそうだと思う)しちゃったり。

    自分の場合は、その二つなっている自分は結局、どちらも自分であり認めなければならない。

    おかしいのは俺か?違うんじゃないか?と、考え始め、しかし二人の自分を一緒にしようとすると、この考えは教理に違反している!という罪悪感と、俺はこう思っているんだ!と叫ぶ自分が脳内で騒ぎ立て、まともにまっすぐ歩けなくなるぐらい苦しんだりもした。

    つらいから、酒とか女の子に逃げた時もあったし、家出もした。

    もっとも、学校卒業しなきゃ負け、と思い、10日でノコノコ返ったけど。そんなヘタレさ、どうせ。

    自分はおかしくない、俺が思うことを俺がその通りに行動するのはおかしくない。これが人間

    それをいちいち、正しいか、正しくないか?と考えて誰も見ていないのに、勝手にビクビクしたり、これは聖書ではNOとあることだ・・・と脂汗が出るのは、俺が信じているからではなく、そのように作られてるからだ。

    そうやって、自分で自分にカウンセリングリハビリして、死ね!クソ宗教!とようやく言えるレベルにまでなった。長い苦労だったよ。

    だからって、必死になって幸せになりたいと思わない。

    俺の仲良しだった良い奴ら、同じ宗教というきっかけで知り合えたいい奴らは、本当、みんな社会的にドロップアウトしたり、「僕も信じてないけどさ・・・行く所ないじゃん」とかいいながら、今日宗教活動してる。

    俺をこんな目に合わせたのは・・・誰だ?

    とか、思って叫んだ日もあったよ。親を蹴り上げて、会衆を燃やしてしまえとか本気で考えた時もある。

    でも、そんなことをしたって、何か変わるか?変わらない。

    失われた時間、失われた人間関係、無くした友達、好きだった子はもう目の前にはいないんだ。

    俺はもうこんな歳だ。社会的にも働き盛りであるべき年齢。

    俺がここで止まっても、世界は崩壊しないし、誰も困らない。

    明日は淡々とやってくる。

    だから、俺はだだっ子のようにぐちぐち言わず、自分で考えて自分で行動して、自分で生きていきたい。

    だが、俺は一生、親の愛情としてあなたにああいう教育したのよと言う両親を、憎む事も否定することもできず、振り上げた拳をどこにも持っていけないまま、生きていかなければならない。

    俺は、ここでみんなに知って欲しい、知って欲しかったんだ。

    あの家にピンポンしてくる変な宗教団体の陰で、俺みたいな奴が一人、世界中に何百万人もいる教団のたった一人の小さな存在だけど.

    こうやって、静かに戦ってた奴がいたんだぜ?ってことをさ。。。

    ただ、すごく疲れる人生だった。

    正式に脱退できたら、彼女と祝いたい。

    そして、しばらくゆっくりしたい。。。

    俺は、彼女がどういう選択するかも兼ねて、彼女にも教理を他の信者を通して学んでみてもらったんだよ。

    彼女は「納得できる部分というか精神的に高い志をもとうしてるのはいいんだけど、自分の望まない話になるとシャットアウトするね」とさらっと言ってくれた。

    それで、俺の心の最後のつっかえはとれた。

    彼女が入信していれば俺はまた苦悩してただろう。

    賭けには勝った。もう俺は大丈夫だ。そうさ、俺だってね俺は一人じゃない、俺を認めてくれる人は欲しかったんだよ。

    でも、JWの複雑で独特な背景を好奇心で見てはくれても、俺自身を見て、俺の背負ってきた人生の一部がどんなもんか?みたいな視点から見てくれる奴は、彼女だけだった。

    貴重なかけがえのない存在なんで大事にしたい。

    俺はこの決断、こういう道を葛藤なしですんなり選べるようになるまで本当に苦労したんだ。

    その自分の中に埋め込まれた変な宗教精神構造のせいで、それを取り除くのが精一杯で、友達を作るのも途中で辞めていた。

    恋愛するぐらい余裕ができたのもほんの数年前だ。それまで、自分は生きてるのか死んでるのか、俺は何?俺は誰?俺の本当の気持ちはどこ?って自問自答してたよ。

    宗教は否定しない。

    でも、誰もそれを強要してはいかん。

    何より、子供に必要なのは自分で考え人生を選んで行くための能力と機会を与えるべきだ。

    籠の中に突っ込んでも死ぬだけだ。

    まぁ、そんな感じ。

    言いたい事言えてすっきりした。

    これが多くの人の目にとまると思うとすっきりする。

    いい時代になったよ。

    ネットなければこんな声、絶対に残せなかったから。

    2008-07-23

    エホバの証人と、いわゆる二世と、背教者と。

    #追記

    #このエントリの続編というか、まとめ(このブログで言いたかったコト)書きました: http://anond.hatelabo.jp/20080724004506

    #おまけ: http://anond.hatelabo.jp/20080723230708


    エホバの証人・・・家に時々やってくるアレ学校格闘技とかあると見学してる人。クリスマスとか参加しない、年賀状を送ってこない人。略称JW

    二世・・・二代目。親が信者で生まれながらにして家庭がエホバの証人だったり、途中からそうなったり。片親二世てのもある。

    背教者・・・アンチ。元エホバの証人だったり、親族がそうって人も少なく無い。二世の人もおる。この日記のスポット

    自分はもうすぐ辞めようと思ってる現役なんだけど。二世だし、生まれた時からこの世界だった。

    まぁそのあたりは自分史は今回はどうでもよくて、そういや、俺みたいに辞めようって人はどんな感じなのかな?とググってみた。

    結論からいうと、エホバの証人は、組織(統治体と言う)の指示によりネットで、宗教関係などに手を出してはいかんとある。

    だからJWとわざわざ公言して日記してる人は信者の中でもあんまり熱心じゃない人がデフォルト(立場は関係ない。)。

    で、どっちかつうと元信者、アンチJW=JWからは背教者と言われる人、のサイトが多い訳。

    だから、要は辞めようか辞めまいかっていうグダグダな人はほとんど居なくて、もう辞めちゃった人か、アンチサイトしか出てこないんだよね。

    それは知ってたので、どうせ辞める次いでだしなといわゆるJWから背教者と呼ばれる方達の内容ってのぞざざっと見てみた。

    ざざっと、とは言っても16時間ぐらいぶっ通しで今朝4時半までやってたんで、それなりには、見た。

    で、今から現役として、なるべく一般の方にも解りやすい形で雑感を書こうと思う。

    元JW、幽霊部員状態のJW、バリバリなJW・・・は1秒でこの日記を読まないと思うのでグダグダなJW、

    あとはJWはせいぜい輸血しない人?ぐらいの認識の方達がここにトラバなりで意見とかくれるを期待したい。

    要は自分の本音が外部からどう見えるのか、興味あるもんで。

    まず、前提条件。JWは宗教においては基本的に素直な人とのみ話しなさいという方針がある。

    つまり、議論するな、討論するな、宗教論争は避けろ、自分の信仰=信念のほうが解りやすい?を試してはいけない、とお達しがある。

    これはどーゆー事かというと、JWの聖書おかしいよ!訳が変!とか、JWの教祖会長っていうんだけどね)は

    女好きでヤリまくりだったっていう証拠があるんだぞ!おまいらおかしくね?みたいな話には、

    見ざる・聞かざる・去る、が鉄則ってことなんだ。

    だから、創価学会の方には申し訳ないのだけど、心行くまでJWとしては自分も討論したことがない。

    すること自体が、JWのアイデンティティー違反なっちまっていたからだ。(ずっと昔の話。俺の親友の一人は学会員だった。いい奴だったよ)

    えーと、だから、背教者さんってものすごく熱くサイトでJWの矛盾を列挙されたりしてるのだけど、

    実はあまりJW側には影響が無かったりする。

    JWを良く知っている元二世の背教者さんなら尚更。

    吠えても相手は聞かないんだから、討論なんて成立せんのだ。

    聞きにくるのは放っておいてもJW辞めるような奴だ。相手にしても物足りないと思う。

    「そうだそうだ」っていう同調者としては嬉しいだろうけど、説得とか、引き込んだって感覚は味わえんはず。

    だから、自分などは親と言い合いなど全くしない。

    眠たそうな目で、空に舞う羽のように、のらりくらりとしてやりすごす。

    長老(牧師みたいな人)とかに突っ込んだ質問されても、強く反応しない。

    聞いてるのだか、聞いてないんだか、みたいな。。。

    何せ、腹を割って話そうとすれば上記の通り、一定レベルの濃さになるとシャットアウトする

    脊髄反射的な対応が始まるので、ロックな気持ちで「こう思うんだぜ」と言うのが無駄なのだ。

    聞かないんだもの。

    だから、自分は辞めるための理由などもJWにはいちいち説明せんことに決めた。

    説明しても聞かないだろう。

    でも、元信者の背教者さんほど、すげー熱くJW批判されとるってのが解った。

    何とか、ココがおかしいよ現役!おまいらこれ変じゃね!とか一生懸命なのね。

    聞く訳ないのに。雑魚(辞めかかってる人間)のトドメの演説にはええだろうけど

    あんたらの目的(大抵のサイトに趣旨とかで公言してある)は現役を辞めさせることだろ。

    引退間際の老兵を相手にしてもなーって自分は思うのだ。

    で、まぁ、何でじゃあこんなに必死なんだろ?って考えてみた。

    少しずつ解ったのだけど、元JWでも未だに心のどこかにJWって人が多いらしい。

    で、ある人はそうした葛藤が苦しくて、過剰反応し、一生懸命、間違っているところを

    声高々に言うっぽい。

    もう少し解りやすい例で言うと。

    振った女のことを、毎日mixiに、あいつはあんな所がダメだったとか、

    あの女とつきあう奴は馬鹿。とか、そんな日記ばかり書いているマイミクいたら、どうする?

    まだ未練あるんだろうなー、プププって思うだろ?

    そんな気持ちになった。

    JWの矛盾を立証するために聖書の隅々をあれこれ指摘してる人、

    組織はてなで言えば、信者=ユーザー株式会社はてな組織)の教理の矛盾点を

    がーっと連載している人。

    まぁ、初めて背教者サイト見たけど、「何だ、こんなもんか」ってがっかりだった。

    別に、クドクド書かなくてもいいんじゃね?

    元JWだけど今はフツーに楽しく暮らしてるよって、ブログプロフにちょろっと書くぐらいで

    リア充日記を書く方が現役JWにはよほどダメージがある。

    JWでは北風と太陽を、具体化したような信者になるので、

    正面切っての攻撃(批判、いや指摘)にはかなり固い。

    どれぐらい固いかって、ドイツホロコースト(そんなの無かった論はまた今度にしようや)にも

    抵抗しとったし、ソビエト連邦時代、KGBにカルト認定されても地下活動を辞めず

    結局、ソビエト崩壊時には、一気に信者であることを公言した人が続々出たって話もある。

    でも、JWはびっくりするぐらいの弱点がある。

    それは日常のささやかな事。

    JWを知らない人のためにざっと組織が良く無いって上げてる点を列挙しとく。

    ちなみに一般ピーポーへの解りやすさ重視なんで、ちといい加減。最近行ってないしな。

    破門になるもの

     ・結婚前のエッチ

     ・選挙活動、他宗教の活動参加

     ・輸血

     ・タバコ麻薬

     ・組織や教理、聖書への組織が推奨する以上の研究矛盾点の指摘にこだわること(背教者認定)

     ・長老組織からの指示にあからさまに反対し続けること(背教者認定)

    イエローカード、場合によっては制裁(会衆=協会での行動制限、発言制限など)

     ・異性と二人で歩いた(ボディタッチは死)

      合コンなんてとんでもない!女友達も結構監視が厳しいことがある

     ・ちなみにデートしてもいいのは結婚前提の時のみ

      若い男女間の携帯メールデート同然という扱いでNG(でも実際は横行しとる。そりゃそうじゃろ)

     ・会衆=協会を、数回サボった(地域差あり、バカンスのためにお休みしたとかだと結構危ない)

     ・暴力的な音楽ゲーム映画などが好きと噂される

      流行を追いかけてると噂されるのもあんまよくない

     ・スポーツ観戦に熱心だとやばい。サポーターになるなんてのは危険行為。

     ・奉仕(家にやってくるアレです)をサボりがち

     ・おにゃのこ場合、私服でも下着がチラ見えするような服とか、谷間の見える服はまずい

     ・男の子も、髪型が耳かくれてツンツンヘアピアスみたいなのはまずい

     ・宗教活動時は、男はスーツおにゃのこは、ノスタルジックワンピースとか。

    推奨されること

     ・エホバという神に使える=新世界聖書組織の本に精通する=そこに書いてあることを適用する

     ・会衆=協会で、より責任のある立場に任命される模範的な人となること(禁欲的生活+熱心な宗教活動)

     ・仲間の信者に親切で気遣いを示すこと、地域住民にも優しくあること

     ・聖書研究すること。ただ、聖書を学術的に研究したり、JWが発行している新世界聖書以外の聖書

      熱心に用いて研究するのは危険視される。組織が発行している本と新世界聖書をセットで研究するとOK

     ・宗教イベント(新しい会衆を建設する、とか)にボランティア(無償)で積極的に参加すること

    他にもあるけど、まぁこんな感じ。

    つまり、短いスカートはいてたりとか、若いおにゃのこ男の子が、協会の隅っこで

    最近どうよ?とかメールやり取りを頻繁に行っていると、即笛が鳴るのですな。

    ああ、自分も何度鳴らされたことか、畜生

    もっとも、イエローカードのものって明確な基準はない。

    個人の良心次第です、でも他人の良心に配慮しようねってのが組織の基本スタンス

    だから、地域格差がすごい。

    短いスカートでもおとがめ受けず、フツーの女子高生やってる子もいれば、

    三つ編みモッサリスカートに分厚い牛乳瓶の底メガネっていう子もいる。

    この地域差は、会衆の空気=会衆の長老(その町にある協会の牧師)の基準が結構、大きい影響力を持つ。

    なぜって、長老に「おまえ、いい気になるなよー」って言われると、「長老には従いましょう」という

    基本原則があるので、悔い改め=行動と考え方(実際に考え方変える人は少ないかもじゃが)改正しないといかん。

    そうしないと、上述の通り、長老組織聖書=神の取り決め=神に任命された人、なので、

    要は反逆者=アンチ=背教者認定・・・まではないくことは滅多にないけど、何らかの制裁を食らう。

    例えば今迄、会衆の寄付会計係だったけど、明日からはもうしなくていいよ=お前は謹慎だよって言われたり。

    (例は極端な書き方してます。どういうもんかは説明面倒なんで入信して確かめれw)

    まぁ、だからね、派手な人は叩かれやすい。

    もっともJWは地域変種が熱帯魚のプレコなんて目じゃないぐらいすごくて、

    例えば、国によっては家々に訪問するの禁止、だけど広場で雑誌を持って立っておいて

    声を掛けられたらその人に宗教活動するのOKってところもある。

    そういう国の信者と、日本のようにピンポンまくりな信者は、根底は同じでもやはり差があるのだ。

    だから、派手なのが叩かれるって書いたけど、派手って行っても、普通の人からすると

    高校生デビューぐらいの可愛いもんだと思ってもらえればいいと思う。

    山田優の格好を真似たら、スカート短い!服がぴったりしてて胸が強調されてけしからん!

    そんな格好してはいかん!って怒られる。そんな感じなのだ。

    実際、JWの若手にはこの制限が大変不評でこれはもはや伝統的なものとなりつつある。

    もうね、毎年、わざわざ雑誌に「こんな格好するんじゃないよ」っていうようなテーマ

    記事が特集で発行されるぐらい恒例なのだ。

    だから、JWの信者てのは、町中で手を繋いでるカップルとか、奇麗な格好したOLに

    いいなぁ・・・って目で見てる。

    もう一つ言うと、熱心なJWであればあるほど、世俗の仕事=宗教外の仕事=つまりフツーの仕事よりも

    宗教活動に重点を置く生活を取るよう努力する。

    これは、なぜか?理由が長くなるが、これ抜きではJWがまったく理解できないので説明する。ただしすっ飛ばして。

    JWには宇宙論争という大きなテーマがある。

    これは、アダムとイブに蛇(を操っていた悪魔)が禁断の実を食べさせた時のこと。

    人間は神なしでも自分たちで正しい判断、自治できるはずです、その実を食べたらそれができるよ。

    って言ったという経緯があるのね。

    それまで人類史上つうか人類以外に聖書世界知的生命体は神と天使(JW的には、み使い と言う)、

    悪魔しか出てこないのよ。宇宙人は居ない設定らしい。

    で、この蛇がそそのかした時の言葉は、宇宙始まって以来、初めて

    神が神たる主権を持つことが正当か?という問題提起になったということらしい。

    で、それを証明するためには、問題提起者である悪魔サタンと、それに同調したこと(実を食べたから)

    になる人類が自治をし、やっぱり駄目でした☆

    神しか、人類そして宇宙を支配できませんってでしたっていう証拠を作らないといけない。

    今の世の中はその証拠作りの期間である・・・という世界観なのだ。

    JW的な解釈(自分は他の宗派は知らんし)では、聖書はこれがメインテーマ

    つまり、今の世がなぜこうなのか=神が介入していないのか、これかは神はどのように

    宇宙主権の正当性を立証し、復権し、人間人間を支配してもうまくいかんから

    人間支配権は神に戻し、神が支配する世界人類繁栄しよーぜっていうことになっている。

    それが、JWが言う「希望」であり「楽園」ってやつね。

    楽園実現の過程で不老不死とか死者復活とかいうイベントも起きる予定とのこと。

    ちなみに、神が人間悪魔サタンに、そろそろ支配権を返せって言う時、

    悪魔サタンは嫌じゃとダダこねるらしい(予言

    それが、ハルマゲドン人類史上最悪の天変地異(疫病、地震)/人災戦争飢餓)/死が

    横行するイベントとなるらしい(黙示録、JW的には啓示の書という聖書の最後のセクションの話はこれが中心)。

    さて、ハルマゲドンを通過し、楽園で生きたい!って思った人への

    参加条件は下記の二つ

    ・JWの存在(の話)、つまり聖書の内容を知らないまま死ぬ

      →神かサタンか選択権が無かったので復活する権利が得られる。

       死ぬのは老衰でも自殺でも事故でもハルマゲドンの巻き添えでもOK

      (ただし、ハルマゲドンが近づくとJWの宣伝はいよいよ派手になり

       知らなかったは許されなくなる可能性大とのこと)

       復活後、JWから聖書を教えてもらえる。

       その時、神か?サタンか?の二択が選べるので神を選ぶと合格→楽園行き

       ちなみに、JWが発足する100年前以前の人は

       絶対に選びようがなかったので全員復活が内定済みとのこと。

       例:織田信長ナポレオン

    ・JWの信者になる

      →神の側を選んだのでハルマゲドン通過。

       で、復活してくる人達に、聖書を教えることになる。

       ただし、ハルマゲドン通過後、復活者達と一緒にみんなで

       最後の試練、神かサタンかを調べられる最終確認試験があるらしい

       めでたく通過すれば→楽園行き

    ちなみに、次の人は楽園いけない可能性が高いが明確な基準が

    聖書にもないので不明とのこと

    ・JWの自殺者

      →輸血と同様、命を粗末にってことで背教者か!と思われるが

       精神患者の救済はされるべきだろって解釈

    ただ、どこまで復活するかとかあやふやで実は

    教理が何度かアップデートされた。

    面倒なのでおいかけてない、最近は解釈違うかもしれん。

    で、何の話だっけ。。。

    ああ、そうそう。

    だから、JWってのはこう考えるんだよ。

    今の世の中の不条理、神はいるのか!?と考えて絶望している人に

    神が支配する世界が来るよって教えてあげなくては!!と。

    そして、どうせ滅びる世の中。

    この世で成功して何になろうか、とも考える。

    だから、熱心な信者であればあるほど、宗教活動を頑張る。

    生活水準をギリギリに落とし、一人でも多くの人に、今の支配権は神にあらず!

    神の側を歩もう!と呼びかけなければ!ってね。

    でも、非JW的には、聖書を知らなければどうせ復活ルールが適用されて

    復活後に神か?サタンか?と教えてもらええて選択権もあるんだから、全然オッケーじゃん

    今の世は世で楽しめばよくね?って思うはず。

    でも、今の世で成功する=神の側ではない、なぜなら今の支配者、サタン社会に適用しているから。

    というルールが発動したり、自分だけ真実を知っておいて他人に教えないのは冷酷です。

    そういう人は神の側ではありませんっていうルールもあるので、そうする訳にはいかんのだ。

    結果、歯を食いしばってででも、質素な生活で地味な服で、ギリギリの収入で生活して

    毎日のように家々の戸口を叩くというJWの信者が形成されるのです。

    でも、宗教心で自制しているのであって、別にエッチが嫌いな人間など

    心的トラウマでもない限り本能的に普通の人間は大好きだし、

    エロい格好で男から注目されまくって、ちやほやされたいのが女心。

    あと、バリバリ働いて金持って、女の子から注目されたいし

    車とかPCとかの機械ものいじって男脳の欲求を満たしたいのが男心。

    別にJWは精神異常者じゃない。だから、本音はみなそうだよ。変人もおるだろうけど。

    でも、そういうのをやったことがないし、毎日それをやるのは恐ろしいこと、

    みたいな教育を受けて育ったいわゆる二世のJWってのは、やりたいけど、どうやればいいのか解らんし

    逆に、やってみたところで、心の奥底で、これはいけないことなんだ・・・って葛藤するのね。

    だから、元JWで今は信者でもないのに、聖書の解釈にこだわる人=背教者が出るんだと思う。

    要は聖書は聖典ではなくただの本なんだ、気にしなくていいはずなんだっていい聞かせたいのだろう。

    そもそも、二世は自分が知る限り、聖書の解釈にこだわる奴が多い。

    多分あれって、聖書=自分の根本、みたいな精神構造になっているから、

    自己肯定のために重要なのだろう。

    普通の人で言う、髪型を気にするようなものだと思う。

    ちなみに、この流れは90年代から現代に至るまでのメインの流れで、

    昔(〜80年代)は聖書の解釈をめぐって離脱する人が多かった模様。

    JWはその歴史の上で、1914年を筆頭に、何度かハルマゲドン到来を

    年数指定で確定宣言しちゃったことがある。

    でも、実際のところ、それって、ツインタワーに飛行機が突っ込む前、

    俺の彼女が送ってきたメール送信時刻が11時11分だった。

    これはツインタワーだ。きっと、俺の彼女は特殊な予知能力があったんだ。

    みたいなぐらい、アホな解釈である。

    つまり、こじつけって奴ね。

    彼女と目が合った!あいつは俺に気がある!フヒヒ!と同じ。

    まぁ、それでJWは何度か大コケしてる。

    で、3回目か4回目ぐらいのハズレで、いい加減、リスクおかして

    折角集めた信者減らすまいって話になったのかは知らないけど(JWらしく神託としておきますか)、

    1970年代後半からはハルマゲドン到来日ってのは不明ですって言うようになった。

    でも、1回目(1914年)の頃はまだ信者少なかったけど、

    1970年代(いつか忘れたよ、どうでもいいし)の最後のハルマゲドン到来予定年が

    発表された時は信者は大いに盛り上がった、つうか、発狂したらしい。

    (自分の親に言わせれば熱心になった、らしい。)

    で、家財とかさー、もう手放す人もおったらしいよ。

    だって来年、今の日本政府が終わります。日本円も無価値になりますって言われたら

    みんなだってそれが本当になるって信じていたら痛いことやるだろ?

    で、来なかった。

    それで、責任とってくれと恨んだ人もいるし、どうしても諦めれなくて自分なりに

    ハルマゲドン来年を計算しなおす人も出てきた。

    当然、それに迎合する人も出る。

    そりゃ、いつ来るか解らないより来るのが解った方が嬉しいもんな。計画立てれるし。

    で、そういう人が目にあまるので、背教者としてバッサリ切り離す・・・ってことも昔はあったそうだ。

    で、当たり前の話なんだけど、

    大きな台風が来るって解っていれば、家族持ちのパパーやママーなら

    家族を守ろうと必死になるじゃんね?

    そのために、言う事聞かない子がおったらしかるよね?

    もうすぐ風速50メートル台風来るって発表あったのに

    外で遊んでくるって家を出ようとする子供がいたら、どうする・・・?

    何が何でも守ろうと、叱り飛ばしてでも、行かせまいとするだろ?命にかかわるもんな?

    そういう、心境を、JWの親達は抱いていた。過去形なのは後述する。

    昔は、ハルマゲドンを通過できる人の条件(設定)が今より厳しかった。

    詳しくは忘れたけど。

    だから、1970年のハルマゲドン到来が外れた後も、その余韻が残ってるから

    JWの親は必死に子供達を、JWの信者にさせようと必死に悲しいことに親心で厳しく指導した。

    1日でも早く聖書信仰を抱くと誓ってくれ、神の側につくと宣言してくれと。

    ちなみに、JWではバプテスマという、儀式をうけると、明確に神の側についたと見なされる。

    それまでは、どっちつかずの奴っていう評価を受ける。

    ただ、バプテスマって大変なのよ。

    奉仕(他の家に訪問)していて、集会(協会)で聖書朗読講義(割当という)を開催できる能力を身に付けた上で、

    かつ、バプテスマを受けたいと長老(牧師)に言うと、試験がある。

    教理の理解度を試す試験で今はかなり簡単になったが昔は難しかった。(自分は1度で余裕だったけどな。嬉しくない。)

    不合格して、もう少し時間をおいてみましょうってなると、親も子もしょんぼり。

    まぁそんな世界なのだよ。

    だから、70年代のハルマゲドンは外れたけど、近いうちにくるはず!と

    信じている親達は、80年代〜90年代は特に、服装から友人関係から仕事まで、びっくりするぐらい

    子供スパルタ教育した奴が多かった。

    進学を認めない。宗教活動しなさい。

    あの子は信者ではないから口を仲良くしてはいけません。

    みたいな感じにね。


    で、一時的に信者は増えた。

    が、二世の子供達は考える。

    どう考えても、これ、カルトじゃね?って。

    でも、もう、生活の根底から友好関係や読み物すら制限を受けて育った子は、

    カルトって思えないんだよね。

    違和感は感じる。

    どうも、自分の家はおかしい。

    学校の友達らは楽しそう。

    でも何で自分はこんなにつまんない気持ちになるんだろう・・・?

    だから、90年代の後半は特に、JWの二世が離脱しまくるという非常事態が起きた。

    自分の在籍していた昔の会衆を例すると、

    90年代前半・・・集会に来てた10代の子達:18人ぐらい

    99年・・・3人、うち二人は辞める寸前

    こんな光景日本のあちこちで起こっていた。

    会衆の中で行状の模範者として求められる、長老という任にいる家族の子だって

    大勢が、JWをうまく否定できないけれどもかといってもう限界だと感じながら

    ある者は無理矢理、停学処分になる行動を起こして破門される道を選んだり、

    数少ない非JWの友達を頼って家出した奴もいた。

    当然、子供がそんなことをしているのに、子供を神の道に!なんて

    口が裂けても他の信者に堂々と言うことなんてできない。(言ってた奴も多いがな!)

    多くの長老がバタバタと辞めていくという騒動も起きた。

    で、今、ネットで声を大にしてJWは偽りの教理だ!と言う元二世の人って

    上記のような流れで離脱した、もしくはそういう人を目の当たりにした人が結構多いのよ。

    で、かわいそうだけど、一見今はうまく社会復帰しているように見えるけど、

    JWスマイルなどと言われる、無意識笑顔を作る癖が抜けないキモい奴だったり、

    好きな奴とSEXしても(結婚していても)罪悪感に悩む子がいたりもする。

    それはなぜかって、教え方なんだよなあ。

    エホバの証人だけが正しい宗教です。

    てのと、聖書は神の言葉です。

    ってのはもう何度も何度も子供は叩き込まれる。

    会社でさ、我が社が業界トップです。うちの会社以外はみんなクズゴミです。

    って言われたら、はあ?って思うよね?

    その上で、例えばバイト経験がなく新入社員だった場合、我が社より良い待遇はないぞ。

    君のような無能者は我が社ぐらいでしか居場所はないんだって言われたらどうする?

    普通なら死ね!って思うだろうけど、上記の条件は

    他の会社を一切知らない人っていう前提がある。

    結構な人は、不安な気持ちで、今の会社にしがみつこうとか、自分は後が無いんだって思うんじゃないかな。

    JWが唱える、この宗教だけが正しいのです、神の言葉は絶対です。

    ってのも、そういう子供だましな論法だけど、日本語話せるようになる前から

    そんな話を聞かされて育ったら、そういうのを冷静に判断できると思う?

    ぐだぐだ書いたけど、要は、背教者が声高く、ああやって教理やJWの組織

    そもそも、元いた、もはやどーでもいいはずの宗教にこだわっているのって、

    それほど深いダメージを与えているからなんだろうなぁと。

    まぁ、それを自覚した上で、他の現役JWを救いたいって必死な人も結構いるようだ。

    ただ、ちょっと書いたように、一番JWを動揺させるのは、リア充だ。

    元JWであることにこだわった姿勢を見せれば「ほれみろ、本当は気になるんだろ、戻りたいんだろ」

    って思われるだけで逆効果

    自然体で自由なスタンスで、普通に生きるって楽しいよ。

    ってにっこり笑顔で生きていればいいと思う。

    そうすれば、あれ?何で自分は?あんな風に思えないのかな?って思う現役が増えると思うんだ。

    それから、昔の親は必死だった。過去形なのは後述するって書いたけど。

    今は、黄昏の時かは知らないけど、割り切ったJWが急激に増えてる。

    終わりこねーよ、どーせってマジで言ってしまうような信者も増えた。

    そもそも、親も、お疲れモードだったり、聖書は正しいと思うけど、私を育てた親のやり方はおかしいと思う!

    という3世を育児中の二世の親も増えている。

    聖書は基盤で、間違っていたのは自分の親っていう解釈ね。

    で、最近は、バランス、極端なのはいけませんねーってのが組織レベルで言われ始めてる。

    今回、未だに70年代のJWをテーマに、JWはこんな組織だ!って声を高々に書いている背教者に

    「もう情報古くね?今の現役はそんなに熱心じゃないっすよ」みたいなメールをしたんだけど

    「そうなんだよね・・・今のあの軟化はなんだろ・・・」と、はりあいがないのか、しょんぼりされとった。

    まぁ、情熱を向ける対象がなくなるってのはつまんないよね。

    そんな訳で、21世紀のJWは歴史まれにみるヌルいJWになってる。

    今なら昔のように弾圧受けたら速攻崩壊するんじゃないだろーかって

    もうすぐ他人事になるけど、ちょっと心配だったりする。

    原理主義的ではなくなったことにより、昔より、過激な形でJWを辞める二世は減った。

    代わりに、自然消滅する二世がすごく増えてる。

    気が向いたらまた戻るよーみたいな人も少なくないかも。

    続き

    http://anond.hatelabo.jp/20080723032424

    2008-07-11

    http://anond.hatelabo.jp/20080711221837

    リサ・ランドールに影響されて宇宙論やりたがる女子が増えてほしいものだが、一向に増える気配がないぜ。

    女性誌で「今年の流行は初期宇宙で決まり!」みたいな特集組んでくれたら俺男だけど買う。

    2008-05-08

    ルーレットと人間原理、おまけにポーカーの話。

    もしもあなたがラスベガスに行ってカジノに足を運んだとしても、

    ルーレットをしようとは思わないほうがいいだろう。

    ご存じのようにアメリカンルーレットの数字には0と00があり、

    それはあなたが5%以上の不利を背負って勝負をしなければならないことを意味するからだ。

    0がひとつのヨーロピアンルーレットという種類もあるが、

    それでもあなたには2.7%の不利がある。

    どうしてもというならやってみるのもいいが、

    少なくとも赤か黒かのような配当が2倍の賭け方は止めておくことを勧める。

    配当2倍のゲームがしたければバカラか、

    基本戦術を知っているならブラックジャックをするといい。

    そうすれば、あなたの不利は1%ほどですむ。

    ルーレットに関する古い俗信はいくつもある。

    例えば「赤が5回続いた後は黒に賭けろ」といった類いのものだが、

    確率のことを少し知っていれば意味のない戯言だとすぐわかる。

    赤が何回続こうが、次に出る目の確率は変わらないのだ。

    5回どころか10回以上赤が続いたとしても単なる偶然にすぎず、何の不思議もない。

    ……だが、それが100回続いたとしたらどうだろう。

    さらに1000回、一万回と続いたとしたら?

    それでも赤が出たのは単なる偶然だと言えるのか。

    そんなことがあろうものなら、誰だってルーレット台か球に

    何らかの仕掛けがあるんじゃないかと疑うだろう。

    それを偶然だと考えるのは、どう考えても無理がある。

    宇宙論における人間原理とは、つまりそういうことなのではないだろうか。

    誕生初期の宇宙で、実際より物質分布の濃淡が大きかったり密度が高かったり、

    核力が大きかったり小さかったりしても、今の知的生命体が発生しうる宇宙存在しなかった。

    まさに奇跡のような可能性をつかんだ結果、人間誕生することができたのだ。

    人間のための宇宙、と言わんばかりの人間原理はあまりに傲慢すぎて好きになれない人も多いだろうが、

    その考え方自体はルーレットの例と同じく、ごく普通の発想であると言える。

    ただ、別の考え方もある。

    ルーレットで一万回も0が続く可能性はほとんどなく、

    通常は一万個のランダムな数字の羅列になる。

    しかし、その数字の羅列とまったく同じものが出現する可能性は、0が出続ける可能性に等しい。

    実際に起こった事象の確率がいかに小さかったとしても、それが偶然でないとは言えないということだ。

    ならば、この奇跡的な宇宙誕生したのが偶然であってもおかしくはないだろう。

    宇宙論についてどう考えるにせよ、

    カジノでルーレットはしないほうがいいのは確かだ。

    やるんだったら、バカラブラックジャック

    多少の英語力があるのなら、テキサスホールデムポーカーのテーブルに座るのもいいだろう。

    ノーリミットのホールデムは、麻雀が得意な人には向いているゲームだと思う。

    初心者用の簡単な戦術としては、

    失ってもいいと思える金額をチップに替え、

    2枚の手札がペアになるかAが一枚でもくるまでオリ続け、

    それらがきたらオールイン、つまり全額勝負する。

    技術でベテランプレーヤーに勝てるわけがないので、

    ブラフ駆け引きなど考えないことがポイントだ。

    運良くそこそこ稼げたら、すぐにテーブルを離れることも忘れてはいけない。

    最終的には腕の差がモノをいうゲームではあるのだから。

    2008-03-14

    http://anond.hatelabo.jp/20080314093737

    それでいいんだよ。

    中学生なんて手当たり次第に背伸びしながら本読んでいればいい。ある本が自分に合わなければ、次の本を読む。それだけ。おれが中坊のときは相対論とか量子論宇宙論を読み漁ってたよ。小学生のとき馬鹿にしていた課題図書も読んでみると面白かった。赤毛のアンとか。

    あと、月刊PBとかGOROに手を出したのもそのころだ(w。

    2007-02-08

    探し物

    http://anond.hatelabo.jp/20070207172851

    帰宅して本棚を探す。このへんだと思う下から3段目右半分の1列をごっそり抜く。

    コンピュータはなぜ動くのか」「プログラマの本懐」「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」

    iPodiTUNES HACKS」「GOOGLE HACKS」「BINARY HACKS」「業務システムのための上流工程入門」

    奥にある1列は、

    「青猫の街」「魂の駆動体」「おもちゃの作り方大図鑑」「2000年間で最大の発明は何か」「CPUの作り方」

    宇宙論の危機」「AhSKI! 復刻版」「タイムマシンを作ろう!」「棒がいっぽん」

    あったあった。読んでてこの本をどうしても読み返したくなったんだ。

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