古代いにしえよりの文明におけるコスモロジーは全体論(holistic)であり神学(theology)であった、なんていかめしくニューサイエンス的な前口上を言い立てるまでもなく、
明らかに昔のほうが物事を全体として捉えてたんだよな?そのことを如実にあらわしてるのが土着音楽について振り返ってみようか。原始のリズムを食らえ。
しかしよくよく考えてみると音楽における霊性なんてイマドキ流行らないし流行らせない。ほらやよい時代って祭儀と祭祀で回ってたから。古代ギリシャも神託で政治(ポリ)してた。politicsの語源だしなウソだけど。
基本リズムから全て派生していく様は完全に宇宙観をあらわしてる。けど現代人にはピンときづらいから紙粘土に喩えたらどうだ?
紙粘土ってなんでも作れる。だからこの世界は全部紙粘土で出来た世界として捉えてみることも可能である。箱庭宇宙。んだらば、それは素粒子論とは全く異質のモナドロジーではないのか?いやコスモロジー。
絶対なんて絶対ないなんて今様のポップス音楽はこぞって歌うけれど恥知らずに要素還元主義つきすすむのも悪くはない。ペンロー図で有名な先生は怒るけど。
あとホフスタッターとかそういうのに啓蒙されたジョブズ世代でしょ。音楽が時代精神(シュトゥットゥガルト)のみならず宇宙論(コスモロジー)も表わしてる。マクロな意味でね。
理論化って常に近似なんだよね。理論の上に乗っかっていびきかいてると分からないけど。そりゃ眠ったら本質が見えなくなります。
でも近似なのが分かってたらじゃあ実際どうなのよってなるじゃん?それはすぐれた近似なのかでたらめな近似なのか、そこを見極めないといけない。宇宙論()も見極めないと。
ところが見極める段になってまた見極めるためのメタ理論が要る。堂堂巡りじゃないか。そこで紙粘土の音楽は元から発想をひっくり返す。見極めるとか見極めないとかそんなチャチなもんじゃねえ。
恐ろしいものの片鱗を味わうのよ。つまり「これ」という指差しや「ほにゃらら」という名指しや「ほにゃらか」という言い表しは全部無意味ってこと。
「この音楽いいよ」であるとか「この部分って何を表現してるんじゃ?」であるとか。そういう発想ではない。われわれはマントラが宇宙の原始の創造音であると聞いたら幻惑してしまうだろう。
創造というか何というか、素粒子論とはまったく違った紙粘土の発想でのアレだからな。「これ」と指を使うとその時点で制限がかかるから指さずに「アレ」と要ったほうがよかろうもん。
その上であえて「ほげ」と呼ぶならば、その「ほげ」なる言葉としての意味はないが存在として意義のある呪文というか真言は、何に対しても使うことのできる万能のおまじないのようなものである。
嫌なことがあっても「ほげ」。嬉しいことがあっても「ほげ」。「そうだハロウィンだ」と思っても「ほげ」。全部「ほげ」。全部紙粘土なの。