はてなキーワード: 排他とは
オレはミニシアター系映画とかややマイナーなポストロックとかのお前の言うサブカル分野好きだけど、たぶん当時サブカル界隈がアニメやオタクを叩きまくってたからだよ。
オレは昔からブヒアニメも見るけど、サブカル界隈では怖くて言えなかったよ。
ちなみにお前は知らなそうだけど、いまやサブカルと言ったらアニメとかオタク文化のことを指す人が多いからな。
00年代くらいまで存在した旧サブカルは、今はもうサブカルとは言わないから。
旧サブカルはそれだけ衰退したってこと。
まあ、マイナーだからサブカルなのに高尚さを出したいのか頻繁に周りのイケてないと判断した奴や物を叩いて差別化しようとしてたから、まあそりゃあ衰退して当然なんだけどな。要は排他的ってこと。
一方でアニオタ文化は快楽主義だからこそ排他的ではなくて、どんどん周囲を取り込んでいって、いまや日本を代表するコンテンツになったと思ってる。
警戒されたくないなら、最初に旧サブカルもアニメもメジャー系もなんでも見るけど特に旧サブカルが好きで、というように話せばいいだけ。
つーか、コミュ力低そうな女やな!
ウェザーニュースのMyライブカメラに参加するため、ソラカメを設置してみた。
わかったこと
・ATOM Cam 2を使用するが、ATOM AppとMyライブカメラ(ウェザーニュースApp)は排他。どちらかに接続してからもう一方に接続するにはリセットが必要。
・「画角調整」画面はサーバで折り返した映像を表示するらしく、遅延が著しいため使いにくい。そのためATOM Appで先に調整してからウェザーニュースAppに接続した方がやりやすい。
・ファームウェアアップデートはウェザーニュースAppからは出来なさそう。ATOM Appから行えるため、WxBeacon2と環境センサAppの関係のようになりそう。
・ATOM AppからウェザーニュースAppに繋ぎ変えてもRTSPで映像を確認することができる。必要なID/PW等はATOM Appから確認できる。(DHCPサーバ側でIPを固定しておく。ちなみに2台設置したところ両方とも同一ID/PWだった。)
(なお、ウェザーニュースAppに接続した段階でATOM Appとの接続が切れるためAlexaでの確認は不可能。)
・ウェザーニュースAppに複数台のソラカメを登録することはできない。複数台繋げたければ、それだけAppを動かす必要あり。(2台目のスマホなりタブレットなり…)
何言ってるかも分からん錯乱した文章上で名前あげられて本当の意味で傷つく人はおらんやろ
精神がアレな可哀想な人がなんか書いてるなくらいにしか誰も思わん
実際に傷つくとしたら勝手に共感性羞恥を働かせて関係者は傷ついてるはずと思い込むことで正義の代弁者気取る繊細チンピラの自業自得な心が害されるだけ
あんた実際は居着いてしまうことを心配してるんじゃなく、異質な人間が存在してることが気持ち悪くて排除したいだけやろ
そういう過剰な排他性はよくないと思うで
なんならそういう発想の方が危険やわ
仮に前田っちの投稿が有害で排除されるべきとしても、それ判断するのははてなやろ
異端者の集まる増田なんやし上が動かない限りはみんな仲良くしとればええ
ワイはスパムbotみたいなやつ以外はリアルに削除対象になるほどの投稿は増田には滅多にないと思うで
ガイドラインにはそぐわなくとも腰上げて削除されるほどのもんかどうかは別やでな
どっちかというと「弱者男性」やら「キモオタク」やら見えない存在にレッテル張ってヘイトを日々振りまいてる人の方が
よっぽどガイドライン「他者への尊重、敬意、理解する姿勢を持つこと」NGに近いと思うわ
この世で一番素晴らしいものは愛とか情とかみたいな考えが人間界ではいつも幅を効かせているけど、愛は本人たちにとっては素晴らしいかもしれないけど外野にとっては排他や暴力を感じる事がある
理想はともかく、実際は、男にとっては彼女ができれば他の男は潜在的な敵だし、家族ができれば他の人間は家族を生かすための道具だし
既にいくつかの増田において触れられている点ではあるが、元増田の見解は類似性の解釈適用の面で、相当程度「アイディア」保護論的な立場に立っており、一般的な法解釈、裁判例の理解とは遠い立場となっているように見受けられる。ただ、その点の指摘よりも増田の大まかな論調に同意する反応も比較的多いようであるので、念のため著作権法を学部時代に諦めた現役ヘボ弁護士が言及しておきたい(著作権の基本書等すら引っ張り出さずに雑に書いただけなので匿名で。)。
そもそも、著作権は、実質的要件を満たしただけで、つまり創作をしただけで当然に発生し、他者に対する差し止め等、排他的独占的な行使をすることができる極めて強力な権利であるという性質を持つという基本的なところを押さえておきたい。知的財産法で言えば、特許権や商標権、実用新案権等、いずれもその強力な権利の代わりに、形式的要件として登録や公開などの制約が課せられていることと対照的である。
これは、著作権法の目的である「文化の発展」のため、創作活動を行った者を保護することが重要であると考えられたために作られた制度であるが、他方で表現は多かれ少なかれそれまでの表現の歴史との連続性の中にあるものであって、いかなる他の表現に一切依拠しない表現というものはあり得ない以上、創作者の保護にも自ずから限度も存在する。著作権の保護の範囲を過大なものとしてしまえば、強力な著作権の排他性ゆえに後続の表現が委縮してしまい、逆に文化の発展が阻害されることになってしまいかねないためである。そこで、アイディアとそれを具体的なものに落とし込む表現とを峻別し、具体的「表現」のみを保護の対象とし、「アイディア」は保護の対象にしない、という「アイディア・表現二元論」が著作権の保護範囲論の最も重要な原則として長く受け入れられてきているわけである。
類似性における「表現上の」本質的な特徴が何であるのかということを考える際も、この点は忘れてはならない点であり、その絵がどういう物を描いているのかという漠然とした「本質」ではなく、その絵をその絵たらしめる「表現」がどこにあるのかということを考えなくてはならない。
と書いていることや、
目の見えない人に、件の女性が描いたイラスト説明することを考えてみろよ。
・真横を向いてふりかえった構図
と書いていることはかなり「荒い」議論であることがわかってもらえるのではないだろうか。
もちろん、構図や身に付けているもの、ポーズ等の選択が表現と言える部分もあるが、「表現」となった部分には独占的な権利がこの作者に与えられるのだと考えれば、この程度の特定の仕方では「アイディア」に近いものと断ぜざるを得ないことはわかるだろう。元の絵の構図やポーズが、この作者にしか生み出せない創作的表現で、この作者のみが独占的に描くことができるものだとしていいのか、と考えれば、「いやいや、そういう抽象的な構図、ポーズはありふれたもので、独占的に他を排除できるほどオリジナリティがあるものではないだろう」と思う人が多いのではないか。ポーズの選択についても、せめてもう少し具体的な言及が必要である(「半身(横向き?)に構えて首を曲げて顔を正面に向けた状態で、奥側にある右手を顔の付近に持ってきてそこに画面を正面に向けたスマートフォンを持たせたポーズを、胸元から頭頂までをグラデーションの背景のみで画面中心に収める構図で描いていること」とか、絵の心得がないので適当だが。)。あえて言えば帽子は特徴的だが、全体として見れば帽子の比重は強くなく、塗りの特徴やくっきりとした主線等の「絵柄」、表情や体形、手に持った筆や鉛筆等の小道具の選択、スマートフォン画面の表示内容、服装の選択等といったあたりも、元の絵の「表現上の」本質的特徴に含まれると考える方が私としてはしっくりとくるところである。無論この辺りの具体的線引きは最終的には正解のないところであろうが、元増田のとらえ方は不正解と言ってもおかしくない程度に極端な議論であるとは言えるものと思われる。「本質的特徴」や「創作的表現」というテクニカルタームはその文字面に反して非常に解釈が難しく、安易な素人判断を信用するのはやめた方が良いだろう(それは私のこの投稿も同じようなものだが。)。
なお、依拠性がある以上類似性で争うのは無理があるだろうとか、AIが翻案したんだから翻案権侵害は確実だろうというような反応がブコメに見られるが、コーヒーを飲む男性の写真をトレースした事案で侵害が否定されている地裁事例からすれば単純化し過ぎた判断だろう
さて、突っ込みは以上だが、ついでにもう少し著作権の保護範囲について考えたい。完全に私見だが、著作権権侵害事件における本質的特徴とは、「その人にしかできないその表現の魅力はどこにあるのか」というところから考えれば少しわかりやすくなるのではないか。著作権法を運用するにあたって、何を保護し、何を保護してはならないのかと考えると、それを作った人が生み出した、その人らしさの表現こそが保護されるべき、でいいじゃないのというイメージである。恐らく、現実に絵を描くときには、構図や服装を考えることも大変で、そのためにいわゆるトレパクが嫌われるのだろうが、構図や服装だけでその人らしさが出るレベルとなると相当特異だと考えられ、それを保護してしまえば逆側の弊害(委縮)が大きすぎるのではないかと考えるし、その人らしさの部分が保護されれば、いくらトレパク等の邪魔が出ようとその人が創作をする価値は失われないはずなのではないだろうか。無論、この辺りの創作側の主観的「大変さ」と法的保護の乖離の部分はまた難しいところではあるが、意図的に特定の作家からのトレパクやそれのみを材料にしたAI学習、出力が続けば場合によっては不法行為等を構成することはあるだろうし、ばれた時の社会的制裁は大きなものになるだろうというあたりでバランスをとるしかないのではないかと今のところは考える次第である。
昔のキモオタは家庭環境や容姿や才能や人間関係に恵まれず、社会不信を募らせ生きる目標や将来の夢が無く、一時的に不貞腐れ自暴自棄になり、気の合う仲間と刹那的快楽に現実逃避しているタイプの人が多かった。だから昔は一人ひとりは素直で明るくひょうきんな人間だった。
惨めな自分が嫌で馬鹿にされたり苛められたりされたくないから、オシャレさを感じない娯楽にはまり、当時の常識人には理解できないような格好をしてアニメ絵のステッカーの貼られている車を乗り回すなど虚勢を張ることである種の自己防衛をしていた。
しかしそういった当時の青少年少女の問題は大人の問題。クズだのキモいなどと批判し排他すれば、却って自分を肯定し愛せるようになるために昔のキモオタやDQNヤンキーに憧れる青少年少女がまた世に出てくる。彼ら彼女らに不足しているのは愛。彼ら彼女らを批判する者も同様。