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[MV] On Your Mark / CHAGE and ASKA https://www.youtube.com/watch?v=3Obh9kg6o_U
CHAGE&ASKAの「PRIDE」はJ-POPきっての名曲です。それについては先日、ライヴ聞き比べの記事を書きました(http://anond.hatelabo.jp/20140923002713)。
しかしCHAGE&ASKAには「PRIDE」と肩を並べる、もう一つの壮大なバラードが存在することを忘れてはいけません。それが「On Your Mark」です。この曲はCHAGE&ASKAの15周年記念シングル曲であると共に、アルバム「CODE NAME.2: SISTER MOON」のラストを飾る曲です。また、数億円を費やして宮崎駿にPVを作ってもらった曲でもあります。そのPVは短編映画扱いで「耳をすませば」と並んで上映されたこともあるので、そちらでご存じの方も多いかもしれません。
「On Your Mark」は間違いなくCHAGE&ASKAを代表する名曲で、「SAY YES」や「YAH YAH YAH」が忘れ去られても、この曲が歴史に埋もれてしまうことはないでしょう。相方CHAGEは、数あるASKAの曲のうちでも「On Your Mark」をもっとも好きな曲だとどこかで言っていましたが、それも頷けます。CHAGE&ASKA全盛期を告げる初めの曲が「WALK」「PRIDE」だとして、「SAY YES」「YAH YAH YAH」といった名曲を連発した全盛期を経たのちの「On Your Mark」は、それら名曲群をじゅうぶんに締めくくるに全く恥じることがない傑作だと言えるでしょう。
前回は「PRIDE」のライヴ聞き比べというマニアックな作業を公開しましたが、今回は「On Your Mark」の楽曲分析というこれはこれでマニアックな作業を行ってみようと思います。というのも、比喩に富んだ歌詞に、転調を次から次へと重ねていくこの曲をどう解釈すればいいのか自分自身分からなかったからです。以下、個人的な思い入れで解釈しているメモ書きです。
静かなシンセとピアノから曲は始まります。ASKAは決して楽観的には聞こえない調子で「On your mark」(位置について)と歌います。すると、曲は変ホ長調から嬰ヘ長調に転調し、ベースの八分の「ダンダンダンダン」というリズムが刻まれます。まさに、走り出したがごとくに。
J-POPを分析するときに調性を云々言うのは的外れと言われるかもしれないが、決してそんなことはないと思います。変ホ長調はベートーヴェンが「交響曲第3番(英雄)」で用いた「荘厳の響き」の調性、そして嬰ヘ長調は♯が6つ付いて、複雑で混沌とした響きを持つ。例えば、マーラーが「交響曲第10番」のアダージョで用いたのは嬰ヘ長調である。チャゲアスで変ホ長調の調性を探すと「PRIDE」や「Sons and Daughter~それよりも僕が伝えたいのは」を挙げることができます。ベートーヴェン「英雄」と同じく、どちらも荘厳の印象を私たちに与える曲です。しかしながら重要なのは、「On Your Mark」はこの荘厳の調性からすぐに転調する(=外れる)ということです。すなわち、この曲は、はじめから「英雄」からの「除け者」であり、「PRIDE」のように素朴かつ豪胆に歌い上げることさえ禁じられたものの歌なのです。したがって、「On Your Mark」ははじめからかなりひねくれた性格をもつ曲なのです。この冒頭の転調を聞いて、たしかに私たちはどこか言い知れぬ複雑さを覚えるのではないでしょうか。
埃にまみれた服を払った
この手を離せば 音さえたてない
落ちてゆくコインは 二度と帰らない
君と僕 並んで
「いつもの笑顔と姿で/埃にまみれた服を払」うというのは、強がりの笑いです。いろいろケチをつけられるが、それを「いつもの笑顔と姿」で何気なく払うのです。そして、大切なものを失う時(落ちてゆくコイン)、それは音さえたてません。静かになくなっていきます。「私」はそれさえも「いつもの笑顔と姿」で見送っていきます。
次に出てくる「君」というのは、むろん共に走っている人でしょう。この「君」が男性なのか女性なのかは不明です。つまり友情歌なのか恋愛歌なのか分かりません。周りの友人に尋ねてみましたが、「君」は男性だという意見と女性だという意見ではっきり分かれました。私は「けれど空は青」等につながる男性同士の友情歌だと認識しています。実際、宮崎駿もこの曲を使ってCHAGE&ASKAの二人を主人公としたPVをつくっていますし、CHAGE&ASKA自身のことを歌っていると考えるのがもっとも自然な解釈だと思います。
「夜明けを追い抜」くというのは面白いイメージだと思います。ASKAは「晴天を誉めるから夕暮れを待て」で、今晴天のように売れている自分をみんなチヤホヤしてくれているけど、「夕暮れ」時に誉めてほしいと取れるような歌詞を作っています。また「太陽と埃の中で」という曲もあるように、ASKAにとって太陽とは特別なものです。朝の冷たい風を切り、太陽という「絶対」に向かって自分の力で進んでいくのです。灼熱の太陽でもなく、沈みゆく太陽でもなく、夜明けの冷たい太陽というところが面白いところです。この冷たさが、決して順調ではないレース(On your Mark=位置について)を予感させます。
ところで、完全な偶然だと思うのですが、PVと同時上演された「耳をすませば」に、まさに「夜明けを追い抜いていく自転車」の描写がありますね。気になるところです。
On Your Mark いつも走り出せば
On Your Mark 僕らがそれでも止めないのは
夢の斜面見上げて 行けそうな気がするから
(夢の心臓めがけて 僕らと呼び合うため)
このサビに入ると、また転調し、調性はイ長調になります。Wikipediaによれば、「陽気で牧歌的」であると同時に「輝かしくはあるが、非常に攻撃的」であり、「気晴らしよりは、嘆き悲しむような情念の表現に向いている」という。調性の特徴にあまり拘るのはよくないかもしれませんが、この両義性は重要だと思います。それについては後述します。
AメロBメロの比喩の激しさに比べるとサビは解説的になっていて分かりやすいと思います。風邪にやられて駄目になりそうになるけど、「夜明けを追い抜く」ように、「僕ら=君と僕」は「夢(=太陽)」が頂上にある「斜面」を見上げて、いつか「夢(=太陽)」に行けそうな気がするのです。
答えを出さない それが答えのような
針の消えた時計の 文字を読むような
まだ若すぎる
調性はまた嬰ヘ長調に戻る。
この歌詞で面白い所は「心」の存在する位置です。通常、「心」というものは、個人のうちにあるものです。しかし、ここでは、「心」とは、「僕ら(=君と僕)」の二人が共有している「場」なのです。だから、二人はある程度「全てを認めている」といってもいいような深い関係にあることが分かります。
そんな「心」にある「小さな空き地」。この空き地からは、「NとLの野球帽」で歌われたような、工業地帯にある寂しげな空き地を思い浮かべます。そうした空き地は、基本的には大人たちの目の届かないところにある子供たちのテリトリーであり、遊び場です。一番の歌詞にある「そして僕らは いつもの笑顔と姿で埃にまみれた服を払った」というところにも感じるものですが、どことなく童心にかえっているような気がします。そんな秘密の遊び場で、二人は喧嘩をしてしまいます(「互いに振り落した 言葉の夕立」)。「夕立」という言葉から、たんに喧嘩をしていることだけではなく、「空き地」で喧嘩が終わった後に「夕立」に打たれながら無言で立ち尽くしている二人がいる、という場景を私は思い浮かべます。
その場景が次の「答えを出さない それが答えのような/ 針の消えた時計の 文字を読むような」という言葉につながっていきます。二人は夕立に打たれ髪がびしょ濡れになりながら、互いに見つめ合います。二人とも、本当はお互いのことを分かり合いたいと思っています。しかし、二人は何も言いません(「答えを出さない それが答えのような」)。時計の針が消えてしまい、永遠に続くような気まずい沈黙があります。「永遠の謎」がそこにはあります。相手が何を考えているのか分からず、また自分自身が何を求めているのかも分かりません。やはり、「全てを認めてしまうにはまだ若すぎ」たのかもしれないのです。
以後、サビが多少の変化を伴ってリフレインされる。分かり合うことなど不可能なのかもしれないけれども、それでもOn Your Mark(位置について)! 「走り出」すしか解決方法はないのです。
曲のラストは、冒頭と同じようなピアノとシンセの静かな曲調になります。ここでは調性はイ長調である。最後に歌われるのは
そして僕らは
です。この「そして僕らは」というのはきわめて両義的です。というのは、そこにあるのは希望だけではなく、苦しみや失敗も内包されているからです。イ長調の調性が「牧歌的」であると同時に「嘆き悲しむ情念」であることが特徴であるように、僕らの行く道は「希望」であるのか「失敗」であるのか、最後まで種明かしされることはありません。しかし、決して「僕ら」は走ることをやめません。ここに「On Your Mark」のもっている奥深さがあると私は思います。行く先がどうなるのかは決して分からないけれども、苦しみを背負って、夢を目指していつまでも走り続けるのです。
コメントをもらってジブリPV版について思ったことがあるので付け足します。
「On Your Mark」のPVは、ご存じのように原発事故や放射能事故を主題としています。その主題設定も手伝って、近年ふたたび注目されています。宮崎駿は「タイトルや歌詞をあえて曲解し悪意に満ちた映画に仕立て、いつか来る未来に生きる」ことをイメージしてPVを製作したと言います。どう「曲解」したらこの歌詞から原発の話になるのか今まで分かりませんでしたが、その答えは「夜明け」という言葉にあることに気がつきました。「夜明け」というのは「太陽」の出現を意味します。ところで、「原発」という装置は、原子の核分裂反応から巨大な力を得ています。太陽は原子の分裂ではなく融合によって光り輝いており、厳密には太陽と原発の力は全く異なるものではありますが、しかしながら、原発は「地上の太陽」と形容されることも多く、文化的コンテクストにおいて原発と太陽は密接に結びついています。宮崎監督が「原発」をテーマにすべく「曲解」したのは、まさに「夜明け」という言葉に他ならなかったのではないでしょうか。「On Your Mark」の歌詞だけを見れば、正直なところ、反核運動よりも原発肯定に親和性を持ちます(すなわち、吉本隆明の立場に近いのではないか、と私は思います)。宮崎駿はそれを見越した上で、「原発事故が実際に起こった世界でもOn Your Markと言うことは出来るのか?」と問うたのではないでしょうか。映像を見れば分かる通り、宮崎監督は「できる」と考えたのでしょう。しかし、当時と今では世界が違います。今の私たちはまさに宮崎監督のつくった世界の中にいるのです。その世界において、私たちは「On Your Mark」を聞いてどう感じるのか、「On Your Mark」と言うことができるのかと、再び考える時にあるのではないでしょうか。
顔の真ん中に目がありふっくらしている→生得的にカワイイと認知
若い女性はお揃いで買いたがる→一緒に買わないと強い反感に→8人中7人は後悔する
結婚後は楽しませてもらったことより現実的な金銭の方が気になる傾向が
08:「カワイイ」と言うと顔が可愛くなる
14:女性は男の服装を見て稼ぐかどうかを判断している
稼いでる=自分の為に使ってくれると判断→お金を使わないと逆効果
◆女性が爪にこだわるのは何故?
手や爪は常に目に入る→満足感を得やすい
手や爪をほめられると自分で得た満足感が2倍に
18:アラフォーを過ぎると見た目では勝負できないからネイルをする
先っぽシンドロームの表れ→まつ毛のエクステ・肘膝のエステがアラフォーから格段に増える
結婚できないアラフォー女性の特徴→ネイル、エステ通い、海外旅行好き
19:男女の違いが出るのは指先
女性は女らしさを意識するとハイヒールを高くしたり爪を長くする傾向が
◆女性は「優しい人が好き」というが「優しい人」と「いい人」の違いは?
22:女性の怒りにすぐ優しくすると安い男に見られる
わがままな可能性大
28:多くの女性とHが出来る男は自己中でスリルを求める嘘つき
35:妻は夫のさりげない優しさに気付く余裕はない
猫は、ケガをしたりして弱っていると、安全なところ=自分のテリトリーに帰ってくる。
が、人間の目が届くところには顕れない。
一番安全なのは、誰の視線も届かないところ……それが飼い主であろうとも……という認識があるからだ。
子猫のうちからずっと育ててきた愛猫が、野良とケンカしてケガをして
2日の間隠れていたのは自宅の床の下だった。
どんなに呼んでも出てこない。返事もしない。
ただガサゴソと動く気配がするだけ。
カツオ節をお皿に入れて盛ってったら、ごそごそと這い出してきたので
首ねっこ捕まえて引きずり出して解決した。
以上、参考までに。
ちなみに「立ち別れ~」のおまじないは試した?
効く効かないではなく、できることをやると気がラクになるよ。
私は嘘をつくことが嫌いです。
私は、東京にある企業、福利厚生がしっかりしている企業、様々なタイプの人が社内にいて、様々なタイプの顧客を持つ企業、人とのつながりを大事にする企業という視点で、就職活動をしています。
私はやりたいことが特にありません。
私は、新しいものが好きです。
受け取り方によっては、ひとつのことを突きつめられないとも取れるでしょう。
そう受け取ってもらっても構いません。
私は自分にないもの、自分の考えからは生まれないものを求めています。
私は、内省的で、口数も少なく、友達も少なく、自分は何者でもないと思っています。
私は、社交的で、友達がたくさんいて、休日は旅行に行ったり、たくさんの友人とでバーベキューをしているような人に憧れます。
そういう人になりたいとも思います。
企業もそういう人間がほしいのではないかと思います。あくまでも一般常識がある人間でですが。
ですが私は嘘をつくことがとても嫌いです。嘘を付いている自分はもっと嫌いです。
私は学生時代こんなすごいことをしてきて、私はこんなすごい人間です。
口で言うだけなら簡単ですが、それは嘘です。
なぜなら私は自分のことが嫌いです。
私はすごい人間ではないです。
でもそれはできないことだと最近わかりました。
私は今の自分でいることに満足して、新しい自分になる勇気がないのです。
それでもいいと思います。
自分にできることを正直に真剣にやっていきたいと思っています。
私は嘘をつくことが嫌いです。
ですので私が考えていることをそのままここに書きました。
ギャンブルはしない、たばこは吸わない、お酒は休前日と休みの日に缶ビール一本、車の運転は超安全で一度も違反なし。子供二人を奨学金なしで私立大学を卒業させたし、定年後も65になるまで働いた。普通に真面目な人なんだとは思うけど、好きになれない。
昔「お前を養ってやっているのに、生意気な口をきくな」と言われてから、あまり好きではなくなった。これは義務教育は終えていた、高校生の時の話だ。確かに働くという選択肢もあるのに進学させてもらっているのは事実なのだから、反論はできないな、と思ったので黙るしかなかった。
誰かに何かをする事は父にとっては全て「してやっている」事なのだ。
買い物に行く時、「車で送ってやるしかないじゃないか」。電球が切れた時「電球を取り換えてやるしかないじゃないか」。
家族同士で諍いが起こると過去に自分がやった「やってやった」事を持ち出して、自分が優位に立とうとする。
定年後、家にいる時間が長くなったのでテレビを見て過ごしている時間が多い。ちなみにうちは居間にしかテレビがない。あまりテレビを見る習慣はないけれど、父親がチャンネルを占有しているので、居間にいるのが苦痛になって寄り付かなくなった。なんか、威圧感があって。
会話しても噛み合わないので会話したくない。一緒に暮らしていて、顔を合わせても私からは話しかけない。あちらから話しかけられた時だけ、無視しない程度の言葉を返す。
何十年も仕事をしていてお疲れ様、とは思う。仕事で管理者の立場にいたので、今度は家の中を管理しようとして、母のテリトリーだった家事にまで口出しをするようになった。料理を手伝う、とかなら可愛らしいものだけど、掃除や片付けの仕方を否定したりとか。今まで家事には見向きもしなかったのに。
母はストレスで突発性難聴になった。私もストレスを強く感じてる。私はいいんだ、家を出ていけばいいから。
休みの日が気が休まらなくて、一日中一緒の母は一体どんな気持ちでいるんだろうと思う。
さっさと死ねばいいのに、と休日に何回も思ってしまう。これって親に対してすごくひどい事言ってるんだろうけど、やめられない。駄目だなぁ。
外食するとき僕が最も恐れている事、それはそのお店が混んでて入れないとか初めて行ったお店が残飯レベルに不味いものを出してきてしまったとかではなく、自分の真横にクチャラーが座らないかどうかだ。
店の味なら食べログでも見ればいい。混み具合も食べログなり口コミなどで知れるだろう。ただ、自分の行ったタイミングで隣にどんな奴が座るかどうかは天下の食べログだろうとさすがに分かり得ない。
完全に運まかせだ。
食べる事が嫌いというやつはそう多くないだろう。僕だってそうだ。食べることは好きだ。その至福の時間をどこの馬の骨かも分からないようなマナーのなってない輩に台無しにされるわけである。本当に最悪だ。ぜひともノーベルぶっ殺したいで賞を授与してやりたい。
今日も新宿ナンバーワン人気のラーメン屋に数十分並んでやっとの事で美味そうなつけ麺とご対面したところで、隣のハゲ散らかした中年のおっさんにその至福の時間を邪魔された。なんで金払ってこんだけ長い時間待ったのに、一刻も早く店を出たいなんて気分になってしまうんだろうか。意味がわからない。これだからハゲはダメなんだ。クソが。何でそんなに咀嚼の回数多いんだよ。そんで何でそんなに食うの遅いんだよ。なんで一噛み一噛み几帳面に音を立てるんだ。死ね。ハゲ。
イライラしながら脅威のスピードで麺をかっこみ、味の評価もままならぬまま足早に店を出る。さあ、今日のノーベルぶっ殺したいで賞授与式会場は将門の首塚あたりにしようかしら?と思いながらターゲットのハゲの顔を思い出す。うーん、殺してくださいとでも言わんばかりの憎たらしいあの顔立ち。というかなんでクチャラーってハゲ率というか中年のおっさん率があんなに高いんだろう。これまでに出会ったクチャラーどもの顔を思い出す。どいつもこいつも中年ハゲばかりだ。死ね。ハゲ。
ハゲ共の顔が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、さっき勢い良くかっこんだつけ麺を戻しそうになりながらも、その走馬灯の中にいつも見ている顔があるのにふと気づく。そうだ、そういえばこないだの会社の飲み会の時、先輩もクチャラーだったことが判明したんだった。
先輩はいつも厳しいことを言いながらも僕のことを助けてくれる。会社の中で一番たよりにしている人。ハゲてもいない。
今日の僕なら、人がくちゃくちゃ音を立て始めるのを聞いた途端に眉間にしわを寄せ相手を睨みながら小野田坂道顔負けのハイケイデンス貧乏揺すりをし始めるのに、その時はそんなことは一切なかった。あ、先輩クチャラーなんすね、と、それだけで終わっていたのを思い出した。
何故だろう?咄嗟に拒否反応を示すべきクチャラーが目の前にいたのにかかわらず、僕はいつもの反応を示さなかったのは。
考えてみたけど、僕が先輩に心を開いている。その1点しか理由が見つからなかった。
初対面のやつに馴れ馴れしく肩組まれて話しかけられたりしたら、誰だってムッとしたり物理的に距離をおくなどのそれなりの警戒反応をするだろう。
それと同じで見知らぬハゲが隣で不快な音を出しはじめたら僕は不快感を表す。けど、それが見知らぬハゲでなく見知った頼れる人間であれば許容が出来る。
親しき中にも礼儀あり、確かにどれだけ僕が彼に心を開いていて、また彼も僕に対してプラスの感情を持っていたとしても超えてはいけない一線だってある。
しかし、僕の中で「咀嚼時に音を立てる」行為はその一線を超えていなかったようだ。
僕の中ではどうやら音を立てるというのは僕自身の精神的なテリトリーに踏み込むという行為に等しいらしいということが色々考えているうちに分かった。
満員電車の中で隣にいる奴がイヤホンから音漏れしてるとイヤホンをぶっこぬいて耳を引きちぎってやりたくなる衝動に駆られるが、会社で隣の席に座ってる同僚がイヤホンから音を漏らしていても特に気に留めない。
昔住んでいたアパートは壁が薄く、日中に隣からぼそぼそと声にならない声が聞こえてくると、無性に腹が立ってAVやお経を大音量でかけて謎の仕返しをしたりなんかしていたが、今思い出せば実家もそんな感じで声にならない声は聞こえていたはずなのに、気にならなかった。
自分と相手との精神的な距離感によって、僕の騒音許容量は増減する。音の大小だけでなくその性質も加味されるのであろう。
他人のテリトリーにまでずかずか入っていくのはおすすめしない。
ドラマやマンガみたいな青春を体験してみたいっていうなら別だけど。
あくまで各々がテリトリーを守った上でスマートに人間関係を構築していくのが90年代以降の主流の流れ。
「『止めるのが友達だ』という発想はぶっちゃけ古い。『止めずに見守る』というのもまた友達のあり方としてまんざら否定されるもんじゃないだろう」と。
むしろ「アンタは彼女であるにも関わらず何で彼氏が反社会的行為に手を染めていたことに気づかなかったのだ?むしろ彼との関係性をしっかり構築してこなかったアンタこそ問題なのではないか」とハッキリ言ってあげた方が彼女のためでもある。
「関係性に鈍感なアンタにオレの考えについてとやかく言われる筋合いなどない!」と強めに言うのも効果的かも知れない。
いずれにしても幸運を祈る。
会社で、「ビール部」という読んで字の如く、ビール好きを集めた集まりがある。
活動内容もシンプルに「ビールを飲みに行く」と、ただそれだけだ。
私はその部の活動(飲み会)には呼んでもらえない。
最低でも月一で活動しているらしい。
同僚がビール部の話をしてくる。
そんなに楽しそうなら、今度私も呼んでくださいよ、と言ってみたのだが。
私を呼びたくないだけなんじゃないか?
ビール以外に何も飲まないのか?
私を呼びたくないor呼べないのなら、なぜその話をするんだ?
お伺いするかのように言うのはなぜだ?
だったら、私に言わなければいいだろう。
あの苦い味がどうしてもおいしくない。
でも、お酒は好きだ。どちらかと言うとザルだ。
よく飲んでいる。
他の酒ならいくらでも飲めるのに。
さ酒を飲むのと、ご飯を食べるのと、みんなで遊ぶのは
大好きなので、よく企画を立てて遊んでいる。
私が誘うと一緒に行くけど、
そっちから呼んでくれることはないんだ。
そんなことは言ったこともないけど。
私を誘うと何かさわりがあるんだろうか。
当方男。自分のことは棚に上げて書く。
ネットでたまに新しい知り合いができるんだけど、女性に比べて、男性のつまらなさといったらない。受け答えのテンポや語彙のセンス、話題の広げ方やネタを拾う能力といった点において、面白いと思わせてくれるような男性が圧倒的に少ない。ある特定の偏った知識が豊富な人間は多いが、一人よがりになったり、そのジャンルの話を知ってることを前提に話を進めたりする。興味のない人間やそのジャンルを知らない人間にとっては、つまらないだけでなく、話を聞いているのが苦痛になることさえある。
もちろん個体差はある。自分が男ゆえに、女性を贔屓目で見てしまう可能性もあるだろう。しかしそれらを差し引いたとしても、男女のこの差は歴然としている。
なぜこのような差があるのか、考えてみた。
いわゆるネット志向の人間は、リア充になれなかった内にこもる人間が多い。その中でも男性の場合、自分のテリトリーの中でのコミュニケーションで満足してしまい、それ以外の一般的なコミュニケーション能力が不足しがちだ。なのでいざジャンル外の人間とやりとりしようとしてもうまくいかない。
一方女性の場合、自分のテリトリーを持ってはいても、その中でだけではなく、いわゆる女子的な一般に対するコミュニケーション能力が要求されるシーンが多い。男性よりも「見られる」場合は多いだろうし、いわゆる女子的グループに属することで「たてまえ」でやり取りすることもあろう。そういう経験ゆえに、同じネット界隈の人間であっても、一般的なやり取りをうまくこなせるスキルを身に着けている・・・のではなかろうか。
と同じ立ち位置だということを理解すべき。
つまり、一方的に加害者になりえる立場にいる人間だということ。
ネタバレについて過剰反応では?という言葉は、ネタバレを気にしない人間に言う資格はない。
ネタバレされたときの悔しさだとか無粋だと憤る気持ちを持ったことのない人間が何を言っても、それは対岸の火事に過ぎない。
逆に言えば、喫煙所(ネタバレOKであることが前提の場所)で何を話そうが、そこに非喫煙者(ネタバレNGな人)が入り込んでいってネタバレだなんだと叫ぶのはお門違い。
だから一方だけが過剰に反応されていることへの違和感など最初から存在しない。
昔なら個人サイトに検索避けタグ入れたり、厳しいジャンルだとパス制にして上げてたホモ絵を、ログインしなくても見れるSNSに堂々と上げるなんて考えられない。
子どもの頃、好きな漫画(少女漫画)のキャラ名を検索したらエロ絵が出てきたのが未だに忘れられないトラウマなんだけど
そういう被害を昔以上にたくさん出しているはず。
あとは個人サイトが廃れてSNS一辺倒になったのが単純に寂しい。
みんなが個人サイトを持っていた頃は管理人さんごとにサイトカラーがあって個性が出てて楽しかった。
web拍手があったお陰で憧れの人にも匿名でコソッと感想を伝えられた。
今は「頑張らない」感じが流行りなとこもあってpixivの個人ページすらあんまり弄ってない人が多い気がする。
相互お気に入りになっていない人はツイッターもフォローできない。
個人サイト主流の頃はただの落書きも、趣味に走りまくってちょっと見せづらいような作品も
自分のテリトリーに置いておく分には特に抵抗も無く、琴線に触れた人が数人いてくれたらそれでいいやくらいに思えてた。
直接の感想がなくてもアクセス解析でお気に入りから日参してくれてる人がいたり、無言の拍手があったりで支えられていた。
一方pixivに上げるとなるとどの作品も数字で評価されてしまう。
作品をうpしてしばらくはうさぎ(ブクマや評価が一定数を超えるとうさ耳が動くアイコン)とにらめっこ。
うさぎが元気ないとどん底に凹む。
あぁこの作品は上げない方がよかったのかもしれない。自分では上手く描けたと思ったんだけどセルフ補正入ってたんだ。増えないブクマを見ているくらいなら非公開にしてしまおう。
他人の作品を見てるときは、特にブクマや評価をしなくても感銘を受けている作品なんていくらでもある。ローカル保存して見返す作品もある。好きすぎて公開ブクマできなくて日参するような作品もある。
でも自分の作品となると、そこまで想像力働かせる前に心が折れる。
分かりやすく見える評価が思ったよりされないとどんどん萎縮していく。
他人のブクマ数を見ると欝になるから意図して目を逸らすようにしている。
作品を創るときも、自分が単純に描きたいものじゃなくて、どんなのが受けているのか研究して描くようになってしまった。
描くのが楽しくて楽しくて、評価なんて気にせずに紙と鉛筆をただただ消費していた頃に戻りたい。
pixiv主流になってから何度絵を描くのをやめようと思ったか知れない。
上手い人って本当に掃いて捨てるほどいるんだもん。日本人怖い。
そんな中で自分が絵を描き続ける意味なんてないんじゃないかって毎日思う。
ROM専なら気楽に便利に使えるし。
でもランキングに入ったり、自分の憧れの人にブクマしてもらえたりといった餌に釣られてまたうpしてしまう。
pixiv事務局からのメールを見た瞬間の脳内物質の量は半端ない。
それに、やっぱり絵を描くのが好きだからやめられないんだと思う。
原作読んだこと無いし、もともと剛力彩芽にそんなに反感ないし、ていうかもうちょっと頬骨張ってたらアメリカあたりで絶世の美女扱いされてそうだなっていう感じだし(森理世的な)、自分は本好きだし、ドラマも好きだし、ネット評とは相反して意外と楽しめるんじゃいかと思って。
なにが無理なんだろうって考えたのね。
いや、考える必要もないんだけど、だって剛力さんが夢に出てきちゃうんだもの。たった10分間の映像でこの人はなんでこんなに自分にダメージ与えてるんだろう、みたいな。
で、思ったんだけど、中学とか高校ってスクールカーストがあるじゃない。人気者が一番上で、オタクが最下層。その間に細かい階層がピラミッド型に形成されてる、的な。だけど、実質このピラミッドは二つあると思うのね。陽のカーストと陰のカースト、みたいな。サクッといえば、体育会系と、文化系の違い。体育会系のピラミッドのほうがより高位にあるけど、文化系のピラミッドもそれはそれで成立している。たとえば、今で言えば栗原類とか高校にいたら陰のカーストの最上位なんだろうなって思うのね。
この二つのカーストは全然相容れないわけ。交わってはいけないの。体育会系は明るいところで、太陽浴びてボディアンドソウル踊りだせばいいし、文化系は暗いけど涼しい校舎で、ほんとの幸せ探してればいいんです。
自分はバリバリ陰のカースト側で、学校で一番好きなのはいつも図書室だった。ちょっと埃っぽくて薄暗い本棚の間をすり抜けて、本棚と本棚のすき間にある小さな机と椅子が、自分の特等席だった。教室だと、陰のカーストと陽のカーストがごちゃ混ぜでいつもうるさくて、気の休まる暇がなかったんだけど、図書室は陰のカーストのテリトリーだった。陽の側の人って、絶対図書室なんかこないでしょ?学校生活はストレスそのものだったけどなんとか切り抜けられたのは「図書室」っていう聖域があったからだと思う。あんまり人の手に取らない本から舞い上がった埃が、すこし視界を曇らせて、そこに後の窓から柔らかい光がさしこんで、ソフトフォーカスのセピア色の写真みたいに見えて、遠くの校庭から運動部の声が聞こえてくる、その声の遠さにまた少しほっとする。そんな癒しの場所だったのね。
だから、ビブリアの冒頭見たとき、「ああ、いいな」って思った。懐かしい、って。最後に誰が手にとったかわからない本が山積みになってその中に埋もれるような場所がある。ああ、なんて素敵な。
で、そこに座ってるのが剛力彩芽。
いやいやいや。
もう、なんていうか、輝いちゃってるのね。薄暗い場所で。陽の雰囲気を隠し切れない。私、ハツラツとしてます!活発です!運動神経いいです!校庭駆けまわってます!思ったことはなんでも言っちゃいます!ときどきそれで角も立つし、誤解されたりもするけど、それもまた魅力でしょ!っていう。どっからどうみても、陽のカーストのトップはっちゃってるわけ。アタックNo.1なの。
違う、違う、違う。あんたはそこに入っちゃいけない。そんな埃っぽくて薄暗い所は、あんたには似合わないからさ、お願いだから、はいってこないでって。そこはね、陰のカーストの人間の、数少ない聖域なんだよ。明るい方の人は、いいじゃん、居場所がいっぱいあってさ。教室も校庭も、体育館も、みんなあんたたちで埋め尽くされてる。でも、私の場所はそこしかないんだよ。たとえばそこに綿矢りさがいたら納得して譲るよ? でも、そこにアタックNo.1がいるのは無理だ、聖域の陵辱だ。
まさか鵜呑みにしちゃっている人いないよね?
そりゃレイプ被害にあったことを回りに言いふらすやつはいないだろうよ。加害者がどこの国の人間だろうとね。
屈強な米兵がうじゃうじゃ居る場所にあえて行くやつは少ないだろうよ。
> 互いのテリトリーを知ってか知らずか超えてしまった時に不幸な事件が起こる確率が高くなる。
米兵が犯罪犯しに超えて来るんだよ。
> 沖縄本島には10年以上いたけど米軍さんの振る舞いで嫌な思いをしたり危険を感じた事は皆無だったな。
基地周辺に近づかなければ直接体験する可能性は低いよね。米軍の事件事故を無視し続ければ、嫌な思いはしないよね。
> 米軍さんが起こした時にあたかも日常茶飯事の如く報道して情報操作するメディアがとてもいけ好かない。
大きく取り上げてはいるけど、「日常茶飯事の如く」って感じるのはマジ主観だよねー。
全体に、「ネットで知った真実」が散りばめられているように見える。アメ女周りの話はネタ臭
本州って言い回しは面白いよね。九州四国北海道にはすぐ分かってもらえるのか。
沖縄の人だと普通、県外のことを内地とか本土っていうけど、この人はどうしても沖縄の人たちと同じ言い回しをしたくないんだろうなー、なんてことをぼんやりと思った。
まあ、主観ですけどね。
好きな女の子にベッドで「好き」って言わせた。うれしくていろんな感じの脳内麻薬がドバドバでた。脳内麻薬って頭の後頭部から前に流れるのがわかる。彼氏居るのを知っててちょっかい出してたので僕は最低の人間だと思う。別にここで弾劾されたり懺悔したいとかそう言うのでは全くない。キリスト教には七つの大罪があって僕はコンプガチャばりにコンプしてる気がするけど家でウジウジしてるよりはいいんじゃないかなと思う。キリスト教徒じゃなくて本当によかった。
女の子をやっつける(c)高田純次ためにはタイミングが2つあって、コンパとかでお持ち帰りするみたいな短期決戦タイプと時間を掛けて落とすタイプに分類されると思う。前者はナンパが得意なイケメンのテリトリーなのでそういう奴らに任せておけばいいし、奴等の狩り場に現れても惨敗するだけなのでいろんなコストの無駄になるので無駄なことはしない。僕は後者で気に入った女の子をコツコツ時間を掛けて何とか努力する。この努力を仕事に転用すればそこそこの富豪になってると思う。頑張るところが確実に間違ってる。今回は2年掛かった。
人間誰しもハンデが大なり小なりあって、足が短いとか貧乏とか仕事が不安定とか根性が悪いとか・・・欠点なんてここに書ききれない程あって人の良いところ探すより欠点探す方が楽なのは言うまでもない。昔知り合いの美人に「お前は美人だからいいよなー。」みたいな感じで顔見る度にからかってたら、「みんなは私のどう思うか知らないけど、私も毎朝自分の顔を鏡で見たらいろんなところが気になって仕方がないのよ。」って諭されたので人には悩みがそれぞれある事を理解した(それでも幸せな悩みだと思うけど)。
兎にも角にも人間必要なものは冷静さと自分に対する客観視だ。芸能人は世の中の人気と実力に対する自分の発言が明後日の方向に向かってしまった場合、悲しいかな往々にして世間様から叩かれてしまうし、社会人だって自分のスキルを越える仕事を受けたら炎上するのは世の常だ。別に背伸びするのが悪いって話ではないし、仕事でも背伸びして実力が上がる事もよくある。まわりのブスがブリッ子してたらぶっ飛ばしたくなるだろ。
上にも書いたけど、女の子と何とかしたけりゃ自分がなんとかできるテリトリーで狩りすればいい。オタクなのにイケメンの集まりで勝負しても勝てるわけがないし、貧乏人が金持ちの集まりに入ったところで単純に恥をかくだけだし、低学歴が高学歴のコミュに所属しても全く意味が無い。
僕も含めた不細工はとにかくコツコツ時間を掛けてカマかけろ。頑張ってご飯に誘え。1人だけじゃなくて気になる子全員だぞ。お前らの大好きなマルチタスクだよ。それ以上も以下もない。このご時世で恋愛だけシングルタスクって笑える。余談だけどご飯の食べ方汚いやつは女子からもどん引きされるし、頭悪い女の子しかついてこない。
とりあえず気になる子にはきっかけとしてのご飯だ。自分の得意な分野があれば映画でもプロレスでもメイド喫茶でも何でもいいしヒルズにある下着屋の女社長の家でドラッグでもやってろ捕まっても知らないけど。自分の戦場で戦えばいいし背伸びしてるのってバレバレだよ。イケメンには負けるけどマメな男は本当にモテる気がする。マメさは恋愛における不細工族に残された最後の砦だ。
コツコツ遊んでると女の子って時々弱み見せたりするからそこはできる限り優しくしよう。経験値的にイケメンって自分がモテる側だから女の子の扱い悪いやつが多いので、不細工はマメさと優しさを武器にしてると時々コロッといくからそうなればこっちのもんだ。
この間無理メの女の子と初めてセックスするときにチ○コ入れて見つめ合ったら2人とも大爆笑した。女の子に「お前のマメさすごい。」って言われたから「ざまーみろ」って返しておいた。
それでも相手にされなかったら?女の子は掃いて捨てるほどいるんだから。相手にされてない時点でお前がその子に勝手に妄想してるだけでただの他人なんだから諦めて忘れろ。そのためのマルチタスクだよ。サクッとプロセス終了しろよ。PCとかiPhoneとかのプロセス簡単に落とせるくせに異性のプロセスは落とせないとか平成になったのにシングルタスクで昭和のPC使うとか新しいギャグか?
イケメンが野球でいうところの四番バッターなら僕らはCクラスの下位打線だよ。でもバッターボックスに立ちたいなら打率少しでも上げる努力しなきゃ。
生きるのが下手な拒食メンヘル女って、普通にある精神疾患でめずらしくないです。あなたに必要なのは、心配してくれる友達でも男の絶望でもなく、拒食患者の診断経験が豊富な精神科医です。
盲腸を自分で治そうとして治せる人が少ないのと同じで、自分でなんとかしようと頑張れば頑張るほど、大抵の人は失敗して他人に迷惑をかけて苦痛が長引くだけの結果になります。普通にプロの人のカウンセリングを受けた方が楽ですよ。
拒食で思い出したんですけれど、以前よく読んでいた詩人で、伊藤比呂美さんという方がいらっしゃいまして、彼女も思春期にすごい拒食生活をやっていた方で、そのことを詩やエッセイの中で書いておりました。
「あかるく拒食ゲンキに過食」とかエッセイは普通に読みやすいですが、「青梅」とか「テリトリー論」といった詩集は、どれもシャレにならない人生の断片を含んでて、読んでてとても怖かった。
ユーストに行くと比呂美さんの映像いっぱいころがってますね。たとえばココとか。
http://www.ustream.tv/user/bungakutai
彼女の場合、たぐいまれな表現能力があったおかげで自分でなんとかできたタイプの人ですが、あれは普通の拒食の人には真似できません。詩でも絵でも歌でも編み物でもなんでも、自分を表現する方法を獲得すると、拒食という表現は自然と消えてなくなりますが、それまでの間は、プロのアドバイスを受けた方が楽ですし早く楽になれます。
まあ、生きる実感の楽しみ方は人それぞれなので、いまのあなたの生き方はあえて否定はしません。好きなように生き、好きなように死になさい。ただし他人には絶対に迷惑をかけないように。