はてなキーワード: じわじわとは
まず、ゲームの名前を記事内では仮に「A」とし、正式な名称は伏せておく事をご了承下さい。
読み終えて尚「なんのゲームについて話しているか分からない」という方がいらっしゃると思うと心が痛むのですが、きっとその方はこのAに関わることの無かった幸福な人だと考えこの形を取らせていただきました。心当たりのある方だけ読んでいただければ嬉しいです。
Aを始める→A内で問題が起こっていた事を知る→Aをやめる→Aを嫌いになる
となります。
本当はここでA内の問題について詳しく語った方が良いのでしょうが、省きます。他の方が丁寧にまとめて下さっているのに私がわざわざ言及する必要もないと思うからです。
私がこの記事で書きたいのは「やめてから嫌いになった経緯について」、その一点です。
やめた当時、私はAそのものにそこまで嫌悪感はありませんでした。ただ「問題を起こしたようなゲームをわざわざ続けたくもないな」という軽い気持ちでプレイするのをやめました。
…「問題が解決したらまたプレイしようかな」位の気持ちは持っていたのです。その日はいつまでたっても訪れてはくれませんが。
嫌いになった理由の多くはAのユーザーだと言っていいでしょう。
Aの問題が大きく取り沙汰された後に当時のフォロワーが口を揃えて言った言葉が「キャラが好きだから」でした。この文を見かける度に私はゾッとしてしまうのです。
キャラクターが好きだから、なんだって言うんだ。やめた私にはキャラクターへの愛が無いとでも言うのか。汚い土壌に好きなキャラを乗せたくないというのは間違っているのか。解決していない問題に目をつぶるのが愛なのか。
そんな事を必死に考えて呟こうとしては消し、呟こうとしては消している内に、好きだった筈のキャラクターさえ歪んだ土の下で育った気持ちの悪いものとして映るようになってしまいました。
私はAのユーザーである彼女らをブロックして、何も呟かずに自分のネット上のアカウントを消しました。
アカウントを消す前に上記の言葉を問いかけておくべきだったと今では思います。ですがあの時は逃げるのに必死でした。「好き」なら擁護される問題が、擁護するユーザーが、怖くてこわくてたまらなかったのです。
ブロックしてから半年経った彼女らが何をしているのか私には分かりませんが、愛とやらから解放されていることを切に望みます。
これが私がAを嫌いになったきっかけです。その後もじわじわと嫌悪感は膨らんでいく事になるわけですが、今回は「嫌いになった話」としてですのでこちらの話に留めさせていただきます。
今では「Aの問題はもう解決している」という文もよく目にします。
私はそうは思えません。問題の解決というのは、双方からの結果報告があって初めて終わる物だと思っているからです。被害者側の意見が見えない状態で加害者側が一方的に「解決しました」と言ったのを信じるのは馬鹿のやることではないでしょうか。
ここまでユーザーを責めるような文が続きましたが、私は何もユーザーが悪いという話をしたい訳ではないのです。悪いのはAのゲームそのものなのですから。
そもそもAが問題を起こさなければ、こんなにも問題解決までの期間を長引かせなければこんな事にはならなかった。Aが問題を起こしたせいでプレイヤーが叩かれているのだから、プレイヤーは怒っていい筈です。
さて、この記事を通して私が現プレイヤーに、Aの問題を知っていて尚Aを続ける方々に問う事があるとすればひとつ。
このままいつか改善される事を信じてプレイを続けても叶う筈が無いことは、一年も経っているのだから分かると思います。
批判を押しきってまでやる必要性が何処にあるのか、ゆっくりと考えてほしい…私からはそれだけです。
乱文失礼いたしました。
2016/3/19
これを読んで思った事。
大体こんな流れになっていくんじゃないかなと。
これは良かった。かなり動くけど面白かった。
ただ、主観視点のときはいいんだけど客観になるとどこ視点の動きなのか迷う。
あと、目の位置が動くので視線が落ち着かない。慣れるまで少しかかった。
それと、背もたれの腰の辺りのマッサージチェアみたいな動きが急に来ると後ろの奴の足が当たったのかと思って驚く。
さらに、前の方の座席が動いてるのが視界の端にちらついて微妙に気が散る。最前列推奨。
とはいえジェットコースターのシーンなんかは特に面白かった。面白かったのだけど・・・
そのジェットコースターのシーン、トンネルに入ると火花が飛び散って格好いいのだけどそこでフラッシュの効果が出る。
邪魔だ。暗い画面の中で火花が散る絵の格好良さがフラッシュで白く飛んだスクリーンじゃ台無しだ。
画面の中で表現されてるものを画面を見づらくしてまでかぶせる必要なくね?
これもそう。画面の中の煙を外に出さなくてもいいだろ。
見づらいのもあるし、シーンが切り替わっても微妙に残ってたりするし。
じわじわ出てきてしばらく残るんじゃなくて一気に出てすっきり消えればいいのに。
あの出方だと霧のシーンだったらアリだけど爆発のシーンには合わない。
可もなく不可もなく。
エンディングでは良かった。風呂場のは笑っとくべきなんだろうたぶん。
これはすごく良かった。特に冬場の映画館は基本的に暑い。なので風がすごく心地良い。屋外感ある。
音はもう少し抑えて欲しい。送風音がわりとうるさい。
背もたれの顔の横辺りから空気がプシュッと出る。砲弾がかすめて飛ぶような場面で多用されてる。
画面の中では多くの場面で砲弾は画面奥からこちらに向かって飛んでくる。
あと単純にプシュッて音が邪魔。
途中でポップコーンの匂いに混じってほんのり何か別の香りがしたような気もするけど分かんねーよ。
俺は華さんじゃねーんだよ。
ダージリン様セット買うなら帰り道で。
4DXの機能ありきで作った映画なら見に行くかもしれないけどそうじゃないなら普通の方がいいや。
絶賛してる人も多いけどこう感じた人もここにいるよってことで。
4DXとは関係ないけどユナイテッドシネマの音響は苦手だと分かった。
普段は近場の別の劇場なので距離があるユナイテッドシネマは数年ぶりに行った。
何ってキンプリです。KING OF PRISM by PrettyRhythm。公式サイトはこちら→http://kinpri.com/
最近ちょこちょこ話題になってネットの記事とかアップされているのでググればすぐでてきます。
というまあ映画館でペンライト振ってキャーキャー騒げるやつでこれがやたら楽しいのです。何回も行きたくなります。中毒患者を量産するのでシャブ映画と言われたりしています。
この応援上映が評判となってじわじわと人気が広がり上映館も増え今に至るわけです。
あれっとなったのは2月半ばだったと思います。ストーリーが追えなくなりました。誰かが喋る度に合いの手というか茶々が入る。しかも大勢で長々と。台詞にもかぶせてきて内容が聞き取れないことも多かったです。ストーリーが無いから問題ないと言っている人はちゃんと映画を観ましょう。しっかりストーリーありますよ。
そしてつい先日。あるキャラクターに対する野次への問題提起がありました(念のためそのツイートをされた方は私と無関係ですよ)。内容は「仕事しろ」とか「一般人」とかです。実際どうなのかというと彼は仕事もしているし主宰なので一般人ではありません。もともとあったアニメの方で敵の謀略によって失脚したときにそう呼ばれたことがあるのです。
この野次に関してここでどうこう言う気はありません(不快なのは確かですが)。
私が気になってしまうのはそれって「応援」なの?ってところです。上記にあるように応援上映は「プリズムスタァ」に対する「声援」を送るイベントです。
キャラに対する野次(a.k.a罵声)や台詞にかぶせてまで言おうとする大喜利大会って誰のために言ってるんですか?
「それな」っていちいち言わないと同意もできないんですか?
ニコニコ動画のノリを現実に持ち込むと心底シラけるってまだ気付いてないんですか?
もちろん大多数の方はマナーを守っています。ですがそういう人がいるんです。たまにではなく毎回のように(主に関東にて観測)。
さすがに同じ人が毎回鑑賞しているとは思えないのでそれぞれ違う人でしょう。
http://kabumatome.doorblog.jp/archives/65854456.html
読んだ。以下長い。
まずミスドがじわじわ削られてる理由だが、これは「選択肢がミスドしか存在しなかった」状況だと、商圏がもんのごっつ広大だったのが、コンビニでも(質はどうあれ)置いてあるとなると、遠方の人間は「しょうがない、コンビニでいっか」ということになるからで、実質的に商圏が狭くなっているせいだと思われる。
商圏ってのは物理的な距離もそうだが、心理的な距離も影響する。たとえば東京都内に住んでいて「徒歩25分」は論外で商圏外だが、田舎に住んでて車で25分は商圏になりうる。で、物理的心理的な面を含めて商圏から外れた人たちからミスドから離れていくということである。行くの大変だから。
ミスドの売上が「じわじわと」削られている理由はそんなところかと。
で、実質的にコンビニとミスドでドーナツが競合しているかというと、俺はかなり怪しいものだと思う。というのは、買う理由がぜんぜん違う。ミスドに行くときに「ドーナツは目的じゃない」という人はわりと少ない。わりと、というのはミスドは業態として「コーヒー一杯でゆっくりする」というのも店舗によってはけっこうあるからだが、売上全体に対しての比率としてはかなり少ないんじゃないかと思われる(ここ完全に憶測)(データ知ってる人いたら補足してください)。
ということは、ミスドに行く人は相当の高確率で「ドーナツを買うよ!!!」という気で行くということだ。対するに、コンビニで「ドーナツを買うよ!!!」という人はかなり少ない。ほとんどがレジカウンターに什器が置いてあることによる衝動買いだ。つまり「買う気がなかった人が買う」ということになる。もしそれが潜在的にミスドの客になりうる人間だったとしたら、とりあえずその人のドーナツ欲みたいなものは収まるので、結果としてミスドの売上を削ったということはいえるかもしれない(現状ではまだその比率は無視していいほど低いと思ってる)。
で、さて、コンビニのドーナツが売れない理由なのだが、実は味はあまり関係ない。味や、健康へのよしあしについては、そのことに意識的な人間が客層として多く含まれる場所に限って影響する。つまり都心のオフィスや、比較的若い客層が多い場所などだ。あとはあれか、新興住宅街とかで平均世帯所得が比較的高い地域。しかし日本にはそうでない場所のほうが圧倒的に多いし、そうでない人口も相当の比率を占める。そっちのほうが多数派なんじゃねえかな。とりあえず「ロードサイド」っていう言葉でも放り込んでおきますね。
で、そういう層に対してより意味を持つのは「味強い」「甘い」「食いごたえある」のほうである。なんだかんだいって健康にいいものって売れない。たとえば、週に100個単品で売ろうと思ったら、よほどのオフィス立地でない限り難しいはずなのね。でも健康に悪いもの100個売るのは、展開によってはわりと簡単。これは上述のオフィス立地を含めての話。
そういう意味ではセブンのPBでもヤマザキでもなんでもいいんだけど、ああいう菓子パンベースのドーナツって実はけっこう強い。なにしろ甘くてくどい。そりゃミスドとコンビニのオールドファッション並べて食いくらべたらミスドのほうがうまいってのはだれにでもわかることなんだけど、そもそもコンビニのメインの層のうち、何割が「ミスドのオールドファッション」の味を記憶として保持してるのかって話。なにしろ母数違うから。ミスドは老若男女だれもが頻繁に利用する場所じゃない。コンビニはだれもが頻繁に利用する場所。
つまり、母数が違っていて、しかもコンビニにおけるその母数の大部分が「味とか大して気にしない」「ミスドを日常的に利用しない」層である以上、コンビニのドーナツはそれらの客にリーチする可能性はあるってわけ。
でも現実的にはしてない。売れてない。らしい。
じゃあなにが問題なのかって話なんだけど、ひとつにはやっぱブコメにも指摘があったように「ミスドというブランド」が強すぎるんだと思う。味の直接的な記憶はなくても「ドーナツっていったらミスドでしょ。次にミスド行く機会があったら食えばいい」ということになる。つまり「ミスド=美味しい」っていう信仰だよね。買うか買わないかっていうのは、ものすごく細い尾根道を歩いてる人をどっちに突き落とすか、みたいなところがあって、わずかな揺れで買うほうへ、あるいは買わないほうへ転がっていく。そこでミスドが抑止力になってるんだとしたら、このブランド力はすさまじいということになる。
次に単純にオペレーションの問題。早い話「買いづらい」。レジにおける客の動きとか雰囲気ってここ10年くらいでえらい変化した。昔は2台それぞれに並んでいるどころか、どうかすると1台のレジで4人並んでいてももう1台を開放しないところなんかザラだった。ところが現在ではけっこうな確率で櫛型に並ぶし、客のほうも列を維持することに自覚的。そして自覚的であるぶんだけ「ルールを守らない人間」を非難する空気は強くなってる。レジで揚げ物を買いづらいなんてのもこのへんが理由になってるフシが強い。
ましてドーナツである。それ単体で何種類もある。どのタイミングで種類をチェックすりゃいいのか。上にメニュー看板があるわけでもない。単純にいうと、衝動買いメインである商材なのに、その衝動買いを起爆させるための導火線がまったく設置されてない。導火線は基本的に揚げ物なんかにつながっている。客の店内における動線ってのがある程度は定まってる(そういうふうに売場は作られている)以上、導火線も何本も設置するわけにはいかないんである。そして衝動買いが発生しない以上、その先にある目的買いも発生しない。そういう理屈になる。
つまり、客に買わせるためのシステム作りが拙い。俺はそう考える。種類がある商品は「選ぶ」という行為と「買う」という行為の距離が近くないとだめ。コンビニにおけるドーナツは、その二者のあいだに距離がありすぎる。
じゃあどうすりゃ売れるのかということになるんだが……。
いくつか考えられるが、どれも現実的ではない。
・価格アホみたいに下げる
・店内調理を取り入れる
・客がセルフで取れるようにする
とまあ、ざっとこんなところだ。ほかにもまだあるが、ネタの領域に近づくので書かない(まあ現実的にはその「ネタとしか思えない」の領域から新しいやりかたが出てきたりもするんだが)。
そんで、俺の考えるコンビニのドーナツの今後である。基本的に業界の動向を決めるのは某7の数字がつくチェーンなので、あそこの動向だけ見ていればよい。
とっとと諦める可能性はゼロではない。あの程度の投資など撤退したところで別にどうってことないだろう。あのチェーンなら。扉のない平置きタイプの冷凍庫なんてドーナツ什器とは比較にならないくらい高い。そういうもんを、増えた電気代もろとも吸収するチェーンである(もちろんそのぶん売上は上がってるだろうが)。ドーナツ什器くらい「だめだった♪いっけなーい♡」くらいの勢いで捨てる。
諦めなかった場合だが、店内調理とか価格破壊なんかは比較的可能性が低い。あのチェーンは伝統として店内調理に関心が薄い。某青いチェーンとかヤマザキデイリー(特に後者の一部店舗)が店内調理に関して、進化の袋小路みたいな実験を繰り返し、その一部をレギュラー店にも還元しようとして失敗してるのを横目に、某11の数字がつくチェーンはほとんどそういうことしない。
可能性としていちばん高いなと思うのは「新しいドーナツ体系」を作ってくるということだ。それがどんなもんかは俺にもわからん。が、あのチェーンの歴史ってのは基本的に「消費者の潜在欲求に触手を伸ばしその触手から”君が欲しいのはこれだね……これなんだね……”といやらしい粘液を送り込んで消費者を触手なしでは生きていけなくする」という手法で成立している。あのチェーンがすごいのは、その触手の性能である。太くて、長くて、しかも粘液の量多い。絶倫である。ほかのチェーンはや業態もあわててまねをするのだが、しょせんまねごとの触手であるため、かえってオリジナルの養分にされて終わる。「やっぱセッッッッブンイレブーーーーーンヌだよね!」という消費者の暗黙の賞賛を売上というかたちで得てしまうのだ。
もしドーナツについて例のチェーンが本腰を入れてくるなら、その「だれも考えてなかったが、いわれてみればこれだった」という手法を何年かけてでも見出してくるに違いない。
そう。何年かけてもだ。あのチェーンほんといやな。ミスドがんばって。
いつもおかしいだろ。と言われればそれもそうか、と納得する。
ネタが強烈すぎて、本人の描写含めてほぼ創作なんじゃないか、あの亡くなった部長さんはフミコフミオ氏の一部なんじゃないかと疑ってる。面白いからいいんだけど。
これから、人口の3分の1か2ぐらいが死んでいく時代に入った。過去の火の戦争のような派手なものではなく、じわじわと貧困貸して死んでいく新しい時代の戦争。
主に情報戦で行われる。頭の弱さと心の弱さが試される。少しでも弱い心があれば、いっきに崖から転げ落ちる。
思考停止や甘えた発想は命取りだ。
おバカは、自分が助かる方向と逆の方向へ走ったり、助けてくれる相手を叩いて邪魔をする。サバイバル映画とかで真っ先に死んでいる脇役だ。実際の戦争(太平洋戦争など)とかでも、そんな人間はいたのだろう。
プライド、嫉妬、欲望、怒り、偏見、差別、これらを抱いていると生き残れないが、残念なことに多くの大衆は、この感情にどっぷりと浸かっている。
これはあくまで東京都区部を生活圏にしている自分から見て、という話なんだけども、
どうもここ数年、酔っぱらいにやさしい風潮が広まっているような気がしてならない。
というのも、電車の中でビールやチューハイの缶を袋で隠しながら飲んでいる人は前から多少はいたが、
近頃は会社帰りのリーマンが連れだってコンビニからビール缶を手に手に出てくる。
またメディアでは「昼呑み」やら「朝呑み」やらが取りざたされ、店先でもアピールに余念がない。
立ち飲み屋が世代問わず人気だったり、いわゆる「センベロ」という言葉を聞く機会も増えた気がする。
ふと「ハイボールの流行」がその流れに影響しているのではないか、と思った。
いつからだか具体的には思い出せないが、じわじわとハイボールが流行りはじめた。
自分の周りでも、最初の数杯はビール、あとはハイボールで、という人が増えた。
そして今や「流行り」ではなく「定番」として受け入れられている。
扱われ方としては、ビールの代わりにゴクゴクいける酒、という感じか。
しかし、このハイボールはウイスキー、つまりはハードリカーを割ったものだ。
ゴクゴク飲む酒として代表的なのはやはりビールだが、アルコール度数は5度前後のものが多いだろう。
一方、ハイボールはどうか。
それにもし、これを自宅でつくって飲むとなれば、
酔いが進むと同時に濃くなってゆくのも自然のこと(自分のことです)。
実際、サントリーが缶で売ってるハイボールは通常で7%、「濃いめ」と称するもので9%だったと思う。
15度前後の日本酒やワインをビール感覚で飲む日本人はそうそういない。
確かにハイボールはそれらと比べれば低い。
低いが、ジョッキとか、メガハイとかいうノリでゴクゴク飲んじゃってもいいような酒なんだろうか。
でも「酒離れ」にはなっていないのではないかと思う。
ハイボールの流行に関して、これもまた自分の感覚なんだけれども、
簡単な話、ハイボールがなぜ流行ったかというと「安くて強い」からだ。
あの地震の影響もあるかもしれない(時期的にも少し被っている気がする)。
そしてどうも最近、ある種の「諦念」が世の中に蔓延しているような気がしてならない。
これ以上がんばってもどうしようもない。報われない。あの頃とはもう違う。
それならせめて楽に(酔っぱらって)生きようじゃないか、という空気が。
しかしハイボールという酒が、その流れを加速させているような気がしないでもない。
水は低きに流れるという。なら酒はどうか。
もっとも、自分自身も他ならない(からこそこんな文章を書いてみた)。
そんな流れに流されまくって週末ともなれば昼から酒浸りになっている自分のような人間は、
ハイカーストのお歴々にひたすら搾られる側なんだろうな、とも思う。
といったことを考えながら通勤電車に乗っていたら、
「私らしく、なんてどうでもいいじゃない。」
何とも言えない気分になった。
小泉政権が2007年頃だから、この時までは国民の意識は1億層中流が当たり前だった。そして、じわじわと二極化が始まった。
(最近では、今始まったばかりの風潮を昔からの風潮だと歴史を曲げる手法が流行ってるけど年代・歴史整理すると嘘が良く分かる)
私は、小泉政権のお陰で少しは恩恵を受けた?方なので反対派ではない。小泉政権以前は、今以上の出る杭は打つが酷くて横並び意識、且つ、閉塞感が充満していた。マイノリティは村八分という差別も強烈で、ガチガチに固定され一ミリたりとも流動していなかった。
そして、それから数年、格差はますます開き始め、落ちていった者(負け犬)の数が増えてきた。
その落ちぶれていった人達の怨念の塊が、今、徐々に膨らんでいっている。
負け犬に落ちていない側も、少しでも落ち度を見せれば、怨念の塊が足をつかんで引きずり落とそうと狙っているのでオチオチしていられない。
今の日本の状況とは、そんな感じだ。
状況を整理して、どうしたら良いか考えなくてはいけない。
人間は皆一緒ではないし、個体差もあるので、必然的に頑張るものと頑張らないものが生まれる。
平等にするべき部分と、平等にしてはいけない部分は何なのか?明確にしなくてはいけない。
種の保存の勝者である専業主婦が、独身仕事一筋のキャリアウーマンを袋叩きにする、または、その逆?もあるのだ。
今、日本人に足りない賢さや考え方、学ぶべき事は何なのか?
整理して、それを共有しないといけない。
(自らの選択に個々が責任を持つことだろうか?その選択には常に、光があるのではなく引き受ける負の条件があるということだろうか?)
自らの失敗の原因を見つけて、反省しないと同じことを繰り返すだけ。(いくら人のせいにして、ストレス発散しても、自分が引き起こしてるのだから学ばないと何度も失敗する。)
でも実際に災害や事故のような急激な死に直面したら、即死でもない限り、身体がじわじわと変化していって二度と戻らない方向へ向かっているのだということを認識して、抗えないものに支配される恐怖に包まれるんだろう。こんなのは嫌だという感覚のまま死んでいってしまうんだろうなと思った。
結局何が悪かったのかわかるようでわからんようで、まだ正直気持ちの整理もできていないが、落ち着かせる意味で増田に書かせてもらう。
今度、35年つとめた会社を退職することになった。いや、正確には一応は役員になっているから、解任か。
解任理由は簡単、
会社人生ではいろいろやった。自分なりに会社に貢献してきたつもりだったし、事実、苦しいときには俺がやった事業が会社の新しい展開をやれたとは思う。
ただ、その事実そのものを、専務の奴は気にくわなかったんだと思う。
もういい加減、愛想が尽きた。今は、あんな会社は徐々に腐っていけばいいと思う。
入社したときは、企画職でも営業でもなく事務職だった。ただ、ちょうどその頃会社はその頃の看板商品が大ヒットしていて、人手が足りなくなってた。
そこで、他の部署に応援に回される事になって、いろいろな部署の応援をやった。
人海戦術のDM発送、苦情受け付けに倉庫整理、制服の繕い物、展示会の売り子から営業の補助まで、何でもやったよ。その中で、最終的にある製品企画のプロジェクトに回された事が転機になった。
そのプロジェクトは全然注目されて無くて、一応商品化は済ませていたものの、社長や専務の覚えも悪く全然売れてなかった。
ただ会社の景気だけは良かったからお取りつぶしにされる事無く済んでいた。
こんな、他にもいくつかあったプロジェクトの一つだった。一応は責任者という立場だったが部下はいなかった。
会社はどこまで行っても同族企業で、その上社長や専務が強力なコネクションを持って仕事を取ってくるような所があった。
だから、社長や専務の覚えがめでたけりゃ予算をもらえてそれだけである程度売れる。
ただ、そういう所はひたすら専務の言うことを聞いてなきゃだめ、言いなりになってないと駄目と言う感じだった。
一方で、そうではないところは完全に日陰。だから俺がやる事になった所は、商売としてはさっぱりだったが、その代わり注目もされないので専務に横やりを入れられることもなく、自由にやる事ができた。とにかく当時は看板商品が売れに売れてお取りつぶしにするような手間すら惜しかったのだろ。
どうせつぶれるのだろうし、いろいろな場所でいろいろな手伝いをして歩いてずっと考えてたビジネスプランを実行してみることにした。
それが、当たった。ビジネスプランには自信が無いわけじゃないが、時代に当たった運もある。
もちろん、始めはいろいろと難しかったけど、取り組み初めて数年で軌道に乗り始めた。
バブルの残り香が消え始め、酔いが覚めるように人々はだんだんともうバブルは終わったんだと言う空気感になり始めた頃。そんな時代が切り替わるタイミングというのはいろいろと古い商売と新しい商売が入れ替わっていく。
そんなタイミングにあっても、出た芽は小さくて、昔からの商売をしている人にすれば、たまに生まれてすぐに消えるようなものに見えていたと思う。だからそう言う新しいことをやろうとしている人は、今の商売でうまくいっている人々に相手にされていなかった。
そこに俺は、今の商売でうまくっている所の看板を使って乗り込むことで、一気に市場で存在感を出すことができた。今流で言うと社内ベンチャーということになるのだろうか。最初は小さかった商売もだんだんとうまく行き始めた。
ただ、うまくいきすぎた。いや、違うか、本当に時代が変わっていた。これは悪い事に、これは看板商品の方がだんだん時代に通用しなくなってきたことも意味してた。前の看板商品はだんだんと売れ行きが鈍っていく。一方で俺の商品は売れていく。
そうして、あるとき有力な取引先が3つも相次いで路線変更をし、うちの商品のそれまでの看板製品の扱いを大幅に絞った。その代わり採用されたのが俺がやってた路線の商品。
うれしいと思うよりも、もう必死だったよ。気楽にやってたのにいつの間にか主流の落ちた売上を俺が支えなきゃならない立場になってしまった。必死で必死で会社を守るために働いた。幸いにして努力は報われてどんどん売上は伸びたが、主流派の商品はどんどん駄目になっていった。
よく覚えている、阪神淡路大震災があり、オウム真理教事件があった頃だ。
専務が関わっていた主流派の方は、既存の設備が無理がたたって主力品が販売できなくなった。
一方で、同系統の代替品を用意はしていたが、売れない。それはそうだ。時代の変化について行けなくなったから。前と全く同じ商品だったから売れていただけで、時代に合わない違う新製品を出しても売れなくなっていた。
一方で俺の方の商品は順調に売れていた。そこで、俺はよかれと思って、俺の方の商品に、主流派の商品をセット販売を少しずつ始めていた。どうも専務たちはそれを本当はやりたくないような雰囲気が合ったが、当時は完全に俺の商品以外は赤字になっていたからだ。
また、この新しい商品のノウハウは社内にも公開した。当然だ、秘密にする理由がない。
ただ、ここまで来ても俺がやっていた方のラインは、メインのラインと完全に交わることはなかった。ただ、スタッフの交流は行われていたし、現場レベルでは別に完全に分離されているわけじゃなかった。
社長や専務が主流の方に力を入れていて、こちらに何も言ってこないのは以前からだったし、何よりもそう言う体制があったからこそ、時代の流れの変化に会社として対応ができたから、それはそれで好ましいと思って、特に気にしなかったんだ。
ただ、今思うと、だんだんとひずみが蓄積していったのだと思う。
いくつか時代を象徴する出来事というのがあるが、オウム真理教事件が以前の時代の節目を象徴したものなら、俺にとってのその次は、リーマンショックだったと思う。
この頃から市場環境が再び大きく変化し始めた。商売の環境が再び変化し、90年代に確立しつつあったやり方が再び通用しなくなった。顧客の予算配分が大幅に変わり、そもそも市場が縮小し始めた。これにより売上が頭打ちになり始めた。当然手は打っている。手を打ったから大幅な売上減少にまでは至らなかったが、このままではじり貧なのは間違いが無い。
そして時代が回るうちに、うちの会社で主流派の社長や専務がやってきていた古いスタイルが再び受けるようになってきた。主流派は、こちらが作り上げ、提供したやり方と、80年代からやっている古いやり方両方を知っているため、堅調に伸び続けた。
当然、我々も後を追おうと考えた。
この二つのうち、どちらかを認めてくれるのならば、まだ耐えられた。ただ、両方とも封じられてしまったら、もう手も足も出ずに、座して沈んでいくのを待つしか無い。
しかし、もう問題は俺だけの問題でも、俺の部下だけの問題でもなく、供給者責任として商品を届ける取引先や、それに連なる経済の生態系に対して責任が及ぶようになってしまった。
そこで俺は、ここへ来て明確な指示への違反をした。いろいろと問題にならないように配慮をしつつ、せめて影響が小さくなるように、できる限りの手配をし、できる限りの手を打った。
専務からは何度も話は合った。そのたびにできる限り社の方針に従いながらも、しかし責任は果たすように新しい方向に舵を切っていった。
専務からの締付は強くなってきてはいたが、専務はそもそも会社愛が非常に強い人間でもある。ある程度の自制は効いていたのか、俺や幹部には強く当たるが、実際に決まった業務に影響が出るようなことはなかった。関係性は冷え込んで、それは取引先にまでしれるような状況になっていたが。
均衡状態が一気に動いたのは、ある噂だった。
タイミングとしては最悪だった。社長や専務はもう高齢で、後継者の話がでて、専務の娘が会社に入り、次期社長に決まっていた。そこでいろいろな整理が始まっていた頃だった。
もちろん、俺にはそんな気は全くなかった。弁解もした。ただ、これが「とどめ」になった。
専務からの指示はどんどん強くなっていった。それは俺に言うだけではなく、従来は現場レベルではある程度協業できていた末端の業務にも影響が出始めた。
そして去年の1月、専務に呼び出された。慌てて向かうとそこには専務の他に取引先の人間と、会社の顧問弁護士がいた。専務は取引先の人間に、独立する気も社長の座をねらってもいないと直接説明するように求めた。
俺は求められたように、何度も繰り返していた同じ話をした。そんなつもりは全くない、これからもやっていくつもりだと。事実として、社長や専務が戦後直後から作り上げた偉大なブランド力と、会社の巨大なシステムがなければ商売は続けられないし、それを辞めるメリットはどこにもなかった。冷静になれば誰にでもわかることだ。
ただ、専務はその取引先がいる席上で、そういった説明だけではなく、俺がやっている商品がいかに駄目か、いくらやっても会社の主流は専務の商品であり、劣った亜流であるかを演説し始めた。顧客まで馬鹿にするような発言。はっきり言って事実じゃない。そうして言ったのだ。主流になっているラインと、俺がやっているラインが分かれて摩擦がある事そのものが存在せず、もし存在しているとしたら刃を向けているのと同じだから、辞めてもらうと。
話はあっという間に広まった。
わかっている。いくらやっても主流になれないことは。
だが、会社が問題になったときに、古いやり方に固執して市場変化に対応できず、それでも売ろうとして製品を壊してしまったの誰なのか、収益を上げて会社を支えたのは誰なのか、それぐらいは人気視していると思っていた。
専務が後生大事に掲げる理想ははっきり言って利益になってない。それは我々が作り上げた売れ筋の土壌の上にしか存在できないものだ。それを認めろとは言わないが、否定するということはどういうことなのか。
主流になりたいと思ったことがないと言ったら事実ではないが、主流にしてくれと言ったことはないではないか。それでも何故、敵視してくるのか。
専務の言い分、それがすべてでたらめとは言わない。もっともな指摘はあるだろう。古い伝統や理想を掲げることは大事だ。
しかし、古い理想を古いやり方が再び流行が回るように時代の流れになったからと言って、それは合っていたとは言わない。
止まっている時計は必ず一日に一度は正確な時間を示す、しかしそれは時を動かしているものがいるからだ。止まっていることと動いている事は全く違う。
正直愛想が尽きた。
この方針は続けることになるだろう。少なくとも社長と専務がいる限りは。その娘がいる限りは。ただ、誰の目にもその方針でいつかは行き詰まることはわかりきっている。消えてしまうことはないだろうが、市場は大幅に縮小することになるだろう。
専務は取引先がいる席上でこう言った。「辞めろ」と。本流と一緒にやろうとしたとき、それを拒否し壁を決定的にした本人が、摩擦が存在するならば、辞めろと。ならば辞めてやろうと思う。
ただ、そう決めたからと言って、いきなり出社しないとかではなく、いなくなっても問題が無くなるまで引き継ぎをするあたり、結局俺は小物なのだと思う。
あいつが勝手に辞めたから会社が駄目になったとか言われるのも癪に触る。部下が困るのも本意では無い。結局一年かかってしまった。
希望を言うならば、ただ、進行の遅い癌のようにじわじわと会社をむしばんでいって、最後どうにもならなくなった時に、あのときあいつが残っていれば違ったのだろうなと言わせたいと言う程度の希望はある。(これは呪いでもある)
金なら十分すぎるほどあるし、仕事しかしてこなかったから養わなきゃならん家族もいない。これからは気楽にやろうと思っている。
悩み事としては、俺が辞めるではなく独立して新しい会社を興そうと考えてると勘違いして、ついて行きますと言ってる部下をなだめるのに苦労している。
俺も、それなりに人望はあると思ったが、そこまでとは、正直感動した。
感動したが、部下たちもあんな会社でそんなことを言ったら会社での立場が完全に駄目になることはわかりきっているのに言ってしまった。だからといって本当に会社を興してうまくいくとは思っていないので彼らを拾うこともできない。
もう噂になっていると言う所で頭が痛いが、最後の奉公だと思って(会社はどうでもいいが、部下や取引先は大切だ)各方面にこの下げなれた軽い頭を下げに行ってくるつもりだ。
ベッキーの件でさ、ベッキーが記者会見で白ブラウス着てんなーと思ってさ
すっげーどうでもいい話なんだけど思い出して不愉快になったことがある
私が昔勤めてた会社でさ、まあクソ中小ブラック企業だったもんでさ
朝は掃除しないといけなかったんだわ
そんでスーツのジャケット脱いで窓拭くなりなんなりしてたんだけど
まあ下に黒いの着てるなあ、というのはわかる程度だったみたいで
黒だと透けるからさ、白いのとかにしてねって
白は白で透けるよね?
てかブラが透けたんならともかくキャミソール透けたくらいでなんじゃい?
と思いつつ、はあ、そうっすか、っていってそれから気を付けるようになった
白いTシャツにジーンズ履いて、いわゆるシャツワンピース上から着てたんだわ
夏だったしワンピースで隠れてたから、Tシャツの下にキャミソールの類い着てなかったんだけど
そば打ち体験かなんかで、そのときは割烹着みたいなのが貸し出されたから、Tシャツジーンズだけになったのはほんの一瞬
だがそのタイミングでブラが透けたらしく
色まで言われた、水色だろ、透けてるぞって
「そうですかすみません、ありがとうございます」位言ってたけど
もちろん常にブラが透けっぱなしとか、スカート短すぎとか
そういう見苦しいもんを見せることを正当化したい訳じゃない
身だしなみを注意する体でおっさんのセクハラに利用されてはなかったか
いや、そんだけなんだけど、くそっ…て夜中になったから書きました
ちなみにその会社ですが、
終電間際にしごとを言いつけられ、終わらないのでおっさん上司がわたしの家まで車で送ってきて
家にいれてよ、嫌ですよ、のやり取りをするのが常態化し始めた辺りで
自律神経が壊れてやめた
その時点でも仕事がきつい、やめたいとは思ってても
おっさんの奥さんが懐妊されたときは「セックスできなくて性欲たまって辛い」話をされたり
抱っこしてたら「よかったなーおっぱい大きいおねーさんにだっこされて」とか言われたり
冷静に考えたらおかしいことばっかりだったのに
当時は怒るって回路がすぽんとぬけてた
その代わり思い出すたびに腹が立つし死ねと思う、
多分今後もこうやって、折に触れ思い出すたびずっと思う