はてなキーワード: 青年とは
40歳になった。39歳まではギリギリ青年と言って許されてる歳だったとかどうとか考えたけれど
29歳の時にも同じこと考えていたな、と。49歳になっても、ギリギリ男として許されるとか考えるんだろうな。
本当に、25歳あたりからあっという間だった。大学を卒業し、プラプラして自営業を始める。
そして特に何もせずに、結婚もせず、年収200万を維持するために頑張って居たら仕事が増えて300~400まで上がった。
周りはぽつぽつ結婚してはいるが、意外と子供がいなかったり、そういう時代なんだろうなと思う。
自営業なのでペコペコする必要がない。特に男の40代が取引先だと、対等に会話したり取引しているだけで嫌味を言われたりライバル意識を持たれたりした。
今ではわかる。自分ではまだ若いと思いつつも、20代は子供に感じる。
長いようで、長くない。短くは無いが、この11年で自分は変わってないのに、周りからの目線は大きく変わった気がする。
このままどうなるか先は見えない。とりあえず生きてみるつもりだ。
平凡に暮らしたいだけの青年は 点と線と輪の結びつきで世界を見た それが彼の理想の平穏さだった
だがある日、彼は異常な試練に遭遇した 線が断ち切られて点が孤立した 輪が崩れて世界が分断した それは彼の悪夢の始まりだった
彼は平凡な暮らしを取り戻すために戦った 線をつなぎ直し、点を結びつけ、輪を作り直した だがその度に新たな試練が現れた 線が増えて点が複雑になり、輪が錯綜した
彼は気づいた、自分の世界はもう平凡ではないと 自分の暮らしはもう元に戻らないと 自分の理想はもう叶わないと
だが彼は諦めなかった、平凡な暮らしを求めて 植物のように根を張り、枝を伸ばし、花を咲かせた 果実のように甘くて酸っぱくて苦い実を結んだ それは彼の新しい平穏さだった
そしてその果実は不思議な力を持っていた 善き人間が食べればこの上なく極上の美味しさで 悪しき人間が食べれば最恐の毒になって それは彼の新しい道だった
その昔、増田はアメリカに留学しており、若気の至りで妊娠してしまった。ルームメイトに堕胎を相談したら産んで養子に出す方法もあると説得される。増田は、堕胎がトラウマになって再び妊娠することが怖くなったり、あるいは再び妊娠して産んだ子供を育てていくことに一生罪悪感を覚えるんではと恐怖を感じて、産んで養子に出すことにした。すでに成人していたので親にも秘密ですべて終えた。
5歳の娘さんと大きな黒い犬のいる白人家庭とマッチングすることになり、あらゆる問題をサポートしてもらった。なんと学費や生活費まで援助してもらえた。まあ今考えると子供を人質に取られてるようなもんだから、とにかく少しでも不安要素を取り除いて健康な子供を産んでほしいって一心だったんだろうね。
産んで、一度も抱かないまま書類にサインだけした。「それ」が生きているというのが怖かった。書類の中には子供が自身の出生について知る権利についてのやつがあって、増田は合意していた。知りたいと思う事もあるだろうし、そこについての責任は製造者としてとらねばならないと思ったからだ。
あれから15年ほどたって、増田は日本に帰って就職し、結婚と離婚を経験し、英語や出産のことなどすっかり忘れてしまっていた。そしていた頃に、詳しい経緯は省くが養子に出した家庭から連絡があった。子供があなたに手紙を書きたいと言っている。そういうわけで手紙が来た。
本当に気が重かった。あの妊娠中の憂鬱で不安な日々を思い出して眠れず、毎日吐きそうだった。しかし製造者としての責任から逃げることもできない。手紙はごくありきたりなものだった。生んでくれて感謝している、自分は幸せに暮らしている、水泳をしていて大学ではこういうことをやりたい、将来は何になりたい、いつか日本に行きたいなど。
最後に、クリスマスにアメリカで一緒に過ごしませんかと書かれていた。クリスマスというのはアメリカの正月のようなものだが、アメリカでは離婚した元夫婦ですらこの日だけは子供と一緒に家族水入らずで過ごしたりする。その日に来れないか、というのだ。
勘弁してくれと思った。しかし未成年の青年の提案を却下するのは、いい大人として心がいたんだ。親としての愛情は相変わらずゼロのままだ。病気だとかなんとか嘘を付くこともできたが、結局、承諾した。
あの白人夫婦は何を考えているのだろう。子供のやることだからと表向きは肯定しているが、内心迷惑だと思っているだろうか。あるいは、私は子供の情操教育に必要な役者であろうか。まあ、交通費は向こうさんが持ってくれて招待という形なので、年末年始は苦い思い出の残るアメリカで過ごそうと思っている
第一次ベビーブームは、その前にたまっていた予約分()がドッとまとめてはけただけ。本当はもっと早く子作りしたかったけど子作りできなかった夫婦たちが一気に子作りに励んだ結果、短い期間にまとめてたくさん子供が増えた。その上、乳幼児死亡率も下がった。
第二次ベビーブームは、その子供たちが子作りの年齢にさしかかったため生じた。いわゆる団塊の世代と言われる人口の多い世代の子作り期。
その間の端境期はそんなに子供の数は多くない。今の60代前半あたりはちょうど二つのベビーブームの間の谷間の世代なので、今の20代前半あたりの少子化が騒がれ出した頃に生まれた世代と同じくらいの人口しかない。高度成長期に生まれてバブル期に青年期を迎えたあたりの世代かな。
130点ヤッター! 点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。多分世間では娯楽映画という評価であり、事実娯楽映画なんだけど、ゲームという文脈においてガチだった(この辺後で詳細語りますわ)で130点なのでした。
見終わった瞬間、あれ、この映画って存外、なんか手堅くまとまってて100点くらいなのかな? 娯楽映画としてよくできているけれど、やっぱ弱点はあるよね、とは思ったのです。
主人公マリオの悩みみたいなものも、その克服も描かれてはいたんだけれど深い描きというよりはあっさりと乗り越えたし、アクションシーンの出来はどれも良かったんだけどアクション娯楽映画にありがちな失点として、アクションシーンの連続になりすぎて、ドキワク感が全体でのっぺりしちゃったところは実際にある。
あと、これはフォローしがたいけどエンドクレジット後のおまけカットみたいなの(2種)は蛇足感があった。
でもそうやって、脳内で「映画減点表」みたいなのを作り、同時に「映画加点表」みたいなのもあり、合計計算して出てきたスコアは100点だったんだけど、見終わった感情的満足感は130点だったんですよ。ズレが有る。
こういう映画ってたまにあって、それは自分が言語化できてない、なにかスペシャルな要素があるって証拠だと思うんですね。
じゃあその+30点どこから出てきたんだよというのが、この感想を書いた理由です。
主人公マリオはニューヨークで配管工業を営む青年。作中はっきりとは語られてないけれど、イタリア系移民で大家族で暮らしていて、年齢は20歳ちょいなのかな。新卒で入った会社を飛び出して、弟ルイージを巻き込み、いきなり配管修理事務所を起業して、全財産を叩いてCMを流したところから物語は始まる。
会社を飛び出した経緯の詳細は語られていないけれど、「何をやらせてもダメ」「できることがない」とモラハラを受けていたフシがあり、マリオは「自分は役立たずなんじゃなかろうか」「いいやそんなことはない、やればできるはずだ」の二つの気持ちの間で揺れている。
おっかなびっくりだし、確信はないし本当は自信だってないんだけど、ルイージに対してお兄ちゃんぶりたい気持ちだけはあって、まぁ虚勢を張っている。
映画になって肉付けされたこのマリオ像ってのは、結構好感度ありました。
主人公マリオのもってる「自分は役立たずなんじゃなかろうか」なんて悩み、誰にでもあるじゃないですか? はっきり言っちゃえば、具体的な問題の表出は違えども、全人類の99%が成長過程の中で経験するものでしょう。
それにたいして「やればできるはずだ」っていう根拠のない自分自身の鼓舞だって、誰でもやるでしょう。
これらは映画を含む既存のストーリーメディアでは、勇気とか挑戦とか言われるたぐいのテーマの類型です。この類型は多くの、それこそほとんどすべての物語作品で見ることができます。内面の問題や弱気を乗り越える勇気の話は、物語作品の王道ですから。
歴史上、ストーリーメディアはそれに対して勇気づけるための物語を何千何万と語ってきた。美しくまたはおぞましく、ハラハラ・ドキドキするような物語をたくさん作ってきた。「勇気を出す理由」「その褒美」について、あらゆる物語が手を変え品を変え洗練したストーリーを紡いできた。
そういう歴史あるテーマの歴代傑作の洗練に対して、この映画のエピソードづくりや演出が最高峰かというと、そんなことはない。マリオの閉塞感もその打開も、徹底的に演出されているわけではない。もちろん赤点ではないんだけど、その部分で言えば「凡庸なファミリー映画」ですらある。
たぶん「それ」が、映画としての物語性や演出を厳密に評価した評論家と一般ユーザーの間で、この映画の評価が真っ二つに別れちゃった理由だと思うのです。
あらゆる人々の実際の人生における、自信のなさ、不安感、でもそのなかで勇気を振り絞って、はたから見ればどんなにくだらなくてもその当人にとっては難題である目の前の課題に挑んで見る――そういう勇気に対して物語メディアは物語としての洗練や感動をもって応援してきたわけですが、じゃあそれで現実の人々の不安感や自己否定をちゃんと払拭できたかといえば、そうではない。物語の大好きな自分は、それでも物語のない世界は暗闇だと思うわけですけど、世のすべてが照らされて現実の問題が駆逐されるなんてことはなかったわけです。
でも、全く同じ問題に対して、ビデオゲームは別の方法論で挑んできました。
それは成功体験です。
問題点がある。失敗する。ゲームオーバーしてしまう。つらいね、くやしいね。でも何回かやってみようよ。工夫してみようよ。ほら!さっきよりいい感じ!よし!一個クリア!先に進めた!すごい!ほら、つぎの課題が来たぞ!ジャンプだ!パンチだ!やったぞ!進めたぞ!!
そういう、課題と克服、工夫や練習での突破、つまりは直接的な成功体験で、「キミはできるんだ!」と全存在で訴えかけてきてくれるわけです。ビデオゲームをする人にはあまりにも自明で、やらない人には分かりづらいかもしれませんが、任天堂のみならずすべてのビデオゲームの本質はこれで、これでしかないんです。
何か挑戦すべき課題、突破するべきステージでも強敵でも生産目標でも集めるべきコインでもなんでもいいですけど、課題があって、それは最初は難しくて無理かもしれないけれど、ゲームの世界を調査して構造を知り、工夫して、練習すれば、達成していける。
「努力すればなんとかなる」。
そのことを、人間の子守では到底無理なほどの忍耐(なんせ機械なので)で、何千回でも、何万回でも人間の子どもたち、時には大人にも付き合ってくれた。それがビデオゲームの達成した最も尊い部分だと思います。「レベルを上げる」「レベルが足りない」という今や日常会話でも違和感なく使えるこのフレーズには、「いまは無理でもいずれできる」「できるようになるはずだ」という、生きる上で本当に重要な価値観が込められていることがわかるでしょうか?
スーパーマリオの歴史ってほぼイコール、家庭用ビデオゲームの歴史です。そして、ビデオゲームの歴史は、「挑んでみなよ!なんとかなるよ!」というメッセージの歴史なのです。任天堂こそは、それを声高く叫び続けるゲームデザインをしてきた企業でもある。
前述のように、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は既存の物語メディアの、少なくとも映画の文脈で言えばそのシナリオや演出が傑作に達していないかもしれない。でも、そこにビデオゲームという別の文脈が持ち込んである。そしてそのことに制作陣は自覚的です。
つまり、彼らはわかっていて、わざとそう作ったのです。マリオと任天堂と、そしてなにより地球で生まれて40年になるビデオゲームという新顔の娯楽を本気でリスペクトして作ったのです。
マリオは作中「諦めが悪い」「しぶとい」とピーチ姫などに評されます。実際、マリオは映画終盤になっても結構ミスをする。敵の攻撃を食らってパワーアップが解除される、しかも頻繁に。
それをマリオは「スマートに物事を解決できない」という評価だと受け止めてちょっとしょぼくれたりもするのです。が、とんでもない。
それは「ミスをしてもなげださない」という意味であり、「ゲームの主人公」として、そして「マリオを操るプレイヤーとしての我々」としても、それは最上級の素質です。
そう考えてみると、この映画の白眉は序盤、キノコ王国にたどり着いたマリオがピーチ姫への同行許可を得るために、練習用コースに挑戦した部分だったと思い出されます。
マリオは何十回も何百回もミスをする。回転する棒にビビって飛び込めない。移動する床をうまくジャンプできない。ブロックを壊そうとして目測を誤って落下する。
そういった失敗は『スーパーマリオブラザーズ』をプレイしたことのある人々にとっては、あるあるだし、わかるし、お前もか……。なわけですよ。
でも同時に、それを何十回も繰り返せば、あんなに難しいと思えた難所もクリアできるようになるし、ピーチ姫が疲れて寝ちゃった夜中もずっとプレイして、ミスを繰り返して、ヒャッフゥ!と突破できるようになるのもまた、自分自身のことのように、わかるわけです。
『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』における「課題と勇気、挑戦」はそのようなものなのです。だからブルックリンにクッパが現れたって絶望したり家族が死んでスーパーパワーに覚醒したりする必要はありません。映画的な意味での過剰なドラマ表現をしなくても、マリオは「やるぞ!」とちゃんと理解できるのです。
ビデオゲームが産まれ、親しまれ、市民権を得て、もはや一般的な共通理解となった現代社会において、視聴者の理解や感覚はもうその段階まで達している。だからこそ映画もドラマの形を拡張して、巨大なリスペクトを持ってゲームの文脈を抱きかかえることができた。
映画もゲームも大好きな自分として、『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』はそのような映画であると受け止めました。
+30点はあるよ、ちゃんと実在するよ! 家族が死んだり国が滅びたり医師生命を失ったりしなくても、そんな悲劇がなくても、僕たちはちゃんと「攻略してやればクリアできるんだぜ」という、穏やかに前向きな価値観をゲームから予め受け取っているんだ。そういう意味で、とても良い映画でした。
部活の後、時間が遅いと家まで送ってくれてた彼、すごく良い青年だったのだが、当時娘が恋をしていたのは部活の同期の女の子。娘がその子の話をするときの目の輝きが違っていて、我々夫婦は明言しないまでも確信していたし、のちに確かに当時は好きだったと本人から聞くのだが、ひょんなきっかけでむしろその彼と付き合う事に。どっちもいけるタイプか!と驚いたのも束の間、なんだか楽しそうでいいなーって。
んで、付き合い始めのテンションと、元より仲の良い親子関係もあって、あけっぴろげに毎日のように聞かされるエピソードの数々。その都度自分も妻もキュンの過剰供給を受けて無事にキュン死する毎日。別に惚気話とかそういうのではなく、さらりと話す内容の端々にキュンが散りばめられてる感じ。
で、ここからが本題なんだけど、妻が娘に感化されて自分のキュンも欲しくなったのか、ちょいちょい夫である自分に甘える事が最近ぐっと増えて、これまた可愛い。結婚 18 年目にして再び盛り上がり、ちょうど下の子供が自分の部屋で寝るようになったタイミングも重なって、夜の営みの回数も倍増。
すごくびっくりした。あと気まずかった。
大学時代です。
住んでいた部屋に上がろうとエレベータに乗っていた時、途中の階で短パンにビーサンだけで乗り合わせた青年が居た。というかキャンパスで見たことあったから同学の誰かさんだった。
何だこいつパンイチでエレベータ乗ってきたぞって思った。水道止まってシャワー誰かに借りてきたりしたんか?
パンツから目をそらすと剥き出しの背中がデーーーーーンって視界を専有するし、背中から目をそらすとパンツ経由で足元見るしかないんだわ。
いやパンツの内側に別のパンツ見えたというか階層が出来てたから多分リラコかなんかのペラい短パンだったと思うんだけど。
あれ半裸に一枚来てる状態だとトランクスにしか見えないんだよな
リラコにしてもちゃんとパンツの縁より深く履いてくれ。結局パンツ見えてんじゃん。
狭いエレベータに男女二人きりで片方半裸、なにかおきるわけがないだろ。
いやこんな同学ばっかの建物で常に人が行き来してるようなエレベータで何かされるわけないじゃんとも言いきれんじゃん。性犯罪とか強盗がどうだけじゃなくて何見てんだオラァて言われるのも怖いじゃん。こちとら映画の怒鳴り合いシーンで恐怖で泣くビビリやぞ。バイトでレジ打ちしてる時に下の台蹴られただけで頭が真っ白になるような小心者やぞ。
はーーーーー早く降りてくれ何階?今日エレベータの速度遅くない?こんなとろとろ動く設備だっけと息を潜めてたのは多分数十秒のことなんだけど未だに思い出すことがある程度には強く脳に刻まれてしまった。この記憶力を勉学に活かしたい人生だった。
ゼミのグループLINEでびっくりしたってチャットしたら、反応が男女できれいに分かれたのがへーーーーって感じだった。
同性はなにそれこわ…とか通報した?とか言ってて、男子は冬場に半裸はバカでしょて感じだった。
一応断っておくと別に異性に悪感情があるとかではないので囲んで棒で叩くとかはやめてほしい。半裸に対する感覚違うねっていうだけです。
別にプールとか温泉のフードコートとかで短パンとか水着一枚の人がいるのは普通だと思うよ。むしろいるなあとすら思わないよ。多分男の人も水辺に水着の女の人が居ても「そりゃいるでしょ」って感じだとは思う。
いやどうなんだろうわからんけども。実際どうなの?
最近、男性ユーザー中心のオンラインコミュニティで登場したスラング「皿洗い」が、主要大学や社会人コミュニティにまで広がった。
いわゆる「皿洗い論」とは、青年時代に恋愛を先延ばしにして勉強して高収入の職を得た男性が、
若くして性的に乱れた時代を過ごした女性と結婚する傾向があるという主張だ。
女性を食器に例え、食べ物は他の人が食べ、ナイーブな男性が汚れた食器を洗うという意味だ。
食器洗いに使われる洗剤に例えて「ポンポンナム」、「ポンポンダン」などのスラングまで派生した。
女性に特定の枠を付けて悪者化するという点で、過去に流行した「キムチ女」「味噌女」言説と似ている。
ハ・ジェギュン大衆文化評論家は「女性は無責任で乱暴で利己的という女性嫌悪的な視点の延長線上にある」とし、
「男性はこのような女性によって被害を受ける被害者という意識も見られる」と評価した。
このようなスラングは男性のオンラインコミュニティから始まり、大学生、社会人コミュニティまで急速に広がった。
ソウル大、延世大、高麗大、慶煕大など主要大学のオンラインコミュニティ「エブリタイム」では、ここ数日、掲示板が「食器洗い論」に関する議論で埋め尽くされた。
ソウル大学エブリタイムには「将来、皿洗いをされるのが怖い」、「単位を管理してロースクールに行っても結局は皿洗いになる」と「皿洗い論」に同調する書き込みがあった。
男女が均等に混在する大学生集団の特性上、食器洗い論に対する共感だけでなく、批判も多かった。
ソウル大学エブリタイムには「異性との出会いにおいて性格と価値観を重視する人が多いのに、
恋愛や愛が容姿、能力だけで行われるという皮肉な書き込みに驚いた」という学生もいた。
高麗大学大学院に在学中のベさん(27)は「女性を器に例え、容姿や学歴、財力などの基準で露骨に人を非難する話だと感じる」とし、
「一緒に学校生活をする人々が集まったコミュニティでそのような話が出たので、不快でありながら残念だった」と話した。
「皿洗い論」が以前の女性差別表現と区別される点は、一つの概念の中に多数の種類の嫌悪と葛藤が凝集した点だ。
(後略)
https://www.hankyung.com/society/article/202110288989i
※キムチ女と味噌女について(powered by ChatGPT)
김치녀 (Kimchi-nyeo) : 「キムチ女」と呼ばれる女性は、高価なブランド品や贅沢なライフスタイルに執着する、表面的な価値観を持つ女性を指します。
된장녀 (Doenjang-nyeo) : 「味噌女」と呼ばれる女性は、自分の生活水準以上の贅沢品を手に入れようと、他人にたかるような行動や、他人と比較して見栄を張る女性を指します。
ジャンプは既に青年〜中年の読者が大多数だろう。たまたま顧客のライフステージが変わってもコンテンツを変える必要がないビジネスだったというだけの話(実際は漫画の内容かなり変わってるけど)。
・子供の頃、皆と仲良くしたいと思っていた。
・しかしできなかった。仲良くしてもらえなかった。
・何か嫌われる要素が自分にあるのだと思った。自分を責めた。気が利かないところが嫌われるのだろうか?
・大人に受けはよかった。かわいがってもらった。
・年下には慕われた。
・歳の離れた年上にも可愛がってもらえた。
・ただ、同い年か一つ二つ上の人たちとは基本的に、仲良くなれなかった。
・例外的に仲良くしてもらえた人たちもいたが、彼らは優しい人たちだった。
・女の子にはどちらかといえば仲良くしてもらえたと思う。
・小学生の頃、クラスの女子たちが大挙してわが家へ突然遊びに来たことがあった。母親が歓迎してもてなしてくれたが、自分は照れてなかなか出てこられなかった。何ゆえだったのかは今でもわからない。
・40代の後半になって大学時代の部活仲間と会う機会があって感じたのは、仲良くしてもらえなかった男たちはどうやら自分を脅威に感じていたらしきこと、嫉視されていたらしいことであった。
・勉強も運動も嫌いではなかったし、たいていのことは人並み以上にできた。
・年上世代にも実は陰で評価されていたようで、自身はそのことを知らなかったのだが、同学年の男たちにはそこも妬みの種になっていたらしいことがわかった。
・勉強や運動面はともかく、人間関係に自信がなくて、自分には何か大切な何かが欠けているのだと思い込んでいた。自分には認識できていない大きな欠点があるのだと思っていた。それが気後れとなっていた。
・人生には、こういうことがあるのだ。
・だから何が言いたいかというと、友達がいなくて少なくて悩んでいる人がいるとしたら、それは、実は気に止むことは一切なくて、付き合う人を変えればいい、生きる場所を変えればいいだけということが実際にあるのだ、ということを伝えたくてこんなことを書いてみた。
○ご飯
○調子
原作は同人ゲームながら何度も移植されていて、これはニンテンドーSwitch移植版。
過去に何かがあった風の男子高校生、御剣総一がデスゲームに巻き込まれながら、色々な女性と交流をしつつ、過去の因縁を吹っ切るノベルゲーム。
13人の男女が閉鎖空間に閉じ込められて殺し合いをさせられるというイントロはベタ中のベタながら、13人それぞれのクリア条件が異なる点、閉鎖空間が建造物になっており上の階に登れば登るほど強い武器があるなどなど、読み物として面白いデスゲームを提供しようとする設定の工夫がされているのが良き。
四つのエピソードが収録されており、それぞれ初めに出会うヒロインが異なるだけで、13人の登場人物やクリア条件などは同じ。
それだけに前のエピソードでは密接な関係だったのに次のエピソードではあっさり亡くなったり、逆に活躍したり、敵や味方の関係値が入れ替わったりと俯瞰しているプレイヤーだけが気付く人間関係の妙が面白い。
全体的にデスゲームもののベタをしっかりやっていて、疑心暗鬼なサスペンス感、そんな中で結ばれた絆の尊さ、ゲームを攻略するのを読む楽しさなど良いところがいっぱい詰まってた。
ただこの辺の舞台設定や物語の展開はデスゲームという題材に対して良いも悪いも無難に揃えてるだけって感じで、僕が面白いと思ったのはキャラクタにまつわる部分、特に以下の二名はお気に入りのキャラになった。
デスゲームに巻き込まれる前に起きたとあるトラブルによって、自己犠牲を厭わない献身的な姿勢で仲間を作っていく展開がお馴染みなんだけど、割と早々にコイツこそがヤベエ奴だと気付く展開がある。
自己犠牲を厭わないというよりは、自殺願望という究極の徒手空拳を武器にしている感じで、自身の死を弊然とペットする展開が格好いい。
デスゲームに巻き込まれた殆どの人には優しい態度になるが運営サイドへ格好いい啖呵を切るシーンが激った。
内心ビビりながらと述懐しつつも、強大な敵のリスクとリターンを計算しつつ自身の要求を通したりと、無茶ながらイケメンなシーンだった。
彼はかなり好戦的な性格で様々なエピソードで主人公たちを強襲する。
単に戦闘能力が高いだけでなく、陰湿な作戦を立てるその狡猾さ、躊躇しない思い切りの良さなど、名敵役として幾度なく対峙する。
飄々と軽口を叩く性格なのが一貫しており、序盤のまだ殺し合いを疑う頃から、後半の本当にやりあう中でも、常に軽い人なのが恐ろしいキャラだった。
そんな怖いキャラが、人間関係の妙によっては必ずしも敵対するとは限らないというのが面白かった。
彼と手を組んだり戦ったりと色々な関係を結ぶことになる高山浩太さんとのえちえちBL二次創作でシュガーキッスしているに違いない、そう思った私はPixivへ向かい、きちんとあることを確認して満足したりした。
面白いは面白かったけど、良い意味でも悪い意味でも普通だったかなあ。
予想外の展開がないからダメだと思う気はないけど、ある種の予定調和なピンチ、お約束な逆転、王道な終わり方だった。
物語の外に仕掛けがあったり、構造自体に誤魔化しがある類のサプライズは無いのは、良く言えば地に足が着いた展開だから悪くは言いたくないけど、少し地味だったかな。
(例えば、実は全てのエピソードが繋がっているみたいな展開で、特殊設定有りなら時間を繰り返してるとか、無しなら時系列と登場人物の名前を誤認させられていたとかの類ね)
デスゲームの緊張感と、可愛いヒロインとの交流の落差を楽しめたなら、もう少し好きになれたかもだけど、ヒロインの子たちにはあまり興味が持てなかったかなあ。
なお、ヒロインに魅力を感じなかった大きな理由に、ほとんど睡眠も休憩もせず二日間ほど動きっぱなしでシャワーも稀にしか浴びれない設定なのに、ヒロインたちが自身の体臭を気にしたりするシーンが無いことが関係しているかは、自分でもわからない。
たしかに僕は「蒸れ」なシーンが好きであり、そのような展開が可能であるにも関わらずそのような描写がなかったことに内心腹を立てているのかもしれない。
(ここまで)
ヒロインより男性キャラを気に入ったせいで、100乗り切れたわけではないものの、楽しいは楽しかったので、続編のリベリオンズも機会を見て遊ぼうと思う。
アマプラてセッションが配信されてたから観てみたんだけど、もう本当に最悪
音楽学校の生徒がパワハラ全開の先生に怒鳴られて、殴られて、椅子を投げつけられてた
自分がブラック企業で働いてた頃がフラッシュバックしてしまい、震えが出てきて30分くらいで観れなくなった
公開が2014年だから、その時代では受け入れられてたってこと?
こんな先生絶対に許されないし、音楽関係ない罵倒もあったし、普通は殴った時点でこの先生はクビだろう
生徒の青年は負けじとドラムの練習を始めるんだけど、それこそ良くない流れだよ
音楽の世界が厳しいのは分かるが、体罰はダメだし、理不尽な叱咤もアウト、椅子投げるのは完全に犯罪だから
それを解決せず練習して立ち向かっていくのは暴力を肯定しているとしか思えない
なんでこんな映画がアカデミー賞まで選ばれるまで評価されてるのか分からない
みんなはこの映画のことどう思ってるの?
でも大卒だとビザのときに有利やし海外青年隊の時も要件になってたりするし
年齢によってはワーホリいけるし
ジョブと学位が結びついていなくても無いよりはあった方がいいから
まぁ実家に金ないのに考えなしで行って現在のジョブと学位が結びついていない、
主人公のデンジは、悪魔を退治する職業「デビルハンター」をしている青年です。彼は、人間と悪魔の混血である特殊な能力を持っており、悪魔を殺して「餌」として使用することで、生計を立てています。
ある日、デンジは共同生活をしている仲間のヒロイン、パワーと共に、強大な悪魔「ボンド」と戦うことになります。しかし、その戦いでパワーが犠牲になってしまいます。
その後、デンジは意識を失い、自宅の冷凍庫に封印されていた父親が、デンジに取り憑いている悪魔「パチョリン」を解放します。そして、デンジはパチョリンと合体することで、パワーと同じ姿に変身し、ボンドを倒すことに成功します。
ただ、ワイは都内の地域コミュニティが死んでいない地域の出身で、
なおかつ、地方移住して、青年会で山道整備したり、伝統の祭り維持したりみたいな地域みてるので、
コスパがすべてじゃないとは思ってるけどな