はてなキーワード: 部落とは
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
まあもう散々言われてることなんだけどさ、先週の立憲民主のこれ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210907/k10013248911000.html
もう本当に残念って言うか、これ本当に今言わなきゃだめなんか?って感じがめっちゃするよね。
わかってるよ、もう増田でも散々言われてて、今更言うことなんてないよ。
https://anond.hatelabo.jp/20210908083306
https://anond.hatelabo.jp/20210913214824
https://anond.hatelabo.jp/20210913215824
でもさ、改めて並べるけどさ、中身のこれさ
1.補正予算の編成
5.スリランカ人ウィシュマさん死亡事案における監視カメラ映像ならびに関係資料の公開
2.LGBT平等法の制定/同性婚を可能とする法制度の実現を目指す
3.DV対策や性暴力被害者支援など、困難を抱える女性への支援を充実
4.インターネット上の誹謗中傷を含む、性別・部落・民族・障がい・国籍、あらゆる差別の解消を目指すとともに、差別を防止し、差別に対応するため国内人権機関を設置
まじでやるべきとか議論するのがアホなんじゃないのって思うぐらい当たり前のことじゃないすか???
この中で政治っぽいことと言ったらせいぜいが学術会議と、モリカケと、人権機関設置ぐらいで、あとはまじで本当になんでやらんのかわかんなくないか???
こんなことを言わなくちゃいけないのがまじで異常だと思うし、わざわざ言うのもアホだし、言われてもやらないできたのはまじで狂ってるとしか思えない。
特に入管の話、いくらなんでも日本国民の多数がスリランカの人を虐め殺した機関を庇い続けたいと思ってるわけはないと思うんだが???
人が死んでんだよ???
いやもうほんと、俺は自民党の偉そうにしてる爺さん婆さんは心から気に入らないんだけど、正直なところ、ここでこんな高校生が考えたみたいな目先だけの主張出してくる立憲民主党に投票したくはないです。
でもさ、自民党の今マトモそうな顔して喋ってる岸田とか、って言うか現職のガースーにしても、このまま上のやつまじでやらないのか???いくらなんでも人非人すぎないか???
まじでこんなことぐらいは普通にやってくれよ。これ一個やってもらうためにアホに投票しなきゃなんねえのかよ。まじでクソすぎる。クソだよ。
そういうカテゴリが本当に存在するかどうかは、社会と政治が決めるんだよ。
民族だの、部落だの、黒人だの、外国人だの、低所得者だの、LGBTだの、今は存在していて差別の対象となっているカテゴリは、かつて存在しなかった。
定義自体がなかったから、認識されることもなく、差別や救済の対象でもなかった。
翻って、「弱者男性」というカテゴリも、近年、定義が提案されたんだよ
提案が妥当かどうかはこれからの判断だし、元増田は妥当ではないと考えているようだが、究極的には政治的意図や社会全体の雰囲気によってどっちにも転ぶよ。
まあ、そういう新しい有意義なカテゴリを発見して提案するのが、君らの大嫌いな社会学の大きな役割の一つだとされてるんだけどね。
2.LGBT平等法の制定/同性婚を可能とする法制度の実現を目指す
3.DV対策や性暴力被害者支援など、困難を抱える女性への支援を充実
4.インターネット上の誹謗中傷を含む、性別・部落・民族・障がい・国籍、あらゆる差別の解消を目指すとともに、差別を防止し、差別に対応するため国内人権機関を設置
5.入国管理・難民認定制度を改善・透明化するとともに、入国管理制度を抜本的に見直し、多文化共生の取り組みを進める
第一弾
1.補正予算の編成
こんな感じの、コアな信者にはウケはいいけど大多数の国民の生活にはまっっっったく影響ない政策を選挙前の目玉政策としてババーーーン!って一番目立つところで大々的に発表してるもんだよね?
もしかして枝野さんというお方は選挙の仕組みが多数決であることを存じ上げてないのだろうか?
もはやこれわざとだろ、勝っちゃったらまた地獄の政権とか言って叩かれるから責任持たないで済む範囲で負けるようにバランス調整してるんと違うのか。
立民 多様性認め合う政策を公約に “選択的夫婦別姓など実現” | 2021衆院選 | NHKニュース
流石に擁護しようもないほど酷い。何故、今これを出してくるのか?全く分からない。第一弾よりは内容はあるけど、およそ政権奪取を狙う政党の公約ではない。
https://www.youtube.com/watch?v=pBrAFFkpq-c
河野や高市も出馬会見で政策については述べているけど、小出しにしたものではなく纏まった単位なので立憲の公約第二弾とは比較しない。
第一弾はこれを閣議決定をしますという内容だったが、第二弾は明確に法案の制定を必要とするものだ。
問題の粒度が揃ってない。報道各社は、これらを公約とか政策と報じてるけど、これはしょうがない事だろう。こんなものごちゃ混ぜにする方が悪い。
立憲民主党が最優先課題として発表した第一、第二の公約には、いずれも含まれていない。第一弾に予算を閣議決定するとあったくらいだ。
と言ったところだろう。立憲民主党が第二弾で公約として法改正を訴えたのは、いずれもその他に含まれるもので、有権者としては期待外れで肩透かしを食らったと言わざるを得ない。
自民党員内では動画内のグラフの様な配分になっている。立憲民主党、共産党支持者に限った時に、人権問題が首位に来るんだろうか?ないと思うんだがね。
https://youtu.be/1UwUlqG2fKY?t=146
自民党の各総裁候補の主張は、党員、国民が最優先で対応を求めている問題への方策がきっちり入ってる。この差は馬鹿にならないほど大きい。
立憲の方はアベノミクス検証委員会なんか作ってて、過去を批判するばかりで未来のことを語らないのだから、差があるという表現すらも立憲民主党に贔屓目なのかもしれない。
立憲公約の他の項目にも、例えば難民申請を悪用されていたり、嘘を言ったり、病気を装ったりすることで入管に負担をかけてる外国人の現状を鑑みず、入管を批判するのか?とか言いたいことはあるが、そんな苦情が色あせるほどに酷すぎるのが三つ目だ。
2012年に野田内閣で閣議決定された、人権救済機関設置法案は、恣意的に運用される恐れがあり警察以上の権力がある組織が誕生するという批判を世間から受けて誕生しなかった。
この現代の特別高等警察のような機関は、民主党時代から数度に渡って、何度も何度もゾンビの様に蘇っては提出されてきて、その度に世論の反発を受けて廃案になっている悪法中の悪法といっていい。
インターネット上の誹謗中傷を含む、性別・部落・民族・障がい・国籍、あらゆる差別の解消を目指すとともに、差別を防止し、差別に対応するため国内の人権機関を設置
この言葉からは、どうやったって「人権救済機関設置法」を通すという意図を感じざるを得ない。これを支持する事は、俺には絶対に無理という領域の公約だ。実現すれば、インターネットにおける表現の自由なんか一瞬で霧散するよ。
コアな左翼=はてフェミが、二次絵を規制する様な状態が容易に実現する事になるのだから、歯止めが効かないだろう。
自民党政権に問題を感じている人が多くなっている現状があり、これまで行われてきた選挙でも勝ってきた流れから、横浜市長選を勝った事で政権交代は現実のものと考えられるまでになったというのに
横浜市長選からの短期間で立憲民主党の支持率は大幅に下がった。
自民総裁選、河野氏33%、石破氏16% 朝日世論調査 [自民党総裁選2021]:朝日新聞デジタル
政党支持率を見ると、自民は今回、37%(同32%)。昨年12月調査の38%に次ぐ水準まで回復し、立憲民主の5%(同6%)との差を広げた。「仮に今、投票するとしたら」として聞いた衆院選比例区投票先は、自民は43%(同35%)。こちらも昨年11月の45%に次ぎ、立憲の11%(同15%)を引き離した。
この立憲民主党の公約発表と、自民党総裁選の各候補の主張とが報じられるほどに諦めと失望が広がると思う。枝野を指して自民党応援団と揶揄する声が出るのも無理はない。
立憲民主党の主張がまともであれば、自民党を見限ってもいいと感じていた無党派層は多かったと思う。現時点で、失望はウイルスのごとく広がっている。
これを食い止めるために必要なのは、まともなコロナ対策、経済政策、安保・外交政策なのだが、立憲共産社民れいわに自民党と同レベルかそれ以上のものを纏められるんだろうか?
個人的には、人権救済機関設置法案がちらつくようでは比較の対象にすら上がらない。比例票では国民民主党を育てるしかないのか?
心から活動家じゃない野党が欲しい。自民党を支持すべきか揺らぐ人がふえても、これでは何も変わる事がないのではないか?と思うと絶望が深い。
親が何もかも悪い!というのはちょっと違う
俺は両親は好きだし2人とも多少知能には問題あると思ってるけどそこまで憎しみ持つ理由もない
普通に家族と暮らすのはいいけど 住んでるところの治安が激烈に悪かったり 高校のアクセス悪すぎて中学は市内すべて動物園になるし
資本主義が拡大した結果底辺にカテゴライズされて社会の要求レベルが上がりすぎてるし
俺だってそういう能力を見に付けたからもっとレベルに見合った所に行きたいのに行けないとか
かといって社会と切り離してくれるかといえばそうでもない
でも両親の問題ではなく社会の問題だと思うし 上級が増えれば増えるほど下級も拡大する結果コミュニティが現代の部落みたいになっていくんじゃないのかと感じる
だから学区制を廃止して総オンライン化して地域の括りを撤廃すべきだと思う いまオンライン授業できるとこなら学校という括りは貧富の格差しか生んでないよ
部落たたきなんてあったの?本当?
村落、集落、部落、ほぼおんなじだべさ
いやお前らさ日本語わかるっけ?オラの村さ来てみぃ?
爺様婆様の言葉遣いさ聞ぃたら部落部落ってなんまら言うべぇなぁ?
内地のことはさほっとんどわっかんねっけどさぁ、内地はそこに城さあれば部落あったって聞いたことあるべな
穢多・非人だがなんだが小中学校で習った気さしたけどさぁ、正直オラたちじゃ実感ないもんよぉ
オラの家さ先祖代々アイヌ系でなぁ、TVとか観てっと差別だ何だ言うけどさぁ、周りの村の衆さもさおんなじアイヌ系の家でさぁ、オラの村さ差別する人居なかったみだいなんだぁよねぇ
就職差別さあったとか聞くけどさぁ、オラの村って農家と漁師ばっかだからさぁ就職とか有っで無ぇのよなぁ
もっつろんさぁ差別されたアイヌの衆とか居だんだろうけど、村の爺様の話聞けば「○○の部落の連中ははんかくさい」だの言うもんねぇ
何でも爺様の爺様世代さくらいになると男衆はたんぱらなの多がったみたいでさぁ、部落間の喧嘩というか実質殺し合いみたいなの頻繁にあったらしいんだべな・・・喧嘩とか言ってんけど部落間の紛争戦争っしょ・・・
TV観ててもアイヌ同士の何かそういうの触れねんだわな、アイヌは素朴じゃなきゃいけねぇみだいなイメージっての?そういうので脚色してる感が当事者としてはなんまら有んべな
ていうかアイヌ系のなんちゃら協会へ開拓期に内地から来た家のやつが所属してアイヌ名乗ったりしでんだけどアレ良いんだべか?
そういうの見てると協会に参加さ求められてもうっさん臭くって関わりたくないべな
私はこの世の中に不幸は少ない方がいいと思ってて「いつ自分や大切な人がそうなるかわからないから」セーフティネットはあるべきだと思ってるよ。
ただ私にとっての「そう」は【具体的に被差別属性を帯びるかもしれないから】じゃなくて【いつか自分や大切な人が「弱者」になるかもしれないから】
私は部落生まれじゃないから部落差別の被害は受けないけど、私は「そう」なるかもしれない。だからセーフティネットがあるべき。
あと私は昔犯罪被害にあって特に社会が助けてくれなかったから地獄だったけど、だから救われない人がいるのはよくないと思うしそういう人は助けたい。
いじめ問題とかも「自分がいじめられる側になった時のことを考えると~~~~」みたいなのが多くてゾッとした。
それって自分に痛みが帰ってこいなら何でもオッケーって感じなの?
たとえば部落差別があった時代だったら「部落出身者はゴミ!」と言っても自分が部落出身でないなら絶対的な安全圏にずっと居られるわけだけど、そういったシチュエーションなら部落差別の立場を変えない感じなの?
俺は「たまたま俺は生まれた時に運がよかっただけで、もしかしたら運が悪ければこういう人生を歩んでいたかも知れない。そう思うとそうそう他人を痛めつける気になんてなれない」って感情を持つんだけど?
ちゃんと名前も付いてるし多くの人が持つ感情のひとつなんだと思ってる。
でもそれが生まれつき欠如しているとしか思えない『完全に自分の損得でしか考えられない人』ってのが結構いるっぽくて怖いなと思う。
いやまあある種の定型発達と同じで、なんだかんだこの能力を持って生まれるか自体が生まれつきの運みたいな所もあるのかなとは思うわけよ。
実際サイコパスって呼ばれるそういうのが一切ない人の存在を指す言葉だってあるわけで。
でもネット見てるとそのサイコパスとしか思えないような「俺に痛みが返ってこないならいくらでも痛めつけますけど。まあリスクがあるんで今回はやらないですが」みたいな人が多くておいおいサイコパスって実はめっちゃ沢山いるんじゃねーのかとゾッとしてる。