はてなキーワード: 製作とは
『デイ・アフター・トゥモロー』(原題:The Day After Tomorrow)は、2004年に製作されたアメリカ映画。 地球温暖化によって突然訪れた氷河期に混乱する人々を現実味を持って描いたパニック映画である。
元増田だが、
CMやプロモーションで行われているような、アカデミックな立場の人間の監修は、
ほぼ単純な原稿チェックに近いことなので現場を知らなくても成立するんだ。
しかし、映画やドラマのような芸術的な側面を持った映像作品における性的なシーンの撮影 の双方合意に至るために、
単純なアカデミシャンや法曹の人間が役割を果たすのは難しそうなのはわかるだろ?
だから俺にはたった今ICが足りないことを解決するためのアイデアはないんだ。
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別に撮影のこと分からなくてもいいんだよ。知っていればよりよいってだけで。
よくわからない弁護士を納得させられないのならそのシーンはダメなんだよ。撮影だからって人権が侵害されていいわけじゃ無いんだから。
あと、弁護士だけに任せる必要は無くカウンセラー等複数人で判断させればいいんじゃない?
インティマシーコーディネーターの資格だって複数分野の専門知識が必要ってことなんだから映画会社やテレビ局でそれぞれそういう専門家を集めた部門(コンプラや法務のような)を作ればよい。
人権に関わる問題なんだからできることからどんどん改善しないと。
なんか他のツリーで作品への理解と演出への貢献が必要的なこと書いてるけど人権侵害をなくすことが最優先なんだよ。
その人材が確保出来ないのならまず人権侵害がないかどうか第三者に判断してもらのを優先すればよい。
人がいないっていうのは第三者を入れたくないから言い訳に使っているだけだよ。
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そもそもインティマシーコーディネーターが必要になった経緯がわかってないんじゃない?
制作側が俳優に対して人権侵害を行っているからそれをなくすために第三者が立ち会う必要があるのではないのかってなったからだよね?
インティマシーコーディネーターってのは人権侵害をなくした上で製作側の要求も最大限尊重出来るようにする人。
インティマシーコーディネーターが用意出来ないのであればまずは人権侵害を判断できる第三者を用意すべきなんです。
なのに人がいないんだっていって人権侵害をなくす対策すらしてないならただの怠慢なんだよ。
業界の常識では違うのかもしれませんが弁護士等第三者を入れてないのに人数が云々っていってる増田は普通の人から見ればやれる事もやらずに言い訳している子供にしか見えませんよ。
通りすがりのフェミですが、あなたの意見に赤ベコのように首を激しく振って同意します。
てか、これほどまでに性的消費の悪さが明確に書かれてる文章に出会ったことない。
正解は
「製作者に金をもたらす」
だ。
この問題が解けるかどうかは資本主義、経済、社会といったことが分かっているかどうかで決まる。
解けなくても恥じ入ることではない。
今の日本における教育はこれらを全くもってまともに教えてくれる気がない。
「金を払う」ということを単に「自分の財布から金がなくなる」以外のモノとして認識できる機会を与えてはくれないのだ。
文化祭でお店ごっこをしようが、同人誌即売会で活動費を補填して貰おうが、「金を払う」「金を受け取る」ということの本質を学ぶのは難しい。
実際に商売をやってみてようやく分かる機会が与えられる。
機会が与えられるだけであって、結局は理解できないひとも大勢いる。
従業員として働いていると、店のレジにいくら入ったかなんてのは閉店時に差し引きがズレなければどうでもいいことになる。
営業や経理をやっていてさえ、なんとなく数字が増えたらボーナスが増えるかも知れないぐらいの距離感にしか感じられないだろう。
資本主義社会において金を得るとは「その活動を続ける権利を与えられる」ということだ。
金は他のなにかに変換可能だが、その中でも最も重要な要素が「生活や職場環境を維持するコストを支払える」という部分だ。
あらゆる商売はどこかで金の帳尻を合わせなければ続けていくことが出来ない。
たとえば株式投資の儲けを食いつぶしながら趣味の店を続けている人がいて、会社規模でそれをやっているような所さえある。
誰かに金を払うというのは「貴方はこれを続けてもいいですよ」と伝えるに等しいことだ。
自分の望んだようなコンテンツがこの世界に生み出された時、それを味わう時間が自分になくても「これを生み出してくれてありがとう。これからも頑張ってほしい」と思ったなら、金を払うべきだ。
直接寄付すればいいという話ではない。
正当な対価という形で相手に金を払うのだ。
この「積むかも知れないけど、とりあえず相手に感謝を伝えるためにも、金だけはまず払っておく」というのは資本主義における基本的な行動原理だ。
これを理解できないままで資本主義を生きるのはただただ辛いだろう。
金は払えばなくなってしまうという認識の中で、日々生活費を稼ぎ、株価の暴落に怯えながら投資活動をするのでは、賽の河原のように日々を感じるだろう。
自分が誰かに払った金が、自分の望む方向へと社会をまわしていると感じることが出来れば、稼いだ額と出ていった額が同じであっても未来を信じられるはずだ。
だからこそ、「この金はきっと無駄に使われる」と感じながら払う税金があんなにも苦しいのだ。
たとえば「俺が払った税金もどうせふるさと納税団体に流れるだけで終わるんだろうな。自民党のお友達が肥えていくだけじゃね―か」と思うと、あまりにも税金を払うことは虚しい。
あんま、アニメや漫画にこういう難癖をつけるのもどうかとは思うんだけど……
「魔王の俺が奴隷エルフを嫁にしたんだが、どう愛でればいい?」
今こんなアニメやってんのな
ミセスグリーンアップルのコロンブスじゃないけど、マジで日本って人権後進国なんだなと思った
世界史とかきちんと勉強してたら、こういうのをアニメ化しようとは思わんだろう
たとえば、仮に「ナチス党員だけどユダヤ人美少女に恋しました」みたいなラノベがあったとして、これがアウトなのは明らかだと思う
藤井セイラさんがパワポで作ったとという小池百合子批判画像が話題になっている。
https://x.com/cobta/status/1806176663631442203
パワポでこれを作るガッツ(製作時間は1時間ほどらしい)はシンプルに大したものだと思うが
あまりに賛否両論なので、はてなで特に話題にもなっていないようなのが気になった。
自分としては、これは
「現職を風刺するものとしてこの程度は許容されるだろう」と思いつつ
やり方やワードチョイスに品がないとか(品があるのないのをつつくのがトーンポリシングなのは理解している)、
批判ポイントに事実誤認が見受けられる(水道局の民営化は蓮舫が担当大臣だったのでは?)とか
たとえば、ピンク色のものが映った写真を見かけると片っ端から「あのとき助けた岩下の新生姜なのかい?」と引用RTするのを持ちネタにしていたり(例 https://twitter.com/shinshoga/status/1792205408695935242)。
一方で、グッズで製作された「岩下の新生姜ペンライト」が一部の悪意ある人によってセクハラに用いられていると問題になった際は急遽販売を取りやめるなど、行きすぎた悪ノリを抑えるようなバランス感覚も持ち合わせているように見えていた(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1610/12/news085.html)。
「岩下の新生姜」で知られる岩下食品の岩下社長がTwitterで暇空茜の支持を表明し、波紋が広がっている。
はてな界隈ではそこまで話題になっていないようだが、個人的にはかなりショックな出来事だったので、経緯も踏まえて書いていく。
暇空茜さんからブロック解除されてた。嬉しい。もうサブ垢使わないで済む。(サブ垢で毎日ずっと見てた。毎日!)実はブロックされた時も嬉しかった…最高に清々しかった!
こんな命がけでピュアな人、見たことない。酷いなぁって思うくらい、美しい。頑張ってほしい!
#ひまそらあかね
積極的なアンチの側では「不買運動をしよう」、積極的な支持者の側では「買って応援しよう」、といった意見が広がる。
また、不買運動までいかなくとも、暇空茜の(主にミソジニー的な)言動に良い印象を抱いていない人が岩下社長の発言に驚いたり引いたりしている姿も自分の観測範囲では散見された。
こんなふざけた時代はもう嫌じゃないですか?
一人でも多くに口コミしてください
助けてください
https://twitter.com/himasoraakane/status/1805101991808696539
なんとおぞましい行為でしょうか
そのなかには僕が追及している
こんな人達に皆さん
私は負けるわけにはいかない!
ひまそらあかねを広めてください
https://twitter.com/himasoraakane/status/1805083655150456924
自分とこの大事な商品、ひとこと誰かの「ファンです」ツイートしたくらいで、寄ってたかって潰しに来られたら、そんなん全力で守るに決まってる!
おかしいぞ。何があるんだ?
(なお、この反論の前後には、暇空茜本人や支持者によるツイートも多くRTしている)
最初に「不買」を扇動した著名アカウントに従ってか、リアルで関係先・取引先に苦情入れるひと、本気で迷惑です💢💢
そんな動きに屈するわけないでしょ!うちがそれに屈したら、貴方達、他でもそういうことするじゃないか!絶対に屈しない!
今回の件は、自分のなかでは、「岩下社長が暇空茜を支持している」こと自体の驚きよりも、「岩下社長が自身の立場や影響を顧みずにこのようなことを公言するなんて」という衝撃が大きい。
なお、私は暇空茜についてほとんど興味がない。Twitterでミュートするくらいには苦手だが、「無関心」に近く、氏の活動も漏れ聞こえてくる程度のことしか知らない(ただ、暇空茜を熱心に応援している人たちや、その逆に支持者(と思しき人)を「暇アノン」と呼んで熱心に叩いている人たちのことは、どちらも先鋭化・過激化しているように見えるのであまり近づきたくないなと思っている)。
一方で、岩下社長のことは8~9年ほど前からフォローしており、社長の活動も好意的にみていたし、後述するように尊敬もしていた。もともと興味を抱いたきっかけは自分の好きなミュージシャンを岩下社長も好きだったからで、それまで岩下の新生姜を知っていても食べたことはなかったが今では同社の製品をそこそこ食べている。
ご存知の人も多いと思うが、岩下社長は長年にわたりTwitterで自社のプロモーション活動を積極的に行っている。
現時点でのフォロワー数が21.9万人。自社製品に関するエゴサを頻繁にやっているのでそれで捕捉された経験のある人もいるだろう。
企業の看板を背負ったアカウントにもいろいろなスタイルがあるが、岩下社長の場合は「公」と「私」のバランスがとれており、SNSでの発信もうまいと思っていた。
たとえば、岩下食品の製品の類似品が以前から出回っている件に対して、Twitterで「類似品が『岩下の新生姜』として売られている」「このスーパーでは類似品しか置いていない」などの情報提供を集めて、類似品対策を進めたり(例 https://twitter.com/shinshoga/status/1737457329103397005)。
たとえば、ピンク色のものが映った写真を見かけると片っ端から「あのとき助けた岩下の新生姜なのかい?」と引用RTするのを持ちネタにしていたり(例 https://twitter.com/shinshoga/status/1792205408695935242)。
一方で、グッズで製作された「岩下の新生姜ペンライト」が一部の悪意ある人によってセクハラに用いられていると問題になった際は急遽販売を取りやめるなど、行きすぎた悪ノリを抑えるようなバランス感覚も持ち合わせているように見えていた(https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1610/12/news085.html)。
また、2015年に「岩下の新生姜ミュージアム」を自社のお膝元である栃木市にオープンしてからは、社長自身がカルチャーへの造詣が深いこともあり、さまざまなミュージシャンやアイドル、芸人などを招いたイベントも開催。展示のユニークさも相まって、企業の私設ミュージアムでありながら幅広い層の集客に成功していた。
社長自ら率先してプロモーションするこうした姿勢が功を奏してか、近年はさまざまな企業とのコラボレーションも多く、テレビCMを打っていた先代社長の時代とはまた違う事業の広がり方をしているように思う。
私が岩下社長のことを尊敬していたのも、こうした文化との関わり方や、SNSの使い方にあった。
私は、(もちろん岩下食品の足下にも及ばないが)地方の中小企業を経営している。岩下社長と同じく、家業を継いだ形だ。会社の業種や規模こそまるで異なるが、文化的な趣味(好きな音楽など)が近いこともあり、ある種の親近感を覚えていた。
家業を継いだ経営者、などと自己紹介すると殺伐としたはてな界隈では手斧(懐かしい)を投げつけられるかもしれないが、そんな楽なもんじゃない。挙げたらきりが無いが、たとえば継いできた事業を自分の代で台無しにしてしまったら、みたいなプレッシャーは常にある。社内には自分より長く勤めている人が多いし、取引先のほうを見れば叩き上げの海千山千ばかりで、内外からの試されるような視線は常に感じる。そもそも、自分でイチから選んで始めた業種じゃないから、仕事自体もいわゆる「好きが高じてやりたいこと」などとはかけ離れている。
そういう立場の身からすると、岩下社長の活動は輝いて見えていたのだ。
直接的に文化と関わるような業種でなくても、大都市に拠点をおく企業でなくても、興味や趣味を自社の事業にプラスになる形で(いわゆる「社長の道楽」ではなく)繋げられるし、自社の可能性も拡げられるのだ。そうした実例を目の当たりにして、勇気をもらったような気がしていた。
だから新生姜ミュージアムにも何度も行ったし、さまざまな企業とコラボレーションした商品もいくつも買った。あのスタイルをそのまま真似するのはもちろん無理だが、学ぶところは多かった。尊敬していたし、私淑していたのだ。
ただ、今となってはこういった話をすべて過去形で書かざるをえない。
今回の件に話を戻そう。
岩下社長が暇空茜の支持を公言したとき、私は「岩下社長ともあろう人が、なんでこんなリスクの高いことをするのだろう」と思った。
暇空茜を支持することの賛否云々以前に、先に書いたように、暇空茜に関しては支持者もアンチも過熱し先鋭化している。
実際、今回の岩下社長の発言を受けて「不買運動」「買って応援」といったリアクションが飛び交っているし、そこまで極端でなくても、岩下社長および岩下食品に対する見方をネガティブな方向に改めた人も多いだろう。ましてや、暇空茜のこれまでの発言には良識を疑うものも多く(だから私もミュートしている)、そうした人物を公の場で支持すれば非難の声があがるのは目に見えている。
岩下社長ほどのTwitter慣れしている人が、このような渦中に会社や自社製品を巻き込んでしまうリスクに考えが及ばなかったことがまず信じられないのだ。
岩下社長は「暇空茜を応援したい」という私的な気持ちから今回の発言に至ったのだろう。
たとえばこれが岩下社長個人の、会社とは切り離した匿名アカウントだったら別に何の問題にもならなかったはずだ。しかし、岩下社長のTwitterアカウントは個人名義であっても先述のように「公」の面が強く、実際は会社の看板を背負って活動しているに等しい。
岩下食品ほどの企業であれば、従業員やその家族だけでも相当な数になるだろう。取引先も含めればもっとだ。新生姜ミュージアムのイベント等を通して交流のあったミュージシャン、アイドル、芸人なども多い。
今回の件を岩下食品のステークホルダー(従業員、取引先、顧客etc)がどう捉えているのか、実際のところはわからないが、影響は小さくないように思う。
少なくとも、岩下社長自身が書いているように、関係先・取引先には既に苦情が入っているのだ。
なので、私としては、「暇空茜を支持するなんてがっかり」的な話以上に、尊敬していた経営者が「自分の言動が、従業員やその家族にどう影響するか」を考えずに道を踏み外してしまった出来事、と捉えている。
その上で、「馬鹿にするなよ」発言だ。匿名の個人アカウントならまだしも、会社を背負って、(アンチが過熱しているとはいえ)不特定多数の人たちに向けてする言い回しではないだろう。個人的にはこの発言で「一線を越えてしまった」と感じ、この増田を書くに至った次第だ。
(ただし、岩下社長が感情的なツイートをすること自体は以前からあったし、それは決して見ていて気分の良いものではなかった。しかしその矛先は類似品の販売元に向いていることが多かったので、今回のツイートとは随分と印象が異なる)
なお、私には今回の件をきっかけに不買運動をしようなどというつもりはない。今後も岩下の新生姜や岩下のピリ辛らっきょうなどを食べたいときにはこれまで通り買うだろう。ただし、岩下社長のことは人としても経営者としても見損ないました。本当に残念です。
・バケツプリンを作って近所に配っている
・みたらし団子の風呂を作って飛び込む
→地域のみたらし団子を買い占めて、みたらしファンの喜びを奪おうとしている
→すべった上に友達に「ツッコミが下手やから」と八つ当たりした
→これは失敗テロ
→この墓はこれからの被害者のための墓。全ての人に墓を掘る。もずみん一人で墓を掘る。皆殺しだ…
→これは単純な違法行為
・パン屋のトングをカチカチ鳴らす
→そんなことする暇はなく悪事に勤しむ
・いつもドッキリを仕掛けられてキレている
→コンビニ店員の仕事を無駄に増やして愛想をさらに悪くさせようとしている
→もちろんバケツプリン代に用いた
→槇原敬之の『どんなときも。』のシングルとユーロビートのアルバムのみ購入。商店街でエンドレスでかけるテロを計画
→ふとした拍子に善人になってしまいそうになる自分を戒めるため、闇成分をちいかわから補充している
→何その歌知らん
控えめに言って悪辣すぎる
さっき書いたコロンブスの第3回航海は1498年。
そのコロンブスの報告を受けたスペインが、1499年に南米調査のための船団を派遣して、そこにアメリゴが加わった。
1500年にカブラルがブラジルに上陸・探検して、そこを未発見の島だと考え、ポルトガルの領土宣言をした。
それを受けて、ポルトガルが1501年に南米に船団を派遣して、そこにまたアメリゴが参加した。
そうしたいくつかの航海を経てアメリゴが「赤道を越えてだいぶ進んだけどぜんぜん陸地が続いてるし生態系や原住民の文化も変だからこれは新大陸だよ」と報告して、
その報告を読んだ地図製作者が「新大陸だって最初に言ったのはアメリゴさんじゃん!」と思って、自分が作った地図の新大陸に「アメリカ」という名前をつけたから。
子曰く、「善く戦う者は、その勢いを人におもわせず、己が工夫をもってこれを制する(13篇 虚実)。」
増田、『女王の教室』というドラマに関して、その絶賛の背景にはいくつかの要素が含まれるかもしれません。確かに、理不尽なシナリオや児童に厳しい責任を負わせるテーマは一見して不快に感じるかもしれませんが、一方でこれは視聴者に対する一つの挑戦であるとも考えられます。
孫子の言葉のように、「その勢いを人におもわせず、己が工夫をもってこれを制する」という教えがあります。このドラマの評価は、観る者に隠されたメッセージや社会の真実を見極める能力が試されていると言えます。つまり、その厳しい環境や理不尽さを通じて、視聴者に自分自身と向き合い、工夫を凝らして克服する力を感じさせるのです。
増田の言う通り、子どもたちに全責任を負わせるというのは現実的ではありませんが、ドラマの中で描かれる苦境や不合理は、実際の社会に存在する問題を象徴しています。視聴者はそれを通じて、現実の社会問題や教育のあり方について深く考える機会を得るのです。
増田が感じた「気持ち悪さ」もまた、製作者が意図した感情の一部かもしれません。その感情を通じて、視聴者が一歩引いて自問自答し、より良い未来を模索する糧となることを期待しているのではないでしょうか。
総じて、『女王の教室』は視聴者に対する挑戦状であり、孫子の戦略的思考をもって解釈することで、その真価が見えてくるかもしれません。
あくまで炎上へのリスクヘッジ的な目的では雇うべきでは無いって話ね
他の理由でなら別に何も言う事は無い(って言うけどこれ絶対聞かないアホや人文系のアホ出るよね)
そいつらよりAIに聞いた方がよっぽどマシやぞAIの専門家雇うべき
https://togetter.com/li/2385037
こちらで人文系の専門家を雇ってれば炎上は防げたみたいな事が言われてる
この手の発言は社会学なり人文系なりで今までネットで何度も言われていたが
なぜならば人文系や社会学の人達は今まで何度も何度も問題をスルーしてきた前科があるからだ
そんな前科者を雇ってしまったとして問題を確実に指摘して貰えるという保証があるだろうか?
例えば草津町の冤罪事件…はてなでならもう言わなくても分かるかもしれんが
草津町長に誹謗中傷をしてしまった人達やそれをロクに謝れない人達
そしてそのロクでもない人達をきちんと批判出来なかった人達が人文系や社会学の中には沢山いる
上のリンクやブコメにも過去のやらかしを全く忘れたかのように人文系が頼れるかのように言うクソボケお仲間が沢山いる
その人が権力のある社会学者だからとロクに批判する事が出来ないという事を言ってた人もいた
人文系や社会学の人達はちょっとした事で口を噤むケースが普通にあるという事だ
もし企業で問題のある動画を製作してしまったとしてその動画の関係者の中に重要な人がいたとしたら…
問題点を相談するために雇った筈の専門家達はロクに指摘できない可能性が高いという事だ
もしくはちょっとした個人的な思想が関係して言わない可能性だってある
Xで問題のある同業者に軽くエアコメ皮肉を言う事も出来ない奴らが仕事でならきちんと指摘出来るなんて事ある筈も無かろう
ここでマトモな専門家を雇えばいいなんて言う奴が出るかもしれないが
問題のある動画か自分で判断出来ない企業がどうやってマトモな人文系・社会学の専門家か判断出来るって言うんだよ
chatGPTなどに企業の内部情報を聞く訳にはいかないなんて意見もあるが
コロンブスのアメリカ大陸500周年を記念した映画は1992年当時、すくなくとも2本公開されている。
1本は、元増田が書いてるリドリー・スコット監督の『1492 コロンブス』。(原題 “1492: Conquest of Paradise)”)
もう1本はジョン・グレン監督の『コロンブス』(原題 “Christopher Columbus: The Discovery”)。
ジョン・グレン監督というのは馴染みのない名前かもしれないが、1980年代から90年代の007シリーズを手掛けている人。
自分は見たのは前者(以下『1492』と略記)だけだが、後者(以下『コロンブス』)についてもいろいろ悪い意味で話題になってたよなあと思い出したので、wikipediaの英語版その他を手がかりに書いていく。正確性は必ずしも保証しない。
元増田は『1492』を“盛大にコケた”と評してたが、もっと目も当てられないコケ方というか、製作時点からトラブル続きだったのは後者の方。興行成績も『1492』のほうがよほどマシだったはず。
『コロンブス』は米・英・スペイン合作の、アメリカ大陸到達500周年記念大作として、スーパーマン・シリーズでも有名なサルキンド親子のプロデュースで動き出した企画だった。
実はリドスコ、こっちの監督としてオファーされていたのだが蹴ったあげく、ライバル作品である『1942』を監督を受けてしまう。
こっちのプロデューサーは当時は若手のフランス人で、脚本はその人の奥さんが書いてるのだが、たしか脚本に惚れ込んだとかいう話だった記憶が、うっすらあるような、ないような。
これが訴訟沙汰になってリドスコは訴えられてしまい『コロンブス』サイドによればリドスコ側が脚本のアイデアを盗んだとかなんとか。
脚本は似てないってことで損害賠償は認められなかったようだが、リドスコ版の原題が“Conquest of Paradise”となっていてコロンブスのコの字もないのは、そういう大人の事情が働いていたようだ。
『コロンブス』は大作にふさわしく、原案と脚本にマリオ・プーゾ(あのゴッド・ファーザーの)、キャストにはマーロン・ブランドも名を連ね、リドスコに蹴られた監督のオファーをまず受けたのは、イタリア出身のギリシャ人監督ジョージ・P・コスマトス。
っていわれても知らねえよってのが普通の反応だが、『カサンドラ・クロス』『ランボー怒りの脱出』『コブラ』等々の作品は知ってる人もそこそこいるか。
ところがこの人も、「創作上の相違」を理由に降板した上、製作サイドに訴訟を起こしており、あとを続くようにティモシー・ダルトン(4代目ジェームズ・ボンド)やイザベラ・ロッセリーニ(あのロッセリーニとイングリット・バーグマンの娘)も降板。
マーロン・ブランド(異端審問官役だったらしい)はクレジットの削除を要求したらしい。
詳細は不明だが、勝手に推測するに、“とにかく500周年に合せてデッカイ映画を!”が先走って、いろいろグチャグチャだったことがうかがえる。
映画自体は観てないから内容は知らないが、あらすじをみる限り、こちらはあくまで“アメリカ大陸到達まで”を描く娯楽大作だったようだ。
『1492』の方も見るには見たのだが記憶は曖昧だ。元増田同様、長くてつまんなかったというのは良く覚えてるけど。
ネットでいくつか感想や評のようなものを見かけたが、わりと人によって違う印象で、これはつまり、ダラダラ長い割に焦点の定まらない映画だったということかも。
ネットの情報を参考にしつつ自分の記憶とあわせて再構成してみると、
みたいな感じか。
で、当時たしか“なんだかコロさんがどういう人なのかも、監督がなにを言いたいのかよく分からん”と思った記憶がある。
山師なのか夢見がちなロマンチストなのか。結局は儲けたくて航海やってんのか。
いやまあ色んな面を持ってるのが人間だよねーで納得できる感じでもなかったと思う。
で、最後になんか取ってつけたように“人生にはロマンが必要だよね”みたいなこと言い出して、いや、これそういう映画だったっけ?みたいな。
コロンブスがきたせいで南米大変なことになっちゃったねー、それまで楽園みたいだったのに、ってのはかろうじて伝わったが。
もしかしたら当時、コロンブス像の転換というのが行われている最中で、それを反映していろいろ多面的な捉え方をしようとした脚本だったのかもしれないが、それが作品には投影されてなかったのだろう。多分。
まあ配信もされないってことは、もう歴史の闇に葬り去られていく映画なんだろうけど、あの年にコロンブス映画が失敗したことで、その後のエンタメのテーマとしてはとりあげにくくなったのかなぁ?という気はするな。
結論 コロンブスは鬼門なので安意にエンタメで扱わないほうが良い。
え?違う?