はてなキーワード: 絵画とは
こういう取り組みがますます上級国民と底辺との格差を広げると思うんだが、この筆者は何故単純にそれを礼賛しているんだろうと思う
https://toyokeizai.net/articles/-/612335?page=4
「一例を挙げると、広島県のなぎさ公園小学校は、学校の廊下のスペースに、小説や絵本がぎっしりつまった本棚があって、たくさんの展示パネルには生徒たちの絵画、書道、自由研究、手紙、将来の夢などが掲示されています。つまり、教室の外がまるで図書室や美術館のようになっていて、休み時間には好奇心を刺激された子どもたちが自然にそれらに触れられるようになっているのです。
つねに子どもが本や美術に接することができる工夫がされているうえ、子ども同士がいいと思った本を推薦し合える「読書郵便」などの仕組みも導入されていて、本の感想を互いに伝え合うことが習慣化されています。
さらに同校では、校庭にビオトープをつくって、子どもたちが自然の中で自由に遊び、学べる環境を整えています。校内の一角で田植えを体験したり、キャンプ、干潟観察、山での雪遊びなど、本物の自然に触れる体験型学習に力を入れている。」
それが「歴史と文脈がある」という部分なんよ。 アートとしての絵画には文法があると言ってもいい。
たとえばラッセンの絵がアートとしての評価が低いのは文法が滅茶苦茶だからだ。
わかりやすく喩えるのは難しいが、刺青に無茶苦茶な日本語の文字を散りばめている外国人を想像したらいい。
それが刺青としてクールであろうとなかろうと日本語として無茶苦茶であることにかわりはない。
アートの文法を理解している人々はかなり限られている閉鎖された世界に集まっていて、いわゆる画壇というコミュニティだ。
もちろん画壇は地上にひとつというわけではない。
だからアートを発表するならどの画壇で発表するかによって評価は全く違ったりもする。
これはとあるオタク学級裁判で実際に起きたことである。という前置きをされている都市伝説の99割が嘘であるように当然これも実際に起きてはいない。
「委員長!この絵はどう見てもA氏とB氏とC氏の描いた絵をトレースしたものに他なりません」
「いいえ。これらはあくまでAIが出力したものであり、トレースではありません」
「そうは言いますがね!尻のラインが完全に一緒!胸はB氏の特徴が出てる!背景はC氏のものをそのまま使っているレベルだ!」
「しかしですね。服装がまるっきり違いますよね。これはもうオリジナルと言っていいでしょう」
「装飾品だって、資料にあるようにD氏とE氏とF氏とG氏の作品から少しずつ部品を拝借しているだけじゃないですか」
「パレットを弄っただけでしょう!こんなのはAIなら簡単にできることです」
こうした言い争いが何日も続き、ネットの関連スレは盛り上がり、元ネタにされた絵師たちさえもクソリプに疲れ一時アカウントを凍結した。
やがて結論が出た。
被告人はAIに学習させる絵の内容を必要以上に絞り偏ったものとし、結果として学習元の特徴を強く残した絵をAIに描写させるに至った。
また、AIに出力を促すにおいて学習内容の偏りの強さに対して内容のファジー化を提案せず、逆に個々のパーツをそのままに使うことを提案している。
これらはAI絵画における著作権侵害防止への意識を強く欠くものであり、実刑に値するものとする」
「いいえ。あなたが謝る必要はありません。全てはあなたを唆した秘書が悪いのですから」
「そうですね。人間はすぐに嘘をつく癖に見栄を張りたがる。絵師である雇い主が成功すれば秘書としての自分のステータスも上がると思い込み暴走に至ったのです」
。
まず、アモングアスにおいてゴースティングが悪いとされている理由から書きます。
アモアスは説明するまでもなく匿名性の高い人狼系ゲームである為、ゴースティングにおいて他のプレイヤーの情報を知ってしまうと勝利に近づいてしまいます。
つまり、競技の公平性が失われ、ゴースティングしているプレイヤーにとって勝利しやすく得に、それ以外のプレイヤーにとって負けやすくなり損になるから悪とされいてます。
。
うるさくてすみま船って、勝利しやすいと得になる環境でしょうか?
。
うる船の、それこそ今回問題となっているなかのっち氏のうる船動画ですが、タイトルが【面白総集編】となっています。
通常アモアス動画といえば試合通して試合展開を楽しむものですが、なかのっち氏の動画を見ても試合の結果すら分からないしどこが試合の切れ目かもわかりずらい・・・。
それこそ動画の内容に勝ち負けが出ることは稀で、タイトル通り面白い場面の総集編となっています。
うる船に参加しているプレイヤーの皆様の動画は通常のアモアス動画通り一戦ごととなっていることが多いですが、勝敗がメインになることは少なく、こんなおもろいことがあったで!という内容の動画となることが多いです。
。
と、いうか、うる船って、インポスターが分かっても黙ってる場面って多いですよね。
絶叫キルとか突然歌いだしたら逃げればいいのに、逃げずに斬られるの待つよね・・・。
たけぉにきの『呪いの絵画』の時も、みんな分かってたけど最後までぉにき釣らなかったよね・・・。
以上のことから、うる船において勝敗は二の次で、面白い動画を取ることを最優先にした船だという認識です。
。
それこそ、絶叫キルなんてプロレス技仕掛ける人としかけられる人の様式美そのものです。
プロレスに詳しいわけでは無いですが、アナウンサーがこう絶叫してるのを聞いたことがあります。
「あーーーーー!これはルール違反だーーーーーーー!!!!!!これはよくありませんねーーーーーー!!!!!」
それこそヒールなんて、ルール違反するのがお仕事みたいなものです。
プロレスにルール違反があって問題無いのは(あるのか?)、勝敗よりもエンターテイメントとしておもしろいこと優先した結果、ルール違反も芸の内という事だと思います。
じゃあうる船がルール違反あっていいのか?といえばルールとして決まっていることを破るのはダメだとは思います。
がしかし、勝利して得になる為にするゴースティングが勝利して得にならないうる船においてどれほど悪いことなんだろうか?という疑問です。
。
それに対して、『高田村』をスポーツに例えると総合格闘技のような、真剣勝負を楽しむエンタメだと思っています。
それこそ高田村参加者のUPする動画は「いかに勝利したか」「いかに考察したか」であって、アモアスそのものを楽しむ動画となっています。
もちろん面白おかしい事は多々あるんですが、それはあくまでアモアスの添え物としての存在で、メインではないんですよね。
というか、真剣勝負だからこそ「メイン・シャワー・メイン・シャワー」みたいな突拍子もない事が起こり笑いになるという事が多いと思います。
真剣勝負でルール違反をしたら、それこそ「秋山ぬるぬる事件」のような事が起きたら大事件だし、無期限出場停止処分にもなるかと思います。
。
アモアス真剣勝負をする⇒良い勝負になったり思わぬ笑いが生まれたりする⇒エンタメが生まれる
〇うる船の場合
エンタメをする⇒そのツールとしてアモアスを使う⇒面白い事が起こる。
どのアモアスもエンタメではありますが、エンタメが文章のどこに来るかは違うんですよね。
それは競技特性の違いによって、その競技とエンタメ性との兼ね合いが変わり、一言でエンタメと言ったときのニュアンスによって定義が変わります。
エンタメを辞書で引けばスポーツも入るので高田村も間違いなくエンタメではあるのですが、ミネさんの言うエンタメのニュアンスは主語がエンタメか否かだと思われます。
そのあたりで誤解が生じたかなとは思いますが、言ってること自体は特段間違えてはいないんですよね。
尚、別に最後にエンタメが来るからと言って高田村の方がエンタメが薄いという論は成り立ちません。エンタメの性質が違うだけです。
しいて言うならば、高田村はアモアス無くしては成り立ちませんが、うる船はアモアス無くても成り立つ可能性があります。
マイクラでエアシップ作ってた時もアモアス並みに楽しかったですし、あのメンツで何かやればどんなゲームでもうる船になり得ます。
。
高田健志氏がツイッターでゴースティング=悪論を論じていますが、どうにも高田村=総合格闘技のルールの話ででしかないと感じています。
それに対してうる船の、しかもソシャングアスというよりエンタメ性の濃いプロレス芸にそれを当てはめるのが適切とは考え辛いかと思います。
同じアモングアスで行うゲームですが、エンタメの性質の違いでルール違反の深刻度が変わることはありえるでしょう。
それは同じリングで行う競技でもプロレスと総合格闘技が全く違うものであるように。
。
以上、なかのっち、そんなに悪くないと思う。でした。
なかのっち氏がゴースティングでえらい叩かれているけど、そんなに悪くないと思うんだが・・・。
まず、アモングアスにおいてゴースティングが悪いとされている理由から書きます。
アモアスは説明するまでもなく匿名性の高い人狼系ゲームである為、ゴースティングにおいて他のプレイヤーの情報を知ってしまうと勝利に近づいてしまいます。
つまり、競技の公平性が失われ、ゴースティングしているプレイヤーにとって勝利しやすく得に、それ以外のプレイヤーにとって負けやすくなり損になるから悪とされいてます。
『ゴースティングしているプレーヤーにとって勝利しやすく得に』
うるさくてすみま船って、勝利しやすいと得になる環境でしょうか?
うる船の、それこそ今回問題となっているなかのっち氏のうる船動画ですが、タイトルが【面白総集編】となっています。
通常アモアス動画といえば試合通して試合展開を楽しむものですが、なかのっち氏の動画を見ても試合の結果すら分からないしどこが試合の切れ目かもわかりずらい・・・。
それこそ動画の内容に勝ち負けが出ることは稀で、タイトル通り面白い場面の総集編となっています。
うる船に参加しているプレイヤーの皆様の動画は通常のアモアス動画通り一戦ごととなっていることが多いですが、勝敗がメインになることは少なく、こんなおもろいことがあったで!という内容の動画となることが多いです。
と、いうか、うる船って、インポスターが分かっても黙ってる場面って多いですよね。
絶叫キルとか突然歌いだしたら逃げればいいのに、逃げずに斬られるの待つよね・・・。
たけぉにきの『呪いの絵画』の時も、みんな分かってたけど最後までぉにき釣らなかったよね・・・。
以上のことから、うる船において勝敗は二の次で、面白い動画を取ることを最優先にした船だという認識です。
それこそ、絶叫キルなんてプロレス技仕掛ける人としかけられる人の様式美そのものです。
プロレスに詳しいわけでは無いですが、アナウンサーがこう絶叫してるのを聞いたことがあります。
「あーーーーー!これはルール違反だーーーーーーー!!!!!!これはよくありませんねーーーーーー!!!!!」
それこそヒールなんて、ルール違反するのがお仕事みたいなものです。
プロレスにルール違反があって問題無いのは(あるのか?)、勝敗よりもエンターテイメントとしておもしろいこと優先した結果、ルール違反も芸の内という事だと思います。
じゃあうる船がルール違反あっていいのか?といえばルールとして決まっていることを破るのはダメだとは思います。
がしかし、勝利して得になる為にするゴースティングが勝利して得にならないうる船においてどれほど悪いことなんだろうか?という疑問です。
それに対して、『高田村』をスポーツに例えると総合格闘技のような、真剣勝負を楽しむエンタメだと思っています。
それこそ高田村参加者のUPする動画は「いかに勝利したか」「いかに考察したか」であって、アモアスそのものを楽しむ動画となっています。
もちろん面白おかしい事は多々あるんですが、それはあくまでアモアスの添え物としての存在で、メインではないんですよね。
というか、真剣勝負だからこそ「メイン・シャワー・メイン・シャワー」みたいな突拍子もない事が起こり笑いになるという事が多いと思います。
真剣勝負でルール違反をしたら、それこそ「秋山ぬるぬる事件」のような事が起きたら大事件だし、無期限出場停止処分にもなるかと思います。
アモアス真剣勝負をする⇒良い勝負になったり思わぬ笑いが生まれたりする⇒エンタメが生まれる
〇うる船の場合
エンタメをする⇒そのツールとしてアモアスを使う⇒面白い事が起こる。
どのアモアスもエンタメではありますが、エンタメが文章のどこに来るかは違うんですよね。
それは競技特性の違いによって、その競技とエンタメ性との兼ね合いが変わり、一言でエンタメと言ったときのニュアンスによって定義が変わります。
エンタメを辞書で引けばスポーツも入るので高田村も間違いなくエンタメではあるのですが、ミネさんの言うエンタメのニュアンスは主語がエンタメか否かだと思われます。
そのあたりで誤解が生じたかなとは思いますが、言ってること自体は特段間違えてはいないんですよね。
尚、別に最後にエンタメが来るからと言って高田村の方がエンタメが薄いという論は成り立ちません。エンタメの性質が違うだけです。
しいて言うならば、高田村はアモアス無くしては成り立ちませんが、うる船はアモアス無くても成り立つ可能性があります。
マイクラでエアシップ作ってた時もアモアス並みに楽しかったですし、あのメンツで何かやればどんなゲームでもうる船になり得ます。
高田健志氏がツイッターでゴースティング=悪論を論じていますが、どうにも高田村=総合格闘技のルールの話ででしかないと感じています。
それに対してうる船の、しかもソシャングアスというよりエンタメ性の濃いプロレス芸にそれを当てはめるのが適切とは考え辛いかと思います。
同じアモングアスで行うゲームですが、エンタメの性質の違いでルール違反の深刻度が変わることはありえるでしょう。
それは同じリングで行う競技でもプロレスと総合格闘技が全く違うものであるように。
以上、なかのっち、そんなに悪くないと思う。でした。
コンドームはすげー薄いゴムの膜ってことで結構文明っぽいが、実際そのくらいだ
身体を使ってやんないといけないし、よっぽど気をつけない限り妊娠や病気のリスクは避け難い
ハッキリ言って野蛮だ
セックスは原始人はおろか猿でもできる、というか、虫でもできる
だいたい、考えてみると、セックスするときに服を脱ぐのって、文明を脱ぎ捨てるのと同じじゃん
ご丁寧に、プロメテウスの火みたいなものであり、人類の叡智と象徴とも言える、電気・電灯を消しちゃったりもするじゃん
恥ずかしいのはお前たちの在り方だ
知性に対して恥ずかしさを覚えろ
これはすごいですよ
まず、オナニーをする者は、選ばれている
猿レベルになって初めてオナニーをできる可能性が出てくる そのレベルだ
本でシコるなら、印刷技術、高度に発達した物流、識字、絵画の文化、写真技術、そういったもの
スマホ見てシコるなら……もう、数えきれないくらいたくさんの技術 インターネットで動画見るなんて、何がどうなった結果可能になってんのか正直全然わかんねえもん
セックスはアルタミラ洞窟の壁に石で絵を描くのと同じレベルでできる というか、*実際*、アルタミラ洞窟の壁に絵を描いたやつは、ほぼ確実にセックスしていた 本質的に現代人と変わんないセックスを
なぜ警備・介護・清掃の3つなんだよw
■人生失敗した…
財産をすべて失って、生活保護一直線のコースがここからはじまる
ただ、所有物=自分を縛っているもの、という意識はずっとあったのだ
例えば、なんか難しい専門書を積ん読していれば、それをいつか読まなければいけない
読まないでも、読んで理解できんでも、そこから何か元を取る結果に結び付けなければいけないと焦る
というか、もっと簡単に例えるなら、クルマを買ったら乗らなければいけない
飽きたらほったらかし、というのは単に駐車場代を浪費するだけだった
捨てていく、失っていく過程を自分で行わなければならないのがつらい
先々が生活保護とか考えると、うかつに冷蔵庫を捨てるとかは躊躇してしまうのもある
でも、開発の機材とか、工作機械とかはバッサリ捨てる必要がある
ソフトウェアとかハードウェアとか、もうやっても警備、介護、清掃の世界では何の役にも立たない
音楽の知識も、絵画の知識も、警備、介護、清掃の世界では何のアドバンテージもない
これまでの人生のすべてが無駄になってしまった、無駄なものだったと心の底から思える
しかし、そうは思いつつも、捨てるにも粗大ゴミのシール買ってくるだけでもめんどくさい
というか、最近になって大病してしまって、後遺症とかで外を歩くのもつらい
でも、全部自分の身から出たサビだということは自分が一番良く理解しているのである
本当にばかなことをしたなぁ…
夫婦間でのやりとりという「日常の風景」を仕事の合間に気分転換がてら書いてみたのが数日前
そして、そんな文章を書いたことすら忘れていた今日、なにかで感情が少々乱されて「このことについて書き流そう!」と思い立ち、久しぶりにはてな匿名ダイアリーに来て何の気なしに過去の日記一覧を見たところ、その日記への「記事への反応」の数字が増えていることに気づく
いろいろな人のさまざまな視点からのレスに、なるほどなぁと納得したり、全く予想もつかない角度からの切り込みに感心したりする
最近になってようやく見方を覚えた「ブクマ」でのコメントも一通り読み、指摘された文章力の問題点を反芻しながら、何を書きたくてここに来たのかをついぞ思い出せなくなった
暑くてなんだかしんどいわー
睡眠水分しっかり取ってるんだけど、
あとは野菜350グラムと瞑想が足りないってのが増田の見解だって私はもう答えが分かっているの。
だからさ、
焼き肉以外で食べたら元気になる美味しいグッドのミールってなにかしら?
夏バテなのかしらこれって?
あたしゃ認めないよ!って
夏バテと言うよりは暑さでぐてーってなってるの。
でさー
もしかしてコロナ禍の中コロナ発生地域のアメダスの模様をお伝えしますって、
雨雲レーダーを見ていたけど、
ここだけ突発的に猛雨ってわけじゃないのに、
でも原因の臨時休業のわけは雨じゃなくて、
名推理!
コナン君でも眠りの小五郎さんが眠らせる前に分かってしまうようなもんよね。
だから今日はなんだかいまいちションテンが上がらないんだけど、
ゆっくり休息が欲しいわ、
ハウス世界名作劇場のフランダースの犬の最終回のなんか凄い芸術の絵画の前でフラフラになる感じの物語で、
あの世界名作劇場のあの話しの教訓ってなんだったのかしら?って
なんだか救われないわね。
私はこの暑さから救われたいので、
しっかり身体冷やしておかないと、
寝付きいいキツネ
ってここ軽く回文になってるけど、
そのぐらい逆に寝付き悪いのよね。
はぁ。
暑さなのかしらこれは?
なんかシャッキリしないわーって。
あれさー
愛ちゃんぜんぜん悪くないのに和彦くんが暢子ちゃんをたぶらかすからだし
とりあえず、
頑張るわよ。
うふふ。
だけど
背に腹は変えられないけど
じゃ、
腹は背に変えられるわけ?って
これが海腹川背って
背も腹も変えられないわよねー!
まったくよ。
そんな言い胡麻化せられないぐらいここのサンドイッチは塩っぱいのよ。
フィジカルに物理的にサンドイッチ自体が文字通り塩対応って意味よ。
そんなことどうでも良いわね。
ごくごく飲んできたわ!
暑いわー
みんなも暑さに気を付けて
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
2019年6月に製薬会社のエーザイが行った新しい抗てんかん薬の治験で、健康な20代の男性が退院した翌日に電柱から飛び降り亡くなってしまいました。
11月27日に本件に関し治験薬との因果関係は否定できないとする調査報告書が公開され、再び物議を醸しています。
https://news.nicovideo.jp/watch/nw6240919
・治験薬の投与を受けるまではうつになったこともなく、精神症状はなかった。
・他の形が漫画の一場面や絵画、キャラクターのロゴ等様々に見える。
・夜が来ても眠れない。体が眠っても意識が起きている感覚がある。
・次々と考えが浮かび上がり、思考が瞬時に入れ替わるなど頭が極めて冴える感覚がある。
・自分がなくなる恐怖がある。殺してほしい。
下記のエントリー(anond:20220701074807)で色々と書いてある点について。目下話題になっている「表現の自由」について。自分用の整理として。
目下話題の「表現の自由」は、いかなる意味で表現の自由なのだろうか。それは憲法21条1項に見られるような法的なそれだろうか。それとも、憲法21条1項のようなものとは異なった何かなのだろうか。たとえば、JAなんすんが制作した『ラブライブ! サンシャイン!!』のキャラクターを利用したポスターについて、絵の内容がが性的である※1という批判があった(なお、これや宇崎ちゃん欠缺ポスター事件の余波で、赤木氏らツイッター凍結騒動があったりした。覚えているだろうか?)。
ここで、抗議をJAなんすんが考慮して、ポスターを撤回したとする。すると、「誰の」自由が「誰によって」侵害されているのだろうか。侵害者をざっくりと抗議する者として捉え(本来、ツイッターで批判的な言葉を言っている者、電話をかけて意見を伝える者、付和雷同していたずら電話をする者、大量の手紙を送りつける等のいやがらせをする者等を十把一絡げに全部抗議者として捉えるのは適切ではあるまいが)、被侵害者をさしあたってJAなんすんとして、JAなんすんが抗議者に対して抗議をやめる(たとえば、ツイッターで「ポスターを撤回すべし」等の意見をつぶやくのをやめさせる)ように請求する法的資格を有する、というのが表現の自由主張の趣旨か。
はっきりいえば、そのような主張は法的には認められない。私人間効力の論点を見直すべきであるとしか言い様がない。ここで、抗議をやめるように要求する資格があると裁判所が肯定すれば、抗議者の表現に裁判所(=国家機関!)が介入することになり、それこそが表現の自由の侵害である。この構図において、憲法21条1項が保障する表現の自由の恩恵に浴するのは抗議者の側となるだろう。目下話題の「表現の自由」は、憲法21条1項とは異なる問題であると解するのが相当である・・・のだろう。
元々のエントリーでは次のような言明がある。
言いたかったのは、フェミニストはあくまで「女性の実質的な表現・言論の自由を高めるための環境づくり」を目指しているのであって、「表現規制派」というレッテル貼りは間違いだということ。フェミニストやリベラル派が目指すのは、あらゆる階級や属性の人が等しく表現の自由を行使できる社会だ。
これに対するブコメはこう言っている。
preciar おまえ等がぶっ叩いてきた作品のほとんどが女性の手になる物である時点で、ただの妄想というか開き直りでしかない/そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ?恥に加えて知恵も無い
後段の「そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ」という部分に注目したい。再びポスターを題材とする。「規制」という言葉を使うのは公権力ではないから不適切のように思うけれども、例のポスターに対する抗議は、ポスターを掲示することを抑制しようとする意図を有し、ある一つの表現を抑圧する行動である、という部分を問題として切り出すことにしよう。ここで想起するべきなのは、表現すべてがまったく自由(というより、放縦のまま)とされることなどあり得ないということである。たとえば名誉毀損的な言動は認められない。名誉毀損的言動をしている者を叱りつければ、それは一つの表現の抑圧には違いない。しかし、名誉毀損をされないというのも重要な利益であり、自己表現の利益と考量される対象となる(そうならないという人はいないだろう)。プライバシーも同様である。ノンフィクション『逆転』事件を想起すれば良い。前科を実名で暴露されない利益を重視する見地から、『逆転』における表現が抑制されている(この事件では、慰謝料の請求を裁判所が認めているから、公権力による「規制」ですらある!)。プライバシーの保護のために表現を抑制するべきであるという主張は「規制派」であろうか。
名誉毀損やプライバシーは具体的な個人の利益が問題となっているが、女性蔑視の問題はそうではないと思うかもしれない。しかし、番組準則のように、社会に薄く広く広がる利益保護(たとえば、放送番組の政治的公平性)を保護するために、表現を抑制する(番組編集準則であれば、放送局の自由)ということは、そうおかしな話ではない(なお、憲法学では、番組準則は、それへの違反が総務大臣による放送免許の取消原因になり得る等の効果をもつ限りで違憲であるとしている。)。たとえば、大阪府知事・大阪市長・橋下徹のトーク番組に対して、政治的に公平ではないという批判は、無論番組作りを抑制する可能性がある。実際、激しい批判を浴びて、大阪毎日放送は社内調査を行って検証したのである。これも「平等のために表現を規制しろと言う主張」だから「規制派」となるのだろうか?それはそれで一貫した立場ではある。それこそ「知恵も無い」と思うが。
なお、念のためにいえば、プライバシーも名誉権も日本国憲法は明文で保障していない。そのような利益であっても、憲法21条が保障する表現の自由にとっての対抗利益となることができる。憲法の明文で保障されていない権利は表現の自由の対抗利益になり得ないという考え方は、畢竟独自の見解に過ぎない。
選挙において「表現の自由」を掲げる政治家がいる。彼らの問題意識は極めて偏頗ではないか。日本の表現の自由をめぐる問題状況は深刻なものがある。ところが、こと選挙で「表現の自由」を旗印にする者の言動を見ていると、選挙運動の規制、公務員の政治的意見表明やストの広範な禁止、放送資源の分配問題、政府情報の保全・公開等々、様々な形で存在しているはずの問題状況が捨象されて、取り上げられているのは「マンガ・アニメ」の自由ということになっている。また、「アニメ・マンガ」だけを対象にしても、取り組む分野が偏っているのではないか。たとえば、これ(https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1542366137979400193)には『国が燃える』事件が入っていないが、右翼の抗議は免罪されているのか。あるいは、最近の『「神様」のいる家で育ちました』も入っていないが、宗教団体からの抗議は免罪されているのか。上記は、批判としてはマージナルかもしれない(忘れていただけかもしれない)が、刑法175条の廃止等(ポルノの合法化;「有害図書」販売規制の廃止ないし合理化)を公約に入れていないのはどうしたことか。
「表現の自由」を掲げる政治家の言動を観察していると、一つ気づくことがある。彼らは、表現の自由を抑制している制定法を改廃するのではなく、規制の対象外となるように関係機関に働きかけを行って「免除」(制定法の外部で活動しているのだから、お目こぼしに近い)するという活動に主眼を置いているようである。念のためにいえば、そういった活動を政治家が行うこと自体は奇妙なことではない。問題は、「表現の自由」といった一般的・普遍的権利を掲げながら、規制の廃止を唱えるよりも、特定の表現に限って規制を免除するように(制定法の改廃ではなく)法執行機関に働きかけをしていることである※4。取締当局に働きかけをして有利な方針を引き出すという方向性は、自由にとって脅威であることに変わりはない。結局、働きかけをする人物の意向によって「自由」の内実が左右されることになるからである。「免除」の仕組みを動かす人物が特定の出版社や特定の作品群を代表している場合、その他の出版社・表現には「免除」を拒否するという形で脅威となる可能性が存在し続ける。政治家の言動をナイーブに受け止めてはいけない。
なお、私は実は「アニメ・マンガ」の中の特定の作品群のみを対象とした偏頗な政治運動自体がけしからんというつもりはない※5。しかし、「表現の自由」という看板は下ろしてもらいたい。
「表現の自由」を掲げる政治家ないしツイッターアカウントを見ていると、「エロ(・グロ・ナンセンス)」の自由を重視しているような印象がある。こういった表現一般について、公権力の介入を排除する防御権があるのは当然だ、という前提があるような気がする。しかし、「わいせつ(obscenity)」にあたる言論は憲法上の権利として保護されないはずである。憲法上の権利として保護されないということは、内容規制をしても合憲であるということになる。日本の最高裁の考え方もそうであろう:
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。
「エロ」の自由を擁護していくとなると、「保護されない言論」の判例法理の桎梏をいかに除去していくかを考えるべきであろう。スウェーデンではポルノも出版の自由の対象とされていることに注意する必要がある。スウェーデンの憲法典の一部を構成する出版の自由に関する法律は、出版の自由を制限できる場合を限定列挙する。児童ポルノは出版の自由を制限できる場合に挙げられている※6が、ポルノ一般は挙げられていない。他方で日本の状況を考えてみよう。もはや何の修正もなく『チャタレイ夫人の恋人』は出版されているが、刑法175条自体は生きている。最高裁は判例を変更していない。捜査機関が取締りの方針を変更すれば、刑法175条でもって再び刑事罰が科されるであろう。他の成人向けのアダルト・ビデオにしても、マンガにしてもアニメにしても同様である。一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである。しかし、この最大の桎梏の存在を認識していない者も少なくないように思う。もしかすると、このような規制状況はもはや動かしがたいので、所与としなければならないと考え、より低い脅威度のものを優先しているのかもしれない。あるいは、彼らが取り組んでいる「マンガ・アニメ」は実は「わいせつ」にあたらない物件のみで、ハード・コア・ポルノ的な「マンガ・アニメ」は眼中にないのかもしれない。しかし、それでは『チャタレイ夫人の恋人』や『悪徳の栄え』、あるいは『蜜室』に取り組んだ人々と比べてあまりにチャチな取り組みだと思う。
丸山眞男を引き合いに出すまでもなく、日本人は既成事実に弱いと指摘される。いったん規制されると大変だから、規制される前に対処する政治家が必要であるという言い分を聞くが、既成事実に屈服して「一端規制されると大変」な状況を強化しているのは誰なのだろうか。
※1 ここで「性的」として批判されているのは、単に裸体だとか性器が描写されているという意味ではなく、ほぼ女性蔑視的という意味に等しいことに注意するべきである。
※2 書いているうちに思ったが、リュート判決の構図に似ている。
※3 スウェーデンなどの欧州諸国ではポルノが合法化されている。スウェーデン等で購入したヌード写真集を日本に輸入して税関検閲に引っかかる、というのが税関検閲諸事件の流れだ。
※4 なお、児童ポルノ禁止から創作物を除去せよとの主張は、一般的な規制の問題として評価できよう。
※5 むしろ、出版社の利益を守るためと考えれば、個別の出版について規制をお目こぼししてもらう活動も大事だろう。だが、あくまで出版社の権益であり、表現の自由という共通財の問題ではない。
※6 日本で出版されている成人向けマンガ・イラストが児童ポルノにあたるかと言った事件があったのだが、スウェーデン最高裁はマンガの表現形態に十分配慮した判断を行っている(NJA 2012 s. 400. 翻訳もある。外国の立法255号[2013年]223頁)。このような判断を日本の最高裁がするかというと、全然しないだろう。