はてなキーワード: 生態系とは
http://www.yamdas.org/column/technique/hatenablog.html
なお、タイトルに PART I とあるが、このネーミングはメル・ブルックスの『珍説世界史 PART I』にちなんだもので、PART II 以降は存在しない。つまり、あなた(ソフトウェア企業)が絶対すべきでないことは、Joel Spolsky にとってこの文章に書かれることだけなのだ。それは何か?
まぁ、そんなわけないんだけどね。
「最近のはてなの体たらくへの失望感に名前を付けたい」というだけの文章にマジレスするのも我ながらどうかと思うし、気持ちは分からなくもないんだが、最近は「はてブ」以外全く使ってない俺でも、長年お世話になってきたはてなに対してそれなりに愛着というものがあるわけで、ディスられるばかりの流れに少しばかり反抗を試みたい。これは、それだけのエントリだ。
というわけで、以下に書くのは、技術の話でも倫理の話でもない。どうか気軽に読んでほしい。
実例を挙げる。
今やワールドワイドな影響力を持つ勝ち組ソーシャルサービスのTwitterだが、彼らは、ここ数年でバックエンドの大半をスクラッチから完全に書き換えた。しかも、RubyからJavaへと、使用言語すら変更してしまった。
http://d.hatena.ne.jp/teppei-studio/20110709/1310168002
もう一つ。Tumblrも、LAMPアーキテクチャからJVMベースへ切り替えた。その過程で、Twitterがオープンソース化した技術を取り入れたりもしている。
http://blog.kyanny.me/entry/2012/02/19/002256
『「古いコードはクズだ」というのは錯覚だ』というJoelの意見は、一面では正しいが、他の面では間違っている。なぜなら、あるソフトウェアに求められていること(要件)は、時間と共にどんどん変化するからだ。
書き直そうが、書き直すまいが、一番ダメなソフトウェアとは「ユーザの要求に応えられないソフトウェア」だ。規模や環境の変化によって古い技術の技術的限界に直面したり、ビジネス環境の変化に追随する必要が出てきたのなら、「スクラッチから書き直す」のは立派に一つの選択肢だ。
はてなダイアリーの最初のバージョンがどういうものかは俺もよく知らないが、おそらく「LAMP」がエッジなキーワードとして持て囃されていた頃に書かれたプロダクトなんじゃないかな(間違ってたら突っ込みを)。それから時代は下り、Ruby on Railsに代表されるCoCなフレームワークの登場を経て、今や大規模分散や非同期を前提としたアーキテクチャが当たり前の時代。当然改修はしているだろうけど、MySQLを職人芸で負荷分散していた時代からは大分遠いところに来たのは間違いない。
何より、はてなダイアリーといえば「はてな記法」とカスタマイズの自由度の高さがウリだったわけだが、これらの存在が、今や機能追加や改良の妨げになっているとしても不思議じゃない。
はてなブログ開発の動機として「今どきの技術で、最初からやり直す」というのがあるのは間違いないが、それは「スクラッチからの書き直し」だから悪手なのだろうか。結局のところ、レガシーコードのメンテナンスを続ける場合と比べてどちらがより低コストか、という話の結論によるとしか言えない。
はてダのソーシャル要素といえば「トラックバック」と「idコール」と「キーワードリンク」だったわけだが、全部Twitter(とTogetter)に持っていかれたよね、という話。
だから、「はてダver.2」や「ブログ2.0」を望む声が大きいのは理解できるけど、ぶっちゃけ、そんなもんに開発リソースを突っ込んでも勝ち目なんか無い。んで、それに代わるアイディアを持ってる奴はどこにもいないと。だから、既存コードの改良ではなくスクラッチから書き直し、スモールスタートでフィードバックを受けながら方向性を考えていく、という方向性はそんなに間違っていないと思う。
ただ、現状を放置すると「それTumblrでできるよ」という話にしかならん、というのはその通りで。それ以外だと、もしgithubがblogサービスを始めたりすると、かなり客を持っていかれるのではないかという予感はする。いっそのこと、Tumblrのデッドコピーから始めるのが一番早いのかもしらんね。
少し別の話を。
これは、Twitterのgithubレポジトリだ。上でも書いた通り、Twitterはサービスをスクラッチから書き換えた。で、その過程で開発した内部向けのフレームワークを、どんどんオープンソース化している。彼らが、内部の技術をきちんと体系化して再利用可能にしていることの証左と言える。
一方、はてなのgithubレポジトリ。正直、サンプルとかプラグインばかりですね、と。
色々と理由はあるんだと思うが、一つ思うのは職人芸頼りで自分たちの技術を体系化するという部分が弱いんじゃないか、ということ(はてな発のオープンソースで広く使われてるのって何かあったっけ?)。
先ほどから散々「書き直していい」と主張しているが、誰かが言っていた通り、技術の本質を捕まえきっていない状態でフルスクラッチをやっても、失敗する可能性は高い。はてなブログがどちらなのかは、中の人にしか分からないことだけど。
はてなが経営的にあまり状況がよろしくない、という推測はおそらく当たっているのではないかと思う。
タイムラインで、誰かが「まっとうな方法で収益化する方法を真面目に考えるべきだった」と言っていたのを見た。それをしていれば、今回のような事態を招くことは無かったのだろうか。
だが、「まっとうなビジネスモデル」とは何だろう。実際問題として、ここ最近成功しているネットサービスのビジネスモデルで「ターゲティング広告」と「マスなユーザベースから抽出したビッグデータを解析して売る」以外で何か有力なものはあっただろうか。FacebookにせよTwitterにせよ、収益化の原動力はユーザ行動解析だったりするわけだ(彼らがオープンソース化に積極的なのは、インフラ技術が差別化の源ではない、という面もある)。
まぁ、あとはガチャだが、どちらにせよ現状では高木先生の逆鱗に触れるようなものしかないよね。
そんなわけで、それらに代わる第四のマネタイズモデルを思いついた人は、ぜひ近藤さんに教えてあげると良いんじゃないかな。あればだけど。
今後はてながどうなるかは分からないけど、一つ希望したいことがあるとすれば、故伊藤計劃氏のダイアリーがこの先も保全されることを望みたい。
それは、エントリを全て魚拓しろ、という話ではもちろんない。彼の生前に書かれたエントリは、当時の「はてな」という生態系を構成する一部でもあるわけで、そこから切り離して文章だけをアーカイブしてもあまり意味がない。
一昔前まではmixiが最高の釣り堀として機能してたようだが最近生態系が変容しているような感じなのか??いや自身釣り師じゃないからよく知らんのだけど。かなり最近mixiとか廃れてきてると思うんだがそこにいた彼らは生息域をどこに変えたんだろうか?以下大雑把にサービス別で
・mixi
まじで廃れてる。基本的にみんな3日以上ログインしてない
・グリー、モバゲ
よくわかんない。てかそもそもメールとか超制限してるよね?これで出会いとかに使ってる奴は多いのか??
これに手を出してるって割と一部だよなあ。あと相互フォローしてないと個人的に連絡取れないし不向き。
まさにイノベータ層でしょ?まあ大学生のユーザもどんどん増えてるみたいだが
無理無理。正直男女比が相当男に傾いてるのも事実だろ多分。
・その他のサービス
ヤフーのとか渋谷で宣伝しまくってる某とかな。でもどうなんだろ。まともなの無くてサクラだらけってイメージだわ。
いや単純に疑問だっただけなんだけどね。ほとんど感覚値で書いてるし思うところがあったらコメント頂ければ。基本的には条例等法制度も異性間マッチングに関しては否定的ではあるけれども、正直経済のアップサイドが見込めない中でコミュニティメイキングが人生の満足度を左右する枢要なパラメータになってくるっていうのは宮台はじめ様々な論者の説くところだと思っているんだよね。
まあただこういサービスに頼る時点で所謂恋愛弱者だとも言えるし何とも。ただ最近期間工の人か誰かが忙しすぎて出会いないわー、みたいなスレ立てしてたしまあ忙しくてどうしようもないというのも事実なんだろうなあと思ったんだわ。
結局世の中が求める形に収斂してくんだろうけどね。まあまとまりきりそうにもないのでこの辺で。
ダムだって環境破壊するし、生態系をごっそり変える可能性があるし、決壊の恐怖がある。
火力発電だって、化石燃料の採掘や消費が世界に及ぼす影響について、いまだ完全な調査がなされていないし、事故による周囲を巻き込んだ爆散も予想できる。
風力に至っては、風に干渉することにより、世界気象に影響を与える可能性だって捨てきれない。
(雨を降らす技術そのものはあるが、積極的にそれが使用されないのは、気象への影響が懸念されるから)
どんなのもにもリスクはあるが、それでも放射性物質を巻き散らかすよりはマシって議論でしょ。
安全無害な完全無欠のエネルギー、なんて誰も喧伝してないでしょ。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミク現象の持つCGM的側面については、外国人の感想でもしばしば言及されている。しかし、ワールドイズマインならぬWorld is Hers(世界は彼女のもの)と題された以下の感想ほど、このテーマを正面から丁寧に描いたものはない。CGMこそ「クリプトンが世界にもたらした最大の贈り物」との指摘はとても重要だろう。伊藤社長が主役を演じる世にも珍しい感想、という面からも一読の価値はある。
urlは以下の通り。
伊藤博之は自ら説明しようとしていた。
「ヴァーチャル・アイドル」初音ミクを生み出した企業、クリプトン・フューチャー・メディアのCEOとして、伊藤は人で溢れる大衆文化のバンドワゴンの運転席に座っている。そして誰もが興奮しすぎる前に、彼は人々にこのバンドワゴンが何であるか理解させたいと望んでいた。
「初音ミクは[一つの]ソフトウエアです」と彼は言う。「YAMAHAが開発したボーカロイド技術を使ったものです。[ボーカロイドは]歌声を作り出すエンジンで、我々はYAMAHAからその技術に基づく製品を開発するライセンスを得ました」
言い換えれば、ミクのファンであると公言することは、KorgのTritonキーボードあるいはフェンダー・ストラトキャスター・ギターのファンであるのと似ているのだ。君が応援するのは楽器――PCにインストールしなきゃならないうえに箱にはアニメ風のイラストが描かれているが、でもやはりそれは楽器だ。おまけにボーカロイドというブランドネーム自体はミクや彼女の華やかな友人たちに帰するものというより、むしろ彼らを動かす音声合成エンジンを指している。文字通りに取れば、「ボーカロイドのファン」であるとは、特定ブランドのギター弦のファンであるのと同じである。
だが誰がそんな言葉遊びを気にするだろうか? どんな新興サブカルチャーでも、言葉に独自の意味が付きまとうのは普通である。今日では「ボーカロイド」はそのイノベーションから花開いた仮想世界全体を示す言葉となっている。ボーカロイドとは作曲家がそのソフトを使って自宅スタジオで作り出した無限のレパートリーを持つ曲のことである。ボーカロイドとはそれぞれの曲に対応する画像と動画のギャラリーである。ボーカロイドとはそれらの画像から生まれたあらゆるミームや粗筋である。ボーカロイドとはそれぞれ特有のボイスバンクを象徴するキャラクター群のことである。そして誰であれアニメ・エキスポに参加した者ならこう言うだろう。ボーカロイドとはそれらキャラのあらゆるバリエーションを含む姿にドレスアップしたファン層である。
これこそがクリプトンのマーケディング・ディレクター、佐々木渉すらも驚かせた口コミ波及効果だ。彼は「ユーチューブやニコニコのような動画シェアサイトを通じて[ボーカロイドが]利用されるやり方」に驚いたと話す。「これらのサイトを使って、本当に口コミで仲間の間に広がっていきます。本当に過去に例を見ない[方法で]様々な国で人気を得ています」。つまり、本流エンターテインメントの大半が今なお企業の重苦しい手によって運営されている一方、自力推進型であるボーカロイドの本質はあらゆるものをひっくり返したのだ。
「ある意味、こんな現象相手に取り組む最良の手法を見つけるためもがき続けてきました」と佐々木は話す。「ファンからのフィードバックを得るのが最良だと我々は信じてきました……いかに物事に対処するか、ファン層にとって最もよいことのためにどうするかを。急いで金儲けしようとは思っていません」
クリプトンは、当時まだMP3ですら未発達の技術であり、ユーチューブ誕生に10年も先行し、そしてあらゆるものを可愛いアニメ少女に擬人化するアイデアがまだ急増していない1995年に設立された。「我々の目的はそもそもボーカロイドを仕事にすることでも、[音声合成]ソフトを作ることでもありませんでした」と伊藤は話す。「クリプトンは音全般――音と関係するソフト全てを取り扱う企業として設立されました」
もし伊藤を冗談めかして「ミクのお父さん」と呼ぶのなら、彼女の祖父母は最初のボーカロイドエンジンを2003年に発表したYAMAHAの面々となるだろう。「そうした技術が存在することは知っていましたし、それを使って何かできることがあるんじゃないかと思っていました」と、伊藤は当時について話す。「我々は既にYAMAHAと係わり合いをもっていましたので、彼らと連絡を取りそこから製品を作り出すことができました」
だが、あたかも完成された合成音声で歌う天使の形でミクが天から降臨してきた訳ではない。彼女の根っこは、伊藤の説明によればとても粗末な形式の音声技術にまで遡ることができる。「日本では[音声合成]ソフトは結構一般的で、例えば駅などで使われています。そこでは列車の到着がアナウンスされたり、あるいは[乗車している場合]駅名が呼ばれたりします。自動応答システムを使う電話はボーカロイドによって動いています」(想像してほしい、ミクの親戚の一人がカスタマーサービス用の電話回線で働く恐ろしいロボ電話であるという事実を)
「当初[合成された]歌声を使うソフトは存在しませんでした」と伊藤は続ける。「そうしたソフトにどの程度の需要があるのか、私には確信が持てませんでした。というか、はっきり言うなら、PCに歌わせることができるソフトを作るのにどんなメリットがあるのか分かりませんでした」
この疑念こそが伊藤に次の手を講じさせた――それは最終的にはクリプトンの歴史で最も賢い一手となった。「2004年、私は最初の[ボーカロイド]ソフト、Meikoを作り、それに漫画風のキャラを付けました。ある人格が歌う[のを真似る]ソフトは人間にとって必要不可欠なものではなかったから、そうしたのです。人々にアピールし人々から愛されるようになるためには人間味を持たせる必要があると考え、そのための最適な手段が漫画風キャラのようなものでした。このソフトは結構いい成功を収め、そしてもちろん初音ミクの構想へとつながりました」
そしてその次に起きたことは誰もが知っている。
おそらく伊藤博之が成功した秘密は、クリプトン創業者である彼が音楽、サウンドエンジニアではなく、ソフト開発者ですらなく、何よりビジネスパーソンだった点にあるのだろう。伊藤は、あなたはミュージシャンではないのかと質問されると笑い(彼はミュージシャンではない)、自身が経済を専攻したことを認めた。「音楽とは無関係です」と彼は言う。「ボーカロイドのマーケティングに成功するうえで、私は自分が学んだスキルのいくつかを使ったと思います」
アニメ・エキスポ1日目のキーノート講演で、初音ミクとボーカロイド・カルトについてスライドショーを使った改まったプレゼンを始める際に、伊藤はビジネスマンとしての本領を発揮した。彼はまず自分が誰で彼の企業が何をしているかについて慣例となっている概要報告を行い、それから公式にクリプトンが制作しているボーカロイド「キャラクター」(あるいは、厳密に正確さを期するならソフトウエア・パッケージというべきか)の一覧を示した。
2007年8月31日に生まれた永遠の16歳、初音ミクは、今ではショーの目玉に位置している。人気で彼女に次ぐのは鏡音の双子、リンとレンであり、彼ら独特の黄色い装飾と少年/少女のペアは、ミクの緑と灰色と同じくらいコスプレ業界では至る所で見かける。だが音楽制作者の視点から見ると最も用途の広い声は2009年の製品である巡音ルカのもので、より深い音域と日本語及び英語で「歌う」能力を誇っている。何人かのファンは昔ながらのMeikoとKaitoの旗を掲げている。その声は旧世代のボーカロイド技術の上に構築されているが、今なおクリプトン・ファミリーの中心メンバーである。
クリプトン以外のボーカロイド・キャラもサブカルチャーの世界に入ってきている。たとえば声優中島愛のボイスサンプルに基づき、マクロスFのランカ・リーをモデルとしたMegpoidや、J-rockのスーパースター、Gacktの声を使ったGackpoidなどがそうだ。より進取の気性に富んだ人々はUtauloid(日本語の言葉『歌う』から来ている)と呼ばれるオープンソースの音声合成エンジンまでも開発しており、その中で最も有名なのはピンクの巻き毛をした重音テトだ。
音楽ソフトウエア・パッケージについて、それがまるで本物の人間であるかのように語るのは最初は奇妙に感じられるだろう。しかし伊藤が最初に作り出した時に予想したように、それこそがこのソフトをかくも魅力的にしている正体なのだ。これらのキャラがもたらした創造性は、伊藤がプレゼンで誇らしげに見せびらかした数字によれば、ユーチューブで36万6000件、ニコニコで9万2600件に及ぶボーカロイド関連動画へと結実した。
そしてこの成長するメタ=ジャンルからあふれ出したマルチメディアコンテンツもある。クリプトンが運営するウェブサイトPiapro(『ピア・プロダクション』の省略形)には、ボーカロイドに触発された45万を超えるテキスト、音楽、及び画像の創作物がある。さらに注目に値するのはクリエーターたちがどのように相互に刺激しあっているかだ。コンテンツを共有するポリシーの下、あるPiaproユーザーが音楽を制作すれば、別の誰かがそれを聞いて付随するイラストを描き、さらに別の人がその構想に従って短いアニメ動画を作成する。そこでは、サイトのルールに従い創始者を適切にクレジットに載せることだけが重要だ。
何人かのボーカロイドファンはアートの世界の彼方まで行ってしまい、エンジニアリングの成果をもたらした。最もよく知られているのは3DアニメーションプログラムのMikuMikuDanceで、初音ミクのキャラクターモデルを――実際にはどんなキャラクターモデルでも――特定の歌に合わせてリップシンクし踊らせることができる。より繊細な対象を扱っているのがVocaListnerで、本物の人間の歌手によるインプットを分析し、ボーカロイドプログラムのセッティングを自動的にその声にあわせて調整する。思いつきに過ぎない想像の飛躍ですら現実化し得る。初音ミクの動画「Innocence」で取り上げられた「Ano Gakki」(『あの楽器』)というニックネームで呼ばれている奇妙な見かけのタッチパネル式キーボードも、実際に使える楽器として再現された(それほど野心的でないバージョンならスマホ用アプリとしてダウンロードできる)。
これら全てが意味しているのは、ほぼ完全にファンによって運行される賑やかで創造性に富む生態系が存在するということだ。究極的にはそれこそクリプトンが世界にもたらした最大の贈り物だろう。初音ミクやボーカロイド・ソフトそのものではなく、それらが使われる方法こそがそうなのだ。企業という大領主によってではなく、消費者によって作られた完全なエンターテインメント形式。企業は僅かな道具と規則を与えるだけで、後は椅子に深く腰掛けて次に何が起きるかを見守っている。
それでもなお、ボーカロイド体験を活気づけるため企業が提供するイベントは多数ある。今年はアニメ・エキスポが日本以外では初となる「ボーカロイドのライブ・コンサート」ミクノポリスのホストを務めた。それはステージ上の綺麗なスクリーンに投影するCGIアニメーションでしかない(ほかならない)が、いい視野角と健全な猜疑心の保留があればそのイリュージョンはなお印象的になる。さらに感動的なのは、セットリストにある全ての曲が明らかにファンの作ったもの――クリプトンの地下室であくせく働かされるソングライターが大量生産した製品ではなく、本物のミュージシャンがボーカロイドという媒体を通じて自らを表現したものである点だ。
だがコンサートはどのような限界が残されているかも暴露した。ミクの魔法は左右双方40度以上の角度では働かなくなった。調整の効かないボーカルは、時に楽器の生演奏の下で迷子になっていた。そして音声合成技術のあらゆるイノベーションをもってしても、より繊細な耳にはなおミクが絞め殺されるようなロボットじみた変な声をしているように感じられた。でも、日本では生身のアイドルについてどう言われていると思う? 「アイドルは不完全であってこそふさわしい」。不完全さこそがミクをこれほど魅力的にしている。誰もが進行中の仕事に関与できるからだ。
どんな未来があるか、誰に分かるだろう? クリプトンは既に英語版の初音ミク・ソフトが開発途上にあることを約束しているし、日本では新しい改良されたボーカロイド・エンジンが開発中だ。それはつまり、韓国語ですら歌えるボイスバンクを含んだ新たなキャラの登場を意味している。クリプトンのオリジナル・ボーカロイド製品は、その声に新たな音色をもたらす追加物「アペンド」によって進化を続けている。そしてどこかで我々の誰にも知られていないマッドな天才が、ボーカロイドの世界を永遠に変えてしまうようなアイデアにおそらく取り組んでいる。
多くの人が知っているように、「初音ミク」という名は「未来の最初の音」をもじったものだ。だがボーカロイド文化が広がるにつれ、この名前はますます不正確になっている。彼女はもはや未来の音ではない。彼女はまさに今の音である。
http://anond.hatelabo.jp/20110707195830
初音ミクLAライブ、外国人感想その2「再生の約束」フリーダム訳
http://anond.hatelabo.jp/20110708223459
初音ミクLAライブ、外国人感想その3「ミクノポリスのボカレタリアートたちよ、団結せよ!」
http://anond.hatelabo.jp/20110709211718
初音ミクLAライブ、外国人感想その4「仮想の歌姫:初音ミクの人気と未来の音色」
http://anond.hatelabo.jp/20110710234300
初音ミクLAライブ、外国人感想その5「オレはAXには行ってないけど、まあとにかく……」
http://anond.hatelabo.jp/20110711212701
初音ミクLAライブ、外国人感想その6「ミクノポリス:7月のクリスマスと世界征服」
http://anond.hatelabo.jp/20110712205546
初音ミクLAライブ、外国人感想その7「AX11:ミクノポリスの印象」
http://anond.hatelabo.jp/20110713211501
初音ミクLAライブ、外国人感想その8「ミクノポリス:コンサート・リポート」
http://anond.hatelabo.jp/20110714210122
初音ミクLAライブ、外国人感想その9「アニメ・エキスポ:初音ミク」
http://anond.hatelabo.jp/20110715222900
初音ミクLAライブ、外国人感想その10「アニメ・エキスポ2011(抄訳)」
http://anond.hatelabo.jp/20110716194029
初音ミクLAライブ、外国人感想その12「アニメ・エキスポ2011でのボーカロイド体験」
http://anond.hatelabo.jp/20110719031316
初音ミクLAライブ、外国人感想その13「ミク:日本のヴァーチャル・アイドルとメディア・プラットフォーム」
【6月10日 AFP】オーストラリアで、二酸化炭素(CO2)削減取り組みの一環として、イギリス系移民の殺処分が検討されている。
オーストラリアのイギリス系移民は、17世紀に流刑にされた犯罪者が繁殖したもの。現在、アウトバック(Outback)と呼ばれる豪大陸内部の砂漠を中心とする辺境地帯を徘徊する数は、1900万人にも上る。
これらのイギリス系移民らがあらゆる生態系を破壊し尽くして植生が失われるなどの害を考慮すると、イギリス系移民成人1名につき年間平均で、CO21トンに匹敵するメタンを算出している計算になり、同国の大きな温室効果ガス排出源になっているとみなせる。
こうした状況を背景に、アデレード(Adelaide)の広告会社ノースウエスト・カーボン(Northwest Carbon)が提案したのが、イギリス系移民の殺処分案だ。気候変動・エネルギー効率化省が9日公開した諮問書の中で提示された同社の提案によると、ヘリコプターから移民を射殺するか、集団をまとめて人肉処理場へ送り、トイレットペーパーや鯨の餌に加工する。
ノースウエスト・カーボンのティム・ムーア(Tim Moore)社長は、豪通信社AAPに対し、「わが国は創意工夫に富む国民の集まり。問題があっても革新的な解決方法を見出す。(イギリス系移民の殺処分は)そうした伝統の一例だ」と語った。
発電を火力中心、輸出を鉱山資源に大きく頼っているオーストラリアは、国民1人当たりの温室効果ガス排出量が世界でも最も多い国の部類に入るが、政府は方針の転換を模索しており、農業・林業従事者や土地所有者などが排出削減のアイデアを考案した場合、新たな経済的機会を与えることを検討中という。
イギリス系移民の殺処分案が含まれたイニシアチブは次週、議会で審議される予定。(c)AFP
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/environment/2805434/7323887
そうなんだよね、そこが焦点だよね。
生態系が云々、害獣駆除効果は云々、みたいな話なら、俺のいうプランで実験的に行えばそれでいいと思うんだ。
うまくいけばよし、いかなくてもすぐにもとに戻せる、みたいな感じでできるから。
それに、どっちになったって、学術的にはおもしろい。
だから、増田さんのいうとおり、最後の難関が、というか、不確定要素になってしまうのが、人への身体的、経済的被害なんだよね。
どの程度の人口密度の地域にどの程度の個体数ならいいのか、とか、どの地域なら問題なくできるのか、とか、そういう調査がすごく重要になるよね。
または、どうせGPSタグつけなきゃいかんと思ってるし、それを元にオオカミ注意報みたいなのを放送する、とかもひとつだよね。
まあ、いろいろ問題はあるけど、綿密な調査と対策を練れば、オオカミ放逐のできる地域もあると思うんだ。
わかんないけど。
つまり、俺がいいたいのは、生態系が云々みたいな話は、予算さえつけば問題が起き得ないように解決できるんだから、
もうちょっとクリアしがたい問題について話し合えばいいじゃん、って思うってこと。
そして、オオカミ放逐、可能であったら面白いし、いい実験だと思うよー。
外来種による生態系破壊危惧派にとっても、繁殖力のない個体のみを放す実験によって、外来種がどう遷移していくのかってデータもとれるかもだしね。
反対するのは簡単だけど、安易な賛成と同様に、安易な反対も大事なものを得る可能性をつぶすと思うんだよねえ。
みんながあげてる問題点って、ほんとうに解決しがたいかを考えてほしいかな、って思う。
で、どんどんディスカッションしれ。
ゴキブリは不快害虫であるが、生態系においては重要な役割を担っている。
ゴキブリを駆除するのは不快であるという理由が一次的である。その不快を取り除くために根絶すら辞さない。
ここにおいて、差別をするな、というのは不快害虫から見た視座であり、もう一方、差別をするなというのは生態系の一員としてのゴキブリからの視座である。
ゆえに、差別と非差別はひとつの対象において混在し、どちらの存在も許容しうるものである。
翻って本邦で展開される「差別をするな」という論調は、その差別の存在すら認めないこともある、強い論調である。
嫌いなものを嫌いと言って何が悪いと問われれば、悪くはない。嫌悪は感情に依るものだ。
しかし、そこに合理性が認められなければ差別をしてはならないという論も、合理性があっても差別をしてはならないという論も、聞かれる。
もちろん彼らは一枚岩ではないし、言ってしまえばこれは濃淡スペクトラムのごとく、差別とそれを拒むものとがなめらかに移ろうものかもしれない。
であるならば、これは一種の戦争状態である。パワーバランスの拮抗だ。状態は固定するだろうか。しないだろう。ゆえに終わりはない。
我々はその価値の共存を望まない限りにおいて、常に相手の価値を淘汰する圧力を掛け続けなければならない。
しかし、差別心とは感情に依るものであり、万人が万人の価値に基づいて差別を行うのである。
これを駆除するのはゴキブリを家から追い出すなどという生ぬるいものではなく、地球の全生物と戦争して己だけが勝ち残るという、闘争である。
だからこそ、差別をするな、などという暴力的な物言いはしてはならない。
ネトウヨというひとくくりにする言い方はできるだけしたくないのだけど。他にいい言い方が思いつかない。
俺の祖母は特定アジアではないけど、共産圏だった国の出身だった。父方と上手く行かなくて、他にも様々な原因があり家庭状況は最悪だった。
近所からのバッシングも酷かった。俺が生まれた80年代、クソ田舎ではまだまだ偏見があり、陰湿な村八分や非難があった。町内会でもPTAでも。
祖父は立派な人だった。祖父自身、外国人と結婚したことで散々な目にあったと聞いた。でも祖父は色眼鏡で世界を見ないように、ありったけの行動力と知識で知性というものを教えてくれた。あんなにクソみたいな家庭状況で、なんとかまともに成人できたのは祖父のおかげだ。
在日外国人問題。差別の当事者を直に見ていた俺は、ずっとずれを感じている。日本人らしいメンタリティが足りないと指摘されることも多々ある。
韓国の人が「日本を侵略しようと」土地を買い占めたり生態系を破壊して自国の植物を植えたり威張り散らしたりするのは絶対に認めたくないし、こういう連中がいなくならない限り彼らの外国人参政権を認めたくない。けど、そうではない人までいっしょくたにしてバッシングして、特定アジアの人と仲良くしただけでどんな人でも「非国民」と煽り、村八分にする空気は、あのクソ田舎の陰湿さと何もかわらねえ。ネトウヨの言ってる事に同感できる部分もあるけど、殆どは陰湿さから燃え盛る炎だ。俺はそれに生理的に嫌悪感を感じてしまう。
しかし、ネットや職場でそんな自分の思いを強くいえない。ネトウヨ的要素を持つ人は何処にでもいて、うっかり彼らの導火線に火をつけると、それまでなんでもなかった平穏なコミュニティが炎上してしまうのを何度も経験したからだ。ことなかれ主義を後押しするつもりはないが、関係ない人達まで陰湿さから燃え盛る炎に巻き込んでしまうのはもうごめんだ。
と思っていたのだが、うっかり前原問題を振られて導火線に火をつけてしまったよ。ああ、俺には本当に、日本人らしいメンタリティが足りない。
っていうのは煽りタイトルなんですが(一部界隈でホットなので、自らセカンドレイプをしかけてみる)
こういう事例というか、「自助努力が欠けているからそうなったんだ」という俗流自己責任を持ち上げる輩はわりといますね。
で、ちょっとトポロジーな類例をふたつばかり考えてみたので、ひとまず被害程度の問題を無視して、読んでみてください。
要するにこれは、レイプの話題で言えば「胸を露出させる服を着ているのが悪い」とか、「ひとりで夜出歩いているのが悪い」的な言説ですね。いじめられる側の隙を探して、いじめる理由に足るものを指摘して、「お前がデブでハゲでバカでフケ散らかしてるのが悪い」って話です。
レイプ含め、性犯罪を根絶することは不可能でしょう。同様に、いじめを根絶することも無理だと思います。起こってしまったときに、適切な対応と、理解を促すぐらいしか、方策はないように思います。
別方面でもそれなりに話題になりがちなテーマですね。よく「コミュ障だから内定がない」となかば自虐的に書き込まれるケースが多いですが、それ以外にも「社会人としての自覚が足りないからだ」とか「甘えてるからだ」とか、飛躍して「○○大学なら当然だな」とか、無い内定になるのにはさも当人に落ち度があるのだから当然という主張がまかり通っています。
学歴に依る差別は合理的なものだから、区別であって正しい、という主張をする人がまだまだ多いです。それを盾にして「だから低学歴は無い内定になって当然。今までの努力が足りないツケだ」と主張すること自体も正統的な目線で見られがちです。
そもそもの話として、自助努力というのは存在しうるのでしょうか。こういう場で使われる努力というのは「最適解」を前提にしています。つまり、努力しようがしなかろうが、当人にとっての最善の努力だろうが、実現しなければ「甘え」であり「努力が足りない」ということです。
性犯罪で例えれば「深夜にバイトをしないで生活できるように、最善の努力をしてこなかったお前が悪い」とか「努力せずに低学歴になったんだから、性風俗のような相応の産業で働いてあたりまえだし、その帰り道でレイプされてもどうせ売春婦なんだから一回ただ働きしたようなもんでしょ、適切な努力をした人はそんな事されない」とか臆面もなく主張してくるわけですね。
社内いじめが功を奏してクビになってしまったとしても、それは政治力のないあなたが悪い、とも言われてしまうわけです。
能力がなくてクビになったとしても、勉強する時間を創ってこなかったお前が悪いと、誰も取り合わないわけです。サビ残ばかりで終電帰宅な毎日でもね。
されたのが悪い、されたのはお前に原因がある。
努力すれば報いがあるのだから、報いがないのはお前の努力が足りない、というわけです。
負の努力をすれば負の報いがくるのだから、正の報いがないのはお前が負の努力をしているからだ、ということです。
先天的にせよ後天的にせよ、それを改善しようと努めないなら相応の報いを受けるのだ、というのは一見聞こえはいい(自分に火の粉は降りかからないから)ですが、弱肉強食に塗れたキケンな思想だと言わざるをえないでしょう。他責的言説が支持されないのはこういう背景があると睨んでいます(他人の因果がなぜ自分と関係があるのか!と思う人は多いんじゃないかな)
そして自分が喰われる側となれば「もっと努力すれば」とスーパーマンを期待し、
相互で相互のハードルを上げあって、互いに息苦しくなる(もちろん、この息苦しささえ「それはお前が弱いからだ」と言い切る人もいるでしょう)
自律意志を持たず、ひたすらルーティンワークをして錆止めの油(給与)を与えられるだけのサラリーマンを皮肉ったものとして。
しかし、すべての成員は歯車だ、と私は思うのです。どちらかというとポジティブに。
つまり自分が歯車として機能しているということは、他の歯車も機能しており、自分の馬力が他人に作用している何よりの証拠なのです。
すべての事象は、社会に参与するすべての人間に関係があるのです。
なぜ、熊森は生態系撹乱を無視してまでどんぐりを森に撒くのでしょう。
なぜ、我が国の文化はガラパゴスとして他国からCrazyと思われるのでしょう。
なぜ、起業しろと、起業ノウハウも金銭もない人間に主張するのでしょう。
すべてを理解しろと言っているのではありません。超人ではないのだから、私とて理解できないモノだってあります。
自己を律するのは勝手ですが、同じだけの律を他人に求めるのは不寛容です。
そして、できるだけ、すべてを包摂していくことこそが求められるべきです。
近頃、山に関する問題の解決に、狼を輸入するとかどんぐりを撒くのがダメだとか聞くけど、そんな馬鹿げた事にお金使わずに、間伐・枝打ち・下草柴刈り等々、お山のお仕事にお金出してくれればいいのになぁと思っている。
でもまぁ、仕分けられちゃってるくらいだから、実現は無理かな。
何が山に関する問題の原因になってるかというと、山が痩せちゃってる事なんだよね。
先ほど挙げた作業を行うと、まず山の地面に光があたるようになる、これを下草や柴が取り込み、それをまた刈ることで土に戻す。
この一連の作業を続けることで、土にエネルギーを蓄えることが出来る。
日本の山の周辺の人たちは、この作業をずっと続けていた。
山に住む生き物達も、この恩恵を受け、それに頼った生態系を作り上げていた。
ところが現代の山は、痩せた木が好き放題みっちりと生え、足元は低木や笹が茂って地面に光なんかあたらない。
土のエネルギーは昔ほどありはしないだろう。
痩せた木々の生える森、病気にすぐに負けて次々と枯れてしまう木がそれを物語っているんじゃないだろうか?
土にエネルギーが十分に蓄えられていると、ちょっとくらい日照りが続いたって、雨が多くたって、植物がその影響を受け止めてくれる。
だけど今の状況じゃ、日照りが続いたり寒かったり雨が長かったりすると、植物が耐え切れなくてとたんに影響が出る。
例えば、ヤマノイモは低木のあまり生えない山道の側や道路沿いに多く生えている。
養分が少なく土の流れやすい場所だが、そんな所でしか彼らは成長に必要な日光を得ることが出来ない。
だからちょっと雨が多いと土と一緒に流されてしまうのだ。
山に光さえ入ってくればヤマノイモはもっと他の場所で育つことが出来るはずだ。
知らない人のために言っておくと、ヤマノイモの地下茎やツルにつくムカゴは食用である。当然野生動物のエサとなる。
山の仕事を止めた結果、起こっている事をもうひとつ紹介してみよう。
昔を知っている人達なら夏に山に来ればすぐにわかる筈だが、カブトムシが小型化してるのだ。
皆さんの記憶の中では、蜜場を独占してスズメバチやカナブンを追い払っている姿があるだろう。
今の彼らはスズメバチに追い立てられて逃げてしまうのだ。スズメバチよりも小さい事が多いだから当然なのだが、なんとも情けない。
しかし、小さくならねば彼らは生きていけないからしょうがないのだ。
間隔の詰まった木々の生える森では大きな体では飛び難い、幼虫のえさとなる腐葉土を肥料として作る農家の人は居ないし、足元の低木に邪魔されて落ち葉があまり積もらない土では幼虫は大きくなれない。
カブトムシは里の人々に頼って大きくなり繁栄した動物だったのだ。
言われなくては気がつかない人も多いだろうが、カブトムシの幼虫はイノシシを初めとする雑食動物の蛋白源のひとつである。
晩秋までに10cm程度の大きさに成長して冬眠するため、重要なエサなのだ。
無論、こんな例で山に関する問題のすべてを説明しているわけじゃないけれど、間伐・枝打ち・下草柴刈り等々、お山のお仕事は問題の解決に役立ってくれるのです。
「管理しなければならない」ということでなければ、いったい誰が管理するんだろうか。他に管理ができる種族がいないのに?
もちろん生命種の絶滅は恒常的に発生してきたことではあるのだが、
人類発生以降の種の絶滅速度はそれ以前に比べると非常に大きくなっている。
これをこのまま放置するべきではないと考える。我々は環境を無目的に破壊すべきではない。
一つには遺伝子情報のバラエティを守る必要性があるということ。
進化の常道から言うならば、遺伝子情報の蓄積が大きければ大きいほどに将来的な危機に対応できる可能性が高まる。
これは単に「遺伝子を保存する」ということも考えられるのだが、当然生態系まるごとを保存したほうが有利。
また、自然界のバランスというものを我々が完全に把握しているわけではない。
未知の現象を知らぬ間に発生させて破壊しているかもしれないし、環境に与えたダメージがまったく未知の弊害をもたらす恐れもある。
まだ我々が知らない生物をそのつもりがなく絶滅させてしまうことすら十分に考えられる。
人類の存在はあまりにも強力すぎる。自然に作られた砂の城に土足で踏み込んであらゆるものを壊しているようなものだ。
人類以外の種の軽視ということはつまり我々自身のバラエティの軽視ということにも繋がる。
センチメンタルな発想ではあるが、多様性こそが生存と進化の鍵であり、我々もその恩恵を十分に被っている以上、バラエティを軽視することはできないと思う。
イルカの仲間では最大であり体の形はイルカそっくり。お腹は黒く目だけ白いその姿はパンダを連想させる
こんなシャチだからプールではシャチフロートも大人気。(フロート…空気を入れてプールなどに浮かべる遊具)
鴨川シーワールドではシャチショーが大人気。世界中の海に生息します。
しかしシャチは英語でキラーホエール。殺し屋クジラと呼ばれる。
イカやイワシなどの魚はもちろんペンギン,カモメまで食べます。
さらにアザラシ,イルカ,ホッキョクグマまで食べるらしい。その気になればシロナガスクジラやホオジロザメ(いわゆる人食いザメ。ジョーズ)までも食べる。
体長は7~8メートル。体重はおよそ5~6トン。この大きさに鋭い牙を持つ。
知能も高く氷の下からの奇襲・群れでの協力・挟み撃ちなど、高度な狩りの技術を持つらしいですよ。
海岸のアシカくらいなら海から体を出して食べてしまうようです。
これは海の最強生物と言ってもいいのでは。
海では敵なし状態にも関わらず奇抜な体のデザインとシャチショーで子どもたちの心を掴んでいるとはしたたかすぎる。
ホオジロザメと互角かそれ以上に強いにも関わらず頭がいいため人間は襲わずイメージよし。
地球上の7割は海であり海洋生態系の頂点に位置するシャチ。さらに知能も高い。
もしかしたら人類より先に文明を獲得したのはシャチだったかもしれない。海洋シャチ文明。
いや既に文明は芽生えているのかもしれない。海の中までは人間の目も行き届かない。
着々と人類の地球支配をひっくり返そうと根回しをしている段階かもしれませんね。
一歩間違えたらシャチと人類の全面戦争も起こりそうなレベルですよ。
こんな記事を書いてシャチageをしている余裕なんてないかも。なんとか海洋シャチ文明と人類との友好的交流はできないものか。
この記事のほとんどの情報はウィキペディアのシャチの記事からのものです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%81
いろいろ調べる内にシャチの魅力に引きつけられてしまいました。
気がつけば82歳
ttp://thoughts.asablo.jp/blog/2010/03/11/4938054
大きな木造の三面しか壁のない ガランとした建物だった。
中は照明も無く薄暗かった。
やがて奥の方から 黒い大きな牛が 鼻面に通された綱を曳かれて現れて、中央まで来た途端に、屈強な男性が歩み寄って、長い柄のついた斧のようなものを振り上げ 牛の眉間を撃った。
その一撃だけで 牛は膝を折り 崩れるように倒れた。
部外者以外に見ていたのは案内してくださった方と私だけ。
その夜、村の方々からすき焼きをご馳走になり、昼間の光景を忘れたように美味しく食べてる自分がいた。
戦争で死と隣り合わせの生活をしてきて鈍感になっていたのかもしれない。
又は、若い時は衝撃的であるはずの事もあまり抵抗なく受け入れてしまうのだろうか。
しかし、60年昔見た光景がずーっと心の奥に潜んでいて時折現れて色んな事を考えるのだ。
人間は 牛や 豚や 鶏や 諸々の魚介類などの命を貰って生きている。
「ダーウィンが来た」を見るまでもなく、弱肉強食は世の常、生態系に人間も組み込まれているのは解っている。
疎開していたころは、その辺を歩いている鶏を小父さんが捕まえ首を捻って、羽を毟りとり 解体して夜の鶏鍋になったのを見た。
今はスーパーで綺麗にパッケージされてるから食材として抵抗なく買える。
年齢かなあ
殺生が応える気分になった。 水槽で泳いでいる魚を コレって選ぶの辛いな。
せめて 貰った命は絶対無駄にしたくない。
私の命の一部に再生させてもらうことで納得したい。
http://ja.wikipedia.org/
未来年表 : 生活総研
http://seikatsusoken.jp/futuretimeline/
http://www.tanken.com/yosoku.html
みんなが望む方向に未来は変わっていくのかも、と思ったため。
なお食物連鎖の説明の際にクジラやイルカは「生態ピラミッドの頂点」とされる[13]が、クジラは生態系ピラミッドの下層(魚類やイカ類、プランクトンは比較的低い階層にある為)を食している[14]ため、ピラミッドの横に位置するという見方が適する。正確には頂点にいるのはアザラシなどを捕食するシャチのみである。
食物連鎖ピラミッドというものを皆さん、知ってると思う。弱い生き物ほど数が多い。鳥類だったらワシなどの捕食者は数が少ない。動物であればトラや熊のように強い生き物は数が少ない。鯨は食物連鎖の頂点にいる動物である。これを捕獲して捕まえるということは生態系に深刻なダメージを与えかねない。小さな部族にとっては熊やライオンを狩る狩猟はなりたつかもしれないが、大きな国家が、熊やライオンを捕獲して日常的に国民に食べさせることなど不可能。ところが日本はそれを海でやってしまってる。1億4000万人の食卓に鯨が日常的に登場することは、まずありえない。食物連鎖のピラミッドの頂点を食べ続ける狩猟が、陸上で成り立たないなら、海でも成り立つはずがない。われわれが食べていいのはピラミッドの下のほうのたくさんいる生き物だけだ。
調査捕鯨という手法には科学がない。たとえばライオンの数をサバンナで数えるために、見つけて殺すなどという手法がとられたためしがあるだろうか。捕獲して目印をつけたり、衛星で追えるような発信機をつけたりするのではないだろうか。絶滅が心配な動物を調査するときに殺して数を調べるだろうか。調査の段階で食べることを前提にしてしまったら受けいられるはずがない。殺さない方法での生態調査を行うのがまず先ではないだろうか。殺さない調査捕鯨を数年かけて実施してから世界を説得しても遅くはない。
日本の水産庁や漁業関係者が常に正しいのであれば、マグロは8種類のうち5種が絶滅危惧種になるような事態になっていなかったはず。日本は常に正しいわけではない。
誤解のないように言っておく。シーシェパードはテロ組織で営利団体だ!!寄付金を給料として着服する団体を私は一切信用しない。最近登場してきたmiauとかもだが。
なるほど。
定期的に間引きが必要だ、論者ですか。理解しました。
「間引きが必要」観点には、特に同意しませんが、現行の人間社会が、自然的な「淘汰」のシステムとは隔離されて成立してしまっているため、野生の生態系のシステムの中ならば「淘汰」されてしまう人間も、社会的に生き残っている/救われている、という社会設計になっている、ということぐらいは言えるかもしれない、とは思います。
あらゆる人間に「人権」を与えることで、現行の人間社会(というか、先進国)が、野生の生態系の淘汰メカニズムとは異なる生存システムを構築してしまっている、というのは確かでしょう。そのことが、何かしらの「歪さ」をもってしまっているかもしれない、みたいな主張であれば理解できないことはありません。
ただ、その「歪さ」の問題がどのように出ているのか、ということは今ひとつよくわからないし、問題の所在もわからないものは、問題への対処のしようもない、とも思っていますが。
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
数学と物理学を省略したければ,数学を『理学を志す人のための数学入門』とAdvanced Engineering Mathematicsとに,物理を小教程(熱・統計は適当に補う)にしたらよい.
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
正しいかどうか分からないことを、正しいと信じて試して間違いだったと決まったとき、「奴らは馬鹿だったからあんなことしたんだ」という外野は手を汚さずに後出しジャンケンをしているようにしか見えない。
今間違っていると思っている人も、昔の時代にタイムスリップしたら、間違っているかどうか分からないだろうし、間違っていると思わない可能性がある。間違っていると言えるのは先人が間違ったからだ。我々はそこから学ばなければならないのであって、先人を一概に全否定すればいいという代物ではない。我々は何も知らなければ先人と同じ間違いを繰り返すことがありうるからだ。
それに、なぜ間違っているか分からないのに間違っていると言うことはおかしなことだ。それではおかしいと思う人たちが反対側に行ってしまうことを止められない。ネオナチや在特会なんか正にそんな感じだ。彼らを生みだしたのはレッテルを貼ることしか出来ていない世間に他ならない。
あげく正しいか間違っているかを証明しようとする努力を否定するに至っては訳が分からない。エスパーでもないのにやらずに間違っているか証明できるのか? 間違っていると証明してこそ、間違っているからやめろと初めて言える。
調査捕鯨の結果、ミンククジラは別に増えていないし、生態系に大勢に影響はないという結果が出た。このことについて「だから調査捕鯨なんてやるべきではなかったんだよ」という論者がいる。じゃあその論者はその結果を出すために何か努力したのか? してないなら偉そうに言うな。
調査捕鯨の問題は商業捕鯨の禁止を受け入れた結果生じたものであり、商業捕鯨の禁止の正当性を探るための、そして商業捕鯨の禁止を不当と考えていたからこその調査捕鯨だったはずだ。調査捕鯨は控えめに言っても証明のため必要なプロセスだったと言えるだろう。
これからは商業捕鯨の禁止は正当化されるだろう。ただしこれまでの調査捕鯨はプロセス的に必要不可欠だったし、失敗にもかかわらず、その失敗をこそ評価しなければならないはずだ。
私は「失敗した奴らは馬鹿だったからあんなことをしたんだ」的な論者を憎んでいる。彼らは知識に対するフリーライダーであって決して偉くないし、さらに悪いことに反知性主義者だ。そういう奴が正しさにフリーライドしているからといって、評価されることがあってはならない。何もしてないくせに何だ。さらにそういう奴らが説明責任を果たさないでネオナチや在特会を生むのを見るとますますムカムカしてくる。