はてなキーワード: 無尽とは
コロナウイルス=アメリカ。相手が無尽蔵の生産力を誇るとかまったく考えずに、いま戦端を開かないと 日本の生命線が失われてしまう!とばかりに。
マスコミは煽りに煽って、国民はそれに踊らされて、とにかく戦わなきゃだめだ!と政府を突き上げ非常事態へ突き進む。
国民には「欲しがりません勝つまでは」と耐乏を強いて。
経済冷え込ませて耐乏して ウイルスの蔓延が止まったとしても、それはまだ勝ったわけじゃないんだよね。
一時的に収まってるだけで、みんな外に出てきたら また増殖は始まる。
根治させてるわけじゃなくて、遅滞させてるだけなんだから。
いつまで戦いは続くんでしょうね。
山本五十六さんが構想してたように 短期決戦でカタがつけばいいんだけど。
”クスリの開発”がいつになるのか
下手したら2年3年続くかも・・・。夏になっていったん収まっても 来冬にまた再発するだろうし。
仮に コロナによる直接的な死者を1万人救うかもしれないけど、代わりに 死んだ方がましという人々を100万人生み出す作戦に思える。
戦時経済は 戦争中は景気は持つんだけど、だいたい戦後に反動が来るんだよね。
太平洋戦争時も、戦時中は配給とかちゃんと機能してたんだけど 戦争末期~戦後は制度崩壊して闇市スラムが立ち並ぶ暗黒期が到来した。
あんときは朝鮮戦争特需があったけど、今回もそういう特需に乗れるかな?
何が正しいのかはわからないけど、
少なくともまともな報道ではない ワイドショーとかニュースショーに踊らされてる世論 及び 首相官邸 に自分の命運が託されてる状況がすごく嫌だ。
邪悪すぎて誰も本音を言おうとしないので,俺がはっきり言ってしまおう.
コロナ関係でよく「危機感のない若者が無自覚に拡散させている」と言われるが,それは半分正しくて,半分間違っている.
若者たちは危機感を抱いていないのではない.無自覚でもない.彼らは意識的に日本にコロナを蔓延させようとしているのだ.
彼らはコロナウイルスではなく,高齢化により大きな危機感を抱いている.
若者も感染するし重症化するが,高齢者の方が重症化して死ぬ割合は大きい.
そして,現在の日本は高齢者の存在それ自体が社会の大きな負担になっている.
コロナを拡散させればさせるほど,その社会の負担が勝手に死んでいく.
そういう奴が疫病を持ち帰ってくる、というのも真実。
今は自粛で数を減らし、行っちゃった人でもらってきた人は水際作戦で隔離、をしている。
外出完全罰則化には人権の問題が、と言うのもあるが、一度やったら解除のタイミングは難しい。「解除するならコロナはもう大丈夫だというメッセージになる!アベはバカ!」とか言われるしね。
で経済が死ぬわけだけど、「金を刷ればいい」ったって無尽蔵にはできんしな。そのままだとジンバブエドルになるんでしょ、よく知らんけど。実質国民の貯金に手を出していることになるんだよね?1000万貯金してても無駄になりますよってことなんだから。
結局バランスっていうことになるでしょ。そりゃみんなが閉じこもっていた方が病気的にはいいよ?だけどその「痛み」に全員が耐えられるんですか?と。痛み緩和のシワ寄せで自分の貯金が実質価値低下するのをどこまで許容できるんですか?と。
お客様が配布行為の直接の主体となる場合。すなわち、イベント等での対面販売、もしくは通信販売であっても自身のHP等、小規模な案内のもと、自ら受注を確認し、配布物を梱包し、発送の手続きを行うようなものは直接販売とみなします。委託販売やオークション等、第三者を仲介し、または不特定多数に向けることを目的とし、継続的かつ反復的に販売を行う行為は、認められません。
なお、上記例は例示的記載であり、たとえば内容や対象等が特殊な範囲内において、特定可能性が高い対象に対して、結果的にその活動が小規模となりうると推測しうる範囲での行為であれば表面上委託販売であっても、直接販売と判断しうるような場合もございます。
種類、内容、契約期間によらず、販売する数量は同一の商品について総累計200個までと制限させていただきます。なお無体創作物についても同様です。また名称や価格の変更等、商品本体の変更を伴わない変更があったとしても、これは同一の商品とみなし、総累計数にカウントしてお考えください。
売上予定額とは、「生産数×販売価格(税抜)」を意味します。実際の販売数ではなく、生産数によりますのでご注意ください。なお売上予定額が10万円を超えるような場合には、小規模行為ではないと判断させていただきますが、別途ご申請および版権利用料(ロイヤリティ)のお支払いをいただければ、例外的かつ部分的に許諾可能です(アマチュア版権窓口までご相談ください)。
ほかのところも、小規模で直接販売だから許す(目こぼす)であって、
電子書籍で無尽蔵に販売するって言ったら、無視は出来ねぇんじゃねぇかな・・・
多くのところがガイドラインは出していない
公式でなんでもOK!のゆるゆるのガイドライン出してるビッグタイトルは
もちろん二次創作の電子書籍を扱ってる会社があり、ガイドラインのない電子書籍同人誌が販売されていることを認識しているが、
そういう会社はお目溢しするんじゃない?
オーストリア在住日本人科学者maromiso氏「『となりのトトロ』には娘と父親の入浴やサツキのパンチラがあるのにあまり問題視されていない。日本は遅れすぎている。」
https://togetter.com/li/1479920
先に行っておくけどオーストリアは例の国連の子供の権利委員会の暴走した児童ポルノのガイドライン変更のパブコメにおいても創作物は児童ポルノに含むのは問題視している意見をきっちり出しているからね。
その上で言っておくけど、パンチラ云々とか言っているのはこの人がそれこそこのアニメをそう言う卑猥な目で鑑賞していると言う話であるし、それこそ言われている様に文化の違いやその時代を書いた話であると言う事に過ぎないと言う訳。
(トトロ自体その手の卑猥なアニメではないのは一般の方々が一番ご存じでしょう。)
しかしこの手の人の意見を見ているとそれこそお母さん保守や純潔教育思想そのものであると言うのが良く認識できるね。
いい加減リベラルと名乗るのやめたら?
それとそんなに日本が嫌いなら日本から出た後も日本の事なんてほっといてくれた方が良いよw
まあ、この手の自称リベラルを見ていたら何故昨今それこそこの人達の大好きな世界でもグローバル化はなりを潜め、ローカル化が進みつつあるのが良く判るよね。
更にコロナ禍でその動きが加速しそうだけど。
今やリベラルやフェミニズムこそ古臭くてダサいものと化してきているのは事実。
それとフェミニストや自称児童保護団体と絡んだ団体は多かれ少なかれ、その後自身がとんでもない炎上をしたり、衰退を招いたりするのもある意味凄いな。
当時手を組んでいた自民もこいつらと組んでいた時に政権交代を招いたし、リベラルはその後組んでボロ負けして勝てなくなったのも事実だしなー。
リアルタイムPCRを1日20検体で死ねるって、日本の生産性の低さを如実に表してるとしか。
機械の1ランあたりの反応数は現行機種だと96または384
1ランあたりの所要時間はスタンダードモードで120分、fastモードで60分
試薬を入れる、抽出RNAを入れる、蓋してスイッチオン、それだけ。
2000の間違いじゃ?
例えばタカラの
http://catalog.takara-bio.co.jp/product/basic_info.php?unitid=U100006681
操作だけみると30分以内であるが、遠心機が1度に何本回せるかによる。
24本とか、ハイスループットを謳うモデルでも48本とかそんなしか1度に回せない。
数百万する機械っていったってさあ、たかだか数百万こういう非常事態に捻り出さない?
ちょっと高い車1台くらいの値段だよ?
試薬代のほうがよっぽど高いわ。
それとも、消耗品は無尽蔵に買えるが、設備投資はうるさいのか?
マジでクソだな。
必ず「危機」の際にはこういうラノベの主人公みたいな物語をこぞって語る。
東日本大震災の時には「無能無能」と政府を罵倒し、実現不可能な自分の考えた解決策をネットで叫んだり、テレビで主張する専門家が後を絶たなかった。
なぜすぐに中国人を排除しなかったかと言えば、法律上そのようなことは非人道的であり重大な人権侵害なのでできないからだし、官僚がなぜ過労死ラインを超えて働いて対応しているかと言えば、官僚の数をケチって減らしていざというときに人手が足りないような体制の国を作ったからだ。
知り合いの霞が関の官僚は、通常業務の時点で目いっぱいまで働いている。
しかし、官僚よりもうまくできると考える人は「官僚の数も予算も人手も足りてない状況」であることがわかっていない。
人手と予算が足りていれば可能なことであっても、いざというときにうてない対策が山ほどある。
「なぜこんなことができないんだ? 無能な官僚どもよ。俺に指揮権をよこせばたちどころに上手く行くぞ」
と有能なことをいう方々いらっしゃるが、その前提は「人間と予算が無尽蔵に使えること」が前提になっているケースが大半である。
普段から人材の数も予算も権限も足りてない状況なのに、いざ事件が起きると「官僚は無能だ」とバッシングするのは簡単だが、それは旧日本軍と同じ愚を犯しているのだよね。
有能な指揮官ならば、まず官僚が「慢性的に数が足りないせいで、国会が始まると泊まり込むか深夜のタクシーに乗って帰る」という状況を改善しようと考えるはずだが、まずやり玉に挙げるのは、「現場がまずい。俺が行けば上手く行く」ということだけだ。
銀英伝でいえば、華麗な戦術ばかり夢見て、兵站を切られて死ぬタイプ。
霞ヶ関退職者が多いそうだ。過労状態で働いてる人が多いのだからそうなりもしよう。
①やれる限りの精一杯をやっている
②自分のほうが上手くやれると思っても、それは何らかの理由でできないケースが多い
サラリーマン金太郎のように土下座したり気に入らない人間をぶん殴ってよっしゃああああああ、みたいな成功譚を語るのは侮辱に等しい。
実際にはそう単純ではない。
俺が言うとおりやれば上手く行く、という話を聞くたびに「実際にやれば上手く行かないことだらけ」「なぜそうやらないのかと思ったら何らかの理由でできない」という想像力と敬意のない人なのだと思う。
東日本大震災でも官僚が過労死ラインをはるかに超えて働いてたけれど、それでも「無能だ」とバッシングされていた。でも、公務員を有能にするために人数を増やすとか、労働環境を整えるとか、そういうことを主張する人は稀。ただ、自分がやれば上手く行くという物語だけを語りたがる。
トイレの神様、という歌があったじゃないですか。
誰の歌かもう忘れましたけど、一発屋的なやつ。
あの歌に対するちょっとブラックなコメントに「聞いてる人はみんなおばあさんが死ぬのを待ってる」というのがあったんですよ。
言いえて妙。
んでさ、コロナ。
みんなさ、国内感染者が増えると、むしろ期待通りと喜んでるんじゃないの?
案の定というか、ついにお亡くなりになった方も出てしまったけど、それすら待ち望んでいたんじゃないの?
行き場のない不安を転嫁して、政府の対策が不十分だと正論振りかざして批判してましたね。
お望み通りの結果ですね。
えらい。すごい。
ついに死者も出ましたね。
検疫がザルとか言える人は、入国審査が10時間待ちとかになっても一切文句言わないのかな。
これだけ国際的な人の行き来がある中で水際対策なんてのが本当にできると思ってるの?
どんどん貧乏になってるこの国で、対策費用が無尽蔵に使えると思ってるの?
何百人ものプロが事態収拾のために現場で奮闘してる中で、何にもしてない奴が何言ってんの。
WHO含め国際的には日本の感染者にカウントしていないクルーズ船の「検査結果確定数」の増加を、日々どんどん感染が拡大しているように報道するマスコミ。
感染防止にはたいして役に立たないだろうマスクを買い込んでメルカリで高額転売する商売上手な方々。
現実的な対応策も示さずにご専門的見地とやらから警鐘だけを鳴らす有識者。
皆さま、お仕事、ご苦労様です!
フェミニストは大義名分を建前に自分たちの利益を無尽蔵に欲しがってる、みたいな言われ方をたまにしてるじゃん。あれはまあいい過ぎなんだけど。
でも潔癖で容赦ない感じになってんのって、フェミニストないし女性の利益の多くが、社会的正義と重なってるからだと思うんだよね。
適当だけど、六割か七割くらい?
現代社会って、協調性や社会性や穏健さや平和や安全や肉体的弱者救済が、良いものとされてるわけじゃん。
そんで、あえて雑な言い方するけど、最大公約数的な「女性的特徴」と「男性的特徴」を比べれば、女性的特徴の方が現代社会の求めるものと合致してる。
男性的特徴……テストステロンで加速される特徴は現代社会の正義とはやや噛み合わせが悪い。
だから女性にとって、社会的に正しいことが行われるよう主張すれば、自然と自分の利益拡大に繋がる事が多い。
逆に自分の利益や快楽のために活動してても、勝手に社会正義のお墨付きがもらえたりもする。
そうするともう、主張に歯止めがなくなるんだよね。
良いことだって、あんまり徹底したり急速に推し進めたら弊害が大きいんだけど、世の中の徹底的で潔癖なまでにやりたくなる。
それに、自分の生きやすさが社会正義と重なる事に慣れきって、そこの合致を疑わなくなる。
さっき女性の利益と社会的正義は六割か七割重なるっていったけど、当然重ならない部分もあるわけよ。
なのに、女性の利益……というか「たまたま女性である私個人や周囲の同調者」の心地よさに繋がるってだけのことが、即ち社会的に正しいはずだと勘違いしやすい。
この記事はフェミニストに批判的だから女性読者はむっとしてるかもしんないけど、でもちょっと思い出してほしい、女性だけのコミュニティでも、自分の得になるってだけなのに世の中や集団のために正しいという皮を被り(しかも本人は正義だと思い込んで)啓蒙してくる人目につきませんでしたか。
これは当然フェミに限らないんだよな。
普段、真っ当なことや良いことをガンガン進めてる人が、たまにめっちゃ個人的主張を、正しいことを主張するのと同じ勢いの強さで言い張る、みたいなのがWebでは沢山見られるようになった。
まぁ、だからって良いことをするのはやめろってのもおかしいけど。
協調性や社会性や穏健さや平和や安全や肉体的弱者救済を訴えるな、口を塞げ、みたいになったら、やっぱ世の中不穏になる気がするし。
いやはや、困ったもんですね。
「感じさせられる女」「感じさせる男」という役割は、いつ生まれたか(田中 亜以子) | 現代ビジネス | 講談社
これな。中を読めばなるほどと思わされる近現代の面白いトピックがたくさん書いてあるんだけど、それはいいんだが、総論があまりにおおげさじゃね? 「男性が女性を『感じさせる』セックスをデフォルトとする価値観の誕生は、20世紀初頭の西欧に見出すことができる」とある。マジかよ、と驚いた。
「とはいえ、女性=受動的、男性=能動的とする当時の性別観は強固に維持された。(中略)『感じさせられる女/感じさせる男』の誕生である」ともある。そこに至る論旨がよくわからないんだが、なんか「女性=受動的、男性=能動的とする性別観」イコール「感じさせられる女/感じさせる男、という性別観」であり、そんな価値観は19世紀以前の地球人類には存在しなかった、と言ってるように読める。そりゃいくらなんでもおおげさじゃねーの。
そんなに最近生まれた特殊な価値観だとしたら、「昔のセックスは男女対称だった」という例が,いくらでも挙げられるハズだ。しかしどこまで読んでも、それは、ない。ないのはどう考えてもオカシイんだが、そう指摘するブコメもない。春画では男女が対称的に絡み合ってる、という仄めかしが冒頭にあり、全体の締めに「性的快楽の平等は、女性のリプロダクティブ・ライツの保障はもとより、社会的に女性が男性と対等な存在となることなしに、ありえない。そして、そのときこそ単純な『感じさせられる/感じさせる』という性役割も消滅しているのではないだろうか」とあるが、その割に、江戸時代の町人男女は社会的に対等で性的に対称だった、のかどうか、踏み込んだ検証もない。なんでないの。ないならなんで仄めかすの。
オスがアプローチし、
諾否の決定権はメスが持つ。
オスが攻めでメスが受け。
その構図が、西暦1900年以降の西欧で発明されたものだっちゅーの? アホか。地球上の大抵の虫も鳥も、カメレオンもクジャクもラッコもカメも、そういうふうになってるじゃないか。それでも普遍的とは言えない、というなら別にそれでいいけど、数億年単位の歴史があるものを「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
精子は貧弱だが活発で無尽蔵、卵子は富栄養だが不活発で希少である。種の生存戦略としてそれが普遍的な正解だとは言わない。原初の地球の原初の海の所与の条件下で、たまたま結果としてそういうタイプが勢力を拡大した、ということなのかどうか、まあとにかく事実としてそうなった。そういうタイプの生物に於いては、オスが遺伝子を残す確率は、ほぼ、孕ませたメスの数に比例する。要するに、片っ端からヤリたがるのが正しい。
一方、メスはいくらヤッたって、一繁殖期当たり、通常一体のオスの子しか孕めない。当然、遺伝子を残す確率を高めるには、相手を厳選しなくてはならない。クソみたいなカスみたいなオスに孕まされたら一巻の終わりだ。なにせ卵子は希少なのだから。ヤリチンは英雄だがヤリマンは愚か。例外は「タマシギ」くらいしか知られていない。
ヒトの場合で言うと、オスは1年で300人を孕ませることだって(3000人だって)原理的には可能だが、メスはその間、一度しか妊娠できない。クソみたいなオスのアプローチを、時にかわし時に撥ね付け、同時に一方では懐妊のタイムリミットも気にしつつ、落としどころで妥協して決断して受諾するしかない。人気ブコメに「女が『やらせてあげる』(男が『やらせてもらう』)っていう表現や意識は絶滅してほしい」というのがあるけれど、そういう意識の根源はここにあり、絶滅はなかなかむずかしいと思う。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
昔のブンガクの話をする。好色一代女は、「堂上家の姫君に生まれた一代女が、その道を踏み外して、快楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に、次第次第に転落し、太夫から天神、私娼へと堕ちてゆく」話で、1686年刊、とWikipediaにある。
あるいは八百屋お七。これはどこまでが史実でどこが創作文学なのかわからないんだが、大火で焼け出されたうぶな少女が、避難所で遊び人にヤラれちゃって忘我の境地を知りメロメロになり、そのオトコに逃げられて想いを募らせ罪を犯すという話が、当時も、現代においても、深い同情と共感を呼ぶ。
あるいは竹取物語。男たちが求婚し、諾否の決定権は女が持つという、まさにそういう構図の話だ。
あるいは「逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり」とか「つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる」とか、どうですか。エロいでしょう。西洋の寓話には「眠れる美少女がイケメンのキスで目覚める」というのが多く、男女逆のは聞いたことがない。あれも、そういうことじゃないんですか。
あるいはオウィディウスの「恋愛指南」(複数の和訳があるらしい。以下はネットで拾いましたすみません)。「私は[女が]自分の喜悦をついもらす声を聞くと嬉しくなる。私に待ってくれとか、こらえてくれとか、いってくれるのは嬉しい。女の愛の狂的な、もう参ったという目つきを見たいものだ。彼女をぐったりさせたい。もうさわってくれるなと拒ましめたい」「目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ」「接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくでものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ」紀元前の書らしいよこれ。
これらに接して素直に浮かぶ感懐は、オレの場合、ああ、エロ事情って二千年前から変わらねえんだな、というものです。お前ら様はどうですか。ちなみに怪人小谷野敦は、怪著『もてない男』の中で「近代以降と中世以前との違いばかり強調するのがいまどきの流行だが、共通点だって普通にある(大意)」と述べている。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
まあブンガクは置いとくとして、「ほとんどの生き物が、オスが性的にアプローチし、諾否の決定権はメスが持つ」というのは、珍説でもなんでもなく、大抵の人が知っているはずの事実だ。「ほとんどの生き物で、まあ控えめに言ってもほとんどの哺乳類で、メスは交尾の間、ただじっとしている」というのも「ヤリチンは武勇伝として語られがちだが、ヤリマンは呆れられる」というのも、大抵の人が知っている。「男の性欲は視覚からでも、あるいは内なるリビドーからでも一瞬で火が点くが、女の身体は時間をかけ手順を踏んで優しい接触から始めてもらわないとなかなかスイッチ入らない」とか、「多くの男は射精の快感を自然に知るが、多くの女は上手な男に上手に開発されないとなかなか目覚めない」とかいうのも、まあ俗説かもしれないが、フェミ勢を含む多くの人が直感的に、かつ体感的に、認めているのではないか。
「若い女は可愛い」というのも、無視できない。もちろん筆者なら「それこそまさに社会が押し付けるジェンダーロール」と言うだろうが、本当にそうか。「ヒトは、小さくてすべすべでふわふわで声の高い生き物を可愛いと感じ、愛でたくなるようにチューニングされている。子育てに有利だから結果としてそういう特性が優位になった」という仮説は、そんなにおかしくないと思うんだが。写真を見るとこの筆者自身、明らかにオレより可愛い。
「オスが攻めでメスが受けなのは性器の形状から考えても当たり前」というような一見バカっぽい主張だって、「いつ生まれたか」を本気で考えるなら、当然アタマをよぎるはずのファクターだ。
なぜ、それらをすべて無視して、20世紀初頭の西欧なのか。
それは、「いつ、なぜ生まれたか」を、本気で考える気がないからだ。
この人は「それは社会的な刷り込みに過ぎない。それもごく最近の、特殊な」という結論ありきでものを言ってる。だから、その結論に都合の悪い話は無意識にスルーする。
◉◉
「ホニャララという価値観はなんら普遍的なものではない」式の主張は、確かに快刀乱麻感があって気持ちいいが、そもそも価値観というものはすべて何らかの偏りであり、したがって「普遍的ではない」のは当たり前だ。それだけでは「価値観は価値観だ」と言ってるのと変わりない。
それが意味を持つのは、ホニャララフリーな世界も意外に広い、という事実とセットの場合だけだ。例えば「チョンマゲはカッコイイという価値観」に対して、「チョンマゲを奇異に思う世界の方が圧倒的に広い」と提示することには意味がある。また例えば「食事というものは主食とおかずから成る」と思い込んでる人に、そうでもない文化圏の存在を示せば、有益な目ウロコ落としになるだろう。だが「感じさせられる女」の論考には、男女が互いに感じさせ合う文化圏も意外に広い、というような例は、ぜんぜん出てこない。
そんなら、最初っからこう言えばいいんだよ。「普遍的かどうかとか、いつ生まれたのかとか無関係に、私はその価値観が嫌いだ」と。「想像してごらん、男女が対称的なセックスを。私を夢想家だと笑うかい? But I'm not the only one. I hope someday you'll join us」と。
オレは「セックスの快感の授与と受容において、男女はもっと対称的であるべきだ」という、なんとなくジョンレノンっぽい主張を、批判する気はない。特に賛成でもないが反対でもない。そう思う人はそう主張すればいいと思う。少なくとも、悪い意見じゃない。
また、男女の性行動の非対称性に自然な根拠があるからと言って、「自然な根拠があるから肯定・維持すべきだ」とも思っていない。例えば「痴漢は男が多い」ことには、生物としてもっともな理由があると思うけれど、だからといって痴漢を擁護する気はない。いくら本能的にもっともであっても、否定されるべきことというのはある。
だからね、その主張自体は、べつにいいんだよ。ただ、その主張を強化するために、客観を装ってもっともらしい嘘を述べ、あるいは誰かのもっともらしい嘘を本気にし、それをあたかも確定した事実であるかのように無批判に引用し、自分の主張の根拠とし、都合の悪い要素はスルー、という、その姿勢がイヤだ。恥ずべきだ。
◉◉
オレの方こそ些細な点をおおげさに問題にしてるのだろうか。
例えば「そういう価値観は太古からある。ちょっと20世紀初頭の西欧から概観してみよう」とでも書いてあれば何も文句はないんだし、脳内でさらっとそう読み換えて流すのが大人のたしなみなのかも知れない。だけどさー、「いつ生まれたか」というタイトルで、いやまあタイトルなんてものはね、著者の意向と無関係に編集者が後から勝手につけたりするもんだけどね、これの場合は本文中に「本稿では、『感じさせられる女/感じさせる男』という役割が、そもそもどのようにしてつくられていったのか、その歴史的経緯を概観したい」と書いた上で、直後に「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、はっきり書いてあるんだもんよー。長くてごめんねー。