「意思疎通できない殺人鬼」はどこにいるのか?|斎藤環(精神科医)|note
underd なんで受け手の解釈を作者サイドに詰めるのかな。配慮とか言って。解釈次第で誤解されうる表現もNG、が通るならPCに1ミリも抵触しないゴルカムも今後どうなるか分からないでしょ。表現をどうこうじゃなく啓蒙しようよ
「なんで受け手の解釈を作者サイドに詰めるのかな。配慮とか言って。」と疑問を投げかけている。
「作者サイドに詰める」というのは「紙媒体での出版に際しては、アンチスティグマのための配慮を強く求めたい」という記載のことを指していると私は理解した。
斎藤環氏は出版社に配慮を求めたい理由は「アンチスティグマのため」と書いているので、underd氏は記事によって解釈を表現することについては特段いうことはないが、出版社に配慮を求める理由がわからないということだろうか。
その点、斎藤氏が出版社に配慮を求めたのは、Noteを読まない読者の方が大多数なのだから、斎藤氏の「アンチスティグマ」という目的を達成するには出版時に「配慮」をしてもらったほうがより目的が達成されるからだと思う。
「解釈次第で誤解されうる表現もNG、が通るならPCに1ミリも抵触しないゴルカムも今後どうなるか分からないでしょ。」
斎藤氏は「解釈次第で誤解されうる表現」については「配慮」をしてほしい、と主張しているのは間違いないだろう。
ブコメの「NG」が何を意味しているかによるが、斎藤氏のNoteでは描き直しを直接的には要求していないものの、「配慮」という言葉でなんらかの変更(削除、修正、注釈の追記等)を求めていると考えられ、このままでは「スティグマ」を強化するという主張ではあると思う。それは「NG」には含まれているものと解釈できる。ただ、NGにも濃淡があり、より強いのは公開停止や表現の修正の要求かと思う。Noteだけでは内心どこまで求めているのかはわからない。
「PCに1ミリも抵触しないゴルカム」は斎藤氏の記事内の「徹底した取材とゆきとどいた配慮によって、PCには1ミリも抵触することなしに、手に汗握る変態暴力宝探しを展開し続けている。」を指して言っており、PCに1ミリも抵触していないと述べているが、ここはブコメでもそんなことはないといっている人もいるようだ。
ただ、その前提が覆るようなら斎藤氏も配慮を求めるべきと考えるのではないだろうか。なので、「今後どうなるか分からない」についてはその通りかなと思う。
「表現をどうこう」というのは前述の出版社への配慮を求めるという点だと思うが、そのような配慮を求める以外の方法で「アンチスティグマ」を達成するべきだという主張と理解した。
これについては問題のある手段を用いず目的を達成すべきだという観点からのコメントだと思うが、出版社に配慮を求めるという手段に問題があるかという点が焦点になってくると思う。
懸念点としては表現の自由が棄損される可能性が挙げられると思う。
では配慮を求めることは表現の自由を狭めているだろうか。個人的には配慮を求めることも表現の自由だし、それを受け入れたり拒んだりするのも表現の自由だろうと考える。
今回はNote上で配慮を求めると書いてあるだけだが、実際に出版社に「要望」として伝えるのだって自由だろう。当然、「表現を変えないでくれ」と要望するのだって自由だと思う。
それらの意見や批判を受けて出版社が作者が何かを感じて表現を変えるのも変えないのも自由だろう。
何らかの意味があっての描写であれば変える必要はないし、もし意図が十分に伝わっていないと感じたのなら表現を変えるのはより作品をよくする可能性もある(説明するのが作品の魅力に必ずしもつながるわけではないが)。
表現の自由を守るということは「表現をどうこう」言うのも自由であるということだし、それに対しての批判も当然自由。
だから出版社やクリエイターを委縮させるような批判は表現の自由を棄損する可能性があるのだから配慮してほしいというのは自由だと思うが、それをするのであれば出版社に「アンチスティグマ」のために配慮してほしいというのもまた自由なのではないか。