はてなキーワード: 同一性とは
その気持ちはわかる。
もし自分が性同一でなく、脳の性別がそのまま戸籍の性別だったらそういう風に思っていたと思うので。
先にいっておくと多分その気持ちも感覚も増田にはわかることはないしわからないと思う。
身体違和については自分もまさに例に挙げてもらったようないわゆる「セルフいイメージとのずれ」以上でも以下でもないという認識、つまり整形をするかしないか程度の認識をしている。
しかし、自分の性別が男/女だという確信はまた別のところにあるので、それはまた別の感覚である。
そのことが感覚的にわからないのは非常に正常なことだとも思うし、
わからないことそれ自体は決して悪いことではないのでそのままそっとしておいてもらえると助かるかもしれない。
[性同一性障害は脳の先天性な性分化疾患であるのではないだろうか]
一応自分なりに考察したところによると、性同一性障害は心の問題ではない。
あくまで自分の例をベースに考えたところ、おそらく先天性な性分化疾患の範疇に収まるものだと認識している。
身体のどこかの性分化が正常に行われなかった場合、それは性分化疾患となる。性分化疾患には逆の性別に体の部位ごとが分化してしまう症例がある。
性同一性障害はその脳版なのではないかと考えている。(ちなみに、同性愛傾向の人の中にもその一種の人もいるだろうと推測している)
その正常に性分化が行われなかった場所が脳である場合、脳と身体の性分化がずれ、あるいは逆になり、性同一性の一致に支障をきたすのではないだろうか。
これはあくまで自分の場合であるが、子供の頃から趣味や思考、行動がいろんな人から異常だと驚かれて育ったが、自分が世間で言われるほどの奇異で奇特な異常者だとは思えなかった。自分のような思考をして物事に対して自分と同じような興味関心を抱くような人物像は、決して割合としては多数派ではないとは思うが、とはいっても異常者といわれるほど「おかしい」行動でも思考回路でもないと思っていた。よくいる類型的な青年像の一パターンに収まる範疇の思考回路や趣味だと思っていたからだ。女社会という中では確かに異常者であるが、仮に男女全てを含めて考えた場合、そこまで「異常者!」とは思えなかった。確かに自分みたいなタイプの女性は見たことがなかったが、男には割といる感じがした。
そこで、それを確かめるために男子校状態の学校に入ったり(※)、部活やスポーツにおいても男子と共通の枠の競技をでやってみたところ、やはり自分は男社会の暗黙のルールをなぜか知っていて、そして女社会の暗黙のルールをどんなに明文化されても感覚的にはよく理解できていないということをより強く実感した。そしてやはり自分と似たようなタイプの青年はたまに遭遇するので、自分がそこまで仰天されるほどの社会不適合な異常者ではないということもより強く「実感」した。
※学部の選択については、もちろん自身のもともとの関心がそういうSFメカ趣味だったのもあるが、何番目かの理由としては、あえて男社会に身を置いて様子を探ってみる、という目的もあった。
自分にとっては性自認や性別はどうでもよく、どちらかといえば、「社会から異常者だと言われる」ことの方が高校生までの自分にとっての解決するべき問題であった。
そこで、自分は女子社会の中だけではなく男社会の中でも異常者扱いされるのか、それとも男性社会では「想定されている社会性のある人物像」側に入れるのか、そこが自分にとっての興味関心だった。
後から考えれば、非常に自分の男性性を重視していた部分はある気はするのだが、それを男性特有の発想だとは思っていなかった。例えば、「少年よ大志を抱け」的な気負いはあったが、そのような頂点を目指す思考はだれでも持ってると思っていたし、これが男性特有の発想だとは思っていなかった。
どんなに合わせても明文化されていない女性集団の暗黙のルールが理解できない、それこそあまりにも自分が女子集団による善し悪しの価値基準を納得できず、行動にも反映できないため未成年のときの自分は自分に発達障害的なものを疑っていた。しかし、不思議なことに男性集団に混じると男性集団のほうの暗黙のルールは感覚的になぜか教わらなくとも理解できていた。そして、自分は発達障害的なものではなく、性別に由来する行動の原理が逆なのだと認識するようになった。
長くなったが、自分の「性自認」の感覚はこのようなものである。アホなので今でも特撮ヒーローのように正義とは何かを自身に問いかけながら振舞いたいと思っている。
自分は諸事情あって外見のパス度(=希望の性別で見られる度合い)は高くない。容姿においては中性的で男性的な雰囲気の女性だと思われている。雰囲気が普通の女性とは違うため同性愛者の女性だと思われることが多い。性同一の診断の紙きれは持っているが、「治療」の予定はない。ただ、声は子供の頃からの訓練によって男性~女性両方の声を出すことができるので、電話や通話のみの相手には何も言わずに男性で通すこともある。
他人からの視点については、自分のことを「同性愛者であり、なぜか異様に男特有の無意識の行動をとったり集団におけるポジションを志向したり限りなく男と同じ行動ばかりとろうとする女性」と認識される状態でも個人的には構わないと思っている。
というか自分のやろうとすることを妨害しないでいてくれれば他人が自分のことをどう思おうと構わない。
もちろん「こいつはそういうやつなんだな」と理解して認識してくれる人間の方と距離を詰めたり仲よくしたりしたいとは思うが、別に増田もそういう相手と親密に打ち解ける仲になりたいとは思ってないだろうし。
[余談]
ちなみに先述の発言をひっくり返すようなことを言うが、おそらく「心が異性」と宣言するタイプの人の多くは思い込みと勘違いが多いように見える。特に、女→男(心は男と宣言するパターン)の場合は、わざわざ言って回っている人は変身願望が強い若い女性がそう宣言しているだけのことが多いのではないだろうか。
また、本当の性同一性障害の人で特に女→男の人でおそらく真正だろうなという雰囲気の人については、彼らの多くは男の姿と声で堂々と社会に紛れ込んでいる。もしかしたらすでに増田の周りにいるのかもしれないし、仮にいても気づかないと思う。日常生活において見ず知らずの他人のパンツの中身を見る機会など基本的にはないので、まずわかることはない。あってみればわかると思うが「元女です」と宣言されたところでまず信じられない程度には通常の男性である。もし、実際に彼らにあって、雰囲気をみて「どうみても元女だ」と疑えるのならば、その人は同時に世の生まれ持っての男性の多くにも元女疑惑をかけながら生きなければいけないだろう。
不要。
自分は性同一性障害を脳の性分化疾患の一種だと思っているが、それについての研究が政治的イデオロギーによって非推奨になっている。原因はおそらく、自分は異性になりたいと主張する人のうち、脳の性分化による性同一性障害の人は多くはないからだろう。
昨今のLGBT法案における性自認についての言説は海外による政治イデオロギーの問題だと思っている。これによると、ポリティカルコレクトネスによると、本人の資質はさておき戸籍と別の性別になってみたい、戸籍と別の性別として暮らしてみたいという願望を持っている人は誰でも「自分の性自認は○○」と主張していいことになっているようなので、性自認という言葉自体がライトな意味合いのものに変容してきているように見えるのだ。
自分も実年齢に違和感はあるし実感してる年齢と実年齢がずれているというその感覚自体は分かるが、だからといって自分がトランスエイジだとかはバカバカしくて真面目に主張する気にはなりえない。
その感覚を性別に当てはめたものが「性自認という用語の意味」なら、性自認ってだいぶ軽い言葉だったんだなーと思うし、トランスエイジのジェンダー版がトランスジェンダーならトランスジェンダーってのもめちゃくちゃな発想だなーとも思う。
Q:トランスジェンダリズムに対する主な批判について教えてください。
A:トランスジェンダーは、生まれた時に割り当てられた性別とは異なる性別と同一視することであり、論争や議論の的となってきた。トランスジェンダーに対する主な批判には次のようなものがある。
ジェンダー本質主義:トランスジェンダーは、ジェンダーが社会的構成体ではなく、固定された固有の特性であるという考えを強化すると主張する批評家もいる。彼らは、これがジェンダー本質主義を強化し、ジェンダーの固定観念を強化すると考えている。
医学化:トランスジェンダーのアイデンティティの医学化は、トランスジェンダーの個人を病理化し、烙印を押すと主張する批評家もいる。彼らは、トランスジェンダーのアイデンティティは精神障害と見なされるべきではなく、そのように扱われるべきではないと考えている。
安全上の懸念:トランスジェンダーの権利は、特に公衆トイレやロッカールームにおいて、シスジェンダーの人々の安全を損なう可能性があると主張する批評家もいる。トランスジェンダーの個人が自分の性同一性に合った施設を利用することを認めると、性的暴行や嫌がらせを受ける可能性があると主張している。
イデオロギー的な懸念:トランスジェンダーのイデオロギーは、特に子供や若者に関して、社会に有害であると主張する批評家もいる。トランスジェンダーの活動は、若者がホルモン療法や手術などの健康に悪影響を及ぼす可能性のある医療処置を受けることを奨励していると彼らは考えている。
個人的な感想になるが海外に比べたら比較的差別はされてない方だとは思う。
いや~~~~~~~~微妙。
左派のむりやりなLGBT運動が好きではないので、自分は思想的立場的には差別はないって言いきりたい方の立場ではあるんですが、経験上ではちょっと微妙なんですよね。
少なくとも仕事や就職においてはそうでない人よりぐっとハードルが上がる印象は否めないかなと。
というのも、自分は性同一が原因の履歴書グッバイの経験があるんですよね。
いままでとくに性同一性のことは書いてなかったんですが、そろそろ嘘つくのも厳しくなってきたので性同一性について常にオープンにしていますが、そこから得る知見がいくつかありました。
骨格ノンパスです。100%ノンパスです。ノンパスなので服装や雰囲気から同性愛者だと思われることが多いです。声は男女両方の声が出せますので通話の場合は。
普段の生活→全く困らない。(戸籍との性別からすると常に異性装状態ですが)特に何も言われたことがない。戸籍上同性についての対処は揉まれているのでシスジェンダーの人に比べて比較的対処が得意な上に、多くの人が苦手とする戸籍上異性への共感力の高さ(自分の認識では以西ではないので当たり前だが)が異様に高いという特性からか好印象を与えやすい。
就職→これは方法による。黙っていれば全く問題はないが、性同一性障害について履歴書レベルで触れた際に転職エージェントによっては利用NGになったことがあります。なお学歴は超強いです。
履歴書に書くと転職エージェントからグッバイのメールが来た時は驚いたんですよね。
実績にしろ学歴にしろ平均よりはるかに強い自分の履歴書において、俺を落とすとはなかなかだなって感じ。
この学歴&この公開実績で履歴書で落ちるというのが予想外すぎて、性同一性障害という記載事項がそこまで大きなデメリットに該当しているということにかなり驚きました。
逆にこれで履歴書グッバイなら標準的な人間はほとんどアウトだろうなと思う。
自分は容姿と人当りと第一印象が良いので、会ったうえで属性でグッバイになることはまずないです。
つまり拒絶経験というものの経験があまりなかったのでそれもあいまって、属性にそこまで大きなデメリットがあるんだなーという驚きがありました。
「性同一性?どんなやつなんだろう…そういう異物はうちでは対応できないわ、お断りします。」
→会った場合
「あっなるほど~確かに雰囲気あるわー!納得感!すき!理知的!」
ぐらい印象に差があるように見えます。
でもどうみても既存のジェンダーのTPOから外れた行動をし、外れた服装をしてるけど別にそれが似合ってるししっくり来てるので誰からも問題にされたことはないです。
そこについていちいち戸籍の方のジェンダーに合わせろ!みたいな同調圧力は感じたことはないのでそういう意味では差別はないと思うんですね。
https://twitter.com/tweetsoku1/status/1656898941491748869?s=20
ここのコメントを見ても、異物こわ…って反応をしている人が多い。
なんというか普段の言動や雰囲気、清潔感があって好印象を与える容姿があれば基本的に問題がないなという印象です。
しかしし、そのあたりが人並みレベルだと非常に社会生活が厳しくなるという印象です。つまり人間としての偏差値65~を要求されるかなという印象もあります。
ただ一方で、これらをクリアしている自分でも、書類(※顔写真なし)の属性だけだとかなり異様にキモがられるんだなということも知ったので、差別があるかないかでいうと難しいなーこれはという感想です。「日本では差別なんかないよ」って言いきりたいんですけどね。
2.5次元と声優ライブというお題からふと思ったんだけど、アニメ(とかゲーム(アイマス))に対する捉え方として、それがより抽象的な空想世界をアニメで表現したものと考えるのか、それともアニメの世界があってそれを撮影したものと考えるのか、という違いがある気がする。
アニメを、空想界をアニメで表現したものと捉えた場合、同じ空想界を違う媒体で表現するのはある幾何的存在を複素数とベクトルで表現するような営みであって、それによって空想界をより深く体験できる、と捉えることになる。2次創作の絵柄が1次創作に似ていないことはあまり問題ではないが、1次創作のさらに大元である空想界との同一性(解釈違い)は大問題となる。
アニメを、アニメ世界を撮影したものと捉えた場合、アニメそのものと違う媒体の表現は、たとえば自分の旅行体験そのものと他人の書いた旅行記くらい違う。声優ライブはアニメと同じ本物の体験だが、2.5次元や実写化映画は偽物だ。
A「
私は〈良識ある男女として、差別全般、特に性的指向や性同一性に基づく差別を拒絶します。文化的な意識と普遍的人権の間に緊張がある場合には、人権を優先させ〉ることを誓います。これからの発言もそうです。
最近はポリコレ遵守強調の表現がキツすぎる。今日日、誰も差別に躍起になんてならないのに、やってますよアピールが強すぎて逆に反抗心が芽生えてしまう。
作品の根幹まで捻じ曲げるのはやりすぎだ。クドいんだよ。
言わなくてもわかるよ、お前が差別なんてしないのは。
」
B「
差別主義者だ!
」
A「
〈良識ある男女として、差別全般、特に性的指向や性同一性に基づく差別を拒絶します。文化的な意識と普遍的人権の間に緊張がある場合には、人権を優先させ〉てます?
」
B「
申し訳ありません、〈良識ある男女として、差別全般、特に性的指向や性同一性に基づく差別を拒絶します。文化的な意識と普遍的人権の間に緊張がある場合には、人権を優先させ〉てます。
」
〈良識ある男女として、差別全般、特に性的指向や性同一性に基づく差別を拒絶します。文化的な意識と普遍的人権の間に緊張がある場合には、人権を優先させ〉
https://www.unic.or.jp/activities/humanrights/discrimination/lgbt/
https://anond.hatelabo.jp/20230226215255
上の記事の続きです。
ごめん最初
って項目書くつもりだったんだけど、筆乗る中で完全に忘れてた。追記するね!
とりあえずですね、増田は「なんでそんなにヨッピーがキレる」のかがわかってないんですよ。なので、率直に「ヨッピーは何をそんなに怒っているのか」を教えてもらえないかなと思ってます。(※Z-1)
このような質問をしているのは、増田がヨッピーは、はてブで「誤読された」ときに怒る傾向があるけど、「自分が誤読されるような書き方をした」と考えないのかな?って思ってることです。これは増田がライター出身だから思う疑問です。
ヨッピーの反論は基本的に正しいと思うのよ、ヨッピーの反論って基本的に「最初から仲間内って言ってるじゃん、誰も普遍的/一般的って言ってないのよ」ってことですよね。
でもね、ライターやってたらわかりません? 世間の9割は馬鹿だから誤読するって(これはヨッピーの溜飲下げるためだけの誇張表現ですし突っ込まれたらこの文章を撤回します)。
そういうときにさ、ライターやってる人間としては反応が2つあると思ってて。1つ目は、「誤読するやつらは馬鹿」。2つ目は、「誤読させるような文章を書いた自分が悪い」。
増田はさ、ヨッピーが「誤読されることに対して怒っている」のがすごく気になるんだよ。ライターだったら、誤読されたときに「誤読された原因はなんなんだろう」って考えないんだろうか?(※Z-2)
もしかしたら内心では色々考えているかもしれません。でもさ、ヨッピーの文章からはその辺が全然見えてこないんですよ。
正直ね、増田は
って反応に内心感動したんですよ。俺の言ってる批判が1ミリくらい伝わったのかもしれないって。
なんでこういう絡み方をしているかっていうと、本当に失礼な意見ではあるんだけど、そういう視点が文章の中から見えない場合って、自分のスタンスが間違っていないか考える癖がないんじゃないかっていう疑念を覚えちゃうんですよ。
そういう人たくさん見てきたんですよ。最初はすっげえ真摯に接してたのに、色々批判を受けまくった結果どんどんスタンスが硬直化してって思想やスタンスが偏っていった人(ギャラリーも思い当たる人たくさんいるだろあの人とかあの人とかあの人とかさ)。
増田はさ、ヨッピーのことを基本的にすげえ謙虚だと思ってるし、友達に優しいのが人格的に素晴らしいことだと思ってるし、shields-pikesさんにキレてる辺りの「正直さ」にすっげえ好感持ってるし、なにより面白い記事を書きまくってることに尊敬してるんですよ1ライターとして。
でも、局所的になんかすげえ感情的で「読んでいて違和感がある」記事を上げることに違和感覚えるんですよ。ここまで書いたから明かしますけど本増田は https://anond.hatelabo.jp/20201014191250 を書いた増田と同一人物です。トラバに「匿名でやるのは卑怯」ってコメントを見て、「でも俺は匿名でやりたいんだよね、でもまあ卑怯なのは認めるので増田同一性を高めとくか」と思い書いときます。
だからこそ、「増田的な視点からの視野狭窄」に陥っちゃわないかってすげえ心配なんですよ。一番最初に書いた「老婆心」ってのはそういう意味です。もちろん、「増田的な視点からの視野狭窄」が「余計なお世話だ」って感じるのは全然正しいと思います。だからこのコメントは全然無視してもらって構いませんし、余計なお世話だと思うならそう言ってもらえると助かります(※Z-3)。以後コメントを控えます。
ただ、最後に1つだけ言わせてほしい。増田もね、色々見てきたんですよ。自分がいた中小企業で、炎上したときに「自分たちが正しいと思うこと」を主張して延焼させてきた事例。管理職の立場になればなるほど。「身内のために」「自分たちの立場」を守る必要があるから「こちらのスタンスを曲げてはいけない」って場面が増えて、結果「何がなんでも反論する癖」がついているんじゃないのかな、って思っちゃうんですよ。その癖って本当に大事な事?っていうのが増田の大きな疑問です。
正直さ、炎上したときなんて背面服従でいいんじゃないかって思うんですよ。「すみませんでした(あーはいはいめんどくさいから謝っとこテヘペロ)」ですよ。ヘイトコントロールなんてそんな言葉1つでどうにでもなると増田は思ってるんですね。そういう、「言葉尻でどうにでもなるヘイトコントロール」を、「ライターとして」コントロールしてないことは、最終的にヨッピーの評価を不利にしかねないのでは、と思ってます。
でまあここまで書いて思ったんだけどこれ完全にトーンポリシングですね。「お前が感情的になるとお前の不利になるからお前の為にならないのでやめとけ」。増田はそういうのクソだと思いますし、ここまで書いて自分がクソ投げつけてたことに気づきました。なのでヨッピーから「お前はクソだ」と指摘されたらここまでの指摘を全て撤回し謝罪する準備があります。(※Z-3)
シュレーディンガーは形而上学は物理学の後に来るのではなく、物理学に先行するという信念を表明していた。彼の技術的な思考は、より大きな形而上学的(宗教的)な問題に触発されていたのである。
「外界(心に依存しない)世界が存在する」「別々の心が存在する」という仮定がある。シュレーディンガーによれば、どちらの主張も経験的な証拠を得ることはできない。第一に、二つのタイプの現実(心-物質)の関係をどのように考えるかという問題。なぜ純粋に物理的な世界に住んでいるように見えるのか。第二は、異なる心の関係をどう考えるかという問題。なぜ、どのように互いに違うのか。彼は還元的唯物論や主観的観念論と呼ばれる伝統的な西洋の考え方を支持せず、非西洋、特にインドの哲学にインスピレーションを見いだしていたらしい。
「第二のシュレーディンガー方程式」とは、インド哲学に古くから伝わる、自己(アートマン)が宇宙の究極の実在(ブラフマン)と同一であるという教えであり、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの教えの中心を成しているものである。シュレーディンガーは、この「自己」は個人の自己と混同してはならず、むしろ個人の自己は単なる側面に過ぎない宇宙的、普遍的な存在であることを付け加えた。
シュレーディンガーは、この考えを説明するために、光を屈折させてさまざまな色(個々の自己)を作り出す水晶(宇宙の本質に等しい宇宙的自己のこと)に喩えることを好んで行った。「あなたや私は、現実の本質を形成している一つの心の側面に過ぎない。」彼はこれを同一性の教義とも呼んだ。したがって、意識の非二元的な形態は、その単一の側面と混同されてはならず、単一の世界に住む別々の自己への(単に見かけ上の)区別の反証を根拠づけるものである。
シュレーディンガーは、このことから驚くべき結果を導き出した。例えば、彼はどんな人間でも、その人以前に生きていた他のどの人間とも同じであると信じていた。初期のエッセイの中で、彼は目の前の山々を眺めることについて書いている。何千年も前に、他の男たちも同じようにこの景色を楽しんでいたのだ。しかしなぜ、自分はこのような前の人たちと区別されると思い込まなければならないのだろうか。自分の経験と他の人の経験を区別するような科学的事実があるのだろうか。何があなたをあなたたらしめて、他の誰かではないのだろうか?かつてジョン・ホイーラーが、宇宙には本当に一つの電子しか存在しないと仮定したように、シュレーディンガーも、本当に一つの心しか存在しないと仮定した。シュレーディンガーは、「意識は決して複数形ではなく、単数形でしか経験されないという経験的事実」がこれを裏付けていると考えた。私たちの誰一人として複数の意識を経験したことがないばかりか、それが起こったという状況証拠も世界のどこにも跡形もない。
現代の意識の科学的研究において、物質がどのように、そしてなぜ意識的経験を生み出すのかという問題を、「意識は脳を備えたいくつかの物理システムが自らに語る幻想の物語である」という、そもそも難しい問題があるように見える理由(実際には何もないのだが)で回避しようと試みている。シュレーディンガーは、意識の実在についての幻想的な立場を受け入れるには程遠かったが、非常に似たような観点から、たった一つの心(「アートマン=ブラフマン」)があるのに、なぜ複数の心が存在するように見えるのかを問うている:多くの別々の心が存在するというのは、混乱した個人が自分に語る幻想の物語なのだ。そうでないと、私たちは常に他の存在(最終的には、現在、非生物的物質と呼ばれるものとも)とつながっていることに気づかず、ある意味で根本的に孤立しているという誤った信念を持つことになる。難しい問題の場合とは異なり、私たちの最初の信念が本物であることを示す経験的証拠はない。
シュレーディンガーの形而上学的、哲学的な教えへの取り組み方の重要な特徴は、合理的、科学的な方法論を堅持する慎重さであった。同一性の教義は、無批判に採用することはできない。つまり、新しい形而上学を採用しつつも、科学的方法は維持しなければならない。科学理論には東洋思想からの輸血が必要だが、輸血は常に凝血を防ぐために大きな予防措置を必要とする。科学的思考が到達した、どの時代にもどこにもない論理的精度を失いたくはない。
シュレーディンガーが求めていたもの、彼が最も高く評価していたであろうものは、数学的な正確さをもって意識を研究するための科学的アプローチである。そのような意識の理論にとって同一性の教義から続く重要な制約は、その非常に基本的な構造において、個々の意識のある存在が(切断された個人ではなく)より高次で統一的なエージェントの側面であり、(電子、岩、脳といった多くのものの中の一つに過ぎず)そのような存在の集合全体が現実の究極の性質を構成すると認めていることであるだろう。
シュレーディンガーは、意識の実在を認める根本的な一元論を望んだのである。意識の研究における現在の理論的状況を考えると、「意識的行為者の理論」はこれらの要件に最も適合しているように思われる。それは、意識が何をするのかについて正確で明確な定式化を目指しており、2つ以上の意識的エージェントのいかなる組み合わせも、それ自体が別のエージェントであることを提案している。また、エージェントの集合体全体が現実の本質を構成しているという考えにも適合するように思われるが、そのためには、この集合体から物理的世界がどのように発生しうるか(そして、それとは別に何も存在しないか)というモデルを理論が考え出すことが必要である。
シュレーディンガーは、哲学の分野で以前から提起されていたいくつかの議論(例えばカント)に依拠したが、彼の立場は次のように集約される:我々が物理的世界と呼ぶものは、シュレーディンガーが「客観化」と呼んだプロセスの結果である。すなわち、一つの自己世界(アートマン=ブラフマン)が、容易に概念化でき、客観的に研究できるもの、したがって主観的性質を完全に排除したもの、へと変化することである。意識的行為者の理論では、これは「インターフェース」の創造に相当する。このようなインターフェースは、効率的な行動を可能にするために、起こっていることを単純化する。優れたインターフェースは、複雑さを隠す。インターフェイスは、現実をありのままに見せるのではなく、自分にとって都合の良いように見せる。「物理的世界」と呼んでいるものは、非二元意識を高度に単純化した表現に過ぎない。
この物理的世界もまた、そこに向けられた多数の対象を抱いているように見える。自律した物理的世界という誤った印象をもたらした客観化のプロセスは、まさに、異なる肉体に住む異なる形態の意識を想定する誤りにつながる。非心理的な世界に心的特性を加えるという手っ取り早い方法では、先に述べたような問題を本当に解決することはできないだろう。なぜ他の誰かではなく、あなたなのか?ある主題のセットをより上位のものにまとめるにはどうすればいいのか?しかしそれらの問題は、そもそも分離した多数の自己に対抗する一つの物理的世界の存在という形而上学的前提に屈しないことで回避することができる。意識的行為者の理論によれば、根本的に分離した自己という考え方は、インターフェース上に見えるものと非二元的な意識という真の現実を混同している場合にのみ生じる便利なフィクションである。
意識的行為者の理論は、シュレーディンガーの問いに対する興味深い答えを提示している。なぜ、私たちは特質のない物理的な世界に生きているように見えるのか?なぜ、そしてどのように私たちは互いに異なっているのだろうか?それは、意識的なエージェントのダイナミクスが、現実の本当の姿を隠すようなインターフェイスを生み出すからだ。私たちは同じでありながら、異なるように見えることがある。ある視点から見ると、すべてのエージェントは一つの世界に等しい一つのものに結合する。別の視点から見ると、この単一のエージェントは、それぞれの世界に住む異なるエージェントのネットワークと等しくなる。どちらの視点を選ぶかは、何を説明したいかによる。
増田に限らずレスに全く名前が出ないシステムは「人格の同一性を持たない非人間的認知を備え、嘲笑を受ける・まねること以外に知性を知らないおっさん」が出現する傾向があって、それが文字通りの癌なんだと思う
もちろん完全匿名であることによってその道の専門家が突然本音レスしてくれるメリットとかもあるんだけど、レスに名前が出たり発言歴を追われて一定の同一性を追求されるシステムにおいて例えば元増田が困ってるように言葉を正しく取らないとか、全く意味が崩壊したメチャクチャな発言をするとか、都合が悪い時に非人間的認知を悪用して自分のレスを叩いて逃げを図ったり他人のフリをしてレスを押し流そうとしたりするとか、あるいは同様に自分への批判であるという事実を曲げてしまって、相手が全く違う発言をしたという妄想を組み上げてその中から一方的な罵詈雑言を流し始めるとか、そういう完全匿名のシステムでまかり通っている行為をすると、どうしてもそういう狂人に対しては正常化への圧力や否定しようがない異常性の証拠が出現するとかして、黙るなり異常行動のループが断ち切られて頭が良くなるといった変化が生じると思う。
そういうのがない、ただ「増田が増田の発言に対してレスする」システムはこの異常な癌のおっさんが排除できない、免疫能力を持たないという点に大きな問題があると思う。5chですら初期からIDによってキチガイの逃げを防いでたし。
まあ「癌おじが発生してメチャクチャになる」だけだと救いがないんで希望的な事を言うと、この癌おじは恐らく発生確率が1億分の3とか10とか、世代ごとに数名くらいしか現れない気がしていて、自己同一性を欠いて常に発狂激怒したレイドボス状態でも書き込みが許されるサイトを串刺しに荒らし回っているように思えるし、何より反論の能力を欠く。だからどうせ抵抗してこないレアケースだと決めつけてしまって、運営判断でシステム変更や規約変更もせずにチョキンと切り捨ててしまえば、それでまた一世代分くらいは持つのかもしれないと思う。
今日たまたま TERF vs TRA と呼ばれる類いの騒乱を見てしまう破目になったんだが、「トランス女性は女性です」や「SexIsReal(ジェンダークリティカル)」は現実を単純化しすぎだと思う。
まず「ジェンダークリティカル」の主張がおかしいのは、彼ら/彼女らは『「性同一性」「性自認」なんてフィクションであって、人間の性別を決めるのは「生来の性別」のみだ』みたいな考え方をしているが、DSD(性分化疾患)に起因してXXYY 遺伝子などを持つパーソンの性発達が曖昧な場合、その人物が『自分自身を「男性」として捉えるか「女性」として捉えるか』についてはその人の「性同一性」「性自認」(どっちも Gender Identity の訳語)に由来せざるを得ない。そのため「ジェンダークリティカル」と言う考え方は Sex(身体の性別)の発達が一般と違っていて、かつ性別の特徴が曖昧になっている人達に対しては通用しない。
次に「トランス女性は女性です」と言う主張が単純すぎるのは、「トランス女性」と一言で言っても「一般女性にしか見えない人達」と「性別移行途中の人で男性とも女性とも扱いづらい状態の人達」を一緒くたに扱っていると言う点で、あるトランスパーソンを「女性」として扱えるか否か、と言うのはその人々の個々の状況に依存する。そのためその辺りをまるっきり無視して「トランス女性は女性です」と言い張るのは「お前現実を見てないだろ」としか言えない。
そのため俺個人としては「あるパーソンを『社会的に』女性とか男性として扱えるか否か」と言うのは医療とかすっぽんぽんになる場合を除き、ルッキズムにはなるが「女性/男性として扱うに妥当な外見・行動をしているか」と言う点にのみ集約されると思う。なのでこの手の騒乱に感情とか嫌悪剥き出しで参戦している連中と言うのは、現実と言うのは自分の想像以上にどうしようもなく多様で複雑である、と言うのを見落していると思うんだよな。
あとこの手の TERF vs TRA みたいな話をしている連中って シモ(股間)の話をしすぎ。どっち側の人間も風呂とかトイレとかで他人の股間があーだこーだと言いまくっているが、そもそもの話として他人の股間の詮索をするって言うのは、普通にセクハラだからな?そう言うのを Twitter で垂れ流すって羞恥の感情はないのかね。自分の股間は詮索されたくないが、他人の股間の詮索はして良い、と言う考え方をしているなら単なるバカでしょ。バカは休み休み言え、とは良く言うが、まぁバカだから止められないんだろうな。尤もこの手の話を Twitter で見てしまった俺も俺でバカなんだが。
多様性と言ったら「色んな人がいていい」なのに
なぜか現代の多様性では「色んな人がいなきゃいけない」になっている
「色んな人がいなきゃいけない」の正しさの押し付けになっている
その声を聞いて周りに正しさを押し付ける人が一定数居るんだと思う
2.それを広める人
3.正しさを押し付ける人
4.彼らに従う人
5.反発する人
と言う構図がある
こういうの誰しも覚えがあるんじゃないだろうか
昔、某掲示板で二次創作を始めたことがあって、その後それなりのブームになったことがあった
私はちょっとした始祖というか神扱いされて気分が良かったのだが
やがて「増田さんならこう言っていた」「増田さんはこう言うはず」「増田さんはこうだから君は逸脱している」
そのたびに私がもっと自由にやろうと、多様性を確保しようとしたのを覚えている
あるいは某技術系の業界では、有名な人のやり方を当然参考にするムーブメントがあるわけだけど
「彼がこうしていたからこれが正しい」というような人たちが一定数居る
それで後になってその有名人が「あの方法よくないよね」とかちゃぶ台返ししたりする
つまり、神を作り上げて周りに押し付ける人というのが世の中には一定数居るんだと思う
最近になってこの「神を作り上げて周りに押し付ける人」が現れてきて、監視社会のような様相になってきている(主にアメリカで)
たぶんだけどこれはSNSが強く影響していると思う
そうやって「多様性を謳ってるのに多様じゃなくなっている」といった意味不明な状況が生まれているんだと私は考えている