はてなキーワード: 利他とは
一般的な生物は個体の生存、個体群の生存を主な目的として生きているが
人間においては遺伝子や類型の遺伝子を保存するだけでなくそれ以外のもの(自己によって作られた情報)を繁殖行為、群れを守るための利他行為
以外の様々な手段を用い保存しようとしているさらにこの保存という状態も人間は非常に大きな幅でとらえることが可能となっており
間接的な部分においてその情報が形を失い別の形をとったとしてもその情報を保存したと考えることが可能となる、行為自体が情報の伝播という意味をなす場合などもある
さらには情報の保存、維持(一個体の在りようの保存、維持)という観点が主観の中においてのみ作用し、他に伝播するという行為を必要としない場合もある
情報が賢い者からそうでないものに流る時代ではなく、現代は愚かな者が欲しがる情報を作り出す時代である。
雑誌やアフィサイトに作成に携われば、そのテクニックは誰でも身につけられる。
簡単に儲かる仕事、都合のいい恋人が見つかる物語、作られた夢、難病が治る魔法、利己的な人を肯定する思想。
俺たちはそれを垂れ流してやり、金を得る。
でも、人類の将来に必要であろう治安の持続を考えれば、これらは毒にしかならないのも知ってる。
グレーな仕事をしてきた同僚も、家族を持ってからかなり丸くなった。
自分の周りのことだけを考えるだけではダメだという危機感を俺に語るようになった。
だが、俺もその言葉に納得するようになってきた。
進歩の無い安定は、海辺で砂の城を作り続けるような人生に思えてくる。
守る者ができ、その安全について考えていくと、やはり(みせかけだけでも)利他性が重要だと経験で学んだのも大きいだろう。
町の安全を守っていた同級生が、俺の羽振りのよさにバカバカしくなって仕事を辞めてトラブルを起こしたり、
超大手に入った優秀だったやつが、冴えなかったコンプレックスを爆発させて今では工場で働いていたりする。
最近ではその毒牙にかかった連中を見るたびに後ろ暗い気分になる。
お受験のために着飾るオバサン、奇抜な格好をして闊歩するにいちゃん、ネットで自分の信じたいモノだけを検索するオッサン。
毒に冒されたままだといつか回り回って自分以外のものも滅しちゃうぞ、と。
俺も歳とったなあ。
人は誰しも生まれながらに親切心や利他心を持っている。「蜘蛛の糸」のカンダタのような極悪人ですら、ふとしたときに温かい感情を起こして小さな命を慈しんだりするのだ。そういう意味ではまったく優しくない人なんていなくて、程度の差はあれ誰もが「優しい」のだと思う。
「優しいね」という発言がなされる場面では、たまたま発言者が親切にされるなどの経験を通じてその人の「優しい」側面を見ているだけだといえる。これは他人がお弁当を食べているのを見かけて「ご飯食べるんだね」と言うのと同じである。ご飯は誰だって食べる。そのときはたまたまその人の「ご飯を食べる」という側面が見えているだけだ。
このように考えれば、「優しいね」という言葉が情報としていかに意味を持たないかがわかるだろう。「変わってるね」についても同様のことがいえる(誰だって多少はふつうの人間と違う特異な面を持っているのだから!)。こういううすぼんやりした言葉は無自覚にホイホイ使わないよう気をつけたいものだ。
現実にはそうでない人間の方が多数派だが、それは力を持ったものが少しずつ方向転換させ、
お互いの考えの違いがあれば説明して理解し、どうしても受け入れられないところは違うことを受け入れる。
そうやって可能な限りお互いが理不尽に嫌な気分になるのを未然に防ぐべきだと、それが相手を思いやる気持ちだと思うのだ。
しかし、そういうのはめんどくさいらしい。
自分が原因で相手が嫌な思いをしても相手は受け入れるべきで、それを許すべきだと考える人もいる。
それでは迷惑をかけたもののみが得をし、周囲の者は損をしっぱなしではないか。
大多数の人はあるがまま、お互いを受け入れようという。
世の中の争いの多くは利己的な振る舞いと、他者への気遣いの少なさに起因すると思う。
よりたくさんの人が利他的な思考を追求することで世の中が良くなるだろう。
めんどくさいと思われるのが関の山だ。
文章にすると疲れる人間だと思われるだろうが、実際にはそこまで個々の所作について言及することもなく、
疲れている時や機嫌の悪い時の振る舞いはある程度仕方ないと思っているし、笑顔で見過ごす。
だが、根底にそういう向上心のようなものを持っていないことを知ると、途端に相手に対して恐ろしさを感じてしまうのだ。
まるで人の皮を被った昆虫、動物。そのように見えてしまうのだ。
私は利他性や理性こそが人間を人間として扱うための必要条件としているのだろう。
今まで人間のためにしていた行動も、実は相手が人間でないと知ってしまった時、無意味なものに思えてしまう。
急に今までの人生が無駄に思え、自分の生きている意味を見失うのだ。
私はおそらく考え方が偏っているだろうが、これを見た方々の意見を聞きたい。
http://anond.hatelabo.jp/20160713233611
ここでは利他性と強さの2つの要素に分けて、独自に定義し、話をしたいと思う。
利己的な人は総じて嫌われやすい。ただし、後述する「強さ」がずば抜けている場合、その限りでは無い。
逆に、利他的な人は好かれやすい。そして、その度合いはその本人の「強さ」に比例する。
この強さには能力や成果、集団に対して与えるメリットなども含まれる。
立場が上であれば、話が面白ければ、何かの全国大会優勝者であれば、とんでもなくダンスがうまければ、
逆に、その人に得意分野が何もなければ軽んじられやすい。
嫌われないように振る舞おうとすると利他的な行動になるはず。にもかかわらず嫌われるのはなぜか。
まず、上述の通り弱い場合。
自分の得意分野がなにもなく、ただぼーっと生きていれば軽んじられるし、能力が低ければ邪魔扱いされ嫌われやすくなる。
人に嫌われるのが怖い、自身の身の安全を守るために利他的に振る舞っているのが透けて見えると、
そこから利己性を感じ取られてしまう。その結果嫌われてしまうのだ。
人に嫌われるのを恐れなくなったら逆に人から好かれるなんて経験談を目にすることがある。
それは、人目を気にせず自分のやりたいことを求める姿勢が強さとして捉えられるからだ。
加えて、その姿勢を続ければ、追及した分野の知識や経験がその人に力になるから、結果本当に強くなる。
弱いのに自分を磨かなければ弱いままだ。
その状態で集団に入ろうとすれば、集団からすれば資源を奪われ、お荷物でしか無い。
結局、人に好かれるためには、自分自身を成長させるしかないのだ。
増田は何か一つ、これだけは負けないという分野を作ると良いだろう。(もちろん一般受けしないものは避けるべきだ)
また、嫌われたく無いという本音は弱さにつながるので、極力見せないほうが良いだろう。
R.ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」「神は妄想である」を続けて読んだ感想。
進化の過程において、一部の生物は自己の遺伝子を有利に残すため、子を世話する=利他性という資質を身に付けた。
生存に有利な資質の一種、利他性を持つ個体の割合が多くなった。ここまで前提。
利他性というものが生得的資質であるならば、慈善、正義というものも本能の一種であり、生理的快感を伴うものではないか。
生理的快感に従って行為するがゆえに、「困っている人」には注目し快感の命じるままに主観的慈善行為を行い或いは正義のため糾弾し、「困っている人」でなくなったら忘却するという現象が起こるのではないか。
この仮定が正しければ、単なる生理的快感を他者に役立てるためには理性による制御が必要だということになる。
自分の頭ではここまで。
-----------------------------------------------------------------------------------
早速指摘あったので追記します。
「個体が好き勝手カオスに選択しまくった無限の乱数の結果一定の偏り(ESS)で収束が生まれる」というのは実に面白いなあ、でした。
書き方と自分の理解両方に不足があったと思います。指摘ありがとうございました。
なんでこんなエントリを書いたかというと、「おもいやりをもちましょう」と教える現行の道徳教育って思わぬ善意の落とし穴を作ってるんじゃないか、とふと思ったのが発端。
もし利己的行為を各自選択することでお互いが生存に有利に働くシステムを構築することができれば、生物学的に見て一番無理がないのではないだろうか。
どうも「コスパ」好きです。バーゲン大好き。最近の好きなコスパは「SIMフリースマホとMVNOの組み合わせコスパ最強」です。
さて、このところフェイスブックや実生活でも、この「コスパ」を「結婚はコスパ悪い」「子育てはコスパ悪い」などの使い方で、人を怒らせ、
使った本人がこのコミュニケーションマナーをわかってない人がいた、ということがありました。
実社会で間違って使うと、場を凍らせ最悪の場合村八分の状態になるので、私も先輩から教わったことをお伝えしたいと思います。
『コスパ』(コストパフォーマンス)という言葉は、費用対効果、簡単に言えばお金の尺度であり、
世の中には「損得勘定のものさし」をあてていいものと、よくないものがあるのです。
①人に対して使ってはいけない
「AさんよりBさんの方がコスパいいですよね」
「A子ってすごいコスパがいい女なんだよ」
②人に関わる事柄、人生で大事にしている価値観に使ってはいけない
「家買ったんですか?持ち家ってコスパ悪いですよ」
※社会的インフラ(医療や教育や福祉)や文化資本(芸術、伝統、文化)などを、会話の中でコスパで切って捨てると、
社会的貢献や公共性、利他性などお金ではない価値観で、その業界に従事していらっしゃる方は非常に不愉快な気持ちになると思います。
人の大切にしてる物事に対して、お金だけを判断基準にして、コストパフォーマンスで語る事は
http://anond.hatelabo.jp/20150805211536
2014年 11月05日 20時28分提供元:J-CASTニュース
関東を中心に、携帯電話ショップ「もしもしモンキー」を運営する「株式会社もしもん」が、社名を「8文字」から「137文字」に変更して、話題を集めている。
変更の理由は、「経営理念を浸透させ、お客様にも同一のメッセージを届ける」ため。ネットでは、「長すぎw」「手書きの領収書はどうするんだ」など、話題沸騰だ。
「経営理念を社名にしちゃえばいいじゃん!」
旧「もしもん株式会社」の代表取締役CEO、栗原志功氏が、自らのフェイスブックにアップしたところによると、変更後の社名は、
「株式会社あなたの幸せが私の幸せ世の為人の為人類幸福繋がり創造即ち我らの使命なり今まさに変革の時ここに熱き魂と愛と情鉄の勇気と利他の精神を持つ者が
結集せり日々感謝喜び笑顔繋がりを確かな一歩とし地球の永続を約束する公益の志溢れる我らの足跡に歴史の花が咲くいざゆかん浪漫輝く航海へ」。
それは「一人前」についての考え方が異なるからだ。
ただ、就職にせよ結婚や子育てにせよ、それらは社会通念の範疇で
個人の幸福の追求としてやっていることであって、利他性が無い。
そういう人のことを「一人前」だと考えるのは、俺には抵抗がある。
俺は魚や虫などの自然の生き物が好きで、暇があれば池や川に行っている。
ただ生き物を捕って楽しむだけじゃない。
アメリカザリガニやウシガエルのオタマジャクシを捕まえて殺しているし、
いずれ干上がる水溜りに産み付けられたカエルの卵を掬って近くの池や水路に移すために
いくつかの場所を巡回したりもする。そしてフィールドのゴミ拾いもしている。
ゴミ拾いに関しては俺はまだ未熟者で、キャンプ場のように近くにゴミ箱がある場所でしか
やれていないが、そういう場所に行くときは必ず軍手とビニール袋を持っていく。
そして群れたDQNが置き去りにしていった弁当の空箱を、苛立ちながらも拾い集めている。
これらの仕事は、ほとんど誰にも見られていないし、お金も発生しない。
俺が個人で池や川の手入れをする理由は、生き物たちを絶滅から守りたいからだ。
人知れず暮らしている圧倒的に美しくて不思議な生き物たちに出会える感動を、
顔も知らない他人のために、100年後や200年後に生まれてくる人達のために残さなければならないのだ。
働いても、結婚しても、俺は大人になれなかった。
相手にびびって妥協して、間違っていることに対して間違っていると言えない場面を、
自分の正義を貫けない場面を日常的に経験している。社会の中での俺は、主体性が無いガキのままだ。
そんな俺でも、池や川にいるときはもしかしたら大人なのかもしれない。
自分の判断で、顔も知らない赤の他人や自分より後から生まれてくる人達のために何かをやっている。
俺が「大人」とか「一人前」とかについて意識するのはそういう時だ。
でろりん氏は元チンピラらしい。
チンピラ同士で傷つけあうならまだしも、無抵抗な相手を暴力で踏みにじった経験を
たくさん持っている人かもしれない。もしそうなら、その過去にきちんと向き合ってほしい。
かつて麻薬中毒の荒くれ者だった人が、自分のような人間を生まないために麻薬中毒者の
更生に携わっているように、自分の人生経験を踏まえて赤の他人のために行動を起こすことで、
でろりん氏は「一人前」に近づけるのではないだろうか。
6年前に元エントリを読んで「うわー子供作りたくねー」と思ったものだが、これ見ても全く同じ感想であった…。
俺みたいなのが「幼稚」で、みんなが「大人」だとみんなは言うけど、それは元々の性格傾向の違いじゃないか?と思う。
みんなはもっと肉体的に幼稚であったくらいの頃から利他性を獲得しているように見える。なるべくしてなっているというか。
その違いはどこから来るのか。俺がサイコパス的に精神異常なだけなのか…。
しかし6年か…。
6年前は違う会社にいて色々もがき苦しんでいたなあ。
一足飛びにやりたいことをやるのは不可能だったので、2段階のステップでいく計画を立てた。7年ほど前の話だ。
1段階目をなんとか着地させ、全く新しい環境(それまでとは業界も職種も仕事内容も何もかも全く違った)で暗中模索していたのが6年前だった。
今は2段階目を終え(2段目のステップでどの方向性にいくか物凄く悩んだ)、当初の計画にかなり近いところに来ることができた(内容は当時は想像すらしなかったものだけど)。
と言っても、当時は完全に不可能であったような目論見であったわけで、マンガのように劇的に上手くいくなんてことは全然無い。
そもそも、すでに俺の生来の能力や生きてきた環境から来る常識的な分相応ラインは越えてしまっているのだろう。試行錯誤しかない日々だ。本当に辛いが、楽しい。
でも色々なものを見てきて世界が広がればやりたい事はどんどん出てくるもので、今度は海外に行くことになった。
辛いこともたくさんあるだろうが、きっとまた新しい世界を見ることができるだろう。
まだまだやりたい事がたくさんある。(自分の基準で)最低限の成果すらまともに出せていない。
そんな状態で子育てと両立など無理だとしか思えないし、「子育てに当事者意識を持っていない!」などの女性側の意見は全て理解しているから作れない。
作らなければいけないのだろうな、という焦燥感や、作らないことに対する罪悪感はある。
きっといつか裁きを受けるのだろう。それは覚悟している。
そう、全く持って君は正しい
ああ、罪深きは人よ
我々の下心は骨の髄までしみこんでおり
Wikipediaにたいへん良くまとまっている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%92%E6%81%B5%E7%9A%84%E5%88%A9%E4%BB%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9
さて、ここに出てくるチスイコウモリに、
他者に血液を与えることが苦痛なコウモリは空腹の仲間に血を与えないため、彼自身が空腹の際にも血を貰えない。早晩彼は死ぬだろう。
他者に血液を与えることが快感であるなコウモリは空腹の仲間に血を与えるため、彼自身が空腹の際に血を貰える。彼は長生きするだろう。
自分のリソースを割くことは通常は苦痛である。誰だって疲れることをしたくないし、今持っている財産をどぶに捨てたりしたくない。
だから「困っている人に対してリソースを割くこと」に快感を感じる性質が先天的に備わっているのだ。
これが「骨の髄までしみこんだ下心」だ。
ならばコウモリや我々は完全なエゴイストであるかというとそれは違う。
善行、悪行という区分は遍く他者(社会)にとって有益かどうかで決まる。
例えよう。前述のコウモリの集団において、2匹しか構成員がいなかったらどうだろうか。
2匹とも餌が取れなかったらそれで集団の構成員は全滅。終わりである。構成員は多いに越したことは無い。
つまり、(個体がいくらかいる段階で)AからBに血を与え、Bが生き延びることができた時、A、B以外の個体にとっても利益となるということだ。
Aはただ自分の下心で行動したにもかかわらずだ。
いうなればAや我々の下心は「善なる下心」なのだ。
just doingは和訳すると「ひたすらそれをやりなさい」。という意味だ。つべこべ言わず、ごたくわ並べずにとにかくやりなさいという古くからの聖人が繰り言のようにつぶやいてきた言葉だ。
日本でも古くは只管打坐(しかんだざ)という言葉がある。只管というのは「ひたすら」という意味。打坐は、坐を打つ、つまり「座禅に打ち込む」なんだな。
今日こんな記事があったけど、日本もやっとこさアホみたいな努力厨が減ってきていい世の中に向かいつつあるのかなとホッとしたと同時に、
会社で「艦これ」プレイする人々 専用ウィジェットで「最小化」、テザリングで「ログ残さず」 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw1104289
古くからの日本の心が失われているようで寂しさもひとしおだったんだよね。変に真面目で凝り固まった部分がある一方で、やたらと無気力でマニュアル化された考え方しかできない指示待ち人間が増えていて複雑な気持ち。
人生生きているとそういう複雑な気持ちになることがあって多大な時間とお金を浪費していることに気づいたほうがよい。
偉い人の伝記とか読むと決まって苦しみを打ち消すように研究に没頭したと書いてあるでしょ?板挟みの中間管理職でも酒に逃げたりしない。打ち消すようにjust doing。
あれは脚色なんだろなと思ってたけどこの歳になって本当にその通りだなと思うわ。とにかくやるしかない。
我らがdankogaiも5年も前に「やる気を出すな。手足出せ」という名エントリを上梓しているが誠に先見の明と言うべきだろう。
分かってるとは思うが「俺はやってるんだぜ」とひけらかして自慢する人は全然just doingじゃないんだよ。当たり前のことをやってるという感覚じゃないとjust doingにはならない。別に偉いことでもなんでもなくて普通。
だからってやってない人が普通以下というわけでもない。比べちゃだめ。比べた途端にjustじゃなくて条件付き確率になるのよ。こういう時はこれくらいの確率で仕事できるけど、
そうじゃなくなったらがんばれるの君?って話になるわけだ。それがベイズ確率論。
結局のところしょーもない努力厨も無気力人間もどっちも条件付きという点でjustじゃない。ということが分かってもらえるかと思うんだけど、ここでつい我々現代人の悪いくせは、
どうしたらいいの?と考えてしまう。justはjustでもjustなシステムズはなーんだ?を見つけようとする。小学校のときに先生が理科の授業で「なぜ?を繰り返しましょうね~」と言ってたけど、
だいたい専門知識のない奴が「なぜ?」を連呼してもロクなことにはならないだろと子供心に思ったし大人になってその考えはいっそう強まるばかりだ。
我々現代人は西洋のデカルト的世界観を知らず知らずのうちになんだかんだ引きずっているから、つい社会面や政治面のニュースを見て「なぜ?」「どうしたら?」という形でどうしても方法序説を考えてしまうのが
悪いところで、そんなくだらないこと考える暇あったら自分のことやればいいのにと老婆心ながら指摘してしまう。
未来検索ブラジルのグニャラくんこと末永匡34歳会社員も社会のことなんて考える必要はありませんと明言している。ネットで声の大きなスポークスマンがそのように言ってくれるのは実に心強いことである。
この「まず自分」の精神はまさにjust doingそのものと言って良い。世の中エゴは悪いこととされていて、周りに気を遣うべきというマナーや、周りに合わせるよう押し寄せてくる同調圧力があるけど、
よく考えてほしいのは周りと自分を対置させて相容れないもののように扱っていること自体がデカルティズムの陥穽にドハマリしているということだ。
無意識に利他と利己は反対で、利他は大事だから、じゃけん利己はやめましょうね~とみんな当たり前のように思っているのがおかしいんだよね。
WIKIPEDIAのカルトの定義はこちら http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88#.E3.82.AB.E3.83.AB.E3.83.88.E3.81.AE.E7.89.B9.E5.BE.B4
スタートアップでいう社長の神格化。特に「教育」「人材」をうたうベンチャーに多い
新入に教えることでより洗脳を濃くしていく
リクルートに勝つ!学校教育を変える!といいながら、実際はただの新卒学生の斡旋や教師向けのツールだったりするが、それ以上のことがあるかのように新入や周りには触れ回る
社長がトップに見えて、裏に投資家などが糸を引いているが幹部以外は実態をしらない
女子社員は経営者のためにフォーチュンクッキーを踊ることが義務づけられる
これから有望な人材は◯◯、ハードワークが成功への道、など様々な根拠の薄い結論を信じさせる
東京で大雪が降った翌日にあきらかになったのはそこに住む人々、生きる人びとの存在だ
1
浅草一帯や、人形町の商店街なんかはすぐに雪かきが行われており、歩行がとても楽だった(高齢者が多いはずなのに!)
2
土日休みのお店も含め、居酒屋ビルの前やオフィス街、アパートや低層マンションだらけの場所はまったく雪かきが進んでいない。具体的には麹町~四谷~四谷三丁目、西新宿五丁目
3
セブンイレブンなどのコンビニやカラオケ館などは、店の前を店員が自主的に雪かきしている。これは地域に根ざしているという側面よりも、こうした事態に対応できるだけのマニュアルやリソースを持っていることが関係しているのだと思う
4
一方、「磯丸水産」や数店舗展開する某有名店主腕組みラーメン店のような新興飲食チェーン店の前はまったく雪かきがなされていない
1、地域の側面
雪かきをしてもよい、しようと考える人々がどの地域にいるか(そこに地元への愛着心があるとか利他性があるとかいう話は置いておいて。一軒家かどうかとかも関係するしね)
2、資本の側面
大手資本・商業施設・オフィスでも、緊急事態・非常事態にも対応できるほどのリソースを持っているか(カネ・マニュアル・人材すべてだ)があるかないか
■オレんちの近くはどうだ?
これから社会を渡り歩く上で、是非とも知っておきたいこととして、世の中始末に負えない乱痴気野郎は数有れど、正論人間ほどタチの悪い、人生の詰んでいる人間は居ない。これは知っておいても損はないだろう。
これから社会へ羽ばたき偉業を成し遂げんとする君たちも、薄々感づいてはいるはずだ。学級委員長や生徒会長のような正論マンの不甲斐なさ、そして冬の碧空にも似た慟哭に。
世の中に蔓延る正論をなんとかして駆逐せねばならぬ、とまで考える人もいるだろう。また、正論をどや顔で言うような族(やから)にだけは俺様はならん!と固く誓っている人もいるだろう。
しかしちょっと待ってほしい。ここで大切なのは感情論の排除である。何事も感情的になっては琴をし損じる。感情的と言ってもヤキモキしたキモチを適切な形でストレートに吐き出すのはむしろ良いことである。
そうではなく本当の感情は棚にあげて都合のいい別の感情を正当化しようと論をひねりだすのが駄目なのだ。結局それは言い訳であり捏造にすぎない。自分にも他人にも嘘をつき、感情的になればなるほどその嘘の対立構造がエスカレーションする。
だから冷静に思考しなければならないよ。学生時代にロクに人と向き合うことなく2chなどをやり過ぎてきた人は特に注意。面接で俺は友達いるしサークル入ってたしバイトもしてた、なんて人がよくいるけど、
そんなのも名札(title)にすぎないのだよ。中身が肝心。素直な気持ち・意見をどれだけ適応的にやりとり出来たかどうか。その意味で正論を文字通り「正しい」と思えるような人は危ないと言ってよい。
結局のところ正論というのも名札にすぎない。正しいと名札がついたことを言えば、一応は一定の力をもつ。絶対無敵とまではいかないが、たいていの場面で有利な形勢に持っていくことが可能であるという意味において。
ところがね、第1にそもそもにおいて「勝つ」必要などないのだよ。狡黠な人間になんてなる必要ないとも言い換えられる。ずるい人間って世の中いるよね。それは一種の適応とも言えるが。
よく考えてほしいのは、適応というのは常に不適応の可能性をはらんでいるのだよ。ある方向に適応したということは、他の方向に適応できなかったからかもしれない。ズルいってのはそういうことなんだ。
あらゆるファクターがありうるので一面的に決めつけることはできないけどな。けれどもそれがもし不適応からきた果実だとしたらそんなに哀しい色の果実はない、そう思わないかいということなんだ。
第2に正論はあくまで論の正しさに過ぎない。論とは前提たる命題に推論規則を用いて演繹していくプロセスなのだがな。ともかく論の正しさはあくまで推論の正しさであり前提の正しさではないという中学校から教わってきた当たり前のことなんだ。
当たり前だがみんなすぐ忘れてしまうから常に確認しながら進んでいかないと行けないんだ論者たちは。でないと、、中学生が見てもバカじゃんこの大人たちはって言うようなことが頻発するのだ。
人間は多くの人間自身が考えているよりもスキが多い、不注意が多い、手抜かりが多い生き物なんだ。だから当たり前のことを当たり前にやれる大人になること、これが何よりも大切で、難しいことなんだ。
岡目八目と言ってハタからみて批判するのは簡単だけど実際にそういう立場になったとき自分自身しっかりやることが肝胆だよ。だから正論を畳みかけるように言われてもジト目で疑うことを怠たらない誠実さを忘れてはならない。
そういったことを抜かりなく積み重ねていく先に成長がある。正論を疑うにあたっては、繰り返すが感情的になってはいけない。感情を包み隠さず適切な形で表現するのは良いことではあるが、感情に論がくっつくと
途端に一気にタチの悪い一揆を巻き起こして塗炭の苦しみに見舞われてしまう、と述べたね。ここで1つ感情的にならないコツを教えよう。こと人間関係になると多くの負の感情は恐れからやって来る。
怒りも恐れ、恥ずかしさも恐れ、不安も恐れ、いろんなことが恐れから来ている。そしてそのことをみんな自認したがらない。だからビビり先輩ちーっすwな煽りが万国共通に通用すると。
だから恐れを常に認めないといけない。認めるためには心の余裕が必要なの。心に空きスペースがないと駄目なの。ワーキングメモリが一杯になると他の事考えられなくなるでしょう。
実は人間は生きる心構え次第で必要な余裕が雲泥の差なんです。一般には精子いや生死をかけた闘いを日々繰り広げる人ほど沢山の余裕が必要と考えられている。しかし実際は彼らの95%は忙しいの字は心を亡くすと
書くとの格言どおり忙しさのあまり心が狭くなっていますから、それでもなんとかやっていけてるということは実は大して彼らのような生き方のためには別に特段余裕が必要なわけではないんですよ。
ただしそれは「毎日をなんとかやり過ごす上では」不必要ということであり、「日々をよりよく生きるためには」あるいは「今後の人生のためには」もっと余裕が必要ですよ。狭い心のままではいつかSAN値がピンチになります。
そう、「よりよく生きるためには」もっともっと余裕が必要なんだよそこの君。倫理(ethics)とは本来は儒教的な処世術ではなく日々をよりよく生きる方法を追求する学問であった。
自分のことばっかり考えてガンガン心を狭めていては結局のところ苦しい境遇に追い込まれていくようにうまく世の中はできている。天網恢々疎にして漏らさずとは至言なり。
『オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情』の紹介文を見てごらんなさい。「感情はなぜ存在するのか。感情がその場限りの自己利益を越えてより合理的に行動を方向づける働きがあることに着目し、
今まで十分に理解されていなかった利他行動など、一見非合理的にも見える行動のメカニズムを鮮やかに解き明かす」。この問題意識と解決の試みに非常に高い知性を感じざるを得ません。
実は感情は我ら人間の誇る高級な機構であったという発見が続々と為されている。そういった感情を捨象してロボットのように正論を言ったり感情を捏造して論理で塗り固めたりするのはもう今年で卒業しよう。
来年からはきっぱりケジメをつけて全く新しい人間に生まれ変わるつもりでいこう。ただしだイチローの「変わらなきゃも変わらなきゃ」の精神は忘れちゃならんぞ。必死に変わろうとする人間がよく陥る罠。
変わろうと歯を食いしばることは現状を強く否定することになるが、実は否定すればするほど暗に弥が上にも強く肯定してしまう結果になるのだから、決して無理に変わろうとしてはいけない。
これも人間関係と同じで根底には恐怖がある。忙しさを好む精神の奥底にはしばしば恐怖があるのだ。一般に強くコミットしようとする性向の背後には恐怖があるということ。
だから強くコミットしようとするのではなく、ソフトなアプローチ。これが大原則なのだが、そのためには実はたくさんの余裕が必要なんです。だから言ったとおりでしょう心構え次第で雲泥の差。
余裕といってもロマンティック・アイロニーのやうな嘲笑や放蕩ではなく、きちんと自分の行い、思考を決める規律を自分で定めないといけない。
クラピカも制約を自ら誓約して力を手にしたのだからこの支配から卒業して賜杯を手にするには規律を自らに課すことが必要不可欠といっても過言ではなかろう。
ぱっと見なめし革のような硬質な立派さを漂わせてはいるもののそれはあくまで虚構で、その内に秘めたる醜さは計り知れない。だから俺はブランドもののバッグが大嫌いなんだ。
ともあれ人の心にハリボテエレジーのような哀愁があり、それを我々は他者や社会との関係の中で再現しているに過ぎない。しあわせに小石をなげて。
その修正を試みるのがサイコドラマの主旨である。ともあれ正論という古い規律を捨てて感性的であろうとすると俺たちはいとも簡単に自己否定のワナにかかってしまう。だから新しいマイルールが必要なのだ。
マイルーラ見かけなくなったなと思ってたら2001年3月製造中止。 テレビCMや大学の文化祭で宣伝しだしてから、若者の間で非常に人気が出て世論の批判を浴びたことが原因とな。
その主張の中心は「幸せになりたい」だろ。
そもそも「本当の思いやりのある人間に」なったら「幸せになる」っていう式はどっからでてきたんだ? そんな保証も論もいままで一回も増田の会話には出てきてない。
認めろ。
増田は、幸せになりたいだけだ。「他人に嫌われたくない」ってのも「本当の思いやりのある人間になりたい」ってのもどうでもいいんだ。
そもそも思いやりなんてのは利他であって、本人が幸せになるためにする事じゃないだろ?
それを「幸せになるために思いやりがある人間になりたい」なんて言ってる時点で、決定的にずれてるんだよ。
全面的にその通りだし、そういう意味で書いてるんですよー。
めんどくさいわけじゃないって否定したけど、だからといって自分が悪くないって意味じゃないんです。ごめんなさい。
”そもそも「本当の思いやりのある人間に」なったら「幸せになる」っていう式はどっからでてきたんだ? そんな保証も論もいままで一回も増田の会話には出てきてない。”
って部分については、幸せとというか単純に思いやりがあって大切な友達がいる人やその人たちの友情っていいなって思って憧れてるし、その方が正しいって思うって感じです。
でもずれてる普通と違う人間だから、思いやりがない人間は悪いやつだって思うから、もしそれをあらためる方法があるなら努力したいって思ってます。
やっぱりそんな方法なんてないのかもですが、思いやりをもちましょうって言葉があるからには持とうとしたら持てるのかなーって思ったんですよね。