はてなキーワード: はがないとは
以上のような行為類型を相互に重ねるためには多くの場合、主人公とヒロインの両者が同じ空間を共有する必要がある。その上で、これらの行為類型が場面ごとに重ねられていくことで両者の関係は変化していくことになる。本項はその組み合わせ方についてのものである。
空間の共有は大抵の場合共同作業を伴う。そうした共同作業の例として『はがない』における部活でゲームをする例と、『俺ガイル』における部活でクッキーを作る例を比較してみたい。
結論から述べると、筆者は『はがない』における部活は『俺ガイル』と比較してあまり出来がよくない印象を受けた。理由は単純で、『はがない』におけるゲームにおいて主人公とヒロインは相互に信頼や敬意といった点でなんら変化は無い。これに対して『俺ガイル』のクッキー作りにおいては、主人公はヒロインの姿勢に敬意を抱き、ヒロインもまた主人公の洞察に敬意を抱き、認識を改めるという点で両者の関係の変化が描かれている。
その場面の前後で両者の関係に変化がないのであれば、それを伏線として機能させる予定がない限り、そんな場面は不要と言っていいだろう。
あってもなくても話の筋に影響しない様な単調なイベントを大量に重ねることはギャルゲーでは認められるのかもしれないが、小説でやったら飽きられる、とは榊一郎も指摘するところであるが、「ボーイミーツガール」における「話の筋」とは主人公とヒロインの関係構築に他ならない。もちろん、「ボーイミーツガール」であり、同時にバトルであったりミステリであるならば、そうした類型の「話の筋」での必要性が示される必要があるだろう。
「ボーイミーツガール」において主人公からヒロインへ、もしくはその逆に対してなされる行為をこのように類型化し物語に沿って順に並べていくと、それが主人公とヒロインで反転もしくは反復、すなわち「構図の繰り返し」が散見され、さらにそうしたものほど筆者は「よく出来ている」という認識を持つ傾向が強いという認識に至った。
くどいと思われるかもしれませんが、これでも実際の画面になると印象度は思いのほか薄いもので、構図の繰り返しによる主題の強調という手法は、これでもかというぐらいにしつこく繰り返さなければ効果は期待できないものです。
押井が指摘するこの「構図の繰り返し」について、ボーイミーツガールとして認知されていると思われるアニメ『エウレカセブン』で言えば、周知の通り2話と26話は主人公とヒロインの位置、台詞回しを反転させた構図であり、そして26話が(低俗な表現ながら)「神回」と言われていることには、この演出が大きく影響していると言っていいだろう。
そしてラノベである「ボーイミーツガール」におけるこうした「構図の繰り返し」において重要なのは、「同じ構図で同じ行為が明白に異なる意思によってなされること」ではないかと筆者は考えている。
いずれも結果として同じ行為が反復、反転しているが、それぞれの理由は明白に異なったものである。最初の依頼ではヒロインは自分が直面した困難から逃亡するために主人公を利用しようとしてスールになることを依頼するが、主人公は場に流されることをよしとせず拒否する。二番目の依頼では主人公はヒロインの困難の重さを理解しており、彼女を助けるために自分をスールにするよう依頼するが、それが主人公へ自分の困難を押し付けることでもあることの認識から、ヒロインはこれを拒否する。そして三度目はヒロインが自分の困難を解決した物語の最後であり、困難から逃げ出すためではなく、純粋な好意からスールになることを主人公に依頼し、主人公はこれに応じる。
同様に『イリヤ』も見事な「構図の繰り返し」を用いている。1巻において教室におけるヒロインの助けを求める目に対し、主人公は「トイレ」と言って教室から逃げ出して一人トイレにこもるヘタレぶりを見せつける。そして3巻のクライマックスにおいてヒロインの助けを求める目に対し、主人公は1巻と全く同様に「トイレ」と言って、今度はヒロインを連れて逃げ出すための覚悟を決めて一人トイレにこもる。そこから続くトイレ内の描写の凄みについては本稿では割愛するが、この一連のシーンの評価は秋山瑞人のファンの間でも極めて高いと思われる(余談ながら例えば『E.G.コンバット 2nd』においても冒頭、クライマックス直後、そして物語の最後で「格納庫のGARPの前でルノアが泣いている」という同じ構図が繰り返されており、秋山瑞人はこの「構図の繰り返し」を意識的に多用している節が見受けられる)。
また、遭遇と物語最後のシーンで「構図の繰り返し」を用いている例もよく見受けられる。例えば『星海の紋章』においては主人公とヒロインの遭遇、そして物語の最後は「ラフィールと呼ぶがよい!」という、全く同じ台詞が用意されている。『ALL YOU NEED IS KILL』では「日本では食後のグリーンティーはタダだというのは本当か?」というヒロインの台詞で遭遇は始まり、最後は主人公が青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだコーヒーを飲み干すことで終わる(こちらはちょっと捻りすぎた感が否めないが)。『俺ガイル』は不愉快そうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で遭遇が始まり、ラストは楽しそうにヒロインが主人公に毒を吐く場面で終わるという点で構図が繰り返されているが、それ以上に物語最後の一文がタイトルである点の指摘で十分だろう。
『乃木坂春香の秘密』はヒロインの秘密が主人公に漏洩したのち、ヒロインは物理的、精神的に最後まで守られる存在であり、そして主人公は最後まで守る存在である。両者は精神的に対等な立場とは言いがたい。こうした一方的な依存関係の存在する関係はあまり筆者の好むところではなく、おそらくそれは筆者に限ったものでもないだろう。
『エスケヱプ・スピヰド』や『禁書』も同様に片方が他方を保護し続けるが、これらはヒロインの自己犠牲により保護者は非保護者に救助される場面が組み込まれている点で違いがあり、これによってその立場は対等なものに寄っていると言っていいだろう。
このように直接的な行為類型で均衡を取る方法もあるが、「構図の繰り返し」における主人公とヒロインの「反転」によっても主人公とヒロインの対等性は暗黙に読者に伝達する効果があるように思われる。
例えば『ゼロの使い魔』においては冒頭でヒロインから主人公に対し、主人公が使い魔であることが一方的に宣告され、主人公はこれに成り行き上しぶしぶ従うことになる。しかし物語の最後においては主人公はヒロインに対し、自分はヒロインの使い魔だ、と誇りをもってこれを肯定する。その台詞内容が示す立場の差と異なり、両者が(少なくとも精神的に)対等な関係であることを強く意識させる効果を生んでいる。
いい加減例に使うことにも飽きてきたが『とらドラ!』においても対等さは徹底して反転構造の反復によって強調されている。
ヒロインの好きな人が主人公にバレる、という出来事に対して主人公はヒロインに自分の好きな人を明かす。ヒロインに主人公は故意にボールをぶつけられ、ヒロインに主人公は手違いでボールをぶつける。階段で落ちかけたヒロインを主人公は反射的に庇い、ヒロインは反射的に主人公の無事を確認する。ヒロインの作ったマズいクッキーを主人公が食べて美味いと微笑み、ヒロインは主人公の作った美味しいクッキーを食べて美味いと微笑む。このように『とらドラ!』は徹底して反転構造を反復している。
さらに「呼称の変化」という形でもこの「反転」と「反復」が巧妙に使われている。ヒロインは自身の恋路への助力を一方的に主人公へ要求し、主人公の承諾をもって名前で呼び捨てにするようになる。その後ヒロインは二人が対等な関係であることを告げて協力体制の解消が宣言され、ヒロインは主人公の呼び捨てをやめる。そして物語最後において主人公はヒロインに一方的にヒロインの恋路への助力を宣言し、ヒロインを名前で呼び捨てし、ヒロインが返事代わりに主人公の名前を呼び捨てにすることで物語は幕を閉じる。
対等さの無い「ボーイミーツガール」は少なからず存在し、それを気にしない読者も一定程度いることは事実であろうが、より幅広い読者の支持を期待するのであればこうした主人公とヒロインの対等さへの意識がされて損は無いだろう。
ストーリーや設定が凡庸であれとにかく「キャラが立っている」ことが重要なのだ、と述べた上で林は次のように主張する。
主人公の個性さえ確立できれば、それが魅力的かどうか、感情移入できるかどうかなんて全部後からついてくるから大丈夫。魅力的な主人公が活躍していれば話は自然と盛り上がる
林トモアキ『現役プロ美少女ライトノベル作家が教える! ライトノベルを読むのは楽しいけど、書いてみるともっと楽しいかもよ! ? 』
なるほど。ところで人気アニメや漫画の二次創作小説に出てくる「キャラ」は(オリジナルキャラを除けば)おおむね人気キャラであり、おそらくは「キャラが立っている」ものだと言っていいだろう。もし林が言うように「キャラが立っている」だけでいいのであればこうした二次創作はどれも魅力的で感情移入できるものとなる。
二次創作小説の、特に好きなキャラのそれをひたすら読みふける人がいることは事実であり、ゆえに林の主張は間違いでは無いだろう。しかしそれが幅広い読者に通用するものかといえば筆者には肯定しかねるものである。
キャラ萌え特化の商業ラノベはもちろんある。しかしそれだけしかウリが無いのであれば、それはキャラ萌えが理解できない筆者のような(もしくはそのようなキャラクターは好みではない)読者に対しては全く面白みのないものと言っていいだろう。
キャラ萌えに依存せず面白いと思わせることが出来ることは、そうしたキャラ萌えにのみ依存したラノベと比較して強みになることは間違いない。そしてそうした強みとして、本稿で指摘したような演出法についての言及はもう少しされてもいいのではないか、と考えている。
才能やセンスはそれだけで価値のあるものだが、その多くは知識と思考によって技術化することが出来るものだと筆者は信じている。空を飛ぶ鳥に憧れて手をバタバタさせたところで一生空は飛べないが、航空力学を構築することで人類は空を飛ぶことを可能にしたのである。
本稿は筆者の嗜好に強く依存しており無批判に一般化できるものではないが、これまで感覚によってなされてきた演出技術を言語化することの可能性について、諸兄諸姉の検討の際の参考になれば幸いである。
さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説の秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。
例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。
同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校のプールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写は彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。
溺れて必死で主人公にしがみつき、ビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通の女の子」であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインがうつむき押し黙るといった、つまり「普通の女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。
多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会う前後で主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である。
最後に見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロインの毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロインの毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。
念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線をクライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。
「ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公とヒロインの恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効に機能する。
さて、関係構築とは主人公とヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為に類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為が類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。
遭遇の類型として「秘密の漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。
「秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合、プライバシーと同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密の吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去のトラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意にコントロールできるという点で優れている。
こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去の吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日と髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公がヒロインに友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロインが主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロインが主人公の評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公がヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。
余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効に機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力者である主人公が必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこからの作戦の演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。
秘密の漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入や共感を誘う要素と言っていいだろう。
素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由づけが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。
これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係が破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公がヒロインにコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。
相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロインの名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。
なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。
一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。
一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロインが主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。
こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかしヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。
例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロインが主人公に仕事を依頼し、主人公は成功し続け、それをもってヒロインが主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロインが主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロインが主人公に失望することは一度としてなく、最後にヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討の範囲外である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。
『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否は効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公がヒロインからのスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。
この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分の利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。
単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。
相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解と共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意の薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。
窮地に陥ったヒロインを主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。
例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれたヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公に好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐なものであった。
他方で『俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる』におけるチンピラに侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロインを主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。
その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為が主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。
その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意はほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。
『禁書』では記憶を喪失し、『AURA』では中二病を世間に露出し、『俺妹』では自分は変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分の過去(未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲は主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。
地雷ソフトってなんだ、そこまで卑下しなくても普通におもしろかったぞ
ほとんど1人で作ってこの完成度は凄い、すごすぎる、がやはり限界なのか発想に偏りがあるかな
巨乳枠が奇乳に近いので好きにはなれなかったのが残念
かといって普通・貧乳枠はおもらししちゃうので駄目な人はダメそう
最終ルート終了からの追加個別ルートは短いながらも良かったと思う
続編ではオーグメントルートがあるらしい、ついでに友人ルートも
1枚絵が衝撃的すぎるのでやってみたいが…
直前にやった何処へ行くの、あの日が素晴らしすぎてちょっと感情が入れ込めなかったな
はがない絵は嫌いじゃない、声優の演技が好評化なので素材に使えそう
楽しみ
はがないの星奈とか超電磁砲の眼球しいたけおばさんとかまどマギのマミさんのような、
いかにも男受けしそうなホルスタインで子供を孕むためだけに産まれて来たような挑発的なカラダをした年端もいかない美少女が
これでもかという位汚いおっさんやヤンキー共の肥やしにされているけど、
本当はそんな設定とか過程とか関係なく、ヒロインが汚される事に苛立ちを覚えるのかもしれない。
例えばヒロインが主人公にしか心を開かない一途なタイプであれば、余計寝取られた感じがあって気分が悪い。
そういうのをあえて狙った作りで、二次作者があとがきで「これは意図して書きました」とかこうあって欲しい願望が列挙されていると
無性に腹立たしく思う。
原作はこれを何故許してるんだろうって。
ヒロインが犯される事はつまり原作を穢す原作レイプに当たるわけで、元々そういう事にフリーだ!と公言してる原作者であれば問題はないのかもしれないけど、
一ファンからしたら、それは違うだろと反応せざるを得ない。
要はファンとしては一ヒロインであっても恋をしてしまったら何も見えなくなるわけで、それが汚されようものなら身を穢されようとも抗議を辞さないはずだ。
女性向け漫画でいえば、意中の男の子がむさいガチムチのおっさんに掘られたらどう思うのかという事である。
勿論そういうジャンルが好きな女性、俗に腐女子も多いだろうし、また男性向けで寝取られが好きで堪らない男性だって確かにいる。
だけど、二次創作では、やはり原作にある程度沿って欲しいと思うものだ。
問題は原作にどのように繋いでいくか、ここが疎かになってる二次創作物を見ると、その辺の商業エロ漫画と大差ないだろと言いたくなる。
それならば、初めから二次創作を作るんじゃなくて商業エロ漫画のようにオリジナル作品を創作してくれた方がまだ有難い。
ヒロインが犯される事は、言うなれば人権が侵害される事だと思ってる。
例え二次創作の漫画であっても彼女たちの人権が侵害されて黙って見ている事は、残念ながら俺には出来ない。
表現の自由は、行き過ぎる所が嫌いだ。
四肢切断等のリョナや凌辱調教、集団レイプ等ははっきり言ってオリジナル作品でやってくれ。
原作をわざわざ下敷きにしないで欲しいところ。
JKJCが水着でおっさんに接待という筋書きは非常にエロいのだが、映像から受ける印象はあまり下品ではない。
ヤマカン氏の作風はそうなんだよ。エロを描いたからといって、萌え豚を相手にしているとは限らないのだ。
(逆にはがないやニャル子のようなポルノ自体が目的のアニメは、何を描こうが下品だし、萌え豚以外に響くことは無い)
ヤマカン氏のようなインテリが、WUGのような外向きのリアリティや品性を持ったアニメが、
一話二話のような序盤で露骨なポルノを出してきた場合、マキャベリズムの線を考えるのが普通だと思う。
糞だという結論には変わりないが、新作アニメ、話題になった作品のキャラアカウントを次々量産するのはどうにかならないの?
「みんなを楽しませたい」などという割に、既に放置したアカウントはどれだけあるのかな。
私が知ってるだけでも、じょしらく、はがない、ラブライブ。ちょうど今は艦これだっけ?
どれだけお前が量産しているのかは知らないが。
キャラに合わない発言を繰り出して、「うわ、フォロワー数すげぇwwww」だの「RTされまくりwww」だの、キャラを汚すなと思う。
そして、そのキャラあっての事で、お前の影響力とはこれっぽっちも関係無い訳で。
何か勘違いしてない?
そういうキャラの私物化、そして使い捨てにしてる様に腹が立つ。
深入りせずとも、糞だという結論には変わりないが。
はがないの映画化反対運動に同意できる(署名しているわけではない)という人から理由を聞いた。「好きなものをけなされたら嫌だから」ということだ。
はがないに限って言えば、小説、アニメですでに評価は安定していると思われるのでそれは杞憂だと一刀両断できるのだが、わりと他の作品でも同様のロジックを使う人を見かける。が、どうも納得出来ない。私にとっては好きなものは好きなので、誰がなんと言おうと作品の価値は貶められないし、このなんでもかんでもメディアミックスされる時代に原作も公式の二次作品もいっしょくたに批判してしまう人もいないだろうし、もしいるとすればその人自体が批判の対象になるだろう。
ただきっとそういうことをいう人は以前に嫌な思いをしたのだと思う。もし何か思い当たる作品があれば、今後の参考にしたいので教えてほしい。
※なお、はがないの話は朝のツイッターのTLでしたものだが、朝から嫌な思い出を思い出させたくなかったため、冒頭で理由を聞いた人には質問しなかった。
はがない批判しながらもはがないの小鷹もまっさおの「え、なんだって?」ぶりをリアルで発揮するのが青二才の笑いどころダヨ。
自分が反論できると思ったものにだけは反論し、自分と同じ意見と思ったものはきっちりRTし、自分が反論できないものは見て見ぬふり。こういうところだけ見ると、はてな民相手のハーレムを維持するコツは「どうでもいいものはマメに反応し、かつ都合がわるいものはえ、なんだって?といってごまかす」ところにあるような気がする。 。これだけ観測範囲をつまびらかにしておいて、「俺それ見てないし」が通じると本気で思ってるならまじでアホだが、さすがにそれほどアホではないだろう。 わかった上でとぼけてるのは、はてな民ハーレムを維持するための彼なりの努力なのだろう。 だから、批判されても頓珍漢な受け答えで話をつうじなかったりするのも、あれは本当はわかっているけどとぼけているだけなのだ。そうにちがいない。
ただ、青二才は小鷹と違って国語力が低いのか、自分を皮肉っているものと、自分の味方をしてくれているのの区別が微妙につけられていないようだ。RTしてるもののなかで、青二才、これ皮肉だってわかってる?って感じるものがある。あと時々調子に乗ってリプした結果、それが通じなかった時に泥沼になる様子なので、あまり相手を見定める目がないようだ。 今回のも、twitterでは変なやつに絡まれたから最後まで書けなかったとか意味わからないことを言っているが、無視して書き続けることがなぜできなかったのか。いちいち言っていることが意味不明である。
もしかしたらただのアホなのかもしれない。
https://twitter.com/search/realtime?q=http%3A%2F%2Ftogetter.com%2Fli%2F486943
のうち青二才の反応で分類してみた。
https://twitter.com/David19881988/status/322717611513221120
https://twitter.com/_nickname/status/323168599307071489
https://twitter.com/ten_mon/status/323050648511860737
https://twitter.com/wsplus/status/322862755247951872
dokai3
多分懐かれている。飼い主として責任持ってほしい。
https://twitter.com/tm2501/status/322844362566406144
https://twitter.com/tm2501/status/322844283390541827
https://twitter.com/shiwazanin/status/322809291272773632
https://twitter.com/srpglove/status/322725663402516480
https://twitter.com/tm2501/status/322746157694590976
その他 tomorox、cornpt、hakuhai、non0nun、giteki
https://twitter.com/kinoko2002_/status/322759979411070978
https://twitter.com/valerico/status/322729546908585984
多分意味を理解していない
twit_shirokuma、REV、FTTH、str017、TM2502、amamako (今回はkanoseには言及なし)
青二才にはケンカしたくないやつと出会った時に、違うやつを叩き始めて強引に話をそらすなぞの芸が多数観測されている。
今回はstr017を叩くためになぜかREVとかTM2502叩きを始め、ウォッチャー論にはなしがずれていく。この話のずらしぶりはまさに小鷹。
そこでお前が来るのかよ…すとらいさんよ~。なんで、やる気なくしたあとに来ちゃうのかなぁ?この人は…(ついでに言えば、ちょくせつてきに対決してないが、この人の俺へのウォッチ量はかのTM2502に匹敵するんじゃないのかねぇ…と最近思うわけです。)言わないようにしてきたけど、俺の見立て(ブクマなどの痕跡)から言えば、青二才ウォッチャーのトップ3はあままこ・すとらい・REVであって02さんは五本指にも入るかどうかぐらいだと思う。あとマイナーだけけどはてブに3人ほどやたらと俺へのマークがきつい「ウォッチャー」がいます(T▽T)「ストイックなウォッチャー」という意味では、TM2502は間違いなくトップクラスだと思うよ?ただね、最近あままこさんから聞いたけど「影響力が強すぎるウォッチャーは純粋な意味での観測者ではないため、ウォッチャーとして評価すべきではない」とも聞いた。ウォッチャー論を色んな人に聞きたい
https://twitter.com/crowserpent/status/322754920925241344
批判する側は批判対象に匹敵する価値を持ってないと批判者たる資格はない、って青二才の人が言うので、その「価値」の基準って何よ?と突っ込まれてるって構図だよね。それに対して「野球はどう見たって価値があるに決まってるだろ!」って返すのはちょっとお粗末すぎる。「カーストを受容しつつも甘んじない」のは立派で、カーストを逸脱するやつはダメ、ってのはカーストの価値基準に首までどっぷり浸かった考え方だと思うけれど、当の@tm2501 氏があんまりそう思ってないっぽいのが気になる。多数派の価値基準によって抑圧されている人達にとって、「価値基準をずらす」というのは凄く大事な防衛手段の一つなのよね。それを卑怯だって言うことが何を意味するかってことだ。
https://twitter.com/srpglove/status/323029412960407552
スクールカーストの点から「ハルヒ」という作品を見るならば、ハルヒ暴走の被害がしばしば比較的下位カーストに属するコンピ研に降りかかり、現状のカースト構造を追認する形になってしまっていることこそを指摘するべきではないのか。それは確かに荒ぶる神たるハルヒにふさわしくない振る舞いだ。正直、ベン・トーの石岡君ネタも似たようなところがあると感じる。ああいうナチュラルなスクールカースト感覚見ると、やはりアサウラって現代っ子だよなと思う。作品は面白いけど絶対に友達にはなれないだろう。>現状のカースト構造を追認する形になってしまっている
https://twitter.com/str017/status/322696734360875011
ハルヒ批判ってあまり新鮮味が無いって印象があるから、その題材でここまで人を怒らせるってある意味才能だよなー由衣は分からんけど、八幡も雪乃もあの部活によって言うほど幸福を得られてるという感じはしない。まぁ氏はよく読み込まずに見てくれだけで批判するから、真面目に反応するだけ損しそうな感じはするんだよなーもうちょい精神的に元気だったら真面目に反応してたかも知れないけど、どうも精神的倦怠期入った臭いので、ちょろっと牽制するしか気力が湧かないんだわ。言っちゃあれだけど、どう真面目に批判しても氏の批判の根底ってだいたいルサンチマンが元だから、氏が思うなら氏の中ではそうなんだろって結論しか出ず、問題意識の共有とか無理ゲーすぎる。どうでも良いが、体育系の部活だからと言って、体育会系の体質だとは限らなかったりする。ソースは私が高校んころ入ってたラグビー部。あー、見えてきた、八幡の高僧スタンスは作品のテーゼでは無いよ。
https://twitter.com/str017/status/322978056291614720
まさに「ヤンが卿ならそう思う」。あ、この場合は「八幡が卿ならそう思う」かw卿は「俺ガイルなんか読み続けると堕落する」とは言うが、これには「だが人間は永久に堕ちぬくことはできぬだろう」という言葉を返したい。しかしスクールカーストの存在も割と怪しい部分がある、ソースは私。理由はスクールカーストでいえば最下位のはずなんだが風紀委員長もやったことがあるからスクールカーストという存在自体もっと恣意的に受け取らなくてはならん。というか俺ガイルも3巻まではそういうことを言おうとしてる感が。一応現段階ではこの程度の牽制をするぐらいしかできんというか、真面目に反応しても卿は「釣りに何マジになってるの?」とか言い出しかねないしなー、どうせ俺ガイルdisも釣りなんだろー? 釣りなんだろー?釣り宣言するとすべて釣りネタとしてしか扱われんようになるので諸刃の剣だということを卿は気づいていない。卿は一体誰と戦いたいのか?言っちゃあれだがスクールカーストって存在的には呪いと一緒で、当人や周囲が存在すると思えば思うほど当人や周囲に影響をもたらすもので、無いと思えば垣根なんて無くなるんだが、俺ガイルはそういうことを作品で言い表したいのではないのかと思うのだが。そのスクールカーストという存在がプラシーボ効果なるものだとすれば、その人がスクールカーストをどう捉えるかでその人の自分史観を浮かび上がらせるという言わば鏡像の存在になるともいえる。つまり卿の自分史観とは……では何故に「スクールカーストはその人の自分史観」なのかと問われると、言わば実際に存在する階級は「生徒会長」「委員長」「委員会員」「部長」「先輩」「後輩」という役割的な階級しか存在せず、スクールカーストはそれ以外の「恣意的な階級」を扱っていて、しかも確固たるものではないから。スクールカーストがトップのやつでもうんこ漏らせばうんこまんになるんですよ!!!だから「ヤンが卿ならそう思う」なのですよ。いくらスクールカーストを定義したところで、学校や校内のコミュニティにおいてスクールカーストの性質はすごく変わって来ますので、厳密に定義することは不可能な訳で。結局は自分史観に落とし込むしかない。最後に何故に夕方ごろに「俺ガイルなんか読み続けると堕落する」に対して「だが人間は永久に堕ちぬくことはできぬだろう」という言葉を言ったのかというと、そんなに意識が強い奴なんか居ないんですよ。ここで「スクールカーストに批判的だが何もしない」読み手がいたとします。その人は俺ガイルを読んで溜飲を下げたとします。(実際はかなり違うのですが、ここではあえてそうします)しかし現実のスクールカーストは変わらないし、その人も社会にコミットメントしないと生きていけない訳で。そこで妥協せずに「カーストよくない!」とか思い続けていてかつ何もせずにいたらそれはそれで対したもの……というかある意味「意思が強い人」だし、もし変えて行くなら実際に行動すればよろし。まあ大体は妥協するしか無くなるんですけどね。結局はどこかでコミットメントせねばならないですよね。理想が高くない人がムキムキってあんま考え辛いんだが、や、草野さんの話。自称真面目系クズの人って大体理想が高すぎる結果だと思ってる
人のこと言えないが、このstr017って人青二才のこと好きすぎ。
平坂読はわりと西尾維新なので、表面的には癒し系でも中身はめちゃ殺伐としてるよ。
「俺妹」が読めるなら「はがない」も十分に楽しめると思う。特に最新刊。
「空パン」読んだあとは「丘ルトロジック」を。
アサウラの「バニラ」が良かったなら木ノ歌詠(瑞智士記)の「幽霊列車とこんぺい糖」を読むべき。
秋山瑞人はたぶん読んでるだろうけど、読んでなかったら「イリヤ」を。
あとは中村恵里加とか。
ああ、浅井ラボを忘れてた。
アニメ見て内容知ってんのに、「空想のはがない」とかなおさら意味不明だなwww
http://anond.hatelabo.jp/20111120125509
みたいな事抜かしてんだもんwww
それに対して
http://anond.hatelabo.jp/20111121002227
とかさらに突っ込み所満載な返信www
自演臭がプンプンするぜぇwww
リアクション遅いとか言ってるけど、別につねに貼り付いてる訳じゃないからなぁwww
ていうか結果的にレス貰えてるし?www
逃げ打ってんじゃねぇよwww
内容読んでねぇやつの口からトモちゃんだの、トモプラスだのの単語出てくる訳ねぇだろwww
おかしいだろwww
う そ つ け w w w
これってあれだろ? 赤い椅子と黒い椅子が掛け合い漫才してるやつだろ?
全然方向性が違うじゃねぇかww
あの動画は「僕は友達は少ない」を読んでない事を前提に、あくまでタイトル「だけ」に突っ込みを入れてる(しかもあくまで笑いとして)
内容を推測したり、あらすじを読んだりはしてるけど、別に内容の是非には触れてない。
だけどお前のアレは、本を読んだ上で、内容に批判を入れてる。しかもガチでだww
いろいろと予防線張りまくってるけど、お前が「僕は友達が少ない」の内容に不満を持って書いてあることは明白だwww
いやー、見事な好対照だなwww
あ、思いつきってそういうことか?
「僕は友達が少ない」に対する批判を全く反対方向のアプローチをするっていう・・・
んなわきゃねーなww
僕は友達が少ないへの批判文書いたら、逐一細かく突っ込み入れられたから
「実は俺、はがない読んでないもんねー、あれは俺の空想のはがないに対する批判だもんねー、だから実際のはがないを使って反論しても無効ー、バリアー」
って言って逃げてるだけだろwww
そもそも、空想のはがないに対する内容の批判って意味わかんねぇよwww
これが本当だったらこいつは読んでもいない本の内容を自分で妄想して、それに対して自分で批判するっていう意味不明行為だぞww
何がしてーんだよww
しかも、最後はその「僕の考えた空想のはがない」をけいおんだの、マトリスクだの、君に届けだのと実在の作品と比較までしてやがるwww
本当に何がしてーんだよww
それともこれも空想のけいおん、空想のマトリクス、空想の君に届けと比較してるのかなwww
まさか今度は、本は読んでないけどアニメは見ました、とかいわねーよなww
あ、言えねーか
言っちゃってるもんなww
「空想のはがないについて語ってる」ってwww
顔真っ赤にしながら、それでも華麗にスルーしてるように見せたかったんだろうなwww
残念だと思った2点ってのは、こいつが突っ込まれて痛かった2点だろww
内容に対する批判について突っ込まれたから「空想」って事にして、反論できねぇ様にしやがったww
あまりにもあからさまな、突っ込みどころありまくりな、分かりやすすぎる負け惜しみww
だからこっちから先に突っ込んじまったけど、もう一方もあまりに酷いww
<「視野狭窄」で「自分だけの世界」に籠もってるなんて、キャラとして未熟もいいとこじゃない?>とありますが、あなたと私では価値観が逆転の関係にあるということがわかっているはずですよね。それを踏まえた上で遊ばないと面白く無いですよ。
まず、引用するならちゃんとしようや。
そんでこの反論書いてるやつはこう続けてるぜ
つまり反論してる奴は「イヤ別に、はがないのキャラって取り立てて珍しい状態じゃないよね? こういうキャラが出てくるお話なんてごまんとあるよね?」
って言いたいんだろ。
初登場時でこの程度のキャラ立ちしてる作品なんて、(特にラノベ、漫画じゃ)別に珍しくないのに、なんで僕は友達が少ないだけ、そんなに執拗にこだわってんのか?
って話だろうがよww
実際、夜空とか星奈とか理科とか小鳩とか、割とステレオタイプなキャラだよな。
っていう突っ込みに対して、何も言えないから「価値観」とかの問題にすり替えた訳だwww
正確に言うなら「価値観が違うから反論しても意味ない」と言って反論を放棄した訳だwww
まぁでもこいつも出なおしてこいなんて言っちまってるあたり、相当苛ついたんだろうなwww
自分は言いたい放題人の作品悪しざまに言っといて
それに突っ込まれたら、嘘とすり替えで逃げやがってwww
もし、ここまで読んだやつがいるなら
http://anond.hatelabo.jp/20111119082328を読んでみてくれ
こいつ自分の考えた、妄想ストーリーに突っ込み入れてんだぜwww
ホントに笑えるわwww
もちろん悪い意味でなwww
書いたご本人に、お返事頂いちゃいました。
わざわざあんな文章なんかを読んで下さって、ありがたい限りです。
ありがたついでにご指摘の点についてお返事させて貰います。
お恥ずかしい話ですが、僕はあなたがはがないを呼んでいるものと思っていました。
それを前提にして、あの文章いろいろいじくりました。
ですから空想のはがないについて語ったのでしたら、なるほど、僕の指摘は的外れでしかないですね。
イヤー本当に恥ずかしいですね、コレ。
僕とあなたで価値観が逆転関係にあると言う事は、流石に自覚していましたが、ここら辺もう少し上手くやればよかったですねぇ
あ、これご指摘頂いた順番と逆に答えちゃってますね。
また恥さらしちゃったなぁ
ところで、この方が参考にした動画ってのは多分これ
僕自身ははがないをこんな風な目で見た事が無かったので、斬新な切り口で面白い文章だなと思った。
なのでちょっとこの文章いじくって遊んじゃおうかなって思います。
アニメがつまらないというか不愉快な出来なので仕方なく文庫を手にとって読んでますが、面白いすなぁこれ。強烈にグロテスク。
これ村上春樹が好きな人(特に初期)には受け入れがたい作品じゃないかと思うわ。村上春樹の小説に不純物を混ぜ混ぜ込んだゲテモノ食い料理にしか見えない。
ここまで言っておいて、
こんなフォロー入れちゃうのは、叩かれるのが怖いからかな?
何が面白いって普通の話と逆の方向に進んでいってるってところがいい。
たいていの物語は、未熟な登場人物が、イベントとか試練を越えて成長し、
って言ってるけれど。
「視野狭窄」で「自分だけの世界」に籠もってるなんて、キャラとして未熟もいいとこじゃない?
そういう風に自分の殻に籠もってた奴が、色んな人との触れ合いで心開いていく。なんて、世にごまんとあるストーリーだし。
むしろ、順行してるよね。
この一文で思ったんだけど。
要するにこの人が言いたいのは
初期のキャラ設定が好きだったのに、話進むにつれて段々キャラが変わって行ったのが嫌ってだけの話じゃないの?
その台詞言った人って、その後友人どころか彼女まで作ったって話ですぜ、親分。
初登場で「あたしも友達がほしいのよ!」と叫んだのは君の好きな初期状態の星奈だよ。
星奈がギャルゲにハマったのって、隣人部に入ってからだよね。この人のいう初期状態ってどこから、どこまで?
っていうか、現実の友達なんかギャルゲ以下って思ってるんなら、さっさと退部して家に籠もってゲームしてるだろ、星奈の場合。
トモちゃんに劣るし
「タカ」がいるじゃん。わざわざ、その為に隣人部作った様なもんだし。っていうかここでは夜空も例外じゃないんだね。
せめて「発明」にしようぜ、理科ってそこまで腐女子キャラでもないし。
っていうか理科も、隣人部行きたくないなら、それこそ理科室に籠もってるだろうよ。
あにきの方が格好良いし
眷属もいない
そう言えば、クラスメートには姫って呼ばれてたね。
っていうか夜空についてはトモちゃんを引き合いに出したのに、小鷹については触れないんだね。
つまらない事この上ない。
それは「君が見てて」って話じゃないの?
視野狭窄と言われようと何と言われようと、自分だけで世界を閉鎖系として完成させることができるなら、
今の状態こそが一番幸せじゃない?ね、みーくん。
そうだね、他人に何と言われようと、自分が幸せだと思う事をするのが重要だと思うよ、逆に言うなら、自分が思う幸せの形を押し付けちゃいけないよね、まーちゃん。
この人のいう、隣人部の結成時点ってどこだろうね?
夜空&小鷹コンビの時? 星奈が入った時? 小鳩が入るまで?
お前がそう思うんならそうなんだろうよ、おま(ry
嘘ついたって、傷つけるし、嫌われるし、潰されるけどね。
むしろそっちの方がよりルールとして広く活用されてるよね。
だけれども、その正直を許しあう、ただそれだけの関係。
特に夜空と星奈。
コミュニケーション?なにそれおいしいの?
そんな感じの人が一人なら良いけど、二人いるからねぇ……。
結果、一方の意見にもう一方がガンガン反対するっていう。ええ、あの二人ですよ。
あの状況下で誰にも手を出さない小鷹はある意味凄いよね。
うん、だからさ。それは単に君がキャラの初期設定が好きだったってだけの話じゃないの?
これを読んだ人は他にこんなものを読んでますの欄に「完全自殺マニュアル」「自殺サークル」「20歳の手記」が並んでても驚かないね。
これってブーメラン? もしかして君の本棚にある本を挙げたのかな?
ちなみに僕はどれも読んだ事無いよ。
叩かれないように予防線張りまくりの君の文章も、読んでて吐き気がするよ。
もちろん褒め言葉さ!
小鷹とカップルになりそうなのは、夜空、星奈、理科、幸村の四人だけど。
夜空とか、嬉々として二人の仲を裂きに行きそうだし。
星奈は、なんだかんだですぐに立ち直りそうだし。
幸村は、けなげに小鷹の舎弟続けそうだよね。
個人的にはこだかさんと夜空以外は、無理に友達なんかつくろうとせずに、
自分の世界に籠もる幸せは容認できるのに、皆と馴れ合っていく幸せは容認できないんだね。
結局この人もタイトル詐欺に引っ掛かった一人なんじゃないだろうか。
友達いなくても孤高に生きているキャラを期待して読んだら、最初の方はそれっぽいキャラ設定だったけど、結局馴れ合いみたいな感じで仲良くなっちゃって、なんだかんだ仲良しグループになったのが気に食わなかったとか?
作品だけじゃなくて、読者にまで毒吐いてるあたり、相当苛ついたんだろうね。
んでまぁ、そんな馴れ合い状態への嫌悪感を、叩かれないようにオブラートに包んで出来たのがこの文章。
僕の読解力だと、そんな感じにしか読み取れなかった。
夜空と星奈はガチでぶつかりあってるし、っていうかあれが馴れ合いだったら凄いわ。
小鳩とマリアもだね、こっちは見ててほほえましいけど。
理科は、小鷹に分かりやすいくらい分かりやすくアピールしている。
小鷹だって、隣人部の部員となぁなぁでの付き合いはしていない。
確かに、友人を作る事を目的にした部活で、具体的に友達を作る為に何かする訳でもなく。(小鷹はちょこちょこ頑張ってるけど)
実際には予行演習と称して、部員どうしで遊びに行きまくってるのに、
「もう俺らって友達じゃないの?」って所に触れてない辺りは馴れ合い臭いけどね。
だけど、友達作れない不器用な連中の、そんな馴れ合いは、少なくとも僕は見てて不快じゃない。
それをグロテスクと評したこの人は、きっと一切の馴れ合いを許せない孤高の人なのだろう。
要するに何が言いたいかと言うと、
次は堕落論とか白痴のエッセンスをラノベ化しないか?舞台は敗戦間際の仮想日本で、オタク活動にいそしむ4人のキリーロフね>作者様