はてなキーワード: 文庫本とは
母がスヌーピー 好きなんだけど4コマの日本語訳付きの文庫本シリーズ全巻持ってて私も全部読んだ。多分40冊くらいあったかな。
初期の方の絵柄のやつは無かったから連載全てを網羅してたわけではないと思うけど。
スヌーピー のアニメもあって母が買ったビデオテープを子供の頃何回も見たよ。
10年くらい前に六本木ヒルズでやってたスヌーピー の原画展に行ったけどめちゃくちゃ混んでた。全員が漫画を一通り読んでるとは思わないけどファンはたくさんいる。
どこから来たムーブメントなのかなぁ、母が若い頃にアメリカ文化ってことで多少流行ってたのかな?
登場人物は子供と動物のみで、大人は存在するけど描かれることはない。
何も良いところはないけど心優しいチャーリー・ブラウン、
チャーリー・ブラウンの友人のライナスは「ライナスの毛布」で有名、
ライナスの姉でよくチャーリー・ブラウンをからかって遊んでいる意地悪なルーシー、
等々他にも沢山いる登場人物達が子供のくせに落ち着いたトーンの会話とユーモアでクスリと笑わせてくれるんだ。
チャーリー・ブラウンはやることなすこと上手くいかないけどのび太みたいに一々大騒ぎしない。
「僕っていつもこうなんだ…」みたいな感じ。
諦念というか受容というかそんな感じ。
チャーリー・ブラウンの飼い犬のスヌーピー は犬なのに二足歩行だけど声を出して喋るわけではない。
でも思考はめちゃくちゃしていて哲学的だし、弁護士、作家、パイロット等にもよくなりきっている。
バイタリティと妄想力に溢れるスヌーピー とそれに振り回されるチャーリー・ブラウン、という構図がよく繰り広げられている。
「あのおかしな犬をなんとかしなさいよ!チャーリー・ブラウン!!」とかよくルーシーに叫ばれている。
そんなスヌーピー のキャッチコピーは「 The World's Most Famous Beagle(世界で1番有名なビーグル犬)」
TM Networkドンピシャ世代(中学のクラスではX派とTM派に分かれていた)
新社会人の頃に洋楽コンピのNOWシリーズとかが流行ってJamiroquaiとかあそこらへんを浅く薄く聞きまくってた
全て浅すぎて音楽好きとは言えないんだけど、まあ普通?ではあると思うんだよ
通勤中は文庫本消化(読むときに音あると邪魔に感じる派)、帰ってからはアニメ/ゲームの俺に音楽は遠い存在になっていったんだが
いつしかアニメ/ゲームがYouTube(2010年くらいまではニコニコ)をぼーっと見るという無為極まりない時間に変わり
気がつくと、VTuberってプレイリストを作ってヘビロテしていた。
思い入れ>技巧 なんだろうな
それは俺がごっつ見てなかったからなんだろう
通学通勤の電車の中では文庫本読む(ジャンルは、ラノベ、ミステリ、ホラー、エンタメ等、純文学以外の小説ほとんど)
学生時代にバイトして買った何百冊+ちょっとずつ買い足しで、結構な冊数になってて、結婚してお小遣い少なくなっても、読み返し+気になった作品は旬が終わってから図書館で借りるで、すごく低予算の趣味だった。
おじさんだし、転生したかったし、無料だし元々ラノベも読んでたしで、異世界転生が流行り出してからのなろうはほんとになくてはならないサイトだった。
本屋で売ってる本がちょっと高級な料理だとしたら、なろう小説はジャンクフードみたいな感じで、構えて読まないし、ちゃんと噛みしめて味あわない。
ご飯だったら、たまには美味しいもの食べたくなるんだけど、ここ数年”本”を読んでない。
食ってのが三大欲求の一つであるのに対して、読書ってのは数ある娯楽のうちのひとつってのだからなのでしょうかね。
好き嫌いが多くて飽きっぽいから完結までちゃんと読んだなろう小説は少ないんだけど、そのうちでちゃんと感動したりした作品って5作もないのよね。
俺自身は、本にせよ映像作品にせよ、一度目こそ一番感動すると思っている。
だから、一度目に読んだり見たりするときは、一言一句漏らすまいとできるだけ集中する。
ゲームなんかも同じで、好きなゲームを「記憶を消してもう一度やりたい」と思うタイプだ。
二度目以降は集中するときもあればながら見、流し読みということもある。
それに対して、俺の知人は真逆らしい。
それで流れを把握して、好みなものだったら集中して繰り返すんだそうで。
例えば本なら読むスピードが上がるというメリットもあってそこは良いなと思う。
俺は上に書いたような姿勢で読むから、文庫本一冊読むにも三日がかりだったりする。
増田たちはどうしてる?
前半はこちら↓
https://anond.hatelabo.jp/20210306213555
結局のところ、このイシグロ氏のインタビューの浅さ、つまらなさは、インテリ向けの文学芸術業界という自分の属する世界を世界全体であるかのように錯覚して語っているところにある。
その上で、あくまでもそういうインテリ業界や文学芸術業界への提言、また自戒としてイシグロ氏の発言を読むなら、部分的に同意できないこともない。イシグロ氏は「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術も必要です」と言う。必要かどうかはわからないが、非リベラルの人が思想や感情を表現した芸術があってもいいというのはその通りだろう。リベラルの原則からしても、非リベラルの人の表現の自由を制限するのは筋が通らない。ただしその表現を批判する自由もあり、表現する以上は批判を受けるリスクは負うべきだというだけだ。
しかしここでもやはりイシグロ氏との現状認識の断絶は感じる。イシグロ氏から見ると世界はリベラルが作った芸術ばかりらしいが、少なくとも私は日本に生まれ育って、「リベラル以外の人たちがどんな感情や考え、世界観を持っているのかを反映する芸術」の方を圧倒的に多く目にしてきたと思う。そもそもポリティカルコレクトネスなどが日本で多少とも意識され始めたのはごく最近のことであり、それ以前の言論にせよ芸術にせよ、今の視点で見れば差別と偏見にあふれているものが普通だ。
たとえばイシグロ氏と同じくノーベル文学賞を受賞した川端康成という作家がいて、日本ではいまだに高く評価され、小さな書店にも文庫本の数冊くらいは置いてあるだろう。私も過去にいくつも作品を読んできたが、同時に忘れられない言葉がある。ある時私の母親が言った「若い時に川端康成を読んで、女は芸者しか出てこんのかと思った、芸者にならにゃいけんのかと思った」というものだ。私は芸者という職業は否定しないが、ここで問題なのは芸者の側ではなく、女性を極度に美化しつつあくまでも鑑賞される客体として描きがちだった川端康成の視線の方である。現在の目で見て、こういう川端康成の視線が女性蔑視的要素を含まないということは難しい。
また私は十代の頃に太宰治を読み、貧しく教育のない芸妓を買い取るようにして妻にした挙げ句、その妻が他の男と寝ていたというので絶望し、何やら自分が裏切られたかのように荒れている主人公(これは作者自身の体験に基づく)の思考回路がよくわからないと感じたことがある。しかし当時の私はまだ、そんなものはわからなくていいと突き放すことができなかった。そこであれこれ想像力を駆使しつつ、そういう「苦悩」に何とか共感できないかと努めた記憶がある。ずいぶんと「理解しがたい他者」に耳を傾けようとしたものだ。その後フェミニストの批評に触れたりする中で、共感できなくて当然だったといつしか思うようになったが。『男流文学論』や『妊娠小説』を笑いつつ興奮しつつ読んだ日を思い出す。
私の世代には、そういうフェミニスト批評のように、また女性自身による新しい表現のように、男性作家の視点を相対化してくれるだけの「他者の声」が辛うじてあった。その他の多様なマイノリティの視点から作られる芸術も探せばそれなりにあった。しかし古典とされるようなものは言うまでもなく、世間で人気のあるもの、話題になっているものは多くがリベラルでも何でもなく、機械的に「差別語」を排除したりする他はポリティカルコレクトネスにも多様性にも無配慮なのが普通だった。それにもかかわらず、「逆差別」だの「自虐史観」だのとリベラル側の価値観を攻撃する言説は早々と巷にあふれていた。私は左翼だが、小林よしのりの作品をいくつか読んだことがある。周りで流行っていたからだ。小林よしのりは「じいちゃんの死は無駄だったというのか」といったまさに感情に訴える手法で保守派の戦争観を広め、当時の若い世代にかなり影響を与えた。
イシグロ氏の周りはどうなのか知らないが(と皮肉を込めて言うが)、日本の書店というのはいまだに「嫌韓本」が山積みにされたり、保守論客の歴史本がベストセラーになったりしている。イシグロ氏の小説を読むようなインテリ層の一部はそれに眉をひそめるかもしれないが、現実として、日本にはずっと「リベラル以外の人」の表現があふれ、どこにでもいる「リベラル以外の人」がそれをのびのびと享受している。「ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許」である社会などいったいどこにあるのだろうか。私は見た覚えがない。
「小説であれ、大衆向けのエンタメであれ、もっとオープンになってリベラルや進歩的な考えを持つ人たち以外の声も取り上げていかなければいけないと思います。」そう思うのかもしれない。「私は人生の大半を進歩自由主義的な考えのもとで心地よく過ごしてきた」と言えてしまうような人は。この言葉が移民であり民族的マイノリティであるイシグロ氏の口から語られることは、イギリス社会の成熟を示すものでもあるだろう。
しかしあいにく、私の住んでいる世界はイシグロ氏の世界とは違う。イシグロ氏の世界にしても、単にイシグロ氏に見えていないだけで、リベラル的価値観の過剰ではなくその不足に苦しんでいる人がまだたくさんいるだろうと私は思う。私はリベラルとして非リベラルの発言権を奪えとは言わないし、またその声に耳を傾ける人がいてもいいと思うが、私が日本社会でより多く耳を傾けたい声は、やはり非リベラル的社会が長らく抑圧してきた、今も抑圧している声の方である。
ところで、私は川端康成や太宰治の作品に差別的な要素があると言ったが、かれらの本を絶版にしろとも、教材に入れるなとも、子どもに読ませるなとも思わない。差別的要素があるからといって作品全体が否定されるべきだとも思わない。私は川端康成の文章の美しさも、太宰治の小説の面白さも理解することができる。それに価値がないとは言わない。
「キャンセルカルチャー」という言葉が指す状況を私は詳しく知っているわけではないが、作者がある場面で「政治的に正しくない」言動をしたからといってその作品を全否定したり、市場から完全に追放したりすることは私は支持しない。差別思想の公的な表明は批判されるべきだが、芸術表現を直接的に規制したり、作品を抹消したりすることは慎重であるべきだと思っている。
この点はおそらくイシグロ氏の考えと私の考えは近いだろう。芸術を総体として愛するならば、自分の嫌いな作品、理解しがたい作品が生まれてくる可能性も含めて愛さなければならない。私は現在の視点で川端康成や太宰治の表現の一部に批判をもっているが、その批判を表明する方法は作品を焼いたり隠したりすることでは決してなく、批評や新たな作品で相対化していくこと、注釈を書き加えていくことだと思っている。
ただし同時に、かれらの作品にも行動にも現在から見て許しがたい要素があること、それは当時には自覚も変更も難しかったかもしれないが、今後の社会に引き継ぐべきではないこと、そこを否認するつもりもない。作品は消さないが、今後も読まれ続けるのなら、そういう観点からの批判も作品自体と同じくらいに読まれ、語られるべきだと思う。もし川端康成を教室で読むのであれば、教師にはその美しさだけでなく、その女性の描き方が一方的であったり一面的であったりすること、フェミニズムを通過した視点でどう見えるかというようなことにも学生の注意を促してほしいと思う。これが過剰な要求であるとは私は思わない。
最後に、イシグロ氏が述べている「感情」というものについて少し違う角度から見ておきたい。最初に書いたように、私は政策決定などにおいて事実や科学的根拠より感情が優先されるような事態は望まない。この点ではイシグロ氏に同意する。
しかし人間の感情というものが社会のあらゆる場面で抑えられるべきとも、それが可能とも思えない。イシグロ氏の主張を大きくまとめると、現在の世界(実際はイシグロ氏の属するインテリ業界)はリベラル側の感情を優先しすぎるものになっているので、感情優先を抑えると同時に非リベラルにももっと発言の場を与えるべきだ、と読める。私はこれには同意できない。
まず現状認識が違い、芸術の世界がリベラルに席巻されているようには到底見えない、というのが上に書いたことだが、それとはまた別に、文学や芸術の世界でまで政策議論の場合のように感情を排除する必要はないだろうと思う。イシグロ氏は小説家として、感情を重視する文学がトランプ支持のような不合理に加担した可能性を反省しているのかもしれない。しかし思うに、それはそれで文学の買いかぶりというものだ。感情に訴え、感情を揺さぶるものは文学や芸術の他にもいくらでもある。むしろ現実の生活が多様な感情を強く喚起するからこそ、それを芸術に表現し直すことが対象化や客観視の手段になりうるのだ。そして文学芸術は、合理性を追求する世界からこぼれ落ちる感情や思想の避難所としての役割をもっている。人間が完全に「合理的」な存在に変化しない限り、この役割がなくなることはないだろう。科学的エビデンスに基づいてワクチン政策を決めるように自分の人生を生きられる人はいない。そんなことを個人に求めるべきだとも思わない。
また、イシグロ氏の言う「リベラル」に人種的、民族的、性的その他の抑圧されてきたマイノリティが含まれるのだとしたら、かれらが時に強い攻撃性をもってその感情、蓄積されてきた恨みや怒りの感情を表現することを私は一律に非難したくない。被差別者の表現が時に復讐的な攻撃性をもっていたり、「逆差別」と見えるような偏見を含んでいたりすることはある。それ自体はたしかに「良いこと」とは言いがたい。しかしこれもまた現状認識の問題になるが、今の社会でマイノリティがマジョリティを攻撃するような表現を公然と行えば、より危険にさらされるのはマイノリティの方である。だから圧倒的多数のマイノリティはそんなことをせず、むしろ感情の抑制に非常に長けている。
BLMを暴力的だと言って眉をひそめる人を数多く見たが、私が以前から思っているのは、もし黒人たちがその何世代にもわたる奴隷制の怨恨を復讐としてそのまま投げ返したなら、アメリカの白人社会はすでに何度廃墟になっているかわからないということだ。しかし現実はそうなっていない。現実のマイノリティは、時に攻撃的に見えることがあるとしても、総体として恐ろしく理性的で自制的で、そして寛容なのだ。何一つ復讐も、感情を表現することもできずに埋もれていった膨大な被抑圧者の忍耐の上に今の社会は維持されている。多くの被差別者は、深い痛みを抱えながらも、求めるのは復讐ではなく次世代が幸せになることだと穏やかに語る。その中から時に感情的な表現が投げかけられたとして、それを感情的だと単純に排除することを私はためらう。
ずいぶんと長くなってしまったが、ふと書く気になったので書いた。まだいくつか書き残している気もするが、土曜も一日つぶれたことだしこのへんで。
ニュースで女の子が死んだ話が流れたら、世の中の人の大半はそれを知って悲しむ。悲しむって言うのはまあネガティブ方面の感動で、感動ってのはお金になるんですよね。
フィクションにおいての死も(300ページくらいで終わる文庫本でよくありますね)どれだけの人を感動させただろうか。
少女ではなくても若い女性、特に若いご夫人の死なんかも感動を与えてくれますねえ。遺影を持った遺族の姿がまた感動を世間に与えてくれます。
現実にしてもフィクションにしてもみんな女の子が死んだことによって感動したいんですよ。だからこれからフィクションを創造する人たちは、とにかく女の子をぶっ殺せばいいと思いますよ。
残虐なことをやって憤りを感じさせるのもよし、苦しみに苦しみ抜いて思いを伝えて情緒ある涙を誘うのもよし、あるいは誰かのために自己犠牲をする高貴なものを描くのもよし。
男? 少年とか有名人だったら少しは感動を与えてくれるけど、ま、お金に繋がる人は稀ですね。
誰にも迷惑にならずに死にたいのなら、未婚の有名ではない成人男性を三人ぶっ殺せば静かに死刑判決が出て人権団体も一切抗議せずに死刑執行されると思いますよ。なにせ感動も与えないしお金も儲けられないので。
殺人は迷惑なこと? いやいや未婚で冴えない成人男性なんて少なくとも日本では一番代替が効く存在なんだから関係ないでしょう。
・最初期型のタンデムステップはスイングアームに直付けなので悪路だと足が浮くらしい
・密着されたらサイズあんま関係なく背中にポヨンフワンを感じた
・貧乏だったけど時間は(売れるもんなら)売るほどあった、ネットもなかったし夜中に街中をブッ飛ばして深夜営業のドーナツ屋にわざわざ文庫本を持ち込んで読んでた
子供のころ、両親共働きで帰りも遅くて、地元の公民館にあった図書室に入り浸ってたから色々小学生で読んだら不味そうな本とかも読めて学校の図書室より面白かった
公民館のイメージが地域によってバラバラみたいだけど、基本毎日9〜19時くらいまで開館してて、事務所にいつも何人か職員の人がいて、老人がカルチャー教室とかで集まったり、地域の会合とかがあったり、ちょっとしたホールがあって演歌歌手のどさ回りがあったりする感じのやつ
子供向けの本のコーナーは全体の1/4、郷土資料とか図鑑とかが1/4、あとは娯楽小説とかのハードカバーって感じだった(文庫本や漫画は確かなかった)
佐藤ラギのギニョルとか、当時意味わからないなりになんかヤバいものを読んでる…と思ってたりしてめちゃくちゃドキドキした
高校生になると市の大きな図書館が高校から歩いて30分くらいにあったからそこでも毎週上限まで借りて、高校の図書館は文庫本が多めだったからそこでも毎週上限まで借りて、めちゃくちゃたくさん小説を読んでた。
新書とか論評とかは全く興味なくて今に至るまで読んだことがない。あれだけ流行ってたバカの壁とかも読んでない。
高校の図書館は毎年貸出冊数の表彰してくれてて三年間毎年図書カードをもらってたし、国語のテストや模試の成績だけはいつも良くて、現代語の小説しか読んでないのに古文や漢文も小論文も苦労なく解けてた。
大学ではオタクになって、生活費を削る勢いで商業BLの小説と漫画を読み漁った。
それなのに就職したら全く本を読まなくなった。文庫本一冊読みおわるまで集中力もたなくて何度も中断して結局よみかけの本がたくさん棚にある。
その代わりにずっとTwitterみてる。いろんな人の本当かどうかわからない呟きも小説みたいなもんだな〜と思うとダラダラと何時間でも見てられる不思議
あれだけ本読んでた私が本読まなくなるほど高負荷の労働をそれなりにこなして、趣味にも家庭にも力入れられるとか世の中の人どうなってんだろな…偉すぎる
実際に高負荷だった新卒で入った会社を辞めて、楽な方に楽な方に流れてきて、月の残業10時間未満の仕事に就いてるけどそれでも土日は布団でゴロゴロしてるとすぐ終わるし、平日も20時に帰宅して飯風呂即布団みたいになるし…
まとめると、本に簡単にアクセスできる環境で育ててラッキー、多読してる分国語の成績は良いけど他の教科の勉強してないからトータルするとバカの部類、労働は体に悪い
こう書くと妻にATM扱いされた夫の話だと思われるかもしれないがそうではない
読んで字のごとく、自分がATMの中の人として働いたときの話である
今から20年ほど前、某金融機関に入社した私は適当な集合研修を受けたのち、とある支店に配属された
今では多くの金融機関はATMの管理・現金装填を警備会社へアウトソーシングしている ただ当時はそういった雑務も全て職員の仕事であった
郊外の支店であれば比較的平和だったのかもしれないが、私の支店は繁華街のど真ん中にあり、周囲は飲み屋やパチンコ屋、場外馬券売り場などに囲まれていた
そうなると客層は当然悪い
紙幣しか入らない投入口に硬貨を投入しATMを壊そうとするおっさん(口座残高が800円だったので200円入れて1000円にして引き出してパチンコに行きたかったらしい)
「UWF銀行に振込したいのに画面に出てこない」と怒鳴るおっさん(どこの格闘技団体だよ)
紙幣にゴムをつけたまま入金しようとするおっさん(面倒でもゴムは自分ではずせ) などなど
そしてそういったATMトラブル以外にもう一つやっかいだった仕事がATMの現金検査である
これは抜き打ちで行われ、朝出社すると上司から「増田君、今日3号機と5号機の検査ね」と通告される
土日にATMの現金が足りなくなっては一大事なので、金曜の夜にはATMに相応の現金を装填する
これを悪用して金曜の夜にATMから1000万円ほど抜き取り土日の競馬で単勝1.1倍の銀行レースにぶち込み1100万円に増やして1000万円は月曜朝に元通りに返却
そういった手口で着服していた職員が過去に居たらしく、抜き打ち検査は週明けを中心に徹底的に行われていた
ATMを利用停止状態にしたうえで、現金精査ボタンを押すと10分程度でATM内の現金残高が表示される
そののち、中のお金を抜き取り全部数えたうえで上司立ち合いのもとでチェックを行う これだけで1台あたり40~50分はかかってしまう
その間もおっさん客たちはあの手この手でATMを破壊しようとするので、私は朝から晩までATMのメンテナンスに追われていた
最初のころはいくらやってもエラーから復旧せず業者を呼んでいたのだが、自費でピンセットやエアースプレー等を購入した成果もあり、いかなるエラーでもすぐに復旧出来る腕前となっていた
週末の現金装填についても、当初は適当にやっていたので現金不足や現金入れ過ぎになっていたが、支店周辺の情報収集を隈なく行い、
「明日は隣のパチンコ屋で北斗のイベントなので装填額普段の2割増し」「日曜は宝塚記念なので現金目一杯いれて帰ろう」などしっかりした予測が立てられるようになっていた
ATM担当となり半年が経過し、本来ならジョブローテーションで私はもう一人の新入社員と職務を入れ替わる予定だったのだが、そいつが休日にフットサルをやっていてアキレス腱を断裂するという
とんでもないことをやらかしたせいでさすがにATM担当は無理という話となり、これまで同様にそいつは融資事務見習い、私は引き続きATM担当を続けることとなった
当初は重労働だったATM担当も慣れてしまえばなんのことはない 鼻くそをほじりながらでもエラー復旧が出来るようになった私は適当に仕事をさぼりはじめた
ATMの裏は個室となっており客からも他の職員からも見えない そのうえ空調も万全なので居心地もよい 私はこっそり持ち込んだ文庫本を読んで暇を潰していた
そんな私にとんでもない天敵が現れた 今では誰も見ることもなく手にすることもない、そう幻の二千円札の登場である
ATMメーカーは二千円札に対して必要最小限の改修で対応した 「二千円札は入金可能だが出金は出来ない」というシステム変更である
通常のATMは千円札と一万円札は循環(他の顧客が預け入れた紙幣を、別の顧客の支払に充てる)させているが、五千円札や二千円札はその他紙幣用のボックスに収納する仕組としている
通常であればその「その他ボックス」に入るのは五千円札か使用に耐えないくらい損傷した紙幣だけ なのでその他ボックスはかなり小さめに作ってある
そこに二千円札が入るようになってしまったのでその他ボックスが満タンになるというエラーが発生するようになってしまった その都度ボックスから現金を抜き取る作業に追われる私
「まあ二千円札も目新しさでみんな使ってるだけで、すぐに流通しなくなるだろう」そう考えていたところ、二千円札の不人気ぶりに業を煮やした日本銀行はとんでもない手を打ってきた
日本銀行の金庫に山のように積まれた二千円札をどうにかして市中に出すため、各金融機関に対して二千円札の使用を義務化してきたのである
金融機関は新札が必要なときには、日本銀行から必要な分だけ都度引き出す
その引き出しの際に「必ず一定の割合二千円札を引き出すこと」という頭のおかしい通知が出され、日本銀行内に山積みされていた二千円札が市中の金融機関の金庫へと運び込まれていった
しかしながら窓口で二千円札を引き出そうとする顧客はほぼいない 仕方ないので職員に対して「給料支給日には二千円札で現金を引き出して持ち帰ること」という社内通達が出されてしまった
職員はとりあえずは二千円札を持ち帰るが当然使い切れるわけもないので、適当な頃合いを見てこっそりATMで入金する
「窓口で二千円札を引き出して持ち帰る」⇒「使い切れないのでこっそりATMで入金する」⇒「二千円札が大量に入金されてATMでエラー発生」というコンボが完成し、私はエラー対応に追われた
入社2年目の四月、私は1つ下の新入社員にATM担当を引き継ぐはずであった
しかし残念なことに、当支店に配属される予定であった新入社員が入社後の集合研修中に退職するという面白イベントが発生し、私は更に続投することとなった
9回を投げ終えてベンチ裏でアイシングしていたところで、「ごめん、明日以降に備えてリリーフ陣を温存しておきたいんで延長も投げて」と告げられた先発投手の気分を味わいながら私は引き続きATMを直し続けた
そしてある日、「自分が入社したのは日立でも富士通でも沖電気でもねえぞ なんで俺は年中ATMをメンテしてるんだ」ということに気付いた私は会社を辞めることにした
金融機関は何気に離職率が高いので2~3年目の職員が辞めることは別に珍しい話ではない
一応形式的に引き留められはしたが、私の退職の意思が固いことが分かるとその後は事務的な手続きが進められ、申出の翌月末には退職することが出来た
出社最終日、業務終了後に挨拶を終えると支店長と職員一同からそれぞれ餞別を頂いた
「1年ちょいで辞めた自分にもわざわざ餞別を渡すのか」と思いながら受け取ったが、帰宅後に封筒を開けると中には二千円札が数枚
その瞬間私の感傷的な思いは一気に吹っ飛び、「ふざけんなよ!このクソ紙幣のせいで会社辞めることになったんだろうが!」とブチ切れてしまった
自室の机の引き出しを開けると、引き出したあとで使い切れなかった二千円札が10枚程度あった
自分の身の回りからすぐにでも二千円札を消し去らなければと考えた私は手許の二千円札を全て財布に入れ、夜の街へと出かけた
数万円程度のまとまったお金を一晩で使い果たせる場所はどこだろう、色々と考えた私は繁華街にあるラブホテルへ入りそしてデリヘルへ電話をかけた
30分ほどして、ドアがノックされ若くて綺麗な女の子が入ってきた
シャワーを浴びベッドで色々と楽しんだのち、女の子の方からOKを出してきたので私たちは二身合体を果たすことが出来た
出すものを出し終わってずるりとちんちんを抜くと何もついていない 「えっ、はずれちゃったの」と慌てる女の子