はてなキーワード: 文庫本とは
私が超個人的な理由で欲しいと思い、完全に自分で楽しむために作ったので、誰にも売られることはないし誰の手に渡すつもりもない。
インターネットでバズり、有名になったnote・はてな匿名ダイアリー(俗に言う「増田」)・はてなブログの記事をコピーアンドペーストし、書式設定を整えて文庫本サイズに編集した。
以前からCiNiiなどで興味を惹かれる論文を見つけてはA4紙に印刷してホッチキスで留めて紙として保持して読んでいた。
理由は3つある。
三つ目は「とにかく文章を読みたい」。
率直に言うと、今回の本に関して、前者2つの理由は全く関係ない。ただ長い文章を読みたかったから紙として本を作った。別に記事をブックマークするに留めてもよかったのだけど、やっぱり記事は削除とかもされるだろうし、そういう事態が起きたときに、どうせ別の長文を読んで満足するだろうと思いつつも、やっはりあの時読んだ文章を読み返したいと思いはするので、これは紙に印字して物理的に所持しておいた方がいいだろうなというのがあった。
書式・タイトル・偉そうに序文まで書いたが、それ以外は全部他人のものだ。だから褒められたことではない。
だから超個人的なものだと書いたのだ。万が一この本を欲しいと思ったところで、そんなところに金を出すくらいなら自分で編集して一冊印刷してもらう方がはるかに安い。製本直送で印刷を依頼した。書式はイズナを使用し、メモ帳にまとめた全ての文章を一括でpdfに変換し、そのファイルを送った。pdf並びにtxtファイルの保存はいずれも有るが、誰にも渡すつもりはない。これは本来そういうものではない。
正直、このことは自分のブログで書きたかったがやめた。ここが自分の弱みだ。肝心なところで日和るんだ。
増田であっても特定はされるだろうが、ある程度時間はかかるだろうし別にいいや。
他人の感情を、わざわざ紙に印字するだけに飽き足らず、わざわざ本にまでして、わざわざそのことをインターネットに報告してしまうような変態野郎なんぞ、自分一人で十分だろ。
そこで防水加工の文庫本ですよ(どこに売ってんだ?)
飲みかけのチルドカップと充電中のスマホを窓の横に置いて、テーブルを上げる。充電中のスマホはきっと、東京に着くまで充電中のままだ。
キラキラとまぶしい朝日に照らされるチルドカップ。一口だけ飲んで、文庫本を開く。思い出したようにリクライニングを少し倒すと、いっそう眩しく感じられる太陽を遮ってカーテンを下ろした。
座席の前に馬鹿みたいに吊るさがってるレジ袋のくすんだ白も、新幹線の轟音に震えていると、ひとり旅を共にする仲間に見えた。
追いかけていた文字の羅列が、本と私の視界の間からだんだんとすり抜けていく。バラバラとこぼれる言葉にため息を落とし、窓の外に目をやった。どこか分からない街並みが、どこか分からない工場が、わたしの心のスイッチを「旅行中」に切りかえてゆく。車内のチャイムが鳴り、あの感じを思い出す。心地よい疲れの中、チャイムが鳴り、見慣れた景色が現れて、無事な旅の終わりを実感するあの感じ。ああ、今日の帰りは夜行バスを取っていた、と気づく。旅行の醍醐味は新幹線の帰りなのに。
乗り換えた自由席は存外に空いていて、すっきりした空気を吸い込みながらリクライニングを倒す。背もたれに寄りかかってもなんとなく落ち着かず、結局前に屈んで覗き込むように本を開く。こうすると、文章の波の中にゆっくりと沈んで行ける気がする。
パタパタと横を通る足音がして、わたしを囲んでいた波から浮上する。もうすぐ着くのか、と顔を上げると背の高いビルがあって、切り替わる途中だったスイッチは、旅行中へ完全に倒れた。
駅を出ると妙に人が溜まっていた。四角く空間を埋めるように並ぶ人々はみな少し年下であることに気づき、修学旅行生だろうと推測する。そろそろ修学旅行も行けるようになったのか、とひとり遠出している自分は棚に上げて思考が巡る。どの建物も、どの道路も見たことがないのに、駅の前をちろちろと歩く鳩だけは地元と何も変わらない。その変わらなさに安心とおかしみがある。
駅前の地図をさっと確認して歩き出す。こういうときに、考えすぎずに歩いて行けるのは私の好きなところだ。
会場に着くと、物販の列はまだ20人ほどしか並んでいなかった。新幹線を乗り継がずに在来線でも良かったかな、と思いながらも、これなら余裕で欲しいものが買えそうだと列に並ぶ。
もう一度文庫本を開き、世界とわたしの間を閉じる。さらさらと引き込まれる。
後ろに並んだ2人組が話し始めて、話し声が世界を切り裂いていく。ポーチの中にしまっていたイヤホンを取り出して耳に填める。これみよがしだったかな、と少しだけ思った。
会場内は独特のにおいがして、部活で訪れた地元のアリーナを思い出した。アルバムの新曲が延々とたれ流されて、点在するスピーカーを通過するたび音が大きくなって、小さくなって。その繰り返しがなんだかおかしくて、軽い足取りで先に進む。
ショッパーを肩にかけて会場を後にする。街並みは地元に似ているのに知ってる建物がひとつも無いのは恐怖にも似た寂しさがあり、それが肌寒さとなって身体を撫でる。並んでいる間に陽射しが暖かくて、コートを脱いだことを少し後悔した。
地元から数百キロ南に来たというのに気候は変わらず肌寒くて、耳にびゅうびゅうと風の音が流れ込む。耳の中に音楽を詰めて自分に蓋をしてしまいたかったけれど、見知らぬ土地で聴覚を投げ出すのは危ないと我慢する。耳に抜けていく風に、コートを脱いだことをもう一度後悔する。
今年の8月ごろから電車の通勤時間には『魔の山』を読んでいる。第一次世界大戦前のサナトリウムでの話で、話はゆっくりと進み、上下の文庫本はかなり分厚い。一日2ページしか読まないときもあれば、40ページ読むときもある。今日は、しおりの挟んであるところページを見開いて、眠かったので、右から左に2ページだけ読んで、本を閉じた。朝は下りの電車なので電車はすいている。座席は二人がけのシートが右側と左側にあって、今日は左側の窓側の席に一人で座っていた。この席についてから10分だけ本を読んで、あとは駅につくまでたった20分なのだろうけど、窓辺に肘を置いてうつらうつらしていると1時間以上あるように感じる。ふと、『魔の山』の風景が私の意識に混濁する。「こんなに遠いところに来たのだから、つぎにきっと戻るのは随分先になるのかもしれない……。」これはまったく間違った直感だ。私は通勤のために、毎日20分おきに出ている電車に乗って、乗り過ごしたのなら次の電車に乗って。この電車は、朝は私が起きる前から、夜は私がお風呂に入る時間まで動いていて、まったく時間的にも遠い場所ではないのに。でもそのときはどうしても、こんな遠くに来たのだから何日も滞在するのが普通で、むしろ、普段こんな遠くに来たのに一日も居ないで帰宅して次の日になるというのが不思議なことに思えたのだった。
TAGRO先生の別式、久々に手に取ったけど3巻からの加速感が面白くて一気に読んでしまった。そのまま般若化しそうな危うい魁ちゃんが可愛いくてしゃーなし。読書メーターに吐き出そうとしてPixivで舞台裏を書かれてるの知って14パートぐらい見たけど、打ち切りに抗ってくれて良かったと思った。
翻ってDon't trust over 30は全く響かねぇ…文庫本みたいな雑誌で中学の頃に読んだときは、あんなに繰り返し読んで共感してたはずの漫画はNot for meになってた。NIMBY的な。三十路を過ぎて不信感を突きつけられた側になってみたら、視野の狭さを世間知らずに発達障害、コミュ障で片付けたがるやつじゃん、あの時もあの時もあの時の自分も殺したい。殺せた。だからかもしれない。
サザエさんとか昔の漫画でも、電車の中で新聞を読むのは背景にちょいちょい出るよね
新聞を広げて読むのはもちろん糞邪魔で、そのままうざいおっさんや、折り紙みたいに超ちっちゃく畳んで読むのが職人芸みたいになってるおっさんもいた
俺が高校生くらいの頃には
「大人なのに電車の中でジャンプを読む人たち」ってのがちょっと社会問題っぽく話題になってた
新しもの好きだった親父がちっちゃい弁当箱くらいあるウォークマン(カセットテープ)持ってたけど、家に置きっぱなしになってた
その頃、混雑してる電車の中でスポーツ新聞の風俗情報とかのエロい欄を堂々と読んでるおっさんも結構いて
この頃にはウォークマンもたまーに見るようになる
携帯機はゲームボーイがあったけど、電車の中でやってるやつはありえないレベルの変わり者
今で例えるとコンビニでカップラーメンにお湯入れて電車に乗って食ってるくらい(見たこと無いけど)ありえない
俺は専門学校時代は、電車の中ではやること無いから基本目をつぶってた
1995年くらい、新社会人になって小銭持つようになってからは、古本屋でよく文庫本をかった。
月~金の行き帰りで10回読む時間がある。週に3冊くらい読んでた。
あと記憶が定かでないが、CDウォークマンも多分この頃かな?もうちょい後だったかな…
MDウォークマン(カセットテープ→CDの間に、一瞬で滅んだMDというメディアがあった)も持ってたな
mp3のウォークマンはまだ無い(mp3が発明されていたかどうかも不明)。
まだ携帯はなく、PHS時代。(俺は初めて買ったのは携帯(FOMA)で、PHSは持っていなかった)
Windows95が発売されたが、物好きしか買っていなかった。ご家庭にパソコンがまだない時代。
あ、週刊アスキーをよく買ってた気がする。
確かDQ1がプリインストールされていた気がするが、ほぼ遊んだ記憶がない。(もっと後の機種かも?)
ゲームは好きだし、携帯いじってるのは浮かなかったけど、携帯で遊ぶくらいなら文庫本のほうが面白かった。
Windows95-98の本格普及、インターネットの一般化、ipodの登場。
これでかなり変わった気がする。
ただ、携帯はまだガラケー。ガラケーのゲームはほぼ印象にない。
ipodは買わなかったが、UFOキャッチャーで怪しい中華メーカーのmp3プレイヤーを取って試しに使い、
ものすごい手軽さに感動して、ビクターかどっかの微妙に安いmp3プレイヤーを買った記憶がある。
スマホを初購入。
当時国産のスマホはくっそ遅くて使い物にならなかった。フリックしてちょっとラグがあってスクロールするレベル。
携帯ゲーム機もさほど浮かないようになったのはこの頃くらいではなかろうか。
スマホ出現後はもう今と変わらんと思う。
まず俺の車内は物が散乱していて汚い
後でまとめて集計しようと思って散らかしてあるレシート
頻繁に使うからと無造作に入ってるゴルフクラブなど、様々な物が散乱している
しかし職場のデスク・パソコンだけは常に整理するようにしている
何故なら、ここを整理しておかないと仕事が捗らないし、何か聞かれた時に書類が無い・メモの紛失などで時間をかけるのが無駄だからだ。汚くても優秀なやつは優秀らしいが例外だから省略
まず机の上に物や書類が無造作に置かれてるやつは論外。自分で把握できないなら他人が把握できるわけがない
次に机の上が綺麗ならいいんだろ、と引き出しの中にぶち込む奴もダメ。見た目は解決するが根本的な解決には至ってない
データ化すればいいんだろ、となんでもかんでもパソコンの中にぶち込む奴もダメ。多重階層でどこに何があるか分からないとか、メモを書いたのは覚えてるけどすぐに見つけられないなら意味が無い
要するに整理というのは、仕事の効率を上げるためのものであって整理したところで実用性が無いなら全くの無価値
定期的に「あの書類が無いんですが」と言われるのだが、自分の周辺で書類が紛失するのは基本的に無い。念のために確認もするが、置き場所は決めてあるので、無いです。とすぐに断言できる
これがもし、そこかしこに書類を置くような人間だとどうなるか。「もしかしたら埋もれてるかもしれないので探しますね」となってそれはもう時間の無駄になる。最低でも二人分の時間の無駄
これはパソコンのファイルでもそう。ファイルがあるのは知ってるんですが、場所が分からないんです~とか最高に時間の無駄
そしてちゃんとした整理が出来ていないと、報連相をする時にも支障が出る
まず報告するにあたって、何が問題なのか把握しなければいけないので見聞きした情報を整理しなければならない
次に連絡するにあたって、何を連絡するべきなのか考える必要がある
最後に相談、相談をするということは相手に理解をしてもらわなければいけないので、自分が何を伝えたいのかまとめる必要がある
説明がヘタですみません。と言うやつもいるのだが、説明がヘタだから何だというのだろうか。説明がヘタなので後は察してくださいと責任を丸投げするつもりなのだろうか
こういうことを言うやつは大抵が、物の整理・情報の整理が出来ていない。自分では片づけた気になってるが、実際は適当に押し込んだだけで把握できていないから、人に何かを伝える時にも伝え方が乱雑になる
国語の偏差値が70云々という、はてなブックマークの話題を目にして「高校生の頃の偏差値をよく覚えているなあ」と感心した。私は自分の偏差値を忘れてしまった。センター試験の自己採点で国語・数学・英語がいずれも190点超えていたことは覚えている。しかし、わざわざそれを他人にアピールする機会も意味も、私には無かった。
アピールする意味が無いのは、自分の頭脳は良くないと自覚しているからである。大学生になったは良いものの、私はイプシロンデルタ論法についていけず大学の数学に挫折した。数学以外も似たようなものであった。ペーパーテストではない、実験や研究という大学の活きた学問は、まるでダメだった。地方国立大学に入学できる程度には受験勉強が出来たし何とか卒業もしたものの、大学の本格的な勉学に挫折した私は、平凡な人間であった。
それで今更の話なのだが、現在の私は数学を勉強し直している。別に仕事に役立てようとか、そういうつもりは全く無い。全くの自己満足である。では、自己満足の欲求の源は何処かといえば、それは私の両親である。
私の両親は、高校中退者である。私の両親の世代では、地方の低所得者層に生れた子が、生家の経済的な理由から学業を断念せねばならないというのは、珍しくない話であった。珍しくない話ではあったものの、やはり両親にとっては心の傷だったのだろうと思う。
父は、一冊の古い辞書を大切に持っていた。私が小学生の頃には既に、ページは手垢で黒ずみ、ボロボロの状態だったのを覚えている。母は、横溝正史や松本清張の文庫本を何冊も持っていて、これまたページはボロボロであった。学業を不本意に断念させられたことの埋め合わせだったと、私の両親は言っていた。本物の勉学を経験した人たちから見れば、たかが辞書や推理小説を読む程度で勉学の埋め合わせを名乗るなどお笑い草かもしれない。しかし、私の目には、両親の姿が尊く見えた。親馬鹿ならぬ子馬鹿と言うべきであろうか。それでも構わない。私が今更ながら数学を勉強し直しているのは、明らかに両親の真似である。
就職して幾許かの金を自由に使えるようになった私は、両親の欲しいもののリクエストに応えて買い物をした。平家物語を読みたいと言うので、古語辞典と一緒に買って送った。お経や論語も読んでみたいと言うので、これらの本や漢和辞典も買って送った。母はアガサ・クリスティ作品を読みたいと言うので、これも買って送った。父は写経したいと言うので、筆や硯も買って送った。いずれも大した額の買い物でもないのに、両親は大袈裟なぐらい喜び、何度もありがとうと言っていた。
むしろ、ありがとうと言うのは私の方である。家族共用の本棚に、子供向け百科事典や児童文学のセットを置いてくれて、子供の私が本を読むように育ててくれた。それに、私の読書の趣味に決してケチをつけなかった。国語の試験の偏差値は忘れたけれど、本を読むことの楽しさならば私も忘れないだろう。本を読むことが楽しいと私に教えてくれて、ありがとう。
蛇足だが、数学の再勉強でノートをとりながら「どこまで理解できているやら。これでは写経だな」と思い、父子で写経好きというのが何だか可笑しく感じた。
ず〜〜〜っと燻り続けとるわ
どうしてハンドメイド衣料品店がフェミ代表みたいな扱われ方してんのか。わどうしてまんだらけが犯罪者の巣窟呼ばわりされてんのか。意味わかんねえわ。
いやTwitterってそんなもんやろって言われたらそりゃあそうなんだけど事の割に荒れすぎだってこれ
とりあえず広まってるハッシュタグ見てみようか
#Spankを守れ ←わかる
「撤退しろ」じゃなくて「移転しろ」でいいじゃん。あ、今現在のテナントから撤退してねって意味?大事なとこ端折るな!!このタグ隙だらけやぞ!!落ち着け!!
念の為言っとくと、どっちのタグもSpank!が公式に打ち出したものじゃないからね。英訳の説明文をツイートしたのも、日本語圏外の客に実店舗閉めてる理由をアナウンスしてるだけだったはずなんですよ。フェミだらけの海外(海外も別にフェミだらけなわけではないけど)に応援求めたとかそんなん妄想だって、言ってる人達は自覚してんのか?
あと、まんだらけがわざとファンシーショップの目の前にアダルトショップ作ったの新手の地上げでは?っていうのも妄想でしかないんですよ。真実はまんだらけとSpank!と中野ブロードウェイしか知らん。ただの客は客ですらない人達と同じく蚊帳の外っすよ。
Spank!の例のツイートをフェミのお気持ち表明だと揶揄する奴ら、全てのポルノ愛好者を犯罪者予備軍のクソオスとこき下ろす奴ら、お前ら全員フェミニストを何だと思ってるんだ。
フェミニストって「女性が性別の役割から自由になって一人一人自分の意志を尊重しながら生きられる社会にしていこうぜ」的な考えを持つ人達の事を指すわけだから、別にオスとポルノは無差別にこき下ろす蛮族じゃないんですよ。
あえて言うけど、フェミ二ストにもポルノ観る奴はいるよ、みんな一人一人違う人間だからね。
1人で、とか仲間内で、とか、こっそり楽しむ分にはとっても良い事だと理解してる人はごまんといるよ。
ただおっぴろげにしちゃいかんでしょって話なんよ。
フェミ(ゾーニング要望してる人とか撤退要望してる女性と思しき人達を雑なまとめ方した呼び方だから多分そうじゃない人も混ざってる)を馬鹿にする意味で「お気持ち」って使ってる人達、「お気持ち」って大事なんだぞ。わくわくしながら買い物に来た客が背後に気を配りながら服やら小物やら選んどるとこ想像してみ。背後注意はどっちに向けたセリフだったっけなぁ。
エロビデオ屋の客に「最低!犯罪者!!」なんて言う奴お前らが思ってるよりは少ないよ。ただ、結構な割合の客は男の人がブラジャー屋とか薬局のナプキンコーナーの前通る時くらいの気まずさ位は抱えてたじゃないかな。店内にいる間ずーーーーっと。想像してみろ。キツいだろそりゃ。だから(もっと他にも理由はあるけど)皆かなりしつこく言ってるように、ゾーニングが大事なんよ。
ショーケースについて「肌色成分少なめでは?」じゃねえのよ。乳首見えとるがな。縄で縛られとるがな。「ロリコン日記」じゃねぇんだわ。写真上げてらしたあのツイート主は禁書房のお客さんかな?とりあえず冷静になってくれ。どこが配慮だ。This is 明確にポルノ。いや売り物全部ポルノだから単数形はおかしいか。
しっかしすげぇラインナップだな。よくこれだけ揃えたな。エマニエル夫人は禁書房カテゴリか。素晴らしいよ。店の場所以外は。
性被害に遭うか何かあって目につく男性を批判するしかできなくなった人達、何か辛いことがあってフェミに八つ当たりする事しか知らない人達、そいつらがやるべき事は、然るべき専門機関でカウンセリングなり何なりを受けることだよ。こいつら互いに自分の事を医者だと思いながら会話のドッジボールしてやがるから事態がややこしくなるんだよ。お前らレスバする前に病院行ってプロに話聞いてもらうか信用出来る身近な人に悩んでる事なり弱みなり打ち明けてみな。話はそれからだ。病んでる奴が健康かつ法に明るい奴らと真っ向勝負できると思うな。休め休め。
Spank!、正直な話、私自身がSpank!で買い物をしたのはでことらんどとの合同ノベルティ目当ての2回だけです。ちなみにタオルは今も使わずに保管してるよ。
だけど、このお店が世界中のカワイイ物大好きな人達から愛されていて、なんならファッションの1ジャンルと呼べるくらい独創性に溢れてることは知ってます。
もし移転を余儀なくされることになったとしても、ずっとどこかに存在し続けて欲しいと願っています。
まんだらけ、私はまんだらけが大好きで、大学1年の頃からずっとお世話になってます。私の探してる本のジャンルがジャンルだからとらのあなやらしんばんはおろか駿河屋にもK-BOOKSにも置いてねえ(明輝堂に至っては潰れた)からまんだらけ頼りになってる現状があります。だからこそ言うね。
こんだけネットで客が論争に巻き込まれてんのにだんまり決め込んでんじゃねえぞ。何か喋れ。
こんな事になってなかったら私だって「禁書房にゲイポルノ漁りに行きてえよ〜〜〜!!!ついでに聞くけどあの店めじょく又はTheガッツ!!のOVA置いてる?」ってツイートしてたよ。目の前の店が禁書房と自分とこの客層考えて自主的にシャッター下ろしてる事実を知ってる身としては、禁書房の客の1人としてカウントされたくないから事態が丸く収まるまで店には行かないことにします。
まんだらけ自体の利用はやめないし、金が欲しいんなら客として売上に微力ながら貢献するから、移転費用募金するってんなら諭吉の数枚程度なら余裕でぶち込んでやるから、どうにかして禁書房を今の場所から移動させてほしい。自分とこのポルノ商品を1箇所にまとめるのもゾーニングとしては正しいと思うし、移転反対派が「移転にも費用がかかるって知ってます?」とか言ってる通りそこそこの金かけてそれをやったのは分かるから、あと少しだけ頑張って頂けると嬉しいです。
そういえば同じ4階の海馬の宗教系の本置いてるコーナーあるじゃん。100円の文庫本がズラーっと並んでる棚の裏んとこね。あそこメチャメチャ移転先にピッタリじゃない?スペースがデカすぎるってんなら、一番奥をアダルトコーナーにして、手前は平凡パンチとか宝島を陳列すればグラデーション的なゾーニングになって非常に良しでは??
それか思い切って4階から2階に移るのもアリだと思う。病院廻り~ぷらすちっくの動線しか使わない人って多分エレベーターか1階から3階直通のエスカレーター使うから2階はエロ商品置き場として割と適してるのでは?テクノブレイクと喫茶店横のエロDVD屋さんもあるから親和性高いと思う。同人誌も買わせたけりゃ同じ階にDEEP館(男性向け)とLIVE館(女性向け)があるぞ。
まあ関係者でもない奴が妄想捗らせてもしょうがないんだけどさ。
「どっちの味方?」とかじゃねぇんだよ。勝ち負けから離れるんじゃ。関係者でもない奴らは守りたい物の代わりに争うのをやめろ。潰したい物を攻撃する言い訳に使うな。どっちサイドにも潰れられちゃ困る人がいるんだよ。
増田さんの視点が面白いなと思い、自分は『アムロの殴られ待ち』をしたことがあるかと考えてみた
多くの人が知っていると思うがこの作品は主人公が金閣寺を燃やす話である
そのことを知った上で自分が読んでみると、主人公が幼い頃から金閣寺の美しさにひかれていた描写から物語は始まる
僕にはどうしても主人公が最終的に燃やすんだろという目で読んでしまい、主人公の金閣寺への興味うんぬんは燃やすことへのネタフリにしか思えなかった
主人公視点の「金閣寺美しい描写」は「金閣寺燃やさないよ!燃やさないよ!」と言っているように思え、ダチョウ倶楽部の熱湯風呂芸の「押すなよ!」が頭に浮かんでしまった
この美文に浸れる気分じゃないなと思って、2ページくらいしか読めなかった
僕の部屋は春夏秋冬いつでも22度だった。ワインセラーの様に一定に保たれた室温は、外の世界へ羽ばたこうとする僕のやる気を削ぎ、やがて窒息させた。
梅雨明けの太陽に照らされたアスファルトを窓から眺めていると、3人の家族が歩いていた。この眩しさはあの3人の為の物なのだと思い、壊れかけのカーテンを強めに締め、定位置に戻る。こうして外の世界を見てしまったあとは、僕を母親の胎内のように優しく包み込む羽毛布団を愛して離せなくなった。
ぬるい室温で育ってきた僕は、働かなければ死ぬという当たり前にすら直視出来ずに死んでる様に生きていた。多分そう、これからもそうなんだ。
ある日の早朝、僕は一匹の野良猫と出会った。出会ったというには少しだけ遠く、分厚い壁を隔てていたが僕の認識では確かに会っていた。
窓の外から見た黒猫はニャーニャーとおばあちゃんの手に頭をこすっていた。昔テレビで見た知識だが、猫が人間の足や手を孫の手のように使っているという事を僕は知った。
なんとも落ち込む話ではあるが、眼前に映るおばあちゃんと猫は確かに愛し合っているように僕は感じた。
猫を撫でる柔らかさと温かさを想像とYou Tubeで補填してみたが、予想通りに可愛いし愛くるしい。
想像できてしまうから、僕は外に出ないんだ。どうせ面白くないと飲み会を断り、どうせ俺なんかと女の子の誘いを断り、どうせ続かないと何一つ始めない。
被災者でもないのにシェルターに逃げ込む自分が今日は不健康に思えて仕方なかった。
そんなことを考えていると、内から鍵をかけたはずの扉が勝手に開いた。僕はいつの間にか扉の向こうにいた。
手探りで人間の模倣をする怪物のように、歯を磨き、顔を洗い、髭をそった。想定を超えて伸びた頭髪は、ツヤもなく、パサパサとしていて普通にキモいなと思った。
洗面所を出て、久々に見たリビングには僕の分の椅子もある。僕はパンを焼いた。母親が買ってきていたのであろう6枚切りの食パンにブルーベリーのジャムを塗りたくった。何となくコーヒーも入れようと思い、ポットでお湯を沸かし、クルクルと注ぐ。
サクサクのパンとブルーベリーの甘さがたまらなく美味しかった。多分ブルーベリーの青さがそうさせている。僕の視界はずっと白黒だったから。
コーヒーは黒くて苦い、でもパンには合った。コーヒーの優しさに気づいた僕は、勢いのまま友人にラインを送ってみた。
「お疲れ。今日飲まない?」
となると、このままでは怪異だ。僕は髪を切らなければならない。僕は、父親から貰ったポーチに財布と2年間読みかけの文庫本いれた。
さて、準備完了だ。多分このときの僕は一般の人間と比べると不快で、不清潔でだったと思うけど僕なりに身なりは整えていた。
靴箱から自分の靴を取り出すと、数年越しに仕事を貰えた靴が生き返るようにホコリを散らした。パンパンとホコリを払うとシャープなロゴがカッコいい。
玄関の扉に手をかけるが扉が開かない。押しても引いてもビクともしない。怖いから?違う、鍵がかかっていただけだった。
僕は扉を開けた。
「「「うおおおおおおおおおお!!!!!」」」
外のエネルギーはとてつもなく、ずっと家にいた僕は打ちのめされた。しかし、このエネルギーと僕は戦うんじゃない、夏と一つになるんだ。
僕も夏になる為に、少し激しめに靴をトントンした。
近所の遊歩道を目指して歩いていると、犬のウンチを片付ける老人と、ウンチなんかしてませんよ?みたいな顔でリードを引っ張る柴犬が格闘していた。
俺も負けてらんねえな。と思い負けじと僕も住居の庭から伸びている葉っぱを千切り対抗する。
しばらく歩いていても猫ちゃんの姿はなかった。自販機でコーラを買い、公園のベンチで飲みながら上を見上げた。久々の木漏れ日は、白熱電球の明かりしか浴びていなかった僕にとっては気持ちの良いものだったけど、「木陰ってこんなに暑かったっけ。」と呟くほどには暑かった。
公園の時計を見てみると7時半をさしていた。30分ぐらいしか外には出ていなかったし、猫を見つけることもできなければ、美容室に行くことも、文庫本を読むことすら出来なかったけど、下手くそな時間割りでも外に出られただけで僕の一日は輝いた。
空き缶をゴミ箱に捨てるとカランと良い音が鳴った事に、いや、この散歩の間に起きた事象全てに感慨深くなる。最早そこにこそ生きる意味を見出していた。
Tシャツがベトベトになる事を、不快と思わず、シャワーを浴びる理由と考えるだけで人生が楽しかった。
そんなことを考えながら、僕は帰宅した。
早速Tシャツとジーンズを洗濯槽にいれる。夏にジーンズは無かったなと今になって思いながら、ほぼ冷水のシャワーを浴びる。ガシャガシャと頭を洗っていると、耳の裏からでっかい皮脂みたいなのが取れて自身の不清潔さにゾッとした。
体を泡で洗っていくと、風呂場の温度で体が温まっていくのを感じ、再び冷水シャワーで体を流した。
ほぼ震えながら体を拭く。下着の棚には僕の物もあり、僕の部屋着も入っていた。当たり前なんだけど、僕は家族と4人で暮らしていたんだ。
コップに氷を3粒落とし、麦茶を入れて飲む。TVをつけるとニュースがやっていて、今は新型ウイルスによる未曾有の事態の只中にいるという事を思い出した。そういえば、外出している人はみんなマスクをしていた。自分が引きこもっている間に時代が変わってしまったんだな。と思った。
タイムスリップ開けのテレビは新鮮で、食い入る様に見ていると、母親の寝室の扉が開く音がした。コツコツと階段を下ってくる。いつもなら刑務所の看守に怯えるように息を潜めるが、驚く事にリビングのドアが開いたとき僕は、「うぃー!おはよ!」と気持ちの良い挨拶をかましていた。