はてなキーワード: フェルメールとは
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 67 | 14691 | 219.3 | 39 |
01 | 88 | 5299 | 60.2 | 42 |
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1日 | 2403 | 217839 | 90.7 | 41 |
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たぶんだが、若冲・ミュシャ・フェルメールとかは、テレビの美術番組で特集するとウケがいいやつかな。
ウケがいいので、なんどもやってる。
ミーハー的な興味が上乗せされてる。
会社の有給とって平日にフェルメール展に行ってきたのだが、激混みで萎えた。入場料2500円と通常の美術展より割高で、時間指定の事前予約制であるのにである。会場が規模の小さな上野の森美術館という事で、嫌な予感はしていたのだが想像以上の混みようでかなり不快だった。
ぶっちゃけフェルメールのネームバリュー自体は今年の東京でやっていた他の展覧会ミケランジェロやムンク、ルーベンスとそう大差無い訳で、さほど混んでなかったそれらと比べたて何が原因でここまでの混雑が発生するのか結構謎である。そういえば一昨年の若冲、昨年のミュシャと激混み美術展が最近多かったけれども、特定の展覧会をプッシュして荒稼ぎしている美術ブローカー的な存在でもいるのだろうか?本当に謎である。
美術手帖で連載中の「シリーズ:これからの美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。
まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。
「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。
まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的な価値判断であり、展覧会の評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要だから止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である。
次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論の対象を提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?
実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会はブロックバスター展だと言っていい。明確だ。
共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれるものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議でメディアの担当者と話していても、60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚がある。
共催展一般が共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつの分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。
しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター展特有の問題についての指摘はわずかしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。
そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか、批判的に捉えているか、文章を引用しつつ細かく見ていこう。
ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段は美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術の裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。
一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん。人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員と成るほど美術に真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。
ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。
最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。
共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?
当たり前なのでは。
ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外の作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。
ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会を批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体に意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供や仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。
共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者に展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館や展覧会の未来はそう長くはないであろう。
若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者にリーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。
近代美術の延長線上に現代美術を位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆や草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディアが現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術と現代美術をつなぐ展覧会を企画したり、現代美術を一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。
これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館や学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内の美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催で粛々とやってればいいのでは。
数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代や主題ごとに画業をたどるようなオーソドックスな構成となりがちだ。先行研究や調査をふまえた新たな視点を、カタログの論文や作品解説のなかで示すことはできても、展覧会の構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館やルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館の学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画の自由度が低くなるという側面もあるだろう。
そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分の能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館に就職してください。あと、日本の学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。
オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語、そして日本語や中国語、韓国語の資料も網羅されている)、それを日々リアルタイムで更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。
日本がフランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国の美術の研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術は基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。
私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員や玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。
美術鑑賞関連の話ね。
ところで上野の森美術館は良く言えばチャレンジ精神旺盛の,悪く言えば話題先行で中身が伴っていない企画展が多く,当たり外れが大きい。面白そうでも尻込みしそうになるのだが,今回の展示は大変良かった。「怖い絵」展くらいから変わってきたのだろうか,それとも偶然かはわからないが,ここ最近は中身が伴うようになってきた。この感じだと次のフェルメール展も,あまり怖がらずに見に行ってよいのかもしれない。
「nix in desertis:科学技術史上の稀覯本の森」からの引用。おもしろい記事だったが、この点引っかかった。
フェルメール展って、上野の森でやる東京展ではフェルメールが9点展示されるのね。現存するフェルメール全35点中の9点、25%超。もちろん彼の作品にも良し悪しはあって、上から9点が来るってわけではない。にしても、フェルメールが9点だ。彼なら3点あれば展覧会が成立する。それが3倍あるのだから、これだけでまったく十分だよね。他の作品がすべてゴミクズであっても構わない。解説が間違いだらけのデタラメ放題だって問題ない。展示の仕方に問題があって、作品の魅力を大幅に損ねていたら拙いが、さすがに歴史ある上野の森がそんなヘマをするはずがないだろう。この人は何を怖がらねばならぬと思っているのか、はなはだ疑問だ。
以前とある人のツイートに文句を言ったことがある(ルーヴル美術館展に意味はないのか?)。最後に俺はこう皮肉った。
最後に、本題とはずれるが、ひとつ。美術ってなによりも作品ありきだと思う。研究も大事だけど、まずはやっぱり作品だ。先に引いたツイートの「良い作品もあったけれど(略)何も残らなくて」との言。いい作品見て何も残らない人が美術作品を見る意味とは。
玄人、もしくは玄人ぶりたい人ってともかく作品を軽視する。いい作品がでていれば、鑑賞者にとっての展覧会の意義はほぼ満たされるのだが、どうやらそういった素人くさい(と彼らが考える)立場に留まっていることが許せないらしい。
繰り返すが、フェルメール展はフェルメールが9点来るだけで十分なのだ。それは、わかりやすく素人でも楽しめる展覧会だ。であればこそ、こういう人たちは、なにか一言二言文句を言うケチをつけることによって、自分はこんな展覧会を単純に喜ぶ一般人どもとは違うのだと示したがる。そういうめんどくささが散見される展覧会になるんだろうなと。うざい。でも、それはそれで少し楽しみかもしれない。
人権問題である。と同時に、さらに言えば、障害者に厳しい世界というのは、健常者にとっても厳しい世界という話でもある。混雑した展覧会は私も辛い。
健常者に何も齎さない癖に権利ばっかり要求する五月蠅い障碍者のいない世界のほうが健常者に優しいよ
対策。人を減らすのなら値段を上げる、時間指定制にする、展示内容をしょぼくすると手はいろいろある。
ただ、博物館側には集客をしろというプレッシャーがかかっているという話を聞かないでもない。とすれば、この方向の解決は難しいだろう(時間指定の展覧会に行ったことないのだが、どの程度入れるものなのだろう?
しかも障碍者って安い料金しか払ってないじゃん。制限を受けて当然だろ。
まずできることは、その場にいる人が、障害者や子供や老人などの弱者には譲るという優しい心を持つあたりだろうか。しかし、そういう精神が浸透することこそ、あらゆる対策より困難なのかもしれない。
譲ってもらって当然と思う輩に譲る心などない。人の善意にすがる乞食が偉そうに何をほざく。
お情けが降りてくるのをおとなしく待ってろ
この前、東博平成館の縄文展に行った。会期末で混み合っていると評判だったから、夜間開館日を選んだんだが、もうこの制度は浸透してしまったらしく、残念ながらひどい混雑。展示品を見るのに一苦労で、広い会場を一巡りしたらクタクタになってしまった。
とはいえ、私は健常者の成人男性だ。空きをみて前に滑り込む機敏さや、後列から人の頭越しに見る背の高さがあるので、比較的苦労は少ないはず。老人や子供の苦労がしのばれる。
しかし、それ以上に大変なのは車椅子の人だろう。座ってるから視点が低いし、人混みの中に分け入っていくのはぶつかって危険なので遠慮してしまう。今回2人見かけた。おそらく殆ど展示を見れていないはずだ。
1974年、モナ・リザが来日した。展示されたのは東博の特別5室。このとき事件が起きた。赤い塗料の入ったスプレーがモナ・リザ目掛け噴射されたのだ。
このモナ・リザ展は相当な混雑が予想されたため(結果、8週ほどの会期で150万超え)、展覧会前に、車椅子や赤ん坊連れの人の観覧自粛を文化庁が要請した。対応出来ないから来ないでくれという趣旨の発言がなされたのだ。それに対する抗議としてのスプレー噴射だった。まあ、そりゃ怒るわな。
その事件がきっかけとなったのか否かは知らないが、40年以上たった現在、各地の博物館や美術館はバリアフリー化が進み、また託児所が臨時ながらも設けられるなどして、状況は劇的に改善していると言っていいだろう。
しかし、今回このような状況に遭遇して、まだまだ道半ばだなと思った次第。車椅子の人でもエレベーター完備なので会場に入れるし、会場内は段差がないから回るのに不便はない。障害者に優しいユニバーサルデザイン。でも結局、展示品なんて満足に見れないじゃないか!
人権問題である。と同時に、さらに言えば、障害者に厳しい世界というのは、健常者にとっても厳しい世界という話でもある。混雑した展覧会は私も辛い。
なら行かなければいいのではないかと言われるかもしれない。まあ、実際私は、行かなかったり、会期初めの空いている時に行くようにしていて、それほど苦労はない。そもそも一番好きなのはマイナージャンルなので、本命展覧会はあまり混まないし。そんなわけである程度は人ごとながら、しかしこの状況を放置していていいのだろうかと、今回思った。
対策。人を減らすのなら値段を上げる、時間指定制にする、展示内容をしょぼくすると手はいろいろある。ただ、博物館側には集客をしろというプレッシャーがかかっているという話を聞かないでもない。とすれば、この方向の解決は難しいだろう(時間指定の展覧会に行ったことないのだが、どの程度入れるものなのだろう? 上野の森のフェルメール展はぎっしり詰めそうな悪い予感がしないでもないが、はてさて)。
まずできることは、その場にいる人が、障害者や子供や老人などの弱者には譲るという優しい心を持つあたりだろうか。しかし、そういう精神が浸透することこそ、あらゆる対策より困難なのかもしれない。
以下、余談。
東博にある法隆寺宝物館という建物、訪館者にすこぶる評判がいい。確かにフォトジェニックな点は魅力である。設計は谷口吉生。
だが、私はこの建物があまり好きではないのだ。いくつかある理由の一つが、障害者対策である。
もちろん、対策はされている。入り口の段差にはスロープがあるし、館内にはエレベーターが備えつけられている。しかし、そのスロープは端っこに目立たぬように設置し、エレベーターも一見して分からないように隠している。
谷口本人が実際どのように思っていたのかは知らない。ただ私には嫌々対策したようにしか見えないのだ。それが建物からヒシヒシと伝わってきてしまう。評価してる人はそれを感じないのだろうか?
小学校低学年の頃は何を書いても何も言われなかったけれど、高学年から中学校時代の美術教師が
写実絵大嫌い先生だった。
が主張であり、それに感化されてか、同じ主張をする生徒も多かった。
そして実際に、写実っぽい絵を描いた人の成績は悪く、モネみたいな絵を描く人が好評化だった。
でもモネはどうしても好きになれなかった。
別に嫌いではない、何かのきっかけで好きになれそうだけど、今のところは写実絵のほうが好きだ。
でも写実っぽい絵を描くと酷評された。
「なんでそんな絵を描くんだ、写真でも撮ってろ。絵でしか表現できない事をやれ」
社会人になった後、知人の付き合いで絵画を見に行く事になった。確かフェルメール。
その時は別になんとも思わなかったんだけど、その後時々一人でも絵画を見に行くようになり、
この間のカラヴァッジョを見ながら、ようやく気がついた。
美術の先生はきっと写実の絵を描く人に彼女でも取られたんだろう。
今更、ようやく呪縛が解けた。
ようやく絵が描けそうだ。
最高に下手で写実どころの話ではないんだがな。
↓
歩いてミッドタウン
http://matome.naver.jp/odai/2136633203426851601
http://matome.naver.jp/odai/2141182094298256701
この中だとワイン食堂 〜がヒルズ・ミッドタウン間にあって使いやすい。
香妃園もいいけど少し外れにあるから時間がありそうならオススメ。
駅〜駅を移動するとそれだけでかなり歩く。
途中、休憩できるカフェをプランに入れたほうがいいけど、池袋・渋谷_新宿・銀座は土地勘ないと空いているカフェを見つけるのはキツイ。
プラン立てるのが苦手なら、谷中あたりで目的なくぶらっとしてもいいと思う。
昼・夕の店だけ調べておくといい。
旧朝香宮邸を見て、ガレ展を見て、館内のレストランでランチと。
恵比寿あたりでディナーのお店を探すこと。
とんでもないものに出会ってしまったとしか言えない、凄い衝撃であったことは間違いない。
科学技術については日本は西洋に劣っているが、アートについてはヨーロッパは日本が上だと言ったのは誰だったろう。
ヨーロッパ人が土人に敗北宣言するというのは凄いことだ。
もう、周回差つけるくらいぶっちぎってたということだ。
絵とか興味なかった俺でもわかる。
北斎、広重に比べたら、ダヴィンチもフェルメールもレンブラントもぜんぜん勝負にならない。
そんな浮世絵が、茶碗の包み紙として新聞紙みたいな使われ方をしてたのだもの、ヨーロッパ人は驚くわな。
版画だよ?木版画。
それが、油絵をぶっちぎった。
さて、それがさ、今でも復刻版が1〜2万で買える。
破格に安い。
わかりやすく例えると、川瀬巴水の大正昭和の作品を買うと100万する。
ところが、版木が残ってるので、本人の死後に最近摺ったものもある。
これは超安い。
2万くらい。
色褪せがないし、大正昭和の染料顔料は今でもだいたい調達出来るし。
初期のほうが版木がへたってないからなんとやら、というけど、あれは嘘。
新版画は1000枚以上摺ることを前提の浮世絵の技術で作ってるんだ。
そう簡単には版木へたらん。
オリジナルの100万と後摺りの2万の差額の98万は、歴史ロマンの差が97万くらい。
まず版木をつくるのが高い。
職人が一カ月かけて彫らないといけない。
摺りも当然職人。
そこまで手間暇とお金をかけて、巴水なんかよりずっと安い。
超お買い得だし、買ってあげることが、彫りの職人を後世に残すことにつながる。
江戸時代当時の作品なんか集めたって、職人の技術の継承には伝わらない。
買いまくるしかないだろう。
フェルメールもレンブラントも過去の人にしてしまった、浮世絵という芸術の頂点を、手元に置くことが出来る素晴らしさ!
と、いろんなところで熱弁をふるってみたんだが、なかなか伝わらない。
そうそう、こないだ、
「(国立新美術館に)いっしょにルーブル美術館展観に行きませんか?」
って誘われたんだ。
フェルメールの有名な絵がきてるとかで。
おい、女、こないだ印象派が好きとか言ってたじゃないか。
なんで今更フェルメールなんだよ。
iPhone6ユーザーが今更ブラックベリーみにいくようなもんじゃん。
と言いたかったが抑えた。
それから、浮世絵の摺りの実演会と、CLAMPの原画展が隣接して催されていて、CLAMPの原画展のほうに行きたいとかいう女もいた。
目、大丈夫か?
と思ったんだが、その時も抑えた。
どうしてみんなわかんないの?
いきなり浅田次郎の『お腹召しませ』の跋から引用するんだけど「貴き母国語の司祭たる小説家は、その記す言葉の一句一行に責任を負わなければならぬ」って、これなかなかカッコイイこと言ってるけれども、浅田次郎の文章だってたいがいひどいときはある。語彙は豊富だけど脂っこすぎるから格調が損なわれちゃって、なんだか下品だなーって思っちゃう瞬間も多いよねってわりと共感してもらえると思うんだけどどう?
で、こういう話をしてると必ず横から口を出してくる手合いがいて、言うことには「最近の小説家は文章のレベルが低すぎる」。こういうやつには気をつけなきゃいけない、なにしろこいつはそんな侮蔑的なことを言いながらむかしの小説をあんまり読んでないからだ。たしかに百田尚樹はおそろしいくらい下手な文章を書くし、現在まで残ってるむかしの小説家の作品の多くはたしかに文章が上手くて、そのうえたとえば川端とか百閒とかの異常な怪物がぐーんと平均値を上げちゃってるもんだから勘違いする。ひどい文章を書く作家の作品は当然のように消費されただけで現在まで読み継がれてるものは本当に少ないってことくらい考えればわかるんじゃないの? 面白いことは否定しないけど、三十年後の子供が『永遠の0』とか『ビブリア古書堂の事件手帖』とか『容疑者Xの献身』とか読んでるわけないじゃん。だいたい残ってるひとでいってもひどい文章の作家ってのは残念ながらちゃんと存在していて、ほら太宰治とか田山花袋とか小林秀雄とか超ひどいじゃん。あ、でも内容は面白いと思うよ、田山花袋以外の2人はね。
まあ浅田次郎は「小説家なら上手な文章を書け!」とは言ってなくて、素直にちゃんと読むと「小説家の文章は日本語を使うひとにとってはお手本なんだから、せめて間違いのないように書かなきゃいけないなあ」って意味でしかないんだよね。だから話はもうとっくに逸れてるんだけど、なんか言いたいこと思い付いたから文章のうまいへたの話を続ける。
そもそも無機的な文章と小説の文章のうまいへたってぜんぜん別問題で、都市伝説レベルの話で好きなんだけどさ、三島由紀夫ってもともと官僚だったんだけどすぐ辞めたのね。ちゃんと東大出てたくせにぜんぜん仕事できなかったんだって。なんでかっていうと三島の書く文章がかっちりしすぎてて、官僚にとっての必須スキルである「余地を残す」文章を書くってことがまったくできなくて、まあ言ってみれば文章がうますぎて向いてなかったんだってさ。これはさすがに誰かが作った伝説というかいたずら話だと思うんだけど、三島の文章って異常に人工的でみっちりしてるから何となる「あーわかるー」ってなっちゃう。改めてなかなか好きな作り話だ。
たとえば誰だろう、最近でいうと朝吹真理子って年齢のわりに文章がうますぎてサラブレットってこういうことかあって感心するんだけど、このひとがふだんの小説やエッセイで使ってる文章で書いた報告書ってたぶん読みにくいよね。いや、なんでそこでひらがなつかうんだよって苦笑いしてる上司の図ってめっちゃ想像できてかなり笑える。だいたい文章(文学)ってのは芸術なんだから美しくなければ嘘でしょう? ってみんな大好き古井由吉先生も松浦寿輝との往復書簡でさらって書いてたけれど、まあそこまで大上段からカッコイイことは言えないけれども、まあ言ってることはわかるじゃん?
芸術なんだから判断は割れちゃうんだよ。日本人はフェルメールが好きってよく言われるし、高校生はなぜか「はしか」のようにラッセンを好きになっちゃう時期を迎えるものだけど、美醜の基準なんてひとによって違って当たり前なのよ。モーツァルトとサリエリの格付けは「アマデウス」がしちゃったけど、ヴェートーベンとシューベルトのどっちが上って難しくない? って書くと「おまえさっき太宰が下手だって言ってたじゃん!」とかひどいのになると「山田悠介! 山田悠介!」なんて連呼されちゃうんだけど、山田悠介はうまいへたじゃなくて「間違ってる」からダメだよ。とかいうと「保坂和志! 保坂和志!」って返ってきそうでキリがないのでいいわけをやめる。
何が言いたいかって実はまったくの逆で、それでも文章のうまいへたって、きっと存在してるんだよね。いや少なくとも自分のなかでは間違いなくあるんだよ。同じことを何回も言わないで済ませられるかとかね。何気ない言葉の選び方とか、リズムとか句読点の位置とか改行のタイミングとか語順とかセンテンスの長さとかほんといろーんな要素が絡み合いすぎてて、たとえばリーダビリティって文章のうまさに入るのって言われちゃうともう答えはまったく出ない。でも個人的には入らないと思ってるって結論だけはちゃんとあるんだ。
そろそろみんな気付いてると思うけれども自分なりにうまい文章を書きたくて書きたくて、読み返して「わあ、おれって文章うめーじゃん!」って思いたくて自分なりに努力してきたんだけどまったくダメで、下手でどうしようもない文章なんだけど文章を書くのは好きで、だから深夜にこんな下らない長文を書いてストレスを発散しているんだけど、まーまず間違いなくこの文章は読み返さないよね。ひどいから。
文章書くのってなんていうか心地よい行為だと思うし、こんなところに文章書いてるくらいだからみんなもきっと文章を書くことが好きで、だからさー、なんていうのかな、小説家とか関係なくってこうやって日常的に文章を書いているおれたちなんかはさ、上手な文章を書きたいなっていう欲求を誰しも持っているんじゃないかって思うし、その欲求には忠実になってもいいと思うんだよね。
あー、文章うまくなりてーなー。
http://anond.hatelabo.jp/20110119132357
・グッグッグとすきなようにつながればいいと ぼくはおもうです(ω)
・———————そう、あなたは自由に繋がる権利があるんですよ、19歳さん。
この世には、不自由な繋がりなど無いのです。
・人とどう繋がるかを決める権利があるか。それには「Yes and No」とお答えしましょう。
・私達には人とどう繋がりたいかを決める脳の機能がある。
「繋がり」のクオリアについて、僕はフェルメールを見ながら考えている。
・このネットには残念な繋がりが多い。
・スターウォーズを観たので人とどう繋がりたいかアメリカで決めてくる。
・「繋がりの道」構想を発表する。
・人とどう繋がりたいのかを決める権利があるという俗流繋がり論にはエビデンスが無い。
・「人とどう繋がりたいかを決める権利があるっていうの?オナニーみたいに?」
「そう、シコシコってね」
・諸君!私は繋がるのが好きだ!
・19歳イイイィィイどう繋がるダァー!!!
19歳のことか・・・19歳のことかアアァァアアアァアア!!!!!
先日、連れと、上野のフェルメールとデルフト派展みたいなものに行った。
特別展は平日だというのに、なかなかの混雑ぶりに驚いた。
中に入ると、OL風の二人が、絵の前で「この視線が」「へぇ」「なるほど、やっぱりドラマが」云々と鑑賞していたのを見てさらに驚いたが、こういったのは展覧会であちこちで見られたのにほとんどカルチャーショックといってよかった。
自分も連れも、普段から美術館系にはほとんど行かず、同じ上野なら二つの博物館か動物園に入り浸るが美術館に足を向けたことはない。加えて美術的な素養もほぼないに近い。今回来たのも、たまたまチケットをもらったからだった。
確かに飾られた絵画は(素人目で)きれいでうまかったけれども、じゃあ他の画家とどう違うから今も名声をその保っているのかと聞かれたら、まったく答えられなかっただろう。正直、オランダの画家ならレンブラントとフェルメールの区別がつかない自分には、フェルメールとデルフト派の区別もまったくつかない。
ほとんど作品の横についている解説を頼りに、這う這うの体で二時間かけて見終わった。
二時間もいたわけだから、まったくつまらなかったというわけではないが、時間をかけた割りに、心から楽しめたというものでもない。帰ってきて、何が、フェルメールにしろ他のデルフト派にしろ、すごかったのかはわからずじまいであった。
先のOLのように、こういったものを鑑賞する、そしてそれを楽しむ能力を持っている人間というのは、ある種尊敬に値すると思う。こういうのは、先天的にもらえるものなのか、はたまた後天的に取得できるのか、そもそも学校か何かで習ってなんとかなるものなのかどうか。
一つ目の理由に対しては、俺はよく美術館に行って、いい展示だと衝撃を受ける(感動する)んだわ。
江戸時代の水墨画なんかが今に伝わってること自体すごいんだけど、その絵が21世紀に生きてる俺に感動を与えてくれる。
それを俺は、たとえば俺の子供にも味わってほしいと思うんだわ。
絵画とか彫刻って、基本的に「ひとつ」しかないのね。印刷されたものなんかじゃ味わえない本物の力があるんだ。
だから、そいつを爆弾なんかで吹っ飛ばされたら困るの。
あ、ちなみに俺が後世に残すべきだと思ってるのは、評価の定まってる古い作品ね。
フェルメールやらレンブラントやら印象派やら江戸時代の水墨画やら。
村上隆は・・・しいて言えば、日本のサブカルが、西洋に受けてるっていう構図で、
江戸時代に浮世絵が海外で評価されてたのと同じよーなもんかと諦めてる。
彼の場合は作品以前に、作品をアートとして認めさせるだけの力があったのは、評価せざるを得ない。
やったもん勝ちになっちゃうけど、どんなもんだろうと、ウン億で売れるだけの商品価値をつけたってのは、すごい実力。
ただの便器に名前付けて作品として出した、デュシャンみたいなもんなんかな。
ただ、純粋に作品としてみたら、ぶっちゃけ萌え系のフィギュアのほうがスゴイんじゃね?w
ただし「芸術」といっても世の中には「商業活動としての芸術」と「人の性(さが)的な営みのしての芸術」があるように感じてしまう。
とりあえずは、売れなきゃアートとして認められない。
売れる=価値がある、わけだから。
描くことを前提にした「表現としての芸術」とはちょっと違う気がしないでもない。