はてなキーワード: 責任論とは
後日、真相が明らかになるであろう、ゴーン氏逮捕の真実である。
今回のカルロスゴーン氏の逮捕劇は、帰国便が周到にカメラに撮影されるところから、歯切れのよい西川CEOの記者会見まで、非常によく準備された逮捕劇場であった。
金融商品取引法違反の逮捕ということだが、実態を見ていくと、専門家の間でも「逮捕するには軽すぎるのではないか?実態としてそこまでのものではないのではないか?」という意見が上がり始めている。有価証券報告書の虚偽記載をしていたとしても、日産側で源泉徴収をしているのだから、脱税にはなっておらず、ゴーン氏に大きなメリットが無いというのがその一つだ。
なぜ今なのか?
これは、ルノーと日産の経営統合問題が絡んでいることは間違いないだろう。過去の経営不振の影響から、日産の筆頭株主は、ルノーであり、また、ルノーの筆頭株主はフランス政府だ。ルノーが本腰を入れれば、日産がフランス政府の企業となってしまう可能性が強く存在しており、日産、三菱自動車、何より日本政府の長年の悩みの種であった。
この統合問題が2018年水面下で急速な進展及びターニングポイントを迎えていることは、定期的に報じられていた。
今回(いちおう)法律違反という立て付けで逮捕が行われたことで、日産および日本政府にとって、ルノーとの経営統合問題が有利になったことは間違いない。犯罪者をCEOとして任命していたフランス政府の責任論も出てくるだろう。
では、誰がこれを仕組んだのだろうか。
西川CEOだろうか。ルノーとの統合を憂い、西川CEOが特捜と手を組んで起こしたクーデターだろうか?
これが表向きにはしっくり来る。非常にしっくり来る。。。
しかし、何かが腑に落ちないのはなぜだろうか。
昨晩の会見では、西川CEOは、動揺のようなものがなく、覚悟を決めた節が感じられた。また、自身の経営責任を問われてもおかしくない中で、最初から最後まで徹底して、ゴーン体制を批判した。ゴーン体制への批判は、記者からの質問ではなく、自身の言葉から語られていたのも印象的だ。
( ゚д゚)ハッ!
ここで大きな仮説を一つ。
「実はゴーン氏は、日本企業としての日産を愛していたのではないか?それを守りたいと思っていたのではないか?」
そう。
これは、ゴーン氏が20年来の日産復活劇の最終章に用意した、2回目の救出劇だったのだ。
ゴーン氏は、フランス人としての矜持から、ルノー社を救いたいと思っていた、これも事実だと思う。しかし、ここにきて、フランス政府による統合圧力が非常に強まっていた。
事実ゴーン氏はこれまで何度も統合に対して否定的な態度を取っている。これは非常に不思議である。実務的な難しさはあれど、フランス人のゴーン氏が、ルノー社へ日産を統合したいと思ってもおかしくはなかった。ゴーン氏の態度次第では、すでに日産はフランス企業になっていたかもしれない。
では、単純に退任すればよいのだろうか。単純に退任すれば、フランス政府が統合推進派のCEOを送り込んでくることは目に見えている。
決断を迫られたゴーン氏は考えたことだろう。愛してしまった日産をどうやって救えばよいのか...
犯罪者として解任をされたとすれば、フランス政府も強い立場には出られなくなる。日産側に交渉のカードが増えることは間違いない。
...
こうして、西川CEO,特捜、日本政府、ゴーン氏による救出劇が行われたのである。
ゴーン氏よ、ありがとう!
女性専用車が逆差別だとか言ってるカテゴリの男は気がついた方がいい。
男の大多数が、男らしさや男の沽券やプライドにこだわっているうちは、
専業主夫を増やすことを始めとして各種の社会的な男性の責任論の緩和は、男側の問題でできないだろう。
多くの男性は、女より上に立つことを当然と思ってる節がある。
親に教育された、「男なら〜なくてなはらない」という教え以外にも生物としての性質でそうならざるおえないだろう。
男は女にいいところを見せて尊敬されたいという本能があるようだ。
一説によると、マンモスを追いかけていた頃からその傾向があるらしい。
それによって利益を得ている強者や、その環境を望む層が一定数以上いるので
いつまでたっても、はてブの皆さんが望んでいる形の男女平等にはならない。
これは、ファミが男性側に望む「本当の男女平等」とやらが達成できない理由でもある。
女の場合も、女性が男性に庇護される立場を維持することで利益を得る層が一定以上いるからだ。
同じ性の側の別な性質のグループに自分の側の生き方を強いることになる。
看護協会というのがあって、看護師は半ば強制的に加入圧力がかかる。で、その巨大な看護協会は、お抱え議員達を擁立し、メディアにも圧力をかけるプロパガンダ機関というべき代物だ。また、管轄の厚生労働省の管轄課に協会から人員を送り込み、出先機関と化している。
協会主導の看護師地位向上運動というプロパガンダマシンが世論を押さえてる。共産党とも近く、すぐ「看護師の給料が~」とか、「看護師の労働環境が~」とか、声高に叫ぶ。
同様に、今回のように、すぐ活発な看護師関係者たちによる話題逸らしが始まる。
看護協会の活動の中心は、常に、看護職の地位向上運動にあります。世間では、医師の診療補助をするのが当たり前と考えられ、法にも、それが業務として謳われています。しかし、「看護師は独立した専門職であり、医師と対等の職種である。医師の補助職ではない」というのが、彼らの主張の根幹なのです。たしかに、かつての看護師の社会的地位を考えると、地位向上にやっきになることは理解できないわけではないですが、あまりに時代錯誤であり、また、「診療の補助は、看護師の本来の仕事ではない」という主張は、見当外れだと思います。
実は、内診問題と同じような問題に、静脈注射についての通達があります。かつて「看護師が静脈注射をするのは保助看法違反である」という厚生省の通達がありました。もちろん、現実には遵守不能で、最高裁判決でも違法でないとされました。ところが、公的病院の看護部は、通達を盾に「静脈注射は医者の仕事である」として、絶対に注射をしようとはしませんでした。「看護師の本来の業務は看護であって、医者の手足として働いてはいけない」という主張です。
この通達は数十年を経て、やっと平成14年に実態に即した変更がなされました。しかし大病院の看護部は今なお反対し、それをどう受け入れるかについて議論があります。看護協会にとっては、医師から独立した専門職として社会的に認知されることが、大命題なのです。とくに大病院の管理職の看護師は、常にこの意識にさいなまれています。
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要するに、厚生労働省医政局看護課は、看護協会、看護連盟の出先機関でしかなく公正中立な行政機関とはいえないのです。看護課長が各議員を回り、看護協会の意向を受けた政策に強引な同意を求めるということについて、国会で民主党議員が抗議の質問をしたことさえあります。
大病院でも看護部は強大な力を持っています。大学病院の総婦長が、他部署はおろか院長でさえも手出しができない存在であるのと同様に、恐らく、厚生労働省内でも看護協会と看護系議員をバックにつけた看護課は、局長ですら手出しができないのだと思います。
事実、日本医師会が医政局長に説明を求めたところ、「預かり知らないところで、看護課長が勝手に通達を出した」としています。省に持ち帰ってからの責任論では、「厚生労働省全体の責任です」という話に変わってしまいますが、それには政治力が働いたと考えるべきでしょう。通達の直前まで、南野智恵子議員は厚生労働副大臣でした。
音楽界のレジェンドをフォローしてる大勢は、「彼が言うなら間違いないだろう」と思ってしまうからだ
もう少し近くて、素人目には違いがわからず、だけど全く別の領域だったら非常に厄介なことになる
ただ、例えばフォロワー数100未満の一般人が同じことをしたらどうだろう
世間に信頼されていないからこそ適当なことが言える(ことが多い、たまに個人でも燃える)
と考えると、要はフォロワー数・影響度の高さに比例し適当なことは言えなくなるわけだ
しかしそれができる人は多くはない
昨今は様々なブームで素人が注目を集めるケースが増えているが、ここらへんのリテラシーを高く保つのはどうやら難度が高いらしい
まあそれを言ったらテレビのコメンテーターなんてもうアレだけど...
もし適当なことを言いたいなら、適当なことを言うアカウントと、公式のアカウントを分けるのは手として有りだ
けいおんをストーリー不要の例に持ってくる辺りで、ただのコピペ野郎か本も録に読んだことの無いアホなんだろうが・・・・・・
それはともかく、この手の話が出てくる時って、宇野常寛とかの批評を浅い理解と表面だけの劣化コピーでもにょる。
宇野の場合とかだと明らかにアニメの向こう側に、現実の戦後日本社会を見ていて、
だからこそ、ストーリーには必然的に『事件』やそこから人々の『葛藤』『行動』や『責任』と言った要素が重要になってくる。
これらは、日本社会が 敗戦から軍事力を取り上げられた事で、国際社会の中での果すべき責任論とか取るべき立場を語るためだし
もっと身近な個人の政治との向き合い方に上手く対応出来なくなったと言う(宇野やある種の思想の人々が考える)言説のために不可分だし、
宇野なんかは特に、「新聞やニュースが言う"政治"がワイドショーみたいな事に終始する昨今、アニメの方がよっぽど『政治』を語っている」
そう言う立場からだと日常系みたいな時間も進まない系アニメは、現状保留みたいな意見で批判の対象ってのは道理は分かる。
ただ、そもそも けいおん は日常系では珍しい ちゃんと時間の進むアニメだし、
全体を通したストーリーも、此処の話としてのストーリーも、登場人物個人個人のストーリーもあるアニメだ。
それは勿論、冒険活劇みたいな物でも、 サスペンスでも ミステリーでも 成功譚でも 悲恋でも 大恋愛でもないが。
そして、けいおんのキャラはアニメや漫画のキャラとしては没個性だぞ。
みんな、普通のどこにでも居そうな高校生。悲惨な過去も無ければ、宿命付けられたライバルも居ない。
それどころか、絶対権力の生徒会も無いし、プロすら感動させる才能があるわけでもない。
次いで言えば、キャラの見た目も見せ方(絶対にパンチラさせないとか含め)もこの元増田が言う様な要素からはほど遠いし、
今でこそ違和感とか無いかもだが、当時はかなりアニメ感の薄い描き方。
――
長谷川豊による「自業自得の透析患者は殺せ!」との一連の言説からの炎上が、
イケハヤのエントリが提示した「あるべき倫理観」によって収束解消されてってる気がする。
けど、あんな御為ごかしで溜飲下げてる阿呆は運動と瞑想と睡眠と野菜とPCの電源落とした後にモニタ映る怪物との対峙が足りない。恐ろしい恐ろしい。げに恐ろしきは人の心。ああ今はスマホか知らん。靄靄するので書き出す。
長谷川の繰言もイケハヤの戯言も個人の責任論に終始している。本来いま議論し深めるべきは、来るべき苛烈な負債処理社会に向かう再分配制度の再設計、人命尊重至上主義からのその基盤となる思想、そのパラダイムにシフトする方策なのだろう。一連の話は関連するがまずはさておき。
それにこの文章は腐れトマトの与太の与太っぷり、味わい深さについて口上を述べるなんていう霊媒師の譫言だ。
――
” いやいや、そりゃあ、卑怯者はいるでしょう。当たり前です。この世から犯罪はなくなりません。”
まず、犯罪者と卑怯者は違う。これ混同すんのは真の与太者の思想だ。
元エントリを要約する。
~~
卑怯者はいる。けれど、「その人が弱者であるかどうか、卑怯者であるかどうか」は判断できない(他人からも自分からでも、)
だから、人々の倫理観を高めるべき。それは他者に対する疑念を捨て、他者を信頼すること。
「大半の人は正しく行動している」と信じることで、自分自身も正しい行動を取るようになる。
「みんなズルをしている」と考えている人は、当然ズルをしたくなる。
だから、ぼくらはまず、信じなければならない。
不正をする人がいても、ほとんどの人はそれを正しく、望ましく利用している、のだと。
~~
自分でも他人からでもその人=自分が卑怯者かどうか判断できないっていう考え方ね。
「その人」とは「自分」と交換可能じゃなければまずおかしい。ここでもう自分だけ特別なのか?
・自分からも他人からもその人または自分が×か○か判断できない、
もしくは、
・自分からも他人からも、その人または自分は×あるいは?、/じゃなければ○。
間違っているかどうかはわからないのに、正しいかどうかだけはわかる。現代詩かよ。
で、この「大半の人は正しく行動している」の「正しさらしさ;正しさみ」を判断している主体は誰?
これは、「大半の人は“ボクにとって正しいと思える”行動をしている」という程度の意味だ。
あるいは「みんなは、ボクから見て正しいと思える行動をしているなあ」って、阿が取れたら呆者だ。
ボクにとって正しいと思える行動をみんながしていると信じるならば、ボクにとって正しいと思える行動を取ることは容易い。
ボクにとってズルと思える行動をみんながしていると信じるならば、ボクにとってズルをするのは容易い。
お前はどこからどのようにその価値判断基準を得てきたんだよ。社会から、自分なりに、だろ。
だから大体において自分は正しいわけだ。なのに、差異があり、衝突もある。おかしいな、自分は正しいはずなのに。当たり前だ。みんな自分なりに様々な文化社会から得てるんだから。
みんな違うのです。なので絶対的な正しさはないのです、だから「自分からも他人からも価値判断されるものではないです」などと言うのは誤りだ。それは社会上、相対的に決まる。たとえば法律がある。人がどう思うかによる。
(アプリオリかどうかとかは知らん。;
このひとつの人間の心理、思考回路は、拙筆にも矛盾なく親しく感じられる。私はこの心理を、日常生活においてはあなたや、誰にとっても矛盾なく親しく感じられるものと思っているが、厳密には誰かにとって矛盾なく親しく感じられない可能性があることは理解している。)
――
たとえ、「ボクにとってさえ本当はズルいと思える行動」があっても、他人によってそれがズルかどうか判断される意味はなくなる。
また、ボクに良いこと・自然なことと思えることこそ、他人にとっても良いこと・自然なことだと思えるようにならざるを得ない。
――
ここで正しいとか間違ってるとかいうのは、人間社会での価値の判断だ。それは単純な話、みんなが間違ってるって言ってれば社会通念上の間違いだし、みんなが正しいって言ってれば社会通念上正しいってだけの話だ。
自分にとってどんなに正しいと主張しても、その社会において認められなければ間違いとされるし、自分にとってどんなに間違ったことだと主張しても、その社会において認められなければそれは正しいとされる。Xはなんでも良い。論理の式が真理なだけだ。
自分の価値判断は自由だし誰にも侵されない。考えてるだけなら自由だ。でも、文章をはじめ、行為にしたとたんに何らかの、他者からの評価、価値判断は免れ得ない。
――
懸命な諸氏にあられては既にお気づきのように、紐解けばこれまでの、逃亡トマト師への批判と齟齬ないだろ。で、お前らも揃いも揃ってサイコパスか。って言いたいためだけに書いてる。
――
ほとんどの人が「それ」を、自分にとって正しく、自分にとって望ましく利用しているはずだ。
自分にとって正しくなく、自分にとって望ましくない「それ」の利用が不正と思えるだけだ。
たとえば「それ」がなされなければ死ぬというとき、「それ」が自分にとって正しくないことだ、なんて言えるだろうか。
現に制度が整備され、第三者によって利用が認められ、「それ」なしでは自己保存本能が侵されるときに、「それ」を断てるだろうか。
そこに「卑怯者」はいない。社会通念上の価値判断を外してただ個人の生存から見るならば。
そうなったらみんな同じだよねと。
どんなイメージを持つかは自由だけど、基本的にはただ待ってるだけで自分の存在が脅かされるときに、何もしないで待っていられるのは、そりゃ馬鹿か釈迦か瞑想のし過ぎのどれかor全部だ。
誰もがみな生きることに必死だ。必死で生きてるんだから。必死なのに生きずにはいられないんだから。
死にたくないんだ、より生きたいんだ、卑怯もクソもあるかよ。使えるカードはみんな使うよ。
要するに生存競争なんだからと。それを敷衍してけば、バレなきゃなんでもアリだ。捕まらなきゃいいんだ。バレてもゴリ押せば勝ちだ。大義名分の下に持てる力全て使ってこの先生きのこるんだと。
だから、誰かに対して、あなた方だけはどうぞご遠慮くださいなんて言い出す奴は、お前こそ御免下さいだとよと焚べられるのも当然の流れで。
じゃあどうするのか?爺婆が自分で自分を火に焚べるのをまだかなまだかなって夕ご飯よろしく待つか。あるいはカタワらもまとめて誰かが知らぬまに処理してくれるのを見て見ぬふりするか。とりあえずどう考えても自業自得っぽい麻薬中毒者はガンガン殺してもいいかな。もちろん人殺しはどんどん死刑にしよう。「私達」が安心して生きられるようになるまで、どんどん減らそう。
ね、だいたいそんな感じで人類は衰退するんじゃないかな。トランプが勝って、核もまだいっぱいあるし。おそらくそのほうが最適なのかもね、地球全体にとっても。
自分で自分を制御できないんだから、AIに操作してもらい、バランス取ってもらうのが最後の頼みの綱ではあるよね。環境に適応して増殖し始めちゃって自分達では止められないんだもん。ライフゲームよろしく、絶妙なバランスを、自分たちの手だけで構築できるなら良いけど、どうやら無理っぽいし。ホーキング博士やイーロン・マスクが恐れてるのってそういうことだと思うけど、もうそれ以外に方法がない。自分だけ助かる方法なんてないし、結局みんな死ぬんだから、まあ、それでいいんじゃないかな。
某デジタルコンテンツの販売サイトには、リベンジポルノや交際相手の不手際で流出したハメ撮り写真・動画などが大量に販売されている。
もちろん、これらの商品を売ることは、法的にも倫理的にもアウトだと思うが、これらの事実から鑑みるに、
一度流出した写真や映像は基本的に人目に触れなくなることはない、ということだろう。
一方で、そうした写真や動画のサンプル写真を見ていると、一般の少なくない素人女性が
あられもない恰好を撮影されることを同意している、というおろどくべき事実も確かだ。
この記事を目にする女性の中にも、自分の行為中の写真・動画を交際相手に撮影許可したことのある人もいるだろう。
自分は男性だけれども、自分の交際相手のとのセックスを撮影したことも、撮影されたこともないし、
たとえ相手から求められても、他人に見られたら問題のある状態(たとえば全裸)でツーショットを撮らせることもない。
はっきり言って、デジタルデータである以上、たとえ故意でなくとも他者の目に触れるリスクがあることが明らかだから。
(例えば、スマホを使っていれば、何らかのかたちでクラウドのような外部へ自動アップロードされているかもしれない)
そもそも、撮影されなければリベンジポルノに使われることないし、流出することもない。単純な事実だ。
リベンジポルノが法的に規制されるようになったのは望ましいことだとは思うが、
そもそも女性の側も他者に見られたら困るような写真の撮影を許すべきではない。
撮影を強要するような交際相手なら問答無用で別れる。行為中の撮影自体が変態的な行為である。
こうした流れを作らない限り、男性に限らず、問題のある写真・動画を残そうとする昨今の風潮は廃れないだろう。
言い換えると、リベンジポルノは女性の側が一方的に被害者面できる問題ではないはずだ。
仮に盗撮ならば女性の側の非は殆ど無いと言えるが、少なくともリベンジポルのなら、一度は撮影を許可しているのだし、
「後で消して」などという口約束が履行される可能性はほぼないことは、中高生だって十二分に理解しているはずだ。
(若いうちは自分の行為の意味が分からないとか、恋愛中の異常な精神状態、などという言い訳が通用するわけがない)
リベンジポルノを公開する人物は悪。確かにそれは正論だし、法的に罰した方がいいだろう。
一方で、リベンジポルノの原因になるようなものを許可する女性の責任も相当にあると自覚した方がいい。
電車内と痴漢や不審者からレイプされたりすることは、どんなに慎重になっていても究極には防ぎようもないことだが、
リベンジポルノに関しては意識がけ次第に完全に防ぐことができる性質のものだ。
リベンジポルノを作らせない責任は、あなたにもある。あなた次第なのだ。
そもそも全裸であったり、あるいは明らかに行為の最中、あるいは行為後であることが明らかな写真を残さないように
女性に促すことは、女性を侮辱することなのだろうか。女性の人権を侵害するものなんだろうか。
両親を失い大学を辞めて姉妹の生活を支えるために働きだしたお姉ちゃん。
しかし、どうしても妹の大学進学のための費用が足りず、妹には自分のようなキツい仕事はさせたくない、という思いから、思わず強盗をしてしまう。
さらに家主に見つかってしまい押し倒し、当たりどころが悪く家主を殺してしまった。
当然、警察に捕まり罰せられるお姉ちゃんだったが、妹の苦労はここから始まる。
最初はただただ姉を罵倒するだけだった妹だったが、1年、2年、10年とたち、姉妹での手紙のやり取りが続く中、
姉のとった行動は間違いだったが、それでも姉は妹である自分のことを愛しているし、自分は姉のことを愛していると、いつまでも家族であると誓う。
けれども、人生の節目節目に、姉の犯した罪により出ばなをくじかれ上手く行かない日々が続く。
犯罪者は被害者を不幸にするのはもちろん、自分自身を、そして自分の家族をも不幸にしてしまうのだ。
だから、やっぱり、姉の事を愛していけないのだ、姉は1人で孤独に立ち向かわないといけないのだ、それが罪を犯すということなのだから……
被害者家族の死んだお爺さんのことを全く覚えていない女子高生に一目惚れされ、
家族が人を殺したことと、家族に人を殺されたことと、誰かが誰かを好きになることに関係なんてないし、
そもそも、そういう責任論を押し付けてくる輩を片っ端から自分の愛の輪に取り込んでいけばいいのだ、
と言う独自の宗教観とも言える女子高生の愛の素晴らしさを語る姿に打ちのめされ、
でもまあ、それはそれとして、服役を終えた姉との縁を切り、
メビウスの輪から抜け出せず、いくつもの罪を繰り返している人間にとって、
平和とか自由とか正しさなんかより、ただただ君を望むだけの人生でありたい、と
今後も繰り返されるアースノイドとスペースノイドの戦争は決して止める事はできず、それは歴史が証明してしまっていることの儚さに思いを馳せ、
マハラジャ・カーンの隠し子であり、ハマーンの妹に当たる妹と、ギギは末永く、一緒にラブラブし、彼女達なりの「黄金の秋」を迎える場合、
妹は日高のり子さん、
みなさんのキャスティングをお待ちしておりまーす!
ここまでの反応からおおよそ察しがついてると思うけど、別に責任論や原則論で物事を考えているわけではなくて、単に自転車が憎くて仕方ないという層がいるんだよ
本当に原則論で考えているなら歩行者より自転車、自転車より自動車の負担を重くするべきだし、現実の法律や道路整備は実際その方向だが、彼らはそうは思わず「中途半端な存在である自転車が両方に迷惑をかけている」と信じている
彼らの目的は自転車を排除することであって、トータルで見た安全性を高めることではないので、安全にフォーカスした提案をしても相手にされることはない
むしろ彼らは結果的に自転車排除の気運が高まるならもっとどんどん事故が起こってもいいとすら思っているかもしれない
彼らの動機を想像することは難しいかもしれないが、たとえば世の中にはなぜか妊婦を激しく憎む独身男という謎の層がいるので、あれの亜種だと考えれば多少当てはまる
何かを変えようとするための論争は「メリットしか見ないバカvsデメリットしか見ないグズ」の戦い、といってほぼ間違いないだろう。
新しいことを推し進めようとする側ってのは、たいていそれによってなにか利益を得られる側にいて、とにかくそれを実現するためだったら他の犠牲なんか知ったこっちゃねーって論調が多いから。昔から猪武者とかいう言葉もある通り、目の前に落とし穴があると言われても耳をかさずに落とし穴を踏み抜くタイプ。
新しい権益を求めるが故に、わかっていてもポジショントーク張ってる奴も含まれるかもしれない。
メリットにも一応理解を示すような姿勢は見せるものの「そうは言っても」とか「それができれば理想的ではあるけれど」とかいいつつ、悪いリスクや責任論を気にして批判的な声を上げ、基本的に行動が遅い、あるいは、動くこと自体をしないタイプ。
こっち側には、既得権益にしがみつきたいが故に、わかっていてもポジショントーク張ってる奴も含まれるかもしれない
けど、どっち側にせよ、そんな絵に描いたような自覚的な権益主義者って、実際はそんなに多くないよな。叩く側がレッテル張ってるだけで。
最近の話で言えば、安保の話とかマイナンバーとか図書館とか原発とか太陽光とか、だいたいこれだよな。
なんでバランス取れないの?って思ってしまうが、たいてい極端に振れてる奴が「我こそは中道・正義なりっ」って思い込んでるから質が悪い。
自分のアタマで考えようという本があったと思います(未読)が、自分のアタマで考えるのをやめる選択肢もあんじゃね?というお話。わりかし実話。
最高責任者とか芸術家とかでない限り、自分のアタマで考えたことは「誰かに説明して納得してもらう」というフェーズが必要なわけですが、これが超めんどくさい!
去年と同じで行きましょう!とか競合他社と同じ戦略で行きましょう!とか、偉い人の方針をまるごと継承しましょう、ならサラッと通ることに対して、「現状の問題を分析するとこういう構造になってて、どこがどう問題と考えられるので、このようにやりかたを変えれば、このくらいよいことが起こるでしょう」みたいなのを説明するがすんごくすんごく面倒。
話の前提をちゃんと共有しないと理屈が通らないので、考えに至る前提条件とかを事細かに説明して、相手との認識が合わなかったら合うように調整して、、、と、この過程も面倒。それで分かってもらえればいいけど、認識や考え方の違いにより分かってもらえなかったりすることも多々あってかなりストレスがたまる。
それでようやく「自分のアタマで考えたこと」を分かってもらえても、今度は責任論になる。それって絶対?100%?間違ってたら責任取るの?去年と同じやり方なら去年と同じ結果になる、ってのは共通意見だけど、お前のはどうなの?的な。
そんなん100%なんて世の中にありえないだろ、と思いつつも言い出したのが自分であるし、時間をかけて“分かっていただいた”手前、しぶしぶ了承せざるを得ないという。
客観的にまとめると、自分のアタマで考えた結果、説明のためにものすごいコストや苦労をかけてストレスをためこみ、結果自分の責任が増しただけ。なにこれ?自分で考えるのなんてやめて、他人の、いつものやりかたに乗っかったほうが楽じゃね?
これ、人によると思うけど「よし、この件は自分のアタマで真面目に考えてみよう!」と思い立った結果、、、、なんにも結論が導き出せねえ・・・ってなったこと、ないですか?
やべえ、どの因子がどう関わってるのか整理しきれねえ。そもそもどこの範囲まで前提として考慮に入れるべきかが全然わかんねえ。「Aと言う視点なら正しいとも言えるし、Bという視点なら間違いとも言える」みたいな項目ばっかりで、結論を下せねえ・・・。なにを考えても「他人がだした別案」に引っ張られちまう。あれ?もしかして自分バカなのかな?みたいな。
そのへんなんとかごまかしつつ、ちょっと"甘い"かなって思いながら考察した結論を他人に見せると、もうなんていうのかな、アタマの鋭いやつってのはどこでもいるもので、ピンポイントでその迷い点みたいのを突かれちゃったりする。自分でも「自分バカなのかな」と薄々感づいてる点を、改めて他人にも認識させられるという、この痛恨の一撃的な大ダメージ!
これの根本的な原因は「世界は自分のアタマで整理しきれるほど単純ではないし、不確実性に満ちている」ってことで、そこからすると結論を間違えたり、推論を見失ったりすることは別に恥じることでもないんけど、そういう大きなこと忘れちゃうのよね人は。
それで、結構多くの人は「自分は天才とまでは言わないけども、周囲の中でまあまあ“使える”ほうだし、今は流されてるけど、本気出せば自分で考えて結論出すようなこともできるもんね!」みたいな根拠のない自信を持ってしまう。それが根こそぎ崩れるのはでかい。歳をとってるほどでかい!
これも客観的にみると、自分のアタマで考えたばっかりに、自分がバカであると発見して勝手に凹んでる、ってだけ。あれ?なにしてんだろうねこの人。
さて、親とか親戚とか近所の八百屋さんとか、そういう身近な大人を見てみよう。自分のアタマで考えてる人って、ものすごく少ない。浅いし、近視眼的だし、人生綱渡りだな、的な印象を持つことすらある。
でも、その人たちって、不幸ですか?かなり幸せそうじゃない?自分はすごいという自信のもとに楽しく過ごし、うまくいかなかったことは運が悪かった、また次があるさ、と片付けてポジティブに生きている。掘り込んだ原因分析なんてしないで場当たりに生きてる。若者から人生訓を聞かれたら嬉々として語っちゃう、的な幸せさに溢れてる。
それに対して、真面目に自分のアタマで考えて、結果すり減ったり自己嫌悪に陥ったりするのって、あまり人生を幸せにする行為ではないんじゃなかろうか。どうだろう?
注:これはある種の実験です。なにかに気づいた人はそっとしておいてください