はてなキーワード: 自死とは
深夜の勢いで書き散らかすので長文乱文に目を瞑って欲しい。
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もう30代も後半。結婚適齢期はとうに過ぎた。
付き合うと長続きするタイプだったので10代の後半から20代のうちは常に恋人がいる状態だった。
でも付き合う人付き合う人、みな暴君と化した。原因は多分私。
所謂機能不全家庭で育った。父親からの日々の暴力、母親は見て見ぬふりしつつ父親への愚痴とも悪口ともつかない黒い感情を私に注ぎ続けた。
母は父の従順な所有物だったので後から降って湧いた私には幼少期から家庭に居場所がなかった。
何故生まれてきてしまったのか、小学校低学年の頃から漠然と死にたいと思いながら育った為、自己肯定感もバイタリティも皆無な人間に育った。メンタルを病んだ時期もある。多分今でもどこかおかしいんだと思う。
それが影響しているのかは分からないが他人に興味が持てない。他人様のことを知ってもどうせ惨めな気持ちになるだけだし、増して自分を理解してもらいたいなんぞ烏滸がましいと思っている。それだけでなく、単純に「知りたい」という気持ちが湧かない。
だから、好きだと言ってくれる人を好きになった。私みたいな人間を好きだと言ってくれる人を大切にしなければと思った。大切にされる為には相手の要求を満たせる「いい子」で、従順であらねばならないと思った。
みな最初は優しかった。しかし私が従順であればある程、全てを受け入れようとすればする程、彼らの要求は大きくなり、期待値は高まり、それを満たせなかった際の落胆ぶりは激しくなっていった。そして落胆は怒りに変わり精神的・肉体的暴力で私にぶつけるようになっていった。
そういう状態に陥ると、私の中に私を責めるヤツが出てくる。彼を落胆させ怒らせるような事をするお前が悪いと。生きる価値のないお前を大切に(冷静になれば全く大切にはされていないのだけれど)してくれる人を失っていいのか、お前の努力が足りない、忍耐力が足りない、と。
相手の顔色を伺い、精神的にボロボロになりながらも、恋愛初期のような優しい彼を取り戻す為の苦行だと思って耐えた。この先に何があるか分からないけれど、耐えた先にはきっと輝かしい何かがあると。だからどうにか耐え忍ばなければならないと。最終的には耐えられなくなって別れを告げるのだけれど。
別れを告げると殆どの人が泣きながら去らないでくれと懇願した。自殺を仄めかして引き止める人もいた。情にほだされて撤回することもあったが、結果全員と別れてきたので今がある。
30そこそこの時に最後の恋人と別れて初めてゆっくり「フリー」というものを味わった。
最初は一人でいることが不安だったが、自分の時間を全て自分の好きに使っていいこと、誰かに何かを強制されず自分の意思で好きなことが出来ること、顔色を伺うことや他人の呪縛から解放されて生まれて初めて「自由」を味わった。新鮮だった、楽しかった、いや、過去形でなく毎日自由で楽しい、好きなことをしていていいってなんて幸せなんだろう。ここに来て仕事も上手く行き始めた。出来の悪い私はまだまだ「平均」には遠く及ばないだろうけど。
でも心のどこかで結婚して子を持たねばならないとも思っている。家庭を持ちたい気持ちもある。家庭を持った周囲を羨ましく思う自分もいる。
ただ、気持ちが追いつかない。婚活だの恋活だの、今の世の中溢れているけれど、他人に興味を持てない私にはメッセージのやりとりですら、相手の反応や見えない顔色を伺ってばかりで接待のように感じられ何も楽しくない。無理矢理会ってみても自分から好きになる感覚が全く分からない。ただただ面倒で、今の幸せを壊されそうで、また同じようになるのではと少し怖くて、すぐ音信不通にしてしまう。
どうしてこうなってしまったんだろう、どこまで戻ればまともになれるんだろう。
どうしたら私は「みんな」と同じようになれるんだろう。
もう、どうしようもないのかもしれない。
もう、なにもかも、とっくに手遅れな気がしてならない。
私は私を救ってやれない。何故ならこの気持ちをどうしたらいいのか皆目検討がつかないからだ。自死して迷惑を掛ける勇気もない。誰か私を助けてくれないか、それが無理ならいっそ殺してくれないか。
自由を楽しむ反面、仄暗い気持ちが常にまとわりついてきて、毎日気持ちがぐちゃぐちゃだ。
——
【追記】
独り言のつもりで吐き出したら存外に反応があって驚いています。
同じような境遇の方もいて同じように苦しんでいると知って私だけではないと少しほっとしました。難しいよね。「俺が正しい、君が間違っている」定型文で笑いました。あと「何故俺の言うことが聞けないの?」もあるあるな気がする。
私みたいな状態から抜け出した方もいたみたいで、私もそうなれたらいいな。
どうしたら人から好かれるのか、愛されるのか、という点で悩んでいる訳ではないんです。正直そこはもうどうでもいい。
恋愛に縋る気もなくて、というより恋愛はもう懲り懲りだし、生まれて初めて親や恋人からの呪縛から解放されて、一人で居ることが楽しくて満たされていて、この幸せを自分から取り上げたくないのだけど、まさに規範意識に囚われていて結婚せねばならないと考えてしまう自分との狭間で苦しんでいます。
義務感で無理矢理相手を探しても興味が持てなかったり恋愛に対する嫌悪感や面倒臭さや先立ってしまい、にっちもさっちもいかないこの状況に困っています。
親が死んで完全に一人になったら辛いだろうとは思うけど、結婚したら死ぬ時は一人じゃないなんて保証はどこにもないし、歪んだ家庭で育ったので良好な家庭を築く自信も正直あまりない。私みたいな思いをするのは私だけで十分とも思ってる。
でも、それでも、「普通」に対する強い憧憬の念が払拭出来ない。私にとって30代の「普通」というのが、結婚して子を持っているマジョリティの方々にあたるんです。
幸い仕事は楽しいし年収もまあまあ貰っているのでこのまま一人で生きていくこと自体は出来ると思う。
先述の通り、自分の中でも色々な気持ちが入り混ざり矛盾しまくっていて、取り止めもなく綴ってしまったけれど、私は自由を楽しんでいる私をもう少し認める努力をしようと思う。出来るかどうかは分からないし、こう書いている間にもそれを否定する自分を殺せずにいるけれど。
ヒットで金儲けできるキャラクタコンテンツじゃなくて教育だったんですよ
ギリ合法でねちねち迷惑かけても犯罪ではないですが刃傷沙汰は犯罪ですよニヤニヤっていうのが
貶められた正直者が差し迫って配下には迷惑をかけるが(自死するので)これだけはやらせてくれってのを
配下「ぜんぜん迷惑じゃないよ!それどころか復讐するよ!違法だし筋違いだけど合法で嫌な事するやつは犯罪者に自分が堕ちるとしても!」
配下「だって現行法の良いところをきつくしてみんなが息苦しくなるなら、僕たちだけで悪いやつをのめす方法があることを歴史的に示すよ!」
としてついていったよって話なので国語の教科書にのってた物語をジブリがアニメ化したりしないから教科書は衰退するとかそういう話ではないと思うよ
夢?
それとも現実?
答えは分かったでしょうか?
わかりません。
助けろ下さい
教えて。
今めっちゃ読みたい気分なんだ。
解像度が低い?
了解した。
・怒りに燃えすぎて却って冷静になった運転手は表向き女神に従う
・転生パワーを駆使して十二分な力を手に入れた運転手はスキをついて女神を殺害
・女神の力を奪ったあとは仕上げとして勇者である主人公を倒しに行く
・実は主人公も転生パワーで女神より強いし魔王なんてワンパンだけど立場を利用するために三味線を引いていた
・対等の力の二人がぶつかったとき勝つのはどちらか ←ここから読みたい
知ってる?
なろうに超詳しいらしいはてなーなら知らないはずないよな?
無いってことは流石にないよね?
まえ「お前が想像するような作品は既に誰かがやってる」って聞いたし。
じゃあ頼むわ。
一週間以内な。
思いすだけでいいから一瞬っしょ?
ここ10年20年で幸せのかたちは多様化した、というのは今更言うまでもないね。結婚しなくてもいいよね、ひとつの会社を勤め上げなくてもいいよね、みたいなのはその一例。いいことだと思う。
ただ、その前提とも言える「幸せになりたい」という思いは変わっていないと感じる。みんなそれぞれの方法で幸せを追い求めている。
そこで考えたんだが、あと一歩進めば、別に幸せにならなくてもいいんじゃないかって話にならないだろうか。そうすれば不幸だからと自死を選ぶこともなくなる。幸福も不幸も生も死も積極的に望まず、惰性で生きたり死んだりする。
なんかもう、そんなもんでいいんじゃないのかな、と思ってきた。だからといって心安らかになるとかではないんだが、どうだっていい。どこへ向かおうとも慣性に身を委ねたい。
身バレ防止にちょっとフェイク入れるけど、大好きな母を失いました。
日曜日、よく晴れた日だった。そして寒かった。
母は、優しくて、一歩間違えたらモラハラになるようなガンコな父に頭を悩ませながら私たちを育ててくれた
1度も殴られたりしなかったし、理不尽なことで怒られることもなかった。
寝たきりも覚悟していたが奇跡的に回復して日常生活もほぼ不自由なく過ごせるまでに回復した。
でも優しい母は統合失調症になった。
それから数年、精神科に通いながら、少しずつ優しい母に戻っていった
最後に会った日も、いつも通りの優しい母だった
何が良くなかったんだろう、なぜ?ずっとぐるぐる考える
何より辛いのは、自分や父の存在が母の飛び込みたい気持ちを抑制する要素ではなかったことを示されたことだった
元増田のようなことを読んでみたらあんまり、深く考えすぎない方がいいような、一種の生理現象見たいな、部分もあるかもしれないけど
やっぱり、つらい
でも、教えてくれてありがとう
最初に、この文章を書けている時点で、今のところまだ先にいってないと思う。死というのはいざ向き合うとあまりに恐ろしくて通常の精神では選択したりできない。
自死した者たちはショックや高揚感で頭が一杯になるからそれを克服できてる。愚痴を装って助けを求めたりは一切しない。
準備している間も感情が薄れるからもたもたしていると直前に怖くなってしまう。ここらへんは安楽死と複数回出てきてるからもうわかってるかもしれないが。
そして私もこれとよく似た状況にある。無能であることが、他人に憐れまれることが、有能でないとそこ(社会や職場)にいてはいけないという思いを強くさせる。
この感情の正体は不安であり、無能が原因で集団からリジェクトされるのではないかという恐怖心でもある。こう考えるに至った経緯は幼少期の体験かもしれないし、親の態度かもしれないし、読んだ物語や友達の態度かもしれない。
私については何となくこれだと言えるのは小学校の頃いじめられていたときに、マンガの貸し借りというギブアンドテイクのような形で少数の仲間を無理に獲得したことだ。こちらから差し出すものがなければ、集団にはいられないという刷り込みが発生したのかもしれない。また中学時代、父親は能力主義的なところがあり、自分が指示したことに能力を発揮できなければそもそも相手をしないような人であった。単に不器用な人だったのかもしれないが、無視されるのが成人まで長く続いた。これもおそらく原因の一つなんだろうなと思う。
そして今30代、もう上記の性格を治すことは不可能だと気づきつつある。もしこの性格でも有能であればなにも問題はなかったと思う。単に傲慢なくそやろうとして生きていたと思う。
しかし私は無能だった。有能を望む無能がどうなるかというのは増田にあるとおりだ。自分の心の中でギャップが発生して多分に死にたくなる。これが反対であればよかった。無能を望む有能であれば朴訥とした気持ちの良い人間になれたかもしれない。
本当は天秤の、そこに居ていい権利の片側に乗せるべき、能力といったおもりなど必要ないのは心の奥底ではわかっている。無能ならば開き直り誰かをヨイショしたり踏石になったりゴマをすって生きればいいのだ。
でもそれができない。私の心の中の屈辱心がそれを許さない。前述のいじめの話には続きがあり、一度だけそのいじめ集団が私に仲直りをしてくるような素振りを見せた。しかしそれは非常に屈辱的な行為とともに行われ、私はそれに対して何の疑問持たず受け入れた。その後それが教師によってなされた一時的なたわむれだったことが判明し、私はまた集団から省かれるようになった。その時初めて自分が惨めだったことを理解した。一度屈服するといかにしてもそこを抜け出せないというのが私の頭の中から取れない。
ぐちゃぐちゃ書いたがねじ曲がった人生はその後もねじ曲がった人生しか歩めない。元増田も「生きてて辛いことばっかだったな」とあるからそうなるまでになにかあったのかもしれない。
死が救いに慣れば幸いである
最近、自己肯定感を高めるメソッドなどを読んで自分の中で意識改革があったのだけれど人間は「ダメでもいい」のだ。
「ダメでもいい」のだけれど「ダメでもいい」と思えるようになるのがわたしには難しかった。
そんな考え方になってしまったのは高校生のとき国語の教科書に載っていた、夏目漱石の『こころ』の登場人物Kの影響が大きい。
Kの生家は寺で、修行僧のようなストイックさを持ち勉学に励む青年だ。恋愛にうつつを抜かして真面目な話に取り合わない「私」に対して「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と一刀両断する。
わたしはこの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」に非常に感銘を受けてしまった。
精神的に向上心を持たなければいけない。自分に至らぬところがあれば努力しなければならない。決して現状に満足してはいけない。そして努力の見られない他人を見下すようになってしまった。
(余談だが他人をdisることで自分より下がいると思い込みたいのか、自己肯定感の低い人ほど他人に対して攻撃的になってしまうらしい)
自己肯定感の低い人間がそれらの行動をとるとどうなるのかというと、結果としてわたしは自己否定のループに陥ってしまった。
こうあらねばならないという理想だけが高く努力を続けるが、結果を残せず「もっと頑張らねば」という感情だけが残る。次第に「こんなに頑張っているのに結果を残せない自分とは……」「いつまで頑張らなければならないのか」「頑張っても結果を残せない自分は精神的に向上心のない馬鹿だ」と思うようになった。自己を肯定できない負のループだ。
自己肯定感を高めるメソッドに「小さな目標を立ててそれを達成し続けている」というものがある。だがそれは間違いだと思う。
間違いというより、成功体験を積み重ねることで自信がつくというのは理にかなっているが、高い自己肯定感というものは「ありのままのどんな自分でも肯定できる」ことだ。自信がある=自己肯定感が高いというのも間違いではないのだが、どんなに失敗しても、結果を残せなくても「それも自分だ。それも良い」と思えることこそが自己肯定感の高さなのだと思う。
最終的に「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」の大ブーメランを受けて自死してしまうKの末路には目を伏せて、この言葉を信仰していたわたしにはどうしてもダメな自分を肯定することが難しかった。ダメな自分を受け入れているのは「精神的に向上心がない」。完全にKに呪われていた。
だが人間は「ダメでもいい」らしい。自分のこころを守るために、失敗を重ねた自分を罰して傷つけないように「ダメでもいい」ことを受け入れられるよう考えてみた。「このままでもいい」と言い換えてもいいのかもしれない。今まで向上心をなくさないよう気を張りすぎていたのか、現状を肯定するよう努力してみたら、すとんと心が軽くなった。自己肯定感が低い人間は少しくらい図太く生きてみるのもいいことなのだろう。
身の丈にあった幸せや、すぐそばにある大切なものを慈しむことも自己肯定感を高めるために必要なのかもしれない。「ダメでもいい」とこころで唱えながら今日もKの呪いと戦っていく。
田舎で作った1をかき集めて他人がかき集めてきた1の集まりより
どれだけすごいか相手がどれだけダメかを宣伝して付加された価値をかすめ取って生きてる
借り物競争で負けて0が0のままだと他人が増やした付加価値をお恵みいただいて生きてる
娯楽がそう 自分が娯楽を提供するから勝ち組からおすそ分けをもらう
都会に娯楽があふれているのは勝てない宣伝と刷り込みがあるから
食費がひと月1万円もいかない生活ができる地域があるのに都会では5万円もかかるなど
その行為がまともではない事を本人もわかっているので気を紛らわせる娯楽が必要
農業で神事を行い0から1を作って刈り取る残酷さが自分に向けられないよう
刈り取ったところに返納し感謝する
他人を押しのけて突き落とし勝ち上がってきた自分が他人からみれば同じことをされてもおかしくない
その危機感を薄めるために多くの娯楽がある
都会と断絶することで実現しようとして過疎になったり継続性のみを重視して保守的になったり
コミュニティ単位での運営に成果と報酬を単位づける風習が減っているだけ
どこが住みにくくてどこに住みたいかなんてものはどこにだってある
自分の気持ちの表し方に人間を使って経済をつくってる都会にあわせるのか
自分の気持ちの対話の相手が人間以外多種多様な田舎にあわせていくのか
他人がつくった環境や伝統やルールで飼われて生かされていくのがつらいのはどこでも同じ
こんなこと書いたら叩かれるんだろうけどさ、間違いなく男の発達障害より女の発達障害の方が生きやすいよ。
俺は最近発達障害だと診断されてTwitterの発達障害界隈で生き方とかを模索していたんだけども、まずこの界隈圧倒的に女性が多いんだよね。
構図としては7割女性、2割それを狙う男、残り1割ひっそり活動する発達男性という感じ。
でもおかしいよね。
統計によると9:1で男性の方が発達障害が多いと言われてる。それなのに表に出て活動してる発達障害者は圧倒的に女性が多い。これはいろいろなことを示唆している。
アピールできるというのはそれだけで得だ。何も発さずに内に秘めるタイプは自殺しやすい。
あと、そういった発達女性たちは圧倒的に配偶者を得やすいという側面もある。
これは本当に言いたくないんだけど、生きづらさを訴える女性たちのほとんどが彼氏や旦那さんといった存在を持っている。
よく言われる「でもそんな私にも優しい彼くんがいます」ってやつだ。
同じ発達男性が有意に「モテない」のに対してね。本当に面白いよね。当然、配偶者がいた方が自殺率は低い。
もちろん、発達女性は健常女性に比べると生きづらいと思うよ。でも発達女性と発達男性を比べると発達女性の方が生きやすいと言わざるを得ないよ。
こんなことを言うと「女性にとって配偶者がいるというのはそこまでメリットではない〜」とか言い出す人が現れるんだろうけど、少なくとも自分と合う人が見つけやすいという「入り口の広さ」は女性の方が広いのだ。
数か月前、ニコニコ動画でネズミを罠にかけて殺す動画が数万再生を記録していた。コメントも否定的なものは少なく、みんな興味津々に見ていた気がする。
あとは一昨日、これは当日記を上げようと思ったきっかけになるけど、YouTubeで虫を殺している投稿者を見つけた。その人は、ハリガネムシを自らの手で引き千切る、氷に詰めて凍死させる、カマキリに食べさせるなどして人気を集めていた。
ほかには、カメムシ数匹を瓶に閉じ込めてシェイクさせて自らの匂いで臭死させたり、蜘蛛に付いていた赤いダニをピンセットで半分わざと潰したりする。
共感できなかった。共感できないのは別にいい。それが面白いんだから人気が出る。抗議まではしたくない。
私だって『悪徳の栄え』や『隣の家の少女』や『冷たい熱帯魚』が好きだけど、私の好きを世間に否定されるのは嫌だ。
それよりも気になったことがある。
虐待動画の投稿にあたっての倫理基準だ。どこまでが視聴者に好まれて、どこまでが削除の対象になるんだろうか? 目下の疑問はそれだ。実例で考えてみたい。
実際の事例①
1年ほど前だったかな。とある女性が高層ビルから飛び降りて自殺したのがニュースになっていた。
ただ、その子は飛び降りようとする現場で、直前まで自殺をやめるように説得を受けていた。それが災いしてか、彼女が飛び降りた場面をやじ馬に撮られ、拡散されてしまった。
今でも覚えている。その子が地面に叩きつけられたと思ったら、凄まじい音が響いたのを。人間って、高いところから地面に落ちるとあんな音がするんだ!って思って、その動画を何度も何度も繰り返し視聴した。
蛇頭になった。本題に移る。
ニコ動で、その子が地面に落ちる場面を使ったMADをアップした投稿者がいた。確認できただけで2人いた。
星のカービィに出てくる音楽に乗せて、屋上から飛び降りて、逆再生でまた戻ってを繰り返す動画だった。
半日も経たないうちに運営が削除した。この例からもわかるように、人権侵害とみなされたコンテンツは削除される。
当然のことだ。自死を選んだ人を冒とくする動画は許されるべきじゃない。
できれば、淫夢動画も見つけ次第すべて削除してほしい。野獣先輩は確かにかわいいなって思うけど、あれもれっきとした人権侵害のひとつだ。元AV男優が声を上げにくいことを理由に、あの連中はやりたい放題やっている。
ドワンゴの経営陣に対しては、淫夢動画の積極的な削除を求める。
実際の事例②
ニコ動で、ネズミを殺す動画が流行っていたのは上に述べたとおりだ。
野生のネズミのこともあれば、白いラットの場合もあったけど、罠にかけて殺すのは一緒だ。
その中で、一匹のネズミを数多のピラニアがいる水槽に落とすというのがあった。
ピラニアがネズミを齧りにいく。ネズミは水面を泳いで逃げるんだけど、水槽の端に追い詰められ、ついに流血する。
血の匂いを察したピラニアは、どんどんネズミの方に群がって――あとはもう、ぐちゃぐちゃだった。
監視のために、この動画をとりあえずマイリストに入れた翌日。私はニコ動の運営を見直した。
ニコニコ動画の運営は、血も涙もないオタクの集まりだと思っていた。サイトが盛り上がればそれでよく、人がどれだけ不幸になろうと知らぬ存ぜぬ!だと思っていた。
そうではなかった。人権意識があった。それを確かめることができただけで嬉しかった。
蛇足になるが、私の経験上、生き物を虐待する動画の削除基準でわかっていることがある。
アウト 人権侵害にあたるもの(直接に人を傷つける、または死者が映っている)
性的にいかがわしすぎるもの(見えてはいけないものが映っている)
動物を無意味に殺すもの(犬や猫など、人間に比較的近い生き物)
※最近の例だと、カニを生きたままミキサーにかけた投稿者がバッシングされた例あり
セーフ 動物を傷つけるとまではいえないもの(犬や猫に対し、皿の上にエサを載せないまま出すなど)
人間とは明らかに違う種を傷つけるもの(昆虫、植物、微生物など)
実際の事例③
それでは、ハリガネムシを引き千切る動画はセーフなんだろうか。人間に近くないので虐殺してもいいんだろうか?
ここでその投稿者を晒すことはできないけど、私の見立てでは賢い人のように思えた。サイコパスの実例だ。
その人の動画には、生き物がいろいろと出てくる。出てくるのは主に昆虫だけど、カエルやネズミが登場することもある。
でも、虫以外は殺さない。わかっているのだ。哺乳類を殺したらどうなるか。
例えば、ハリガネムシと同じ感覚でカエルを氷漬けにしたり、ネズミをお湯につけたりすると、コメント欄が大荒れになって、運営に通報されて、動画が削除されて、運が悪いとアカウントも凍結される。
この人の投稿する動画では、毎回のように虫が虐待される。視聴者はそれを喜んで視聴している。
実際に需要がある。普通の人は、虫を虐待しようとは思わない。そもそも触ることができない人も多い。私も最初は、怖い物見たさで再生ボタンを押した。
確認したところ、この人がようつべに上げた動画で運営から削除されたものはない(自分で消したものはあるかもしれない)。ようつべ的に昆虫虐待はセーフなのだ。
「動画サイトの運営者は、削除に関する基準やガイドラインを公表すべきである」という意見を伝えたかった。
ニコニコ動画は公表しているみたいだが、ようつべはしていないようだ。
各行政は認可保育園を増やし、見た目の待機児童は減っているように見える。
我が子は現在、東京都の認証保育園、2歳児クラスに通っている。
認可保育園は0歳の頃から3年連続で落ちている。認証で月9万円くらい払ってる。
そして数ヶ月前に離婚して、ひとり親になった。
元配偶者の不倫の発覚と、その後の歩み寄りができなかったことが離婚の理由だ。
現在は日々の仕事と家事育児をすべてひとりでこなし、オペレーションはキャパオーバー、そして不倫と離婚と子どものイヤイヤ期のストレスでメンタルもボロボロ。そのため都内の別の区に住む親族を頼り、近くに引越そうと思っている。
同じ都内とはいえ片道1時間かかる距離だと日常生活では頼れない。
ところが。
認可保育園の申込みは、その区内に居住していないと受付すらしてもらえない。
認可に申し込んで受かったら引越す、ということはできないのだ。
認可の申込みのためだけに今引越したとしても、今はまだ子どもの預け先はない。そうなると引っ越せるはずがない。
これはすなわち、区外の認可は無理ゲーということだ。
苦肉の策で、親族の家に住民票をうつして認可園の申し込みをすることにした。
(もし現在も認可園に通っている場合は、区外に住民票をうつした時点で退園になる。)
すると今度は別の罠が。
65歳未満の同居人がいる場合はひとり親家庭の加点がつかないのだ。
同居人の状態は考慮されない。同居人だって仕事があって日中に子どもを見たりできない。
加点なしのフルタイム労働の基礎点だけでの保活は非常に厳しい。
東京23区は各区、待機児童解消のため、0-2歳の小規模保育園を増やした。そして2歳から3歳に上がるときに優先的に転園できる仕組みだ。
申し込みは出すが、十中八九、落ちるだろう。
そうなると今の認証保育園を継続し、幼保無償化の対象ではないので毎月数万払い続け(上限3.7万の補助は出るので認証で毎月5万くらいになる見込み)、仕事家事育児をひとりで必死にこなし、精神的にも苦しい生活が続くことになる。
ストレスで子どもに当たりそうになるのを必死で堪えているし、毎日何度か死にたいと思う。
自死だと残された子どもに心の傷を負わせることになるので、いっそ事故などで死んでしまいたいと思う。
区外の転居を伴う保活は本当に厳しい。
バチェロレッテっていう恋愛リアリティショーが今話題、Twitterとかでもよく話題をみる。
性格が良く自立心があり自分の考えをハッキリと持っていてかつ思いやり搭載で素敵らしいんだって。
そんな萌子(とキャラの濃い男性陣)の恋愛模様が話題なバチェロレッテ、正直気になる。
でもさ、でもさー。
リアリティショーってさあ。正直どうなの?
リアルなの?ショウなの?
本人なの?役柄なの?
嘘なの?ホントなの?
わたしは前作のバチェラー3をリアタイしてた視聴者なんだけど、
まあこれが歴史に名を残す程にひどかった(ショウとしては非常にエンタメ度が高くおもしろかった)
信也が恵だったんだよね、結局。
おーい!水田さん、かわいそすぎだろ、ほんま!っていう胸糞展開。
そんな、しんめぐも結婚して、禊した感じになったのか、なんとなく世間も優しくなった今。
「しんめぐの日常」というユーチューバーになって、そのバカップルっぷりに人気がでてる。
恵も名の知れたブランドのモデル活動など増えてて上り調子そう。
でも最終回放映直後はバチボコに批難されて大炎上して「だ、大丈夫…?」ってくらい誹謗中傷もひどかった。
しかし言いたくなる気持ちも正直分かる~~~と思いつつネットを眺めてた。
その後テラハで、炎上からの誹謗中傷が原因で、出演者が自死されてしまう事件が起きる。
そんで世論の流れがバーッと変わった、いや誹謗中傷を正当化するつもりは一切無いんだけど、
だけど、リアリティショーの楽しみ方ってマジむずかしくない?って思ったってこと。
出演者は、リアリティショーは「言えない事情や裏側の都合もある」「放映されたものが全てではない」と言う、
それはもちろんそうだけど、リアリティを求めるからリアリティショーは人気なんじゃないの?
嘘だと思うとした、それはただの恋愛ドラマであって…わからーん!!!
『本人役で、本人達が出演してる、現実の日常風、恋愛ドラマ番組』って意識して楽しむのマジ難しくない!??
むかついたり好きになったりしちゃうじゃん!
でもそれ自体が虚構(ショウ)だからそんなのしても意味なくない!?みたいな。
リアリティがあると思うから、すごいなあとか好きだなあと思うのに、バッシングはダメっていう。
いやバッシングはダメなんだけど、片方の感情だけ禁止するって構造的に無理じゃね?構造的うんこじゃね?っていう話。
だからバチェロレッテめっちゃ気になる見たいんだけど、リアリティショーという構造を支持できない気持ちだから見たくない、
でも構造的うんこに惹かれる自分のうんこさが消化できなくてもやもやするー!
どうしたらこのもやもやは解消できんの?ちゃんとした大人はどんな気持ちで観てんの!?
リアリティショーという構造を、どう正しく視聴者として楽しめばいいのか分かりません、おしえてえらい人。
見なきゃいいじゃんってTBもらって、やっぱそっかーって見なかったけど。
飛び降り自殺で巻き込まれるというのはたいへん無念であるけれど、電車への飛び込みにしろ死者に対する罵詈雑言がすごい。
自死に追い込まれるような環境、いってしまえば社会に対しては何ら顧みられることなく死んだ人間を罵って終わりにするこの貧困さよ。
飛び降りたのが女の子で巻き込まれたのがKKOだったら、あるいは逆の論調になったんだろか? おっさんが1000人自殺しても誰も何も言わないけど、女性の自殺者には敏感ですものね・・・。
私は自分のことを「メンタルが異様に強い女」だと思っていた。最後に病んだのはいつだ?どころか、落ち込んだのはいつだ?と思うくらい、自分の感情がマイナスに寄ることがなかった。私は自分の機嫌を取るのが上手いからな!と自慢にすら思っていた。それは、コロナ禍で外出が制限されようと、日頃から応援していた人のライブが中止になろうと、祖父が余命宣告されようと、影で悪口を言われようと、バイト先でめんどくさい客に難癖をつけられてもそうで、何があっても病まない私最強だな〜って感じだったし、周りにもよく言われていた。「病まなくてすごいよね、うらやましい」
でも結局私は「最強」じゃなくて「最悪」だった。つい先日、私は大学の前期試験成績で学年最下位を取って分かった。ちなみに私は2浪の2年生だ。2浪の学年最下位。最悪でウケちゃう。
で、何が問題って、こんなとんでもないことしたのに全然凹んでいないのだ。落ち込んでもいないし、今考えているのは「親になんて伝えよう」だ。実家に届く成績表は親が見る前に自分で回収した。だから別にバレないかと思っていたけど、成績が悪いとうちの大学は三者面談をされるので逃れられない。その書類が明後日発送される。そいつは私が回収したところでなんの意味も無いので、届くまでにカミングアウトしないと怒りを増幅させてしまうな〜とか、色々。9/10単位落としているんだけど、まぁ追試で拾えればなんとかなるよな〜ってベッドでこれを書いている。多分この調子だと拾えないけど、今からやれば確実に拾えるし留年しないのも分かっている。「やれば出来るのになんでやらないの?」って言われ続けてるし、私もそう思う。コロナでオンラインになったのも全く関係ない。たぶん、登校していてもこうなっていたと思う。今考えるべきこと、これじゃないけど。
こういうとき、普通に落ち込んだり病んだりする人なら、すごい落ち込んで沈んで泣いたりして、でもそこから這い上がろうとするのだろう。それで頑張りすぎて自死を選んでしまう人とかもいるのだろうが、そこまではいかなくても、頑張ろうとすることがまず普通なのだろう。みんないつも最悪の想像をしてるんだな。
私は結局「メンタルが異様に強い」のではなくて「事実を全然受け入れていない」だけなんだと気付いた。私はいつもその時その時の、1番なんとかなる感じの想像しか出来ない。最高の想像では無いけど、なんとかなる想像。これ、逆にメンタルがめちゃくちゃ弱いが故の防衛本能みたいなものなのでは???ということもわかっているけど、どうせこの事実も受け入れていない。気付いて、わかる、知る、そこで全て終わりだ。何かを発表する時や、大きな試験の前、大人数の前に出る時にも一切緊張しないのもこれが原因だろうな。それを失敗した時どうなるかとか、何を言われるかとか何も考えてないし、言われたとしてもなにか起きてもきっと気にしないって分かっているから。成長の余地なし。
成功体験がない訳では無いけど、成功体験による達成感とか喜びがそこまでモチベーションになるタイプでもない。目先にご褒美をぶら下げられるタイプでもないし、まず自分にとって何がご褒美になるのかもよく分からない。もう本当に最悪だ。先述したようにもちろん失敗への恐怖もモチベーションにならない。私はこのまま一生何も頑張れないし、何にも打ち込めないまま終わるのだろうか。メンタルが強いから何があっても別に平気だと思っていた私は、いつもギリギリで生きて、ギリギリでなんとかなったり何とかならなかったりしつつ、それを糧にしないで適当に過ごしているだけだった。私も頑張りたい。みんなと一緒に頑張って失敗してないたり、成功して喜んだりしたい。これ治るのだろうか???私の意識の問題でしかないのかな。なんか病院とかいったら治るんだろうか???さすがにこのまま死にたくはない。