最近、自己肯定感を高めるメソッドなどを読んで自分の中で意識改革があったのだけれど人間は「ダメでもいい」のだ。
「ダメでもいい」のだけれど「ダメでもいい」と思えるようになるのがわたしには難しかった。
そんな考え方になってしまったのは高校生のとき国語の教科書に載っていた、夏目漱石の『こころ』の登場人物Kの影響が大きい。
Kの生家は寺で、修行僧のようなストイックさを持ち勉学に励む青年だ。恋愛にうつつを抜かして真面目な話に取り合わない「私」に対して「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と一刀両断する。
わたしはこの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」に非常に感銘を受けてしまった。
精神的に向上心を持たなければいけない。自分に至らぬところがあれば努力しなければならない。決して現状に満足してはいけない。そして努力の見られない他人を見下すようになってしまった。
(余談だが他人をdisることで自分より下がいると思い込みたいのか、自己肯定感の低い人ほど他人に対して攻撃的になってしまうらしい)
自己肯定感の低い人間がそれらの行動をとるとどうなるのかというと、結果としてわたしは自己否定のループに陥ってしまった。
こうあらねばならないという理想だけが高く努力を続けるが、結果を残せず「もっと頑張らねば」という感情だけが残る。次第に「こんなに頑張っているのに結果を残せない自分とは……」「いつまで頑張らなければならないのか」「頑張っても結果を残せない自分は精神的に向上心のない馬鹿だ」と思うようになった。自己を肯定できない負のループだ。
自己肯定感を高めるメソッドに「小さな目標を立ててそれを達成し続けている」というものがある。だがそれは間違いだと思う。
間違いというより、成功体験を積み重ねることで自信がつくというのは理にかなっているが、高い自己肯定感というものは「ありのままのどんな自分でも肯定できる」ことだ。自信がある=自己肯定感が高いというのも間違いではないのだが、どんなに失敗しても、結果を残せなくても「それも自分だ。それも良い」と思えることこそが自己肯定感の高さなのだと思う。
最終的に「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」の大ブーメランを受けて自死してしまうKの末路には目を伏せて、この言葉を信仰していたわたしにはどうしてもダメな自分を肯定することが難しかった。ダメな自分を受け入れているのは「精神的に向上心がない」。完全にKに呪われていた。
だが人間は「ダメでもいい」らしい。自分のこころを守るために、失敗を重ねた自分を罰して傷つけないように「ダメでもいい」ことを受け入れられるよう考えてみた。「このままでもいい」と言い換えてもいいのかもしれない。今まで向上心をなくさないよう気を張りすぎていたのか、現状を肯定するよう努力してみたら、すとんと心が軽くなった。自己肯定感が低い人間は少しくらい図太く生きてみるのもいいことなのだろう。
身の丈にあった幸せや、すぐそばにある大切なものを慈しむことも自己肯定感を高めるために必要なのかもしれない。「ダメでもいい」とこころで唱えながら今日もKの呪いと戦っていく。
就活のための下調べもやってるしポートフォリオも作ってるし一日ほぼ仕事のこと考えてるし俺はお前よりダメじゃないな
まぁ別に……精神なんて言うパワーワード……今となっては……重要さの欠片のようなもんで……
Kの墓定期
カルボナーラ食べたいな
空洞化しているので眼がしばしばしない
スーパードクターかと思ったのに!
Kを呪ってるの間違いでは
あれ教科書に相応しくないよな
現国の退屈な授業の暇潰しに持って来いなので消さないでほしい。
いうほど暇潰せるか?殺傷力低くない?