はてなキーワード: ラベリングとは
なんていったって、まっぱだかの、何もない状態で、合体するんだ。圧倒的な信頼関係がないとできない所業だよ。
「結婚って無料でアイツとお義母さんの面倒を見ることなの・・・」
とお互いが思っているはずだ。でもおたがいが自分の言い分や本音を言えば、そうなるはずだ。
男性は、自分の身の回りのことをしてほしい、その分仕事をがんばるよ!
女性は、老後の面倒を見て欲しいつまりお金ね、そのためにあなたがんばって!
べつに、悪いことじゃない。
お互い、それぞれの言い分を言っているだけだ。男は男で楽したいし、女性は女性で不安なだけだ。
さて、ここで整理してみる。
女 << 老後や生活の安定や向上
この源泉ってなんだ?
男 << 女
女 << お金
つまり、女のほうが原資は少なくて済むはずだ。男をおだてて、うまく扱ってやればいい。
しかし、女性が満足するためには、男ではなく現物が必要だ。たいていのばあい。
とすると、原資は女性が投じたほうが、うまくまわると思うのは、私がいま酔っているからだろうか。
それでも、
男はATM、女は家政婦、子はかすがい。
子供の成長や元気な姿はお互いの利益なはずだろうから、そこだけ一致すればいいんじゃないかな。
生物的には、男はとにかく競争して勝ち残り、良い遺伝子を残すために、強者が生き残るという世界を、なんとかして生き延びなくてはなららないんだし、
ぜんぶとはいわないけれど、おおくの女性は、コミュニティを維持するために共感をベースに和を保つことを強いられるわけだし、
それぞれやることはいっぱいあるわけで、共通のハッピーがあるだけでも、恵まれているんじゃないかな。
男女平等とはいうけれど、現実との落とし所として、ある程度のラベリングは受け付けていかなければ、生きていけないわけで、
それでも、いつかは先立たれるよりは、自分のほうが先に逝ってしまいたいと願うのは、許して欲しい。
残されたら寂しいし、先に言っていろいろレビューするから待っててね。
男はATM、女は家政婦
それでもいいじゃない。
喧嘩腰にも理由があって、それも3つほど違う理由があるんだと色々あって悟ったよ。
仕事で怒鳴ったりする人の半分以上がコレ。
仕事をミスする、遅刻が治らない、虫の居所が悪い、思い通りにいかない。
そういう時に怒鳴ったり、怒ったり、喧嘩腰にしか「できない」人というのが居る。
自分のフラストレーションを周囲にぶつけることに、特に罪悪感を持たない人ね。
「ああ、この人は自分の感情をコントロールするように躾けられたり、自分で気がつくタイミングがなかったんだな」と一歩引いてみるのが一番。
自覚がないし、罪悪感も道徳観念も違うので、「そういう人」とラベリングして適当に距離を置くのが一番。
絡まれたのが自分でも「ああ、この人は元気だなあ」と一歩引くのが対処法。
良く読むと怒ってなかったり、それその口調で書くだけで損してるよな、みたいなの。
あと、なにか気に入らないんだけど自分の語彙では表現できない、なんてときに良くやってる。
ゴミとかカスとか低能とか書いちゃう人は、まあ大体がコレ。怒ってるわけじゃなくて、カッコつけてる。
そういうのが面白いとか、そういう書き方のほうがウケるだろうと思ってる。
人によるし芸風にもよるんだけど、たいていは失敗してなんだか微妙な感じになる。
ネット上なら無視するのが一番だし、日常生活でも無視するのが一番だね。
一昔前の暴走族と同じで、相手をすると喜んで絡んでくるので完全に無視して、実害があるときは通報。
まあ、捨て台詞なんてのもこの分類かな。
残念ながら世の中には、喧嘩腰とか慇懃無礼とか一切折れない姿勢を見せることが有効な場面というのは、存在するのです。
本当はそういうの良くないんだけど、キレたオッサンだけ特別対応してとりあえずお帰り願う、みたいなある種のゴネ得を許容する対応ね。
責めないでやってくれ。超面倒なのよ話の通じない怒鳴り散らす御婦人に売り場に延々と居座られるのとか。
あと、ネット上だと、日常生活の裏返しで、喧嘩腰でも相手が対応してくれると、それで良いんだと考える人も居る。
オレが喧嘩腰で書き込んだからこそ反応があったんだ普通だと反応ないのに、とこれもまたゴネ得の一種なんだけど。
まあ、ネット上なら完全に無視してそういうのは無くす方向が良いと思うんだけどなあ。それもまた対応次第だしなあ。
ぶっちゃけ、メリットとかやる意味があると思ってる(もしくは何も考えてない)相手がやるので、
それはそういう身内で好きなだけオラオラしてて下さいと思って離れるのが良いんじゃないかな。
仕事の時は上司を呼べ。上司なら警察を呼べ。最近は警察も対応してくれるし。
その意味で最近のネットでも揉めたら即裁判ってのは良い傾向だと思う。(ホントはそういう未来はあんまり好きではないが)
そんなわきゃないんだけど、口なら何言っても良いと思ってる人も増えてきたしなー
こんな当たり前過ぎること、いちいち言うのも嫌になりますが今回のクソコラがなぜダメなのかって不謹慎だからとか不快だからとかそんなんじゃありません。
実際にISISの人間がツイッター上で間抜けなオタクどもが作ったコラ画像を見ている。
人質の生殺与奪を握られている状況で、です。彼らが逆上して人質に危害を加えたらどうするのか。その程度の現実感覚すら持ち合わせていないのか。あるいは分かった上でやっているのか(もしそうなら本当に人間をやめている)
まあ彼らオタクに何を説こうが諭そうが無駄です。全てがネタの破滅型思考なので。それに巻き込まれる人間はたまったもんじゃないのですがね。
自分もそのオタクの1人です。でも今回の件でさすがにもう無理になりました。
今まではこういうことがあっても、「作品とそのファンは別なんだから作品だけ楽しんでりゃいいや」とか「全てのオタクがこんなんじゃないよな」
と自分をごまかしごまかし楽しみを失わないようにしていましたが、さすがにもう無理です。
ISISのクソコラは今のオタク文化圏をこれ以上なく的確に象徴しています。
自分はツイッターで好きな漫画家さんを何十人もリストに入れていて、それをついさっき遡ってみましたが、オタクどものクソコラを諌める声なんてありゃしません。
当然です。クソコラを作ってるようなオタクが彼らにとっての商売相手ですから。
でも彼らはずっと気付かないのでしょうね。そういう態度がどれだけオタク界隈のパイを削っているか。どれだけの人が辟易して離れていっているのか。
今に始まったことじゃありません。
例えばニコニコ動画のある系統のボーカロイドの動画につけられる「仕事を選べない初音ミク」みたいなタグ。わかる人にはわかると思いますが。
こういうものを見て離れていっている人は相当数いるでしょうね。
「そんなもの気にせず楽しめばいいじゃん」と言う人もいるかもしれませんが、そこまでクズに成り果ててまでオタク趣味をしたくないですよ。今のオタク界隈はどこまでクズになれるか、タブーを破れるかを競うような風潮さえありますけど。
そういえばISISのクソコラの中にアニメ「ご注文はうさぎですか?」の画像を使っているものがありましたね。じゃあ例えばそれをアニメの公式アカウントに知らせたら彼らは毅然とした態度が取れるでしょうかね? 今のオタク界隈を見るにかなり怪しいと思いますが。それくらい腐ってますよホント。
もうどうでもいいです。好きなことがこんな風に成り果ててしまうのは本当に悲しいですけど、人間やめてまでオタクを続ける気もありません。
他人の人権を平気で踏みにじって、ネタとして喜ぶようなカルチャーは滅びなければいけない。それで儲かるような人がいてはいけないんです。勝手にやってろってことじゃないんですよ。
手始めに各週刊紙にアニメごちうさの画像を使ったISISのクソコラを送ります。複数枚です。
ごちうさは自分の大好きなアニメです。だからこそこんな風に使われるのは許せないし、それを咎める人間がいないのならもう滅びていくしかないでしょう。
人命がかかっている時にこんな風に持ち出されて、ネタにされて、心ぴょんぴょん? ふざけんなって話です。
オタクは白い目で見られ続ければいい。
偏見? 差別? 違いますよ。見抜いてる人は見抜いてる。オタク界隈の腐り切った精神性を。
でも最後に少しだけ謝ります。ツイッターにもほんの少しだけ、ほんの少しだけですが良心的なオタクがいます。他のゴミのようなオタクにどれだけネタにされ、マウントされ、お花畑扱いされても、今回のクソコラ祭りを諌め、なんとか抑え込もうとしていたオタクの方々が。
彼らは言っていました。「オタクがみんな同じだと思われたくない」と。
ごめんなさい。こうやって腐らずにやっている人に対しては本当に尊敬を感じるし、逆張りしている自分が恥ずかしくなる。でも自分はそこまで根気強くはいられませんでした。
悲しいですけど早々と抜けさせてもらいます。
http://elielierika.hatenablog.jp/entry/2015/01/06/023000
社会的に罪を償った人間の社会復帰を妨げるようなこのような意見は、犯罪歴という「スティグマ」に対する差別にほかならない。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%B0%A5%DE
社会復帰してはならないというのならば、暴力団などの犯罪組織の中で暮らせということなのだろうか?
不安だからという理由で社会から排除するということならば、ナチスによるゲットーとなんら変わりはないのではないのか?
社会学者のハワード・S. ベッカーはOutsidersという著書において「逸脱者」を生み出す社会構造について論じ、
「逸脱者」とは「逸脱者」の行為によってではなく社会(マジョリティ)からのラベリングによって「逸脱者」になるとしている。
つまり上のブログで行われているようなラベリングが社会からアウトサイダーを生み出し、かつて社会秩序に組み込まれない非差別集団としての穢多非人を生み出した行為である。
僕の生活圏では、やたらと「優秀」だったり「イケてる」という単語が耳に入る。
後者は比較的に若い人で構成されている僕の環境のせいで間違いないだろう。
僕自身、恐らく持ち前のコンプレックスであろう感情も合わさって
そういったラベリングには酷く虫酸がはしる程に嫌いなのである。
「優秀な人材が欲しい」
皮肉かもしれないが、これもまた彼らが大好きな「引き寄せの法則」という何ともスピリチュアルな
物に則るとすれば、周りに優秀やイケてる人材が居ないのは、それはお前自身が優秀でもないしイケてる訳でもないからであり
一番の近道は自己研鑽に励むのがいいのではないか?という気持ちを告げずにはいられない。
最後に話の趣旨と逸れるが、いまどき「イケてる」なんて言葉使う人の感性がイケてないと思う点と、
そんな単語を使うような人とは関わりたくないと思うという点を付け加えておきたい。
そもそも、ご熱心なママたちの間では「ヨシケイは悪」なの?使ったことないしママネットワークとか糞だと思ってるので全然情報を知らない。
献立セットで組み立てられた食材の宅配サービスだよね。そんなに蛇蝎のごとく「低学歴ならではのセレクション!」みたいにヨシケイを持ち出すのが
すでにちょっと独特の気持ち悪さがある
ご指摘の通り「ノート板書命女子」的なラベリングをしたのは、臨機応変さがないなぁというイメージから来たものだけど、
「ヨシケイ=子育て的には低レベル=中卒、もしくは底辺家庭のご出身」みたいになってるのが、なんか凄いなぁ…と思う。ちょっと選民的すぎるというか。
ノート板書命女子、というラベリングに腹を立てての、売られたけんかを買った状態だとしたら、ハハ図星だねーって感じだけど
自分も某スーパーのプライベートブランド商品もあまり選ばないし、半調理品や中食を利用することもあまりないけれど
共働きで回してる家庭なら食材宅配は便利なんじゃないかと思うし、少なくとも外食続きや中食ばかりよりは、ずっと良い選択肢だと思うんだけどな。
常に100%全力投球で良い親なんてやらなくても、別にほとんどの人間はいまいちな親にそこそこに育てられても楽しくやってるわけだし
とくにスマナサーラ氏とか、そういうあたりだ。
僕も仏教の考え方は好きだ。一番いいのは信仰を求めないことだ。
仏教の場合、「信じる者は救われる」ではない。「実践する者は救われる」だ。
種類はいくつかあるが、基本的にはアーナパーナ・サティ経に則った瞑想が多い。
また、瞑想にもサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の2種類がある。
長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り(pajānāti)、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。
短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。
「私は全身の感覚を把握しながら(paṭisaṃvedī)息を吸おう」と訓練する(sikkhati)。
「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。
「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。
これが呼吸による気づきであり、熱心に行い、このように自身を訓練することは大きな果報となり、大きな利益となる。
第一に、ラベリングをしながら瞑想をするというものだ。ラベリングとは、実況中継とか説明されることが多い。
これはマハシ・サヤドー(1904-1982)さんが考案したもので、マハシ系と呼ばれることが多い。
考案と言っても、新しく作ったのではなく、知識の深かった彼が旧来の解釈とは違う解釈をしたというような感じだ。
具体的な方法は日本テーラワーダ仏教教会のホームページなどで見れる。
呼吸をするときに
と実況中継(ラベリング)をするという特徴がある。
呼吸瞑想の他にも歩く瞑想や座る瞑想が同協会のホームページで紹介されている。
他には、ゴエンカ系とパオ系がある。こちらはラベリングは行わない。
こちらに関してはやり方はあまり知らない。
また、呼吸瞑想がヴィパッサナー瞑想かどうかにも意見が分かれているようで
また、マハシ系は呼吸ではなく、おなかの膨らみ・縮みを見る場合がある。
http://anond.hatelabo.jp/20141016144352
http://anond.hatelabo.jp/20141016145302
http://anond.hatelabo.jp/20141016141642
バブルなライフスタイル=「金がなきゃダメ」と捉えてるんじゃないんだよ。
「すべては市場の中で相対比較されてしまう」という症状は、バブル以降に生まれている人にも当たり前に見られる病状。「リア充か非モテか」とかさ。ラベリングしてカースト化して、自分はその中のどの場所にいるかを測る。
交友関係、恋愛感情、家族関係みたいなもんは、本来は、相対化されるようなもんじゃなくて、当事者同士の個別体験であるはずが、いつの間にか「友達よりも○○である」と相対評価になって、それが当たり前になった。
使えるお金の量の話をしてるんじゃないんだ。「人生のイベントの一つ一つすべてがマーケット化している」ということ。
ちょっと話は違うんだけど、就職や結婚も、相対化しているし商業マーケット化している。
「シューカツ」「コンカツ」なんて省略されるようなライトな扱いになってるのが、その証左になるんじゃないかと思うんだけど。
そして今や、「人生はすべてマーケット上で相対評価されるものでしかない」のが当たり前になりすぎて、絶対的な人間関係があるなんて都市伝説みたいなもんなんだろう
(他からの評価が不要な)絶対的な幸せ、絶対的な人間関係を持っている人を、「勝ち組」とラベリングしてマーケットの上にのせる作業ばかりが上手くなる。
微ブスと付き合って自分の相対価値が低く見積もられるくらいなら恋愛しない、大企業に入れなければゼロだ、みたいな妙な信仰めいた思い込みも、「人生マーケットで勝ち組になれるか」と考えると説明が付くかなぁと思うんだ。
本当は、その人の人生の価値なんて、マーケット上の相対評価で決められるもんなんかじゃないのに。
あと、「はいはいバブルバブル」って言って、妬みや嫉みや色々なものを紛らわせてるのかもしれないけど、ちょっともう寒いわ。そこに留まってても何も出てこない。
いまの愚行権の話題ってさ
國府田マリ子のすばらしさを語って「國府田マリ子を称えるBeeメイツになろう!」ってシメて
「Beeメイツはそうじゃねえだろ」って総ツッコミ食らってるように見えるんだよね。
分かり難いか。
まずね、id:netcraftさんは謝った方が良い。
「愚行権」という単語で定義される概念は、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論(1859年)」にあって、
それなりに一般的な学術用語として、その歴史的な経緯を踏まえて定義付けがなされている。
だから、いかにキャッチーであろうとも、自分の表現したいことを「愚行権」とラベリングした時点で、
「オマエの言う愚行権は、ミルの定義とは違うし無知乙」と言われるのがオチで、学術的にも混乱を招くので良くない。
原則の第一は、個々人は、その行動が自分自身以外のだれの利害とも関わらないかぎり、自分の行動について社会にたいし責任がないということです。他の人たちが自分の利益のためには必要と考えてなす、忠告、指図、説得、忌避は、社会が彼の行為にたいする嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段なのです。第二には、他人の利害を侵害するような行為については、個人に責任があり、もし社会がその防衛のためには社会的処罰や法的処罰が必要だという見解をもつなら、そのどちらかの処罰に服すだろうということです。
他人が、忠告、指図、説得、忌避をするのは、嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段としてる。
(ミルは結構過激で、飲酒が原因での暴行前科があれば、飲酒に対しての予防的な制限は適法とまで書いてる)
だから、netcraftさんが主張したいコトのために「愚行権」という単語を使うのは、全くもって間違っている。
netcraftさんが主張したいことって、ダイバーシティ・マネジメントの概念に近いことなんじゃないの?
Twitterがバカ発見器と言われるように、私達はソーシャルメディアを通じて毎日全国や全世界の馬鹿を発見しては、イナゴのように食い散らかして消費する。
このエントリで言わんとしていることは、「愚かなことを表現しても、他人から、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされないこと」じゃないの?
このままでは混乱を招くので、ここでは仮に「愚表権」とするな。
この場合、1番目まではアグリーな人間であっても、2番目はノーセンキューだったりするだろう。
そりゃそうだろう。今だって認められてる。
他人に害を及ぼさない限り、例え「他人から見て」愚かでも、現在だって自由に行える。
(その人が子供だったり、錯乱していたり、興奮したり上の空で、よく思案する能力が十分使えないというのでなければ)危険の警告を受ければ十分で、危険に身を曝すことを無理矢理防ぐ必要はないと思います。
ミルは少なくともそう言っているし、現状でも限りなくそれに近いことになっている。
ただ、ミルは自己責任で、自分が犠牲になっても良しとせよと言っているけど、実際には警察や消防等のリソース(つまり税金)が投入されてる。
だから、「自分自身以外のだれの利害とも関わらない」については、ある程度予想できることについては予防的に禁止されてる。
この線引きに文句を言いたいわけじゃなかろう。
netcraftさんが主張したいことってこっちじゃないの?
たぶん一番近い表現は、the right to diversityだけど、より広い概念だと思うんだよ。
肌の色、国籍、宗教、性別、趣味で差別されるべきでない、許容すべきだって言うのは、その通りで、ダイバーシティーなんて単語が使われてる。
例えば、「私はキリスト教徒です」というだけで、会社での昇進が遅れたり排除されるのは、正義ではない、と今の社会はされている。
「オマエはアイヌであることを止めないんだから、自己責任の基、ネットイナゴや政治家からのヘイトも受容すべきだ」とはならないだろう?
(それがアグリーな社会もあり得るが、現代日本ではそれは政治的には正しくない態度とされている)
この、「趣味」の部分に、極端な性癖であるとか、「刑事罰に至らないような行為」を入れて欲しいって事じゃないのかい?
俺が愚行権の話を読んで真っ先に思い出したのは、NHKの「ドキュメント72時間、トランクルーム もうひとつの秘密の部屋」なんだよね。
取材されていた人達は、それが他人には理解されないと痛々しいほどに理解していた。ただ、そっとしておいて欲しいと願いながら。
趣味嗜好で、バレたら後ろ指をさされながら生きていかなきゃいけないって、やっぱり間違ってると思うんだよね。
今までは、勝ち取ってこないと権利は得られなかった。
レインボーフラッグ振って、主張して主張してやっと、「居て良い」レベル。
アナと雪の女王だって、どうみてもカミングアウト後の家族との和解の物語だろ。
他人から、誰に迷惑をかけるわけでもない趣味に対して、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされる。
ある程度以上定義付けがなされた単語を使うときは、注意しよう。
「刑事罰に至らないような行為」を許容して欲しいという主張は判る。が、それを愚行権とは呼ばない。
ネット上での愚かな行為を、ムスリムを見つけては過激なメンション飛ばさないのと同じで、尊重しようっていう主張は判る。
netcraftさんの主張とは違うが、放置権みたいな「叩くのではなく、そっ閉じ」される権利は、確立されて欲しいと思う。
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John Stuart Mill : On Liberty (4th ed.1869 [Originally published in 1859])の日本語訳である
自由について、ジョン・スチュアート・ミル:著、永江良一:訳 http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html より行った
ネットを見て、普段接することのないような低学歴な方々と議論する機会もあり考えることがあるのですがそもそも彼らは「考え方」がなっていないんじゃないかと。
人と議論をする時、意見を戦わすのではなく属人的な部分を叩いて優越感を得ようとする。
論理的じゃなくて感情的なんですよね。でも、ここを批判してもそもそも理解していないから聞く耳すら持たない。
あと、自分が社会的に下の立場にあることから上の人達に一種の恐怖を抱いており、陰謀論をよく唱えます。
これは天井をみたことが無いことに起因する恐怖なんでしょうが、たとえば高学歴、エリートなどを自分の頭の中で消化・ラベリングし適当なことを述べ見下そうと必死です。
彼らの意見は物事の本質を見ているのではなく、保身であり目的は普段得ることのできない優越です。
こういう彼らには「考え方」や「議論の仕方」などという大人として当たり前のものを身につけてもらう必要がありますが、自分が受けてきた教育を見てもそのようなものは一切ありませんでした。
自分の中でのアニメオタク(特に萌えオタ)に対する嫌悪感が一体何なのかきちんと考えてみた。
すると恐るべき結論に達してしまった。これから書くことは正直私も断言して良いものかどうか躊躇している。しかし、アニメ文化の発展のためにも、心を鬼にして書かなければいけないことだ。
今までも、そしておそらくこれからもずっとそうだ。これは岡田斗司夫のような豚野郎の言う「オタクは死んだ」でも、東浩紀のような豚野郎の言う「読者の質が悪い」でも、宇野常寛のような豚野郎が言う「萌えオタはクズ」でもない。もっと根幹に関わる重大なことだ。そして恐ろしい事実だ。
まず、オタクがオタク向けに作ったオタクアニメが大きな評価を得てきたことは今まで一度たりともない。
名作を作ったクリエイター側は言うまでもなく、『ガンダム』の富野由悠季は仕方なくアニメの現場に降りてきた人だし、『攻殻機動隊』の押井守は元々映画監督志望でジャン=リュック・ゴダールを敬愛していてたまたまタツノコプロの求人が目に入ってアニメ業界入りした人だ。
「でも、今は世界的にアニメブームが起きているじゃないか」と萌えオタがブヒブヒ言ってきそうだが、それは幻想である。まず90年代後半に盛んに言われた「ジャパニメーションブーム」を取り上げると、これは岡田斗司夫がオタクの地位向上のためにでっち上げたものだ。本人も後にそれを認めており、外からの圧力に弱い日本でオタクが市民権を得るにはそれしかなかったと言っている。この岡田斗司夫の苦肉の策に電通や村上隆が乗っかり、ジャパニメーションブームという虚構ができあがったのだ(元々別称だったジャパニメーションという言葉を良い意味として輸入したのが村上隆である)。
まずは、宮崎駿。アカデミー賞も受賞し、名実ともに日本を代表するアニメーション監督といった地位を得ているが、その作風はアニメ界ではむしろ異端である。スタジオジブリ的なもの、宮崎駿的なアニメは本人にしか作れず、その作風を引き継ぐような後継者は未だ誰一人いない(宮崎駿の後進育成が下手という話ではない。宮崎駿に影響を受けた人間が外で宮崎駿的なアニメを作ったっておかしくないのに、そんな人は日本にはいないのだ。海外ではどうか? そう、モンスターズインクを制作したピクサーが後継にふさわしいだろう。言うまでもなく彼らはアニメオタクではない)。
宮崎駿にはオタク的なるものを避けて避けてやっと今日の地位を築いたという歴史がある。オタク的なものを避けて世界的評価を得た、これは非常に重要なポイントだ。
押井守もその一人だ。『うる星やつら』を制作し、オタク向け監督の一人で終わるかもしれなかった彼は『機動警察パトレイバー2 the movie』や『攻殻機動隊』においてオタク向けアニメ的想像力を捨て去ることで作品の強度を確立した。『ビューティフル・ドリーマー』はどうなんだ、という声があるかもしれない。これには後に押井守がこう語っている。「劇場版第一作『オンリーユー』を作ったとき、原作者やファンが喜ぶことを全部詰め込んだ。上映されると当然原作者やファンは満足したようだが、作品的には酷い代物だった」。この諦観によって『ビューティフルドリーマー』は作られた。オタクから距離を取ることで傑作に仕上がったのだ。
他にも大友克洋の『AKIRA』だって一見すればわかるようにオタク的な想像力から離れたものであり、渡辺信一郎の『カウボーイビバップ』だってそうだ。
オタク監督だと言われるウォシャウスキーやタランティーノだって、ウォシャウスキーはSFの人で決してオタク的想像力に耽溺しているわけではないし、タランティーノは高校中退して一日中映画を見まくっていた怪物だ。
エヴァンゲリオンを無視しているじゃないか、と言われるかもしれない。確かにエヴァはオタクがオタク向けに作ったオタクアニメであり、社会的現象を起こすほど大ヒットしている。だが、これ一本でもってオタク的想像力の勝利にはなりえない。何故ならオタク外にも評価されたオタク監督は庵野ただ一人、例外中の例外なのだ。その庵野ですら、オタクの偏狭さに嫌気がなして反オタクに改宗した。その事実をオタクは裏切った、とこれまた偏狭さを見せて批判している。
このようにオタクがオタク向けに作ったオタクアニメで傑作が生まれたことは、一件の例外を除いて存在しない。オタクが喜ぶ想像力や「萌え」なんてものは全然強度を持ち合わせていない(十年前にオタク的想像力でオタクに受けていたクリエイターの今の地位を思い浮かべて欲しい、それが十年後の山本寛や新房昭之の姿だ)。
むしろ、オタクの好みに少しでも外れると烈火のごとく怒り、作画監督が少しでも個性を出すと作画崩壊と騒ぐその類まれなる偏狭さは害悪だと言ってもいい。
オタクはオタク的な想像力から外れるような、例えば『スーパーミルクチャン』や『TAMALA2010』のようなアート的アプローチから生まれた傑作を評価できない。どちらも発売時にはタワーレコードに平積みされ、オタク的想像力は一瞬で敗れ去った。
それどころか『フリクリ』をオサレだとかラベリングして嘲笑するほど、子供のような舌でもってクレームをつけて回っているのだ(『フリクリ』はガイナックスが作ったオタクアニメじゃないかという屁理屈が聞こえてきそうだ。ガイナックスは今や庵野の反オタクキャンペーンによってオタク的な人間は駆逐されており、鶴巻は反オタクの急先鋒である)。
そして、それは明らかにアニメの進化を阻害している。その理由を書こう。
まず、オタクが大好きな絵柄、要するに萌え絵はアニメーションに不向きなのである。あの頭と目が大きく、等身が低くて身体か華奢という構造は、見た目通り人間的に動かすというのは困難だ。だから、どのアニメにおいてもよく動くと言われるものは萌え絵から距離を取っている。萌え絵を選択すると自動的に紙芝居的な動きが縛られたものしか作れなくなる。ディズニーが萌え絵を選択せず、あのような絵柄なのは動かすことを念頭に考えているからだ。
しかし、アニメオタクは萌え絵以外の絵柄のアニメを「絵が変」と言って嘲笑し、批判する。ここがアニメオタクの一番の問題点であり、私が害悪と言い切る理由だ。
例えば近年稀に見る傑作である『鉄コン筋クリート』を例に出そう。この作品も「オサレ」「絵が変」といって批判されているが、この作品こそアニメーションの快感、動くことの快感を思い出させてくれるものはない。画面の中を縦横無尽に動き回るキャラクター達が見るものの心を掴んで離さない。そして、それはアニメオタクが「変」といって批判するその絵柄が貢献している。もし、この作品が萌え絵だったらここまで動くものになってはいない。現にそんな作品はない。
そして、アニメーションの快感を蘇らせたのがオタク外のマイケル・アリアスだったことは非常に重要だ。アニメオタクはアニメーションのことがわかっていない。だから、スタジオジブリ的なものをピクサーに取られ、アニメーションの快感をマイケル・アリアスに取られてしまうのだ。
もう一度言おう。オタク的想像力は強度を持っていないし、オタクが好むアニメ絵はアニメーションに向いていない。アニメーションに向いているオタク的じゃない絵を排除するその思考はアニメの進化を阻害している。
アニメオタクが本当に現実逃避ではなくアニメのことを愛しているのなら、今すぐアニメを見るのをやめて即刻退場することだ。それが一番の貢献だ。
http://anond.hatelabo.jp/20140723005236
ああなるほど。
「私に対する名誉毀損的表現であり、少なくともはてなの利用規約に違反」→「迷惑行為、嫌がらせ行為、誹謗中傷行為、正当な理由なく他者に精神的被害・経済的被害を与える行為」
確かにこちらとしては「的」に込められた意図は見落としていました。が、
ユーザーは、本サービスを利用するに際し、以下のような法律違反行為を行ってはなりません。
(略)
「裁判に訴えて認められるかどうかはわからないけれども、少なくとも、はてなの禁止事項として例示してあるようだから、とりあえずはてな的に白黒つけるために通報しといた」というふうに受け取れたのです…。
さて、つまり「自分はネットストーカーではない(粘着はしていない、とか?)、にもかかわらずそのようなラベリングをするのは誹謗中傷である」というようなことをおっしゃりたいのだと理解してよいでしょうね。
しかし、言及した人のインタビューズのことまで把握して(そんなのやってたことも知らない人が大半だと思いますよ)、その上であのようなことを書いてしまう、それでいて「 何を言っても許されるというような、甘い考えは捨てた方が良い」とも書くあたり、これはいったいなんの冗談だという感想しか出てこないです。もともとのわきまえる云々の主張も、「自分は言及した人を類例に自らの思考を開陳しただけ」といったことを考えているように感じられますが、そうした態度も総合して「ネットストーカー(いまこの流れで、弱り目の人の過去をあれこれ言っている)」と言われたとしても、言論上許容されうる評論と見なされるんじゃないかなあ(匿名者以前の問題として)。
はてなへの通報自体はもちろん自由であり、そのことを非難するものではありませんが(おそらく受け入れられないだろうという予想があります)、それをするということ自体が、もともとどうかなと思う言動をしているに止まらず、わざわざ自らを貶めているように見えます。
しきりに読み手の理解力がないということを匂わせていますが、もうひとつ伝達力(文章技巧ということに加え、コミュニケーション)の問題が横たわっているように思えてなりません。「他者によく読めという前に、自ら伝えんとすることそれ自体をよく考えよ」ということです。
それではおやすみなさい。
器質性たって、そりゃ人間の行動原理全ては器質性によるものだろ。
それがなんとなくこういう屑な連中はこういう感じかなー、ってなってる程度じゃん。
単に屑な行動したら皆そうなる、ってだけだとしたらだからなんだ、って話。
逆に言うと、それを矯正することは人間の行動の自由をそのまま制御する恐ろしい話になるけど、それでいい?
そもそも、ラベリングが無ければ投薬やサポートにアクセスできねーよ。
先天的なものであれば先に見つけ殺すなり排除するなり別のところに放り込むなりすれば良いかもしれないが、
後天的なものであるならば、ちょっと最初におかしな行動をとったことにより
ADHDだと言われ、そうだ僕はADHDだ、と思い込んでどんどんそうなってく、って話だよ。
そんで、その話を使ってどんどん逃げてく。
治療やサポート受けて上手くいかなくてもADHDのせいなんだーって。
友達が精神科医をやっているんだが最近新しい精神病患者が増えているらしい。
例えば、自分の意思伝達能力の無さを疑わず他人をアスペルガーと呼ぶ奴
彼らに共通して見られる特徴は既存に知られている精神病を周りの人に無理やり当てはめ
自分の問題を棚に挙げ、他人を精神病患者扱いし、攻撃する事だ。
まだ決まった病名はないが、精神障害ラベリング症候群(PDLS)と呼んでいる人が多いとの事だ。
知人によると精神科医のなかにもPDLS患者が結構居るんじゃないかという事だ。
彼らに共通する特徴として、コミュニケーション不全があったときに
共通して責任を他人に求めるところがある。
彼らがもっとも危険なのは自ら組織のトラブルメーカーでありながら
他人に責任をなすり付けスケーブゴートにするため、組織が徐々に腐っていく。
こわいよ..PDSL..