はてなキーワード: クラスタとは
フェミニストと喪女は本来共通する筈なのに、実際には酷く隔絶されている印象。
「家事育児を押し付けられるから結婚したくない!」とは言っても「私がブスだから結婚できない」とは絶対に言わないのがネトフェミ。まあ実際皆さん美人さん揃いなんでしょうよ、私と違って。
喪女クラスタとフェミクラスタが隔絶されてるのってフェミニズムの趣旨からすると不思議に思えるのですが、むべなるかな。
本来主流となるべき喪女層にフェミニズムがいまいち浸透しないのは、日本の今のリベラルフェミニズムが「女子高生」や「ワーキングマザー」等と言った、「女性の中では比較的恵まれている層」ばかりに焦点を当てて、本来フェミニズムと最も親和性の高い筈の、「容姿に恵まれず差別される若くない独身女性」という層を無視しているからだと思います。
ルミネのCMは批判されたけれど一過性のもので、ルッキズムの害悪に切り込んだ分析は進まなかった。
「フェミニストがモテないブスばかりと思うなよ」という主張がバリバリに感じられるようになったのはいつからなのか…2006年に『バックラッシュ!』という本が出た頃にはまだ状況は違っていたように記憶している。やはりTwitterの普及後かな?
「痛いフェミニスト」になりたくないが為の良妻賢母思想が今の日本のフェミニズムの主流だと思っている。それは実質保守主義といっていいのではないかと。
実際に既婚や子持ちである層だけでなくそれとは掛け離れた立場にいる女性でさえ、負け組独身子無し女性より勝ち組子持ち女性の保護を率先して語るのは何故だろう。「あんな痛いブスと一緒にされたくない」現象?
「女は集団全体の利益の向上を図らず集団の中での上澄みに立ちたがる」…『女』を主語にするのはミソジニーめいているのであまり言いたくないのですが、でも今の日本のリベラルフェミニズムからは凄くそういう気配を感じる。
フェミニストの全てが喪女ではないが、喪女は全てがフェミニストであるのが自然な姿だと思う。なのにそうならなかったのは何故なのか。
女に「少女」と「母親」以外の価値を見出さないという点においては、日本のリベフェミの皆さんは宮崎駿よりもよっぽど徹底しているように見える。
今年で25歳。
女性にとっては積極的に恋愛対象として選ばれない容姿であるという自覚はある。
しかし、女性とは友達レベルでの関係は構築できていたのでコンプレックスまみれで童貞をこじらせる奴らと自分は違うと勝手に思い込んで過ごしていた。
同世代が結婚していく波のようなものを感じることが多くなった。
高卒就職組が23~25くらい、大卒と院卒の結婚ピークが27~30ぐらいだろうか?
つい先日、小学校のころ片思いをしていた同級生の女の子が地元の優良企業勤めの男性と入籍したという報告をSNSで見てショックを受けた。
もう自分は結婚もおかしくない年齢になっていたのか。ちょっと前に高校を卒業したような感覚であった。
そこで今までの人生を振り返って暗くなってきたのだ。
結局中高大と純愛を経験することなく、これからは年収や社会的地位が「男の魅力」と不可分なものになるステージに立ちつつある。
打算的、と一言では片付けられない。こんな先が読めない時代なのだから。
容姿に恵まれなかったが平均よりほんのちょっと上ぐらいの給料をもらっている自分には、そういう人生のステージに入ったことは救いがあるのかもしれない。
でも、自分がそういうゲスな異性に需要と供給がマッチするまでひたすら比較されることに耐え、
純愛がしたかった。たとえ、容姿だけでシビアに選別される段階の女性にフラれ続けても、告白しまくればよかった。
そんなしょうもないことを考えて過ごしていたとき、ある出来事が起こった。
たまたま入ったファミレスで、JS5(もうこういう書き方が「その筋」の人には察してもらえるだろう)、つまり女子の
そのとき2人を一瞥して、「いまどきは小学生でもこんなにかわいい子もいるんだな・・・」と思っただけだった。
妙に2人が大人びて見えた気がした。
そして、セルフサービスで飲み物を取りに行くときに小学生の2人がファミレスで何をしているのかと思って何気なく彼女らを見た。
かわいい。
自分があの子たちと同い年のときでも、絶対に付き合うことが出来ないレベルのかわいさだった。初見では気づかなかった。
たぶん、サッカー部あたりの運動神経がいいイケメンの男子と付き合っているんだろうなと思った。
「類は友を呼ぶ」なのか、2人ともかわいい。
自分の席に戻り、食事を食べたが頭の中は隣の2人組とかつて小学校時代にモテていた同級生女子のことでいっぱいになった。
入籍した片思いの子をはじめ、中学や高校でとっくに彼氏を作り処女は捨てているだろうモテていた女の子たち。
経験値を蓄えた今の彼女たちは「目利き」がさぞ上手いんだろう。
かつての同級生と比較しながら、隣の席にいる彼女たちには「清純さ」を感じた。
「清純さ?ハァ?」
彼女らは男を年収や勤務先で目利きしない代わりに容姿で男子を選び、恋愛をするだろう。
その容姿中心の選択や、打算的な性質は成人女性のそれと全く変わらないものだと昔誰かが言っていたのを思い出した。
それでも。
それでも、成人女性にはない清らかさを感じてしまったのだ。目覚めてみなければ分からないだろうが。
そのファミレスでの一件があった後、Twitterなどで必死に「その筋」の人たちのクラスタを探した。
以前、事故的にゲイのアカウントを見たことがあったので、性的嗜好マイノリティであるロリコンも必ずTwitterにいるはずだと思った。
どんな単語でエゴサーチをしたのか思い出せない。しかし、何度も「ロリータ」を求めてサーチしていくうちに、
子役やアイドルを養成する芸能事務所の名前でアイドルがヒットすることが分かった。
そこから先は早かった。
「その筋」で話題になった子役、JSアイドルのライブや握手会に参加するひっそりしたアカウント群を見つけた。
気づいたら何人かの彼らを「愛好家」のリストに登録し、そのリストをチェックするようになっていった。
ターゲットゾーンはJS5~JC2まで。確認してみたらJS5の女の子が一番多かった。最初に抜いたのはJC1の子だけど。
書いていたら我慢できなくなったので、ここまでにする。
ここ2,3年くらい、Vimが妙に流行っている。はてブやqiitaでもVim関連のページが出れば大量にブクマがつくし、「俺はVim派だから」みたいな発言を大学だったりtwitterだったりでもみる。
しかしその実、世間に出回る「vim tips」みたいなのをみると、cやr,はたまたw,$,0,..など超がつくほど基本的なものしか載っていない。
なんでこんな常識的なものにこんなにブクマつくの???っていっつも驚く。
昔はvimに憧れるワナビーがブクマをつけてるのではないかと思っていたが、どうやら今のネット界隈では「vim派」と言って通ぶることが一種のステータス?になっているのではないかと思うようになった。
ちょっと前に流行ったvim pluginブームにもびっくりした。vimはあくまでもIDEなんていらないスクリプトを書いたり、CUIでエディットしたい時に使うものだろう。
ものには使いみちというものがある。文章、少なくとも日本語はVimに向かないし、Javaの開発ならeclipseですらvimよりよっぽど生産性が高い。
vimにpluginなど入れて喜んでいる一部の人達をみると、やはりvimで通ぶっているだけではないかと思えてしまう。
.vimrcは長けりゃいいっていうものではない。それがemacsに対するvimの美徳のひとつではなかったのか。
そもそも、vim人口が見かけ上増えているにもかかわらずemacs人口が増えていないのがおかしい。どうも最近のvim派の人たちはemacsをあまりうまく使えていないようである。(俺のまわりだけかもしれないが)
昔のhackerはエディタ戦争なんて言いながらもお互い両方のエディタを使えたものだ。大体がshellでset -o viなんてしたら使いづらくて仕方がない。shellはctrl-aで先頭に戻るし、ctrl-rで履歴検索をするものである。
そもそもエディタ戦争なんて洒落にすぎないんじゃないかと個人的には思っている。viとEmacsは基本教養である。どちらかしかできないのは文盲のようなものである。
vimvim言ってブクマしてるみなさん、vimtutorは起動したことありますか?Vim関連の記事を100個ブクマするよりよっぽど有用です。
Do one thing and do it wellって知ってますか?一つのプログラムでなんでもしたいならwordかVSで十分です。無理してviを使う必要はないです。
俺はまだLinuxを使い始めて10年くらいだけれど、エディタはvi(m)一筋だった。
何がいけなかったのだろうか。
あとviとvimがうんぬんというブコメありましたが、逆に今日びviとvimを使い分けることがあるんでしょうか…?
(もちろんインストール直後のdebianとかだとvim.tinyしか入ってないけど)
普通/usr/bin/viってvim.basicを指してることが多いと思います。もしvim.tinyを指していたらごめんなさい。
てかaliasなりupdate-alternativesみたいなの使われたほうがいいのでは…?
id:akanehara (増田はじめてだからよくわかんないけどブコメに返すのこれでいいの?)
いやね、俺はNeoなんちゃらとかなんちゃら.vimとかのプラグインが流行りまくってるのどうかと思うんよ。
vi使いたくてあんなゴタゴタした画面分割するならtmuxかscreenで別タブにシェル開けばいいしそのほうが拡張性高いじゃん…っていう。
それかVSなりIntelliJで(ちなみに俺はeclipse使います。微妙にdisったけど)
あとはSIGSTOP(てかSIGTSTPか)で止めるのもよい使い方だと思う。
とにかくこれからviなりunixを使い始める人達がああいう害悪に影響されてほしくない。Neoほげほげよりtmuxとかctrl-zのほうがのちのちず~~~っと役に立つから。
viが流行ること自体はいいと重います。emacsももっとはやって欲しいです。nanoは即update-alternatives --config editorするんで知りません
と思ったらなんかみなさんいろいろ考察してくださっていますが、今やviクラスタ≠unixクラスタなのか…
なんてこったい
TeXは確実にGUIのほうが使いやすいよ。俺はTeXstudioだけど、シェアウェア買ってる人もいるね。特に仕事道具にしてる人は。
vimじゃあPDFからジャンプとかできないから校正の時とか使いづらいことこの上ない
一理ある
問題はvim scriptはelispに劣ってるところだと思う。
言語プラットフォームとしてみたときやっぱりemacsには一日の長があるよ
なのにpluginとか言って喜んでるのはなんか違うと思うなあ。
Twitterの、あるクラスタ監視用アカウントのタイムラインで、
デートの時男は奢るべきだ、奢らないべきだ、
キラキラアカウントの女性は、あまり貞操ないなという印象がより強まった。
その受け答えややりとりに、自分の育ちがすごく出てしまっていて、
私は、この文脈で言うと、奢られたくない女 になるのかもしれない。
総合職8年目、会社ではある程度の地位も得て、のびのびと楽しく仕事をしている
いわゆる、多分、キラキラ女子に比べると、バリキャリ女性なのかもしれない。
お金を稼ぐ大変さも知っているし、なんとなく、私は「奢らない男性」の気持ちに
近いものをもっている気がしている。結婚しているから、そういう気持ちになるのかな?
もちろん、誰にでも奢られたくない というわけではない。
ただ、奢られる相手はしっかり選べ、と言いたい。
のがとても気持ち悪いと感じる。
男は女を養うべきだみたいな論調と似てる気がする。
女はおごられるべき?女は男に奢らせるべき?
確かに男性を惑わしそう。でも、その隙から見える、なんというか
頭悪さとか、そう、食い意地がめっちゃある下品な感じ、に似てる
私は、最近は奢る女になっていると思う。
そう、自分は奢られるのは嫌だ、パワーバランスが、立場が下になる、
とか言っていながら、自分は奢って、相手に対して上に立っている。
そんな自分も嫌いだ。
Twitterで旬ジャンルのイラストをぼちぼち上げてて、結構評価されて、大手さんから自発とかもらって、最初はすごく嬉しかったんだけど、最近は疲れしか感じなくなっていた。
朝起きて、今日は何描くかバスと電車の中で考えて、授業中考えたものをプリントの裏に落書きして、学校終わって帰ったらごはん食べて、食べ終えたらパソコンつけて落書きを清書して上げる。
毎日ほんとうにその繰り返しだった。ここ二ヶ月、帰ってからお絵描きしかしてなかった。自分の考えたネタや絵にいっぱい反応が来るのが嬉しくて、毎日毎日描いてた。趣味の読書も、買ったゲームも、全然しなくなった。
でもフォロワーが増えていくにつれ、人への嫉妬の気持ちがどんどん膨れ上がってきて、「私よりフォロワーの数が少ないのにこの人は私の何倍ものふぁぼをもらってる」だとか、「こんな漫画でなんでこんなに反応もらってるの」とか、そんなことばかり考えるようになった。無意識に粗探ししちゃって、前みたいに人の二次創作を純粋に楽しめなくなってしまっていた。
そんなんだからRTは当然ミュート、フォローしてる人でも嫉妬の対象になる方はミュート、最終的にはクライアント変えて「pic」で単語ミュート。同ジャンルクラスタの画像を完全にシャットアウトした。
そんでもって私も毎日毎日お絵描きしてたから、ネタの中身が段々薄くなってきていて、最近前みたいにドカンといいねが貰えなくなったなあと思ったところで、あれ私なんのためにお絵描きしてんの?ってふと思った。自己承認欲求の為にキャラを利用してるように思えてきて、(ていうか多分そうなんだけど)自分がすごく嫌になった。
なるべく毎日イラストをあげないと飽きられてしまうみたいな気持ちで追い詰められながらするお絵描きはあまり楽しくなくなっていたし、CPのdisとか、自己投影バリバリのパロとか、誘い受けタグとか、検索避けなしのオープンエロ妄想とか、そんなんばっかのフォロワーを見ているのも嫌になったし、毎日なんだかイライラしていたし、勉強もしなくなったから成績はガタ落ち。Twitterをするメリットよりもデメリットの方が明らかに大きくなっていたことに今更気づいたので、今日アカウントを消した。
これで毎日お絵描きする生活はおしまい。人の二次創作も、それに対する反応も全部見ずに済む。人に嫉妬しなくていい。人を気にせず絵を描ける。と思ったらスッとしたけど、同時にすごい喪失感に襲われて苦しくなった。現実世界の友人知人よりも遥かに多いフォロワーも、2万もいいねをもらったネタ動画も、みんな消えた。でもこのまま苦しみながらお絵描きして、勉強をおろそかにして人生を棒にふるよりかは、かなり、かなりマシだと思った。
これからもそのジャンルの絵は描いていくつもりだし、どうせなら誰かに見て欲しいので、自サイトを整備した。しばらくはそこで引きこもりながらゆっくりとお絵描きしていきたい。
政治の話題って、右と左でそれぞれ模範解答がテンプレ化されてるものが多い。
でもときに、これのようにテンプレ化されてない話題が出てくる。
そんなとき、多くの人は口をつぐむ。
ツイッターなんか見てても、参照先がない、
つまりまだ自分が所属するクラスタ内で模範解答がテンプレ化していない話題に関してはスルーして、
ネコかなんかの話題でお茶を濁してる人を見る、普段はあんなに威勢いいのに。
そういうの見ると、なんかガッカリする。何かを追求したいわけじゃないんだなと思って。
まぁ、対抗勢力を叩いてストレス発散してるだけなんだなぁと。
(もちろん、ちゃんと問題に向き合ってる人もいるけど)
8歳(とされている)のシンプルな疑問に、素手で純粋に応えようとしてる感じが空き。
テンプレ化されてない問題だから、回答もバラエティにとんでて並列である。正解がない。
そしてその正解のない問題のほうをみんな向いてる。
(いつもの政治の話題なら、問題そっちのけで右と左が石なげあってる場面も多いけど)
そういうふうに考えていくと、このネット上で右左が繰り広げる現象自体が、
この8歳への回答のひとつになるかもと思う。
自分のクラスタには優しく、むこうのクラスタには厳しい。それが人のさがだと。
そしてそんな大勢の中、徒手空拳で問題に挑むはてなの人々こそ、平和の鍵を握っているのだと!
pixivで絵が好みの同じジャンルのクラスタさんを見つけたので
そしたらメッセが帰って来て
「やっていますよ。」
「本当ですか!」
「はい、〜クラスタの方は皆さん大方フォローしています。でも私ツイッターには絵を上げていません。」
「そうなんですかどのアカウントですか?(੭ु ›ω‹ )੭ु⁾⁾♡」
という会話で終了してしまった。
件のホラー映画の件もゾーニングだが、「全年齢映画の上映時に18禁映画のCMは流すな」ってならそれは規制の一種だ。
同じくそう思った。
あれがもしグロじゃなくてエロだったら、アニメクラスタは件の人を擁護するんだろうなと。
今まで自分たちがやって来たことと全く同じ構図だという事に本人たちは気付かないんだろうか?
じゃあなんでアニメクラスタが今回規制やむなし側に回ってるのかというと、状況が違うというのもそうだけど、単純に自分の興味がない分野だからどうでもいいんだろうというのが大きい気がしていて
「どうでもいい」よりむしろ積極的に「グロなんて見たくない」人が多いからだと思うよ。
「アニメを見に行ったら見たくもないグロを見せられて嫌な気分になった」と言う状況に共感出来る人が多いんだろう。
http://anond.hatelabo.jp/20151124230538
「アニメクラスタはゾーニングの判断を自分もすべきと考えている」?それはどうだろう。
件の人は「自分が見るの嫌だからってすぐ規制規制言うな」みたいなことを言っていたけど、人工知能学会表紙問題とかバトルガールCM問題とかロリエロ本規制問題とか、いわゆる二次元コンテンツへの規制・撤回が求められた時、アニメクラスタを含む多くの二次オタはこれと全く同じ反応をしていたように記憶している。「この程度で規制だなんて」「誰かが少しでも嫌がる表現はするなってのか」「嫌なら見るな」「このままじゃ萎縮は免れない」ってね。
(もしかしたら彼らはノイジーマイノリティだったとか、均一に見えて実はアニメクラスタだけはゾーニングに対して理解度が高かったとかかもしれないが、少なくとも自分にはそうは見えなかった)
じゃあなんでアニメクラスタが今回規制やむなし側に回ってるのかというと、状況が違うというのもそうだけど、単純に自分の興味がない分野だからどうでもいいんだろうというのが大きい気がしていて、つまりは結局どちらも「迫害された歴史を知っているせいで、自分の楽しみが邪魔されようとしているのを見ると過剰な反応が出てきがち」というだけなんだろうなと個人的には思っている(そういった個人的感情を脇に置いた上でしっかり反対できる人もいると思うけれど、そうじゃない人の方が多そうという話)。
特に件の人にとっては折しも『食人族』のDVD発売中止事件があった直後な訳で、あのルサンチマンはアニメに対するものというよりはこういった文脈で考えるのが妥当だろう。いやまあ件の人がもともと「荒れ」な人だというのももちろんあるだろうけど。
ええと、つまり何が言いたいかというと、今はおじさんおかしいと思ってる人でもおじさんの立場になったら案外そういう行動をとってしまうかもしれないし気をつけたいですねということです。
はっきり言ってしまえば、虐殺器官のトリックもハーモニーのアイディアも、SF的観点からするとさして目新しいものではない凡庸なものだ。
にも関わらず、「夭逝の天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。
虐殺器官に出てくる心理的マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価のスター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的なもので、一部の組織や企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。
彼の死から早6年、彼の最後の作品である屍者の帝国が、Project itohの最初の映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。
6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダの映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝の天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるものが始動してしまう始末。
それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大の小説が映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画そのものに対しては皆口をつぐみ、挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。
はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。
映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。
批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評と規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。
だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。
このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。
「おかえり、フライデー」
人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。
原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるものは今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガやアニメの原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品の映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。
原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作のストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰な姿勢だと思う。
文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルとwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納的演算に基づいて情報を付加すると、あたかもjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観を理解したうえで、原作に存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実(現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語の圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。
こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。
私はかつて植民地だった地域によくある上海の租界のような場所が好きだ。それは現実の宗主国の建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスやイギリスの建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎の女形が女性より女らしいようなものだ。
映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作の面影を感じることができたと思う。
ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン、目黒雅叙園に相撲の浮世絵ジャパン、映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命の時代に屍者技術なるものが存在した場合どんな世の中になるかというSF的観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。
「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなたの言葉の続きを。」
原作ではフライデーが円城塔で、ワトソンが伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃を脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である。小説のエピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソンが円城塔でフライデーが伊藤計劃にあたり、旅の目的は伊藤計劃の復活である。映画の文法としては旅の目的の明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLだノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクターの書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。
冒頭にも書いたが伊藤計劃の小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。
最近壱河ふぇーす氏がtwitterで話題になっていて困惑を隠せない
あんなネトウヨだとは知らなかったしあんなリアル不審者だったとは知らなかった
仮に絵が好みだったらtwitterで「艦これ絵師」としてフォローしちゃうかもなあ、とは思った
(いや好みじゃないのよ彼の絵。受け付けないほどじゃないので見かけたら保存するけど)
(http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=48721984という絵にしても、
総統閣下シリーズはじめヒトラーいじりなんてあちこちでやってるし、
なのでまあ、あの30,000人超えのフォロワー、
全部を全部リアル少女への加害行為への期待で得たフォロワーと考えるのは違うとは思う
(もちろん黙認してたとか制止しなかったとかについては問えるだろうが)
彼が最近うpした艦これ絵のまとめを見ると、コンスタントに1,000以上のブクマがついてることからもわかる
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=51816344
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=52305833
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=52503044
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=53034669
(俺もそう認知してた)
そもそも艦これクラスタ以外で名前知られてなかったってのがあると思うけど、
これな
かなりあちこちで見かけるんだわ
もちろん、たとえばラブラブな夫婦を見かけてすごい可愛かった、とか、そういう罪のないイラストも多い
twitterで他人を晒す、なんて、もうtwitterではありふれた行動様式になってる
でも、その行為と壱河ふぇーす氏の行為とのあいだに明確な線を引けるか、というと、危ういよね
「カップルのやりとりが可愛かった」
「○○の店員さんの行動がユーモラスだった」
「××の店員さんが可愛かった」
へは地続きですよ
もちろん、行為が地続きでも、倫理的・社会的に「これやっちゃアカンやろ」という一線は引ける
壱河ふぇーす氏はその一線を引くことができなかった
これがあったからこそ線引きを見失うアホが一定数出てくることになっちゃったのよね
壱河ふぇーす氏は「やりすぎた阿呆」であって、
似たようなこと、一歩間違えれば変わらないことをやっている奴は五万といる
壱河ふぇーす氏の行為が許されないのは当然として、そういう連中も何がしかの反省は必要だろう
っていうか自分の人生を切り売りするのは自己責任だけど他人を切り売りするのはそうじゃないんですよ
(自戒を込めて)
いやまあ、どのジャンルでも学パロとか盛んだし、そもそも学園ものという一大ジャンルがあるわけで、
艦これの場合、リアルな学校(三次元)と艦娘(二次元)を結びつける発言が多すぎる
というのがあるよね
艦娘の制服、特に吹雪型や陽炎型や朝潮型のそれは、リアルな学校の制服と通じるものがある
加えて、ここが大事なところなんだけど、
学園ものの作品でも、ちゃんとストーリーや深いキャラづけがあれば、
俺の教室にハルヒはいないのだとしても、ハルヒと同じ教室にいたらなんて妄想はごく少数だろう
ストーリーがなく、
という、妄想を繰り広げたい向きにはもってこいの性質が備わっちゃってるんだよね
で、なにが起きるかというと、
「俺も○○ちゃんと同じクラスになって学園ラブコメしたかった」
「というか俺が学生のころ○○みたいな女子が同じクラスにいた」
みたいな妄想が(一部で)盛り上がりまくるわけだ
例→http://dic.pixiv.net/a/%E9%BB%92%E6%BD%AE%E7%97%85
(はてなにもこういうネタを杓子定規に繰り返してる連中がいるが見てて痛々しい)
吹雪型に至っては、
「芋っぽい」とほんとあちこちで言われまくってる
(この言葉使う奴ほんと滅びてほしい)
こういうの頭に入れると、壱河ふぇーす氏の発言の数々、意味がわかるようになるでしょ
→http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%81%97%E3%81%B0%E3%81%B5)
ここまでくると二次元と三次元の境目なんてどろどろに溶けてるも同然ですよ
三次元の少女への欲望を二次元に仮託してるなんて誰がどう見ても明らかじゃん
それ踏み越えてどうすんだよっていう
仮に電車の中で可愛い女子高生見かけて、エロいな、描きたいな、って思ったとしても、
(言っとくが、露骨にガン見、とか、クラクション鳴らして振り向いてもらう、とかは、もう不審者だからな
艦娘学パロとかにしてりゃ誰も傷つかずに済んだんですよ
というかもうまずいことになりつつあるよ