はてなキーワード: お笑い番組とは
お笑い番組とか、昔はタブーがなくてやりたい放題だった、みたいなことが言われたりするんだけど、そうじゃなくて、昔もタブーはあってマズイことをやれば苦情の電話が鳴り止まなかったりして、それはそれで問題だったんだけれど、時代の流れとして、そういうタブーとかで縛り付けてくる勢力には絶対に負けないぞ!という社会の空気感とかこれからの時代はこうなんですよ!意識のアップデート(なんて言葉はなかったが)して下さいよね、みたいな感じだったんだよな。
これはもう長い歴史の中で人類の文化に起こる繰り返し性みたいなものなんだと思う。
ある時期には開放的な方向へと振れていくし
ある時期には規制的な方向へと振れていくという。
ルネサンスやらその反動やらとかってそういうことみたいなことだろ?
まあ今の時代はそれが規制的な方向へと向かっていく時代ということで。
だからある時期に来ると突然、今みたいな堅苦しい主張をする人たちのほうが意識のアップデートが出来ていない老人たちってことになる時代に反転するんだと思う。
なんか昔の「みんな野球を見るもの」くらいの圧で「みんなお笑い見るもの」って感じてる。
関東の住人だから特に、というのもあるし、幼い頃お笑い番組でやってたイジメ芸を学校で真似してる人たちを目撃したせいもある。
お笑い、見なくても良くないですか?
いや、昨今、人を傷つけないお笑いになってきたとは聞いてるよ。でも『地雷踏んだら半日滅入る』話があったように、笑われる属性側に少しでも自分と共感するところがあると、何年も何十年も引きずるんだよね。そのためだけに人との会話もできなくなる。お笑い番組の真似でイジメられてた男の子のように、私がなる恐怖。なる訳ないよと言えるのはいじめる側にしかいたことのない人間だと思うし、実際飲み会の女性グループでは私は『面白い』らしく、プークスニヤニヤされたりする。
そんな状態で「M-1くらい見なよ」って、地雷の上でタップダンス案件なんだよなぁ。
ともあれ。
お笑い見なくてもスポーツ見なくても怪談やホラー避けても戦争映画見なくても大ヒット上映中見なくてもガンダム見なくてもONE PIECE読まなくても飲み会でアルコール飲まなくても美容院で美容師と頑張って会話しなくても、肩身狭くならない社会がいいよね、うん。
あのさ、
茹で玉子の固ゆでの黄身のパサパサ具合は敵なのに
あれも固ゆで黄身なのにホクホクでお出汁に溶いていただいても超絶美味しいわよね。
サッカーの監督も負けたときはパサパサ具合全部水分持ってかれる!ってすごい勢いで言われるけど、
勝つと本当におでんの茹で玉子の黄身がとっても美味しい!ってなくては欠かせないものですね!って手のひらを返したようにおでんの茹で玉子の黄身も美味しそうに食べるわよね。
監督業って大変だわーって思ったわ。
もとい脚腕で全部決まるのなら
監督ってサッカーゲーム最強に強いんじゃない?説あると思わない?
まあそんなわけで私はサッカー試合リアルタイムでテレビで観られるわけないミッドナイトだったので、
枕元に置いてあるレイディオを付けたのよ。
半分まどろみながら聞いていてなんか6時頃になって試合が終わって勝ったみたいでよかったわねって、
監督って勝ったら本当に良く言われるけど、
負けたら大変よね。
たぶんこの2~3日は監督目線のにわかサッカーファンの話しで花が咲くわよね。
急にあなたサッカーそんなにいままで好きだったっけ?って人に限って監督目線で言う人の話が面白すぎるし、
実家の母はお笑い番組を見て作家目線で芸人さん特にバカリズムさんに辛口にコメントしているのとかを見ていると、
すごい角度からものを言うわね!って端から見ていると面白いわよね。
残念なのが今年の新語流行語大賞に「森保一監督」ってのがノミネートされずに終わってしまったのが悔やまれるわ。
また文字が間違ってましたーって「森保ー監督」じゃなくて「森保一監督」でした!って藤田二コルちゃん現象もこの時期では
そのもうビッグウェーブに乗れないし、
ワールドカップの時期的に新語流行語大賞には初めからノミネートされる気が無かったのよ。
よくツイッターでハッシュタグは!ってラジオないとかで発表されるけど、
タグが散らばってしまって集中しないかのような現象とも似ているし、
でも本当にサッカーの監督で行うサッカーゲームの実況見てみたいわー。
興味があるわ。
あの手のゲームってリアルな実際にいる選手が登場してるじゃない、
そういう選手の能力パラメーターって個別に設定評価加味されてるのかしら?
だとしたら、
全く能力が一緒の真っ白なプレーン選手たちを位置から操作指示してってなると、
新の監督の手腕
いやもとい脚腕の実力が発揮されそれこそ監督の能力のみで勝負が決まると思わない?
茹で玉子の黄身は
ホクホクしていて味が染みて美味しいし、
出汁に溶いたりして食べたりするのも良し!で美味しいよね!って
すごい言い方をされるのに似ているなって思ったことが今日のおでん作りの茹で玉子の仕込みの励みになるわ。
だから
べ、べつに
かけたわけじゃないんだかんね!
うふふ。
それは隠しおにぎりとしてひっそりとお腹が空いたときに食べる用で置いておくわ。
ウメとワカメの2タイプのフレーバーが1つのパッケージに入ったタイプのやつなので
食べきらないと行けないタイプなので、
海の寄せては返す波のように海感があるわよね。
いまいち風味が違く感じがして、
フレッシュスライスジンジャーが無かったからしょうが無いわね!って
生姜だけに諦めたわ。
でもまあホッツで温まるのは温まったので良かったわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
いややっぱ昔のお笑いが悪かったと思う。あの時代は芸人が一生懸命みっともなく『頑張って』みせて、それをバカだアホだと嘲笑う風潮だった。
つかあの頃のお笑い芸人は本当ひどかった、マジ家畜か奴隷かって感じで。殴る蹴る罵る汚物をかける。雑巾食わす。人として尊重されてるようには見えなかった。というか何してもいいサンドバッグが『面白い』だったんだもんな?
マジ昔のお笑いは他人の欠点をあげつらうもので、努力は『欠点がある証拠』くらいに思われてたと思う。
当時のお笑いで育ったおじさんたちは、だからバカにする側にいることに固執する。努力してるなんてバレて自分が人として格下、嗤われる階層に堕ちるなんてことは、人としての尊厳に関わる。
なお私はされたことないけど(イジメグループは複数あったので)、お笑い番組の真似して『遊んでる』集団は見たことある。ああいうの、やる側は仲良く遊んでるだけの認識で、「相手も楽しんでる」と信じてたりするんだけど、苦しい言い訳とかじゃなくて本気で信じてたりするの、怖いよな。
それに比べれば、今は笑ったりされることなく努力は努力で当たり前に認められるものだ。そりゃ方向性の違う無駄な努力は認められないこともあるけど、でも「頑張って難関大学に合格しました」と聞いてビン底眼鏡連想して「ガリ勉かよ、プフー」「全裸にして水ぶっかけようぜ」「肥溜めに落とそうぜ」となる人間は劇的に減った。
夜行バスの思い出を気紛れに綴っていたら、連想ゲームのようにN君のことを思い出した。これも何かの機会だと思い、ここで書き残すことにした。予め断っておくと、ほとんど夜行バス要素は無いし、N君という呼び名も、星新一式のニュートラルな呼称であり、実名のイニシャルではない。
N君は、高校の同級生で同じクラスだったが、特に俺と親しかったわけではない。俺の記憶の中のN君は、優等生でも不良でもなく、運動部所属でも文化部所属でもない、あまり目立たない帰宅部の生徒だった。
ここでド田舎の高校あるある話を解説しておくが、当時の暗黙の了解として、生徒は部活動に所属すること、しかも、運動部が最も望ましいとされていた。文化部は、運動部より一段低く見られ、帰宅部となると、教師や保護者から胡散臭く見られるという始末だった。俺はといえば、オタクのくせに無理をして運動部に所属し、体育会系集団と校内オタク集団の間を、コウモリのようにフラフラしていた。
そんな風にド田舎の同調圧力に屈していた俺から見ると、校内のどのようなコミュニティにも属していないように見えるN君は、孤高というか不思議な存在だった。
N君は、俺を含めた同級生との休み時間や放課後の会話に、自ら積極的に加わったりすることは無かったものの、会話をする機会が有れば、分け隔てなくフランクに接して明るく話す程度には社交的だった。俺も他の同級生も、N君を特別に好きだったかどうかはともかく、特別に嫌ったりはしていなかった。帰宅部にも関わらず、運動部に所属する生徒たちから見下されたりするということがN君はなかった。優等生でもなかったとは書いたが、話し方や物腰を思い浮かべるとN君の頭が悪いとも決して思えず、むしろ頭は良さそうに俺には見えた。
特に親しかったわけでもない俺の、N君に関する記憶や印象は、おおむね以上のようなものだった。
在校中の特筆すべき思い出を残すことも無く、高校を卒業して実家を出た俺は、田舎の度合いが出身地と五十歩百歩ぐらいの、他県にある大学へと進学した。
大学の夏休み、実家へ帰省してゴロゴロして怠惰に過ごしていた俺に、親は「在校中にお世話になった顧問の先生に、挨拶ぐらいしに行け」と言った。仕方なく俺は、運動部OBとして母校に顔を出し、OBらしく後輩たちにアイスクリームの差し入れを振る舞ったりした。母校での野暮用を済ませ、帰宅するために母校から最寄りの駅へと向かった俺は、その途中で、偶然にもN君に再会した。市外から汽車(ディーゼル列車を田舎ではこう呼ぶ)で片道一時間強かけて通学していた俺と異なり、N君の家は母校と同じ市内だった。
特に親しかったわけでもないが「久しぶり」ということで、俺たちは喫茶店でアイスコーヒーでも飲もうということになった。高校生時代は校則で入店が禁止されていた喫茶店に、今では堂々と入店できるということに、俺は開放感を覚えたが、その時のN君はどうだったのだろうか。
「今どうしてる?」という話になり、大学生としての暮らしについて、俺は適当に話した。昔も今もコミュニケーション能力に乏しい俺は、大学生になっても彼女もいなかったどころか、友人もろくにいなかった。だから、決して薔薇色の生活というわけでもなかったし、そんなに明るい話のネタも持ってはいなかった。しかし、そんな俺のつまらない話でも、N君は「良いなあ」と相槌を打ちながら聞いていた。ひとしきり俺のことは話したので、今度は俺が、N君のことについて訊いてみることにした。しかし、聞けば、大学や専門学校などに進学するでもなし、働くでもなし、N君は何もしていないと言った。
少し言い淀んだ後、N君は俺に「悩んでいることがある」と切り出した。今でも、この時の話題をN君が特に親しくもなかった俺に切り出した、本当の理由はよく分からない。喫茶店に自由に入れるようになった開放感からだったのだろうか。あるいは、田舎を捨てて他県の大学へと進学した俺のことを、進歩的で偏見が少ない人間だとN君は見たのだろうか。単に、親しくもなかった赤の他人だからこそ、却って話せたというだけかもしれない。
N君の悩みというのは、彼の恋の対象が、女性ではなく男性であるというものだった。
N君の話を聞いて、俺は驚いた。
N君が同性愛者であったことに驚いたのではない。俺が驚いたのは、N君が彼自身以外に「男性に恋愛感情を抱く男性」の存在を知らなかったからである。ストレートの俺ですら存在を知っていた、雑誌『さぶ』や『薔薇族』などの存在も知らなかったと言われたが、その時の俺は、俄にはN君の言葉を信じ難いと思った。
しかし、後になって思い返した俺は、それほど有り得ない話でもないのではないかと思うようになった。同性愛者であることを子供からカミングアウトされた親の中には、同性愛を治療可能な病と考えて、何とか"治そう"と試みる人間が少なくないという。だから、もしかしたらN君の親も、そんなふうに"治そう"とか"悪化を防ごう"とかするために、N君が彼以外の同性愛者や性的マイノリティに関する情報へとアクセスする機会を、奪っていたのではないだろうか。スマホもインターネットも無かった時代のド田舎で、子供を経済的に支配している親の立場ならば、情報の遮断もある程度は可能だったと思う。N君がどうだったかは覚えていないが、俺の同級生の中には、テレビのお笑い番組を観ることを、親から禁じられている人間が何人もいた。お笑い番組などでは笑いのタネに同性愛者が持ち出されることは珍しくなかったが、そういった俗悪番組などを観ることを禁じられていたとしたら、自分以外の同性愛者の存在を知らなかったということも有り得るかもしれない。
「えっ、そんな雑誌があるの?!」
「そうだよ、男の人を恋愛として好きになる男の人は、なにも世の中でN君だけじゃないよ」
逆にN君の方こそ、俺の言うことが信じられない、自分の他に男性に恋愛感情を抱く男性が存在するなんて信じられない、という表情だった。
別に俺は、高邁な思想の持ち主などではなかったし、世の中の差別を無くすために戦う人間でもなかった。過去形で表現したが、現在形で表現しても俺は「そのような人間ではない」。しかし、そんな俺でも、N君が理不尽に苦しんだり悩んだりする必要は何も無いとは思った。とはいえ、若くて馬鹿な大学生だった俺に、まともなアドバイスや励ましをN君に与えることが出来るはずも無かった。『さぶ』とか『薔薇族』の存在の他に、何か俺がN君に教えられることが有るかと、無い知恵を絞って出てきたのは、俺が夜行バスで東京に行った時に、新宿駅の雑踏で見た、今風の言葉で言えばオネエと言われる人たちの集団のことだった。俺は馬鹿である。
「新宿二丁目には、そういう人たちが集まるお店が、沢山有るんだよ。俺、東京に行った時に新宿駅で、そういう人たちの集団を見たよ」
実際に新宿二丁目に行ったことも無いくせに半可通の知識から発した、今から思えば我ながら馬鹿な発言だ。それでも、その時の俺は、馬鹿なりに「N君は『独りぼっち』ではない」と言って励ましたかったのだ。とはいえ、当時のN君との会話の中で、俺は「オカマ」や「オカマバー」という言葉を頻繁に使ったと記憶している。励ましたいと思いながら差別的表現を使っていたのだから、今でも俺は恥ずかしくなる。その上、明るくひょうきんなオネエたちと、同性愛者とを安直にイコールで結びつけるという思考は、粗雑で乱暴なものだったと言うほかない。
兎に角そういった話を聞いたN君は『さぶ』や『薔薇族』の存在以上に、俺が新宿駅で見たという人たちの存在、実在に驚いたようだった。その人たちの様子を訊かれたので、俺は、思い出せる範囲で、彼女たちの服装とかメイクとか、かしましく面白おかしい会話の様子とか、堂々とした態度とかをN君に話した。特に、彼女たちが明るく堂々とした様子だったところ、自由に見えたところに、N君は深い感銘を受けたように俺の目には見えた。
そろそろ俺の帰宅するのに乗る汽車の発車時刻が近いという理由で、喫茶店でのお喋りを切り上げると、別れ際にN君は俺に「ありがとう、色々と教えてくれて」と言った。大袈裟なぐらいに何度も、N君は「ありがとう」と言った。駅へと向かう俺を、N君は喫茶店の前で見送ってくれていた。
その後、N君と会ったり連絡を取ったりというドラマチックな出来事は特に無い。だから、その後のN君がどうしたのか、どうなったのか、故郷に残ったのか、それとも出て行ったのか、俺は何も知らない。
俺の勝手な空想の中では、その後のN君は、故郷を出て、何処かの都市部のリベラルな場所で、仲間と出会うことが出来て、孤独ではなくなったという筋書きになっている。その俺の空想の中で、故郷を出て都市へと向かうN君は、夜行バスに乗っている。俺がN君のことを、勝手に俺自身と重ねているからだ。
たかが夜行バスに乗って、何回か東京その他の場所に出掛けたからといって、田舎っぺで馬鹿な俺が、顕著な人間的成長を遂げたりするはずもない。また、故郷を出て東京その他の場所に移り住んだからといって、必ずしも薔薇色の人生が待ち受けているとは限らないことも、今では俺も理解している。
それでも。
それでも、夜行バスの旅は、若くて井の中の蛙の俺に、新鮮な風景を見せ、田舎では触れることのできなかった、新鮮な空気や文化的産物に触れる機会を与えてくれた。たかが新宿駅でオネエの人たちを見ただけにすぎないという体験ですらも、若くて田舎者だった俺にとっては、貴重な体験機会の一つだった。俺にとって夜行バスは、そういう思い出と結びついている。
ラランドというお笑いコンビをご存知だろうか?ここ数年テレビへの露出も増えてきたサーヤとニシダという二人の男女コンビだ。
サーヤのほうは元々広告系の会社員、ニシダは帰国子女で上智を中退という経歴を経て事務所に所属せずフリーでやっていた。(今は個人事務所を作りサーヤが社長兼務してるらしい)
ある時期からニシダのクズさ、ポンコツぶりが酷いとお笑い番組などでイジられるようになっていった。
ニシダのクズ、ポンコツぶりとしては直接的に有名なのは遅刻癖らしく、とにかく平気で遅刻するしあまり反省もしないらしい。
そういうのが積み重なって、ニシダへの信頼というものが業界内でももてない、だからサーヤがピンでなら、となってしまうケースがどんどん増えているという状況。
ニシダ本人はバカではないしセンスもあると思うがこのままではヤバいということで、事務所の社長でもあるサーヤがYoutubeの企画としてニシダ更生のためのプログラムを作り動画として公開した。
俺はなんか面白そうだな、くらいの興味で見てみた。動画は1時間くらいあるので途中で飽きるかと思っていたがあっという間の1時間だった。
とりあえずこの時点で気になったら一度見てみてほしい。ただし仕事などで弱りきってる人間には刺さりすぎるかもしれないから注意は必要だと思う。
https://www.youtube.com/watch?v=bCX_SPXgWtQ
ここから少し内容に触れていく。企画としては事務所のマネージャーなどごく近い人物から、冠番組のスタッフ、ゴッドタンなどで有名な佐久間宣行氏などがニシダについてインタビューされる映像がシアターで流され、それをなにも知らされてなかったニシダが見させられるという流れ。言ってしまえば吊し上げであり空気もけっこうなガチ感がある。(ただ、ひたすらイジメみたいに吊るし上げるとかではなく、十分礼節を持った言い方だったとは思う)
その様子を別室でサーヤとゲストの南海山里がモニタリングしている。山里が呼ばれたのはニシダが最も尊敬してる人だかららしい。
モニターしながら「刺さってますかね?あ、でもだいぶ食らってるみたいです」などサーヤが冷静にコメントを続ける。俺はもう見ていて辛くて辛くて泣きそうになってしまった。(ニシダは実際泣いていた)
ニシダがかわいそうだからではない、インタビューされている人たちの話が自分の事を言われてるとしか思えなくなってきてそれで辛かったのだ。
俺はお笑い芸人でもないので、言われてる内容が具体的に当てはまるケースというのはないのだけど、求められること、それに対してのニシダの逃げっぷりとかが、めちゃくちゃ刺さるのだ。
一番わかり易い例としてニシダが口癖のように言う「なるほどね」という言葉。ニシダは自分へのダメ出しなんかも全部この「なるほどね」で受け流してしまう。いやなるほどねじゃねえだろ、自分の事を言われてるんだぞ?
まったく飲み込めてないし、他人事のように客観視することで自分を見るのを避けてしまってる感じ。これって自分も思い当たるとこはたくさんあるのだ。
こういうニシダのダメなとこというのは、ニシダが極端だから目立っているだけで、少なからず共感できる部分というのは多くの人にあるんだと思う。
実際山里なんかはニシダの気持ちがよく分かるようで、何度も「俺もそういうとこはあるんだよなあ・・」と苦しそうな顔を浮かべていた。
そしてこの動画のクライマックスはインタビューの映像を見終わった後、そんな山里がニシダの元に向かい二人きりで話をする場面だ。
山里本人は自分もどちらかといえばニシダ側の人間だと思っているようで、行く前にサーヤには遠慮なく厳しく言ってください的なことを言われるがどうするか迷いが生じてる様子だった。
山里は席につくなり「俺はみんなが言うようにやらなくて今のままのニシダでいてくれていいと思ってる、そしたら俺の脅威が一人減ることになるから」という話をする。
ニシダにとって山里は尊敬する先輩でありある種目指している人物でもあるんだと思う。そういう人からこう言われて心が震えないわけがない。
山里はその後も色んな話をするが、そのどれもが俺の心にも刺さった。俺にとって山里という人物はなんの思い入れもないただの芸人さんなんだが、誰が言ってるかではなくて言ってる内容がすごくうなづけるもので重みもあったからだ。
尊敬してる先輩から直接言われているニシダにしたらすごい言葉として響いてるだろうと思う。そして、それなのに明日になったらまた忘れちゃうかもという事すら山里は見透かす。
そう、俺も尊敬する人から叱咤激励を受けて、もう俺は生まれ変わるんだ明日から、と決心した次の日にはもうケロっといつも通りのダメ人間に戻ってしまうような事は何度も経験がある。
山里は山里なりに色々と迷いながらも真摯に言葉を投げかけていった。ニシダの反応は涙をポロポロこぼしながらも終始モワッとした受け答えだったが、そういう反応になってしまうのも俺には痛いほどわかった。
ニシダの場合は芸人でありやや極端に過ぎるとこはありそうなんだが(普通の会社だったらクビになってるかもなあ)
少なくとも俺にはそのへんの意識高めな自己啓発本なんかよりはよっぽど刺さった動画だった。ニシダに山里のようになってほしいとは思わないが、自分のやりたい事ができる場を、自分で掴み取るとこまでいってほしいな、応援したいなと思いました。
[B! マーケティング] アマプラでいつもCMしてる某お笑い番組、「低評価を押せば出てこなくなる」という裏技が発見されて、非常に尖ったマーケティング失敗例として歴史に名を残す
ネトフリは昔星5段階評価だったんだけど、「星1をつけるとホーム画面の作品一覧に出てこない」という裏技が乱用されたことがある
「一覧に出てきて邪魔な外国アニメは星1をつけると一覧から消える」という活用法である
一般的な日本のアニメ視聴ユーザーが外国の(吹き替えまたは字幕の)アニメなんて見るわけないんだから、最初からネトフリの姿勢が誤っていたわけではあるんだが
その国のアニメの総数が少ない場合は外国産アニメを追加して埋めるという仕様も日本のユーザー向けの仕様としてはアレ過ぎた
あと、まあ、なんだ、外国アニメ(知育寄り子供向け)のサムネが原色過ぎてな…単純に邪魔でな…
ちなみに初期からあるネトフリ外国アニメでおすすめはウーナとババの島です(サムネも目に優しい)。大谷育江のトリキャラで癒されよう
どうなんでしょうか???
私は正直嫌われてもなんとも思わないんですけど、、ただあの方、、恐らくスーパープライド高いのでお気をつけ下さい😂💦— テラシマ117 (@SHIMASHIMA117) March 11, 2022
ぶっちゃけて言うと、今回ブロックした先生…
あの方が『このクソ漫画◯ね』って言って、
カメラの前で印刷して燃やしてたりしたら、
シバター並みに身体張ってて大爆笑だったと思うけど。。笑
逆に『振り切ったな笑』って言って、他からのファン層も増やせたと思うんだけどな。。笑— テラシマ117 (@SHIMASHIMA117) March 12, 2022
連投すいません💦そこなんですよ💧
YouTubeとは言え、エンターテイナーであり、
顔出しもしていて、かなり知名度もある…
ぶっちゃけこう言う作品は『ファン』と捉えた方が良い…
それを『ブロック対処』ってのが「え?」って思いました笑
ここで笑って流してたら、株上がるんすよね…笑
ブロック…笑— テラシマ117 (@SHIMASHIMA117) March 12, 2022
いや、、私も本当に間違ってました。。
何と言うか。。多分なんですけど、、
『お笑いのノリ』とかを繊細な人に教養しちゃうと、
ダメなんかもです💧
『弄るとキレるタイプ』いるじゃないですか💧
あの感じかもです笑💧
普通に笑って返せばいいんですけどね。。
劣等感が強いのかな。。💧そんな気が…— テラシマ117 (@SHIMASHIMA117) March 12, 2022
こちらこそありがとおおう(о´∀`о)☆
私お笑い芸人が好きで、お笑い番組やラジオばかり見て育ってきたのですが、、芸人ならまず間違いなく
『美味しいネタ』って捉えますね笑笑
”お前ふざけんな笑 土下座しろww”とか煽ってくるかと思ったら、、ブロックって。。笑
女の子じゃあるまいし、、笑😂💦— テラシマ117 (@SHIMASHIMA117) March 12, 2022
ブロックされた。。。ってことは。。多分刺さったんでしょうねえ。。普通に笑い飛ばすかと思ったんで、、
傷つけたのであれば。。少し申し訳ないような。。💧— テラシマ117 (@SHIMASHIMA117) March 11, 2022
テレビは仮面ライダーとプリキュアくらいしか見ていないのになぜかお笑い番組に文句をつけるオタクのみなさんは知らないだろうけど
ここ数年、お笑い界は物凄い勢いで価値観のアップデート(笑)が進んでいて
コミカルな容姿、要するにデブスだからこそ面白がられてテレビに出ている田辺さんやあんりやかなでがデブ、ブスと男性芸人から罵られることは一切と言っていいほどなくなっている
(ダウンタウンの浜田だけはそういうことを言う、そして浜田だから……と何となく許されている)
第七世代の芸人の中には宮下草薙・EXITをはじめ「乳首NG」を正直に表明して
水泳の企画だけど上半身裸になるのが嫌な人は海パン一丁ではなく半袖Tシャツを着用している場面もある
コロナの影響もあって出川・上島ですらノリでキスをしたりズボンを脱がして局部を晒すようなこともなくなった
タライの位置は痛みのリアクションを取れないほど近くになり寿司の下のワサビは甘口かつごく適量になりハズレなのかどうか判別できないほどになった
ゴールデンタイムはコンビニスイーツを紹介したりみんなで健康体操をしたり節約レシピを紹介したりコストコを巡る主婦と老人向けの番組が中心になっている
雛壇でブラマヨとチュートリアルがお互いを罵り合い暴露大会を繰り広げているようなのは遠い遠い昔の出来事なんだよ
今はもうなくなってる状態なの、何年も前に
でも人間は稲ちゃんを「肌きたねぇな」「ハゲてるな」「すげえアゴだな」って思うことを止められないし
あさこや光浦さんを女性として愛する男は現れないし
サンドウィッチマンや鬼越に「人殺してそうな顔」という印象を持つし
対する松陰寺がツッコミ、かと思いきや突っ込まない、っていう二段階の裏切りを用意するギミックがあるから
「ダブルボケ」の笑い飯、「ボケツッコミ」のオードリーみたいにセオリーを崩すのが斬新だっただけ
どうせテレビなんか見ないポリコレ戦士に勘違いされて勝手に持ち上げてるけど
お笑いだって小説や漫画みたいにプロットから書き起こして舞台みたいに「台本」を作ってそれを覚えて2人が喋ってるんだよ
キャラクターなんだよ
フェミニストが漫画やアニメなんか見ないくせに横から文句言ってくるのと同じでお前らオタクくんが見もしない番組に文句つけてやってることは表現の規制なの
お笑い芸人も視聴者もいいかげんお前らみたいなのにうんざりしてて今は相当フラストレーションがたまってる状態だから
「不細工の社会進出の機会を奪うな!」「腫れ物に触るみたいにするな!」「面白い物は面白いだろ!!」って蜂起する時が近々来ると思う
ももの台頭はこれを機にテレビ業界がルッキズムを見直して云々ではなく
とっくに見直している上で揺り戻しの時期が来ることを示唆しているのだと思う
もうお笑い番組は全部ある程度の大人向けってことにして注意書きをすればいい
不快になる表現が含まれている場合があります、了承できる人だけご覧くださいってさ
チャンネル替えればいいんだからそんなこといちいち言わなくても了承してる人だけが見てるのが前提なんだけどな、本来
ミルクボーイの漫才だってコーンフレークが好きで好きでたまらない人が見たら傷つくんだろうから
人を傷つけない表現なんて無理だよ
わかったら増田はもうこれから仮面ライダーとプリキュアしか見ないでね
美男美女しか選ばれない世界ではなくハゲた歯無しのおっさんや糸目のブスが主役になって楽しむことができる世界であってほしいから
こういうのを「○○イズム」とかそういう言葉をこん棒に使って規制に持って行こうという動きに本当にウンザリ。「表現の規制」以外の何物でもない。
あのネタは「お前○○してそう」に対して「いやそうじゃねぇよ!」っていうものであって増田の主張とは全く逆じゃん。「ルッキズムで人を馬鹿にすることを肯定するものだ」なんて全然受け取れない。そういうバカにする気持ちをベースとした笑いにしてると言っているが、それが存在することは増田自体が体験している「実在すること」なのではないか?そして存在する偏見を存在としたうえで、「そうじゃねぇよ!」というネタをしているわけで、それは「ルッキズムというものがあって、それはやめましょう」と言っているのと同じではないか?
あとは「他のやつが真似をする」という話があるが、それは果たしてお笑い番組の問題の範囲としてどこまでやるべきなのか?(もちろん何でもOKではないだろう。程度の問題だ。)例えば小島よしおが「そんなの関係ね~」って言ってそれが子供の間で流行って問題になったってことがあったけど、あれって小島よしおが悪いわけではない。テレビはテレビでやっていて(先述の通りあまりに目に余るものは当然規制の線の中に入るだろうが)、教育をする責任を持つ人は別にいるわけ。それは親であったり、不遇な家庭であれば教師であったり近所の人であったりする。
増田の個人的な経験でルッキズムで馬鹿にされたのは問題だしそういうことをする奴はクソ野郎として糾弾されるべきだし増田はそこに関しては間違いなく被害者だが、その体験により敏感になった自分の感覚を絶対正義として「俺は嫌だなぁ」でなく「放送をやめろ」という規制方向の言説を「○○イズム」というこん棒を握ってネット上に上げることは全然正義じゃないと俺は思うわ(「俺は嫌だなぁ」ならいんじゃね)。
人にはいろいろ傷があってキーワードに敏感に反応するということはあるし、テレビとか本とかでキーワードを発しているとビクっと反応することがあるのはわかる。それはわかるんだけど、そうなったからその「不快感」を是として今回のように「むしろ逆」のことにも突っかかるようになり、表現の場が「そのことそのものを避ける」ように暗闇に葬り去り「活動家様がやる高尚な活動」のみにその問題を任せてしまっていたら、それは人の関心を集めないし全然解決には向かないと思う。今回のモモのネタは、これはむしろ「ハハハ、いやーそうだよな、見た目で人を判断しちゃだめだよな~」って方向に行くかなと思っていて、それをルッキズムだと切り捨ててしまうといわゆる「低俗な啓発」という大事なパスが失われてしまうのではないだろうか。
もちろん感じ方は人それぞれなわけで「こう言っていいんだ~」みたいな動きをするクソ野郎も一定数出てくるだろうが、モモを見て「いやむしろそうじゃなかったでしょ」とキチンといさめる人間だって出てくるし、「こう返せばいいんだ」と参考になった人間だっているはずで(「こう返せ」という強要になるのはまた問題であるが、それも「そういうやつも出てくる」ということになる)、見た目の話だからアウト!とかやっていてはどんどん「現実世界の問題」は深く見えないところに行ってしまう。そのくせ「高尚な机上」ではそれが議論されている形をとっていて、より分断が進む。もちろんこれは俺の考えだが、「あのネタがルッキズムを助長する」というのも増田の考えだろう。
気を付けたいのは、「助長したのか逆なのか」というのを定量的に調査せずどちらかの意見に偏ったドキュメンタリーなりの番組をマスコミが作った時に、自分の党派性にあっているからと言って無為に持ち上げて「ほら言ったじゃないか!」とはすべきではないということだ。そうやって「間違った方向への『進歩』」をしてしまっていることは山ほどあると思っている。