はてなキーワード: 自己嫌悪とは
時々、母とこういう話になるんだけど。
中学までの教育がしっかりしていればちゃんと生きていけるよね、って。
それでも社会はちゃんと動いていた。
あとは机に縛り付けない方がいいんじゃないかって。
そういう人はさ、デスクワークよりも向いている仕事があるかもしれない。
無理やり机に縛り付けて、
酷以外の何ものでもない。
フォアグラ作ってるみたい。
鴨押さえつけて口開けさせて、ひたすら飼料を食べさせるような。
しかも最近ってそういうところから「逃げる」とか「ドロップアウトする」とかって考えるじゃん。
もっと前向きに、「進学しない」という選択肢を考えてもいいんじゃないかと。
自分と同じような会社員の道を歩んでほしいと考えるんだろうな。
※誤解を生みそうだと思ったので先に断りますが、
http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
読んだ。これこれ、これですよ。
凄い言いたい事が一杯ある。
でも僕が20数年間生きてきて特に感じたのは向上心のある奴とない奴の世界の溝。
ただここでいう向上心って良い言葉が見つからなかったので向上心と言ってみただけで普通の意味の向上心とはちょっと違うかもしれない。
結論から言うとこの世界の溝も学歴と同じで結局は家庭環境次第だと思っている。
いきなりだが、記事元に習って身の上話をさせてもらうと、僕は結構発展した地方都市に代々住んでる一応結構いいとこお家の人間だ。
所属的にはたぶん高学歴の世界の住人になる、但し育った地域はあまり良くないが。両親も親戚からあんなとこ子供を育てるような地域じゃないと言われたそうだ。
そんなこんなで僕は公立の小中と通ってたわけだけど、今思い返すとこの頃からもう如実に差がでてる、向上心のある奴ない奴の差が。
向上心のないクラスメイトって基本的に将来のことを何も考えてない。いや正しい言い方をすると考えられてない。
夢がないとかそういう意味じゃなくて自分の進路についてキャリアについて考えられるだけの知識を持ってないのだ。
なぜって親がそういう知識のない親だから、家庭がそういう知識のない家庭だから。
向上心のある奴の家庭の典型って親が最低でも四大出でリーマンなんかのホワイトカラーなのだ。
そういう家庭じゃないと20歳を迎えて社会に出たときにどういう社会があるのか、10歳やそこらの子供にはこれからどういう進むべき道があるのを教えられるだけの知識と教養がないからだ。
これって別に言葉で教わるわけじゃない。子供が感じ取るものだと思う。
子供は親の背中を見て育つなんていうけれどホントにその通りなんだと感じる。
DQNの子ってやっぱりDQNに育つ。差別的な意識だとは思うけども。
日本で育つ子供の進路って殆ど15~16歳高校入学辺りで決まっちゃう。
でその15歳までに学べる人生プランのバリエーションのモデルとなる大人なんて数人しかいない。
親か教師か親戚か、あとは尊敬する偉人かテレビの中の人くらいだ。って言っても偉人やタレントの生き方や履歴書なんて普通はそうそう学べないレアケースだ。
僕の場合は両親は共に大学院出で祖父は帝大の出だった。親戚には大学教授や官僚、医者、ちょっとした文化人もいてた。
その中でも影響を受けたのが祖父の属した地域のコミュニティだ。となり町の◯◯医院の◯◯先生は祖父の◯高(旧制高校)時代の同級生の子供だったり
お隣の前市長さんは◯高時代の同級生の末の弟だったり、駅前の◯ビルは◯高時代の後輩のビルだったりする。
リアルや、ましてネットなんかからはまったく見えないのだがこういう地域の前時代高学歴お爺さんコミュニティが結構あったりする。
んで、まあこういう話を子供の頃から食卓で母から聞いたり、帰省した時に祖母から聞くわけだ。
◯◯さん家の長男が今度駅前で開業医を始めるだの、◯◯さん家のお爺さんが今度受勲されるだのといった話をだ。
そういう感じで人格形成というか育ってきた僕にとっては大学はダメでもマーチレベル、普通なら帝大といった感じだった。
しかし、親が高卒というかDQNの子供って違うらしい。15歳高校入学する時点でそういう考えが頭にないのだ。
漠然と自分は高卒で働くんだろうなとか、大学いけたらいいなくらいに考えてる。
もうこの時点で差がすごい。地頭とかいうけどやっぱり時間、勉強できる準備時間と認識のハンデは大きい。
こういう子供がいざ18になって大学に入ろうにも当然、偏差値の高い大学には入れない。
加えてそれを当然と受け入れてしまうので、そこから頑張ってもっと上を目指そうなんて向上心も生まれない。
かくして順当に、良い家庭の子供は良い学校に進むし、違う家庭の子供はあまり良い学校へは行けない。
ここまで長々と凄い当たり前のことを言ってきたけど、のようで、これが見えてない人って僕の周りですごく多い。
きみが、あなたが、10歳やそこらのときに自分が将来どこに向かいたくて、そこへ向かうにはどうればいいのか、それって誰に教わったの?聞いたの?って尋ねたい。
それは当人の生まれや環境に教わった部分が大きいのだ。
僕がこういうことを考えるきっかけになった友人がいる、彼は両親ともに高卒でぼんやりと俺も高校でて働くのだろうなと思っていたら、高2の頃両親に大学へは行けと言われて当惑したそうだ。
何に戸惑ったかって、大学に行って何をすればいいのか分からないし、それ以前に仮にしたいことがあってもそれをするのはどこのどこへ行けばいいのか、ということが皆目分からなかったからだ。
子供にとって重要なのはやりたいことがあるかないか、夢があるかないかではなくて、そのやりたいことや夢を叶えるにはどうすればいいかを知っていると大人が近くにいることだと思う。
よく夢を持て、でっかい目標をたてろだのと教えられるが、そんなことよりも10歳の子供にはこれからどんな分岐路があって、その先の未来はどこに続いているのかを教えるほうが遥かに有益だろう。
くだんの友人は取り敢えず大学に入って、そこでやりたいことを見つけ、今はそのやりたい事を仕事にしている。
大学にさえ入ってしまえば世界は大きく広がるし、自分には無数の選択肢があるのだと気付けるということなのかなと思う。
僕も就職したが、同じ業界の高卒一般職の子と仲良くなって色々話してみるとやっぱり考え方の違いに面食らうことが多い。
僕だって公立の小中に通いあまり柄の良くない知り合いもいたのでまったく知らない世界ではなく、驚愕したとまでは言わないのだが
素直にまったく違う考え方を突きつけられるとやはり、理解できない思考回路に少しイラツキをおぼえてしまうのだ。
その子がその企業に入った理由は親が同じ職業だからだそうだ、なにかやりたいことは他になかったのかと聞いてみると、特にないという。
楽しいことは友達と遊ぶことであり、現状には結構満足していて、お金が貯まれば今付き合ってる彼女と結婚したいとか。
これはこれで全然良いとも思うのだが、この子に薬剤師や会計士や自営業、起業家、戦場カメラマンや映画監督についてそういう職業があるかどうかと
自分がその道に進むか少しでも考えてみたことがあるかと聞いてみると、驚く程偏りがあるのだ。結局この子がなってみようかと少しでも考えたことがあるのは
中学のときにやっていた野球選手と親戚がやっている自営業くらいのものだった。
職業や生き方について知っているかどうかと、そのそれぞれについて自分がなってみようかと少しでも考えられるかどうか、この二つを持ち合わせているかは子供達にとってどちらも非常に大きい格差だと思う。
まずこの子は会計士についは存在すら知らなかった、知らないものにはなりようがないし、目指しようがない。
次に戦場カメラマンについては知ってはいたがなろうなどと考えたことは一度もなかった。
なぜかと聞いてみたが、軽く笑って流され、それでもしつこく真剣に考えてみてと迫ってみると、少しまじめに悩まれた後、やっぱりなりたくありませんよと返された。
ここで大事なのはこの悩むということが、一瞬でもそういう道が自分には有り得るのかが、高校大学入学までに頭をよぎることがあるかないかだと思う。
この子にとってはプロ野球選手は、部活の延長線上として未来の自分の一つの姿たりえたかも知れない存在だったのだ。少なくとも考えるべき材料は持っていた。
逆に戦場カメラマンというのは存在は知っててもそれはあくまで自分の未来の選択肢としては欄外、というレベルでもなく、そもそも欄内にも欄外にも存在しない要素だったのだ。
そういう意味合いでは10歳の頃の僕は選択肢を、なれるなれないは置いておいて取り敢えず沢山知っていたと思う。
医者や弁護士、会計士だってこれから頑張って勉強すれば手の届く存在だと考えていたし、海外で生きていくスタイルや戦場カメラマン、フリーライターのような生き方だって
自分が目指すことのできる道なのだと現実的に捉えられていた。もちろんフリーターも無職もニートも選択肢の一つだった。すごく恵まれていたの思う。
よく子供には希望ある未来が、無限の可能性がなどと言うが、少なくともDQN家庭の子供には無限の可能性などない。
せいぜい極めて限られ有限個の可能性だけだ。無限の可能性というのは、その子供自身が無限の可能性の存在を知っていないと持ち得ないものなのだ。
まあそうして向上心のないまま道を決めた人たちと話をするのだが。
自称向上心のある僕にとって、こういう人たちと話をするのはちょっとばかしストレスが溜まったりする。
なんでそんなに向上心がないんだとイライラしたり、そういった現状に満足してしまっていることにもイライラしたり
おそらくは詰まるところ自分と違った考え方に拒否反応を起こして苛立っているだけなのだろうが、次に続く思考は彼らを見下しまうことだったりもするから少し自己嫌悪にも陥ったり。
彼らにも彼らの言い分があるだろうからやはり両者は相容れない存在で、溝は深まるばかりなのかと思う今日この頃である。
書き出しと矛盾してしまうが向上心のない人間なんて本来いないと思う。
数撃ちゃあたるのだ、僕だって親が農家で農家以外の選択肢を知らなければあらゆることにやる気が起きず不貞腐れた人生を送っていたかもしれない。
でも親が農家だろうと、宇宙飛行士にも坊主にもバイオリン職人にもなれることをその方法を知っていれば、俺は絶対バイオリン職人になってやると意気込んでいたかもしれない。
なんか似たようなの見た気がするけどまさか自分もそうなるとは思わなかった。
入社したてにしてはそこそこのポジションに充てて貰えて、それなりに頑張っていたから評価も少なからず上がり調子だったと思う。
先月下旬から終電まで残業というのが続いて帰宅は1時過ぎ、晩御飯を食べてひと通りの家事を済ませると就寝は3時前。
朝起きるのが辛くなってきて遅刻が目立つようになってきた。
そして先日、携帯のアラームも効かなくなって夕方まで寝てしまった(消したことを完璧に忘れている)。
バッと飛び起きて携帯を見るとロック画面が着信履歴とLINEの通知で埋まっている…。
恐ろしくなってとりあえず夢じゃないかと再度布団に潜り込んでみるが色んなことが頭を巡って呼吸が苦しくなりこれは夢じゃないと分かる。
とにかく連絡だ、と電話を入れて平謝り。鼻水とだるさという風邪のような症状が少しあったから、その場は風邪で寝込んでいたことにした。
その日はご飯を食べると布団に戻りどうやってこれらで下がった評価と信頼を挽回するかを考えているうちにまた寝てしまっていた。
次の日起きるとまたアラームがいつの間にか消えており時計を見ると昼を過ぎていた。
二度目はヤバイ。そう思い即連絡を入れて病院へ寄っていたことにして夕方前に出社。
デスクに着くや否や、上司に呼び出されこっぴどく怒られた(目がピクピクしてるのを初めて見た)。
また、次の日にこれをもう一度やらかす。
自分の朝の起きれなさ自制心の低さにうんざりし、上司やチームの人たちへ迷惑をかけてばかりで自己嫌悪のあまり気分が酷く落ち込んだ。
そしてついに昨日今日と2日連続で無断欠勤(出社して仕事をしている夢を見ていた)。布団から出れなくなってしまった。
連絡は入れたが、もう会社での評価と信頼はどん底で挽回するのは並大抵じゃ無理だろうと思う。
明日は必ず出社すると伝えたが行くのが怖い。
これってそういう系の病気なんだろうか。
会社辞めたくないんだけどなぁ…。
読んだ。
はじめから飛ばしすぎというか、ペース配分ができていないという印象を受けた。
憶測だが、このような事態に陥ることは今回の会社が初めてではなく、前の会社でも似たような感じで退職するはめになったのではないか。
半分当たり。
だけど前の会社はむしろ仕事が少なく内容も簡単すぎて毎日定時上がりの不完全燃焼だったから自主的に転職したという経緯。
具体的な解決策を提示してくれてありがとう。
心療内科は抵抗あるからとりあえず朝起きられないことを上司に相談してみる。
先月末までは大体8時間くらい。
連絡がつかずっていうのが超絶迷惑なのはよく分かってて、だからこそ意図しない睡眠でそうなってしまうことが辛いんだ。
仕事の詰め込みはそこそこされてるけど、妥協すれば必要レベルで終わらせることもできて
より良いものにしたいなと思って仕事してるうちに定時オーバーしてるということが多い。
あと、周りも定時3時間後くらいまで帰らないし上司は終電まで残って仕事してる。
彼らが残ってるから帰り辛いっていうところも少しはあるかも。
はてブのコメントにどんだけブラックってあったけど、自分はブラックじゃないと思ってる。
仕事量はキャパシティ伝えれば調整してもらえるし、定時にあがろうと思えば上がれるし。
なぜそうしないかというと周りの人たちが頑張ってるからであって、
その中で入社一ヶ月目のやつが定時で帰ってるという構図は非常にまずいなぁという気持ちがあるからで。
あとみんな遅くまでやってるけどちゃんと朝来れてるのに自分はという劣等感と申し訳ない気持ち。
元々は10時間くらい。
正直これは寝過ぎてて人生の浪費なんだけど、どうにも寝るのは好きでしょうがない。
それって同調圧力ってやつでは?
特に残ってとか言われてないし、自分が勝手にそう感じてるだけで違うと思う。
最初は確かに気まずい感じもするけれど、続けているうちにそれが当たり前になるし、そのうち早く帰っても仕事がちゃんと終わっている自分が評価されるようになる。
これが理想ではあるんだけど、尊敬してる先輩らはみんな残って仕事してそういう部分も評価されてる。
そこへ辿り着きたいと思って残業してるところもあるかも。
じゃあ、辞めようか。
お疲れ様。
辞めたい気持ちも少しある。
入社した経緯(声かけてくれた先輩やその他多数の知り合い)の顔に泥を塗ることになるし
ここで辞めてしまうと今まで色んなことを途中で諦めた自分にまたかよって落胆することになる。
与えてもらったチャンスはきちんと掴みたかった。
OKな雰囲気を作れるのは羨ましい。
でもそれって「この人は遅刻をする人だ」という印象で固まってしまってるだけのような…。
何かしらの評価されるタイミングでこれらの印象が妨げとなる気がして自分なら気が気でない。
死にたいとかそういうのはないから、上司に相談して必要そうなら心療内科にお世話になるよ。
色んな意見聞けてよかった。
何言ってんだ。
やっぱりそうなるか。
高い評価を得ようと思うな。
最低限、首にならないレベルの評価をもらっておけばいい。
いつかは活躍できるチャンスも来るだろう。
あせり過ぎるな。
実際焦りすぎてた。
会社に残ることが出来たなら無理をしない程度の頑張りに留めておこうと思う。
業務委託なのに、要求元のところで、要求元の社員と一緒に仕事してるの?
それって、派遣じゃないの?
契約の建前上は勤怠に関与しないとあるけど向こうからのお願いという形で、勤務時間等は社員と同じことを求められてる。
これは社員登用の話もあるからそれらをクリア出来るかどうかの試用期間だと捉えてる。
だから焦りから無理な頑張りをしてしまったというのもあるんだと思う。
こんなに遅刻無断欠席したらそんな話もパーになってるだろうけど…。
もう20代後半なんだけど、まだ引きずってるんだなあ、と。
小学校、中学校と一緒で、小学校の高学年くらいから意識し始めた。
それなりに仲良くしてたけど告白する勇気もなく、卒業後は進学先違ったしそのまま会うこともなく今日に至る。
今はもう付き合ってて結婚を考えてる人もいるから特に未練もないはずだけど、それでもふとした時に思い出してしまう。
あの時、あの人に告白してたらどうなってたんだろうって考えてしまう。
今日はなんか知らないけどすごく長い夢を見て、あの人と夢のなかでずっと話してた。こんなことははじめてだ
起きてから懐かしさと自己嫌悪が入り混じったモヤモヤに包まれながら、Facebookであの人を探してみたりしてさらにモヤモヤを募らせながら増田に書いてみたりしてる。
しばらくは週末に予定が詰まってたり、会う約束しててもブッチ食らったから、円光に金使わなくて済むかな。。。と思ってたが、結局3週間ほどでまたやってしまった。
この3か月ほどで20~30万くらいは使ってるよね。家計簿つけてないからもっとかも。。。
金銭面だけじゃなく、円光の相手探しや待ち合わせ時間に使ってる時間をほかのポジティブなことに使ってみたら、どうなってただろう。
前は月一程度で抑えてたんだけど、もうヤバイよね。
貯金は月1回の給料日しかできないのに、月に数回も貯金引き出して円光してるんだもんね。
やる前は「まだ残高あるじゃん。これくらいならまだ大丈夫」って気持ちになって、冷静になれない。
やってる最中はまあ、可愛い子にあたって自分の思い通りのプレイをしてみたら満足感はある。
しかし、ホテルを出て、女と別れると虚しさや後悔、自己嫌悪などのもやもやした思いがもたげてくる。
それから、やっぱり人を好きになれなくなった。
ちょっと好みかな?って思う女性も「好き」とか「恋愛感情」じゃなく、「性欲」が基準だ。
どうやったらセックスに持っていけるかしか考えてない(そんな口説く能力はないから金で女買ってるんだけど)。
彼女がほしいって思うのも、そうなれば彼女で性欲解消できるから円光に今ほどはまらなくて済むだろうって打算からだし、最悪だな。
「一緒にいたい」とか「いとおしい」って気持ちがもう湧いてこないんだ。胸がキュンとすることがない。
まあ、これは年取ってホルモンバランスが変わってきたせいかもしれないけど。
ちなみに精神科にはまだ行ってません。
とりあえず、今度は8月の給料日まではガマンするよ。それまではとにかく出かける前と帰宅時にオナニーして、性欲を紛らわせる。
こないだの連休中も都合でオナニーできずに溜まってたから冷静な判断ができなかったんだ。
オナニーだけになると、どうしても本物の女体に触れたくておかしくなるから、給料日になれば自分へのご褒美として円光はするけど。
それまではオナニーさえやってれば上手くいくよ。ああ。
最近ビジュアル系(という言い方は古いのかもしれない)のバンドにハマったらしく、
バンドメンバーの日常的な発言のリツイートばかりするようになった。
正直、ウザい。
バンドの人のRT>>>友人個人のつぶやき というツイートの比率になってから、もう対策しないと苛立ちが抑えられん、と思うように。
タイムライン上だけなら、友人がするリツイートを非表示にすればいいんだけど、あの設定、リストには反映されないんだよね。
自分の目的に沿って作ったリストの中で、全く興味のないバンドの奴らが会話してたから、何かもう、いいやって思って空disしてしまった。
どうでもいいRTばかりしてるヤツって何なの?って感じで。
友人はすぐに自分のことだと気づいたらしく、謝られた。
どうでもいいことでdisってしまって、自業自得だけど自己嫌悪。我慢したり、クライアント側でどうにかすれば良かったって、今更ながら思った。
というわけで一本何か書いてみようという安易な意識からキーボードを叩き始めました。名も無きはてな民です。よろしく。
さて、今回は巷でネット民の熱い羨望を浴びながら、同時にドス黒い憎悪と嫉妬とを育み続ける孤高のネットライター、ドリー氏の行う書評について、何か適当に書いていこうと思います。正直言って資料を用いながらの適確で分析的な記事とかは書く気がしないんで、フィーリングで書いていくことにします。
さて、ドリー氏については説明不要だと思います。あの村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』をamazonレビューにてけちょんけちょんに叩き、その軽快でユーモラスな批評において人気を博した、ネットの出身の新鋭ライター・ブロガーでございます。あ、ちなみにこんな風に書くとまるで私自身がドリー氏のモグリか何かのように見えるでしょうが、その心配には及びません。この記事は売名を目的にしてはおりません。
ドリーさんには、今回のamazonレビューを切掛にして、何と出版社からのライターとしての依頼が飛び込んできたようです。何ともまあ、驚くべきことです。ネットからの躍進というものが、こんなに身近な部分で行われているなんて……と、些かめまいのようなものを覚えてしまう塩梅でございます。そんなこんなで、今更になってドリーさんの名前を広める為に誰かが努力をしたりステマをしたりする必要は、今の時点ではおよそ皆無だと言えるでしょう。何たって既にその名前が広がっていく余地が取られているわけですからね。
さてまず、彼の批評について述べる上で、彼の書く批評文においては幾つかのポイントがあるわけですが、それについて紹介していきたいと思います。
自分をアッパークラスならぬダウナークラスに位置付け、そしてそのような低きからの視点において、批判対象(アッパーな雰囲気を纏うものや、ハイソな雰囲気を纏う書物)を叩いていく、というのがドリーさんの基本スタイルとなっております。
こういう風な「ダメ人間」としてのキャラ付けで文章を書くのは、ドリーさんの特徴でもあります。ちなみに、これまで「ダメ人間」としてのキャラでエッセイを書いてきた著名な作家を挙げるとすれば、例えば滝本竜彦とか、あるいは穂村弘などが該当するんではないでしょうか。ともかく彼のレビューは低い視点から行われます。そして必然、そのような視点が読者からの親しみを呼んだり、あるいは共感にまでこぎつけることも当然起こります。こういったことで、ドリー氏はネット層のナイーヴで、どちらかと言えばハイ・カルチャーには属していない人々の人気を勝ち取ってきたというわけです。
ドリー氏がamazonにて村上春樹を批評した手段はまだはてな民の皆さんには記憶に新しいと思うのですが、ドリーさんの真骨頂は、この「形而下ツッコミ」にあります。
ときに、今年の四月中旬に発売された、『色彩を持たない~~』という小説。これは村上春樹の発売した新作なのですが、この小説にはこれまで村上春樹が取り組んできた様々なエッセンスというものが生かされており、また、その他にも新奇な取り組み、挑戦的なメッセージなどが込められた作品でありました。
そのような『色彩を持たない~~』ですが、特にこの作品に込められたメッセージの中で重要なものを上げるとすれば、それは次のようなものになると思います。つまり、「我々の見る〈夢〉と、現実に起きている様々な事象の間には、ある種の相関関係があり、そして我々は夢というものを通じて現実の事象における幾らかのレスポンシビリティー(責任)を共有している」というものです、こうやって一文に纏めると分かりにくいんですが、もう少し分り易くまとめると、要するに「我々は社会的責任や個人としての責任というものを、夢という通路を介して確認することになる」、ということです。このようなメッセージは、恐らく村上春樹氏がこれまで取り組んできた、ユング研究者との間のやりとりや、あるいは彼の人生経験というものを基立ちにして書かれているものだと思われます。そのような点において、村上春樹の主張している文学性というものが光っているのです。
ドリー氏の批評のやり方は、そういった〈文学性〉。いわば、〈形而上学的〉な分野においては、全くタッチしないという、そういう方法論を使ったものだったのです。
これは、私が主観的な立場において評している事柄ではありません。
というのは、こういう「形而下的ツッコミ」とか、あるいは別名「表層ツッコミ」という言葉は、誰でもない、他ならぬドリー氏自身によって発された言葉であるからです。正に彼自身が、彼のレビューのやり方を評して、「表層ツッコミ」。あるいは、「形而下的ツッコミ」と呼び習わしていたのです。
つまり、彼の特徴を一言で述べるならば、その作品の奥深さというものに関してはできるだけ発言を控える。というものなのです。そして、そういった「奥深さ」に関しての発言よりも、もっと身近で物質的な、そういった部分に関して照明を当てる、というのが、ドリー氏の批評術なのでした。
アレ、ちょっと待てよ? という意見が、そろそろ出てきてもいいのではないでしょうか。
というか、若干キレ気味な方というのが、現れてきてもいいんじゃないか、という風に僕は思ってます。なんなんだそれは! と声を荒げてもおかしくない方法論じゃないのかこれは? と、むしろ僕自身がそんな風に思ってきているところです。
ドリーさんのやり方は、例えば以下のようなものです。
『色彩を持たない~~』にて、以下、主人公とその友人「アカ」とのやりとり。
アカは笑った。「嘘偽りはない。あのままだ。しかしもちろんいちばん大事な部分は書かれていない。それはここの中にしかない」、アカは自分のこめかみを指先でとんとんと叩いた。「シェフと同じだ。肝心なところはレシピには書かない」
「あるいはそういうこともあるかもしれない」とアカは言った。それから愉快そうに笑って、指をぱちんと鳴らした。「するどいサーブだ。多崎つくるくんにアドヴァンテージ」
アカは言った。「俺は思うんだが、事実というのは砂に埋もれた都市のようなものだ・・・」
こういった、ちょっとオサレというか、まあそれらしい描写に関して、ドリーさんは以下のように述べています。
なるほど……。と思えるようなツッコミです。確かに、アカの言い方からは、極普通の社会生活を営んでいる方々から見れば、少し苦笑いをしてしまうような、あるいは軽く眉を顰めてしまうような、そういう素振りが端々から匂わされています。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」というものなのです。読者にとって、距離の近い何か、つまり、作中の人間における特徴的な発言とか、あるいは、そのキャラクターが行なっているファッション、あるいはスタイルというもの、そういった身近な位置に存在するものに関して、一つ一つツッコミを入れていく、という技術。これが、ドリーさんが主に自称しているところの、「表層ツッコミ」という技術なのでございます。確かに、このツッコミは面白い(笑)
ぶっちゃけ僕も何度か読み直して笑ったくらいのものです。それくらいに、この「形而下ツッコミ」には効果があります。
しかしです。
実際に、この『色彩を持たない~~』を読み込んでいくと、このようなツッコミに果たして正当性を認めてよいものなのだろうか? というようなメッセージが改めて浮かび上がってきています。
と言いますのは、まず、このアカという人物。なんと、未読の方にはネタバレになってしまうのですが――
――ですから、この先の部分に関しては未読の方は注意して読んで下さい、お願いします――
――同性愛者なのです。しかも、そのような事実に関して、何と自身が女性と結婚関係を持ち、暫くしてから気付いてしまった、というかなり不幸な人物でもあるのです。彼は、結婚後自分の性癖について自覚してしまい、かなりの苦悩を感じていた模様です。
その辺りは、『色彩を持たない~~』本編においてかなり描写が尽くされております。
ところで、ここで、「アレ?」と思われる方はいらっしゃいませんでしょうか?
つまり、ドリーさんのツッコミの内容が、果たして本当に妥当なものなのだろうか? という感想を抱いた方が、ここまでの文章を読んでいて幾らかいるんじゃないかということなのです。
ドリーさんのツッコミの内容は、以下の通りでした。
「『アカ』の臭わせている『自分大好き』臭がひどい、彼の自己陶酔的な態度がヤバい」
しかし、上のような本文の描写を読む限りで、そのようなツッコミはぶっちゃけ間違っていることが、明らかになっています。つまり、むしろ「アカ」の根底には、「自分大好き臭」などではなく、徹底的な自己嫌悪が存在しているということなのです。
付け加えるならば
この「アカ」は、その父親が何と名古屋大学の経済学部で教授職を務めている人物であったりするのですが、そのような父親に対してアカは名状しがたい反感のようなものを抱えて青年時代以降を生きてきていた、ということが本文にて言われています。しかし、多崎つくるが生きている現代の世界、彼が36歳になっている時点において、アカは一般企業向けのサラリーマン育成サービス会社の代表を務めているのですが、何と彼は、自分が忌み嫌っていた父のような、尊大で狭量な振る舞いを、そっくりそのままその会社経営やスピーチにおいて行なってしまっているのを作中で嘆いているのです。つまり、繰り返すように彼の中にあるのは、「自己嫌悪」というべき以上の何物でもない感情なのです。そしてそれを無視したまま、ドリーさんは「自分大好き臭がすごい」、などなどと形而下的ツッコミに終始してしまっているということなのです。
ドリー氏は他にも、レビュー中で多崎つくるのファッションについて言及しており、彼の終盤におけるファッション、「オリーブ・グリーンのバスローブ」について批判しております。
曰く、その色は「クソ緑」とのこと(笑) なんともまあユーモラスな表現ではありませんか。
しかしです。このような緑の色、というのは、西洋においてはいわば「嫉妬」というものを表す象徴的な色でもまたあるのでした。
主人公の多崎つくるは、本編の終盤において、交際相手の女性の浮気現場を目撃してしまい、そのことで苦悩します。そして本作は、作中において何か特定のスタイルや生き方、つまり「色彩」を持てなかった彼が、最終的に嫉妬の感情を表す「オリーブ・グリーン」のバスローブを着込む、ということを最後に、幕が降りることになります。結局のところ、この『色彩を持たない~~』という物語は、多崎つくるというプレーンで如才ない特徴の無かった男が、嫉妬という、これまで無色だった彼にとってあまりにも大きすぎる感情を背負うことになってしまうという作品なのです。そんなテーマが描かれた小説なのでした。
しかし、ドリー氏はこの「オリーブ・グリーン」の比喩に関して、「クソ緑」とただ一言切り捨てたのみなのです。それ以上の言及を、彼は避けております。
これが、いわゆる「形而下ツッコミ」の正体なのです。その、暗喩や文学的比喩といった奥深さに関しては常に除外し、表面的な部分にのみ視点をおいて俗っぽい言葉によって吐き捨てる、というのが、結局のところドリー氏の行っている批評の正体と言えるでしょう。
ドリー氏は、これは個人的な意見になってしまうのですが、はっきり言ってそういった「奥深い部分」に対する想像力、というものを発揮しない(あるいは表立って発言しない)といった批評のやり口に、あまりにも慣れきってしまっている感があります。何というか、そういった相手の表現したい奥深い分野については言及せず、大体において「表層的」あるいは「形而下的」な部分に対してのツッコミだけを行う、というのが彼のスタイルになってしまっているのです。
さて、ここまで長々と書いてきて、結論としては、ドリーさんの批評(クリティーク)においては、あまりにも想像力や文学的表現に対する理解というものが欠けてしまっている、ということが言いたいわけなのです。そんなこんなで、ドリーさんの書籍批評に関しては、以下の言葉でまとめることができるでしょう。やはり、ドリーさんの書籍批評はまちがっている、と
自分が所属するのは物流部だが、なぜか売上分析の資料を毎月月初に提出しなければならない。
売上が締まるのが月末の平日、データに反映されるのが翌日、つまり土曜日の朝だ。
月初とは言っても1週目の水曜か木曜までなので、月曜日に始めれば3日程度の猶予はある。
その仕事は今まで自分がしていたが、上司の意向で同僚2人に任せることになった。
正直なところ、いつも21〜22時まで残業して途方に暮れていた仕事を、定時に帰っていた2人に渡すのは気持ち良かった。
そして引き継ぎを済ませ、2人が作ったエクセルの資料を見てみる。
よく考えればわかるが、普段エクセルをほとんど使わない2人がこんな難しい作業をこなせるわけがない。
それでも細かいところがたくさん気になる。
シート毎にフォントの大きさがばらばら。
塗りつぶしの色が微妙に違う。
枠線が変なところに残っている。
見づらい。この資料を初見の人が見て理解できるだろうか。
この文章を読んでいる人は「そんなのどうでもいいじゃん」と思うはずだ。
しかし僕から見れば、半年以上頭を悩ませて磨きあげてきた形式なのだ。
一応2人にも見本となるデータを渡してそれと同じように作るようお願いした。
しかし毎回一から作らなければいけない資料なので、全く同じようにはならない。
資料を見ながらそんなことを考えていると、よくニュースで流れる映像が頭のなかによぎった。
中年のオッサンが部下の感想を聞かれて「最近の若者はダメだ、オレたちが若かった頃は〜」という、アレだ。
それでもベテランの人たちはこう思うのだ。
オレたちは大変だったんだ、だからお前たちも同じ苦しみを味わえ、と。
上司と部下の間で板挟みになり、どんな家庭でも問題の1や2つ抱えているはずだ。
今まで自分がやってきた仕事を他人が出来ていないのを見ると、そんな自分が慰められるのだ。
どうでもいいような細かいところを取り上げてあーだこーだと文句をいうのは、
彼らが何十年も社会人をやって築きあげた信条に反したことを僕たちがしているのだろう。
結局今は2人では手が足りず、自分も手伝って3人でやっている。
彼らに対する不満や、些細なことを論っていた自分への自己嫌悪は、一緒に仕事をするうちに消えていった。
とりあえず今は、新橋で飲んだくれ、カメラに向かって社会や会社の愚痴を漏らすような人間にはならないよう、あくせくと仕事をこなしている。
言いたいことはわかる。
けど、君は産んで育てたことがあるのか?
そうだとすると、全く違うタイプのようだね。
びびったよ、まじで、自分のπから乳がでたとき、子供の笑顔をみたとき、
まずは育児お疲れ様。療育が必要だと、大変なことも多いと思います。
そりゃあ、元増田だって人間だもの。差別の意識が(多かれ少なかれ)あるのは社会的人間なら当たり前のことだし、そのことに対して自己嫌悪するのも健全なことだと思う。心のなかに湧き上がってくることを完全にコントロールするのは難しい。
でも、ほんとうに大事なのかは「どう振る舞うか」ではないだろうか。心の中でどんな気持ちがわいてこようとも、実際に何をするかが一番大事だと自分は思う。元増田は前を向いて頑張っているんだし、旦那さんだって心の中で思うことはあるかもしれないけど一緒に頑張ってくれてる、ってことだと思うよ。
増田に書いて発散できるなら、ここに言いたいこと・もやもやすることを書き散らせばいい。ホントお疲れ様。応援してます。
あと、道行く「普通」の人たちの中でも、ぱっと見てわかる・わからないにかかわらず、障碍のあるこどもとその家族をサポートしようっていう人たちが必ずいるから、それを信じててほしいです。
自分の家族は一見「普通」なんだけど小さいときから難病を抱えてて、生活は安定しないし、何年かにいっぺんは死にかけるし、色んな事があります。おたがい人生がんばろう。
客観的に 冷静に考えて
私もKと一緒にいることに違和感を感じていた。
あ、無理だ
と思う場面が多々あった。
でも
うまくいけばいいと思っていた。
うまくいくように、という思いとはうらはらに
私は止められなかった。
客観的に 冷静に考えると
これでよかったのだろう
と、思う。
私とKの間に、未来なんてもともとなかった。
結局離れなければいけないなら
早いほうがいいだろう。
それでも
別れの原因が
「生まれてきてすみません」
ひどい自己嫌悪に陥る。
私とKの間に、未来なんてもともとなかった。
でも、一緒にいられる一瞬を
もう少しだけ伸ばすことができたのではないか
という後悔の念が
今日も私の頭の中をぐるぐると駆け巡る。
昨夜妻とセックスした。
夫婦だからそんなに珍しいことでもないけど終わった後に襲ってくる罪悪感めいたものが毎回凄い。
彼女は何も欲しがらない人。音楽と精密機械が好きでそれを仕事にもしていてそれだけやってればあとはほんとになんでもいい人。
美人だしオシャレだけどそれも人と顔を合わせる仕事だからってことで身嗜みと思ってるみたい。食べ物も嫌いなものとかあんまりないけど好きなものも特になくて本当にあらゆる欲求が薄い人。
『楽しい・美味しいとか思わないわけじゃない』けど『特に欲しいわけじゃない』っていうのが彼女のスタンスの根本でそれは恋愛やセックスに関しても変わんない。俺は彼女のビジュアルと現実ばなれしたひととなりを均等に愛しているのでそれらを維持することに全力を傾けるのは楽しいしなんの問題もない。彼女も俺によくなついてくれていると思っているけど、なんだか相手が『どっちでもいいよー』って思ってるとこ自分ばっかりいい思いをしてるような気がして壮絶な自己嫌悪に陥る。
自発的に死ぬほどアグレッシブにもなれずなんとなく暇潰しを探しながら生きてた人生だけど、この人に会ったおかげで今本当に毎日楽しいからして欲しいことがあったらできる限りなんでもしてあげたいって思ってるのにな。なーんにもできねんだなって思う。せつねえな。
旬ジャンルの勢いもあって、投稿した二次小説がPixivの「小説デイリーランキング」に何度かお邪魔している。
Pixivは「評価」が可視化されやすく、ブクマされた数も評価回数も総合点も一目でわかる仕組みですよね。
この評価の可視化の仕組みもタグも、ものすごく良し悪しだと思う。
何度かランキングに入っていると、作品を投稿してからの1時間から2時間程度で、
「これは明日のランキングに入るな」とか、逆に「今回はランキング外か」とかが漠然とわかってくる。
相対的なものだから当然その日によって多少の変動はあるだろうけど、
個人の経験則から行くと、Pixivのランキングの集計時間である0:00~24:00の間に、
ブクマ数100前後、評価数50回(総合点50くらい)いけばランキングに滑り込めてる気がする。
(参照:ランキング (らんきんぐ)とは【ピクシブ百科事典】)
というのを、把握している時点で「なんだかなぁ…」と自分では思うわけです。
そりゃ書いたものが「評価」されるのは嬉しいし、多くの人に読んでもらいたいとか、
タグやコメントが付けられたら嬉しい!と思うのはごく当たり前だと思うわけです。
思うんですが、それが行き過ぎて読み手の評価ばかりを気にし始めるとドツボなんですよね。
「自分が書きたいもの」を書いていたはずが、「書きたいもの」ではなく「評価されるもの」を書き始めたりする。
「このジャンルならこういう作風のを書けば評価されるだろう」と、無意識に探し始めている。
自分でも心底めんどくせぇなって思うんですが、自分はそれに気付くと、
妙な自己嫌悪に陥って、すごく嫌になるというか妙に疲れてくるというか。
そして一度ランキングに入ると、次も入らなきゃという妙な強迫観念に駆られて以下無限ループ。
Pixivで「○○ちゃんねる」風の作品が叩かれる一因には、
「私の小説が評価されないのに、なんであんな文章でも何でもないのが評価されるんだよ」
という書き手の負の感情が少なからずあるんじゃないかなと思っています。私が思ってるだけかもですが。
なにがめんどくさいって、趣味で息抜きに書いたはずの作品のPixivでの評価に一喜一憂している自分が心底めんどくさい。
ならPixivに投稿すんのやめろよって言われたら正論過ぎて反論の余地もないんですが、
オンラインのみで活動してると体感的にPixivが一番わかりやすく手っ取り早く「評価」が得られる場所だとも思うわけです。
読んでもらって評価されることで「自己顕示欲」と「承認欲求」が満たされるというか。
http://anond.hatelabo.jp/20130528020415
自分も大学に行けてない。入学当初はそんなことなくて、単位を落とすことはあっても自主休講なんてわずかだった。でもここしばらくは、てんで駄目だ。
明日こそ行こうと思うし、行かなきゃならないと思う。行かなかったら、卒業出来なかったらどうなるか。でも、家にいるうちはあまり考えないようにしている。
大学のカウンセリングも受けてみた。長く通ったけど、治ったり治らなかったり。ADHDの疑いがある。或いは、面倒なことから逃げ出しているのではないか。そんな感じだ。
外にいれば明るく振る舞える。たった数ヶ月通うなんて簡単だ。そう思えるのに。
研究室に顔向けできない。呼び出しの電話やメールに出られない。それが杞憂だとわかっていても、どうしても。
何か不幸があったわけでもないし、トラブルがあるわけでもない。自分でも説明の付かない状況に、ただ自己正当化と自己嫌悪を繰り返している。
半年ぐらい、気にしている人がいる
この1年で数回デートしたぐらいの付き合いだけれど。
関係を迫られたこともあったけど、まだ一線は越えてない。
普段は全く連絡を取らなくて、思い出したようにデートしていて。
そもそもただ遊ばれているだけにも思えるし。
相手が何を考えてるかよくわからなくて、どうすればいいかわからなくて怖い。
怖くて怖くて、とにかく嫌われたくないって思っている。
嫌われたくないけど、好かれる自信もなくて積極的になれない。
この前なんてまともに話すことも顔を見ることもできなくて、なかなかに自己嫌悪。
考えるほどになんであんなのが好きなんだとか、本当に好きなのか?とさえ思えてくる。
何も考えずに馬鹿になってまっすぐに感情をさらけ出せたら少しは楽なのかな。
恋愛ってめんどくさい
支えあって生きるなんて、幻想。
一人でろくすっぽ生きられない二人が一緒になっても二人とも沈没。
片方がまともでも、片方がおんぶにだっこ。
支配したがりとされたがりのカップルか、引っ張り回したいのとひっぱりまわされたいカップルか、この2種類以外に収束するところはなく、真性のド変態でもないかぎりそのうちパンク。
心のどっかでな、甘えてるんだよ。
だれか助けてくれるとかな。
そうすればまともになれるとか。
でもそんな人がいるわけがないとか。
いざ手を差し伸べてくれる人がいたら、際限なく要求がエスカレート、些細なことで沈んだりブチキレタリして。
そして、やっぱり私を助けてくれるひとなんかいなかった。
とか言って自己嫌悪。
で、どん底に沈んでるのに、また誰か助けてくれると思ってる。
クソ女など犬に食わせてしまえ。
最近ワーキングマザーまわりの話やニュースを良く見聞きするけど、
こういうのを見るたび、焦るし、自己嫌悪になる。
インタビューで取り上げられるワーキングマザーはみんな、信じられないくらいすごい人々。
仕事が大好き、育児も手は抜かない、もちろん会社にも迷惑はかけられない、むしろもっと責任ある仕事だってしたい。
そんな高い志で、会社でも家庭でも、自分のミッションにフルコミットしてる感じ。
かっこいいなぁと思う。
でも自分にはなれないと思う。
仕事は大好きだし、時短勤務だからと言ってルーティーンワークばかりにして欲しいとは思っていない。
可能な限り、責任ある困難な仕事にも取り組みたいし、ステップアップもしていきたい。
ワーキングマザーだけが大変だとも思わない。むしろ我々はラッキーだと思う。
我々には「育児をしている」という分かりやすいレッテルがあるから、
早く帰っても、残業できなくても、「まああの人は仕方ない」と思ってもらえる。(諦めもあるだろうけど)
親の介護、精神疾患、身体が弱い…そんな状態でも、周囲には言えない・言わないで人知れず苦労している人も数多くいるだろう。
それを思うと、本当に恵まれていると思う。
でも、今こうしてワーキングマザーにスポットが当たっている世の中で、
「与えられた仕事を無難に定時までで仕上げて帰る人」ではなく、
(もちろん実際は与えられた仕事を定時に仕上げる事だけでも十分に大変なのだけど)
「限りある時間の中、仕事でも大いに能力を発揮し、もちろん家庭でも良き母・妻である人」が
ワーキングマザーとしてのあたりまえ・めざすべき姿、みたいになっていくようで、そうなれない自分が恥ずかしい。
産休を取るまでは、連日終電まで仕事、休日もPCを持ち帰る状態だった。
その分を時間で補うという気持ちがあったと思う。
実際、「○○さんは毎日遅くまで頑張ってるね、無理しすぎないようにね」と声をかけてくれる人も多かった。
でも今はそのやり方が通用しない。
何が何でも時間が来たら帰らなければいけない。
今まで何とか時間を使ってこなしてきた仕事も、今ではもう手に負えない。
「時間」というメッキがはがれた自分が、どんどん「仕事のできない人」になっていくのが分かる。
でも頑張ってごまかしていたつもりだったんだ。
仕事ができる人と、そうでない人もいる。
「途中でめんどくさくなっちゃって、
うわーってなってどんどん自分から状況を勝手に重く考えて距離おいちゃうとこかな。
なおんなくてもいいから、とりあえずそうなった時に、
あ、いかんいかんこれはいけないんだった的な感じで自分の視野を無理やり広げるようにしてみたら?
そこを乗り越えたら付き合いも長く続くし、相手との付き合い方もわかるし、
そうしてるうちに相手のことが無駄に気もつかわなくていい考えなくてもいいって感じになってくるよ。
あんたは恋愛の最初の壁でめんどくさくなって萎えて背中むけちゃうからだめぽ
壁にぶちあたったら乗り越えよう!!って根性よりめんどくさいが大きく働くとおもわれww
しかも萎えるとだんだん相手に申し訳ないとか他の男の方がいいんじゃないかとか色々考え出して、
好きって気持ちが申し訳ないとめんどくさいに負けて薄れてゆくタイプだとおもわれ。
距離おいちゃったそのあとに自己嫌悪とだめだなーおれみたいな反省会開催 そしてこんなになるなら一人でいた方がいいわみたいな
いい人はたくさんいるだろうけど、あんたという人間は世の中に一人しかいないオリジナルじゃん?
だからあんたよりいい人がいるってわかってたとしても、やっぱりあんたがいいんだよ。
いいんだよ図々しくたって
あんたが迷惑かけちゃってうぜぇってなったら相手からもう無理…。って言ってくるだろうし、
相手のためになるかどうかはあんたの相手が決めることであって、あんたが勝手に妄想して決めることじゃないんじゃない?
あんたは付き合う以前にごちゃごちゃ考えすぎなんだよ!
でも…だって…とか考えてるから始まるもんも始まらないんだよ。
好き!両思い!って思ったら続ける努力をするってことだけ心に決めてとりあえず付き合ってみればよい。」
長い
某女の子だらけアニメが最終回を迎え大感動のコメントの嵐なのだがその多くに「王道万歳」とある。
想像した人物像に寒気を覚える藁人形論法って、結局自己嫌悪でしかないよな。
ちなみに、作品は大感動側がガルパンで、叩かれてるのがラブライブな。
ガルパンは、途中いい気になって増長した挙句失敗するシーンとか入ってるわけだが華麗にスルー。
ラブライブは、脈絡なく突然鬱展開になって、イミフな上に誰得だと叩かれたわけ。
実際、アイドル活動の目標を無くすためだけとしか思えない突然の廃校撤回、
心を折るためだけに「手段として」用意されたとしか思えない留学話と、
同じく最終回での突然の撤回。(ヒロインの葛藤はなんの意味があったんだよ、留学止められるんじゃないかよ)
結果論としても擁護できない、単なる手段としての演出だから叩かれたんだよ。
同じ藁人形論法を使うなら。
って感じ。
一部にいる、難解であったり、理不尽であったり、残酷であったりすることを、無条件に「りある」とか言って有難がるの、いい加減卒業しろと思うわ。
「灼眼のシャナ」読むときに、「萌え要素が残念だけど、戦闘シーンが素晴らしいんだ、主人公の心理描写も考えさせられる」とかいう中学生と一緒だから。