はてなキーワード: 唐突とは
いろいろな考察が出ていて、それぞれに説得力もあり、なるほどと得心したりしている。
私はエヴァをTVシリーズから全部見てすげーすげーと楽しんできたが、考察にはあまり興味はなく、いろんな謎にも詳しくないが、庵野さんの同窓生ということで、主に宇部高校とシン・エヴァンゲリオンとの関連を考察したいと思う。(かれこれ40年以上前のことなので、記憶違いや勘違いはご容赦を)
エンディングに出てきた宇部新川駅や宇部興産の工場群を見て、あ、庵野さん、宇部を許したんだな、と唐突に浮かんだ。なぜそう思ったかは分からない。そもそも「許す」って。
宇部は山口県の瀬戸内にある工業都市。美しくもなんともない味気ない街で、明治以降炭鉱で栄えるまでは寂しい漁村だったとか、歴史も文化も無縁のところだ。
宇部新川駅は宇部市の繁華街にある駅で、庵野さんの育った地区に近く、少し海側に行くと宇部興産の工場がある。
庵野さんは地元の進学校、宇部高校の出身だ。あれだけアニメの才能(空間認識力)がある人だから、頭が良くて、中学ではろくに勉強しなくても宇部高に入れたろうと思う。高校生活は1年生から受験中心。2年生までに3年生の教科書を消化して、3年生の1年間は受験勉強のみという方針だった。勉強に価値を見いだせないタイプは授業について行けない。当時の校長のキャッチフレーズは「国立300、野球は甲子園」。ちなみに、ノーベル賞の本庶佑さんは宇部高出身で、伝統的に京大を目指す生徒が多い。民主党の菅元総理やユニクロの柳井さんも宇部高。
そんな文化不毛、受験偏重の宇部高で庵野さんを魅了したのが、宇宙戦艦ヤマトやアルプスの少女ハイジなど、ポップカルチャーとしての黎明期にあったアニメではないか。一番好きなのは特撮かもしれないが、当時はウルトラマンもゴジラも低迷していた。
庵野さんは宇部高にあって勉学はともかく、生徒会長の中村さんを主人公にしたナカムライダーや、文化祭用に短編アニメなどを作って校内有名人だった。
短編アニメは、宇宙戦艦ヤマトが爆発しながら太陽に突っ込んでいく、というような内容で、セル画のために美術部の予算をひとりで全部使ってしまったといううわさだった。アニメの出来は素晴らしく、「高校生がこんなプロのようなアニメを作れるんだ!」と驚嘆したし、校内では数少ないアニメファンたちの間で天才として知れ渡った。
だが、庵野さんの才能がその活躍の場を見出すのは大学に入って以降で、たぶん、庵野さんにとって宇部での暮らしや高校生活は、灰色の鬱屈とした、愛せない時間と空間だったのではないか。
漠然とした印象だが、庵野さんは宇部がきらいなんだと思っていた。それが、シン・エヴァンゲリオンでは、聖地にしてもいいよ、的な振る舞い。なんか、ずっと嫌っていた宇部高時代の自分を、ほかのもろもろのトラウマとともに昇華、あれで良かったんだよと受け入れたように思う。
ちなみに、聖地巡礼なら観光起点として山口宇部空港から入り、レンタカーで宇部新川駅へGO、車で約10分。駅を見学したら190号線から宇部湾岸道路で山陽小野田方面に向かえば、車窓から宇部興産の工場群が見学できる。あとは秋吉台とか角島大橋、萩、山口など、観光地へ赴くのが吉です。
書きたいところだけ。
旧劇のラストでは、世界を滅ぼして融合させても、他人の心は一体化できないし、拒絶されるときは拒絶される。しかも突然それはやってくる。ということを高い映像技術と滅茶苦茶な演出センスと訳の分からない熱量で伝えられた。と思ってる。見た人の解釈が沢山あるから、言いきれないけど、そう思ってる。
それが当時の監督の失恋の表象だったとしても、ディスコミュニケーションの表現としてはある程度昇華されていたし、共感を呼べた。だってみんな思ったでしょ。「そんなの酷い!」って。
そんなの、が「キモチワルイ」って言われたことに対してなのか、受け入れられなかったことに対してなのか、説明もなく終わったことに対してなのか、は視聴者ごとに違うのだけど、世界は自分を受け入れないまま唐突に終わる酷い場所だっていう気持ちを共有して、世界の底を見せたところでエヴァンゲリオンは完結した。
底を見てしまったからには、各々自分の世界に戻って自分のやり方で上っていくしかない。テレビ版と旧劇はそういう話だった。と思う。
だから続きをやるには、今度はコミュニケーションの階段を上がっていくしかないのだけれど、エヴァンゲリオンは上がるため物語ではなく、底を覗くための物語なので、エヴァに上る方法を期待しても仕方がない。
仕方がないと思うんですけど…エヴァの物語の中にコミュニケーションの成就を望む人が多いんだな、ハピエン主義って結構根強いんだな、というのが「序」が始まった時に感じたことでした。そこに無い物語を望んでも、無いものは無いのに。(結局劇場では「序」しか見てなくて、「破」と「Q」はレンタルになってから見た。)
今回は本当に終わり、ということなので卒業の意味で公開初週に見に行った。
シンエヴァの終わりはハピエンだった。崩壊しかけた、ハピエンだった。
成長と生殖と日常を肯定し、現実へ行こうとしていたけど、映像としてイマイチだったな…。
だから、まあ、エヴァはコミュニケーションの成就を描くための物語じゃなかったんですよ…狭いところで悲しい気持ちになるための物語。そういう役割の物語も世の中にはある。ハピエンだけじゃない。
でも、監督は、カラーを作ったから、エヴァを再起動したし、エヴァを終わらせないといけなかったんですよね。シンエヴァは奥さんの影響はあるだろうけど、カラーを守りたいっていう気持ちの方を強く感じました。
カラーを存続するっていう意味での成長と生殖なんじゃないかね…。シンエヴァが100%監督とシンクロしている話だったら、監督には子供いないじゃんおかしいじゃん、とは思う。
震災を経て、Qを経て、病気を経て、さあついに終わろうってなった。しかも前向きに終わろうって。
ポジティブに考えられるものを作ろうとなって、監督にとっての前向きで成長していく大事な何かってカラーのことなんだな、と。
監督も同人で作ったガイナックスを卒業して(せざるを得なくて)、自分の国を作ったから、カラーを守りたい、育てたいっていう気持ちを第三村やミサトさんの子供に託すのは分かるんやだけどやな。
「うちの国、わりといいところだよ」っていう気持ちを、エヴァにのっけて終わらせようとしてしまったのが監督の残念なところだな…エヴァはそういうことを言うのに適した器ではない…いろいろ考えると仕方ないけど…。
ところで、監督は群像や組織を描けないという批評もあって、それを読んで納得しかけたけど、いやいやシンゴジはまあまあ上手くいってましたやん。巨災対を視聴者のみんなは愛したし、政治家パートには議論が巻き起こった。映画としては普通の人間模様になっていたし、そのうえで最高に格好良い怪獣と戦闘機がのっかったから、世間一般も巻き込んでブームになった。ポジティブな人間関係描写が一番うまい監督ではないけど、全然駄目でもない。
私は思春期にナディアに出会った人間なんですけど、ナディアの人間関係は若い子向けの前向きさで一貫していて、その背後に大人や世界の薄暗さが垣間見えてとても楽しかった。
単にエヴァが群像向きではなく、徹底してシンジとゲンドウの話だったから、無理に全員の幸せを描くとおかしくなっちゃったんでしょう。
とあるゲームコミュで嵐が発生したんだけど、リーダーがその人に「そんなことしているなら○○(ゲームの名前)したらいいじゃないですか」「他の人のTwitterを引用していますが、その人には許可取ったんですか」
ってコメントしたんだ。
いやさ、嵐はよくないがリーダーのいう台詞としてはドン引きしたね。別にコミュに入ったらそのゲームのスクショ挙げたりするのが義務ではないし、和気藹々することを強制しているように思えた。Tweetの引用とか許可いらないのに、難癖の付け方がまじで幼い。あと他の人を勝手に「違反行為しているんですか!」と唐突に何の根拠もなく叱責したりで、正直そのコミュの質が低いことがよくわかった。
「関係性萌え」を「理解のある彼くん」みたいな奴への萌えだと思ってるのか。馬鹿じゃないの。あんなのに萌えるわけないでしょ。
前提の共有ができないんだよなぁマジで
まず、"理解のある彼くん" は ご都合キャラって認識はありそう?あるいは認識出来そう?
> コラムや漫画の中で『理解ある彼氏』が最終ページ辺りに唐突に登場し、男性パートナーの経済的・精神的な支えによっていきなりすべての問題がなんとかなってしまうという
> ある意味デウス・エクス・マキナ的な超展開パターンがあまりにも多いため、
> 皮肉や嫉妬を込めて『理解ある彼くん現象』とか『そ理彼(そんな私にも理解ある彼くんがいますの略)』などと言われるようになったネットスラングである。
という、唐突な犯罪告白を職場の同僚からされて、リアクションに困った。
で、何でそんなことしたん?って聞いたら、「電池が入ってる様子もないのに何で動いてるのか不思議で、中身を確かめてみたかった」だそうだ。
へ、へぇ……。私が小学校高学年か中学生くらいの頃に、テレビで「いまどきの子供は海に魚の切り身がそのまま泳いでいると思ったり、動物は乾電池で動いていると思っている」なんて評論家だかコメンテーターだかが言っていて、そんなバカなwと笑った記憶があるけど、まさか同僚がその類いだとは。
私は同僚に「自分で切り刻むまでもなく、道端には他の動物に殺されたり車に轢かれたりして中身をぶちまけている生き物の死骸が転がってるじゃん。図鑑のうしろの方のページとかに、動物の解剖図くらい載ってるじゃん。アサリの味噌汁食えば、アサリのハラワタがどうなってるかくらいわかるじゃん。なのに何で、わざわざ自分で生き物解剖しちゃうんだよw」と言った。同僚は「いやなんか不思議で……」と口ごもった。
同僚は、自身の幼い頃の行動を「両親も祖父母も働いていて家におらず、兄弟姉妹もいないので、一日中独りで留守番していたせいで見識が狭くなった」と分析している。うーん、そういうもんなのかな。そう言われてみれば、同僚のように小動物を解剖しようとなんか考えたこともない私は、子供時代には母方の祖母が付きっきりで育ててくれて、近所には父方の祖父母や親戚が住んでて、地域の子供集団とも付き合いがあった。そこそこ自然のある地域だったし、家では猫や犬も飼われていた。そういう環境で学ぶことは多いのかもしれない。
それとも、同僚の家族一同、小さな子供を終日独りきりで家に閉じ込めておくことに何の疑問も懐かないという、共感性の欠落っぷりが、同僚にも、遺伝か育て方かわかんないけど、受け継がれたのかな。
5月頃に大地震に見舞われる。気分が悪くなるほど揺れていて、何の意味も無く5月だという事だけがインプットされている。
揺れ具合があまりにもリアルで、でも意識は『これは夢だ』という感覚が夢の最中にはあった。
そして唐突に目が覚めた。
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自分の好きな作品を深く考察する、というのは本来は知的な行いであるはずだが、どうにもイメージがよろしくない。特にウェブ上で公開されているような考察は、ほとんどが行き過ぎたこじつけで、作者もそんなこと絶対考えていないだろとしか言いようがなく、その独りよがりっぷりが気持ち悪くさえある。俗に考察厨と呼ばれる彼らだが、何故あのような状態に陥るのだろうか。そもそも考察は見ていて明らかに良し悪しを感じるが、これはどのような基準によるものなのだろうか。考察厨について考察するというメタなことをやってみた。
まず初めに分かっておかなければならないのは、考察(解釈)は自由であるということだ。考察ができるという時点で、それは作中で明示的に語られていない事柄があるということで、それをどう解釈するかは読者に委ねられている。しかし自由だからと言って好きにしてもいいのかと言えばそうでもない。何故なら考察者は作品に隠された作者の意図というひとつの正解を目指しているからだ。つまり考察とは答えの無い問題ではなく、答え合わせの無い問題なのだ。これこそが考察において誤解してはならないポイントであり、最も難しい所でもある。考察者は答え合わせの無い環境で、自分の評価を自力で客観的に評価してやらなければならないのだ。
さて、考察厨の考察で最もありがちなのは、何が何を暗示しているだの、象徴しているだのといった情報を思いつくままに書いてそれで終わってしまっているパターンだろう。作品は無数の要素から構成されており、暗示的な意味など実のところ、いくらでも抜き取ることができる。考えついた人にとってはもっともらしく思えるし、考察者に対して肯定的な人間なら「すごい! そんな意味があったなんて!」と言ってくれるかもしれないが、傍から見るとふって湧いたように唐突なものとなってしまう。これは要するに作者が意図して秘めた要素でない要素を解釈してしまっている状態である。難しいのはこの種の解釈は正解ではなかったとしても間違っていると云う根拠も示せないところだ。多くの人が感覚的におかしいことは分かっても、それを説明することは難しく、結果的に客観性のない考察が横行してしまうことになる。
では、正しく、そして作者の意図に沿う考察とはどのように行うべきなのだろうか。指針となるのはずばり、作品のテーマ、文脈(コンテキスト)、あるいはストーリー構成といった作品に対するマクロな視点である。何らかの意図を込めてデザインされた作品は、論理の展開にも似た一定の流れを踏んでいるものだ。最も分かりやすいのは作品の結論、あるいは一言で言い表した場合のテーマなどで、これは大抵の作品においてクライマックスやエンディング、あるいはタイトルなどの中で分かりやすく提示される。この結論が分かれば大まかなコンテキストを逆算することができ、それに沿う形で抜け落ちた部分を考察していけばいいのである。逆に言えばコンテキストの中で役割を持たない暗示については無視していい。正しいかどうかの判断ができないし、作品作りの過程で偶然そうなっただけの可能性さえあるからだ。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はタイトルが作品のテーマとなっている分かりやすい例だ。作中で主人公は、「ライ麦畑で遊んでいた子供が崖から落ちそうになった時キャッチして助ける、そういう人になりたい」と語ってる(手元に無いので不正確かも)。当初は抽象的な話として語られているが、物語として考えるなら、この話は主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になった所で終わるのが一番自然だろう。そこで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の具体的な意味が示されており、当然その対になる『崖から落ちそうになっている子供』も存在しているはずだ。ここまでは読めば明らかなことで、考察というより読解のレベルだろう。(とはいえ、このことさえ分かっていない人もいる。念のために言っておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は中二病の人ではなく、中二病の人を『助ける人』こそが主題だ)
ここで定番の『赤いハンチング帽に関する考察』を見てみよう。この考察では、帽子を受け渡すシーンが『キャッチャー』と『子供』の役割の交代を示している、とされている。成程、たしかに主人公は『キャッチャー』になれただろうが、作品を通して『崖から落ちそうになっていた』のは寧ろ主人公の方だ。相手が一緒に『崖から落ちそうになった』結果、主人公は踏み止まった。『キャッチする』と同時に『キャッチされた』とする解釈は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がつまりどういう人なのかということをより具体的にしてくれている。作者がその解釈の手助けとして『帽子』という象徴を仕込んだ、とするのは非常に合理的で腑に落ちる話だ。コンテキストに沿った上でコンテキストを補強している、まさに美しい暗示の好例と言えるだろう。
このように考察とコンテキストは相互に補強し合う。ゆえにコンテキストを意識することが考察の最大の指針であり、評価基準となるのだ。
最後に実際上の話として、考察文の取捨選択について触れておこう。考察というは時に長大で、全て読むというのは結構な苦労を伴う。一目で考察の良し悪しを判定できる手段が欲しい、という気持ちは共感できる人も多いだろう。実のところ、このコラムを書いたのは、これを自分の中で纏めておきたかったがためだ。まず経験的な話として、悪い考察文というのは得てして読みづらい。その理由は実はここまでの話で明らかになっている。考察者が全体のコンテキストを意識していない場合、部分部分の考察が全体の中でどういう役割を持つか分からない。つまり、情報としてバラバラで一連した意味が分からなくなってしまうのだ。一貫した流れの無い文章は読みづらい。これは正しい考察の工程と一致しているかどうかと同義、つまりは『読みにくい考察≒間違った考察』であると思っても構わないわけだ。厳しく判別するなら、最初に考察者が全体のコンテキストを明示しているかどうか、というのはひとつの基準になるだろう。全体像を共有する、あるいは用語を統一しておき、その上で個々の解釈を全体の各所に当てはめていく、というのは良い考察なら自然な帰結としてそうなるだろう(考察者が単に情報伝達に慣れていないだけの可能性は残るが)。逆に不味いのは部分の考察からスタートしているもので、これなら先に結論部分を読むのが良さそうだ。結論部分でも全体像に触れていない考察であれば読む価値は間違いなく無い。
いや、元々クソみたいに出来の悪い漫画じゃん。
演出っていうかエピソードの語り方が致命的に下手。漫画が死ぬほど下手。
作者は「冨樫っぽい絵」を書くだけで説得力が出るとでも思ってんのか知らないけど、キャラや展開についての最低限のエピソード作りすらしない。
適当に冨樫っぽい絵を入れて満足してるだけの、めちゃくちゃレベル低い作品だったろうよ。
お前はいったい何を読んできたんだ?
逆に、昔からの呪術ファンは何で世間で売れたのか正直わかんないんじゃないの?
出来の悪さが酷ければ酷いほど癖になる、ゲテモノ感覚みたいなとこあったでしょ。
なんでメジャー人気獲得してんだよ嘘だろって驚いてるよ。
なに、あの何の魅力もない先生が唐突に「クラピカごっこ」する奴。
恥ずかしすぎて笑い死ぬかと思ったわ。
バトル漫画のくせに、事前にキャラクターの強さを「漫画的に」見せたり匂わせることすらしないんだよなこの作者。
(冨樫っぽいアップ絵でキャラが凄む・ヘラヘラすることが実力の表現だと思っているらしい。天才)
だから「秘められた能力を遂に発揮した先生」という場面ではなく、「いい大人が急に20年前の漫画ごっこをしてるだけ」の糞寒い絵になる。
ていうか、何の工夫もなく「20年前の漫画の印象的なコマだけ」をそのままなぞればいい漫画になるはず、って創作者としてどんな脳みそしてるんだ?
前フリとか起承転結とかいうものを本当に理解できてないんじゃないかと疑いたくなる。
そんなんだから「主人公が死んでショックに打ちひしがれる」はずのクラスメイトが、唐突に上級生とキャラ紹介バトルを繰り広げたりするんだろうな。
(当然、冨樫的に決着はつかない。それっぽい台詞はやたら言う)
あのしょうもない流れ、状況と展開が噛み合ってなさすぎて怖くて泣いちゃった。
嘘、冨樫っぽいことしたいのは分かるけどあまりに下手すぎて笑っちゃった。
乱馬は30年前だぞと突っ込むのも忘れて震えました。天才にも程がある。
これ以外の展開も、バトル漫画としてはありがちな物ばかりなのに「唐突」で「どうでもいい」としか感じないのが逆にすごい。
唐突なだけで決して「衝撃の展開」にはならないのも流石っす。
「衝撃」というのは事前に読者への誘導があってこそその後の予想外の展開に驚くのであって、「前フリ」すらできてない漫画ではそりゃ衝撃の展開にはなりようが無いのだが。
という感じで、この漫画はとにかくめちゃくちゃ出来が悪いです。
よくわからずに人気っぽいし「まともなジャンプ漫画」なんだろうなと勘違いしてる人は騙されてます。全然違います。
「ブリーチがまともにしか見えない」、というか「比べたらブリーチに失礼」なレベル。
最近ネットじゃウマ娘の人気は捏造だとか騒がれてますが、こっちの方がよほど胡散臭いですわ。
ウマ娘はプレイしたら普通に面白いのがわかるけど、こっちは読んだら普通に出来損ないなのがわかる。
それだけ覚えて帰って下さい。
なんとなく思い出したので書く。ちなみにオチはない
数年前、次の日が休みだったのでコンビニでプチ贅沢をしようと思って買い物をしていた
買う商品が決まったので、レジに向かったら大学生ぐらいの女性がレジを担当していた
普通に商品を置いて、バーコードを読み取ってもらって、お金をお皿に置いた後だった
コンビニでお釣りを受け取る時は大抵少額か、小銭の枚数が少ないので手に乗せてもらうことが多かった
その時も十何円ぐらいのお釣りで枚数が少なかったので、片手でもらおうと思って片手を出したところ
お釣りとレシートを綺麗に乗せてくれたのでそのまま手を引っ込めようとした
差し出した手を引っ込めようとしたら、なぜか唐突に差し出した手をギュッと両手で握ってきて、しばらく離してもらえなかった
ん?と思って、少し力を入れて引っ込めようとしたがビクともしなかったので、ひたすらに困惑
店員さんの意図が全く分からず手を引っ込めたくても引っ込められないので思わず相手の顔を見つめるという、よく分からない時間が流れた
お釣りをもらってから、かれこれ10秒ぐらい経った時にようやく手を離してくれたので、そのまま帰宅したが何とも不思議な出来事だったので未だに覚えてる
お釣りが手からこぼれ落ちそうだから握ってくれたのかなぁと考えたが
こぼれ落ちる量でもなく、そもそもかなり綺麗に乗せてくれてたので両手でわざわざ握る必要は感じなかったし
そもそも手を引っ込めようとしてる相手に逆らってまで両手で握り続ける意図は一体全体なんだったのだろうか?
すべては謎である。おわり
飛んできた瞬間に恐怖が心の中にブワーーーーって広がってすごいダメージを受ける
嫌なのが中身を見て普通の内容と分かった後でも受けたダメージがしばらく抜けないこと
この恐怖心をどうにかしたいんだが
これ、「子育てに理解のない社会」として叩かれるのが一般的だけど
子育てに入る前の学生時代、ベビーカーを邪魔だと思い、鳴き声に黙れと感じた人が、結婚して子供産むと「社会は無理解だ」と憤り
子育てが終わって、おじちゃんおばちゃんになると、またぞろ「無理解な社会」の仲間入りをする
そうでないなら、こんな問題とっくの昔になくなってる
んで、意識高い系の人らが、「日本社会をウエメセで批判」するのに、使い勝手がいいから、大声で批判されるが
実際には、邪魔だと思ったり、煩いと感じるのが普通だから、大声の批判があるだけ
核家族化で云々だの個人主義が云々だの言われるが、大家族の昭和からあった問題だ
それとな、親類や地域社会を切断して、相互扶助なんて捨て去って個人主義に走った人らが
自分が困ったときに唐突に(自分を棚上げして)「社会の無理解」に憤るのはよくあることだが
それでも自分が楽しようと思った人らは「子育てシェア」という都合のいい関係を構築する
無理解?
「かわいそうじゃないと抜けない」&「徹底的にかわいそうな目にあったキャラが救われる瞬間に快感を覚える」だ。
なので元ネタがエリートばっかりの世界を描いてるっぽいウマ娘に全く興味がなかったのだが、
https://note.com/stormroastpork/n/n8834b1cd55f7
あああああああああああ。
私の心にずっきゅんきたあああああああああ。
「7SEEDS」っていうんですけどね。
とある学園で未来のエリートを育成するという名目で1000人以上いる候補生を集めている。
しかし実は、この学園の目的はこのうち生き残るべき優秀な7名だけを選ぶことだったのだ。
それ以外の生徒はその7名の糧となるべく選別の過程で全員皆殺しにされる。
「殺し屋組織で幼いころから競わされ、仲間を手にかけることを強制された」みたいな話だったら珍しくないだろうが、
殺される直前まで「7名に選ばなれなかったら殺される」ということを全く意識せずに教育されるというところだ。
みんな仲良しで、自分こそが7名に選ばれるものだと切磋琢磨しあっている。
直前までは選ばれなければ殺されるという悲壮感が全くない。
だからこそ、突如世界が地獄に変わった後多種多様な表情を見せてくれるのだが
そういうところが最高に私の性癖にずっきゅんな作品なのである。
上のnoteを読む限り、プレイヤブルなキャラクターから見たウマ娘の世界は、選別が始まる前の世界だ。
プレイヤブルなキャラクターは、たとえ目標達成できなくても何度でもやり直せる。
ただただクリアできるまでのびのびと走ることを楽しめる楽園のような世界だ。
ハルウララにすら勝てない雑魚の自分は殺されることを知っていたからだろう。
モブウマ娘は、毎回毎回背後に迫る死を感じながら走ることを余儀なくされる。
それが経済動物の極致である競走馬に知性を与えるということなのだ。
恐怖に押しつぶされそうになりながら走り、
そうやってアリジゴクの中で苦しみ続ける。
そしていざその時が来たら
助けを求める声をグッとこらえながら人知れず消えていくのだ。
そんな彼女が、全く勝てないくせに
むはああああああ考えただけで興奮する。
むくむくと二次創作の意欲がわいてくる。
のだが
ほんとすみませんでした。
友人にこの話をしたら
https://togetter.com/li/1372208
など全否定されました。
私がキモイ妄想を話しても引かない、とても懐が広いやつなのですが
とにかく口が悪い。
ぼろっかすに言われて悔しいので
友人を満足させるべく
もっとかわいそうなウマ娘二次創作設定を考えて送りつけることにします。
ありがとうございました。
それってIOSTって仮想通貨かな?
7円から4.5円まで落ちてるね
格闘系YouTuberの朝倉未来のサブチャンネルでドッキリの動画内で唐突にIOSTが騰って儲かってる話を差し込んでたからステマくせえなぁと思って見てた
0.6円で買ったのが7円まで上がってて今後も上がりそうな事を示唆するトークを動画で流してた
この方法ってラファエルがドッキリ動画の中でプライベートシーンとしてなんかの商品説明を挟み込むのと同じ手法だったから笑ってしまった
やる事一緒やんけって
あれ見て朝倉ファンがIOST買って本人らは売り抜けるんだろうなって思ってたら案の定下落してたから買った朝倉ファンがかわいそうだ