書きたいところだけ。
旧劇のラストでは、世界を滅ぼして融合させても、他人の心は一体化できないし、拒絶されるときは拒絶される。しかも突然それはやってくる。ということを高い映像技術と滅茶苦茶な演出センスと訳の分からない熱量で伝えられた。と思ってる。見た人の解釈が沢山あるから、言いきれないけど、そう思ってる。
それが当時の監督の失恋の表象だったとしても、ディスコミュニケーションの表現としてはある程度昇華されていたし、共感を呼べた。だってみんな思ったでしょ。「そんなの酷い!」って。
そんなの、が「キモチワルイ」って言われたことに対してなのか、受け入れられなかったことに対してなのか、説明もなく終わったことに対してなのか、は視聴者ごとに違うのだけど、世界は自分を受け入れないまま唐突に終わる酷い場所だっていう気持ちを共有して、世界の底を見せたところでエヴァンゲリオンは完結した。
底を見てしまったからには、各々自分の世界に戻って自分のやり方で上っていくしかない。テレビ版と旧劇はそういう話だった。と思う。
だから続きをやるには、今度はコミュニケーションの階段を上がっていくしかないのだけれど、エヴァンゲリオンは上がるため物語ではなく、底を覗くための物語なので、エヴァに上る方法を期待しても仕方がない。
仕方がないと思うんですけど…エヴァの物語の中にコミュニケーションの成就を望む人が多いんだな、ハピエン主義って結構根強いんだな、というのが「序」が始まった時に感じたことでした。そこに無い物語を望んでも、無いものは無いのに。(結局劇場では「序」しか見てなくて、「破」と「Q」はレンタルになってから見た。)
今回は本当に終わり、ということなので卒業の意味で公開初週に見に行った。
シンエヴァの終わりはハピエンだった。崩壊しかけた、ハピエンだった。
成長と生殖と日常を肯定し、現実へ行こうとしていたけど、映像としてイマイチだったな…。
だから、まあ、エヴァはコミュニケーションの成就を描くための物語じゃなかったんですよ…狭いところで悲しい気持ちになるための物語。そういう役割の物語も世の中にはある。ハピエンだけじゃない。
でも、監督は、カラーを作ったから、エヴァを再起動したし、エヴァを終わらせないといけなかったんですよね。シンエヴァは奥さんの影響はあるだろうけど、カラーを守りたいっていう気持ちの方を強く感じました。
カラーを存続するっていう意味での成長と生殖なんじゃないかね…。シンエヴァが100%監督とシンクロしている話だったら、監督には子供いないじゃんおかしいじゃん、とは思う。
震災を経て、Qを経て、病気を経て、さあついに終わろうってなった。しかも前向きに終わろうって。
ポジティブに考えられるものを作ろうとなって、監督にとっての前向きで成長していく大事な何かってカラーのことなんだな、と。
監督も同人で作ったガイナックスを卒業して(せざるを得なくて)、自分の国を作ったから、カラーを守りたい、育てたいっていう気持ちを第三村やミサトさんの子供に託すのは分かるんやだけどやな。
「うちの国、わりといいところだよ」っていう気持ちを、エヴァにのっけて終わらせようとしてしまったのが監督の残念なところだな…エヴァはそういうことを言うのに適した器ではない…いろいろ考えると仕方ないけど…。
ところで、監督は群像や組織を描けないという批評もあって、それを読んで納得しかけたけど、いやいやシンゴジはまあまあ上手くいってましたやん。巨災対を視聴者のみんなは愛したし、政治家パートには議論が巻き起こった。映画としては普通の人間模様になっていたし、そのうえで最高に格好良い怪獣と戦闘機がのっかったから、世間一般も巻き込んでブームになった。ポジティブな人間関係描写が一番うまい監督ではないけど、全然駄目でもない。
私は思春期にナディアに出会った人間なんですけど、ナディアの人間関係は若い子向けの前向きさで一貫していて、その背後に大人や世界の薄暗さが垣間見えてとても楽しかった。
単にエヴァが群像向きではなく、徹底してシンジとゲンドウの話だったから、無理に全員の幸せを描くとおかしくなっちゃったんでしょう。
おめでとう